セバスチャン・ベッテル
セバスチャン・ベッテル | |
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ベッテル (2015年マレーシアGP) | |
基本情報 | |
略称表記 | VET |
国籍 | ドイツ |
出身地 |
西ドイツ 同・ヘッセン州ヘッペンハイム |
生年月日 | 1987年7月3日(36歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 2007- |
過去の所属チーム |
'07 BMWザウバー '07-'08 トロ・ロッソ '09-'14 レッドブル |
所属チーム | フェラーリ '15- |
車番 | 5 |
出走回数 | 160 (159スタート) |
タイトル | 4 (2010,2011,2012,2013) |
優勝回数 | 42 |
表彰台(3位以内)回数 | 80 |
通算獲得ポイント | 1,911 |
ポールポジション | 46 |
ファステストラップ | 25 |
初戦 | 2007年アメリカGP |
初勝利 | 2008年イタリアGP |
(記録は2016年第2戦バーレーンGP終了時) |
セバスチャン・ベッテル(Sebastian Vettel, 1987年7月3日 - )は、西ドイツ・ヘッペンハイム出身のレーシングドライバー。2010年、2011年、2012年、2013年のF1ワールドチャンピオン。
史上最年少ワールドチャンピオン・史上最年少優勝をはじめ、F1において数々の最年少記録を樹立した。
ドイツ語では「ゼバスティアン・フェッテル(フェテル)」と言う発音が近いが、本項目では、英語での読み方で日本でのF1中継で使用されている「セバスチャン・ベッテル」で統一する。
初期の経歴
1995年にカートを始め、2002年までにドイツ・ジュニアカート選手権(2001年・2002年)、ヨーロッパICAジュニア選手権(2001年)などでチャンピオンタイトルを獲得した。1998年よりオーストリアの飲料メーカーレッドブルの支援をうけ、育成プログラム(ジュニアチーム)の一員として成長していくことになる。
2003年にはドイツフォーミュラ・BMW選手権に、「ADAC ベルリン・ブランデンブルク」チームから参戦し、初年度は19戦中5勝でランキング2位。2年目となる2004年には20戦中18勝、ポールポジション14回、ファステストラップ13回、全戦表彰台という圧倒的な成績でチャンピオンとなった。
2005年にはF3ユーロシリーズに「ASL ミュッケ・モータースポーツ」チームから参戦し、総合ランキングで5位。ルーキーの中ではトップという上々の成績で終えたものの、この年の選手権はルイス・ハミルトンに完全に支配されたものであり、未勝利に終わった。 前年のフォーミュラ・BMWでの活躍により、9月27日にはF1のウィリアムズをテストする機会を与えられ、同チームのFW27をドライブした。その後BMWザウバーのテストにも参加している。
2006年も引き続きF3ユーロシリーズに参戦したが、7月半ばにイタリアのミサノで開催されたワールドシリーズ・バイ・ルノーに「カーリン・モータースポーツ」チームからスポット参戦し、開催された2レースともに優勝を飾った。第1レースでは首位と2位でゴールした選手にペナルティが課されたため、3位でチェッカーを受けたベッテルが繰り上がり優勝となった。第2レースはポール・トゥ・ウィンを飾っている[1]。
スパ・フランコルシャンで開催された次戦、雨の中行われた第1レースにおいて、オー・ルージュの頂上付近でクラッシュを喫し、その際に指の骨に達するほどの切傷を負った。幸い切断にはいたらなかったが、数週間はレースに出られなくなるものと思われる重傷であった。しかし、この負傷にも関わらず、翌週にはマスターズF3に出走し6位を記録している。
8月、BMWザウバーはサードドライバーのロバート・クビサをレギュラードライバーに昇格させたため、代わりのサードドライバー兼テストドライバーを探していた。BMWザウバーは当初よりベッテルを候補としていたが、ベッテルがレッドブルの契約ドライバーだったという事情もあり、BMWザウバーとレッドブルの間で交渉の結果、ベッテルはレッドブルからBMWザウバーへ2年契約で貸し出されることとなった[2]。 ベッテルは同チームのサードドライバーとして8月末の第14戦トルコGPから最終戦ブラジルGPまでの5戦で帯同し、金曜日のフリー走行に出走した。初走行となったトルコGPの金曜フリー走行でトップタイムを記録し注目を集めた[3]。
F3ユーロシリーズでは20戦中4勝をあげてランキング2位。ワールドシリーズ・バイ・ルノーでは3レースのみの参戦ながらランキング15位。同年にカーリン・モータースポーツから参戦した4人のドライバーの中では唯一優勝を記録した。
2007年は引き続きBMWザウバーのテストドライバーを務めるとともに、ワールドシリーズ・バイ・ルノーにシーズン途中まで参戦した。
F1
BMWザウバー時代
2007年
2007年、第6戦カナダGPで大クラッシュしたロバート・クビサが、FIA医師団の判断により第7戦アメリカGPを欠場したため、代役として急遽F1に参戦することとなった。この19歳349日で参加したレースで8位に入賞し、ジェンソン・バトンの20歳67日を更新し、当時のF1史上最年少入賞記録を樹立した(2014年にダニール・クビアトがさらに最年少入賞記録を更新)。
トロ・ロッソ時代
2007年
第8戦フランスGP以降はロバート・クビサが復帰したため出走できなかったが、デビュー戦での活躍が認められ、第11戦ハンガリーGPからスコット・スピードに代わり、トロ・ロッソのレギュラードライバーとして参戦することになった。トロ・ロッソ STR2は決して戦闘力の高いマシンではなかったが、富士スピードウェイで開催された第15戦日本GPの雨の予選では、マシン性能を考慮すると驚異的な9番グリッドを獲得し、さらに同じく雨の決勝では一時3位を走行するなど、その才能の片鱗を見せた。また、このレースでは3周にわたりラップリーダーを記録し、これは2003年第2戦マレーシアGPでのフェルナンド・アロンソの記録を更新する最年少ラップリーダー記録である。しかし、45周目に走行が困難なほどの豪雨の中で、セーフティカー先導中に前を走るマーク・ウェバーに追突してしまい、ウェバーとともにリタイアに終わった。日本GPと同じくウェットレースとなった次戦の第16戦中国GPでは前戦の汚名を返上する快走を見せ、自身とチームにとって最高位である4位を獲得した。
2008年
2008年もトロ・ロッソから参戦。序盤は他車との接触などが目立ち、開幕戦オーストラリアGPから4戦連続リタイアと苦戦が続いたが、新車STR3が投入された雨の第6戦モナコGPでは5位入賞を果たした。その後の第9戦イギリスGPで、この年初めて予選Q3に進出して8位グリッドを獲得すると、これ以降の10戦中9戦で予選トップ10に入る活躍を見せた。
特筆すべきは、予選・決勝ともに大雨となった第14戦イタリアGPで、自身及びチームにとって初のポールポジションを獲得。決勝レースでも2位以下が雨により混戦を繰り広げる中、安定したドライビングで首位を堅持し、ポール・トゥ・ウィンで自身初優勝を果たすとともに、トロ・ロッソに初優勝をもたらした。このレースでは、21歳72日でF1史上最年少ポールポジション、21歳73日で最年少優勝・最年少表彰台・最年少ポール・トゥ・ウィンを記録した。さらに「初表彰台が初優勝」となるのは1979年第8戦フランスGPでのジャン=ピエール・ジャブイーユ以来であり、記録づくめの歴史的な勝利となった。
レッドブル時代
2009年
この年からレッドブルへ移籍。チームメイトはマーク・ウェバー。
開幕戦オーストラリアGPでは予選3位を獲得。決勝では2位を走行していたが、終盤にオーバーテイクを仕掛けてきたロバート・クビサと接触し、そのダメージから直後にクラッシュを喫しマシンを大破。完走扱いで13位に終わった。この接触の責任を問われ、次戦10グリッド降格ペナルティが科せられた上に、損壊したマシンで走行を続けたことが危険走行とみなされ罰金も科せられた。第2戦マレーシアGPでは大雨の中、レース終盤でスピンを喫してエンジンストールを起こし、マシンを止めて完走扱いで15位に終わった。
開幕から2戦連続で自身のミスにより無得点と苦戦が続いていたが、第3戦中国GPでは、前年のイタリアGP以来となる自身2度目のポールトゥウィンを再び雨のレースで達成すると共に、レッドブルに初勝利をもたらした。
第7戦トルコGPではポールポジションを獲得。決勝では1周目にコースオフしてジェンソン・バトンに抜かれたため作戦を変更したが、これが裏目に出て3位でレースを終えた。第8戦イギリスGPでは予選Q3に進出した車の中で最も重い燃料を搭載しながらも、2戦連続となるポールポジションを奪取。決勝では2位以下につけ入る隙を与えずに完勝。自身初のファステストラップも記録し、史上最年少(21歳353日)でハットトリックを達成した。
第15戦日本GPでは、土曜日に赤旗3回と荒れた予選の中、完璧な走りでポールポジションを獲得。決勝ではレースの終盤にセーフティカーが入ったが、順位を下げることなく終始安定した走りで今季3度目となるポール・トゥ・ウィンをあげた。最終戦アブダビGPでは序盤にルイス・ハミルトンからトップを奪い、そのまま独走して最終戦をファステストラップと勝利で締めくくった。
最終的にこの年は、4勝・4PP・3FLの活躍を見せ、ランキング2位でシーズンを終えた。
2010年
2010年に投入されたRB6は競争力が非常に高く、シーズン開幕から2戦連続、第4戦中国GPでもポールポジションを獲得した。しかし決勝では結果につなげられず、いずれも表彰台すら逃すこととなった。第3戦マレーシアGPでは予選3番手からシーズン初優勝をあげた。
第7戦トルコGPでは2位走行中に、首位を走るチームメイトのウェバーを追い抜く際に接触。自身はリタイア、ウェバーも順位を落とし、タイトルを争うマクラーレンが1-2フィニッシュという結果となった。第9戦ヨーロッパGPでは中国GP以来となるポールポジションを獲得、決勝もSC解除直後に最終コーナーで膨らんだ以外は危なげのない走りで2勝目を飾った。第10戦イギリスGPではポールポジションを獲得したが、スタート直後にウェバーを押さえ込もうとしてコースアウト、さらにハミルトンとの接触により右リアタイヤをパンク、優勝争いから脱落した。第11戦ドイツGPでは復調してきたフェラーリのフェルナンド・アロンソと予選での激しい争いに僅差で競り勝ちポールポジションを獲得。しかし決勝ではスタートで出遅れて後続を押さえ込もうとしたがアロンソに先行を許し、予選3番手のフェリペ・マッサが首位に浮上。フェラーリ勢2台に先行を許し、3位でレースを終えた。第12戦ハンガリーGP予選ではから4戦連続となるPPを獲得。決勝レース序盤では安定した走りを見せていたが「SC出動中に前のマシンから10車身以上空けてはならない」というレギュレーションに違反したことでドライブスルーペナルティを受け、2戦連続で3位に終わった。第13戦ベルギーGPでは予選4番手から決勝でバトンと2位争いを繰り広げるも、16周目にマシンコントロールを失いバトンと接触、バトンをリタイアに追い込む結果となり2戦連続でドライブスルーペナルティを受けた。その後26周目にも同じ箇所でリウッツィと接触し左リアタイヤをバースト、無得点でレースを終えた。
第15戦シンガポールGPでは2位。大雨で予選が日曜に順延になった第16戦日本GPでは、2年連続のポールトゥウィンを飾った。第17戦韓国GPも雨のレースとなり、PPから首位を快走していたが46周目にエンジンブローでリタイア。残り2戦でランキングトップのアロンソに25ポイント差をつけられる結果となった。第18戦ブラジルGPと最終戦アブダビGPで2連勝。アロンソはアブダビGPで7位に終わり、ベッテルは最終戦でシーズン初めてポイントランキング首位に立つと同時に、自身初のワールドチャンピオンに輝いた。ルイス・ハミルトンが保持していた史上最年少ワールドチャンピオン記録「23歳300日」を、「23歳134日」に更新した。
2011年
レッドブルはベッテルとの契約を2014年まで延長したことを発表[4]。開幕戦オーストラリアGPではポールポジションから優勝し、続くマレーシアGPでも同じくポールトゥウィンを記録した。中国GPでもポールポジションを記録したが、タイヤ戦略の違いでハミルトンに競り負け2位となった[5]。第4戦トルコGPではフリー走行1回目でクラッシュしたものの[6]、ポールポジション連続4戦記録し優勝。第5戦スペインGPで今期初めてフロントローに沈んだが、決勝では2位からピットストップでアロンソの前に出て首位に立ち、終盤ハミルトンに真後ろに迫られたが、そのままポジションを守り優勝した。第6戦モナコGPで2回のセーフティカー導入と1回の赤旗中断があったがポールトゥウィン。第7戦カナダGPもセーフティーカーが5回の出動や、豪雨により2時間のレース中断などの混乱があったにもかかわらず、ファイナルラップまで首位を守っていた。しかし、ファイナルラップのターン7でハーフスピンし、最後尾から追い上げて真後ろにつけていたバトンに抜かれ、2位となった。
ヨーロッパに再び戻り、第8戦ヨーロッパGPでは予選と決勝との間でエンジンの設定を変更することが禁止されたが[7]、再びポールトゥウィン。第9戦イギリスGPでブロウンディフューザーのレギュレーション変更が行われたが[8]、ポールポジションからスタート。2回目のタイヤ交換で左リアの装着に時間がかかり、一旦首位から3位に落ち、終盤はチームオーダーを無視したウェバーに追い上げられたが[9]、1位アロンソに続く2位となった。第10戦ドイツGPでは予選3位からスタートしたが、序盤は真後ろにいたアロンソと抜きつ抜かれるのバトルをした後、9周目のターン10でコースアウトし、中盤は一時5位まで落ちたが、4位となった。ウエットとドライが入り混じる第11戦ハンガリーGPではポールポジションからスタートした。ハミルトン、バトンに抜かれ2回目のピットストップで一時4位に落ちたが、アロンソを抜き3位に戻ったあとに小雨が降り出し首位のハミルトンがスピン。ベッテルは小雨の中をドライタイヤでコースに残り、1位バトンに続く2位となった。
3週間の夏休みを間に挟み、第11戦ベルギーGPではポールポジションからスタート。ニコ・ロズベルグに一旦抜かれるも、抜き返し首位をキープ。ハミルトンと小林可夢偉の接触によるセーフティカー出動時に、タイヤ交換に入りポジションを3位まで落した。レース再開後にウェバー、アロンソを抜き、首位に戻りそのまま優勝した。第15戦日本GPでは3位に終わるも、4戦を残して2年連続のワールドチャンピオンを決めた。第16戦韓国GPでは予選でハミルトンにポールポジションを譲ったが、一周目で首位に立ち優勝。韓国インターナショナルサーキットのコースレコードを更新した。初開催となる第17戦インドGPではポールポジション、ファステストラップ、優勝のハットトリックに加えて全集回1位で自身初のグランドスラムを達成した。第18戦アブダビGPではナイジェル・マンセルに並ぶ14回目のポールポジションを獲得したが、スタート直後にタイヤがバースト、ピットでサスペンションが破損していることが確認されそのままシーズン初のリタイアとなった。そして最終戦ブラジルGPで年間最多記録を更新する15回目のポールポジションを獲得した。しかしギアボックスにトラブルが発生、ショートシフト[10]を余儀なくされつつ序盤で稼いだリードを守ろうとするも、30周目でウェバーに抜かれ2番手に落ち2位フィニッシュとなった。この年のベッテルは優勝11回、入賞17回、2位に120以上の差をつける392ポイントを獲得するなど圧倒的な速さを見せた。
2012年
2012年も前年に引き続きウェバーとのコンビとなった。開幕戦のオーストラリアGPでは予選6位から2位表彰台を獲得するも、第2戦のマレーシアGPでは決勝でHRTのナレイン・カーティケヤンと接触をしてしまい11位でレースを終えた。このレースによる接触には賛否両論があるもののベッテルがカーティケヤンに対して酷く侮辱する言葉で罵った事や、さらには中指を立てる映像が車載カメラに映っていたことが発覚するなどで大きな物議を醸した[11][12]。 第3戦中国GPでは予選11位でQ2敗退となった。なお、ベッテルが予選Q3に進出できなかったのは2009年ブラジルGP以来の出来事であった。決勝では2ストップ作戦で果敢に追い上げ5位入賞を果たした。第4戦バーレーンGPでは予選でもPPを獲得し、決勝でもFLを記録しての完全勝利を果たした。
その後も順調にポイントを獲得し第14戦シンガポールGPから第17戦インドGPまで4連勝を達成するなど勢いは衰えず、第18戦アブダビGPはピットレーンスタートで最後尾からのスタートとなったものの、果敢に攻めて3位表彰台、続く第19戦アメリカGPでもポールポジションを獲得。途中でハミルトンにかわされながらも2位表彰台を獲得し、ファステストラップも記録した。しかし、フェルナンド・アロンソが3位に入ったことでタイトル決定は最終戦に持ち越された。しかし、チャンピオンシップ3連覇がかかる最終戦ブラジルGPでは予選は4番手に沈んでしまった。さらに、スタートでタイトル争いのライバルであるフェルナンド・アロンソに先行され、4コーナーでブルーノ・セナと接触し最後尾まで落ちた。しかしダメージはあったものの、天候にも救われ徐々にポジションを巻き返し、最終的にセーフティーカー先導のままレースが終了するという異例の事態の中、6位でチェッカーを受けアロンソとの差を3ポイント差で守りきり、史上最年少でチャンピオンシップ3連覇を成し遂げた。しかし、レース中のオーバーテイクが議論の対象となり、ペナルティー次第ではタイトルを剥奪される可能性もあったが、結局問題なしとの決定が下り、チャンピオンが確定した。また、レース中には同郷の先輩でラストランのミハエル・シューマッハにポジションを譲られる場面あった。
シーズン序盤はブロウンディフューザーの禁止などのレギュレーションの変更の影響もあり、レッドブルもベッテル自身も不調が続いたが、確実にポイントを獲得していった。シーズン後半は徐々に巻き返し、コアンダエキゾーストの導入やダブルDRSの導入を契機として、強さを取り戻し、フェルナンド・アロンソを逆転。最終的に優勝5回、ポールポジション6回、ファステストラップ6回(内ハットトリック2回)を記録し、281ポイントでシーズンを終えた。
2013年
2013年も5年目となるウェバーとのコンビとなった。マレーシアGPの「マルチ21」発言事件を発端としてウェバーとの仲は極めて険悪になってしまい、レッドブルは公式に「チームオーダーを行わない」ことを認めた。また、テストからレッドブル優位という下馬評もあったものの、序盤はピレリタイヤのデグラデーデションに苦しんだ。また、予選ではメルセデス勢に敗れることしばしばあった。しかし、イギリスGPでタイヤバーストが続出し、タイヤを前年の構造に戻すと速さを取り戻し、第11戦ベルギーGPから最終戦ブラジルGPまでのグランプリ9連勝という記録を打ち立てた。さらに、第9戦ドイツGPでは悲願の母国初制覇を果たした。この年はもっともベッテルが「速かった」年という印象を打ち建てたものの、その一方で「ベッテルがあまりにも勝つので視聴率が取れなくなった」という批判が各国のテレビ局から上がっていた。
2014年
セカンドドライバーにトロロッソから昇格したダニエル・リチャルドを起用。しかしルノー製新型パワーユニットに関するトラブルが多発し満足に走れないレースが続き、終盤にはユニットが足りなくなり規定により6機目の使用と引き換えに10グリッドダウンペナルティを受けた。開幕戦オーストラリアGPはQ2敗退、決勝もリタイアに終わったものの、第2戦マレーシアでは3位表彰台に登る。しかし、僚友のリチャルドはこの年第7戦カナダGPで初優勝を含む年間3勝をあげたが、ベッテルは第14戦シンガポールGPの2位が決勝最高位、予選2位3回、オースティンでの3年連続を含むファステストラップ2回でシーズンを終えた。シーズン終盤にはレッドブル離脱とフェラーリとの3年契約を相次いで発表した。
フェラーリ時代
2015年
このシーズンからフェラーリで参戦。チームメイトは2007年チャンピオンのキミ・ライコネン。テストからフェラーリのSF15-Tは好調で、開幕戦オーストラリアGPで3位表彰台を獲得。続く、第2戦マレーシアGPでは予選2位を獲得し、フェラーリとして2年ぶりのフロントローとなった。決勝では、2ストップ作戦を成功させ、自身にとって2013年最終戦以来、フェラーリとしても2年ぶりの優勝を獲得した。また第10戦ハンガリーGPでは、スタートでトップに立つと、第2戦マレーシア以来の優勝を飾り、3度のワールドチャンピオンの座に立ったアイルトン・セナの記録に並んだ。さらに、第13戦シンガポールGPでは、自身約2年ぶり、フェラーリとして約3年ぶりのポールポジションを記録し、決勝でも安定したペースコントロールで、シーズン3勝目を挙げた。その後もロシアGPではデブリ処理のマーシャル[13]とあわや接触という場面にも、冷静に対処して2位表彰台を獲得。終盤戦に一時はランキング2位に浮上したがニコ・ロズベルグが優勝したメキシコGPでのシーズン初リタイアも響き、フェラーリでの最初のシーズンはランキング3位となった。しかし、移籍初年度から3勝を挙げ、メルセデスの一角をあわや崩すのではないかという活躍を見せ、来年への期待を覗かせるシーズンとなった。またシンガポールGPでのポールポジションは、2015年シーズンでメルセデス以外のドライバーが獲得した唯一のポールポジションとなった。
家族と私生活
両親
ベッテルは自動車関連の仕事をしている父ノルベルト (Norbert) と、その妻で専業主婦の母ハイケ (Heike) の間に生まれた。シュテファニー (Stephanie) とメラニー (Melanie) の2人の姉妹と、ファビアン (Fabian) という弟がいる4人兄弟である[14]。幼い頃から車に関わる父を見ており、また、母ハイケが献身的にベッテルのカート練習をサポートしたため、自身の今のキャリアがあると後に語っている。
2006年4月にベッテルは高校を卒業した。ドイツの高校は最後に州統一高校卒業資格試験があり、これに合格できないと卒業ができない。成績は1.0から6.0の間の数字で付けられ、1.0から4.0までが合格(1.0が最高成績)、4.1以下は不合格である。高校卒業資格試験はF3レースの4日前だったが、ベッテルは2.8と言うまずまずの成績を取り、F3でも優勝した。この成績ならどこかの大学に行く事もできたが、ドライバーとしてのキャリアを選び大学には行っていない[15]。
2009年、ベッテルはボーデン湖のほとりに農場を買い、2010年3月にそこに家を建てて引っ越した。ボーデン湖はドイツとスイスとオーストリアの国境にもなっているが、ベッテルの家はスイス側のノイムリ(Neumüli)と言う小さな町にある。ノイムリはケメンタル市の付近であり、ボーデン湖の南西[16]。
配偶者
ベッテルには長年交際している恋人がいるが、公私をはっきりと分けるスタイルを取っており、交際中の恋人をレッドブルのチームに紹介する事はしない。チームも彼のこのポリシーを尊重している。ハンナは非常に穏やかで控えめでな性格と報道されており、マスコミを避け穏やかな生活を望んでいるとの見方が強い。[17]
2006年にベッテルがまだBMWのテストドライバーだった頃、イタリアGPのパドックにハンナ・プラター (Hanna Prater) というガールフレンドを連れて来た事がある。ベッテルとハンナが公の場に現れたのはこの時だけで、それ以来サーキットに応援に来る事はない。しかしレース後のインタビューでベッテルが「いつも応援してくれるハンナとハンナの両親にありがとうと言いたい」とコメントしたり、休暇先でパパラッチに何度か写真を取られている[18]。2012年には2人でFCバルセロナの試合を観戦しているが撮影された[19]。
ハンナはドイツ人の父とイギリス人の母とのハーフで、ベッテルよりも1学年年下。ベッテルと同じくヘッペンハイムの高校で学び、その後ナゴルト市 (Nagold) 内の大学でテキスタイルデザイナーを勉強をし、ベッテルの農場で一緒に暮らしながらファッション業界で働いている。[20]。
2014年1月12日にハンナとの間に長女エミリーが生まれた。[21]2015年にも子供が生まれているが、ベッテル本人は「子供は二人、結婚はしていない、これらはプライベートなことだ」と明言を避けた。
エピソード
- カート時代の恩師ゲルハルト・ノアックは、かつてミハエル・シューマッハを指導した人物でもある[22]。ベッテルは少年時代からシューマッハと面識があり[23]、後継者として「ベイビー・シューミ」と呼ばれたこともある[24]。
- 自分に与えられたF1マシンに女性の名前を付けることで知られている。理由については「マシンと密接な関係になることが重要なんだ。女性に対しては、男になるからね」と答えている[25]。
- Julie(ジュリー) - 2008年に初優勝したトロ・ロッソ STR3。
- Kate(ケイト) - 2009年のレッドブル・RB5。
- Kate's Dirty Sister(ケイトのけがれた妹) - 2009年オーストラリアGPで大破した後に新調したRB5。
- Sexy Sadie(妖艶なセディ) - 2009年ドイツGP以降のRB5。
- Luscious Liz(官能的なリズ) - 2010年のレッドブル・RB6[26][27]。
- Randy Mandy(淫乱なマンディ) - Luscious LizがモナコGPで破損したのちに用意されたRB6。このシャシーでタイトルを獲得した。
- Kinky Kylie(変態カイリー) - 2011年のレッドブル・RB7。
- Abbey(アビィ) - 2012年のRB8。最初の候補は「Everybody's Wife(みんなの奥さん)」だった[28]。
- Hungry Heidi(ハングリー・ハイジ)- 2013年のレッドブル・RB9。
- Suzie(スージー)- 2014年のレッドブル・RB10。
- EVA(イヴ)- 2015年のフェラーリ・SF15-T。
- Margherita(マルゲリータ) -2016年のフェラーリ・SF16-H
- ドライバーのシンボルであるヘルメットのデザインを頻繁に変更する(予選と決勝で変えたこともある)。2010年開幕時はレッドブル・エナジードリンクの缶をモチーフとし、成分表示やプルトップまで描き込んだ[29]。2011年イギリスGPでは世話になっているメカニック達の顔写真をデザインした[30]2015年にヘルメットのデザイン変更が禁止になったことに対し、「罰金を払ってヘルメットのデザインを変更できるなら、喜んで払う」と発言している。
- 多くのドライバーがマネージャーを雇っている中、未だに雇っていない[31]。チームとの契約交渉は自分で行っている。2010年にチャンピオンとなってからもマネージャーを雇う予定はないことも地元ドイツメディアに明かした。
- キミ・ライコネンはベッテルを「F1で一番いいヤツだ。ほかのドライバーとは、ほとんど連絡を取っていない。ベッテルとは、ときどきバドミントンをするんだよ。とにかく彼は、あの中で一番いいヤツなんだよ[32]」と語っている。そのライコネンとは2015年からフェラーリでコンビを組み、過去のチームメイトと比べてもかなり良好な関係である。
- レースゲーム『グランツーリスモ5』にも登場し、同ゲームに登場するレッドブル・X2010のテストドライバーを務めている。ゲーム内では同車でベッテル本人がプレイし記録したレコードにチャレンジするサブゲームも収録されている。また、2011年度日本グランプリでシーズンチャンピオンが決定した後、一定期間では同ゲームにベッテル版X2010を全員プレゼントした。
- BBCの自動車番組『トップ・ギア』第17シーズン3回目の放送で「Star in a Reasonably Priced Car」コーナーに出演。それまでF1ドライバー1位だったルーベンス・バリチェロの1分44秒3の記録をコンマ3秒上回る1分44秒0の最速記録を出した(当時)。
- イギリスの文化を好み、モンティ・パイソンや『リトル・ブリテン』のコメディ、ビートルズの音楽を楽しむ[33]。ビートルズの初盤レコードを4000ドル(35万円)以上で購入したこともある[34]。
- 2012年8月発売メラニー・フィオナの「Watch Me Work」のミュージックビデオに出演[35]。
- 2011年に公開されたピクサーのアニメ映画「カーズ2」のドイツ語版にセバスチャン・シュネル役の声優として出演した(シュネルはドイツ語で"速い"と言う意味)。[36]
- 2011年にドイツのテレビ番組「ヴェッテン・ダス」に出演した時以下の意見を述べた。[37]
- 質問「F1のサーキットで猛スピードで走ってると、一般道を走るのは退屈ですか?」
- 回答「その質問はよくされるし、みんなに退屈でしょ?って言われるけどそんな事はない。速度は遅いけど、一般道では信号とか周囲の状況など次に何が起こるか分からないから常に注意して見てないといけないし、サーキットとは違う。退屈ではない」
- 質問「シューマッハをサーキットで追い越すとき悪い気がする?」
- 回答「全く!」
- 質問「F1で走る事に両親は何て言ってますか?私が親なら『ゆっくり走って』と息子に言ってしまいそう」
- 回答「そんな批判(応援しない冷たい言葉)は言わない。常に一緒にいて僕のやりたい事を応援してくれる」
- 質問「F1のサーキットで猛スピードで走ってると、一般道を走るのは退屈ですか?」
- 日本グランプリの開催地である鈴鹿サーキットを「神が作り上げたサーキット」と毎年のように称賛している。その鈴鹿での日本グランプリでは鈴鹿での開催が再開された2009年以降、毎年表彰台を獲得している。
- レッドブル在籍時代、ハンガリーGPのレイアウトそのものはマシンの特性にもマッチしていたが、1勝もあげることはできなかった。さらに、2014年に移籍してきたダニエル・リカルドに移籍初年度であっさりと同GPで勝利をさらわれた。しかし、フェラーリに移籍した2015年のハンガリーGPを勝利したことで、2013年以前に自身が参戦した開催国では全て1勝以上あげていることになる。
- 2015年以降の予選後カンファレンスでは、ベッテルはしばしば辛口のジョークを送っている。ロズベルグヘ「(タイヤ圧)また低かったの?」・ハミルトンへ「ガレージ見せてよ」・英語の下手な記者へ「聞こえなかったな、もう一度最初から言ってくれない?」など、記者への受けは良い。
- 2015年のフェラーリ移籍初年度で3勝をあげたが、これは偶然にも同郷の先輩であるシューマッハがフェラーリに移籍した初年度(1996年)の勝利数と同数である。
レース戦歴
F1での記録
最年少記録
- 最年少ラップリーダー:20歳89日(2007年第15戦日本GP)
- 最年少ポールポジション:21歳72日(2008年第14戦イタリアGP)
- 最年少表彰台:21歳73日(2008年第14戦イタリアGP)
- 最年少優勝:21歳73日(2008年第14戦イタリアGP)
- 最年少ポールトゥウィン:21歳73日(2008年第14戦イタリアGP)
- 最年少ハットトリック:21歳353日(2009年8戦イギリスGP)
- 最年少ワールドチャンピオン:23歳134日(2010年第19戦アブダビGP)
- 最年少2年連続ワールドチャンピオン:24歳99日(2011年第15戦日本GP)
- 最年少3年連続ワールドチャンピオン:25歳145日(2012年最終戦ブラジルGP)
- 最年少4年連続ワールドチャンピオン:26歳116日(2013年第16戦インドGP)
元最年少記録
- 最年少完走:19歳349日(2007年第7戦アメリカGP)⇒ハイメ・アルグエルスアリ19歳125日(2009年第10戦ハンガリーGP)⇒マックス・フェルスタッペン17歳180日(2015年第2戦マレーシアGP)
- 最年少入賞:19歳349日(2007年第7戦アメリカGP)⇒ダニール・クビアト19歳323日(2014年開幕戦オーストラリアGP)⇒マックス・フェルスタッペン17歳180日(2015年第2戦マレーシアGP)
最多記録
- 年間ポールポジション数:15回(2011年)
史上初記録
- 初タイトル獲得から4連続ワールドチャンピオン
- 連続優勝9回 2013年第11戦ベルギーGP〜2013年最終戦ブラジルGPにかけて記録。
年度別成績
脚注
- ^ ワールドシリーズ・バイ・ルノー公式サイト:2006年 ミサノ・第1レース公式結果ワールドシリーズ・バイ・ルノー公式サイト:2006年 ミサノ・第2レース公式結果
- ^ Autosport.com 2006年10月6日
- ^ Autosport.com 2006年8月25日
- ^ “セバスチャン・ベッテルとの契約延長をレッドブルが発表” (日本語). F1トップニュース. (2011年3月14日) 2011年9月7日閲覧。
- ^ “セバスチャン・ベッテル「2ストップがうまくいかなかった」” (日本語). F1トップニュース. (2011年4月17日) 2011年9月7日閲覧。
- ^ “セバスチャン・ベッテル「チームのみんなには申し訳なく思っている」” (日本語). F1トップニュース. (2011年5月7日) 2011年9月7日閲覧。
- ^ “レッドブル大打撃? F1ヨーロッパGPでエンジン設定ルールが変更” (日本語). F1トップニュース. (2011年6月23日) 2011年9月7日閲覧。
- ^ “ブロウン・ディフューザー、F1イギリスGPからの禁止が決定” (日本語). F1-Gate.com. (2011年6月17日) 2011年9月7日閲覧。
- ^ “マーク・ウェバー「チームオーダーは無視した」” (日本語). F1トップニュース. (2011年7月11日) 2011年9月7日閲覧。
- ^ エンジンの回転数をあげずにシフトチェンジすること。このとき彼のマシンは2速と3速にトラブルを抱えていた
- ^ “セバスチャン・ベッテル、ナレイン・カーティケヤンへの行為を弁解せず”. F1 Gate.com. (2012年4月4日) 2012年4月19日閲覧。
- ^ “FIA、ベッテルの「中指立て」へのペナルティを否定”. F1通信. (2012年3月30日) 2012年4月19日閲覧。
- ^ これは旗を無視したマーシャルに非がある。
- ^ Spox 2011年7月20日版
- ^ Spiegel 2009年12月1日
- ^ Tagblatt 2009年3月11日版
- ^ 特集ハンナプラター:フェッテルの恋人のすべて
- ^ Society24 2009年6月23日版
- ^ “セバスチャン・ベッテル、彼女とFCバルセロナの試合を観戦”. F1-Gate.com. (2012年2月21日) 2012年3月16日閲覧。
- ^ 特集:ベッテルの美しい恋人ハンナ
- ^ アウトビルド:セバスチャンフェッテルの紹介
- ^ ZEITGEIST MEDIA 著、原田京子 訳『皇帝ミハエル・シューマッハの軌跡 - Danke,Schumi!』ブックマン社、2007年、63頁。
- ^ “対談:セバスチャン・ベッテル vs ミハエル・シューマッハ”. F1-Gate.com. (2009年7月23日) 2011年10月7日閲覧。
- ^ “ベッテル「シューマッハーは今もずっと上の存在」”. AUTO SPORT web. (2010年7月22日) 2011年10月7日閲覧。
- ^ “ベッテルのマシンに刻まれた“KATE'S DIRTY SISTER”” (日本語). News (F1-Gate.com). (2009年4月20日) 2010年11月18日閲覧。
- ^ F1-live.com 2009年6月7日
- ^ “Vettel names 2010 car 'Luscious Liz'” (英語). News (Motorsport.com). (2010年3月8日) 2010年11月16日閲覧。
- ^ “ベッテルの愛車名、当面はただの「アビイ」”. オートスポーツweb. (2012年3月14日) 2012年3月16日閲覧。
- ^ “セバスチャン・ベッテル ヘルメット(2010年)”. F1-Gate.com. (2010年2月10日) 2011年10月7日閲覧。
- ^ “セバスチャン・ベッテル、F1イギリスGP特別ヘルメット”. F1 Gate.com. (2010年7月9日) 2011年10月7日閲覧。
- ^ “セバスチャン・ベッテル、マネージャーを雇う予定はなし” (日本語). F1への入り口 (F1-Gate.com). (2010年3月11日) 2010年11月16日閲覧。
- ^ “キミ・ライコネン、ベッテルはF1で「一番いいヤツ」” (日本語). F1Live速報ニュース2010-2011 (F1TopNews.JP). (2010年8月25日) 2010年11月16日閲覧。
- ^ “セバスチャン・ベッテル”. ESPN F1 2011年10月7日閲覧。
- ^ “セバスチャン・ベッテル、ビートルズのレコードを4000ドルで購入”. F1-Gate.com. (2009年10月14日) 2011年10月7日閲覧。
- ^ “ベッテル、ミュージックビデオに出演” (日本語). AUTO SPORT Web. (2012年9月6日) 2012年9月7日閲覧。
- ^ “Sebastian Vettel in Cars 2” (ドイツ語). YouTube. (2011年7月6日) 2015年3月31日閲覧。
- ^ “2011年6月18日放送「Wetten, dass..?」” (ドイツ語). YouTube. (2011年6月18日) 2015年3月31日閲覧。
外部リンク
- 公式ウェブサイト - 英語・ドイツ語 (ドイツ語)
- Sebastian Vettel - Formula 1 (英語)
タイトル | ||
---|---|---|
先代 ジェンソン・バトン |
F1ドライバーズチャンピオン 2010年-2013年 |
次代 ルイス・ハミルトン |
レッドブル | メルセデス | フェラーリ | マクラーレン | アストンマーティン | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | マックス・フェルスタッペン | 63 | ジョージ・ラッセル | 16 | シャルル・ルクレール | 81 | オスカー・ピアストリ | 18 | ランス・ストロール |
11 | セルジオ・ペレス | 44 | ルイス・ハミルトン | 55 | カルロス・サインツ | 4 | ランド・ノリス | 14 | フェルナンド・アロンソ |
アルピーヌ | ウィリアムズ | RB | キック・ザウバー | ハース | |||||
31 | エステバン・オコン | 23 | アレクサンダー・アルボン | 3 | ダニエル・リカルド | 77 | バルテリ・ボッタス | 20 | ケビン・マグヌッセン |
10 | ピエール・ガスリー | 2 | ローガン・サージェント | 22 | 角田裕毅 | 24 | 周冠宇 | 27 | ニコ・ヒュルケンベルグ |
その他参戦したドライバー | 38 | オリバー・ベアマン | |||||||