川越市の歴史

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川越市の歴史(かわごえしのれきし)は、埼玉県川越市の市域における歴史自治体史である。

通史

先史・古代

武蔵野に占へかたやきまさでにも告らぬ君が名占に出にけり

みよし野の田の面の雁もひたぶるに君がかたにぞ寄ると鳴くなる

中世(戦国時代まで)

河越館
太田道灌

近世

天海僧正喜多院
  • 徳川家康関東に入封すると、松平氏と同族の譜代筆頭最古参で大老四家である雅楽頭酒井家の祖となる酒井重忠の所領となり、川越藩が立藩。酒井重忠は徳川家康の伊賀越えに功を上げ、三河国西尾城主から川越城に入ると、商人のを廃止し楽市・楽座的政策で商業が繁栄する種を撒いた。川越は戦略拠点であり、徳川家康は同時に市内北部の鯨井には軍略に長けた戸田一西も据えた(鯨井藩)。江戸時代を通して、「江戸の大手小田原城搦手川越城と言われ[3]、川越藩は江戸の北の砦として重視され、石高に較べ非常に多くの家臣を擁した。江戸期より河越が川越に変わる。酒井重忠の弟で老中酒井忠利は第2代藩主となり喜多院を再興、家康のブレイン天海僧正は喜多院を拠点とした。徳川家光の乳母・春日局にも所縁がある。川越は鷹狩を楽しむ地でもあり、特に徳川家康から徳川家光までの将軍三代にかけては頻繁に長逗留した。徳川家光にいたっては林羅山を伴い、週に2度川越で鷹狩をするほどであった。
  • 川越藩の歴代藩主には、酒井忠利、酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保、秋元喬知、秋元凉朝 、松平直克、松平康英などの親藩譜代の有力大名が配された。川越藩主のうち、幕閣老中だけでも7名を数える。川越藩主は酒井忠利が徳川家康の再従弟、松平直侯が将軍・徳川慶喜の弟、というように血縁でも重視された封地であった。
  • 藩政の基礎を作ったのは、後に大老に上り詰めた酒井忠勝(酒井忠利の子)で、城下の三芳野神社など寺社の再建や時の鐘などの建立、五人組制度や開墾奨励を行った。次の藩主・堀田正盛は春日局の孫で、徳川家光に近侍して老中に昇進を遂げた藩主で、寛永15年(1638年1月28日)の川越大火から寺社の再興に尽力した。堀田正盛も大老四家である堀田氏の祖となった。島原の乱を平定した功で川越藩主となった老中首座・松平信綱は、由井正雪の乱の鎮圧など江戸で幕政に多忙であったが、川越では町割り(十ヶ町四門前町、じっかちょうしもんぜんまち)を行って商業が栄える種を撒き、検地で小農自立を推し進めた。これらが川越の特産品開発に結びついた。松平信綱の政策はその後の各藩の手本とされた。また、松平信綱によって川越城は2倍の規模の近代的城郭となった。
  • 中興の祖は、儒者でもある幕府側用人(大老格)・柳沢吉保である。柳沢吉保の頃から川越は「小江戸」と呼ばれるようになる。柳沢吉保は儒学者の荻生徂徠細井広沢などを召抱えて川越に住まわせて顧問とし、川越は文化的にも隆盛した。柳沢吉保は武蔵野の新田を開発、藩財政の安定を図った。続く藩主・秋元喬知は将軍・徳川綱吉に進講する元禄時代の学者肌の老中として、また赤穂事件の裁断でも知られる。秋元喬知に随行して高山繁文岩田彦助太陽寺盛胤といった有能な家臣が甲斐国から移り住んだので、養魚絹織物養蚕などの副業も盛んになった。秋元氏第4代の川越藩主・秋元凉朝は幕閣において田沼意次との確執で知られる老中で、秋元凉朝は平賀源内を招聘、川越藩は平賀源内を用いて奥秩父大滝中津峡で鉱山開発を行った(現在のニッチツ秩父鉱山)。
  • 川越藩は、徳川家康の次男・松平秀康を祖とし徳川御三家御三卿に次ぐ御家門越前松平家が川越藩主となった時代(7代、100年間)に、関東では水戸藩に次ぐ17万石の盛期を迎えた[4]。中でも松平斉典は「好学の名君」と呼ばれ、藩儒・保岡嶺南に命じ藩校博喩堂を開設、保岡嶺南は川越版「日本外史」を刊行した。国学では林述斎の高弟で古事記偽書説で知られる盲目の医師・沼田順義を藩に招いた。松平斉典は西大手門に目安箱を置いて衆庶の声を藩政に取り入れた。経世家として高名な海保青陵は川越城下に生活、川越絹や煙草など特産品開発を指南した。川越絹は川越絹平(武士の着る地)や川越斜子(晴れ着の羽織地)として知られ、秩父絹や青梅縞とは異なる高級ブランド織物であった。江戸で一世を風靡していた狂歌師元木網歌人尾高高雅も川越城下に暮らした。国学者で考古学者井上淑蔭が活躍したのもこの頃である(井上淑蔭と嵩俊海権田直助を「埼玉の三学者」という[5])。
  • 城下町で武蔵国の商工農の中心地であった川越は、江戸とは川越街道新河岸川舟運で結ばれ繁栄を極めた。地方都市にもかかわらず江戸時代に武蔵国で唯一の九斎市が立つほどで、十組仲間という株仲間も組織された。川越城下は川越宿として川越街道の第7の宿場でもあった。川越街道は、川越藩主の江戸への参勤交代や荒川東岸の埼玉郡などにも在った川越藩領への連絡でも重要な役割を果たした。また川越児玉往還とも呼ばれ、川越藩領だった上州前橋への重要な道であった。江戸時代に物流・経済にとって最重要であったのは物を運べない街道ではなく舟運であり、新河岸川の上流には、川越の外港として川越五河岸が築かれ千住を経て浅草花川戸まで舟が行き交った。多摩地域からの物資も青梅街道ではなく、新河岸川の舟運を用いて江戸市中に運ばれていたほどの物流の大動脈であった。新河岸川の便利な早舟は「川越夜舟」と呼ばれ、川越街道や中山道から客足を奪った。
  • 江戸時代、川越は大火(寛永15年、享保3年など)、洪水(寛保2年の「寛保の大洪水」、文政5年など)等の災害を経験した。荒川入間川が合流した寛永年間以降、治水は藩の重要な政策となり、私財を投げうって被災した窮民を助けた川越の名主奥貫友山のような慈善家、藩領の治水に生涯を捧げ農民救済に献身した安井政章のような川越藩士がいた。篤志家の中島孝昌はそうした郷土史に目を向け、入間郡地誌の集大成「武蔵三芳野名勝図絵」全3巻を著し松平直恒に献納した。
  • 浮世絵師喜多川歌麿は、伝馬騒動の時の藩主・秋元凉朝の時代(宝暦3年)に、川越城下に生まれたとも言われる。川越には昔から、歌麿の絵を所蔵する商人が多かったという[6]

幕末

川越城本丸御殿

近代

明治に入り、1871年(明治4年)に川越藩は廃藩となるも、城下町の産業・人材や資本の蓄積・文化の伝統から、埼玉県随一の商都・金融の中心地、米取引・穀物集散地として栄えた。江戸時代から絹織物の大産地だったが中島久平ら川越商人は唐桟織など綿織物への転進に成功し、戦前までは日本一のコーデュロイベッチンの産地でもあった。新興経済人である川越商人は自力で川越から鉄道を延ばし、教育や公共事業への強い情熱を抱いて様々な教育施設が整備された。明治23年に第1回衆議院議員総選挙が実施されると川越選挙区から当選したのも教育者の高田早苗であった。文芸や武道が盛んで、特に著名な画家剣道家を多く輩出した。埼玉県における婦人運動の中心地でもあった。日中戦争が始まるまで、埼玉県最大の人口であった。戦時中は軍の銅鐘などの供出要請に反対運動が起こり、文化財を守った。

近代年表

明治時代
  • 1868年明治元年) - 川越藩藩校の長善館に代わって青藍塾を開設し、和漢洋学と数学を教授(後に文学寮と改名。現・川越市立川越小学校)。
  • 1869年(明治2年) - 川越藩が新政府に川越城の老朽化した建物を取り壊したい旨を届け出、城の部分的取り壊しが始まる。
  • 同年 - 版籍奉還により、最後の川越藩主・松平康載が川越知藩事になる。
  • 1871年(明治4年)8月29日 - 廃藩置県により川越県誕生(川越藩領の関係で現在の茨城県神奈川県内などにも川越県の区域があった)。
  • 同年12月25日 - 第1次府県統合により入間県が誕生し県庁所在地となる。井上馨の認可により県庁は川越城本丸に置かれる。
  • 1872年(明治5年) - 近代最初の地方制度である大区小区制が確定し、川越は入間県内の第1大区第1小区となる。
  • 同年 - 県庁のある川越に、他に先駆けて川越見張番所が開設される(現・川越警察署。管轄地域は現在の埼玉県西部一帯であったため、後の秩父事件では非常体制となった)。
  • 1873年(明治6年) - 廃城令に伴い、川越城内の不用・破損の建物等の入札・売払が行われる。
  • 1873年(明治6年)6月15日 - 入間県と群馬県が統合して熊谷県が発足。県庁は熊谷に置かれる。
  • 同年 - 旧川越藩の家老屋敷に三芳野学校創設(現・川越市立川越第一小学校)。
  • 1874年(明治7年) - 川越商人らが志義学校を開設(現・川越市立中央小学校)。
  • 1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により、熊谷県の武蔵国だったエリアを埼玉県(県庁は浦和)に編入し、現在の県域となる。
  • 1877年(明治10年) - 豪商・竹谷兼吉が埼玉県最初の米穀取引所を開設。
八十五銀行本店(現・埼玉りそな銀行川越支店)
人口18,607人、面積:7.46km²
大正時代
  • 1912年大正元年) - 陸軍特別大演習が立川村から熊谷町にかけての東京・埼玉で行われる。川越はその御座所となり、即位した大正天皇が川越で軍を統監した。
  • 同年 - 1892年(明治25年)より川越で宣教をしていたフランス人神父・メイランによって、カトリック教会聖堂が建立(小教区の教会として埼玉県最古。現・カトリック川越教会)。
  • 同年 - 洋館の川越町役場が完成(現在の市庁舎に建替えるため、1971年昭和46年)に解体される)。
  • 1913年(大正2年) - 川越電気鉄道が水力発電事業に進出。埼玉県内や群馬県に電力供給するため、武蔵水電を設立。水力発電所神流川に完成する。
  • 1914年(大正3年) - 東上鉄道池袋駅 - 田面沢駅間で開通(現在の東武東上本線)。
  • 1915年(大正4年) - 1904年(明治37年)に「青年文庫」を開設した安部立郎が、この年に本格的な私立川越図書館を開館(2年後に町立になる。現在の川越市立中央図書館。安部はその後も郷土資料の収集や復刻、「入間郡誌」の編纂を行った)。
  • 1920年(大正9年) - 埼玉県立川越蚕業学校開校(後に県立蚕業学校、戦後は埼玉県立川越農業高等学校。現・埼玉県立川越総合高等学校)。
  • 同年 - 新河岸川の改修工事が埼玉県内・東京市内の全域で始まる。
  • 同年 - 道路法(旧法)の施行に合せて埼玉県が県道を制定。川越町 - 浦和町間の道路が埼玉県道1号となる(その後、国道16号の一部となってこの旧埼玉県道1号は消滅)。
  • 同年10月1日 - 第1回国勢調査が実施される。川越町は埼玉県内で最大の人口を記録(2位は熊谷町)。
  • 1922年(大正11年)12月1日 - 川越町が仙波村と合併して川越市が発足。埼玉県内で最初の市制施行となる(内務省告示第313号)。
人口30,359人、世帯数5,414世帯、面積12.36km²
  • 同年 - 山村裁縫手芸伝習所開設(現・山村学園高等学校)。
  • 同年 - 埼玉県で最初の医師会が発足(現・川越市医師会)。
  • 1923年(大正12年) - 埼玉県で最初の百貨店・山吉デパートが開店。
  • 同年9月1日 - 関東大震災。当市内の被災は軽微で、全壊家屋20棟(埼玉県内の全壊家屋は4,700棟)。
  • 1924年(大正13年)10月10日 - 都市計画法(旧法)に基づき、埼玉県内唯一の市である川越に埼玉県で最初の都市計画委員会が設置される。
  • 1926年(大正15年) - 武州瓦斯設立。埼玉県内に本社を置く最初の一般ガス事業者となる。
  • 同年 - 石川製糸の創業者・石川幾太郎らの尽力で、埼玉県川越商業学校開校(後に川越市立高等女学校と合併し埼玉県川越商業高等学校。現・川越市立川越高等学校)。
  • 同年 - 市内の医師らが資金を出し合い、無報酬で私立川越産婆看護婦学校を設立(現・川越准看護学院)。また、無料の川越助産院も開院。
昭和時代(戦前)
1930年頃の川越
人口37,578人、面積16.68km²

現代

川越は埼玉県で最初に誕生した市であったが人口が最も多く広域合併をせずに市制施行できたため、戦前に埼玉県内にあった5市(川越、熊谷、川口、浦和、大宮)の中で最も面積が狭かった。戦後、埼玉県内では次々に新しい市が誕生していったが、川越は常に埼玉県内で面積が最小の市であった。そのため、他市のような十分な市域を確保する必要や町村合併促進法1953年)から1955年に近隣の9村を編入、折からの高度経済成長で、東京のベッドタウン色を強めながら人口が増えていった。また、1950年代に入ると初雁橋、開平橋上江橋、落合橋など荒川入間川を渡る橋梁が順次完成し、川越市を取り巻く交通が大きく変化した。

現代年表

昭和(戦後)
人口104,854人、世帯数19,799世帯、面積110.28km²
平成

市域の変遷

1868年
以前
1879年
(明治12年)
1885年
(明治18年)
1889年
(明治22年)
4月1日
1896年
(明治29年)
3月29日
1922年
(大正11年)
12月1日
1939年
(昭和14年)
12月1日
1939年
(昭和13年)
5月1日
1943年
(昭和18年)
11月3日
1955年
(昭和30年)
4月1日
現在




川越城下17町
(川越町)
川越町 川越町 市制 川越市 川越市 川越市 川越市





松郷
東明寺村
小久保村
脇田村
小仙波村
  野田村
  田面沢村 田面沢村 田面沢村 川越市
に編入
野田新田
小室村
今成村
小々谷村
大仙波新田 仙波村 仙波村 川越市
に編入
川越市
大仙波村
新宿村
岸村
豊田新田村 大田村 大田村 大田村 大田村 大田村 大東村 川越市
に編入
豊田本村
池辺村
大塚村 南大塚村
大塚新田村
大袋新田 日東村 日東村 日東村 日東村 日東村
大袋村
藤倉村
山城村
増形村
北田島村 芳野村 芳野村 芳野村 芳野村 芳野村 芳野村
谷中村
鴨田村
石田本郷
菅間村
伊佐沼村




比企郡
鹿飼村
比企郡
植木村
入間郡
に移行
植木村 植木村 植木村 芳野村
に編入
比企郡
上老袋村
比企郡
中老袋村
比企郡
下老袋村
古谷村
に編入
古谷村
比企郡
東本宿村




古谷上村 古谷村 古谷村 古谷村 古谷村 古谷村
古谷本郷
小中居村
大中居村
高島村
八ツ島村
今泉村 南古谷村 南古谷村 南古谷村 南古谷村 南古谷村 南古谷村
南田島村
久下戸村
並木村
牛子村
古市場村
木野目村
渋井村
藤間村 高階村 高階村 高階村 高階村 高階村 高階村
砂村
砂新田
扇河岸村
上新河岸村
下新河岸村
寺尾村
志垂村 山田村 山田村 山田村 山田村 山田村 山田村
中寺山村
福田村
網代村
宿粒村
下寺山村
向小久保村
府川村 府川村
高畑村
石田村
上寺山村
中福村 福原村 福原村 福原村 福原村 福原村 福原村
今福村
砂久保村
上松原村
下松原村
下赤坂村




高麗郡
安比奈新田
高麗郡
霞ヶ関村
入間郡
に移行
霞ヶ関村 霞ヶ関村 霞ヶ関村 霞ヶ関村 霞ヶ関村
高麗郡
的場村
高麗郡
笠幡村
高麗郡
小堤村
高麗郡
名細村
名細村 名細村 名細村 名細村 名細村
高麗郡
鯨井村
高麗郡
上戸村
高麗郡
下小坂村
高麗郡
平塚村
高麗郡
平塚新田
高麗郡
吉田村
高麗郡
天沼新田
高麗郡
下広谷村

旧町名

当市にはかつては城下町の名残を残す多数の町名が存在していたが、地番が複雑を極めていたため早急な整理が望まれたことや、自治省によって東京都荒川区岩手県釜石市とともに町名地番整理事業の実験都市に指定されたことも相まって、住居表示に関する法律が施行される前に、全国に先駆けて1961年(昭和36年)度より町名地番整理が実施された。

当市を含む各地で住民の激しい反対運動が展開され、町名整理を断念した自治体もあったが、市は4年間をかけて順次町名地番整理を行い、伝統ある町名の多くが消滅した。こうした町名変更は自治省も「行き過ぎ」として問題だったことを認め、石川県金沢市長崎県長崎市福島県会津若松市など伝統ある各地で「町名は文化遺産である」という旧町名復活運動が盛んになり、由緒ある地名に戻されている。当市は未だである。

下記に挙げるおもな旧町名の中には現存のもの、また1961年(昭和36年)度以前に整理されて消滅したものも含む。

上五ヶ町
  • 本町(→元町)
  • 高沢町(→元町)
  • 江戸町(→大手町)
  • 南町(→幸町)
  • 北町(喜多町として現存)
下五ヶ町
  • 鍛冶町(→幸町)
  • 多賀町(→幸町)
  • 志義町(→仲町)
  • 志多町(現存)
  • 上・下松江町(松江町として現存)
その他
  • 宮元町
  • 倉町
  • 郭町
  • 宮下町
  • 同心町
  • 清水町
  • 北久保町(→三久保町)
  • 南久保町(→三久保町)
  • 堅久保町(→三久保町)
  • 猪鼻町
  • 鉄砲町
  • 境町(堺町・餌差町)
  • 立門町
  • 六軒町
  • 黒門町
  • 横新田町
  • 新田町
  • 菅原町
  • 仙波町
  • 小仙波町
  • 一番町
  • 二番町
  • 三番町
  • 西町
  • 岸町(喜志町)
  • 神明町
  • 坂上町
  • 坂下町
  • 石原町
  • 袋町
  • 相生町(←行養町)
  • 鷹部屋町
  • 橘町
  • 瀬尾町
  • 鉦打町
  • 中原町
  • 六反町
  • 五反町
  • 大工町
  • 代官町
  • 杉下町
  • 厩下町
  • 野田町
  • 新宿町
  • 通町
  • 連雀町
  • 脇田町
  • 今成町
  • 小ヶ谷町
  • 月吉町
  • 小室町
  • 門前町


松郷脇田村内の旧町名に関してはそれぞれの項を参照のこと。

脚注

  1. ^ 「川越市史(本編)第二巻 中世編」より
  2. ^ 桜田で豊臣秀吉方の武士に殺害されたとも。
  3. ^ 「日本100名城公式ガイドブック」(日本城郭協会)より
  4. ^ この間の家格親藩なので老中など幕府の役職には就いていない。
  5. ^ 埼玉ゆかりの偉人データベース 嵩 俊海 埼玉県文化振興課
  6. ^ 経済産業省の事業として、ニューヨーク日本国総領事館公邸で「小江戸川越と歌麿の世界 in ニューヨーク」などのイベントも開催されている
  7. ^ 角川日本地名大辞典
  8. ^ 商家での児童労働は当時の川越の社会問題となっていた。
  9. ^ 広島へ投下された兵器の正体を国内でいち早く「原子爆弾」と訳し政府に報告したのは、川越市で海外放送を傍受した通信社だった(朝日新聞。2010年8月9日)[リンク切れ]

関連項目