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横尾忠則

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横尾忠則
誕生日 (1936-06-27) 1936年6月27日(88歳)
国籍 日本の旗 日本
ウェブサイト www.tadanoriyokoo.com
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横尾が生まれ育った西脇の町
横尾の原点といわれる椿坂の字路(暗夜光路N市-1)。かつてこの建物は模型店であった。

横尾 忠則(よこお ただのり、1936年6月27日 - )は、日本美術家グラフィックデザイナー兵庫県西脇市生まれ。西脇市名誉市民。 実弟の成瀬政博画家でイラストレーターで、1997年より「週刊新潮」の表紙絵を担当。長女の横尾美美も美術家[1]

幼少期に西脇でさまざまな超常現象を経験。の世界に憧れを抱く[2]神戸新聞社にてグラフィックデザイナーとして活動後、独立。1980年7月ニューヨーク近代美術館にて開催されたピカソ展に衝撃を受け、その後、画家宣言。以来、美術家としてさまざまな作品制作に携わる。三島由紀夫に出会い三島の「聖俗一体」的言動に触発される。三島の死をきっかけにその後の15年間をオカルティズム神秘主義まで包括した精神世界に傾斜してゆくが、それらが大いなる錯覚だったと気づき「私」の探求の延長線上で絵画に出会う。精神世界と絵画は全く別の存在だと考えていたが、後にこの両者が自分すら知らない深いところで結びついていると感じるに至る[2]向田邦子脚本によるテレビドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年TBS)では、倉田という謎の多い人物を演じた。

経歴

横尾が生まれ育った西脇市中心部と童子山(中央の森)の180°展望(生活文化総合センター 屋上より)
ファイル:NishiwakiES.jpg
西脇国民学校(現・西脇市立西脇小学校
暗夜光路N市-Ⅴに描かれたY字路
横尾の作品展示と保存を目的する岡之山美術館(西脇市、1984年開館)
2013年7月開館の 豊島横尾館

幼少期

2-3歳ころに、成瀬家から呉服商をしていた横尾家へ養子に行く。父(養父)は店を構えていたわけではなく、自転車の荷台に着物反物を積み、料亭などに売り歩いていた。小学校に上がる前まで横尾は父のこの営業によく同行した。『想い出と現実の一致』は、この際の記憶を作品にしたものである。横尾が幼少期を過ごした西脇は綿織物(播州織)を特産としていたため、織物や反物は身近な存在であった。横尾のデザインや絵画の原典のひとつには、播州織の影響が指摘される[3]

母の背で意識した死

  • 2歳のある日、多可郡西脇町(現・西脇市)のはずれにあった実家の近くの橋が台風による氾濫で流され仮設のが架けられた。小さな板が打ち付けられているばかりの浮き橋で、自転車を押しながら安全を確認しながら進む後を母に背負われた横尾は河原から不安な気持ちで見つめていた。母の背中の温もりを通し、両親の心がそのまま大きなになって伝わるのを感じる。しかし、同時にの観念に襲われる。この親子の関係がいつまでも続くはずがないという感覚だった。横尾は両親が50代になってもらわれてきた養子であったため、横尾の眼には2人ともひどく年寄りに見えた。このため、両親と自分の関係が長く続かないのではという漠然とした恐れがあった。また、川の氾濫によって田畑が流され滅びるという自然のもたらしたカタストロフィー(この場合、大災害の意)の匂いの中で破滅的な終末の兆しを感じとった。これが記憶に残るこの世で最初に見た光景である[2]
  • 3、4歳の頃、「自分はどこから来た人間なのだろう」としきりに考えるようになる。年老いた両親は果たして本当の親なのだろうか、と考えるが怖くて聞けなかった。母は、この横尾の不安に感づいたのかある日、試すような言い方で「ターちゃんは、橋の下でひろってきたんやで」と横尾の耳元でささやいた。横尾の耳の中でその言葉は何度も繰り返され、やがて棲みつくようになる。時空を超えたはるか遠い昔の出来事のように思えたが、誰かに捨てられたことに対しての悲しさはなく、甘酸っぱいロマンティック物語主人公になったような感覚があった。横尾には捨てられた場所は分かっていた。洪水で流され橋のずっと上流の橋の下だった。その橋は洪水で流され、原型をとどめていなくても間違いなくそこだという感覚があった。その後、横尾は両親と渡った橋と捨てられた橋の夢を何度も見るが、橋はいつも途中で途切れており、そこから先は細くて薄い板が1枚延びているだけだった。ただ、その先は別の世界につながっているという感覚だけがあった。それが後々まで映像として横尾の脳裏に残った[2]

死は終わりではない

  • 自分の故郷はもう一つ別のところにあって、懐かしい故郷からやってきて今ここにいるが、いつの日にか再びその故郷に戻るのではないかという漠然とした予感を抱くようになる。物思いにふけることが好きで、外に飛び出し流れ星を待つと、いつもそれはすぐにやってきた。流れ星は懐かしい故郷の記憶を運んでくるように思え、この予感は毎日のように繰り返され、記憶の中で強まっていく。母に家の近くの坂上の地蔵堂によく連れていかれたが、母は涎掛けを縫っては地蔵に掛けるのだった。横尾の記憶の中でその地蔵は自分自身になっていた。石になって動かない僕の遺骸に母は弔いの気持ちを込めて涎掛けを賭け続けるのだ。あるいは、僕は赤子で生命力にはあふれているが無力なので、ひたすら母は愛情を授けているのかもしれない、と横尾は感じていた。地蔵は生と死を兼ね備えると同時にはるか遠くの昔の世界につながっていく[2]

ガタロウと白昼夢

  • 子供の頃、大阪河内に住んでいた父は、横尾に沼でガタロウ河童)に引き込まれて死にそうになった話をよくした。泳ぎがさして上手でない父はその沼を犬掻きで泳いでいたところ、いきなり強烈な勢いでを引っ張られ水中に没した。もがきながら暗い水中で目を開けると緑色のガタロウがいた。横尾はその話しを何度も思い出すのだが、その沼がなぜか横尾自身が通っていた小学校の裏にある鬱蒼たる樹木に囲まれた小さな池になってしまう。父の話を思い出しながら変だなとふと顔を起こすと、父は横尾が捨てられた橋の下のごつごつした岩の上に座り、ガタロウの話をしている。そのうちに、父がいつの間にか実父に変っており、実父が釣りをしている風景が見える。横尾は、これは白昼夢なのだと気付いた[2]

賽の河原と閻魔大王

  • 子供の頃、怖かった話に賽の河原の物語と閻魔大王がある。横尾はこれらの話を聞いて死後の世界の存在を信じるようになる。閻魔大王を本気で怖れ、そのためか20歳で結婚するまで童貞であった。ただし成人後は閻魔大王と眼も合わせられないようなことを多くしたため、ある程度の覚悟をし、その時の恐れを少しでも緩和するために、ときどき人生を振り返りつつ反省することとなる[2]

休養宣言

ピラミッドパワーを体感できる岡之山美術館・瞑想室。
  • 1970年1月タクシー乗車中の交通事故で生まれて初めての入院生活を経験。これを機に1-2年間の休業宣言を行う。この間も全作品展の開催やエッセイの連載、写真小説などの新分野への進出を行っており、仕事をやめていたわけではない。横尾の休業宣言は、大阪万博のこの年、「人類の進歩と調和」のスローガンに浮かれていた世間に対する尖鋭的な表現でありえたし、1960年代以降の横尾の反体制的指向を象徴する出来事として受けとめられた。しかし9月には原因不明の足の痛みによって2度目の入院を余儀なくされ、ほとんど歩行不可となってしまう。深刻な病状に高倉健浅丘ルリ子らも見舞いに訪れる。そんな中にあって、三島由紀夫だけが横尾に対し仕事をするように激しく叱咤激励した。三島が横尾に何としても仕上げさせたかったのが、細江英公の三島の写真集『新輯薔薇刑』の装幀(90頁)であり、篠山紀信撮影による写真集『男の死』の撮影であった。三島は自分の撮影を終えており、しきりに横尾に催促した。同年の後の三島の自決によって、横尾は大きな衝撃を受けその後も横尾の心を捉え続けることになる。三島の姿やイメージはのちの横尾の作品中にいく度となく登場する。写真集『男の死』は、その後封印されたままとなった[3]

画家宣言

ニューヨーク近代美術館での「ピカソ展」は横尾をグラフィックデザイナーから画家へと大きく転身させる。

転身のきっかけはニューヨーク近代美術館での「ピカソ展」であった。横尾自身、旅行前までまったく考えなかったことだが、美術館の入り口をくぐる際にはグラフィックデザイナーであった横尾は2時間後の出口に立った時には、「まるで豚がハムの加工商品になって工場の出口から出てくるように僕は『画家』になっていた」(横尾自身の言葉)のである。画家宣言がいつどこで行われたかは不明だが、1981年の個展を記事にしたマスコミによって「死亡宣言」や「休業宣言」に続く事件として扱われたようだ。身動きも取れないほどの混雑したピカソ展で遅々として進みながら横尾の中では、ピカソの芸術と人生に吸収されるように意識の統合が起こり始め、自己の想いや感情に忠実に従う無垢さと正直さに自分自身の欺瞞性。あるいは心のガードの固さをいやというほど見せつけられるとともに言いようのない解放感に恍惚としたという。難波英夫は、横尾はあの日の「ピカソ展」にインスパイアされ、自分の本能に目覚めたと述べている[3]。  

作家論・業績

横尾忠則デザインの加古川線のラッピングカー
住吉屋(西脇銘菓へそ最中) - 包装紙が横尾忠則デザインによる。1999年12月6日横尾が来店し、「包装紙48年間使っていただいて感謝」の色紙を残す。その後も何度か訪問している。
横尾の個人美術館である横尾忠則現代美術館(神戸市、2012年開館)

幅広い作風でジャンルを超えて活動。油絵、オフセット印刷、テクナメーションや立体など技法は多様である。また先行する作品を引用や模写の形で作品に取り入れることも多い。絵を描くことを愛だと表現し、理論や状況分析によって制作する立場はとらない。また、興味をもった対象は膨大な量をコレクションする。それは作品のモチーフになり、時に引用される。1980年代後半からを描き続けたときは膨大な滝のポストカードを収集し、コレクション自体も作品化した。2000年からの「暗夜光路」シリーズでは、故郷・西脇市で幼少時によく通った模型店付近にあるY字路を集中して描いた。

何度もインドを訪れている。宇宙人的な存在についての言及もあり作品の評価の際にも関連が指摘される。本人も霊感が強く、心霊と会話することが出来ると言う。きっかけは1970年代に宇宙人に、首のところへ送受信装置を埋め込まれ、それにより霊界との交信が可能になったという(『大霊界~丹波哲郎の世界』の対談より)。それらに関するいくつかの著書も出している。

メディア型美術家と評されるほど、各種メディアへの登場頻度が高い。自身の公式サイトにて発表している、ひと言風の日記「YOKOO'S VISION(横尾忠則 昨夜・今日・明日)」は更新頻度も高く、訪問数も高い。

週刊少年マガジン』の表紙や、マイルス・デイビスのアルバム『アガルタ』、サンタナのアルバム『ロータスの伝説』『アミーゴ』などのジャケット、1979年貴乃花・1981年千代の富士貢の化粧廻し、宝塚歌劇団のポスター、マツダ・コスモスポーツの海外向けカタログなどもデザインしている。

また、多くの異なるジャンルの作家と交流を持ち、共同で仕事をしている。岡本太郎谷内六郎高倉健三島由紀夫らを敬愛している。

2005年資生堂が3月に発売した発毛促進剤「薬用アデノゲン」のテレビコマーシャルに対し、「アイデアやコンセプトが私の作品と類似している。広告の作り手の主体性とモラルを問いたい」と抗議。直後に資生堂はCMの放映をやめた。類似していると指摘した横尾自身の作品とは、鏡面床の空間に大量のポストカードをビニールに差込み、壁面3面に展示するものであった。この件に関して、

  1. アンディ・ウォーホル荒木経惟など、数多くの芸術家が実践してきた手法であり、インスタレーションの手法としては一般的である。
  2. 1990年の「GOKAN」というエキジビションで、テレビCMを手がけたタナカノリユキは、底を鏡面にした作品をすでに発表している。
  3. 横尾は滝のポストカードだったのに対して、CMは商品対象になる人物たちのモノクロ顔写真である。

などのことから、模倣という指摘に疑問をもつ声も挙がっている。また、タナカノリユキは模倣を否定している。

三宅一生との関係

三宅一生との出会いは1975年の篠山紀信の写真展「家」の会場だった。パリ・コレクションの出品作に横尾のポスターをプリントするという着想を得た三宅が「家」のオープニング会場で横尾を待ち伏せし、使用許可を申し出、横尾はこれを受け入れた。横尾は特にイタリアコモで行われる布帛抜染というプリントの技法に興味を示した。後に横尾は「生地って歪むんだね」と真顔でつぶやき服飾関係者の爆笑を買う。が、後に三宅にとってこの言葉は次第に重みを増してくる。歪むことでの可能性を美術の制度的規範で束縛された美の空間的概念とは異なる創造的ヒントを横尾は直感した。一方、三宅は横尾作品のプリント生地を制作したものの、その布地を裁断できなくなってしまう。ここから三宅は新たなるファッションのコンセプトを開拓してゆく。さらに、横尾が描いたポスターがをプリントした1枚の布を三宅が仕立てた服をモデルが着こなすという重層的な段階を経て絵(服)は一瞬たりとも同じであることはできない歪みの源泉となった。ここに歪みの美しさと創造性が新たに示されることとなる[9]

ラッピング電車 [10]

2004年12月から2012年11月まで、加古川から丹波市谷川に至り途中西脇を通過するJR加古川線では、横尾の絵で車体を包み込むラッピング電車が公開された。主題は5種類あり、複数のバリエーションも存在した。「ターザン」と「三島由紀夫」をモチーフにしたものもあったが、車体化は実現しなかった。

  • 第1の主題 - 「見る見る速い」
鮮やかな色彩の正方形の組み合わせの下地に無数のが浮かび上がる図柄。電車の模様は見る人の目を楽しませるものだという常識に反抗し、人間が電車から見られる。妖怪「百目」や「目目蓮」にも似たものであった。
  • 第2の主題 - 「銀河の旅」
円形に輝く多くの星の光がモチーフになっており、輝きの内部にさらに無数の輝きがあり多元的宇宙構造を描き出している。
  • 第3の主題 - 「滝の音、電車の音」
5つの主題の中では最も自由で大胆なデザイン。横尾が偏愛するの風景と電車の音の照応が斬新な効果を生む。
  • 第4の主題 - 「走れ!Y字路」
暗い色調のY字路の絵柄は、田園地帯の明るい直線の多い加古川線では激しいコントラストを生み、遠くから眺めると蒸気機関車の疾走にも見える。
  • 第5の主題 - 「ターザン」
横尾が得意とするポップアート的作風で、咆哮する野生児的な美青年が、サイズや色を変え反復される。バリエーションに散水用のホースを咥えた『薔薇刑』の三島由紀夫の図柄もある。「ターザン」は実際に車両として走ることはなかった。

語録・発言

  • 人間肉体を持ってこの世に生まれてくる意味と目的は、解脱のチャンスが与えられているということを認識させるためかもしれない。でなければ霊界に行ってもすぐにこちらに戻されて、何度でも寸善尺魔の現界での人生を経験させられることになる[2]
  • 死後の世界を怖れながらビクビク生きるほど情けない生き方はないが、あちらの世界が本体であることが分かれば、生き方も変わる[2]
  • 人類が死後の世界の存在を認めた時に人類の意識は飛躍的に進化するだろう[2]

主な作品

横尾が描いたY字路『暗夜光路N市-Ⅱ』(西脇市・日の出精肉店北)[11]

  唐十郎の状況劇場のために制作。世界のポスター展「World & Image」で60年代を代表する作品に選出。

岡之山美術館

著作

  • 『横尾忠則遺作集』粟津潔編、学芸書林、1968
  • 『一米七〇糎のブルース 横尾忠則日記』新書館 1969 のち角川文庫
  • 『未完への脱走』講談社 1970 のち文庫
  • 『現代版画 横尾忠則集』筑摩書房 1971
  • 『横尾忠則全集』講談社、1971
  • 『PUSH』講談社 1972
  • 『暗中模索中』河出書房新社 1973
  • 『なぜぼくはここにいるのか』講談社 1976 のち文庫
  • 『超私的横尾忠則マガジン』平凡社
  • 『インドへ』文藝春秋、1977 のちに文庫
  • 『方舟から一羽の鳩が』講談社 1977
  • 『我が坐禅修行記』講談社 1978 のち文庫、「坐禅は心の安楽死 ぼくの坐禅修行記」平凡社ライブラリー
  • 『彼岸に往ける者よ』文藝春秋 1978 「地球の果てまでつれてって」文庫
  • 『私の夢日記』角川書店 1979 のち文庫
  • 『アクエリアス時代の子 音楽的制覇』深夜叢書社 1979
  • 『UFO革命』晶文社 1979 「私と直観と宇宙人」文春文庫
  • 『昨日のぼく今日のぼく』講談社 1980
  • 『宇宙瞑想 対話集』平河出版社 1980 「今、生きる秘訣」光文社文庫
  • 『8時起床、晴。 今日はいいことがありそうだ』佼成出版社 1980
  • 『創作の源泉』現代研究会 1980
  • 『魔術師』PARCO出版局 1985
  • 『横尾忠則の画家の日記 1980-1987』アートダイジェスト 1987 「いわゆる画家宣言」「365日の自画像」ちくま文庫
  • 『横尾忠則の版画』講談社 1990
  • 『竜の器』PARCO出版局 1990
  • 『源氏絵語』飛鳥新社、1991
  • 『芸術は恋愛だ』PHP研究所 1992 「ぼくは閃きを味方に生きてきた」光文社文庫
  • 『導かれて、旅』JTB日本交通公社出版事業局 1992 のち文春文庫
  • 『見えるものと観えないもの 横尾忠則対話録』筑摩書房 1992 のち文庫
  • 『うろつき夜太 絵草紙』集英社文庫 1992
  • 『ARTのパワースポット』筑摩書房 1993 のち文庫
  • 『横尾少年 横尾忠則昭和少年時代』角川書店 1994
  • 『天と地は相似形』日本放送出版協会 1994
  • 『電脳カーニバル』平凡社 1994
  • 『横尾忠則日記人生 1982~1995』マドラ出版 1995
  • 『三日月旅行』翔泳社 1995
  • 『横尾忠則自伝 「私」という物語 1960~1984』文藝春秋 1995
    • 『波乱へ!! 横尾忠則自伝』文春文庫 1998/『ぼくなりの遊び方、行き方 横尾忠則自伝』ちくま文庫 2015
  • 『滝狂 横尾忠則collection中毒』新潮社 1996
  • 『横尾忠則全絵画』平凡社 1996
  • 『家族狂 横尾忠則collection中毒』新潮社 1996
  • 『名画感応術 神の贈り物を歓ぶ』光文社文庫 1997
  • 『東京見おさめレクイエム』朝日新聞社 1997 のち光文社知恵の森文庫
  • 『夢枕 夢絵日記』日本放送出版協会 1998
  • 『死の向こうへ』PHP研究所 1998
  • 『涅槃境』新潮社 1998
  • 『大有』作品社 1998
  • 『異路倫』作品社 1998
  • 『横尾忠則の仕事と周辺 ニューヨーク→チェコ駆け足旅行記』六耀社 1999
  • 『晴のち晴』小学館、2000
  • 『コブナ少年―十代の物語―』文藝春秋、2001 のち文春文庫
  • 『名画裸婦感応術』光文社知恵の森文庫 2001
  • 『芸術ウソつかない 横尾忠則対談集』平凡社 2001 のちちくま文庫
  • 『赤の魔笛』朝日新聞社 2001
  • 『横尾流現代美術 私の謎を解き明かす』平凡社新書 2002
  • 『捨てるvs拾う―私の肯定条件と否定的条件―』日本放送出版協会、2003
  • 『Y字路』東方出版 2006
  • 『病の神様 横尾忠則の超・病気克服術』文藝春秋 2006
  • 『悩みも迷いも若者の特技だと思えば気にすることないですよ。皆そうして大人になっていくわけだから。ぼくなんかも悩みと迷いの天才だったですよ。悩みも迷いもないところには進歩もないと思って好きな仕事なら何でもいい。見つけてやって下さい。』勉誠出版 2007
    • ※2012年現在、日本語で書かれた最もタイトルの長い本
  • 『ぶるうらんど』文藝春秋、2008 のち中公文庫 
  • 『人工庭園』文藝春秋、2008
  • 『温泉主義』新潮社、2008
  • 『隠居宣言』平凡社新書、2008
  • 『未完の横尾忠則 君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの』美術出版社 2009
  • 『東京Y字路』写真 国書刊行会 2009
  • 『ポルト・リガトの館』文藝春秋、2010
  • 『猫背の目線』日経プレミアシリーズ 2010
  • 『ツイッター、その雑念のゴミばこ』角川書店 2011
  • 『日本の作家222』日本経済新聞出版社 2013
  • 『絵画の向こう側・ぼくの内側-未完への旅』岩波書店〈岩波現代全書〉、2014
  • 『横尾忠則の地底旅行』国書刊行会、2014
  • 『横尾忠則全Y字路』岩波書店、2015
  • 『言葉を離れる』青土社、2015
  • 『横尾忠則 千夜一夜日記』日本経済新聞出版社、2016
  • 『死なないつもり』ポプラ新書、2016
    • 他にも多数刊行

共著編

個人美術館

出演作品

映画

テレビドラマ

CM・広告

その他

  • 五木寛之生と死の対論第2回」(NHK教育テレビ 1994年10月4日)
  • 「プレミアム8 人生は大冒険」(NHK BSハイビジョン 2009年10月) ほか

関連項目・人物

出典

外部リンク