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10世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千年紀: 1千年紀
世紀: 9世紀 - 10世紀 - 11世紀
十年紀: 900年代 910年代 920年代 930年代 940年代
950年代 960年代 970年代 980年代 990年代
江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。
「世界の宝石」コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。
ノルマンディー公ロロ。もともとは北欧のヴァイキングの指導者であったが、西フランク王からセーヌ川河口の領土を分与され定着した。彼の直系子孫にノルマン朝初代のイングランドウィリアム1世がおり、この血脈は現在のイギリス王室にまでつながっている。画像はルーアン司教ギーに迎えられるロロ。

10世紀(じっせいき)は、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀1千年紀における最後の世紀である。

できごと

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清涼殿落雷事件。この落雷は昌泰の変大宰府に流された菅原道真の怨霊によるものと恐れられ、道真は北野天満宮の祭神となった。画像は「北野天神縁起絵巻」。
承平天慶の乱。平安京での政争をよそに地方では在地領主となった皇親やその他の門流が勢力を拡大していた。平将門藤原純友の反乱もその現れであったが、反乱は鎮圧された。画像は東京大手町にある平将門の首塚
平安京と「物の怪」。平安京の統治機構が弛緩するとともに、度重なる天災や疫病に疲弊した人々はその原因となる「物の怪」を一層恐れるようになり、密教による加持祈祷陰陽道に基づく物忌み方違えを重視するようになった。画像は陰陽師安倍晴明の疫病神調伏を描く「泣不動縁起絵巻(京都・清浄華院蔵)」。
かな文字の誕生。日本独特の美意識の発展とともにかな文字が成立し、和様の書が生まれた。画像は万葉仮名から平仮名へと移行する段階の「草仮名」で書かれた「秋萩帖東京国立博物館蔵)」で小野道風によるものと伝わる。
契丹人の伸張。ウイグル帝国の崩壊や、唐王朝滅亡後の混乱で内陸アジアで勢力を拡大したのがモンゴル系の契丹人であった。その後、五代から宋にかけての華北政権を威圧し国勢を整えることになる。画像は契丹人を描いた「胡人出猟図」(台北国立故宮博物院蔵)。
乱世の宰相馮道。五代十国時代の後晋から後周の時代の政治家で、五朝八姓十一君に仕えたことで有名。後世、朱子学の立場からは変節漢として評判が悪いが、李卓吾のような思想家の評価は高い。画像は明代にまとめられた『無雙譜』の挿絵に描かれた長楽老馮道。
の建国。唐の滅亡以後、半世紀にわたる五代十国の混乱にあった中国も趙匡胤が宋の初代皇帝太祖として即位するに及び安定した時代を迎えた。画像は台北国立故宮博物院所蔵の太祖趙匡胤の肖像。
マケドニア朝ルネサンス。画像はキリストから加冠される皇帝コンスタンティノス7世の象牙彫刻(ロシア・プーシキン美術館蔵)。東ローマ帝国では古典研究が盛んになり、この皇帝自ら著作『儀式について』『帝国統治論英語版』を残している。
アトス山。この時期に東ローマ皇帝の庇護を受けてアトスの修道生活が展開した。画像は最も古いメギスティ・ラブラ修道院英語版の教会入り口から望む、アトスのアタナシオスに植えられたとされる樹齢1000年以上のイトスギ(サイプレス)。
聖公ウラディーミル1世の洗礼。東ローマ皇女アンナとの結婚を期に洗礼を受けキリスト教(東方正教会)に改宗しロシア・ウクライナ史に大きな影響を与えた。画像はキエフ聖ウラディーミル大聖堂(聖ヴォロディームィル大聖堂)にあるヴィクトル・ヴァスネツォフの壁画。
神聖ローマ帝国の成立。オットー1世が皇帝となり以後代々のドイツ君主が神聖ローマ皇帝位を占めることになった。画像はこの世紀に作られた神聖ローマ帝国の帝冠(ウィーンホーフブルク宮殿蔵)。
紀元1000年のヨーロッパ。新しい世紀の到来は期待と不安が混じったものだった。画像は950年代に描かれたスペインのサン・ミジャン修道院のベアトゥス『黙示録注解』写本エル・エスコリアル修道院蔵)。
マジャール人の定着。遊牧民族マジャール人もパンノニア平原に定着し、紀元1000年にはキリスト教を受容してハンガリー王国を成立させている。画像はハンガリー初代国王イシュトヴァーン1世がジュラの街を制圧したことを描く14世紀の年代記の挿絵。
イェリング墳墓群。デンマークのハーラル青歯王がキリスト教への改宗したことを記念してルーン文字で刻まれた石碑である。
ケルト十字架。ヴァイキングの襲撃も一段落したこの世紀、タラの王を中心にアイルランド復興が進められた。画像はモナスターボイス英語版修道院遺構で、アイルランド特有の「ハイクロス」と呼ばれるケルト十字架が今も聳えている。
チチェン・イツァ遺跡。マヤ文明を代表する遺跡で8世紀までに衰退した後に、10世紀に改めて盛んに建設が行われた。画像はククルカンの頭部彫刻が付随した「金星の台座」でその先には「エルカスティージョ(ククルカン神殿)」を眺めることができる。
シカン文化。ペルー北岸に発展した文化で10世紀から11世紀にはバタン・グランデを中心に金属工芸や織物の産業が組織化されていた。画像はこの文化を代表する「ツミ」と呼ばれる儀式用の刀剣(メトロポリタン美術館蔵)。
アズハル大学。ファーティマ朝時代にカイロのアズハル・モスク付属大学として設置された世界で最も古い大学である。
ブワイフ朝の統治。バグダードを制圧すると衰勢のアッバース朝を組み込みイラン・イラクを支配下に置いた。画像はブワイフ朝時代のイランで作られた陶器(ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵)。
サーマーン朝の発展。この王朝の時代に東方イスラム世界でのペルシア文化の復興が進んだ。画像はブハラにある中央アジア最古の建造物イスマーイール・サーマーニー廟
チョーラ朝芸術の最盛期。画像はこの時代を代表する「舞踏の王」ナタラージャとしてのシヴァ神像(ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵)。
プランバナン寺院群ジャワ島で繁栄した古マタラム王国のバリトゥン王時代に着工され、続く王ダクサによって完成をみたヒンドゥー教の大寺院。
  • 日本では平安時代中期に差し掛かるころである。律令国家体制を支えていた古墳時代以来の在地首長階層と彼らに率いられていた伝統的な地域共同体が急速に没落し、それに依存していた班田戸籍による地方統治や税収が困難となる。この地方社会の変動への対策として地方に赴く筆頭国司(受領)に大きな権限を与え、あらたに経済力を握り台頭してきた富豪層負名に編成し、田堵として公田経営を請け負わせる王朝国家体制への社会変動で律令制は形骸化した。受領の国衙統治において私的武力を蓄えた富豪層を統制する軍事警察力を担う階層として武士が登場することで中世社会への変化が本格的に生じる。

900年代

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910年代

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920年代

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930年代

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940年代

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950年代

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960年代

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970年代

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980年代

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990年代

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1000年代

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架空のできごと

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  • 10世紀 - フランスのポワトゥー地方の領主としてリュジニャン家が登場するが、この家の始祖は下半身が蛇である妖精メリュジーヌを妻としていた。メリュジーヌの力により居城のリュジニャン城も建てられている(「メリュジーヌ伝説」)。
  • 928年 - 旅の僧安珍が清姫に懸想され逃亡するも、紀州道成寺の大鐘の中で蛇体と化した清姫に焼き尽くされる(『大日本国法華験記』ほか「安珍・清姫伝説」)。
  • 928年 - 五代十国後唐では国王と王妃の間は冷え切っていた。王妃に毒を盛る国王、皇太子と不倫する王妃、そしてそれをとりまく人々。この年の秋、城一面が菊の花で覆いつくされた中で催される豪奢な饗宴は、王家をめぐる陰謀と内乱の始まりだった(原作は曹禺の『雷雨』、張芸謀監督の映画「王妃の紋章」でも有名)。
  • 930年 - 信貴山の命蓮が祈祷により、転輪聖王の金輪を転がす剣の護法童子を遣わし、醍醐天皇の病気を平癒させる(『信貴山縁起絵巻』)。
  • 930年以前 - 皇子の身の上ながら盲目のため疎まれた蝉丸は父である醍醐天皇に捨てられ、逢坂山にて出家生活を営んでいた。そこへ同じく異形の者だということで捨てられ放浪していた姉の皇女逆髪が蝉丸のもとを訪れ、不幸の境遇を慰めあう(能『蝉丸』)。
  • 939年以前 - 近江国三上山百足琵琶湖の龍神に依頼された藤原秀郷(俵藤太)によって討たれる(『太平記』ほか「百足退治伝説」)。
  • 940年 - 平安京で晒し首にされた平将門の首級が関東を目指して舞い上がり空中を飛行し武蔵国豊嶋郡芝崎村(東京都千代田区大手町)に落下する(「平将門の首塚伝説」)。
  • 940年以降 - 平将門の娘滝夜叉姫は一族郎党が滅ぼされた中にあって生き残り、貴船神社で復讐の成就を祈願し、下総の相馬の古御所に拠って朝廷転覆の謀略を巡らせることとなる(山東京伝の読本『善知鳥安方忠義伝』)。
  • 956年 - 藤原師輔が内裏から退出して二条大宮「あははの辻」にて百鬼夜行に遭遇するも「尊勝陀羅尼」を誦して難を逃れる(『大鏡』)。
  • 960年 - この年に興化軍莆田県湄州島の都巡林愿の六女として生まれた黙娘は、幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かった。16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ崇められた。しかし28歳の時に官吏の父が海難に遭い行方知れずとなる。これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ、航海と商業の守護神媽祖となったという(「媽祖の伝説」)。
  • 970年 - 信濃国戸隠の鬼女紅葉が勅命を受けた平維茂によって討たれる(能『紅葉狩』や小説『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全』ほか「紅葉伝説」)。
  • 976年 - 比叡山の稚児であった梅若丸が人買いの信夫藤太により連れ出され、奥州に行く途上に隅田川の近辺で病に倒れ12歳で死去。その後その母が安否を尋ね隅田川に来た時に霊となった梅若丸が出現する(木母寺の伝承・能『隅田川』ほか松若丸伝説)。
  • 980年以前 - 平安京朱雀大路の南端にある羅生門はかねてから荒廃が著しく、楼門の二階には行き場のない遺体が放置されていた。ある若い下人がこの門を上がり、暗がりの中で死んだ女性の髪を梳く老婆に遭遇する(原典は『今昔物語集』、これをもとに芥川龍之介の小説『羅生門』が創られる)。
  • 995年 - 丹波国大江山酒呑童子が勅命を受けた源頼光頼光四天王によって討たれる(「酒呑童子伝説」)。
  • 996年以降 - 神聖ローマ皇帝オットー3世のもとへ無実の罪で斬首にされた夫の首を携え無念を晴らすべく伯爵夫人が現れる。夫人は皇帝の面前での神明裁判で熱せられた鉄塊を握りしめ身の潔白を訴え勝利を勝ち取る(「オットーの審判伝説」)。
  • 999年以前 - オーリヤックのジェルベールが、コルドバのアラブ人から魔術を学びその技により悪魔と契約する。やがて彼はシルウェステル2世として教皇となる(「教皇シルヴェステル2世の悪魔伝説」)。

人物

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東アジア

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  • 崔胤(? - 904年) - 唐末の宰相・李茂貞から皇帝昭宗奪還のため朱全忠と結び宦官勢力を殲滅・後年朱全忠に殺される
  • 裴枢841年 - 905年) - 唐末の宰相・朱全忠により他の高官とともに白馬で虐殺される(白馬の禍
  • 李振(? - 923年) - 唐末五代の政治家・朱全忠の腹心・唐の昭宗を弑逆し朱全忠に白馬での高官殺害を進言する
  • 李茂貞856年 - 924年) - 唐末五代の節度使・皇帝昭宗を擁して鳳翔遷都を企てるも挫折・唐滅亡後は独立

五代十国

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朱全忠

北宋

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契丹

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朝鮮

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日本

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源経基

イスラム世界

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サーマーン朝

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カラハン朝

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ガズナ朝

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アルプテギーン

ブワイフ朝

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ファーティマ朝

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後ウマイヤ朝

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学者・詩人

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南アジア

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キリスト教世界

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フランス王国

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神聖ローマ帝国

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イタリア

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東ローマ帝国

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東欧

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北欧

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アイスランド

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脚注

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出典

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  1. ^ 第60代・醍醐天皇の皇位継承と昌泰の変”. WEB歴史街道 (2020年5月18日). 2020年12月29日閲覧。

参考文献

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  • ヴァレリー・ハンセン英語版著 赤根洋子訳『西暦一〇〇〇年 グローバリゼーションの誕生(The Year 1000: When Explorers Connected the World—and Globalization Began )』 文藝春秋社2021年ISBN 978-4163913704

関連項目

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外部リンク

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  • ウィキメディア・コモンズには、10世紀に関するカテゴリがあります。