シメオン1世

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シメオン1世
シメオン1世が刻まれた銅貨
シメオン1世が刻まれたもう一種類の銅貨

シメオン1世Симеон I, 863年頃 - 927年5月27日)は、第一次ブルガリア帝国の君主(在位:893年 - 927年)。ボリス1世の3男。一時期は東ローマ帝国を圧倒し、自らを「ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主」と称した。シメオン大帝とも呼ばれる。

生涯[編集]

突然の即位[編集]

シメオンは、ブルガリアキリスト教化に尽力したボリス1世の3男として863年頃に生まれた。ボリス1世は、シメオンをブルガリアの高位聖職者につけようとしたため、シメオンは10代後半まで東ローマ帝国の都コンスタンティノポリスで修道士としての教育を受けていた。

889年、ボリス1世は長男のウラディーミルに王位を譲り引退した。しかし、ヴラディーミルが異教復活を図ったため、引退していたボリスの怒りをかって廃位され、突然シメオンが王としてコンスタンティノポリスから呼び戻された。こうして、894年にシメオン1世がブルガリア王として即位した。

領土拡大[編集]

突然の即位ではあったが、シメオン1世は政治家、軍人としての才覚を発揮した。東ローマ帝国がブルガリア商人の締め出しを図ったことを契機として、894年より東ローマ帝国と戦争を開始して大勝を収めた。これにより、定期的に東ローマ帝国に貢納金を支払わせることに成功し、さらに東ローマ帝国と連携していたマジャル人にも攻撃を加え、彼らが西方のパンノニアに移動する契機も作り出した。マケドニアにも勢力を広げ、アドリア海沿岸までブルガリアの領土を拡大させた。

「皇帝」即位[編集]

913年、東ローマ皇帝アレクサンドロスが貢納金の支払いを拒んだ。これを契機として、再びシメオンは東ローマ帝国へ侵攻し、コンスタンティノポリスを包囲した。既にアレクサンドロスは急死しており、跡を継いだコンスタンティノス7世との交渉(実際は皇帝が幼少であったので、コンスタンディヌーポリ総主教ニコラオス1世ミスティコスとの交渉)によって、再び貢納金を支払うとともに、シメオンの娘を東ローマ皇帝に嫁がせる約束を結んだ。

シメオンは、東ローマ皇帝の地位を狙っていた。コンスタンティノープル入城を果たしたシメオンは、コンスタンディヌーポリ総主教ニコラオスから、皇帝として戴冠された。ただ、実際に皇帝の冠を受けたわけではなく、ニコラオスの典礼用の頭飾りが用いられた。

なお、東ローマ側の認識としては、シメオンの戴冠はあくまでもブルガリア皇帝としてのことだった。その後、シメオンは「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を自称した。しかし、まもなく体制を立て直した東ローマ帝国は、シメオンへの戴冠を取り消す姿勢を示した。

晩年[編集]

こうした東ローマ帝国の姿勢を受けて、シメオンは再びコンスタンティノポリスへの侵攻を図った。当時チュニジアで建国されていたイスラーム勢力のファーティマ朝とも連携を図ったが成功せず、幾度かコンスタンティノポリス攻略を敢行したものの、ロマノス1世レカペノスの下で体制を立て直した東ローマ帝国に阻まれ、失敗に終わった。

927年、シメオン1世は死去した。彼の輝かしい外征は、その一方で財政難など国力の疲弊をもたらしており、これ以降ブルガリア(第一次ブルガリア帝国)は弱体化していった。

先代:
ウラディーミル
ブルガリア皇帝
893年 - 927年
次代:
ペタル1世