川崎フロンターレ
川崎フロンターレ | |
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原語表記 | 川崎フロンターレ |
愛称 | フロンターレ、イルカ |
クラブカラー |
サックスブルー[1] ブラック[1] ホワイト[1] |
創設年 | 1955年 |
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン1 |
ホームタウン | 神奈川県川崎市[1] |
ホームスタジアム |
等々力陸上競技場[1] |
収容人数 | 25,000 |
運営法人 | 株式会社川崎フロンターレ[1] |
代表者 | 武田信平[1] |
監督 | 風間八宏 |
公式サイト | 公式サイト |
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
213-0013[1] 神奈川県川崎市高津区末長1331-1[1] |
設立 | 1996年11月21日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 3020001070104 |
事業内容 | サッカークラブ運営 |
代表者 | 武田信平[1] |
資本金 | 3億4,937万5,000円 |
売上高 | 35億4,000万円(2011年1月期) |
営業利益 | 4,700万円(2011年1月期) |
純利益 | 700万円(2011年1月期) |
純資産 | 5億3,800万円(2011年1月期) |
総資産 | 10億3,900万円(2011年1月期) |
決算期 | 1月期 |
主要株主 | 富士通他 |
外部リンク | http://www.frontale.co.jp |
川崎フロンターレ(かわさきフロンターレ、Kawasaki Frontale)は、日本の神奈川県川崎市にホームを置く[1]、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
概要
1955年に富士通サッカー部として創部[1]。1997年にJリーグへ準会員加盟(現・準加盟相当)し、1999年にJリーグへ加盟した[1]。ホームタウンは神奈川県川崎市[1]。ホームスタジアムは中原区の等々力陸上競技場[1]。練習は同市内麻生区の川崎フロンターレ麻生グラウンドを使用する[1]。
チーム名の「フロンターレ (Frontale)」はイタリア語で「正面の、前飾り」を意味し、常に最前線で挑戦し続けるフロンティアスピリッツ、正面から正々堂々と戦う姿勢を表している[1]。ちなみに富士通にはアメリカンフットボールチームの富士通フロンティアーズ(Xリーグ所属。1985年創設・チーム名制定)、女子バスケットボールの富士通レッドウェーブ(Wリーグ・1985年創部)、富士通カワサキレッドスピリッツ(V・チャレンジリーグ男子)があり、すべて川崎市を本拠地としており、バレーボールを除き川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナーに参加している。
歴史
前史
1955年に創部された「富士通サッカー部」が前身であり[1]、1972年に日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格、1976年にJSL2部で優勝してJSL1部へ昇格(1979年にJSL2部へ降格)。1992年からジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ参加[1]。1996年に「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称し、11月21日に運営会社となる「富士通川崎スポーツマネジメント株式会社」を設立。1997年にJリーグ準会員となり[1]、名称が公募によって川崎フロンターレと決定された。
1997年 - 1998年(JFL)
1997年
前年の旧JFL9位からJリーグ昇格条件の2位以内を目指すため、富士通がJSL1部昇格時の主将だった小浜誠二が常務として事実上の責任者となり、富士通からの豊富な資金力を利用して、名古屋の中西哲生や平塚のベッチーニョ等、多くの選手をJリーグの各クラブから獲得した。富士通川崎時代のレギュラーだった伊藤彰・小松崎保・源平貴久などの富士通社員選手は控えに回し、1年でのJリーグ昇格を目指した。この他、ブラジルのグレミオとの業務提携も発表した。ちなみに、現在のチームカラーが水色と黒なのは、グレミオのチームカラーを模した名残である。
監督も富士通社員の城福浩からプロ契約の斉藤和夫へと交代した後はリーグの上位グループに付け、後半戦に野口幸司と長谷部茂利を追加補強したが、同9月にコンサドーレ札幌、東京ガス、本田技研に3連敗して斉藤が監督を辞任。その後も激しい順位争いが続いたが、最終成績は札幌・東京ガスに次ぐ3位で、勝ち点1差でJリーグ昇格を逃した。
1998年
鹿島から鬼木達が加わり、シーズン序盤にゴールを量産したヴァルディネイや途中退団のベッチーニョに代わって入団したツゥットなどのブラジル人FWが活躍した。グレミオ留学から復帰した佐原秀樹も試合に出場し、社員選手でも川元正英や久野智昭がレギュラーを獲得し、チームの総合力向上に成功した。最終節のソニー仙台FC戦で敗れてJFL優勝は東京ガスにさらわれたが、JFL準優勝となり、J1参入決定戦に参戦した。しかし、1回戦の福岡戦(東平尾公園博多の森球技場)でVゴールによる逆転負けを喫してJリーグ ディビジョン1(J1)参入を逃し、J2への参入が決まった。
1999年(J2)
Jリーグ ディビジョン2 (J2) で開幕を迎え、岩本輝雄を補強したが、前年の昇格失敗でも監督契約を延長したベットのチームは序盤で出遅れた。しかし、松本育夫が監督に就任すると一気に盛り返し、新加入のティンガや柏から途中補強したDF森川拓巳などが勝利に貢献した。
松本の構想から外れた岩本などの出場機会が減ることもあったが、チームは順調に勝ち点を伸ばし、11月5日の鳥栖戦(等々力)に勝利し、J2の2位以内を確定して悲願のJ1昇格を果たし、11月8日にJ2優勝も決めた。また、この年に初のマスコットとしてふろん太を発表。5月に練習場が東京都稲城市の富士通南多摩工場の敷地内の「富士通南多摩グラウンド」(2005年の工場閉鎖後に稲城市営南多摩スポーツ広場に移管・改称)から、川崎市麻生区片平にある麻生グラウンド(旧・大東学園高等学校グラウンド)に移転。さらに市内全体での広報活動を強化し、川崎市も市民後援会を発足させた。
2000年(J1)
松本が監督を退いて社長となり、後任としてブラジル人ヘッドコーチであったゼッカが監督に就任。鹿島から鈴木隆行、マジーニョ、鬼木達(再移籍)、パラグアイ代表MFアルバレンガ、元日本代表FW森山泰行等を獲得したが、従来の選手と新加入選手との融合が全く図れず、実権のない社長に棚上げされた松本と副社長兼強化責任者の小浜の対立が表面化し、富士通出身の杉本聰ゼネラルアドバイザー(前社長)により小浜中心の体制で運営を進めることが確認されるなど、チーム内での不協和音が増加した。
また、外国人を入れ替える方針によりFC東京へレンタル移籍させたFWツゥットが大活躍し、同期昇格ながら低迷する川崎とは対照的にFC東京がJ1で躍進した。チーム再建を目指した2度にわたる監督の交代なども混乱を増幅させ、結局J1の年間総合順位では最下位(16位)となり、わずか1年でJ2へ降格した(Jリーグで入れ替え戦始まって以来、初の1シーズン降格チームとなった)。
また、翌年に東京都調布市の東京スタジアム(現:味の素スタジアム)へ本拠地を移転したヴェルディ川崎(現東京V)との「川崎ダービー」が実現した。
ナビスコカップでは鹿島に次ぐ準優勝となり、入団2年目のFW我那覇和樹が優秀新人賞を獲得した。昇格1年目でナビスコカップ決勝まで進んだのは川崎が唯一である。1stステージ最終節では当時首位だったC大阪を浦田尚希の延長Vゴールにより2-1で下して眼前での優勝を阻止した。
シーズン後には再びチーム改革が行われ、松本社長・小浜副社長のほか、この年の主将だった奥野僚右、JFL時代からチームの顔だった中西など、多くの選手やスタッフがクラブを退団した。
2001年〜2004年(J2)
2001年
堀井美晴が監督に就任、前年にサンパウロFCから札幌へレンタル移籍していたブラジル人FWエメルソンを完全移籍により獲得した。しかし、前半戦で黒星を重ねて昇格争いから事実上脱落すると、シーズン後半の7月からは石崎信弘が監督に就任、エメルソンは浦和へ移籍した。シーズンは7位に終わったが、第81回天皇杯でベスト4の成績を収めた。なお、最終節の山形戦では浦上壮史の好セーブ連発と我那覇和樹の延長Vゴールにより1-0で勝利し、山形のJ1昇格を阻止した[2]。
一方、経営陣はトップが一新された。富士通からの支援資金が削減される中、運営会社名を「富士通川崎スポーツマネジメント」から「株式会社川崎フロンターレ」へ変更し、川崎市や他企業およびサポーター持株会などからの資本受け入れた。また、川崎市も資本参加に本格的に乗り出し、他方で市民後援会とフロンターレファンクラブを統合した。
2002年
ベンチーニョ、マルキーニョや途中加入のマーロン、アレックスなどのブラジル人選手が攻撃を担い、中盤には神戸からレンタル移籍した茂原岳人が加わった。さらに、DF岡山一成獲得し守備力を強化。石崎のプレス戦術も浸透し、勝ち点を多く積み上げたが、前半戦の出遅れが最後まで挽回できず、4位に終わった。天皇杯ではベスト8に入った。
2003年
ブラジルのSEパルメイラスから獲得したFWジュニーニョが我那覇和樹とともに前線で活躍、また鹿島から移籍したDFアウグストも攻守にわたりチームをまとめ上げた。また、大宮からFWバルデスを獲得したが、年齢による衰えや怪我の影響で3得点のみに止まりシーズン途中に退団した。日本人の新加入選手では、前年J1に昇格した大分からMF山根巌、新人ながら主に交代要員として全試合でベンチ入りしたMF中村憲剛などが加わり多くの試合に出場した。しかし、シーズンを通じての引き分けの多さが響いたことにより最終的に「勝ち点1」差の3位に終わり、この年限りで石崎が監督を辞任した。天皇杯はベスト16に進出した。
2004年
- チームスローガン:「Mind-1 勝点1への執念―こころ1つにJ1へ。」
石崎の後任監督として鹿島でコーチを務めていた関塚隆を招聘、また同じく鹿島で長年プレーしたベテランDF相馬直樹を獲得。さらに新潟から2年連続でJ2リーグ得点王に輝いたマルクスを補強。戦力に厚みを増し、前年以上の圧倒的な攻撃力で開幕直後からJ2で首位を独走。9月26日の水戸戦の勝利で残り8試合というスピード記録で5年ぶりのJ1昇格を決め、10月2日に横浜FCに勝利して1999年以来5年ぶり2度目のJ2優勝を確定。これも残り7試合というスピード記録だった。また同シーズンはジュニーニョがハイペースで得点を量産、最終的には39試合出場で37得点を記録してJ2得点王に輝いた。
その後は「勝ち点100、得点100」を目標に残りゲームを戦ったが、11月23日のホームゲーム最終戦となる甲府戦での3-0の勝利でこれを達成し、リーグ最終戦となる11月26日の鳥栖戦(鳥栖スタジアム)も3-0で勝利して、最終勝ち点105、得点104の「ダブル・トリプル」でシーズンを締めくくった。また、この年の天皇杯では4回戦で神戸を3-2で降し、5回戦では鹿島に敗れベスト16に終わったものの、一時は2点差のリードを奪うなどJ1チームを相手に互角の勝負を展開した。
2005年〜2012年(J1)
2005年
- チームスローガン:「FRONTALE FORTISSIMO -強く激しく!!-」
J1昇格を機に、地域密着に更に力を入れるため、エンブレムから「FUJITSU」という企業名を外し、5年ぶりのJ1シーズンを迎えた。
2000年の反省を踏まえ、前年J2リーグを圧倒的な力で勝ち抜いた現有戦力をベースにし、若干名の補強選手を加えて臨んだが、序盤戦は試合終了間際に失点を喫する試合が続き、中盤戦は攻撃陣に怪我人が相次いだ影響もあり勝ちきれない試合が多かった。しかし、8月の中断期間中に行ったキャンプで戦術を熟成した結果チーム状態が好転、終盤戦ではチーム新記録となる6連勝を記録し、鹿島に初勝利するなどの快進撃を見せた。その間には、地元川崎市出身のDF箕輪義信が日本代表に招集された。最終節でG大阪に敗れ(この勝利でG大阪は逆転優勝を決めた)、最終成績は8位。福家三男GMがシーズン当初に掲げた目標の5位とは勝ち点差3、賞金獲得圏の7位以内には得失点差1でわずかに及ばなかったが、最低条件の「J1残留」を優にクリアする成績は翌シーズンへの弾みとなった。天皇杯は2年ぶりにベスト8へ進出した。
2006年
- チームスローガン:「Challenge the Future」
アウグストが退団、相馬・久野が現役を引退し手薄となった左サイドに新外国人マルコンを獲得。開幕戦の新潟戦で我那覇和樹のハットトリックなどにより6-0、第2節の京都戦でもジュニーニョのハットトリックを含む7-2で下し、開幕2試合で13得点のJリーグ新記録を打ち立てて好スタートを切った。
3月末には所属選手の不祥事が発覚するトラブルがあったもののその後も好調を保ち、2006 FIFAワールドカップ前の中断期間を暫定ながら首位で折り返した。中断期間中に攻撃の要の1人だったマルクスが東京Vに移籍したが、その補充としてMFマギヌンを獲得し、引き続き厚みのある攻撃力を武器に優勝争いを繰り広げた。ドイツW杯終了後に日本代表に我那覇、続いて中村憲剛が招集され、それぞれ代表デビューを果たした。終盤浦和やG大阪との直接対決で一時調子を落とすも、最終節でG大阪を抜いて2位で終了。ジュニーニョ、我那覇、中村、谷口博之の4選手がリーグ戦で2桁得点を挙げ、チーム合計84得点(リーグ1位)となった。中村と谷口はJベストイレブンに選出。また、シーズン18得点を叩き出した我那覇が日本人得点王(タイ記録)となった。
前年の天皇杯で優勝し、既にAFCチャンピオンズリーグ(ACL)出場権を得ている浦和がリーグ戦で優勝したため、規定により2007年度のACLへの出場権を獲得した[3]。
2007年
- チームスローガン:「One for Goal,Goal for One」
シーズン前最初の練習試合で新加入のフランシスマールが左膝靱帯断裂の重傷を負ったが、3月3日のJ1開幕戦(等々力)で鹿島を下し、4月15日の第6節(等々力)にはチーム史上初めて清水に勝利、4月21日に埼玉スタジアム2002で行われた第7節では、浦和のホーム連続不敗のJリーグ記録を25試合で止めた。
ところが、浦和戦でシーズン初ゴールを決めた我那覇和樹が、試合後の23日に受けた疲労回復の静脈注射(点滴)がJリーグのドーピング(禁止薬物使用)規定違反と認定され、自粛期間を含めて公式戦6試合の出場停止、チームにも1000万円の罰金となった。我那覇は5月19日の第12節・大分戦から復帰したが、以後は精彩を欠き、年間を通じて1ゴールのみに終わった。この問題はその後も尾を引き、結局は2008年にスポーツ仲裁裁判所で審理される事になったが、仲裁の結果は我那覇にドーピングの事実が認められないとされ、かつ、Jリーグ側に仲裁費用の負担を求める異例の裁定となった。
名古屋から獲得したGK川島永嗣は全34試合フル出場を果たし、我那覇に代わり先発で起用されたプロ2年目の鄭大世は12得点と飛躍、22得点のジュニーニョは2004年のJ2に続きJ1でも得点王に輝き、リーグ2位の計66得点を挙げた一方、失点はリーグ11位の48失点に上り、前年を下回る5位でシーズンを終了した。
初出場のACLは、グループリーグF組を1位で通過したが、準々決勝でセパハンにPK戦で敗退した。
また、9月23日のJ1第26節・柏戦(柏)で、セパハンとの第1戦から先発選手8人を入れ替えて臨み、0-4と大敗した。Jリーグ専務理事(当時)の犬飼基昭[4]は「ベストメンバーの出場を求めた自分達への背信行為であってサポーターへの裏切り行為だ」と怒りを顕わにしたが、川崎側は当該試合の前にJリーグ事務局へ予めベストメンバー規定に抵触していない旨を事前確認していた。また、川崎は勝ち残っていた浦和に情報を提供し[5]、浦和は決勝でセパハンを下して優勝した。優勝後、浦和は川崎の協力について感謝すると述べた。
ナビスコ杯では甲府と横浜FMを破って7年ぶりに決勝に進んだが、11月3日の決勝ではG大阪に0-1で敗れた。天皇杯はベスト4で鹿島に敗れた。
日本代表では、7月のAFCアジアカップで中村憲剛が準決勝まで5試合連続で先発起用された。また、GK川島もこの大会に招集された(出場はなし)ほか、代表候補合宿には森勇介と黒津勝も初招集された(正式メンバー登録はならず)。FW鄭大世は本人が強く希望していた北朝鮮代表に初選出され、6月の東アジアサッカー選手権2008予選大会では3試合8得点で得点王となり、翌年2月の本大会進出に貢献した。
2008年
- チームスローガン:「With 12(supporters)」
MFマギヌンが名古屋へ移籍。東京Vへ期限付き移籍していた吉原慎也、フッキらがチームに復帰し、千葉より山岸智を獲得した。また、青山学院大学からMF田坂祐介、駒澤大学からMF菊地光将、早稲田大学からDF横山知伸、下部組織よりトップチームへ昇格のDF吉田勇樹(後にU-19日本代表に選出)らが加入。
しかし、地元・等々力での開幕戦となった東京V戦で試合終盤に追いつかれドローに終わると、続く神戸戦に1-4で大敗。更に神戸戦での起用法を不満としたフッキが4月2日に退団、東京Vへ完全移籍した。その後は安定感を欠いた戦いを強いられ、フッキによる一連の騒動による心労、かねてから罹患していた持病の不整脈の悪化もあり、関塚が検査入院のため離脱。入院こそ免れたものの、ドクターストップがかかり、同月24日に監督を辞任。ヘッドコーチの高畠勉が監督に昇格した。
一方、5月27日には我那覇和樹が、スポーツ仲裁裁判所(CAS)にJリーグが科した処分(ドーピング禁止規定違反)の取り消しを求めた問題で、スポーツ仲裁裁判所は我那覇の訴えを認める裁定を下した(ただし、Jリーグ側は誤訳を盾に我那覇本人、及び当時のチームドクターへの正式な謝罪は未だ行われていない)。
6月21日には箕輪義信を札幌へ期限付きで放出するも、7月8日にはサントスFCのMFヴィトール・ジュニオールを期限付移籍で獲得。7月29日にはFW都倉賢を草津に期限付きで放出するも、8月5日にはサントスのFWレナチーニョを期限付き移籍で獲得した。
8月に川崎フロンターレ後援会の会員数が初の2万人を突破。また、この頃から等々力陸上競技場の老朽化及び混雑に対し、競技場の全面改修を求める請願書の提出の一環として、シーズン終盤に10万筆目標の署名活動を行った(最終的に15万4020筆を集め、2月18日に川崎市へ提出)。
シーズン中は数々の人事面での問題(特に先述のフッキ絡み)が噴出するも、首位争いを繰り広げてリーグ最終節まで優勝の可能性を残す戦いを見せ、2006年以来の準優勝でシーズンを終え、2009年度のAFCチャンピオンズリーグへ2年ぶり2回目の出場権を獲得した。
2009年
2009年シーズン基本フォーメーション |
- チームスローガン:「ONE STEP」
体調が回復した関塚が再び監督に就任、前年途中から指揮を執った高畠は再びヘッドコーチに就任した。
我那覇と箕輪がそれぞれ神戸、札幌に完全移籍し、原田拓が熊本へ、大橋正博がKリーグ江原へ、レンタル移籍だった都倉賢(草津)、西山貴永(仙台)が完全移籍するなど7選手が退団。また、FC東京にレンタル移籍していた佐原秀樹のレンタル期間が1年延長された。
主な補強はC大阪へ期限付き移籍していた相澤貴志の復帰、新戦力として、特別指定選手として2004年・2005年に所属していた清水の矢島卓郎を完全移籍で獲得(事実上の古巣復帰)、レンタル移籍だったヴィトール・ジュニオールを完全移籍で獲得、ジュニーニョも契約期間延長するなど攻撃陣を中心に選手を獲得した(なお、前年に東京Vのレンタル移籍から復帰した吉原慎也が磐田へ再度レンタル移籍)。
ナビスコカップは決勝まで進んだが、2000年、2007年に続き、準優勝に終わった。この決勝戦後の表彰式において、協会名誉総裁の高円宮妃久子はじめ協会幹部やスポンサー関係者の前で、川崎の一部選手が「首にかけて頂いた準優勝メダルを外す行為」、「握手を拒む行為」、「壁に寄り掛かかんだり、しゃがみ込む行為」、「ガムを噛みながらの表彰式参加」といった不適切な行動[6]をとったことが問題となった[7]。これを受けて川崎は謝罪[6]、準優勝賞金5000万円の自主返還、社長ら役員3人の減俸、選手の中で特に行動が問題視された森勇介の最低1試合の出場停止などの処分を発表[8]。
リーグ戦では終盤に首位に立つが第32節に大分に敗戦、鹿島に再度首位を明け渡した。優勝は最終節までもつれ込み、「川崎が勝ち、なおかつ鹿島が引き分け以下でなければ川崎の優勝はない」という状況で、12月5日の最終節で柏に3-2で勝利したが、鹿島が浦和に勝ったため鹿島の優勝が決まり、川崎は2年連続で優勝を逃した。天皇杯でも仙台に敗れた。関塚がこのシーズン限りで監督を辞任した。
12月26日に『公益のため多額の私財を寄附した』功に対して、日本政府より褒状を受けた[9]。
2010年
- チームスローガン:「+α -Plus ALFA-」
後任監督にヘッドコーチの高畠勉が就任。コーチ陣ではフィジカルコーチの里内猛がクラブを離れたが、U-18で指導に当たっていたクラブOBの鬼木達がトップチームコーチとして新たに迎えられた。
3シーズンに渡って左サイドを支えた村上和弘が大宮へ移籍。代わって横浜FMから小宮山尊信が完全移籍した。またフロントが補強の最重要ポイントとしていたボランチに、9年ぶりのJリーグ復帰となる稲本潤一を獲得。佐原秀樹がFC東京への期限付き移籍から2年ぶりに復帰した。一方で前シーズン限りでの契約満了選手は吉原慎也(のち柏に加入)のみ。また、山岸智や、養父雄仁、久木野聡・杉浦恭平といった若手選手がそれぞれ期限付き移籍で一旦クラブを離れた。
6月から7月にかけて行われた2010 FIFAワールドカップで日本代表に川島永嗣、稲本潤一、中村憲剛の3人が選出され、川島は日本の全4試合にフル出場し、ベスト16進出に貢献した。また稲本が終盤での出場で2試合、中村が1試合出場した。北朝鮮代表には鄭大世が選出された。
W杯終了後の7月、川島がベルギー1部のリールセSKへ、鄭がドイツ2部のボーフムへ移籍。更に先発メンバーから外されたレナチーニョが高畠の采配に不満を訴え、練習ボイコットからブラジルへ無断帰国し、8月末にポルトガル1部のポルティモネンセへの期限付き移籍が発表された。
中断期までは鹿島や名古屋を射程圏内に入れていたが、川島の穴を相澤貴志が埋めた一方、鄭の穴を埋めるには至らず、中断期間以降はこれまでの攻撃力に陰りが見えた上、守備でも脆さが露呈するなど先制しても逃げ切れない試合が目立つようになった。その後、次第に上位争いから脱落し5位でシーズンを終了、ACLの出場権も逃した。高畠は無冠に終わったことやACL出場権を逃したことの責任を問われる形で、監督を退任した。
2011年
- チームスローガン:「挑 -いどむ-」
高畠の後任にかつて2004年から2年間川崎でプレーし、前年まで町田で監督を務めていた相馬直樹が就任。5年間に渡って右サイドを支えた森勇介が東京V、稲本潤一の加入などで出場機会を減らした谷口博之がユース時代に所属した横浜FM、植草裕樹がレンタル移籍先の山形、木村祐志が北九州へそれぞれ移籍した。
一方で横浜FMから山瀬功治、田中裕介、東京Vから柴崎晃誠を獲得。U-21代表で活躍した實藤友紀をはじめとした6人の新人選手が加入した。
リーグ前半戦、勝ち切れない試合が続く中、第11-18節まで8戦負けなしで一時は3位まで浮上した。しかし、中盤戦(夏場の連戦)以降失速し、7月23日(第6節)の新潟戦で敗れると、8月14日(第21節)には最下位の福岡に逆転負け、8月22日(第22節)のG大阪戦は3点を得ながら6失点の大敗、8月28日(第24節)の柏戦では2点リードを15分間で覆され逆転負けするなど連敗を重ね、9月11日(第25節)の神戸戦でリーグ8連敗を喫した[10]。選手・監督が苦しむ中で迎えた9月17日(第26節)の山形戦、敗れれば降格圏へ転落する可能性も帯び始めるが、小林悠が挙げた1点を守り切って連敗を「8」で止め、9試合(56日)ぶりの勝利を挙げた[11]。
連敗脱出後も残留争いに巻き込まれる形となり、攻守の歯車が噛み合わずになかなか結果が出ない中でJ1残留こそ果たしたものの、前述の8連敗を喫するなど年間通して安定感に欠けた戦いを強いられ、J1復帰以降最低の11位に終わった。
シーズン終了後、J2時代から9年間にわたり川崎のエースストライカーとして活躍してきたジュニーニョが退団した。
2012年
- チームスローガン:「一体感」
前述のジュニーニョ(鹿島へ完全移籍)のほか、通算11年在籍していた相澤貴志[12]が町田に、横山知伸がC大阪に、菊地光将が大宮に、久木野聡が栃木に完全移籍、棗佑喜が栃木に、薗田淳が町田にレンタル移籍、松本拓也がレンタル移籍期間満了につき湘南に復帰、昨シーズン甲府にレンタル移籍していた養父雄仁が熊本へ完全移籍、吉田勇樹が現役を引退し、スクール・普及コーチに就任した。
補強は、湘南から西部洋平、C大阪から小松塁、京都から森下俊を完全移籍で、コリチーバFCからレナト、ジェシ。フロンターレになじみのあるグレミオからレネ・サントスをレンタル移籍で獲得、2年間愛媛にレンタル移籍していた杉浦恭平が復帰した。
地元での対新潟戦、その後の鹿島戦と開幕2連勝と順調なスタートを切ったが、最大で1得点以上を取ることができないなど攻撃面での迫力不足と連携面での機能不全を露呈し、公式戦5戦勝ちなしと低迷。その後3月31日の浦和戦、4月8日のFC東京戦で数的有利でありながら勝てないなど攻撃面での行き詰まりを見せたことや、開幕前後から選手との関係が疎遠になっていた事[13]などを理由に4月11日、相馬監督解任が発表された。以降、後任監督決定までの3試合(ナビスコカップ1試合を含む)をコーチの望月達也が監督代行として指揮を執った。同月23日、筑波大監督の風間八宏が新監督に就任した。
地域密着
富士通サッカー部は1996年にプロ化を推進するにあたり、Jリーグの理念に沿った地域社会との共生を目指すことをテーマに掲げた。地元川崎市の各行政区でのサッカースクール(学校巡回スクール含む)の実施といったサッカーに関わることだけでなく、地域の市民・区民まつりへの参加、市内各商店街等の行事への選手らの派遣(お年始など)、また地元商店街加盟店舗などの協賛によるマン・オブ・ザ・マッチの表彰制度「あんたが大賞」、週末のホームゲームでのサイン会等を積極的に行うように務めた。特に、クリスマスシーズンに行われる入院児への訪問活動「青いサンタクロース」は毎年恒例の奉仕活動として定着している。
一方、ホームタウンである川崎市も2004年9月に「川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー」を制定。フロンターレはこの創設メンバーとして認定を受け、これに基づく活動を推進していくことになった。また、その中で、川崎市は他の地元企業・団体、またサポーター持株会と共に、運営会社(当時の富士通川崎スポーツマネジメント)の株式の一部を取得した。現在は富士電機・富士通グループ各社のほか、川崎市に本社や事業所を持つ企業など36の団体が出資している。
2006年はクラブ創立10周年に当たり、川崎市商店街連合会を通じ、市内の全商店街の街灯にチームの応援タペストリー(ふろん太のデザイン)を配布。2006年1月の時点では、タペストリー掲示を了解したのが加盟全139団体(商店街以外を含む)中68団体と紹介されている。
また広報担当者のインタビュー記事には、後援会員の75%が等々力競技場と富士通本店・川崎工場のある中原区、クラブ事務所のある高津区、そして市が整備しフロンターレが指定管理者となって2006年4月に開業した「フロンタウン・さぎぬま」(フットサル場)のある宮前区の3区在住者で占められるとあり、クラブ方針としても特にこの3区での営業活動を先行して重視するとしている。
川崎競馬場で2006年11月2日にJBCマイル競走の前座として「祝10周年・フロンターレ特別」が行われた[14]。
またトップチームの麻生練習場がある麻生区では2009年に「麻生アシストクラブ」が発足した。「しんゆり・芸術のまちづくりフォーラム」内に事務所が置かれ、商店街や各種団体などが構成する同クラブを川崎市役所(麻生区役所)やフロンターレが後援する形を取って、同区内での広報・支援活動を展開する事になった[15]。同クラブでは小田急電鉄の協力も受け、麻生練習場の最寄り駅である小田急多摩線栗平駅のホーム脇陸橋に告知看板を出すなどの活動をしている[16]。
スポーツ交流パートナー事業以外の異競技交流では大相撲・春日山部屋が川崎市川崎区にある[17]という縁で、フロンターレのファン感謝デーに春日山部屋の力士をゲスト出演として招き、フロンターレの主催試合では春日山部屋の所属力士が同部屋のちゃんこを販売する屋台が競技場外の広場に毎回出店されている。一方、2009年からは毎年1回、両国国技館での本場所でフロンターレが告知してサポーターが集まる春日山部屋応援ツアーが実施され、同部屋所属の春日王克昌などの応援に駆けつけ(2010年9月13日 NHK総合テレビジョン「Bizスポ」より)、2011年も九月場所(秋場所)9日目の9月19日に実施された[18]。春日王は大相撲八百長問題によって同年4月に引退したが、5月3日のジュビロ磐田戦では春日王が試合前にグラウンドに登場して引退報告と今までの支援への感謝を述べ、5月28日に行われた春日王の断髪式には武田社長が参加した[19]。元プロボクサーの新田渉世が川崎市多摩区に開いている川崎新田ボクシングジムとも協力関係にあり、2011年8月16日にとどろきアリーナで行われた同ジム主催の興行ではふろん太が登場し、「日本マスコット級タイトル決定戦(非公認)」として一平くん(愛媛FC応援マスコット)と対戦して勝利した後、メインイベントだった黒田雅之の日本ライトフライ級タイトルマッチでのラウンドボーイを務めた[20]。
2009年からは地元密着のための事業の一つとして、小学6年生用のオリジナル算数ドリルを作成し市内の小学校に配布している[21]。これはプレミアリーグのアーセナルがロンドン市と共同で毎年製作している外国語学習教材にヒントを得たもので[22]、初年度は市内の1校のみに配布されたが、2010年は前年のナビスコ杯準優勝の賞金を原資に市内の全小学校及び特別支援学校に配布先を拡大[23]。2011年からは川崎市からも補助金が出るようになった[24]。このドリルを題材とした小学生と選手の交流授業「算数ドリル・ゲストティーチャー」も行われている他[23]、2011年には東日本大震災で被害を受けた岩手県陸前高田市の小学校にも同ドリルが寄付された[25]。
これらの活動を広くまとめた書籍として、2011年6月17日にフロンターレプロモーション部部長の天野春果が『僕がバナナを売って算数ドリルを作るワケ』を小学館から出版し、テレビ東京系のサッカー番組「FOOT×BRAIN」などでも紹介された[26]。
成績
タイトル
国内タイトル
- Jリーグ ディビジョン2:2回
個人別
- 2007年: ジュニーニョ
- ヤマザキナビスコカップ
- 2006年: 谷口博之 ニューヒーロー賞
国際試合
ユニフォーム
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|
チームカラー
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | 富士通 | FUJITSU | 1997年 - | |
背中 | SMBC日興証券 | SMBC日興証券 | 2011年4月 - | 2005年 - 2007年途中までは 商品名のピーカブー、 2007年途中 - 2011年3月までは 旧社名の「日興コーディアル証券」 |
袖 | 富士通マーケティング | 富士通マーケティング | 2011年 - | |
パンツ | PFU | PFU | 2003年 - 2005年、 2009年 - |
ユニフォームデザイン
- スポンサーではないが、2004年から右袖にはJリーグのロゴのほかにホームタウン名「KAWASAKI」の文字が書かれたワッペンが付けられており、選手やスタッフ用にはさらに「市の花」であるツツジの刺繍が添えられている。
- また、これもスポンサー扱いではないが2011年からユニホーム右脇部に川崎市高津区出身の岡本太郎デザインによる「挑」の文字が入るようになった。
- AFCチャンピオンズリーグについては規定によりスポンサーは1社に限られているため、FUJITSUの胸ロゴのみ[27]表記され、左袖に大会のロゴ、背番号上には選手名(アルファベット表記)を入れている。
ユニフォームサプライの遍歴
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー | アップシャツ |
1997 | FUJITSU | 富士通ゼネラル | NIFTY | - | PENALTY | 富士物流 |
1998 | FUJITSU GENERAL | Fsas | ||||
1999 | 富士通ゼネラル | asics | ||||
2000 | ||||||
2001 | ||||||
2002 | ||||||
2003 | PFU | - | ||||
2004 | NOEL | LAWSON | ||||
2005 | ピーカブー | |||||
2006 | ふくしまの米 | |||||
2007 | ピーカブー/ 日興コーディアル証券 | |||||
2008 | 日興コーディアル証券 | - | ||||
2009 | 富士通ゼネラル エアコン |
PFU | Canon-TOSHIBA | |||
2010 | ||||||
2011 | 富士通マーケティング | 日興コーディアル証券/ SMBC日興証券 |
PUMA | |||
2012 | SMBC日興証券 | 未定 |
- この他、1997-98年は旧JFL、1999年以降はJリーグのロゴが右袖に付く。
- 1998年 - 2004年の背中スポンサー、富士通エフサス (Fsas) の会社名は「富士通サポートアンドサービス」。
- ノエル(NOEL)は、2005年途中にCIの変更によりロゴが変更されたが、2005年シーズンは旧ロゴのままで、2006年シーズンより新ロゴに変更された。
- 2007年9月30日施行の金融商品取引法に伴い、日興コーディアル証券(当時)はユニフォームでの掲示名を商品名の「ピーカブー」から自社名に変更。ちなみに、このマスコットはホームゲームでたびたび登場し、川崎のマスコットであるふろん太とは大の仲良しである。
スポンサー
新聞などによるチーム略称の表記
- 2000年まで[28]は川崎市に本拠地を置くJリーグチームがヴェルディ川崎(V川崎)を含め2つあったので、区別の意味合いで川崎Fと表示していた。
- 2001年以後、ヴェルディが東京都にホームタウンを移してからも、Jリーグ公式サイトやJ's GOALでは川崎Fと表記されているが、川崎と記載されるケースもある(ウィキペディア日本語版も後者で表記)。なお、スポーツ新聞では日刊スポーツとスポーツニッポンは川崎Fと表記しているが他は川崎表記である。
- 本拠地等々力陸上競技場アウェーゴール裏2階席上部にある電光スコアボードのチーム表記は2010年までは川崎Fと表記されていたが2011年からは川崎と表記されている。
運営会社
応援番組
コラボレーション・パロディー
コラボレーション
- 2008年、漫画『GIANT KILLING』(作:綱本将也・ツジトモ、週刊モーニング連載)とコラボ。
- 2009年、TVアニメ『天体戦士サンレッド(作:くぼたまこと、ヤングガンガン連載)』とコラボ。
- 中村、井川、谷口の3選手、武田社長、マスコットキャラクター・ふろん太とその家族との共演アニメ(全4話)が制作され、『ファイト!川崎フロンターレ』内で放送された[3]。『サンレッド』のDVD2〜5巻に映像特典として収録されている。また、そのコラボレーション企画の一環として、タレントの髭男爵の2人(山田ルイ53世、ひぐち君)が開幕戦の始球式に登場した(両者とも、同作のアニメに声優として出演)。
パロディー
- 2007年のホームゲーム開催時(等々力スタジアム)に様々なパロディーやコラボレーションを実施。
- エースをねらえ!/4月15日の清水戦。Jリーグ加盟以来勝利を挙げていなかった清水を相手に「エース」ならぬ「エス(パルス)をねらえ!」と題して初勝利を目指そうという企画を行った。この時はアニメの「エースをねらえ!」で岡ひろみ役を演じた高坂真琴が「このゲームは絶対に負けられない!! 打倒オレンジ、ついに完結よ!!」といったフレーズの宣伝を行った。
- 川崎麻世(タレント)/6月30日の神戸戦で、川崎市のスポンサードマッチ(7月1日の市制施行記念日に合わせた記念試合)を実施。その試合で川崎麻世が「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をハーフタイムショーとして熱唱。2006年までは西城秀樹が、川崎市内在住の縁でほぼ毎年招聘されていた。
- 朝日放送テレビ・パネルクイズアタック25/8月25日のガンバ大阪戦の試合において、同番組とのコラボレーション「アタック25日」を開催。博多華丸が児玉清の物まねで「フロンターレ!! 大事なアタックチャーンス!!」とPRした他、同番組の特徴である回答者のカラーの入れ替わり(ガンバの青からフロンターレの水色)のパフォーマンスをバックスタンドのフロンターレ応戦席で行った。
- あいのり/5月11日のAFCチャンピオンズリーグ・アレマ・マラン(インドネシア)戦で、同大会初出場・初の決勝ラウンド進出決定の時にサポーターがそれをパロディー化した「はつのり」のTシャツを着用し祝福。
- プロジェクトX〜挑戦者たち〜/9月に行われるアウェーでの鹿島(9月1日)、柏(9月22日)の試合を、ホームタウンの頭文字が全て「K」(川崎=Kawasaki、鹿島=Kashima、柏=Kashiwa)で始まるということ、更に「決戦の9月」という意味合いも込めて、大応援団を川崎から繰り出そうという**「プロジェクトK(打倒!! 鹿島&柏)」なる試みを行った。なお、2006年のホーム鹿島戦ではスキージャンプ競技の極限点になぞらえた「K点越え」キャンペーンを実行した。
また、こういったコラボレーションで、スポンサーの一つであるとんかつ和幸協賛の下、パロディー弁当が発売された。
- 清水戦/「カツのよ!!フロンターレ弁当」(オレンジデザート入りのとんかつ弁当)
- 神戸戦/「マヨわずカツ弁当」(とんかつにタルタルマヨネーズソースが添付されている)
- G大阪戦/「アカッツ!! チャンス!!弁当」(当日発売されたカツ弁当の半数に幸運をもたらすといわれる「ラッキーメンチカツ」が挿入されている)
※このパロディー弁当が発売されると必ずチームは勝利を挙げている(2008年8月25日現在)。
選手・サポーターによるイベント
近年、等々力競技場での試合で勝利した場合、試合後に選手たちがサポーターの前で、イベントを行うことが恒例となっている。これは、2002年から3年間在籍したDF岡山一成が試合後、「岡山劇場」と呼ばれる試合後のマイク(メガホン)パフォーマンス(これは後に岡山が在籍する柏や仙台でもやっており、サポーターからの評価を得た)をやって以降、試合後のイベントは定着。等々力競技場はピッチとの間にトラックがあるため、そこまで近くないものの、選手とハイタッチが出来るほどにサポーター席が低い事などが影響し、選手とサポーターが一体化しており、現在でもイベントを盛り上げている。
アウェイゲーム観戦ツアー
川崎フロンターレはサポーターのアウェイゲーム観戦ツアーに、他チームとは一風変わった企画を行うことが多い。特に新潟との東北電力ビッグスワンスタジアムにおいて行われた試合において勝利がなく、新潟戦を対象としたアウェイゲームでは大々的な企画を実施している。
- 2007年10月28日のFC東京ホームゲームの多摩川クラシコで、多摩川の「丸子の渡し」を約70年ぶりに復活させて船で東京へ乗り込むアウェイツアーを実施[30]。
- 2009年5月24日のFC東京ホームゲームの多摩川クラシコでは、試合前日の23日の夜に横浜から伊豆大島へフェリーで行き、試合当日の24日に大島空港から飛行機で味の素スタジアムの隣にある調布飛行場へ行くという遠回りなアウェイツアー「多摩川クラシコエアーツアー」を実施[31]。
- 2009年7月11日のアルビレックス新潟ホームゲームのアウェイツアーではそれまで新潟に10連敗していたため、「新潟戦11連敗阻止キャンペーン『11回目のプロポーズ』」と題し、全員そろいの川崎のチームカラーパジャマを着て貸切列車で移動するというツアーを実施。帰りの貸切夜行列車では、わざわざ新潟まで来たふろん太らが見送っていた。[32]
- 2009年10月7日の鹿島アントラーズとの16分間の再試合では、千円という格安のバスツアーを実施。平日にもかかわらず応募が殺到し、最終的にバス25台という大規模なものとなった。なお、この際には鹿島サポーターと思われる客は排除するという徹底ぶりだった[33]。
関連項目
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y クラブガイド:川崎フロンターレ Jリーグ公式サイト
- ^ 正確には、0-0のまま延長戦に突入した時点で山形のJ1昇格失敗と仙台の逆転昇格が決定していた。
- ^ 天皇杯前年度優勝クラブとJ1年間リーグ優勝クラブが同一クラブの場合、J1の年間準優勝クラブが繰り上げ出場となるため。
- ^ ACLプロジェクトチームを主宰。イランからの帰国時にUAEのドバイまでのチャーター便費用を補助していた。
- ^ 特に、時差の関係で川崎の敗北が決まった後も、サウジアラビアのリヤドにいた川崎のスカウトは準々決勝のアル・ヒラルvsアル・ワフダ戦を観戦し、勝ち上がったアル・ワフダのデータを浦和に提供した。アル・ワフダは準決勝でセパハンに敗れたが、JリーグチームのACL優勝を目指すための美談として伝えられた。
- ^ a b 弊クラブ所属選手の行為について (お詫び)、川崎フロンターレ公式サイト、2009年11月4日
- ^ 鬼武チェアマン川崎Fに激怒、nikkansports.com、2009年11月4日
- ^ 弊クラブ所属選手の行為について (対応・処分)、川崎フロンターレリリース、2009年11月5日
- ^ 『官報』 2010年(平成22年)1月8日付 第10頁 褒賞に告知されている。
- ^ 苦闘続く「相馬川崎」=ワースト8連敗、止まって12位 Jリーグ 時事ドットコム(jiji.com) 2011/09/30 15:38
- ^ 『小林弾で56日ぶり勝利!連敗「8」で止めた…川崎』スポーツ報知 9月18日(日) 8時2分配信
- ^ 2000年-2007年、2009年-2011年まで在籍(2008年はセレッソ大阪にレンタル移籍。)
- ^ “【川崎F】相馬直樹監督との契約解除に関する庄子春男GMコメント”. BLOGOLA. 2012年4月11日閲覧。
- ^ 地方競馬全国協会ニュースリリース、川崎競馬場ニュースリリース
- ^ 川崎市麻生区で川崎麻生アシストクラブが発足 k-press 2009年8月23日付
- ^ 新ランドマーク誕生! 川崎公式サイト内「フロンターレ日記」2010年5月19日
- ^ 同部屋の師匠、春日山由晃(現役時代の四股名は春日富士晃大)は川崎市で育ち、同市立桜本中学校卒業後に角界入りしていた。
- ^ JTBアウェイツアー「春日山部屋応援ツアー2011」参加者募集のお知らせ
- ^ [1] フロンターレ日記2011年6月7日
- ^ [2] フロンターレ日記2011年8月16日
- ^ 「フロンターレ算数ドリル」完成のお知らせ J's GOAL、2009年4月8日
- ^ 「川崎フロンターレ算数ドリル」完成 Jリーグ公式サイト・2009年4月28日
- ^ a b 川崎F:2010算数ドリル・ゲストティーチャー(稲本潤一選手、伊藤宏樹選手)レポート J's GOAL、2010年10月7日
- ^ 2011年度「川崎フロンターレ算数ドリル(上巻)」完成のお知らせ 川崎フロンターレ・2011年4月11日
- ^ 「川崎フロンターレ算数ドリル」の寄付について 川崎フロンターレ・2011年4月19日
- ^ 2011年11月12日放送、天野が中西哲生や中村憲剛と共に出演。
- ^ ただし、Jリーグとは違いFUJITSUの公式ロゴではなく角ゴシック体表記。
- ^ 1998年まではJリーグ準会員としてJFLとナビスコ杯に参加
- ^ スタジオからの中継
- ^ オフィシャルニュース|多摩川クラシコ「アウェイ舟ツアー」参加者募集のお知らせ J's GOAL
- ^ 【無事に味スタヘ到着!】多摩川クラシコ:川崎F「エアーツアー」レポート (2009年5月24日) J's GOAL
- ^ 川崎フロンターレ新潟戦アウェイツアー「11回目のプロポーズ」写真レポート J's GOAL、2009年7月12日
- ^ 「16分間」観戦ツアーにサポ殺到 豪雨中断の鹿島-川崎戦(MSN産経 2009年9月29日)
外部リンク
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