大ブルガリア (中世)

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大ブルガリアの位置。中央の黄土色が大ブルガリア。西の赤色がアヴァール可汗国、南の紫色は東ローマ帝国、東の濃い青はハザール汗国、その東の薄い青は西突厥

大ブルガリア(だいブルガリア)、または古い大ブルガリア(ブルガリア語:Стара Велика България / Stara Velika Balgariyaギリシャ語:Παλαιά Μεγάλη Βουλγαρία)は東ローマ帝国の歴史書に登場する用語で、7世紀クブラトКубрат / Kubrat)によるヴォルガ川下流からドニエストル川までの範囲のカフカース山脈北部・ステップ地帯の支配を指し示す[1]オノグリア(Onoguria / Onoghuria)とも呼ばれる。

クブラト[編集]

クブラト(クルト Kurt あるいはフヴラト Houvrat とも)は有力氏族であったドゥロ家(en)の出身で[2]ブルガール人の指導者としての正当な継承権をもっていた。クブラトのおじのオルガナ(Organa)がブルガール族の摂政を務めていた間、クブラトは東ローマ帝国で若い時代を過ごし、教育と洗礼を受けた[3]

628年ごろ、クブラトは故郷に戻り、おそらくアヴァール人カガンの承認の元、ブルガール人の指導者となった。やがてクブラトはアヴァールによる支配からの脱却を図り、西突厥からも脱却した。

成立[編集]

630年から635年までの間、クブラト・ハーンは2つの主要なブルガール人の氏族であったクトリグルKutrigurs)とウティグルUtigurs)の統一を図り、強大な連合国家を打ちたて、中世の著者たちから「大ブルガリア」[4]、あるいは「オノグンドゥル・ブルガリア帝国」(Onogundur、あるいはオノグリア) [5]として記される。クブラトの影響下にあったアヴァール人もそれに含まれ、よってパンノニア平原まで広がっていたとする考え方もある。大ブルガリアの中心地はクラスノダール地方タマン半島en)にあるファナゴリアPhanagoria)であった。クブラトの墓は1912年ウクライナポルタヴァ近くのペレシチェリナ(en)で発見されている[6]

崩壊とその後[編集]

大ブルガリアの場所

クブラトの死へとつながっていった出来事について、コンスタンディヌーポリ総主教のニケフォロス1世(en)が記述している[7]。記述によれば、東ローマ皇帝コンスタンティノス4世の時代に、クブラトは死に、その5人の息子のうち最年長であったバトバヤン(Batbayan)はそのまま国に留まった。ハザールによる強い圧力のため、クブラトの他の息子たちは「敵に立ち向かうために結束するように」という父の教えに反し、それぞれ離反し自身の氏族を率いるようになった。

ヴォルガ・ブルガール[編集]

コトレグ(Kotrag)はクトリグル(Kutrigurs あるいはコトラグ Kotrags)の指導者であり、ヴォルガ川中流へと去り、後にヴォルガ川とカマ川の合流地点にヴォルガ・ブルガールを打ち立てた。ヴォルガ・ブルガールはやがて強大な国となっていった。ヴォルガ・ブルガール(あるいは銀ブルガールとも呼ばれた)は9世紀には自発的にイスラム教へと改宗し、13世紀ごろまで自身の民族意識を保持し、1223年にはチンギス・ハーンモンゴルの襲来を押し返した。しかしながら、彼らは1236年にはモンゴル軍に制圧され、中心都市であったボルガールBolghar、現在のボルガル近郊)はジョチ・ウルス汗国の支配下となった。その後ブルガール人はタタール人と混血が進んだ。ロシア連邦タタールスタン共和国の市民はこれらのブルガール人の子孫と見られている。

マケドニアのブルガール[編集]

クベルKuber)はシルミウムを支配した。同地にはブルガール人、ローマ人ギリシャ人スラヴ人ゲルマン人などが混在しており、アヴァール可汗国の属領であった。反乱があった後、クベールは人々をマケドニアへと移した。そこでクベールに率いられた人々はケレミシア(Keremisia)に住み、テッサロニキ征服を試みたが失敗に終わっている。その後、クベールは歴史上から姿を消し、彼に率いられた人々はマケドニア地方のスラヴ人へと同化していった。

南イタリアのブルガール[編集]

このほかのブルガールの氏族に、662年ごろにアルツェク公(Alcek)に率いられた一派は、おそらくランゴバルド人とともにアヴァールから逃れ、ランゴバルドの王グリモアルド1世(Grimoald I)に対し、軍務の引き換えにと領土を要求した。はじめ一派はラヴェンナに定住したが、後には更に南へと移っていった。グリモアルドは、ベネヴェントにいたアルツェクの一派に対して、自身の息子であるロムアルド1世(Romuald I)を送った。ロムアルドによって、アルツェクの一派は、広大ながらも当時は不毛の地であったナポリの北東の領地セピーノボヤーノイゼルニアアペニン山脈中、いずれも現在はモリーゼ州に属する)を与えられた。それまで「公」の称号であったアルツェクは、それに代えてランゴバルドの称号ガスタルド(Gastald)を与えられた。パウルス・ディアコヌスは787年の著書「Historia gentis Langobardorum」において、ブルガール人が当時も同じ領地に住んでおり、ラテン語を話してはいるものの、「自身の独自の言語をまだ放棄していない」と記した[8]

ボヤーノ近郊のカンポキアーロにある7世紀のヴィチェンネ(Vicenne)のネクロポリスで行われた発掘調査では、およそ130の遺体が発見され、うち13は人間の遺体であり、ウマの遺体やゲルマン、アヴァールに起源を有する器物と共に見つかった[9][10][11]。ウマの遺体は中央アジアの野生の馬の特徴を持ち、この地方にブルガール人が居住していたことをはっきりと物語っている。

コーカサスのブルガール - バルカル[編集]

クブラトの長男バトバヤンに率いられた一派は黒ブルガールと呼ばれ、その後も故郷に留まり続け、まもなくハザールの支配下に入った。現在のバルカル人(Balkars)がこの黒ブルガールの子孫ではないかとする見方もある。バルカル人は、自身をマルカ川の名前からマルカル(Malkars)と称し、キプチャク系のテュルク語を話す。テュルク語において、「b」が「m」に変化することはよくあることである。

第一次ブルガリア帝国[編集]

クブラトの三男アスパルフは後に東ローマ帝国が支配していたモエシアドブロジャを征服し、680年第一次ブルガリア帝国を建国した。

オノグリアの語源[編集]

オノグリアには次のような異名がある:

Onoghuria, Onoguri, Onoghuri, Onghur, Ongur, Onghuri, Onguri, Onghuria, Onguria, Onogundur, Unogundur, Unokundur, 他

その語源には次のような説がある。

  • コーカサス・アヴァールの言語で、オノグリアは「永遠不滅」を意味していると見られ、「uno」は「永遠」、「guro」は「不滅」を意味している。
  • テュルク語において「On」は「10」、「Ghur」は「矢」を意味し、「10本の矢」とは10の氏族の連合を意味しているとみられる。
  • このほかの説では、テュルク語において「z」の音は西へ行くと「r」に置き換わるため、オグズ(Oguz / Oghuz)は、西ではオグル(Ogur/Oghur)と置き換わる。そのため、オノグルとは「10のオグズの氏族」を意味していると見られる。この視点を擁護する見方として、神話上のテュルク人の起源であるトガルマフ(Togarmah)の10人の息子のなかにブルガールが挙げられている。
  • このほか、オノグルを、アルメニアの文献に登場するブルガールの一派「Unok-vndur」と結びつける考え方もある。

このほかの用法[編集]

マジャール人を含む7つのフィン・ウゴル系の氏族と、3つのハザール系の氏族が合流し、「10本の矢」あるいは「オノグル」として知られている。「ハンガリー」の名称は、このオノグルに由来すると考えられている[12][13][14]ルーマニア語における「ハンガリー」の呼称「ウングール」(Ungur)、ブルガリア語における呼称「ウンガル」(Унгар / Ungar)は「オノグル」とよく類似している。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Theophanes,Op. cit., p. 356-357
  2. ^ Nominalia of the Bulgarian khans
  3. ^ John of Nikiû, Chronicle
  4. ^ Patriarch Nikephoros I of Constantinople, Historia syntomos, breviarium
  5. ^ Zimonyi Istvan: "History of the Turkic speaking peoples in Europe before the Ottomans". (Uppsala University: Institute of Linguistics and Philology)
  6. ^ Rasho Rashev, Die Protobulgaren im 5.-7. Jahrhundert, Orbel, Sofia, 2005 (in Bulgarian, German summary)
  7. ^ Patriarch Nikephoros I of Constantinople, Historia syntomos, breviarium
  8. ^ Diaconis, Paulus (787). Historia gentis Langobardorum. Monte Cassino, Italy. pp. Book V chapter 29. http://www.northvegr.org/lore/langobard/033.php. 
  9. ^ Genito, Bruno (2001). “SEPOLTURE CON CAVALLO DA VICENNE (CB):” (PDF). I° Congresso Nazionale di Archeologia Medievale.. http://192.167.112.135/NewPages/COLLANE/TESTISAMI/SAMI1/48.PDF 2007年9月27日閲覧。. 
  10. ^ Belcastro, M. G.; Faccini F. (2001). “Anthropological and cultural features of a skeletal sample of horsemen from the medieval necropolis of Vicenne-Campochiaro (Molise, Italy)”. Collegium antropologicum (Coll. antropol.) ISSN 0350-6134 25 (2): 387–401. http://cat.inist.fr/?aModele=afficheN&cpsidt=13391417 2007年9月27日閲覧。. 
  11. ^ Longobard necropolis of Campochiaro”. 2007年9月27日閲覧。
  12. ^ OSZK.
  13. ^ Hungary, Encyclopædia Britannica
  14. ^ ただし、ハンガリーをフン族の子孫と見る考え方によって語頭に「H」が補われた。フン族のアッティラはハンガリーに拠点を置いていたが、ハンガリーとフン族との直接的なつながりは不明である。

外部リンク[編集]