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* 2007年6月8日に父が死去。
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* 小学生の頃はおちつきがなく、おしゃべりでうるさく、早指しだったという<ref>2000年のNHK杯で三浦七段(当時)の解説をした藤井竜王(当時)の話による。</ref>。
* 小学生の頃はおちつきがなく、おしゃべりでうるさく、早指しだったという<ref>2000年のNHK杯で三浦七段(当時)の解説をした藤井竜王(当時)の話による。</ref>。
* [[福田康夫]]元総理とは遠い親戚。{{要出典}}
* [[福田康夫]]元総理とは遠い親戚。{{要出典|date=2008年5月}}
* [[藤井猛]]は同郷の兄弟子に当たる。二人は[[2001年]]、同時にA級昇級した。また、[[奨励会]]入会試験で1度落ちた経験があることも、二人の共通点である。
* [[藤井猛]]は同郷の兄弟子に当たる。二人は[[2001年]]、同時にA級昇級した。また、[[奨励会]]入会試験で1度落ちた経験があることも、二人の共通点である。
* [[明和県央高等学校]]卒業。
* [[明和県央高等学校]]卒業。
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* [[屋敷伸之]]と棋聖戦を戦った当時のインタビューで、一日の将棋の勉強時間が10時間を越えると答えたことがある。「愛読書は『将棋年鑑』」。屋敷は当時、勉強をほとんどしないことを自称していたため、対極的な二人として話題になった。
* [[屋敷伸之]]と棋聖戦を戦った当時のインタビューで、一日の将棋の勉強時間が10時間を越えると答えたことがある。「愛読書は『将棋年鑑』」。屋敷は当時、勉強をほとんどしないことを自称していたため、対極的な二人として話題になった。
* 研究会には入らず、1人で勉強に打ち込んでいたが、後に関西の若手棋士と研究をしたりしている。
* 研究会には入らず、1人で勉強に打ち込んでいたが、後に関西の若手棋士と研究をしたりしている。
* [[野月浩貴]]の結婚式では誰とも話さず、詰将棋を解いていた<ref>[[米長邦雄]]永世棋聖の話による。{{要出典}}</ref>。
* [[野月浩貴]]の結婚式では誰とも話さず、詰将棋を解いていた<ref>[[米長邦雄]]永世棋聖の話による。{{要出典|date=2008年5月}}</ref>。
* 連盟職員の結婚パーティーに招かれた時は、他の職員や一般の出席者と気さくに会話していた。したがって、上記の逸話は創作であると思われる。
* 連盟職員の結婚パーティーに招かれた時は、他の職員や一般の出席者と気さくに会話していた。したがって、上記の逸話は創作であると思われる。
* 若い時には所かまわず目隠し将棋を挑んでいた。[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]名誉九段(元将棋連盟会長)の葬儀の後、駅への帰り道で[[鈴木大介]]と目隠し将棋を指していた<ref>[[先崎学]]著「世界は右に回る」による。</ref>。
* 若い時には所かまわず目隠し将棋を挑んでいた。[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]名誉九段(元将棋連盟会長)の葬儀の後、駅への帰り道で[[鈴木大介]]と目隠し将棋を指していた<ref>[[先崎学]]著「世界は右に回る」による。</ref>。

2010年10月25日 (月) 17:26時点における版

 三浦弘行 八段
名前 三浦弘行
生年月日 (1974-02-13) 1974年2月13日(50歳)
プロ入り年月日 1992年10月1日(18歳)
棋士番号 204
出身地 群馬県
師匠 西村一義九段
段位 八段
棋士DB 三浦弘行
戦績
タイトル獲得合計 1期
一般棋戦優勝回数 2回
2009年12月5日現在
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三浦 弘行(みうら ひろゆき、1974年2月13日 - )は、日本将棋棋士。棋士番号204。

群馬県出身。西村一義九段門下。

戦績

  • 1995年棋聖戦羽生善治に挑戦(タイトル戦初登場)。五番勝負は0勝3敗で敗れる。ところが、1996年の棋聖戦で羽生に2年連続挑戦。当時七冠を独占していた羽生を3勝2敗で破って初のタイトル獲得。羽生七冠の一角を崩した棋士として、一躍、時の人となる[1](棋聖位は、翌1997年、屋敷伸之に奪われる)。
  • 1998年度、新人王戦で、決勝三番勝負で畠山成幸を下して優勝。
  • 1998年度から2000年度の順位戦で3期連続昇級を決め、2001年度にA級八段となる。
  • 2002年度、NHK杯の決勝で先崎学を破って優勝。
  • 2005年竜王戦1組で優勝。決勝トーナメントでも挑戦者決定三番勝負に進むが、木村一基に敗れ、8年ぶりのタイトル戦登場はならず。
  • 朝日オープントーナメントでは、3期連続ベスト4を記録。
  • 2010年3月2日に行われた第68期A級順位戦において、郷田真隆を下して羽生善治名人への挑戦権を獲得。4度目のタイトル戦にして初めて七番勝負及び2日制のタイトル戦に登場。

棋風

  • 右四間飛車横歩取り3三桂戦法相横歩取りなど、他のプロはあまり指さない戦法も時々採用する。
    • 1999年度前期のNHK将棋講座で、右四間飛車の講座の講師を務めた。
  • 研究家として知られる。
    • 羽生から棋聖位を奪った際は相掛かりの序盤で飛車を2八まで引いた(引き飛車)。それまでは飛車の位置を2六(浮き飛車)とするのが一般的であったが、三浦が採用したことによってプロ間で引き飛車が見直された。
    • 革新的な振り飛車戦法である藤井システムによって、対する居飛車側が穴熊に堅く囲うのが困難となった。そこで、三浦は穴熊に代わる新しい堅い囲いを創案し、実戦でも好成績を残す(ミレニアム囲い、トーチカ、三浦囲いなどと呼ばれる)。これにより2000年度将棋大賞の升田幸三賞を受賞。
  • 自分が先手番のときでも千日手になることを嫌わない、珍しい棋士である[2]

人物・エピソード

  • 口数少なく将棋にストイックに取り組む姿勢と、その男らしい風貌から「武蔵」の異名を取る。
家族・プロ入り以前
  • 小学校3年の時、父(アマ四段)に親子間の会話がないので、せめて共通の趣味でも持とうということで、将棋を教えられたことが、将棋と出会ったきっかけ。
  • 2007年6月8日に父が死去。
  • 小学生の頃はおちつきがなく、おしゃべりでうるさく、早指しだったという[3]
  • 福田康夫元総理とは遠い親戚。[要出典]
  • 藤井猛は同郷の兄弟子に当たる。二人は2001年、同時にA級昇級した。また、奨励会入会試験で1度落ちた経験があることも、二人の共通点である。
  • 明和県央高等学校卒業。
  • 群馬の実家在住。「通勤に便利でも誘惑が多いので、東京には住みません」と断言した。[4]
将棋に対する無類の熱心さ
  • 屋敷伸之と棋聖戦を戦った当時のインタビューで、一日の将棋の勉強時間が10時間を越えると答えたことがある。「愛読書は『将棋年鑑』」。屋敷は当時、勉強をほとんどしないことを自称していたため、対極的な二人として話題になった。
  • 研究会には入らず、1人で勉強に打ち込んでいたが、後に関西の若手棋士と研究をしたりしている。
  • 野月浩貴の結婚式では誰とも話さず、詰将棋を解いていた[5]
  • 連盟職員の結婚パーティーに招かれた時は、他の職員や一般の出席者と気さくに会話していた。したがって、上記の逸話は創作であると思われる。
  • 若い時には所かまわず目隠し将棋を挑んでいた。加藤治郎名誉九段(元将棋連盟会長)の葬儀の後、駅への帰り道で鈴木大介と目隠し将棋を指していた[6]
  • TVの解説では聞き手の顔を一切見ずに、盤とモニターだけ見ている。時々自分の世界に入り込んで、解説するのを忘れてしまう。
  • 2008年4~5月に順位戦に向け早々とトレーニングを開始したところ、根をつめすぎ体調を崩してしまった[7]
対局関連
  • 加藤一二三が対局室の空調に強いこだわりを持つことは有名であるが、それに関しては三浦も負けていない。三浦は、極度の寒がりである。加藤とクーラーのスイッチの‘争奪戦’を繰り広げたことがあり(当時三浦はまだ四段だった)、また、加藤とのA級順位戦最終局で加藤が入れたストーブがあるにもかかわらず、もう1台ストーブを入れて貰えるように頼み、加藤に「暑い」と言わせた事さえある。冬は毎年スーツの中にセーターを着込むなどかなり厚手の服装をしている。
  • タイトル戦で、対局相手の羽生の雪駄を履いて出て行ってしまった事がある。
  • タイトル戦で宿に宿泊した夜、波の音がうるさく寝られないと苦情を申し立てて、部屋を替えさせた。
  • 栄養ドリンクをよく使用する。銘柄はゼナ。持ち時間の短いNHK杯でもドリンクは欠かせない。眠気覚ましドリンクも飲んでいる。和服姿で対局に向かったとき、小物を入れるべき巾着袋からゼナを取り出して対戦相手の羽生を笑わせた。
  • 対局の合間の休憩になると、飲み物を一旦鞄に回収してから食事に出かける[8]
テレビ関連
  • NHK杯の放送では、冒頭にテーマ曲とともに前年度優勝者が「初手」を指す映像が毎回流れる。三浦は2002年度に優勝したので、2003年度の放送の冒頭で姿が映されたが、三浦が指した「初手」は、やや異端といえる▲5六歩であった。
  • フットボールアワー岩尾望に似ているということで、将棋ファンの推薦で探偵!ナイトスクープの中で紹介されたことがある。
  • 羽生7冠から棋聖を奪取した際には、当時松村邦洋が司会をしていた人気テレビ番組「進め!電波少年」における松本明子の結婚候補の1人として不運にも選ばれ、松本にウエディングドレス姿で結婚をせまられた過去もある。

A級順位戦等にまつわる幸運・戦績

  • 初参加の第60期は3勝6敗とA級の高い壁に苦しんだが、加藤一二三先崎学が2勝7敗と振るわずに奇跡的に8位で残留。
  • 第61期は4勝5敗で丸山忠久(1位)・青野照市(7位)・島朗(9位)・郷田真隆(10位)と並んだが、順位の差で7位に浮上(9位の島は最終局の三浦戦で大逆転勝利を掴んで残留に成功)。
  • 第62期は5勝4敗とA級初の勝ち越しを決め、自己最高の5位にジャンプアップ。
  • 第63期は4勝5敗で谷川浩司(3位)・丸山(4位)・鈴木大介(6位)・深浦康市(9位)と相星で並んだが、順位の差で7位(最終局の高橋道雄に敗れていたら陥落だった)。
  • 第64期も3勝6敗と低調、藤井猛(2位)・久保利明(3位)・鈴木(8位)・森下卓(9位)とまた相星で並んだものの、ここでも順位の差に助けられて8位。
  • 第65期も4勝5敗と負け越し、佐藤康光(3位)・丸山(5位)・藤井(6位)・久保(7位)・深浦(9位)と6人が相星で並ぶ(最下位は阿部隆の2勝7敗)異例の展開となったが、幸運なことに3期連続で順位の差が味方して土俵際の8位に踏みとどまる。
  • しかし第66期では6局目の木村一基戦で自身2回目のA級勝ち越しとなる5勝目をあげ、早々と来期のA級残留(連続8期目)が確定。名人挑戦はならなかったものの、7勝2敗の好成績で第67期は自己最高位の2位で迎える。
  • ところが、第67期では終盤に5連敗を喫するなど3勝6敗と大苦戦。鈴木(9位)・深浦(10位)と相星であったが、熾烈な降級争いの渦中にいた深浦が丸山に屈したため、辛うじてギリギリの8位で踏みとどまった(降級は鈴木、深浦)。
  • 捲土重来を誓った68期は2勝2敗から怒涛の5連勝、2年ぶりとなる7勝2敗の好成績を残して初の名人挑戦を果たす。なお、前年度A級8位からの挑戦権獲得は第14期に加藤一二三・第42期に森安秀光が挑戦して以来、26年ぶり3人目の快挙である。
  • 悲運にも過去5回順位の差のため三浦に負けて不昇級・降級した深浦康市とは対照的に、奇跡的なまでに順位の幸運に恵まれている。--第53期C級2組-三浦(6位、9勝1敗、昇級)、深浦(9位、9勝1敗、不昇級・次点)、第58期B級2組-三浦(20位、9勝1敗、昇級)、深浦(21位、9勝1敗、不昇級・次点)、第63期A級-三浦(5位、4勝5敗、残留)、深浦(9位、4勝5敗、降級)、第65期A級-三浦(8位、4勝5敗、残留)、深浦(9位、4勝5敗、降級)、第68期A級-三浦(2位、3勝6敗、残留)、深浦(10位、3勝6敗、降級)

※ただし、順位は前年度の成績によって決まるため、見た目では「幸運」でも実力による結果である。

昇段履歴

  • 1987年 6級 - 奨励会入会
  • 1989年 初段
  • 1992年10月1日 四段(第11回三段リーグ戦優勝) - プロ入り
  • 1995年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1996年10月1日 六段(特別昇段・棋聖獲得など抜群の成績)
  • 2000年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 2001年4月1日 八段(順位戦A級昇級)

主な成績

獲得タイトル

登場回数4回 獲得合計1期

一般棋戦優勝

優勝合計 2回

在籍クラス

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞

  • 第24回(1996年度)殊勲賞
  • 第28回(2000年度)升田幸三賞(ミレニアム囲いで高い勝率をあげたことから)

主な著書

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ^ 羽生の全冠独占直後に将棋マガジン日本将棋連盟発行)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川浩司佐藤康光と答えた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。
  2. ^ 千日手が成立すると、先後逆(先手と後手を逆にすること)で指し直しになる。将棋は先手が有利なゲームであると考え、先手番で千日手になることを嫌う棋士が大多数である。
  3. ^ 2000年のNHK杯で三浦七段(当時)の解説をした藤井竜王(当時)の話による。
  4. ^ 2001年5月号のNHK将棋講座テキストのインタビュー記事に記載。
  5. ^ 米長邦雄永世棋聖の話による。[要出典]
  6. ^ 先崎学著「世界は右に回る」による。
  7. ^ 2008年8月16日掲載の朝日新聞の観戦記による。
  8. ^ NHK杯の放送で解説をした佐藤康光による。毒物の混入もしくは、間違えて飲まれるのを防ぐためと推測していた。