ベラサグン
座標: 北緯42度44分47.06秒 東経75度15分1.64秒 / 北緯42.7464056度 東経75.2504556度
ベラサグンないしバラーサーグーン(アラビア語・ペルシア語 بلاساغون Balāsāghūn、英語:Balasagun, Balassagun, Balasaghun、中国語簡体字:八剌沙衮、キルギス語:Баласагын)は10世紀から1218年にかけて繁栄したカルルク、カラハン朝、西遼の中心都市。とくに耶律大石によって西遼の首都となり栄えたが、ナイマン王国の王子クチュルクが西遼を乗っ取り、彼を追って来たモンゴル帝国軍によって接収された後は衰微していった。天山山脈の北麓に位置し、今日のキルギスの首都ビシュケクとイシク湖の間を通るチュー川流域に存在した。
[編集] 概要
ベラサグンは9世紀にカラハン朝によって建設され、すぐにスヤブ(砕葉城)にとってかわりチュー川流域の政治および経済の中心となりモンゴルに占領されるまで栄えた。
10世紀の漢文資料には裴羅将軍城として現れ、11世紀後半のマフムード・カーシュガリーの『テュルク語集成』(Dīwān Lughāt al-Turk)によれば、ベラサグンの住民はソグド語とテュルク語の両方を話すといい、「山陰のもとにある都市、宮廷」を意味するクズ・オルドゥ Quz ordu、クズ・ウルシュ Quz uluš などと呼ばれていたと述べる。11世紀中頃にカラハン朝が東西に分裂すると、東部の首都となったが、後にカシュガルへ移ったようである。『遼史』によると1132年頃、耶律大石が西進して東カラハン朝を滅ぼし、この地で即位して西遼の首都と定めて名を虎思斡耳朶 quz ordu に改称したという。また、モンゴル帝国が侵攻してきた13世紀には『世界征服者史』の著者ジュワイニーによれば、グッズ・バリグ غزباليغ Ghuzz-Balïγ と呼ばれており、モンゴル側からGobalik(美しい都市 qo'a balik? の意)と呼ばれた。
テュルク文学の最も古い作品『クタドゥグ・ビリグ』(Qutadgu Bilig、幸福に関する智恵、(en))を著したことで有名な詩人ユースフ・ハーッス・ハージブ(en)は11世紀にベラサグンで出生したと思われる。また、ベラグザンには多くのネストリウス派キリスト教徒も滞在し、彼らの墓地が現存している。モンゴル軍に占領されてからにベラサグンは次第に衰え、14世紀に入っては多くの遺跡(トクモクから南東方向へ12kmの場所)を持つ村となり今日に至っている。
今日のベラサグン村から西へ6km、トクモクの町外れに位置するブラナ地域はかつての都市ベラサグンの西の端であった。ブラナ地域にはブラナの塔、突厥時代に建てられたバルバルと呼ばれる岩面陰刻の群などの遺跡が存在している。ブラナの塔は11世紀に建てられたミナレットで、現在の高さは24mだが、建てられた当時は46mの高さがあったという。これは何世紀にもわたる間に地震が何回か発生したためで、現在の塔も1970年代に修復作業が施されたものである。