ルーダキー
ルーダキー(ペルシア語: ابوعبدالله جعفربن محمدبن حکیمبن عبدالرحمنبن آدم رودکی タジク語: Абӯабдуллоҳ Ҷафар Ибни Муҳаммад Рӯдакӣ、850年代初頭[1] - 940年頃)は、サーマーン朝で活躍したペルシアの詩人。本名はアブー・アブドゥラー・ジャファル・ビン・ムハンマドであるが、出身地にちなんだ「ルーダキー」の号で呼ばれることが多い。ペルシア文学最初期の人物であり、「ペルシア詩の確立者」[2]「ペルシア文学の父」[3]「ペルシア詩人のアダム」[4]と評される。
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生涯 [編集]
ルーダキーの生涯については、未だに明らかになっていない部分が多い[5]。
サマルカンド近郊のルーダク村で生まれ、30代後半になってサーマーン朝の宰相バルアミーによって宮廷に招かれる[5]。宮廷ではナスル2世[6]、あるいはバルアミーの保護の元に高い地位と財産を得るが、庇護者が政治の表舞台から退くと彼も失脚し、宮廷より追放されたと考えられている[7]。故郷に帰ったルーダキーは940年から941年の間に没し、現在のパンジケントにあるパンジルダクという村に葬られた。ルーダキー研究者ミルゾエフは、1956年に行われたルーダキーの墓の発掘調査の結果より、故郷に帰った彼は政敵の手によって盲目にされた上で殺害されたと考察した[2]。
ルーダキーにまつわる伝承の一つに、ナスル2世にブハラへの望郷の念を起こさせた逸話がある。ヘラートに赴いたナスル2世がヘラートに愛着を感じて4年以上もその地に滞在したとき、軍の司令官と貴族たちは王が故郷のブハラに帰りたくなるような詩を作ってほしいとルーダキーに依頼した。そこでルーダキーがブハラの魅力を詠った詩を吟じると、心を打たれたナスル2世は急いでブハラに戻ったという[8]。
作品 [編集]
インドの説話『パンチャタントラ』を元にした叙情詩『カリーラとディムナ』をはじめとした100000句以上の作品があるが、現在ではほとんどが散逸し、現存する句は2000句たらずである[9]。彼の詩が散逸した理由について、イランの言語学者ナッヴァービーは、中央アジアやホラーサーンの方言が多く使われているために他地方の人間には理解しがたかったためと推論した[9]。彼の作品にはペルシア詩で用いられる詩形が全て使われており、彼が現れた10世紀までに詩形が確立されていた証拠とする意見もある[9]。
詩のテーマは教訓、悲しみ、享楽、愛、酒の賛美と多岐にわたる。その作風は簡素で情熱的であり、詩よりも民謡に近いと評される[6]。一方で、愛をテーマとした歌で好んで用いた[10]詩形のガザル(恋愛詩)では、多彩な比喩を用いて巧みに心情を表現した[3]。
ルーダキーは詩作だけではなく、竪琴を奏でて自らの詩を美しい声で吟じたという[5]。しかし晩年にはその声も衰え、他人の詩を吟じることを職とするラヴィを雇わなければならなくなった[11]。
ギャラリー [編集]
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15世紀に制作された『カリーラとディムナ』の写本