丁朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ベトナムの歴史
ベトナムの歴史






伝説時代
文郎国
甌雒国
北属期
南越統治)
徴氏姉妹






北属期
六朝統治)

前李朝
北属期統治)
梅叔鸞





北属期南漢統治)
楊廷芸矯公羨
呉朝
十二使君時代
丁朝
前黎朝
李朝






陳朝
胡朝
後陳朝
北属期統治)
後黎朝前期
莫朝
後黎朝後期 莫朝
鄭氏政権 阮氏政権
西山朝
阮朝
フランス領インドシナ
ベトナム帝国
コーチシナ共和国 ベトナム民主共和国
ベトナム国
ベトナム共和国
南ベトナム共和国
ベトナム社会主義共和国

丁朝(ディンちょう、ていちょう、Nhà Đinh、966年 - 980年)は、ベトナム北部を支配した王朝。首都は華閭(ホアルウ、現在のニンビン省に位置する)。ベトナムで編纂された史書では呉朝がベトナム初の独立王朝とされているが、北ベトナムが真に中国の王朝から独立したのは、丁朝の時代からだとする意見もある[1]

歴史[編集]

建国者丁部領(ディン・ボ・リン)の父・丁公著(ディン・コン・チュ)は、驩州(ホアンチャウ)の刺使として呉朝に仕えたが[2]、丁公著は丁部領が幼少のころに没した。

呉朝末期の965年に、北ベトナムでは12人の群雄による覇権争いが起こると(十二使君の乱)、丁部領は十二使君の一人である陳覧(チャン・ラム)と同盟を結び、陳覧より後継者の地位を約束された[3]。十二使君の一人・呉昌熾(ゴ・スオン・シ)兄弟を倒した丁部領は北ベトナムの主導権を握り、他の使君との戦いに勝利し、民衆より「万勝王(ヴァン・タイン・ヴォン)」と呼ばれた。

丁部領は大勝明王(大勝明皇帝)という王号を贈られ、国号を大瞿越(ダイコヴィェト、「偉大な越」の意[4])とし、王朝である丁朝を開いた。中国に依存する従来の支配者層が多い、呉朝の首都である大羅(ダイラ)を避けて故郷の華閭を都に定め、首都の建設と国内の再興を計画した[5]。そして970年にベトナム最初の元号である太平が制定された[4]。翌971年に文武僧道の階品(行政、軍事、仏僧、道士の最高位と人物の制定)の制定を実施した[6]。ベトナム初となる[7]国号と王号の制定、銅銭「太平興宝」の鋳造によって、丁朝は東南アジア唯一の小中華国家としての道を歩み始める[8]

978年に丁部領の末子である丁項郎(ディン・ハン・ラン)が皇太子となるが、父・部領と共に十二使君との戦いを勝ち抜いた丁璉はこの決定に不満を抱き、人を遣って項郎を暗殺した[9]。この事件が979年10月の内乱を引き起こし、丁部領、丁璉は廷臣・杜釈(ド・ティック)によって暗殺される。

丁部領の死後、彼の子で唯一生存していた丁璿が6歳で即位し、軍部の有力者である黎桓(レ・ホアン)が摂政となって丁璿を後見する[10]。宮廷で政務を執る機会が多い黎桓は皇太后の楊皇后と親密になり、定国公・阮匐ら廷臣や黎桓の政敵は挙兵するがクーデターは失敗し、首謀者は処刑された[10]。一方、では北ベトナムの政変に乗じて軍を進めるべしという意見が容れられ、ベトナム遠征の準備が進められていた。また、南方のチャンパ王国では、チャンパに亡命していた十二使君・呉日慶(ゴー・ニヤツ・カイン)がチャンパ水軍との共同出兵を行った[11]。チャンパ水軍の遠征は嵐に遭って失敗したが、980年6月に黎桓は腹心の范巨倆(ファム・キュウ・リュオン)を大将軍に命じて北辺の防備にあたらせ、范巨倆は出陣の前に黎桓を帝位に擁立することを将兵に説いた。将兵たちは黎桓の即位に賛成し、丁璿の廃位、黎桓と楊皇后の結婚[12]をもって丁朝は滅亡し、前黎朝が成立した。

前黎朝成立後、反乱鎮圧に従軍して戦死するまでの間丁璿は故主衛王として中央で厚遇され、楊皇后は黎桓の五皇后の筆頭として影響力を持った[13]。また、キン族ムオン族の中には丁部領の子孫を称する家系が存在する[14]

首都・華閭[編集]

華閭の背後には石灰岩からなる大雲山(ダイヴァン山)があり、華閭と大雲山は煉瓦と土石の城壁によって繋げられていた[15]。城内は皇帝が政務を執る区域と民衆の居住区に二分され、前者には宮殿以外に官吏と兵士の生活区域、一柱寺(ニャトチュ寺)と報天寺(バオティエン寺)が置かれていた[16]。丁朝では罪人に過酷な刑が課せられており、華閭には罪人を容れるための虎が入った檻が置かれていた[16]

経済[編集]

絹織物、製糸、製紙、陶器などの伝統工芸が発展し[17]、皇帝と官吏に必要な品を生産する国営の工場が設置された[18]

港湾には外国の商船が訪れ、人の往来が盛んである宋との国境地帯では物々交換が頻繁に行われた[17]。また、地方にも経済の発展の影響が及び、交易の拠点と市が形成された[17]

軍事[編集]

丁朝の支配下では、国内の軍管区は10の道に分けられた。紅河デルタの農民兵からなる約100,000人の十道軍が設置され、十道軍が被る革製の四角帽子は15世紀まで北ベトナムの軍隊の装備として採用された[9]。軍の最高司令官である十道将軍には建国の功臣の一人である黎桓が任じられ、彼はその地位によって末期の丁朝の実権を握る。

十道軍の他に、丁部領は出身地である愛州(アイチャウ)などの兵士からなる護衛隊を組織して身辺の警護にあたらせた[9]

外交[編集]

丁部領は政策の実施にあたって中国の政権に逐一報告を行い、その都度了承を得ていた[5]。最初は南漢[14]、970年に南漢を併合した宋に使節を送り、中国北方の政権と直接交流を持った。中国の政権からは節度使の地位を認められ、975年に宋から交趾郡王に封じられた[14]

国内および南方の国に対しては皇帝を称し、宋が十国を平定した973年以降[19]、宋に対しては王を名乗り、皇帝と王を使い分けるベトナム王朝国家の外交方針が成立する[14]。しかし、宋に対して臣従の意思を表明する一方で、本来は「眼」を意味する「瞿」の字をベトナム語の発音に対応する当て字として国号に用いて、中国の支配から脱する意思を表した[4]

歴代皇帝[編集]

華閭の寺院
  1. 大勝明皇帝・丁部領966年 - 979年
  2. 衛王・廃帝(979年 - 980年) - 丁部領の次男

元号[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、66頁
  2. ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、62頁
  3. ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、64-65頁
  4. ^ a b c 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、67頁
  5. ^ a b 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、66頁
  6. ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、67-68頁
  7. ^ 酒井「丁部領」『アジア歴史事典』6巻、419頁
  8. ^ 桃木「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』、41-42頁
  9. ^ a b c 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、68頁
  10. ^ a b 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、69頁
  11. ^ 桃木「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』、34頁
  12. ^ 桃木「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』、39,41頁
  13. ^ 桃木「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』、41頁
  14. ^ a b c d 桃木「ディン・ボ・リン(丁部領)」『ベトナムの事典』、223頁
  15. ^ ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、157,162頁
  16. ^ a b ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、157頁
  17. ^ a b c ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、162頁
  18. ^ ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、161頁
  19. ^ 桃木「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』、42頁

参考文献[編集]

  • 酒井良樹「丁部領」『アジア歴史事典』6巻収録(平凡社, 1959年)
  • 小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』(中公新書, 中央公論社, 1997年7月)
  • 桃木至朗「ディン・ボ・リン(丁部領)」『ベトナムの事典』収録(同朋舎, 1999年6月)
  • 桃木至朗「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』収録(岩波講座 東南アジア史2, 岩波書店, 2001年7月)
  • ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』(今井昭夫監訳, 伊藤悦子、小川有子、坪井未来子訳, 世界の教科書シリーズ, 明石書店, 2008年8月)