コンラート1世 (ドイツ王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
コンラート1世

コンラート1世ドイツ語: Konrad I, 881年 - 918年12月23日)は、フランケン公(在位:906年 - 911年)、及び東フランク王またはドイツ王(在位:911年 - 918年)。コンラート若王、小コンラートとも呼ばれる。

概要[編集]

フランケンの貴族であるコンラディン家(コンラート家)はテューリンゲンのラーンガウ伯ゲープハルトを始祖とし、ゲープハルトの子オードと続いて世襲した家系である。

父はオードの子でラーンガウ伯コンラート(大コンラート)、母は東フランク王国の王アルヌルフの娘グリズムート(グリスモント・グロスモント)。弟はフランケン公エーベルハルト3世885年 - 939年10月2日、在位:911年 - 939年)、ラーンガウ伯オットー(890年 - 918年)ら。妻はシュヴァーベン宮中伯ベルトルト1世の娘クニグンデ(ルイトポルト家バイエルン辺境伯ルイトポルトの寡婦)でヴォルムスガウ伯のヴェルナー5世は女婿である。

母方の叔父ルートヴィヒ4世(祖父オードの外孫)の死で東フランクのカロリング家が断絶したあと、貴族による選挙で王に選ばれた。

王を選挙で決めるのはゲルマンの風習で、小ピピンや(前述の)アルヌルフの例がある。即位後ザクセン公と対立したが、コンラート1世自身はロートリンゲン西フランクに奪われて統制勢力を弱め、反抗する部族大公との抗争の最中に負傷した。

王国の分裂を防ぐために、宿敵のザクセン公ハインリヒ1世リウドルフィング家)を後継者に指名し、918年にフルダにて37歳で逝去した。

また、彼には嗣子がおらず、末弟のラーンガウ伯のオットーも同年に亡くなり、コンラディン家は弟のエーベルハルト3世が相続した。しかし、エーベルハルト3世自身も男子がいないまま939年に逝去した。そのためコンラディン家は断絶し、コンラート1世の娘婿で、ザーリアー家のヴォルムスガウ伯のヴェルナー5世がフランケン公として、その後を継いだ。