荻野吟子

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荻野 吟子
生誕 嘉永4年3月3日
1851年4月4日
武蔵国幡羅郡俵瀬村
死没 1913年6月23日(62歳)
職業 医師

荻野 吟子(おぎの ぎんこ(本名:荻野ぎん)、1851年4月4日嘉永4年3月3日) - 1913年大正2年)6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である。女性運動家としても知られる。なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していた。西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネ1827年 - 1903年)がいる。

生涯[編集]

荻野吟子
キリスト教や理想社会を求める互いの熱意に共感し合って幸せな新婚生活であったのも束の間、夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意を吟子に告げる。
  • 1891年(明治24年) 5月 - 之善は同志とともに利別原野開拓のために吟子を残し単身で渡道するが、現地の状況は厳しく冬季を前に、一旦離道した。
  • 1892年(明治25年) - 之善、再び渡道し利別原野のイマヌエル(今金町)開拓をつづけた。北海道の密林と原野を開拓して理想郷を創造するというこの仕事は、実際には困難を極め、さまざまな経緯はあるが、結果的には之善の試みは挫折に終る。之善は国縫のマンガン鉱の開発にも失敗に終わることになる。
  • 1896年(明治29年) 5月 - 吟子は之善のいるイマヌエル(今金町)へ渡り之善と同居する。この時点では、吟子は開業をしていない。
  • 1897年(明治30年)- 之善は国縫の鉱山開発に見切りをつけ、利別での伝道に専念し、吟子は海辺の瀬棚の会津町(現 本町の一部)で診療所を開業する。(開業地には、後に荻野吟子開業の地碑が建立された。)
  • 1903年(明治36年)- 之善は京都同志社へ再入学し相国寺に隣接する寄宿舎に移り、吟子は札幌(南一条西五丁目一番地)へ一時転住する。吟子は新聞に札幌での開業広告を掲載するが、実際に診療を行ったかは明確ではない。
  • 1904年(明治37年)- 之善は同志社大学を卒業して牧師として北海道浦河教会に赴任した。
  • 1905年(明治38年)- 之善は、牧師の職を辞し、瀬棚にもどり自給伝道を志すも、病を得て9月23日瀬棚で逝去。吟子はその後も 3年間瀬棚で過ごし、診療をつづけた。
  • 1908年(明治41年) - 帰京、本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。
  • 1913年大正2年) - 肋膜炎にかかり、ついで脳溢血により逝去した。62歳。墓所は東京都の雑司ヶ谷霊園

備考[編集]

  • 女医になる前の3年間の通学は、はかま姿で高下駄を履いていた。その頃は女医は認められていないため、ヘアスタイルはショートカットで、男性と同じ髪型であった。
  • 埼玉県にある「埼玉郷土かるた」には荻野吟子に関する札が存在する。
  • 旧俵瀬村の葛和田の渡し(赤岩の渡し・・・千代田町)の対岸の光恩寺に、荻野家の長屋門が「瓦葺き」(本来は藁葺き)で復元されている。

参考文献[編集]

  • 『荻野吟子 日本女医第一号』荻野吟子女史顕彰碑建設期成会編 昭和42年初版 瀬棚町発行 ISBN なし (北海道医報の連載をもとに編集された資料。平成16年の8刷は瀬棚町開基120周年記念として刊行 )
  • 『日本女医史』日本女医会編 昭和37年 日本女医会本部発行 
  • 花埋み』(渡辺淳一による伝記的小説) ISBN 4-10-117601-9新潮文庫

補注[編集]

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  1. ^ この頃のことを、吟子は『女学雑誌』354号にこのように書いている。
    「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」
    この文面より吟子の万策尽きた様子が伺われるが、開業への思いは強く最後の手段として外国での資格取得も考えていたようである。  前例がない理由で開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した実業家高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して内務省衛生局局長、長与専斎を紹介。吟子は好寿院に入る際にいろいろの書物を捜した末『令義解』という奈良時代の書物に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ、このことを強調し請願をした。併せて高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に持たせた。吟子に依頼を受けた石黒忠悳も、責任があるので衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と食いさがったそうである。こうして吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになり、1884年明治17年)に「女医公許」が決定しようやく受験が認められる。
  2. ^ 開業当初は第1号女医と新聞や雑誌にもてはやされ、一時は患者にあふれたものの、当時は中産階級以下の者は医者にかかることなく祈祷師民間療法に頼る時代で、また保険医療もなく、たとえ患者として受診した者に対しても、高額になる医療費を全ての者に全部支払ってもらうことなど出来ない時代であった。その上、女性医師は信頼できないという者が多く、医業では成功しなかったとされる。しかし、女性に対して医術開業試験への門戸を開いたという意味で、荻野は重要な人物である。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]