川越市の歴史
川越市の歴史(かわごえしのれきし)は、埼玉県川越市の市域における歴史、自治体史である。
通史
先史・古代
- 市域のほとんどは武蔵野台地にあるが、市の荒川沿いの東南端部は縄文時代前期には遠浅の内海(古東京湾)で(縄文海進)、小仙波貝塚など漁労を立証している。寺尾貝塚は現存する最北端の古東京湾の貝塚で、打製石斧なども出土している。縄文時代中期の遺跡は武蔵国では入間郡に集中して存在している。縄文時代後期は海退が進み、現在の地形に近づいていったが、武蔵野台地は狩猟・採集活動に適した地形・地質で、仙波台地や新河岸台地などでは縄文式土器や竪穴住居跡を発掘している。老袋の入間川畔の沖積地からは縄文時代後期の丸木舟も出土している。小畔川畔には鶴ヶ丘遺跡や霞ヶ関遺跡など弥生時代の集落址が点在している。
- 古墳時代には市内の河川流域に、仙波古墳群(大仙波古墳群・小仙波古墳群)、下小坂古墳群、的場古墳群、南大塚古墳群など夥しい古墳が築かれるようになった。小仙波古墳群の三変稲荷神社古墳は4世紀の方墳で、埼玉県内最古の古墳の1つ。南大塚古墳群の主墳・山王塚古墳は珍しい上円下方墳で、上円下方墳では東日本最大である。周辺には集落の遺構もある。対岸の的場古墳群の主墳・牛塚古墳は入間川流域最大の前方後円墳で珍しい重葬式石室を有し、東日本で唯一の金銅製指輪を出土している。これら古墳は埼玉県選定重要遺跡となっている。
- 富士見町にある占肩鹿見塚は、飛鳥時代以降に編まれた万葉集巻14の東歌に詠まれたところで、埼玉県指定史跡となっている。
武蔵野に占へかたやきまさでにも告らぬ君が名占に出にけり
- 律令制が確立すると、入間川に近い上戸には入間郡役所である入間郡家(いるまぐうけ)が置かれ、上野国・下野国から武蔵国の国府(府中)に至る官道の東山道武蔵路が通じ、日本各地で作られた須恵器や土師器が出土しておりこの地方の中心であったことが分かる。
- 奈良・平安時代には、川越は「三芳野の里」と呼ばれ、伊勢物語には川越(みよし野)の様子が詠われている。江戸期に編まれた新編武蔵風土記稿ではこの場所を市内の的場だと比定している。
みよし野の田の面の雁もひたぶるに君がかたにぞ寄ると鳴くなる
- 平安時代になると、荘園が形作られ、武蔵七党の村山党の1つ・仙波氏(仙波から南の一帯)を始め、地頭の古尾谷氏(石清水八幡宮の荘園だった古谷本郷)、山田氏(山田)など荘園を支配する武蔵武士が台頭し、都や国衙と繋がった。
中世(戦国時代まで)
- 中でも勢力を拡大したのが、入間川左岸と小畔川に挟まれ入間台地の先端に位置する上戸の河越氏であった。郷祖・秩父重綱によって荘園が拓かれ開発領主となった河越氏は、桓武平氏の流れを汲む坂東八平氏の1つ秩父氏の嫡流である。秩父氏は、平安時代には利根川を挟んで新田氏・足利氏などと抗争する武蔵国最大の豪族であり、武蔵七党など武蔵国の中小武士団を統括する棟梁であり高家とされた別格であった。
- 河越氏の祖は、秩父氏の家督を引き継いだ宗家の秩父重隆(秩父重綱の子)である。秩父重隆は「武蔵国留守所総検校職」(武蔵国の国司の代理。形骸化した国司に代わり武蔵国を支配した在庁官人)に任ぜられ、肥沃な入間川河畔の所領である河越の地名を冠して河越二郎と称した[1]。しかし、大蔵(比企郡嵐山町)での大蔵合戦で重隆と婿の源義賢は、重隆の甥の畠山重能や源義平によって殺され、重隆の嫡男・河越能隆は拠点を葛貫(入間郡毛呂山町)、次いで河越館に移し、自領・河越荘を後白河上皇に寄進し荘官となり、以来、河越氏を名乗ることになった。居城・河越館には鎌倉街道(上道)が通じ、川越は中世には河越と表記されるようになる。
- 河越能隆の子・河越太郎重頼も武蔵国留守所総検校職を勤め、武蔵国司の平知盛と深い関係であったが、保元の乱で弟の師岡重経と共に源義朝に服属することとなり国人を治め高家と呼ばれた。義朝の子・源頼朝が伊豆国で挙兵し武蔵国に入ると同族の畠山重忠らと共に有力御家人として支え、源義賢の次男・木曾義仲の討伐で功を上げ、京に入ると伊勢国の地頭に任命されるなど関東武士として栄誉に浴した。源頼朝を支えた乳母の比企尼(比企能員の伯母)は河越重頼の妻・河越尼の母であり、河越尼は源頼朝の子で鎌倉幕府第2代将軍となる源頼家の乳母となるなど、河越氏は鎌倉幕府中枢で権勢を誇った。源頼朝は相模国鎌倉の背後の武蔵国を押さえるのに、最大の豪族である河越氏の力を必要とし、源頼朝の媒酌で、源義経の正室となったのは河越重頼の娘・郷御前である。河越重頼や子の河越重房は一ノ谷の戦いなど平氏追討で活躍した。源義経は謀反の嫌疑で失脚し討伐され平泉の衣川館で郷御前と共に果てるが、河越重頼の子・河越重員は鎌倉幕府から武蔵国留守所総検校職に復権され、武蔵守を兼ねる執権・北条泰時に代わって武蔵国を治め、河越館は武蔵国の政庁として機能した。河越重時は北条得宗家に重用され、河越氏の武蔵国筆頭御家人としての地位は不動であった。遠江権守の地位に就いた河越経重は河越荘を新日吉山王宮に寄進、また養寿院を開いた。鎌倉との深い繋がりで、河越がその文化的影響を色濃く受けた時代である。
- 南北朝時代、河越高重は新田義貞の挙兵に呼応、小手指原の戦いや分倍河原の戦いなど鎌倉幕府の倒幕に活躍し、鎌倉将軍府が置かれると関東廂番(かんとうひさしばん)一番となった。その子・河越直重は、観応の擾乱で足利尊氏の重臣として功を上げ、室町幕府では鎌倉のある相模国や伊豆国の守護大名に任ぜられた。太平記には河越直重が上洛した折に、豊富な経済力を背景に華美な服装や奢侈な振る舞いで京の人々を驚かせたことが記されている。しかし、足利直義と近かった上杉憲顕が関東管領に復権すると、河越直重は鎌倉府に対決することとなり秩父党を率い武蔵七党を従え、さらに下野国の宇都宮氏綱と同盟して武蔵平一揆を主導した。しかし足利氏満を擁して反撃に転じた上杉憲顕に河越館での河越合戦に敗れ、平安時代からの武蔵国筆頭の名門豪族・河越氏は歴史の幕を閉じた(河越直重は伊勢国桑名地方に逃れた。ここが現在の三重県川越町に繋がるとされるが詳細は不明である)。河越氏滅亡により武蔵国は乱世の時代を迎える。
- 代わって、武蔵国の要衝として上杉氏(河越に居し南関東を支配した扇谷上杉家)の本拠地となる。長禄元年(1457年)には東の古河公方の勢力を阻止するために、上杉持朝の命により、家宰の太田道真・太田道灌父子によって河越城、そして河越から鎌倉への間に支城の江戸城が築城され河越街道で結ばれた。上杉持朝は初代河越城主となる(家臣の太田道灌が初代江戸城主となった)。入間川右岸の台地に築かれた河越城は、入間川左岸の河越館から町を移転させた形となり、河越城下は武蔵国最大の人口を数え、特に上杉定正までの3代に亘って中世文化が発展した。太田道真・鈴木道胤が歌聖と謳われた宗祇や心敬を京から招き、兼載などの連歌師も参加して河越城で催された連歌会は「河越千句」(文明元年・1469年)として知られる。宗長も河越に滞在した。太田道灌が暗殺され、太田道真が領地の越生(入間郡越生町)に没すると、河越は扇谷上杉家と山内上杉家の勢力争いの舞台となる(河越城主の上杉定正・上杉朝良と、河越館(上戸陣)に布陣した関東管領の上杉顕定が争った長享の乱)。河越城主の上杉朝興は天文2年に政略結婚で娘を武田信玄の正室にしている(しかし翌年に難産で母子ともに死亡し武田信玄は継室に三条の方を迎える)。またこの時代に剣豪・塚原卜伝が河越城下で行った梶原長門との真剣勝負は有名である。日本の医学史において「医聖」と讃えられる田代三喜が、河越地方で活躍したのもこの時代である。
- 戦国時代には北条早雲の子・北条氏綱が武蔵国に侵攻を開始、大永4年(1524年)に江戸城を落とした。上杉朝興は江戸城奪回を果たすことなく天文6年(1537年)に河越城で病死すると直ちに北条氏綱に付け込まれ、継嗣・上杉朝定の守る河越城はついに落城した。上杉氏6代80年の時代が終わり、北条氏康(北条氏綱の子)の居城として後北条氏の関東制圧の橋頭堡となる。武蔵国には依然として上杉氏が隠然とした勢力を保ち、河越城奪還で結束した両上杉家(難波田憲重の松山城に逃れた上杉朝定・鉢形城の上杉憲政)・古河公方の足利晴氏の3者連合軍は、駿河国の今川氏の新当主・今川義元と抗争中(第2次河東一乱)の北条氏康を挟撃し、天文15年(1546年)に河越夜戦(かわごえよいくさ)が起こった。この戦いは「日本三大夜戦」の1つとされ、河越城を死守した城将は、黄八幡の猛将として名高い北条家の大将・北条綱成(福島綱成)であった。また軍師の多目元忠の活躍で北条氏康の救援軍の危機を救った逸話は有名である。敗れた関東管領の上杉憲政は越後国の上杉謙信のもとに逃げ延びて行き、北条氏康は子の北条氏照や北条氏邦を八王子城や天神山城に配し、武蔵国は完全に後北条氏の版図となった。河越はその最重要拠点として、北条早雲の甥・大道寺盛昌以降、宿老の大道寺氏が代々の城代を勤め、兵農分離が行われ城下町として整備がなされた。特に大道寺政繁の時代には河越城が修繕され、城下には次原新兵衛のような連雀商人が各地から集う「唐人小路」(とうじんこうじ)と呼ばれた地区が整備され、河越は繁栄を極めた記録が残っている。また、河越の武者は「河越衆」と呼ばれ精強で鳴らした軍団であった。
- 豊臣秀吉の小田原征伐では、松井田城まで進出し迎え撃った大道寺政繁であったが、前田利家・上杉景勝・真田昌幸の軍勢に敵わず降伏、前田利家の北国軍によって大道寺直英の河越城は開城した。秀吉の命で大道寺政繁は北条氏直の身代わりとなって川越市内の常楽寺で自害した[2]。
近世
- 徳川家康が関東に入封すると、松平氏と同族の譜代筆頭最古参で大老四家である雅楽頭酒井家の祖となる酒井重忠の所領となり、川越藩が立藩。酒井重忠は徳川家康の伊賀越えに功を上げ、三河国西尾城主から川越城に入ると、商人の座を廃止し楽市・楽座的政策で商業が繁栄する種を撒いた。川越は戦略拠点であり、徳川家康は同時に市内北部の鯨井には軍略に長けた戸田一西も据えた(鯨井藩)。江戸時代を通して、「江戸の大手は小田原城、搦手は川越城」と言われ[3]、川越藩は江戸の北の砦として重視され、石高に較べ非常に多くの家臣を擁した。江戸期より河越が川越に変わる。酒井重忠の弟で老中の酒井忠利は第2代藩主となり喜多院を再興、家康のブレイン・天海僧正は喜多院を拠点とした。徳川家光の乳母・春日局にも所縁がある。川越は鷹狩を楽しむ地でもあり、特に徳川家康から徳川家光までの将軍三代にかけては頻繁に長逗留した。徳川家光にいたっては林羅山を伴い、週に2度川越で鷹狩をするほどであった。
- 川越藩の歴代藩主には、酒井忠利、酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保、秋元喬知、秋元凉朝 、松平直克、松平康英などの親藩・譜代の有力大名が配された。川越藩主のうち、幕閣の老中だけでも7名を数える。川越藩主は酒井忠利が徳川家康の再従弟、松平直侯が将軍・徳川慶喜の弟、というように血縁でも重視された封地であった。
- 藩政の基礎を作ったのは、後に大老に上り詰めた酒井忠勝(酒井忠利の子)で、城下の三芳野神社など寺社の再建や時の鐘などの建立、五人組制度や開墾奨励を行った。次の藩主・堀田正盛は春日局の孫で、徳川家光に近侍して老中に昇進を遂げた藩主で、寛永15年(1638年1月28日)の川越大火から寺社の再興に尽力した。堀田正盛も大老四家である堀田氏の祖となった。島原の乱を平定した功で川越藩主となった老中首座・松平信綱は、由井正雪の乱の鎮圧など江戸で幕政に多忙であったが、川越では町割り(十ヶ町四門前町、じっかちょうしもんぜんまち)を行って商業が栄える種を撒き、検地で小農自立を推し進めた。これらが川越の特産品開発に結びついた。松平信綱の政策はその後の各藩の手本とされた。また、松平信綱によって川越城は2倍の規模の近代的城郭となった。
- 中興の祖は、儒者でもある幕府側用人(大老格)・柳沢吉保である。柳沢吉保の頃から川越は「小江戸」と呼ばれるようになる。柳沢吉保は儒学者の荻生徂徠や細井広沢などを召抱えて川越に住まわせて顧問とし、川越は文化的にも隆盛した。柳沢吉保は武蔵野の新田を開発、藩財政の安定を図った。続く藩主・秋元喬知は将軍・徳川綱吉に進講する元禄時代の学者肌の老中として、また赤穂事件の裁断でも知られる。秋元喬知に随行して高山繁文や岩田彦助、太陽寺盛胤といった有能な家臣が甲斐国から移り住んだので、柿や養魚・絹織物・養蚕などの副業も盛んになった。秋元氏第4代の川越藩主・秋元凉朝は幕閣において田沼意次との確執で知られる老中で、秋元凉朝は平賀源内を招聘、川越藩は平賀源内を用いて奥秩父・大滝の中津峡で鉱山開発を行った(現在のニッチツ秩父鉱山)。
- 川越藩は、徳川家康の次男・松平秀康を祖とし徳川御三家・御三卿に次ぐ御家門の越前松平家が川越藩主となった時代(7代、100年間)に、関東では水戸藩に次ぐ17万石の盛期を迎えた[4]。中でも松平斉典は「好学の名君」と呼ばれ、藩儒・保岡嶺南に命じ藩校の博喩堂を開設、保岡嶺南は川越版「日本外史」を刊行した。国学では林述斎の高弟で古事記偽書説で知られる盲目の医師・沼田順義を藩に招いた。松平斉典は西大手門に目安箱を置いて衆庶の声を藩政に取り入れた。経世家として高名な海保青陵は川越城下に生活、川越絹や煙草など特産品開発を指南した。川越絹は川越絹平(武士の着る袴地)や川越斜子(晴れ着の羽織地)として知られ、秩父絹や青梅縞とは異なる高級ブランド織物であった。江戸で一世を風靡していた狂歌師の元木網や歌人の尾高高雅も川越城下に暮らした。国学者で考古学者の井上淑蔭が活躍したのもこの頃である(井上淑蔭と嵩俊海、権田直助を「埼玉の三学者」という[5])。
- 城下町で武蔵国の商工農の中心地であった川越は、江戸とは川越街道や新河岸川の舟運で結ばれ繁栄を極めた。地方都市にもかかわらず江戸時代に武蔵国で唯一の九斎市が立つほどで、十組仲間という株仲間も組織された。川越城下は川越宿として川越街道の第7の宿場でもあった。川越街道は、川越藩主の江戸への参勤交代や荒川東岸の埼玉郡などにも在った川越藩領への連絡でも重要な役割を果たした。また川越児玉往還とも呼ばれ、川越藩領だった上州前橋への重要な道であった。江戸時代に物流・経済にとって最重要であったのは物を運べない街道ではなく舟運であり、新河岸川の上流には、川越の外港として川越五河岸が築かれ千住を経て浅草花川戸まで舟が行き交った。多摩地域からの物資も青梅街道ではなく、新河岸川の舟運を用いて江戸市中に運ばれていたほどの物流の大動脈であった。新河岸川の便利な早舟は「川越夜舟」と呼ばれ、川越街道や中山道から客足を奪った。
- 江戸時代、川越は大火(寛永15年、享保3年など)、洪水(寛保2年の「寛保の大洪水」、文政5年など)等の災害を経験した。荒川と入間川が合流した寛永年間以降、治水は藩の重要な政策となり、私財を投げうって被災した窮民を助けた川越の名主・奥貫友山のような慈善家、藩領の治水に生涯を捧げ農民救済に献身した安井政章のような川越藩士がいた。篤志家の中島孝昌はそうした郷土史に目を向け、入間郡地誌の集大成「武蔵三芳野名勝図絵」全3巻を著し松平直恒に献納した。
- 浮世絵師の喜多川歌麿は、伝馬騒動の時の藩主・秋元凉朝の時代(宝暦3年)に、川越城下に生まれたとも言われる。川越には昔から、歌麿の絵を所蔵する商人が多かったという[6]。
幕末
- 長崎港でフェートン号事件などが起こり列強が日本に迫ると、文政3年(1820年)、武蔵国一の大藩である川越藩は会津藩に代わって相州警固役を命ぜられ、三浦半島が川越藩領となり、川越藩は浦の郷陣屋などを設け三崎・大津・観音崎・走水などに藩兵を駐屯させ砲台を置いた。弘化4年(1847年)、幕府は「御固四家」制を敷き、川越藩(三浦半島)、彦根藩(湘南)、会津藩・忍藩(房総半島)という海防体制になる。黒船が来航したのは浦賀・三崎など川越藩の管轄地であり、モリソン号事件、アメリカ艦隊のビッドル来航やペリー来航など開国という歴史のうねりに、川越藩は常に最前線で関係した(内池武者右衛門など参照)。ペリー上陸では川越藩兵500人が久里浜でペリーを警護し、藩主・松平典則は詳細な報告書を幕府に提出した。嘉永6年(1853年)に川越藩は内海防衛に回り、品川台場(第1台場)の建設・防衛を川越藩が担い、川越でも藩の鋳物を請け負っていた小川家がカノン砲を鋳造した。また高輪に陣屋を構えた。江戸で「当今江戸無類の上手」と謳われた藤枝英義はこの時期に活躍した川越藩の刀匠である。これら武備増強は川越にとって財政的重荷となったが、川越藩は外国の事情に最も通暁した藩の1つであり、内陸都市にも拘わらず時代の変化を読む先取の風土が生まれた。鈴木商店創業者の鈴木岩治郎などそうした川越人の起業家精神の一例である。
- 上野国前橋(現・群馬県前橋市)は、幕末の慶應3年(1867年)に前橋藩が立藩するまでおよそ100年間、川越藩領であった。そのため開国期に日本最大の輸出品であった生糸は、産地の前橋から川越藩が吉田幸兵衛など横浜の御用商人に専売し莫大な富を生んでいた。川越商人に豪商が多く、日本の近代製糸業を生み出した人物に速水堅曹や深沢雄象ら川越の人物が多いのはこのためで、生糸と茶という日本の2大輸出品の殖産興業策は川越藩が他藩に先駆けた。
- 幕末期の藩主・松平直克は幕府で政事総裁職(大老格)の要職を勤め、天狗党の乱の鎮圧方針で強硬派の水戸藩と対立した。一方で農民の大川平兵衛を川越藩剣術指南役に抜擢するなど藩政を近代化した。松平直克は慶応2年(1866年)に飯能から発生し一気に拡大した武州一揆の川越城下への波及を阻止した。次いで藩主となった松平康英は外国奉行、神奈川奉行、老中など要職を歴任、幕府の第1回遣欧使節の副使としてフランス、イギリス、プロイセンなどに赴き外交交渉を行った開明派であった。松平康英も藩校の長善館を開設。後に『蛍の光』の作詞で知られる稲垣千穎はここで教鞭を取っていた。松平康英は幕閣の老中や会計総裁職を辞し川越城の外堀を埋め上洛して恭順の意を示し川越の戦火を回避、振武隊(彰義隊の分派)の戦い(飯能戦争)では官軍は川越城に集結、川越藩は幕府残党の掃討戦を主導した。
近代
明治に入り、1871年(明治4年)に川越藩は廃藩となるも、城下町の産業・人材や資本の蓄積・文化の伝統から、埼玉県随一の商都・金融の中心地、米取引・穀物集散地として栄えた。江戸時代から絹織物の大産地だったが中島久平ら川越商人は唐桟織など綿織物への転進に成功し、戦前までは日本一のコーデュロイ・ベッチンの産地でもあった。新興経済人である川越商人は自力で川越から鉄道を延ばし、教育や公共事業への強い情熱を抱いて様々な教育施設が整備された。明治23年に第1回衆議院議員総選挙が実施されると川越選挙区から当選したのも教育者の高田早苗であった。文芸や武道が盛んで、特に著名な画家や剣道家を多く輩出した。埼玉県における婦人運動の中心地でもあった。日中戦争が始まるまで、埼玉県最大の人口であった。戦時中は軍の銅鐘などの供出要請に反対運動が起こり、文化財を守った。
近代年表
- 明治時代
- 1868年(明治元年) - 川越藩が藩校の長善館に代わって青藍塾を開設し、和漢洋学と数学を教授(後に文学寮と改名。現・川越市立川越小学校)。
- 1869年(明治2年) - 川越藩が新政府に川越城の老朽化した建物を取り壊したい旨を届け出、城の部分的取り壊しが始まる。
- 同年 - 版籍奉還により、最後の川越藩主・松平康載が川越知藩事になる。
- 1871年(明治4年)8月29日 - 廃藩置県により川越県誕生(川越藩領の関係で現在の茨城県や神奈川県内などにも川越県の区域があった)。
- 同年12月25日 - 第1次府県統合により入間県が誕生し県庁所在地となる。井上馨の認可により県庁は川越城本丸に置かれる。
- 1872年(明治5年) - 近代最初の地方制度である大区小区制が確定し、川越は入間県内の第1大区第1小区となる。
- 同年 - 県庁のある川越に、他に先駆けて川越見張番所が開設される(現・川越警察署。管轄地域は現在の埼玉県西部一帯であったため、後の秩父事件では非常体制となった)。
- 1873年(明治6年) - 廃城令に伴い、川越城内の不用・破損の建物等の入札・売払が行われる。
- 1873年(明治6年)6月15日 - 入間県と群馬県が統合して熊谷県が発足。県庁は熊谷に置かれる。
- 同年 - 旧川越藩の家老屋敷に三芳野学校創設(現・川越市立川越第一小学校)。
- 1874年(明治7年) - 川越商人らが志義学校を開設(現・川越市立中央小学校)。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により、熊谷県の武蔵国だったエリアを埼玉県(県庁は浦和)に編入し、現在の県域となる。
- 1877年(明治10年) - 豪商・竹谷兼吉が埼玉県最初の米穀取引所を開設。
- 1878年(明治11年)- 郡区町村編制法施行で入間郡が発足。郡役所は川越城内に置かれる。また近隣の高麗郡の郡役所も兼ねた。
- 同年11月26日 - 埼玉県で最初の銀行であり、埼玉県唯一の国立銀行である第八十五国立銀行が開行(後の埼玉銀行、現在の埼玉りそな銀行)。
- 同年 - 旧川越藩剣術師範方の阿部親昵が搾乳業を開業。埼玉県における酪農業の嚆矢となる。
- 1879年(明治12年) - 川越商人によって新河岸川から仙波までの運河が工期10年で完成し仙波河岸が誕生。
- 1880年(明治13年)1月20日 - 埼玉県で最初の民営銀行・川越銀行が豪商の水村精によって開行。
- 1882年(明治15年) - 3年前の来訪に続いてエドワード・S・モースが二度目の川越滞在。今回は喜多院などで陶磁器の調査が目的だった。
- 1883年(明治16年) - 川越 - 上尾宿(現・上尾市)間に乗合馬車の営業開始。
- 1888年(明治21年) - 司法省で翻訳をしていた旧川越藩士の喜多欽一郎らが県の認可を受けて私立川越英和学校を創立(その学統は埼玉県第三尋常中学校に継承され、埼玉県立川越高等学校のルーツとなる。喜多欽一郎は川越市政最大の功労者と言われ[誰によって?]、川越の教育の礎を築いた)。
- 同年 - 前年に医術開業試験に合格し、荻野吟子に次いで日本の「女医第2号」になった生沢クノが川越で開業、花街の女性に医療活動を開始する。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、川越城下17町・松郷・東明寺村・小久保村・脇田村・小仙波村・野田村の区域をもって川越町が発足[7]。
- 人口18,607人、面積:7.46km²
- 同年 - 埼玉県で最初の教会である日本聖公会の川越キリスト教会が建立(現・日本聖公会川越キリスト教会)。
- 同年 - 川越の各仏教寺院と川越商人が協力し、貧しい児童のための川越慈善学校を設立。
- 1890年(明治23年)7月1日 - 帝国議会・第1回衆議院議員総選挙が実施される。川越選挙区(当時の埼玉2区)で当選したのは川越商人に支援されて川越から立候補した立憲改進党の高田早苗で、全国最年少当選者となった(高田早苗は後に早稲田大学初代学長や文部大臣を歴任)。
- 1893年(明治26年)3月17日 - 川越大火。市街地の多くを焼失。その後、耐火建築である蔵造りの建物が多く建てられることになる。
- 1894年(明治27年) - 川越鉄道の国分寺駅 - 久米川駅(現・東村山駅)が開業(現在の西武鉄道)。
- 同年 - 1774年(安永3年)からの長い歴史を有する川越城下の町火消が、この年に川越消防組として編成発足(現・川越地区消防組合)。
- 同年 - 前年に公布された取引所法を受けて、埼玉県の流通・取引組織として株式会社川越米穀取引所が設立。
- 1895年(明治28年) - 入間郡内の青年らが入間学友会を結成。大隈重信、渋沢栄一らの支援を受けて奨学金制度を立ち上げる。
- 同年 - 川越鉄道の久米川駅 - 川越駅(現・本川越駅)間が完成。
- 1896年(明治29年) - 7月に川越商業銀行、11月に川越貯蓄銀行がそれぞれ開行。
- 1897年(明治30年) - 星野女塾が開校(現・星野学園中学校・星野高等学校)。
- 1898年(明治31年) - 川越城址に埼玉県第三尋常中学校設立(3年後に埼玉県立川越中学校。現・埼玉県立川越高等学校)。
- 1899年(明治32年) - 川越振武会が剣道場・川越明信館を創設。
- 1900年(明治33年) - 国の商業会議所条例に基づいて、埼玉県で最初の商業会議所設立(現・川越商工会議所)。
- 同年 - 市制施行を埼玉県知事に請願することを町議会が可決(その後、反対派住民が揉めて市制施行が長い間決まらず)。
- 1901年(明治34年) - 日本聖公会川越キリスト教会に着任した司祭の田井正一が埼玉県で最初の認可幼稚園・宇気良幼稚園を開園(日本聖公会の幼稚園としても日本で2番目。その後、歴代園長の多くはアメリカ人が勤めた。現・初雁幼稚園)。
- 同年 - 東京市の香蘭女学校と同系列の女学校・香蘭館が川越商人の後援を受けて日本聖公会によって設立。川越でアメリカ人による講義が受けられる唯一の女学校として県下の才媛を集めた(後に川越女子学院と改名。公立の川越高等女学校が出来たので1910年(明治43年)に廃校)。
- 1902年(明治35年) - 埼玉県で最初の火力発電所・川越電気鉄道石炭火力発電所が開設。
- 同年 - 綾部利右衛門が土地を提供し川越商人が資金を出し合い、川越会館が開館。和風建築で庭園も備え、川越の集会場として機能する(1963年(昭和38年)に市民会館に建替えられる)。
- 1903年(明治36年) - 川越囚獄内に川越分監農工芸学校が開設(現・川越少年刑務所内の初雁技能訓練所。刑務所内の受刑者の教化事業として日本の草分けとなる)。
- 1904年(明治37年)12月 - 川越電気鉄道石炭火力発電所からの送電で、埼玉県で最初に電灯が点灯する。
- 同年 - 川越の商家には多くの幼い子守が働いていたことから[8]、教育者の榎本中三郎が川越幼稚園を開園。
- 同年 - 野々山喜右衛門が中心となって川越電話所が開設。
- 1906年(明治39年) - 川越電気鉄道が大宮駅まで開通。埼玉県で最初に電車を走らせた鉄道となった。
- 同年 - 川越町立川越高等女学校開校(5年後に県立に移管。現・埼玉県立川越女子高等学校)。
- 1908年(明治41年) - 教育者であった養寿院僧侶・石井愚鑑、広済寺住職・笠松仙英らが民営の埼玉和協会訓盲学校を開校(埼玉県初の盲学校。その後、文部省や宮内省から選奨され補助金を受ける。県に移管され埼玉盲唖学校と改名。現・埼玉県立特別支援学校塙保己一学園)。
- 同年 - 川越商業会議所の埼玉県知事に対する建議が実を結び、埼玉県立川越染織学校が開校(埼玉県初の工業学校。その後、埼玉県立工業学校と改名。現・埼玉県立川越工業高等学校)。
- 1910年(明治43年)8月11日 - 関東大水害。川越でも東部の低地が洪水で大きな被害を出す。
- 同年 - 川越織物市場が開設。
- 1911年(明治44年)6月9日 - 同年4月1日に誕生した日本初の飛行場・陸軍所沢飛行場から徳川好敏大尉が操縦する複葉機アンリ・ファルマン機が、初めての飛行場外飛行として川越町中心部への飛行に成功する。同日、ブレリオ機で再度川越まで飛行するが異常が発生し、仙波村大字新宿(現・市内新宿5丁目)に不時着する(日本初の飛行機の不時着事故)。
- 大正時代
- 1912年(大正元年) - 陸軍特別大演習が立川村から熊谷町にかけての東京・埼玉で行われる。川越はその御座所となり、即位した大正天皇が川越で軍を統監した。
- 同年 - 1892年(明治25年)より川越で宣教をしていたフランス人神父・メイランによって、カトリック教会聖堂が建立(小教区の教会として埼玉県最古。現・カトリック川越教会)。
- 同年 - 洋館の川越町役場が完成(現在の市庁舎に建替えるため、1971年(昭和46年)に解体される)。
- 1913年(大正2年) - 川越電気鉄道が水力発電事業に進出。埼玉県内や群馬県に電力供給するため、武蔵水電を設立。水力発電所も神流川に完成する。
- 1914年(大正3年) - 東上鉄道が池袋駅 - 田面沢駅間で開通(現在の東武東上本線)。
- 1915年(大正4年) - 1904年(明治37年)に「青年文庫」を開設した安部立郎が、この年に本格的な私立川越図書館を開館(2年後に町立になる。現在の川越市立中央図書館。安部はその後も郷土資料の収集や復刻、「入間郡誌」の編纂を行った)。
- 1920年(大正9年) - 埼玉県立川越蚕業学校開校(後に県立蚕業学校、戦後は埼玉県立川越農業高等学校。現・埼玉県立川越総合高等学校)。
- 同年 - 新河岸川の改修工事が埼玉県内・東京市内の全域で始まる。
- 同年 - 道路法(旧法)の施行に合せて埼玉県が県道を制定。川越町 - 浦和町間の道路が埼玉県道1号となる(その後、国道16号の一部となってこの旧埼玉県道1号は消滅)。
- 同年10月1日 - 第1回国勢調査が実施される。川越町は埼玉県内で最大の人口を記録(2位は熊谷町)。
- 1922年(大正11年)12月1日 - 川越町が仙波村と合併して川越市が発足。埼玉県内で最初の市制施行となる(内務省告示第313号)。
- 人口30,359人、世帯数5,414世帯、面積12.36km²
- 同年 - 山村裁縫手芸伝習所開設(現・山村学園高等学校)。
- 同年 - 埼玉県で最初の医師会が発足(現・川越市医師会)。
- 1923年(大正12年) - 埼玉県で最初の百貨店・山吉デパートが開店。
- 同年9月1日 - 関東大震災。当市内の被災は軽微で、全壊家屋20棟(埼玉県内の全壊家屋は4,700棟)。
- 1924年(大正13年)10月10日 - 都市計画法(旧法)に基づき、埼玉県内唯一の市である川越に埼玉県で最初の都市計画委員会が設置される。
- 1926年(大正15年) - 武州瓦斯設立。埼玉県内に本社を置く最初の一般ガス事業者となる。
- 同年 - 石川製糸の創業者・石川幾太郎らの尽力で、埼玉県川越商業学校開校(後に川越市立高等女学校と合併し埼玉県川越商業高等学校。現・川越市立川越高等学校)。
- 同年 - 市内の医師らが資金を出し合い、無報酬で私立川越産婆看護婦学校を設立(現・川越准看護学院)。また、無料の川越助産院も開院。
- 昭和時代(戦前)
- 1928年(昭和3年) - 埼玉県で最初の福祉施設・埼玉育児院が資金難から発祥地の比企郡菅谷村(現・嵐山町)から川越に移転。
- 同年 - 川越選出の埼玉県会議員(県会副議長)でメソジスト教徒・弁護士の山内庫之助による請願が実を結び、埼玉県会が公娼制度廃止を建議。山内庫之助をリーダーとする廃娼運動は明治末期以降、川越や金子村(現・入間市)など入間郡から起こった運動である。
- 1929年(昭和4年) - 埼玉県で最初のゴルフ場・霞ヶ関カンツリー倶楽部開場。
- 同年 - 川越競馬が今成に発足(埼玉県内では秩父町、熊谷町に次いで3番目)。
- 1931年(昭和6年) - 第8回選抜中等学校野球大会(現・選抜高等学校野球大会)に川越中学(現・埼玉県立川越高等学校)が出場する。春・夏を通じ埼玉県から最初に甲子園球場に出場を果たした学校となった。開会式の選手宣誓も川越中学の野本主将が行った。
- 同年 - 新河岸川改修工事終了。通船停止令により、舟運が300年の歴史に幕を閉じる。
- 同年 - 高浜虚子、中村草田男、星野立子、高野素十、山口青邨、富安風生らホトトギスの俳人たちが川越を吟行、「武蔵野探勝」を記す。
- 1933年(昭和8年) - 新しい川越競馬場が新宿町に完成。
- 同年 - 立憲政友会の大会が当市で行われる。これに関係して、同党総裁の鈴木喜三郎を川越で暗殺する計画が露見。栗原中尉の影響を受けた青年軍人らが熊谷市で逮捕される(救国埼玉青年挺身隊事件)。
- 1935年(昭和10年) - 東京の医師で川越に移って埼玉病院(現・川越同仁会病院)を開業した橋本定五郎が第6代の市長に就任。他市に先駆けた下水道整備事業など、公衆衛生に全力を捧げた。
- 1939年(昭和14年)12月1日 - 入間郡田面沢村を編入。
- 人口37,578人、面積16.68km²
- 1940年(昭和15年) - 省線川越線開通(現在のJR川越線)。
- 1941年(昭和16年) - 西武大宮線(かつての川越電気鉄道)が全線廃止、バスに転換される。
- 1945年(昭和20年) - 太平洋戦争では熊谷空襲のような大規模空襲はなかったが、小規模な攻撃を経験する。6月、連雀町に爆弾2発が投下され死亡者1名。7月、川越駅が艦載機の機銃掃射を受け3名死傷。8月、川越駅西口に爆弾が投下され重傷者1名。川越市立工業学校(現在の川越市立川越高等学校で現在の川越市立博物館の敷地にあった)の同盟通信川越支局にて、広島市への原子爆弾投下のアメリカ政府発表放送が傍受された[9]。
現代
川越は埼玉県で最初に誕生した市であったが人口が最も多く広域合併をせずに市制施行できたため、戦前に埼玉県内にあった5市(川越、熊谷、川口、浦和、大宮)の中で最も面積が狭かった。戦後、埼玉県内では次々に新しい市が誕生していったが、川越は常に埼玉県内で面積が最小の市であった。そのため、他市のような十分な市域を確保する必要や町村合併促進法(1953年)から1955年に近隣の9村を編入、折からの高度経済成長で、東京のベッドタウン色を強めながら人口が増えていった。また、1950年代に入ると初雁橋、開平橋、上江橋、落合橋など荒川や入間川を渡る橋梁が順次完成し、川越市を取り巻く交通が大きく変化した。
現代年表
- 昭和(戦後)
- 1947年(昭和22年)2月25日 - 八高線列車脱線転覆事故が高麗川村(現・日高市)で発生。川越駅は遺体収容場所となり、市内の医療機関が救急活動を担当する。
- 1948年(昭和23年) - 川越ボーイスカウト第1団・第2団が発足。
- 同年 - ジュネーヴでの国際労働会議日本政府代表団で活躍した石川梅が市内の各婦人会をまとめて川越市婦人会を発足させる。石川梅ら婦人会リーダーは市議会議員選挙でも当選する。
- 1951年(昭和26年)4月8日 - 埼玉県で最初のロータリークラブ結成(現・川越ロータリークラブ)。
- 同年 - 飯能町の丸広百貨店が廃業した山吉デパート跡に進出、丸広百貨店川越本店をオープン。
- 1952年(昭和27年) - 中村かのえが当市初の女性保護司に任命される。中村は生涯を犯罪を犯した人の更生保護に捧げた。
- 1953年(昭和28年) - 川越市医師会が川越医師会立准看護婦学校を設立(現・川越市医師会看護専門学校)。
- 1954年(昭和29年) - 川越ロータリークラブ創設者の伊藤長三郎が「川越叢書刊行会」を立ち上げ、「川越叢書」(全10巻)の刊行を開始。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 入間郡芳野村・古谷村・南古谷村・高階村・福原村・大東村・霞ヶ関村・名細村・山田村を編入する。
- 人口104,854人、世帯数19,799世帯、面積110.28km²
- 1957年(昭和32年) - 川越市民の歌「われらの川越」を制定。
- 同年10月 - 丸広百貨店川越本店が現在地に移転。
- 1958年(昭和33年) - 埼玉県川越職業訓練所開設(現・埼玉県立川越高等技術専門校)。
- 1961年(昭和36年) - 加藤日出男が会長を勤める若い根っこの会が、当市内に財団法人根っこの家を設立。
- 1963年(昭和38年) - 川越市立養護学校開校(埼玉県初の養護学校。現・川越市立特別支援学校)。
- 1966年(昭和41年) - 川越狭山工業団地竣工。
- 1970年(昭和45年) - 当市が文化庁の文化財愛護モデル指定地区になる。
- 1971年(昭和46年)12月 - 東京川越道路(現・関越自動車道)練馬IC - 川越IC間が開通。
- 1974年(昭和49年) - 川越ペンクラブが結成される。
- 同年9月24日 - 川越環状道路が一部開通。
- 1981年(昭和56年)8月1日 - 富士見川越有料道路(現・富士見川越バイパス)が開通。
- 1985年(昭和60年)6月 - 埼玉医科大学総合医療センター開院。
- 同年9月30日 - 埼京線が川越駅まで直通運転開始。
- 1987年(昭和62年)8月25日 - 営団地下鉄(現東京メトロ)有楽町線が川越市駅まで直通運転開始。
- 1988年(昭和63年)7月2日 - 川越水上公園開園。
- 同年 - 川越市都市景観条例を制定(翌年、施行)
- 平成
- 1989年(平成元年) - 防災行政無線設立開始。
- 同年3月 - 川越駅橋上駅舎の供用開始。
- 1990年(平成2年)2月28日 - 防災行政無線運用開始。
- 同年3月1日 - 川越市立博物館開館。
- 同年5月16日 - 川越駅東口バス転車台跡地に再開発ビル・アトレが開店。
- 同年5月31日 - 人口が30万人を超える。
- 1991年(平成3年)9月5日 - 本川越駅駅ビル(PePeやプリンスホテル)が開業。
- 1994年(平成6年)3月1日 - 狭山市と境界変更。
- 同年5月1日 - 狭山市及び日高市との間で境界変更。現在の市域となる。
- 同年5月30日 - 埼玉県西部の生鮮食料品の流通拠点として、埼玉川越総合地方卸売市場が開設。
- 1995年(平成7年)7月1日 - 川越市総合福祉センター(オアシス)が開設。
- 1996年(平成8年)3月16日 - 八高線(八王子駅-高麗川駅)が川越駅まで直通運転開始。
- 1999年(平成11年)11月11日 - 市がISO14001を取得。
- 同年 - 町並みとしては初のグッドデザイン賞を受賞。
- 同年 - 業務核都市に指定される。
- 同年12月1日 - 旧市街地の7.8ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区として選定される(埼玉県内初。関東地方でも2番目)。
- 2000年(平成12年) - 川越商工会議所創立100周年。それを記念して、この年より公募絵画展「川越を描くビエンナーレ」が始まる。
- 2002年(平成14年)12月1日 - 市制80周年。川越市立美術館開館。
- 2003年(平成15年)4月1日 - 中核市に指定される(千葉県船橋市とともに関東地方で3番目。埼玉県内では初)。
- 2004年(平成16年)2月19日 - 川越駅駅ビル・ルミネ開業。
- 2006年(平成18年)10月10日 - ご当地ナンバーとして「川越ナンバー」が導入される。
- 2007年(平成19年)4月1日 - 川越市路上喫煙の防止に関する条例施行。市街地3駅とその周辺区域が禁止区域となる。
- 同年11月3日 - 川越城築城550周年。川越城主行列。
- 2008年(平成20年)6月14日 - 西武国分寺線が本川越駅まで直通運転開始。同日、東京メトロ副都心線が川越市駅(一部は森林公園駅)まで直通運転開始。
- 2010年(平成22年)10月1日 - 川越市産業観光館(小江戸蔵里)が開館。
- 同年11月28日 - 小江戸川越マラソン開催。
市域の変遷
1868年 以前 |
1879年 (明治12年) |
1885年 (明治18年) |
1889年 (明治22年) 4月1日 |
1896年 (明治29年) 3月29日 |
1922年 (大正11年) 12月1日 |
1939年 (昭和14年) 12月1日 |
1939年 (昭和13年) 5月1日 |
1943年 (昭和18年) 11月3日 |
1955年 (昭和30年) 4月1日 |
現在 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
入 間 郡 |
川越城下17町 (川越町) |
川越町 | 川越町 | 市制 | 川越市 | 川越市 | 川越市 | 川越市 | 川 越 市 | ||||
松郷 | |||||||||||||
東明寺村 | |||||||||||||
小久保村 | |||||||||||||
脇田村 | |||||||||||||
小仙波村 | |||||||||||||
野田村 | |||||||||||||
田面沢村 | 田面沢村 | 田面沢村 | 川越市 に編入 | ||||||||||
野田新田 | |||||||||||||
小室村 | |||||||||||||
今成村 | |||||||||||||
小々谷村 | |||||||||||||
大仙波新田 | 仙波村 | 仙波村 | 川越市 に編入 |
川越市 | |||||||||
大仙波村 | |||||||||||||
新宿村 | |||||||||||||
岸村 | |||||||||||||
豊田新田村 | 大田村 | 大田村 | 大田村 | 大田村 | 大田村 | 大東村 | 川越市 に編入 | ||||||
豊田本村 | |||||||||||||
池辺村 | |||||||||||||
大塚村 | 南大塚村 | ||||||||||||
大塚新田村 | |||||||||||||
大袋新田 | 日東村 | 日東村 | 日東村 | 日東村 | 日東村 | ||||||||
大袋村 | |||||||||||||
藤倉村 | |||||||||||||
山城村 | |||||||||||||
増形村 | |||||||||||||
北田島村 | 芳野村 | 芳野村 | 芳野村 | 芳野村 | 芳野村 | 芳野村 | |||||||
谷中村 | |||||||||||||
鴨田村 | |||||||||||||
石田本郷 | |||||||||||||
菅間村 | |||||||||||||
伊佐沼村 | |||||||||||||
比 企 郡 |
比企郡 鹿飼村 |
比企郡 植木村 |
入間郡 に移行 |
植木村 | 植木村 | 植木村 | 芳野村 に編入 | ||||||
比企郡 上老袋村 | |||||||||||||
比企郡 中老袋村 | |||||||||||||
比企郡 下老袋村 |
古谷村 に編入 |
古谷村 | |||||||||||
比企郡 東本宿村 | |||||||||||||
入 間 郡 |
古谷上村 | 古谷村 | 古谷村 | 古谷村 | 古谷村 | 古谷村 | |||||||
古谷本郷 | |||||||||||||
小中居村 | |||||||||||||
大中居村 | |||||||||||||
高島村 | |||||||||||||
八ツ島村 | |||||||||||||
今泉村 | 南古谷村 | 南古谷村 | 南古谷村 | 南古谷村 | 南古谷村 | 南古谷村 | |||||||
南田島村 | |||||||||||||
久下戸村 | |||||||||||||
並木村 | |||||||||||||
牛子村 | |||||||||||||
古市場村 | |||||||||||||
木野目村 | |||||||||||||
渋井村 | |||||||||||||
藤間村 | 高階村 | 高階村 | 高階村 | 高階村 | 高階村 | 高階村 | |||||||
砂村 | |||||||||||||
砂新田 | |||||||||||||
扇河岸村 | |||||||||||||
上新河岸村 | |||||||||||||
下新河岸村 | |||||||||||||
寺尾村 | |||||||||||||
志垂村 | 山田村 | 山田村 | 山田村 | 山田村 | 山田村 | 山田村 | |||||||
中寺山村 | |||||||||||||
福田村 | |||||||||||||
網代村 | |||||||||||||
宿粒村 | |||||||||||||
下寺山村 | |||||||||||||
向小久保村 | |||||||||||||
府川村 | 府川村 | ||||||||||||
高畑村 | |||||||||||||
石田村 | |||||||||||||
上寺山村 | |||||||||||||
中福村 | 福原村 | 福原村 | 福原村 | 福原村 | 福原村 | 福原村 | |||||||
今福村 | |||||||||||||
砂久保村 | |||||||||||||
上松原村 | |||||||||||||
下松原村 | |||||||||||||
下赤坂村 | |||||||||||||
高 麗 郡 |
高麗郡 安比奈新田 |
高麗郡 霞ヶ関村 |
入間郡 に移行 |
霞ヶ関村 | 霞ヶ関村 | 霞ヶ関村 | 霞ヶ関村 | 霞ヶ関村 | |||||
高麗郡 的場村 | |||||||||||||
高麗郡 笠幡村 | |||||||||||||
高麗郡 小堤村 |
高麗郡 名細村 |
名細村 | 名細村 | 名細村 | 名細村 | 名細村 | |||||||
高麗郡 鯨井村 | |||||||||||||
高麗郡 上戸村 | |||||||||||||
高麗郡 下小坂村 | |||||||||||||
高麗郡 平塚村 | |||||||||||||
高麗郡 平塚新田 | |||||||||||||
高麗郡 吉田村 | |||||||||||||
高麗郡 天沼新田 | |||||||||||||
高麗郡 下広谷村 |
旧町名
当市にはかつては城下町の名残を残す多数の町名が存在していたが、地番が複雑を極めていたため早急な整理が望まれたことや、自治省によって東京都荒川区、岩手県釜石市とともに町名地番整理事業の実験都市に指定されたことも相まって、住居表示に関する法律が施行される前に、全国に先駆けて1961年(昭和36年)度より町名地番整理が実施された。
当市を含む各地で住民の激しい反対運動が展開され、町名整理を断念した自治体もあったが、市は4年間をかけて順次町名地番整理を行い、伝統ある町名の多くが消滅した。こうした町名変更は自治省も「行き過ぎ」として問題だったことを認め、石川県金沢市や長崎県長崎市、福島県会津若松市など伝統ある各地で「町名は文化遺産である」という旧町名復活運動が盛んになり、由緒ある地名に戻されている。当市は未だである。
下記に挙げるおもな旧町名の中には現存のもの、また1961年(昭和36年)度以前に整理されて消滅したものも含む。
- 上五ヶ町
- 本町(→元町)
- 高沢町(→元町)
- 江戸町(→大手町)
- 南町(→幸町)
- 北町(喜多町として現存)
- 下五ヶ町
- 鍛冶町(→幸町)
- 多賀町(→幸町)
- 志義町(→仲町)
- 志多町(現存)
- 上・下松江町(松江町として現存)
- その他
- 宮元町
- 倉町
- 郭町
- 宮下町
- 同心町
- 清水町
- 北久保町(→三久保町)
- 南久保町(→三久保町)
- 堅久保町(→三久保町)
- 猪鼻町
- 鉄砲町
- 境町(堺町・餌差町)
- 立門町
- 六軒町
- 黒門町
- 横新田町
- 新田町
- 菅原町
- 仙波町
- 小仙波町
- 一番町
- 二番町
- 三番町
- 西町
- 岸町(喜志町)
- 神明町
- 坂上町
- 坂下町
- 石原町
- 袋町
- 相生町(←行養町)
- 鷹部屋町
- 橘町
- 瀬尾町
- 鉦打町
- 中原町
- 六反町
- 五反町
- 大工町
- 代官町
- 杉下町
- 厩下町
- 野田町
- 新宿町
- 通町
- 連雀町
- 脇田町
- 今成町
- 小ヶ谷町
- 月吉町
- 小室町
- 門前町
旧松郷、脇田村内の旧町名に関してはそれぞれの項を参照のこと。
脚注
- ^ 「川越市史(本編)第二巻 中世編」より
- ^ 桜田で豊臣秀吉方の武士に殺害されたとも。
- ^ 「日本100名城公式ガイドブック」(日本城郭協会)より
- ^ この間の家格は親藩なので老中など幕府の役職には就いていない。
- ^ 埼玉ゆかりの偉人データベース 嵩 俊海 埼玉県文化振興課
- ^ 経済産業省の事業として、ニューヨーク日本国総領事館公邸で「小江戸川越と歌麿の世界 in ニューヨーク」などのイベントも開催されている
- ^ 角川日本地名大辞典
- ^ 商家での児童労働は当時の川越の社会問題となっていた。
- ^ 広島へ投下された兵器の正体を国内でいち早く「原子爆弾」と訳し政府に報告したのは、川越市で海外放送を傍受した通信社だった(朝日新聞。2010年8月9日)[リンク切れ]