大道寺政繁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
大道寺政繁
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文2年(1533年
死没 天正18年7月19日1590年8月18日
改名 孫九郎(幼名)、政繁
別名 政重
墓所 補陀寺群馬県安中市
官位 駿河守
主君 北条氏康氏政氏直
氏族 大道寺氏
父母 父:大道寺重興(異説あり)
遠山綱景の娘
大道寺直繁大道寺直重(直昌)、弁誉大道寺直次
養子:大道寺直英

大道寺 政繁(だいどうじ まさしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。父は大道寺重興[1]大道寺氏代々の通称である「孫九郎」を名乗る。通称は大道寺駿河守。

目次

[編集] 生涯

大道寺氏は平氏とも藤原氏とも言われるが、代々末裔では「平朝臣」を名乗っている。 大道寺氏は北条氏(小田原後北条氏。以降この項目では「北条氏」と略す)家中では「御由緒家」と呼ばれる家柄で、代々北条氏の宿老的役割を努め、主に河越城を支配していた。

政繁は北条氏康氏政氏直の3代に仕えた。「政」の字は氏政の諱字を賜ったものだとも言われている。内政手腕に優れ、河越城代を努めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行、火元奉行などを設けて城下振興を行うなど、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと伝えられている。天正12年(1584年)には新たに坂戸宿を開き、現在の坂戸市発展の礎となっている。父の職を相続し、鎌倉代官を務めて寺社の統括にも当たっていたと伝えられている。軍事面においては「河越衆」と呼ばれる軍団を率い、三増峠の戦い神流川の戦いなど、時々の北条氏の主要な合戦の、そのほとんどに参戦して武功を挙げた。

天正10年(1582年)、甲斐の武田氏滅亡後に北条氏が支配していた上野国に、武田氏滅亡戦の余波のまま織田信長の侵攻が始まった。しかし同年、本能寺の変が起こり織田家中が混乱すると、その隙に北条氏は上野を奪還し、逆に信濃へ侵攻する。政繁は小諸城主とされ、最前線を担当し徳川家康と対峙するが、北条と徳川の間に講和が成立し、政繁らも信濃より引き上げる。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐が始まると、中山道の入り口である上野国の松井田城を守っていた政繁は、前田利家上杉景勝真田昌幸らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとするが、兵力で劣勢にあり敗北した。そして籠城戦を覚悟し、城に籠もって戦うが、圧倒的な大軍の前に郭を次々と落とされたため、政繁らは討ち死にを覚悟して孫を脱出させたが、真田昌幸が見て見ぬふりをしたという。水脈を断たれた上兵糧を焼かれ、ついに本丸に敵兵が及ぶに至り、開城降伏した。

その後、豊臣方に加えられ、忍城攻めの道案内を勤め、5月22日に武蔵松山城、6月14日に鉢形城、6月23日に八王子城攻めと北条氏の拠点攻略戦に加わっている。特に八王子城攻めにおいては、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し最も働いたとされている。

しかし7月5日に小田原城が陥落した後の同月19日、秀吉から北条氏政・氏照松田憲秀らと同じく開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、北条氏の中心勢力を一掃させたかった、など諸説あり)、自らの本城である河越城下の常楽寺河越館)にて切腹を命じられた。享年58。一説には江戸の桜田で処刑されたともいわれる。大道寺氏は政繁の死によって、一旦滅亡した。

埼玉県川越市常楽寺に供養塔が残り、群馬県安中市の補陀寺に墓が残る。さらに、青森県弘前市の貞昌寺には、政繁・養子の隼人が建立した供養塔と隼人の墓が並んで残っている。

[編集] 家系図

周勝(重興)・資親の系譜関係は、盛昌の子で兄弟とも、盛昌-周勝(重興)-資親-政繁と親子になるともされはっきりしない。

大道寺重時大道寺盛昌

大道寺周勝(重興) 大道寺資親

大道寺政繁
     ┣━━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
大道寺直英(養子隼人) 大道寺直繁 大道寺直重 弁誉上人 大道寺直次

[編集] 子孫

政繁の妻は、遠山綱景(藤九郎隼人)の娘である。最初、舎人経忠に嫁ぎ男子を儲けたが、経忠は第二次国府台合戦(1563年)で戦死した。同じ合戦で、遠山綱景と綱景の嫡男・隼人佐もが戦死した。綱景は、江戸城と江戸葛西城の城代だったが、大道寺政繁とは後北条氏3大重臣の同志でもあった。

綱景の娘は、この窮状打開のため、政繁へ再婚の願いを申し出た。申出は認められ、娘は政繁に再嫁し前夫との間の子は政繁の養子になり大道寺隼人直英を名乗った。 その後、4人の異父弟が生まれた。直英は養子のため、系図には五男と記載されているが、最年長で実質の長男だった。築城の名手との記録もあり、政繁と共に河越城、松井田城の大改修を行った。

小田原攻で北条方が破れ、秀吉の命で政繁は自害した。 秀吉に対し、家康の強い懇願によって、督姫と氏直や、政繁の子供らは家康への預かりの身となった。直繁は一時、北条氏直と共に高野山へ配流されたが、間もなく解放された。その後も家康の計らいで、優遇され夫々が幕末まで家名を保っている。

  • 長男・大道寺直繁は将軍・徳川秀忠に召し出され仕えた。その子は越後高田藩松平忠輝に仕えたが忠輝が改易となり浪人。その子の代に甲州流軍学者を輩出し(大道寺友山)、広島藩会津藩の客分を経たのち蟄居するが、再度越前福井藩に仕官した。その子孫はそのまま福井藩士として存続し、江戸留守居役などを勤めた。この家系が政繁ら大道寺氏の通称「孫九郎」の名を継承している。
  • 次男・大道寺直重(直昌とも)は前田利政に仕え、主家が関ヶ原の戦いで改易後松平忠吉に仕えたのち尾張藩に2千石という高禄で招かれた。子孫に至り加増を繰り返して4~5千石を知行し、城代家老を務める家柄となった。幕末の尾張藩に起こった青松葉事件に際し、大道寺直良(大道寺主水)が永蟄居処分を受けている。
  • 三男は仏門に入り、弁誉と号した、江戸深川の名所清澄庭園の隣にある深川本誓寺を中興したと伝わる。
  • 四男・大道寺直次は当初母方の苗字「遠山長左衛門」「遠山直次」と名乗り順に黒田孝高豊臣秀次福島正則黒田長政京極忠高に仕えた後、徳川秀忠に1千石で仕え幕府旗本となった。尾張藩士・舎人恒忠の子を養子とし、子孫は大道寺に復姓して江戸時代も存続した。
  • 養子・大道寺直英(大道寺隼人)は徳川家康に仕え、名古屋城築城に携わった。尾張藩客分のち弘前藩に仕え弘前城築城にも携わった。また長命だったので終生、異父弟の面倒もみた。子孫は紆余曲折を経て家老を勤める家柄として1千石余を預かり存続し、維新後に県会議長(大道寺族之助繁禎)となった。

大道寺隼人が名古屋城築城に携わった時に、10歳若年の肥後の守・加藤清正も居て隼人と同様に築城の名手と云われている。 特に、清正は石垣の積む匠で高層の築城に長けていた。

[編集] 演じた俳優

テレビドラマ

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 父については大道寺盛昌、大道寺資親など諸説あり、つまり盛昌から政繁までの系図がはっきりしない。盛昌が創生期の家臣であることを考えると「盛昌の直子」では年代的に不具合が生じる
個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス