ミャンマー
- ミャンマー連邦共和国
- ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်
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(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:我、ミャンマーを愛さん
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公用語 ビルマ語 首都 ネピドー 最大の都市 ヤンゴン 独立
- 日付イギリスより
1948年1月4日通貨 チャット
バーツ(タチレク)(MMK)時間帯 UTC(+6:30) (DST:なし) ISO 3166-1 MM / MMR ccTLD .mm 国際電話番号 95 - 註1 : かつてのccTLDは .BU
ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく)、通称ミャンマーは、東南アジアに位置する共和制国家。1989年までの名称はビルマだった。インドシナ半島西部に位置し、北東に中華人民共和国、東にラオス、南東にタイ、西にバングラデシュ、北西にインドと国境を接する。首都はネピドー(旧首都はヤンゴン)。
国名
正式名称のビルマ語表記は、。国際音声記号では、[pjìdàuɴzṵ θàɴməda̯ mjəmà nàiɴŋàɴdɔ̀](ピダウンズ・サンマダ・ミャンマー・ナインガンドー)。通称は、Myanma Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。他にも、口語的な呼称としてBama(、バマー)、文語的な呼称としてMyanma(、ミャンマー)がある。
2010年以降の公式の英語表記はRepublic of the Union of Myanmar[2]。通称は Myanmar。
2010年以降の日本語表記はミャンマー連邦共和国。通称はミャンマー。
1948年から1974年までビルマ連邦、1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国(公式の英語表記はSocialist Republic of the Union of Burma )、1988年から1989年まではビルマ連邦、1989年から2010年まではミャンマー連邦(公式の英語表記はUnion of Myanmar )。通称は、独立以前から一貫して、ビルマ。漢語(北京官話)で緬甸と表記し、緬(読みは「メン」。泰緬鉄道など)と略する呼称が日本語でもそのまま使われた。日本軍統治(太平洋戦争)の間通称にされる。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語(ポルトガル語由来説もある)からもたらされた。
1989年6月18日に軍事政権「国家法秩序回復評議会」 (SLORC) は、国名の英語表記をUnion of BurmaからUnion of Myanmarに改称した。変更したのは英語表記のみであり、ビルマ語での国名は以前のまま同じである。軍事政権が代表権を持つ国連と関係国際機関は、「ミャンマー」に改めた。日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本のマスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで「ビルマ」を使い続けるマスメディアもある。朝日新聞は長らく「ミャンマー(ビルマ)」と表記していたが、2012年の春頃「(ビルマ)」を削除している。また、毎日新聞は「ミャンマー」表記を原則としつつも、専門家の寄稿については「ビルマ」表記も容認している。
軍事政権の正当性を否定する人物・組織は、改名が軍事政権による一方的なものだとして英語国名の変更を認めていない。ただし「ビルマ」が植民地時代にイギリスにより利用された名称であり、より民族主義的であるとされる「ミャンマー」表記を擁護する意見もある。
名称変更を認めていないアウンサンスーチーやビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) のほか、アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア政府などは「ビルマ」とし、EUは両表記を併記している。ASEAN諸国、日本、インド、中国、ドイツ政府などは「ミャンマー」表記を採用している。マスコミも対応が分かれている。タイの英字紙、BBC、「ワシントン・ポスト」、「VOA」、「タイム」、主要な人権団体は「ビルマ」を用い、「ニューヨーク・タイムズ」、「ウォール・ストリート・ジャーナル」、「CNN」、「AP」、「ロイター」は「ミャンマー」を採用している。
歴史
ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の氐族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である仇池が隋の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。四散した氐族は、中国雲南省大理にあったチベット・ビルマ語族の烏蕃氏の六詔の傘下に入ったと考えられている。後に六詔が統一されて南詔となった。
ビルマ王朝
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国した。 832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られた為、エーヤーワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間に渡って王朝が無かった。9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国(9世紀 - 1057年)が建国された。
ビルマ族の南下
1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤーワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。1057年、パガン王朝によってタトゥン王国が滅亡した。アノーヤター王(在位1044年 - 1077年)の時に王都になった。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受け、1287年のパガンの戦いで敗北し、1314年に滅びた。下ビルマには、モン族がペグー王朝 (1287年 - 1539年)を建国し。上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が、ピンヤ朝(1312年 - 1364年)とアヴァ王朝(1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。1385年から40年戦争が起こり、今日のミャンマー全土で行われた内戦となった。1486年、タウングーに流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によるタウングー王朝が建国された。タウングー王朝はペグーとアヴァ王朝を併合し、一時はアユタヤ王朝やラーンナー王朝、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が再興ペグー王朝を興した。1752年、アラウンパヤー王が即位し、モン族・シャン族を破ってビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。
イギリス統治時代
コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする英緬戦争で敗れて、1885年に滅亡する。1824年から1826年にかけて戦われた第一次英緬戦争では、ビルマがインドを支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求、イギリス側が拒否すると武力に訴えたが敗れた。イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争では、ビルマは国土の半分を失い、1858年から1861年にかけて新首都マンダレーを建設して遷都するが、1885年の第三次英緬戦争で王朝は滅亡し、1886年に、イギリス領であったイギリス領インドに併合されてその1州となる。ティーボー・ミン国王と王の家族はインドのゴア州ムンバイの南に近いラトナギリに配流され、その地で死亡した。
イスラム教徒のインド人を入れ、華僑を入れ、周辺の山岳民族もキリスト教に改宗させて多民族多宗教国家に変えた。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。
ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中に始まり、1929年の世界恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年にはタヤワディ地方で、農民が武装蜂起を行い、下ミャンマー全域に広がったが、1931年半ばに鎮圧された。
1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領となった。1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し(ビルマ戦役の始まり)、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。その後、1944年のインパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚とみるや、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は1945年3月、日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない。ミャンマー国軍は1942年のビルマ独立義勇軍建軍をもって国軍建軍としている。
独立
1948年にイギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦として独立するが、直前の1947年7月19日にアウンサンは暗殺された。初代首相には、アウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行い、ビルマ共産党は政権を離脱するなど、政権は当初から不安定な状態にあった。1949年、国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国連で中華民国と米国の策動に抗議した。
一方で政権はシャン州一部に国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍勢力を一掃した。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族やシャン族、コーカン族など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党が麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。
軍事政権時代
ネ・ウィン将軍は1958年から1960年の選挙管理内閣期を経て、1962年に軍事クーデターを起こす。 ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)の最高指導者となり、ビルマ式社会主義を標榜した。1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領に就任。以降1988年まで軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させた。1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、同将軍は7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反した軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持をはかった。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。
1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦への国名の改名を行った。1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。
軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。2005年11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、2006年10月に行政首都ネピドーへの遷都を公表。
選挙と民主化
前首相の死去に伴い、軍出身のテイン・セインが2007年10月首相に就任すると、軍政主導の政治体制の改革が開始される。 2008年新憲法案についての国民投票が実施・可決され民主化が計られるようになる。2008年5月2日、サイクロン・ナルギスがエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し甚大な被害をもたらした。 2010年10月国旗の新しいデザインを発表[3]。11月には新憲法に基づく総選挙が実施される。また同月政府はアウンサンスーチーは軟禁期限を迎えると発表し、その後軟禁が解除された。
2011年3月テイン・セインはミャンマー大統領に就任。同月国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。11月アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録されている。
- 「ミャンマーの政治」については後述
軍事政権が変更した町の名称
軍事政権は1991年にビルマをミャンマーに変更し、それと同時に町の名称などを1000以上変更した。ここでは軍事政権が変えた町の名称を紹介する(日本語表記は、[2]などを参照)。
旧名称(英字) | 旧名称(カナ) | 新名称(英字) | 新名称(カナ) | 備考 |
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Burma | ビルマ | Myanmar | ミャンマー | 1990年国際連合に申請、1991年に許可 |
Rangoon | ラングーン | Yangon | ヤンゴン | |
Pagan | パガン | Bagan | バガン | |
Akyab | アキャブ | Sittwe | シットウェー | |
Amherst | アムハースト | Kyaikkami | キャイッカミー | |
Arakan | アラカン | Rakhine | ヤカイン | ラカイン州(Rakhine State) |
Bassein | バセイン(バッセイン) | Pathein | パテイン(パセイン) | |
Maymyo | メイミョー | Pyin U Lwin | ピンウールィン | Pyin Oo Lwin(ピーン・オー・ルウィン)とも表記 |
Moulmein | モールメイン | Mawlamyine | モーラミャイン | |
Myohaung | ミョーハウン | Mrauk U | ムラウク | Mrauk Oo(ムラウク・オー)とも表記 |
Pegu | ペグー | Bago | バゴー | バゴー管区(Bago Division) |
Prome | プロメー | Pyay | ピャイ(ピャーイ) | Pyi(ピー)とも表記 |
Sandoway | サンドウェイ | Thandwe | チャンドウェー | |
Syriam | シリアム | Thanlyin | チャンリーン | |
Yaunghwe | ヤウンウェー | Nyaung Shwe | ニャウンシュウェ | |
Irrawaddy River | イラワジ川 | Ayeyarwady River | エーヤワディー川 | |
Salween River | サルウィン川 | Thanlwin River | タンルウィン川 | |
Sittang River | シッタン川 | Sittoung River | シッタン川 (※日本読み同じ) |
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Tennasserim | テナセリウム | Tanintharyi | タニンダーリ | タニンダーリ管区(Taninthayi Division) |
政治
この節の加筆が望まれています。 |
ネ・ウィン将軍が、1962年に軍事クーデターを起こし、憲法と議会を廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続いていた。
軍政以前の議会は、一院制の国民議会(英語でPeople's Assembly、ビルマ語でPyithu Hluttaw、人民議会とも訳す)。485議席。議員は、民選で任期4年。前回選挙は、1990年5月27日に投票が行われ、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) 392(81%)、シャン諸民族民主連盟 (SNLD) 23を獲得、国民統一党 (NUP) 10、その他諸政党が60の議席を獲得した。しかし、軍事政権はこの選挙結果を認めず、政権の移譲を拒絶し続けている。その為、NLDなどの反軍事政権勢力は、1990年にビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を組織し、軍事政権に対抗している。1993年には新憲法制定のための国民会議が招集されたが、NLDはボイコットした。
軍事政権は1994年から2007年にかけて、新憲法制定に向けての基本原則や内容を審議する国民会議を断続的に開催してきた。しかし1998年に民主化運動が高揚した際に、軍事クーデターを決行して1000人以上の国民を虐殺し弾圧を加え、翌1990年にはアメリカ合衆国にビルマ連邦国民連合政府が設立されている。そのトップはアウンサンスーチーの従兄弟のセイン・ウィン(Sein Win)であった。
2007年9月仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリスト長井健司を含める多数の死傷者を出した。2007年10月24日、民主化勢力に対し強硬な対応をとってきた国家平和発展評議会 (SPDC) 議長および国家元首であったタン・シュエと長らく行動を共にしてきたテイン・セインが新首相に就任。前首相ソー・ウィンまで続いていた軍主導の政治体制の改革が、テイン・セインの下で開始される。2008年5月10日及び同月24日に、新憲法案についての国民投票が実施・可決され、民主化が一歩一歩と計られるようになる。当時国家元首であったタン・シュエは表向き「私は一般市民になる、民主政権なのだから」と発言している[4]。
2010年2月13日、政府は最大野党・国民民主連盟 (NLD) の2003年5月から拘束されていたティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した[5]。同年2月15日、国連人権理事会のキンタナ特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウンサンスーチーとの2009年2月以来3度目となる面会を求めた[6]。4月26日、テイン・セイン首相は軍籍を離脱し、29日に連邦団結発展党を結成。10月21日、国旗を新しいデザインに変更すると発表[7]。11月7日には2008年の新憲法に基づく総選挙が実施され、連邦団結発展党が8割の得票を得て勝利宣言を行った。11月に政府はアウンサンスーチーは軟禁期限を迎えると発表し、13日に軟禁状態が解除される。拘束・軟禁は1989年から3回・計15回に及んだ[8]。
2011年1月31日、ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕。3月30日、テイン・セインはミャンマー大統領に就任。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた[9][10]。軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もあったが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意[11]。10月12日には政治犯を含む受刑者6359人が恩赦によって釈放された[12]。11月4日、テイン・セイン大統領は、政党登録法の一部改正(服役囚に党員資格を与えないとした条項の削除)を承認[13]。また2008年憲法の「順守」を「尊重する」に緩和した。11月25日、国民民主連盟 (NLD) は全国代表者会議を開き、長年認められなかった政党(野党)としての再登録を完了した。年内にも行われる国会補選に参加することを決めた。
国家元首
国家元首は、2011年3月より大統領となっている。同月、テイン・セインが連邦議会で軍籍ではない初の大統領に選出され、現職中である。
それ以前の国家元首は国家平和発展評議会 (SPDC) 議長だった。国家平和発展評議会は、1988年9月18日のクーデターにより国家権力を掌握した軍事政権が創設した国家法秩序回復評議会 (SLORC) を、1997年11月15日に改名した組織である。立法権と行政権を行使。首相は評議会メンバーの1人であったが行政府の長ではなかった。同評議会は2011年3月に解散した。
議会
2008年に制定された新憲法により、二院制の連邦議会が創設された。連邦議会は上院(民族代表院、Amyotha Hluttaw)と下院(国民代表院、Pyithu Hluttaw)の2つで構成されている。議員は両院とも任期5年。議席数は上院が224議席、下院が440議席。各議院の議席のうち、4分の1は国軍司令官による指名枠となっており、残りの4分の3は国民による直接選挙で選出される。
2010年11月7日、新憲法に基づいて連邦議会の総選挙が実施された。軍事政権の翼賛政党連邦団結発展党 (USDP) は上下両院と地方議会合わせて1000人以上を擁立した。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) の分派である国民民主勢力 (NDF) は、140人にとどまった。NLDは選挙関連法が不公平だとして選挙のボイコットを決め、解党された[14]。総選挙の結果、USDPが全議席の約8割を獲得し[15]、NDFの議席は少数にとどまった。
2011年1月31日、総選挙後初の連邦議会が開幕し、複数政党制による議会としては49年ぶりの開催となった[16]。
2012年4月1日にはミャンマー連邦議会補欠選挙が実施された。NLDはアウンサンスーチーを含む44人の候補者を擁立し、同氏含む40人が当選するという大勝を飾った[17]。
政党
国際関係
一般
ビルマは中立的な立場による等距離外交を基本方針としているが、1983年10月にはラングーン事件を起こした北朝鮮と国交を断絶した(2006年10月国交回復)他、1997年7月には東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟している。また、欧米諸国とは、ビルマ国内の人権問題や政治の民主化をめぐる問題で対立しており、アメリカやEUからは経済制裁を受けている。その一方で、インド洋方面への進出口を求めている中国からは多額の援助を受けている他、インドとは経済的な結びつきを強化しているなど、近隣の大国とは比較的良好な関係を築いている。また、軍事面から北朝鮮との関係が改善している。
歴代のタイ政府は、タイ・ビルマ国境に展開する反軍政民族武装勢力の存在を基本的に黙認し、ビルマ国軍とのバッファーゾーンとして利用してきた。また90年代のタイ民主党政権(チュワン、アナン両政権)はビルマ軍政の政策に批判的な立場を取り、軍政との関係も決して良好ではなかった。しかし90年代後半には保守政治家チャワリットらが提唱する「建設的関与」論が力を持った。政府はビルマとの距離を縮める方向に傾き、97年のビルマのASEAN加盟にも賛成した。これは軍事政権の長期化を踏まえた上で、政治改革に向けた努力を後景に退かせ、国境地域の天然資源確保や国境貿易の拡大による経済効果を優先した結果である。ASEAN加盟後のチュワン政権やマレーシア政府の取り組みの積極性は、少なくとも主観的には、ビルマを地域政治の枠組みに入れた上で、民主化を促す点にある。ビルマへの「建設的関与」策が成功すればASEANの国際的地位を飛躍的に高めるはずだったが、ビルマ軍政は自らの支配を危うくするあらゆる改革に反対する姿勢を貫き、この舞台に乗ることは決してなかった。アウンサンスーチー襲撃事件と同氏の自宅軟禁の継続、キンニュン元首相の更迭劇、首都移転、ASEAN側が派遣した特使への丁重とはいえない処遇といった一連の政治的動きは、ASEANの「建設的関与」策が完全に破綻したことを示している。チャワリットに代表される経済優先路線を拡大したのがタクシン政権である。同政権は国境の反政府武装勢力への圧力を強め、タイ国内の反政府活動家や難民への取締を強化している。
2007年、アメリカとイギリスは軍事政権にアウンサンスーチーを始めとする全ての政治犯の即時釈放を求める非難決議を提出し、1月12日国際連合安全保障理事会で採決した。しかし、中国とロシアが拒否権を発動し、否決された(賛成は米、英、フランスなど9カ国。反対は中、露、南アフリカ共和国の3カ国。棄権はインドネシア、カタール、コンゴ共和国の3カ国)。ASEAN諸国では、軍事政権への非難には慎重論が強い。
2007年10月11日、国連安全保障理事会は、僧侶や市民らによるデモに対する軍事政権の実力行使を強く非難する議長声明案を、全会一致で採択した。
旧来は北朝鮮や中国といった独裁国家と親密であったミャンマーであったが、2011年以降急速に進んだ民主化により、それまで冷え切っていた欧米との関係が改善した。アメリカのヒラリー・クリントン国務長官はネピドーを訪れた際、北朝鮮と縁を切るよう公式にテイン・セインミャンマー大統領との会談で要請しているが、2012年2月現在結論は出ていない。また、北朝鮮の友好国である中国の援助に依存していた(この恩恵を受けていたのは軍部や政治の上層部の人間たちのみで、一般国民は貧困にあえいで、なんら恩恵を受けていなかった)状態を脱却できるかどうかも試されている。2012年現在は、ミャンマーが国際社会の一員に復帰できるかどうかのちょうど境目にあたる時期といえる。
対日関係
ビルマは1954年11月の平和条約締結以来、日本と友好的な関係を築いてきた。特にネ・ウィンは日本の政治家に根強い親ビルマ的空気を敏感に察知し、「親日国ビルマ」を演出するパフォーマンスに長けていたことは現代日緬関係史研究における常識に属する。このことがBSPP時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼしている。欧米諸国とは対照的に、1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきた。ただし、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、2003年から停止されている。ビルマの人権問題や民主化問題に対し、日本政府は軍事政権と民主化勢力の双方に、“対話による解決を粘り強く働きかける”方針を採用しており(長井健司射殺事件に関する福田康夫の発言「直ちに制裁するかどうかはもう少し見極めてから」など)、これまでに幾度か軍事政権に働きかけを行ってきた。しかし、これまでのところは芳しい成果が上がっていない。ビルマの軍歌には軍艦行進曲の旋律を流用したものがあり(但し、歌謡にも日本の旋律を流用した物が見られる)、ビルマ軍部の親日的傾向を示す根拠として提示されることがある。
日本では東京の高田馬場に日本国内最大の在日ビルマ人コミュニティが存在し、ビルマ料理店やビルマ語教室などが集中している。在日ビルマ人は約8千人(2010年)。
2012年2月、日本政府はヤンゴン郊外のティラワ港経済特別区の上下水道、道路、光ファイバーケーブル、次世代電力網といった最先端のインフラ整備を請け負った。実際の開発はミャンマー側が日本の企業を誘致し行う。ミャンマー側もかねてから日本に開発をゆだねたいという意思をテイン・セイン大統領が示していた。これにより、立ち遅れていたミャンマー経済の大きな飛躍が期待される[18]。
軍事
ミャンマー国軍は1942年に創設されたビルマ独立義勇軍をその起源とし、国軍最高司令部、陸軍司令部、三軍情報司令部、空軍司令部と海軍司令部などからなる。タン・シュエ上級大将が国防軍最高司令官である。現有兵力は約41万で、陸軍37万5千、海軍1万6千、空軍1万5千からなる。この他に警察部隊7万2千と民兵3万5千が存在する[19]。陸軍は13の軍管区を中心に編制されている。海軍基地、空軍基地が各6個ある。長年、志願兵制であったが、2011年に徴兵制が敷かれた(詳細は不明)。対外的な軍事同盟締結を拒否し、原則的に外国に対して軍事基地を提供していない。ただし、中国は例外で、1994年6月から大ココ島を賃借しており、中国はレーダー基地と軍港を建設している。この中国の海洋戦略は真珠の首飾り作戦と呼ばれ、アメリカ・英国・インドのインド洋における制海権に対して挑戦するものとの見方もあるが、中国にとってもポートスーダンとのシーレンを守るエネルギー戦略上の拠点となっている。
近年ではこの中国の支援に対抗する形で、小規模ながらインドからも航空機や中古戦車の装備の導入が始まっている。
1990年代までは「反共」を標榜する独自の社会主義であるビルマ式社会主義を取っていたため、旧東側からの支援はほとんど行われず、西側諸国にしても南ベトナムのようなケースと異なり限定的に装備の提供を行ってきた。このため、80年代までは「黄金の三角地帯」対策として供与されたアメリカの装備(UH-1汎用ヘリコプター、AT-33COIN機、ターボスラッシュ農業機―ケシ畑への除草剤散布に使用―など)を中心にしていた(この装備供与に、CIAは当時から反発していたともされる)。90年代以降はアメリカからの支援は断絶状態となった。代わって台頭しつつあるのが中国やロシア、インドであり、J-7やQ-5、MiG-29等の導入はその表れである。さらにラングーン事件以降冷え切っていた北朝鮮との関係が1996年頃から軍事・政治面で改善した結果、野砲・ロケット砲などの武器購入や基地建設の技術支援交流や軍人交流訪問等が行われている。その一方で、中国はワ州連合軍などのミャンマー・中国国境に展開する反政府勢力への支援も継続しているといわれている。
また、外交関係が不安定であることから軍備の国産化が進んでおり、すでに自動小銃(ガリルやH&K G3等)や弾薬、暴徒鎮圧用の軽装甲車などは国産での調達が可能といわれる。海軍が保有しているコルベットもミャンマーにて建造されたものである。
ミャンマー軍のヘルメットは迷彩柄で、形はアメリカ軍がかつて採用していたPASGTヘルメットで(通称フリッツヘルメット。同型のヘルメットを軍で使用している中華人民共和国からの輸入であると考えられる)あり、ヘルメットの中央部に白い五角星があしらわれている。
少数民族の民兵組織
2009年現在も、カチン独立機構(KIO)の軍事部門であるカチン独立軍(KIA)、旧ビルマ共産党の流れを汲むワ州連合軍(UWSA)、カレン民族同盟の軍事部門であるカレン民族解放軍、シャン州軍(SSA)、コーカン族の民兵組織である全国ミャンマー民主同盟軍(MNDAA)などがあり、なかにはカレン民族解放軍の分派民主カレン仏教徒軍(DKBA)のように親政府の民兵組織まで存在する。
1990年代初頭にビルマ共産党が内紛で崩壊した事により、キン・ニュンが同党の後身組織であるワ州連合軍との停戦を成立させたのを皮切りに、カレン民族解放軍や都市部での学生運動を端緒としており他の民兵組織と異なるが、弾圧により地下組織化した全ビルマ学生連盟(ABFSU)などを除いてほとんどの組織は政府軍との停戦に応じている。ただし、この停戦は投降には程遠く、いずれの組織も武装解除にはほとんど応じず独自の解放区を維持し続けている。特にUWSAやSSA、MNDAAは麻薬製造を続けている一方で国内でホテルなどの合法ビジネスも行なっており、現在でも中国などから入手した高度な装備を保有している。UWSAなどシャン州の民兵組織は中国・ミャンマー国境の軍事的に重要な地域に支配地域が存在しており、経済封鎖で中国偏重になっているミャンマー経済の生命線を握っているともいわれる。
これらの民兵組織は現在も停戦を続行しているものの、軍事政権内で和平推進派であったキン・ニュン派の失脚や停戦条件である自治拡大が実行されていない事などから反発を強めているともされている。とくに最近では和平推進派が軍事政権内で減退した事から強硬派が強まっているとされ、2009年には麻薬捜査を発端としてMNDAAとミャンマー政府軍が交戦状態に発展した。このほかの各民族の私兵にも自主的に解散もしくは国軍指揮下の国境警備隊へ編入するかを要求しており、軍事的圧力が再び強まっている。
かつて麻薬王として知られたクン・サ率いるモン・タイ軍は自主的に解体されたものの、同軍の将兵はUWSAなどに流れていった。旧ビルマ共産党は同項目に書かれている経緯から分裂して消滅しており、中国国民党の残党も高齢化や国際支援の消滅、クン・サなどの分派の登場などからすでに過去の存在となっている。
核兵器開発疑惑
2010年6月4日、中東の衛星テレビ局「アル・ジャジーラ」がミャンマー軍政が核兵器開発に着手した証拠があると報道した[20][21]。また、オーストラリアの新聞「シドニー・モーニング・ヘラルド」によると、ミャンマーは北朝鮮の協力を得て、2014年までに原子爆弾を保有することを目指しているという。2010年12月9日には英紙「ガーディアン」が、軍政がミャンマー丘陵地帯で秘密地下核施設の建設をしているとの目撃情報がアメリカに伝えられ、また、北朝鮮の技術者を見たという目撃情報も寄せられていたことが内部告発サイト「ウィキリークス」に掲載された米外交公電により明らかになったと報道した[22]。
地方行政区分
7つの管区(タイン)と7つの州(ピーネー)に分かれる。管区は、主にビルマ族が多く居住する地域の行政区分。州は、ビルマ族以外の少数民族が多く居住する地域となっている。
管区
通俗的に、上ビルマ (2,5,6) と下ビルマ (1,3,4,7) に区分される。
州
地理
ミャンマーは北緯10度から28度の間に位置し、南北に伸びる長い国土が特徴である。陸では中国・タイ・ラオス・インド・バングラデシュと国境を接し、境界線の総延長距離は約4,600kmに達する。 海側はマルタバン湾・ベンガル湾・インド洋と面しており、海岸線の全長は約2,000kmである。
気候
国土の大半が熱帯又は亜熱帯に属するが、気温や降水量は地域による差異が大きい。
水理
国土の中央をエーヤワディー川が縦断しており、河口付近は広大なデルタ地帯を形成している。 主要な河川としては他にサルウィン川やチンドウィン川等がある。
経済
IMFの統計によると、2010年のミャンマーのGDPは356億ドルであり[23]、福井県とほぼ同じ経済規模である[24]。
主要農産物は米で、農地の60%を水田が占める。国際米作研究所が1966年から30年間にわたり、52種の米を全土で試験栽培し、収量向上に貢献した。また、宝石の産出量も多く、世界のルビーの9割を産出し、タイがそのほとんどを購入している。サファイアも品質の高さで知られる。しかし、採掘はほとんどが国営で、労働環境の悪さから欧米などの人権団体は不買を呼びかけている。政府は観光に力を入れ毎年75万人ほどの外国人観光客があるが、立ち入り場所が厳しく制限され、軍隊や警察により外国人と国民の接触が監視され、政治について語ることは犯罪である。
ビルマはかつて東南アジア有数の大国であり、イギリス統治下においても東南アジアで最も豊かな地域のひとつであった。米の世界最大輸出国であり、チークなど木材をはじめ天然資源が豊富で、石油生産・輸出も盛んに行われていた。また人的資源も優れており、識字率は高く、独立後は東南アジアでも早く成長軌道に乗るだろうと考えられていた。1952年に経済開発計画が立案されたが、内乱や外貨事情の悪化から4年ほどで破棄される結果に終わった。
1962年から1988年まで、ネ・ウィン軍事政権はビルマ式社会主義という国家基本要綱に基づき、国有企業主導の統制経済による開発を行なった。この間、主要産業の企業・貿易は国家の管理下に置かれ、土地も国有化された。また、工業化政策によって1960 - 1970年代において、工業は一応の発展を遂げた。しかし、1980年代に至ってもGDPで工業が占める割合は10%程度で、依然農業が主産業の座を占めていた。また、鎖国的な経済体制によって、最貧国と認定される程にビルマ経済は著しく停滞し、他のアジア諸国と大きな差をつけられる結果となった。
1988年のソウ・マウンによる軍事クーデター後、ビルマ援助国の大部分が経済援助を凍結した為、国家法秩序回復評議会 (SLORC) は社会主義計画経済の放棄と自由市場経済体制への転換を決めた。SLORCは、豊富な天然資源と安価な労働力を基とした民間企業主導型の輸出指向型の政策を打ち出し、外国人による投資の大幅な許容、近隣諸国との国境貿易合法化や国営企業の民営化等、市場経済改革が実施された。
最近では工業部門が飛躍的に成長し、工業化が進展しているように見える。しかし、これは、天然資源開発中心の国有企業主導型の工業開発によるものであり、民間製造業主導型の工業開発ではない。天然資源開発は急速な早さで環境を破壊している。また、天然資源採掘地域においては、強制労働・強制移住などの人権侵害が行われているという事実がある。
以上の事実から、欧米諸国はミャンマー製品の輸入禁止や、新規海外直接投資禁止などの経済制裁を行っている。 特にアメリカのミャンマー製品輸入禁止と送金禁止はミャンマー経済に大きな影響を与えている。近年、民間製造業において急速に発展してきた縫製産業は、そのほとんどがアメリカ向けの輸出産業であったため、経済制裁発動後は多くの工場が操業停止状態に追い込まれ、そこで働いていた多くの労働者が職を失った。
このように、ミャンマー経済は政治的要因により、離陸の機会を失っていると考える向きもある。ベトナムやカンボジア、ラオス、バングラデシュなど、周辺国は2000年代になって以降、衣類生産などの軽工業で発達で経済成長の緒に就き、一時は東南アジアでもっとも豊かな国で80年代~90年代に経済が低迷していたフィリピンも2000年代からコールセンターなどのサービス業の台頭で、また隣国タイもクーデターやリーマンショックで一時低迷も東南アジアでは比較的工業化が進んでおり回復は早く再び経済に活気を取り戻しつつあるがミャンマーは諸事情で取り残されているとされる。しかしながらヤンゴン周辺では工業化も見られ、日本の中古車が非常に人気であり、立ち遅れていたミャンマー経済の成長も期待できる材料もある。
欧米が投資や貿易を控えているのに対し、中国とインドが関係強化に努めている。投資をしている国は中国、シンガポール、韓国、インド、タイなどである。特に中国はマラッカ海峡を通らずに石油を自国に運ぶため、ミャンマーから原油とガスを輸入するためのパイプラインを建設しようとしている。
欧米諸国がミャンマー製製品を輸入禁止にしているのに対し、日本は特に輸入規制などは行っておらず、日本はミャンマーにおける製品輸出先の5.65%(2009年)を占めている[25]。ミャンマー製のカジュアル衣類なども日本国内で販売されている。
しかし、日本貿易振興機構の資料によると、現段階でミャンマーに進出している企業は、中国が約27000社、タイが約1300社に比べ、日本はわずか50社に過ぎない。この背景には、ミャンマーに経済制裁を科しているアメリカの存在があり、アメリカとビジネスをしている企業は、アメリカでどのような扱いを受けるかを恐れ、ミャンマーに進出することがしたくてもできない状態であるという[26]。
ただ、中国の賃金水準上昇と、チャイナ・リスクの存在が日本企業に広く認識されている中、米国向け輸出品が多く日本企業には不利なベトナムや、日本企業の誘致に消極的なカンボジアやバングラデシュなどの代わりに、「アジア最後の経済未開拓市場」との呼び声も高いミャンマーに対する日本の注目が2010年前後から集まっている。ベトナムの約3分の1(ベトナムの賃金は中国の約6割)の賃金で従業員を雇え、中国と比較すると労働力の安さが特段際立っている。しかしながら、ハエが飛び回るような不衛生な食品工場が多数存在していたり、また、労働環境の苛酷さや児童労働、そして何より、ミャンマー独特の政治的事情など、現段階では課題も多い。だが、2010年の総選挙で形式的には民政移管を果たしたため、今後の政治的事情などが改善されれば、海外からの投資を呼び込め、ミャンマー経済が離陸を始めることができるという見方もある[27]。
2012年に入って以降、アメリカが民主化を評価し、ミャンマーへの政策を改める見通しが出始めており、これまでアメリカの顔色を伺って現地進出したくてもできなかった日本企業にとっては明るい兆しと言える。また、ミャンマー側にとっても経済発展は悪い話ではないし、ベトナム、カンボジア、バングラデシュに大きく遅れをとったが、グローバリゼーションが進む21世紀の世界において、安いコストで衣類などの軽工業品を生産できることは、企業側にとっては良いビジネスになりうる。また、結果として多くのミャンマー国民の雇用を生み出すという点でも重要である。
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国民
- 人種・民族[28]
- 宗教
- 上座部仏教 90%
- キリスト教 4% (バプテスト教会 3%、ローマ・カトリック教会 1%)
- イスラム教 4%
- 精霊崇拝(信仰) 1%
- その他(ヒンズー教など) 1%
- 言語
- ビルマ語(公用語)
- 少数民族諸語(シャン語、カレン語など)
文化
世界遺産
ユネスコの世界遺産への登録はないが、世界三大仏教遺跡の1つであるバガン(旧称パガン)の寺院群が、登録申請中である。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | ラテン文字表記 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1月4日 | 独立記念日 | လွတ်လပ်ရေးနေ့ | Lut lat yay nei | 1948年1月4日の独立を記念 |
2月12日 | ユニオンデー | ပြည်ထောင်စုနေ့ | Pyidaungzu nei | 1947年2月12日の各民族間のパンロン合意を記念 |
3月2日 | 小作農の日 | တောင်သူလယ်သမားနေ့ | Taungthu lè thama nei | |
3月13日 | タバウンの満月 | တပေါင်းလပြည့်နေ့ | Tabaung la pyei nei | パゴダを作る祭 |
3月27日 | 国軍記念日 | တပ်မတော်နေ့ | Tatmadaw nei | 1945年3月27日のビルマ国軍対日蜂起を記念 |
4月13日 - 4月16日 | 水祭り | သင်္ကြန် | Thingyan | ビルマの新年を祝う |
4月17日 | ビルマの新年 | နှစ်ကူး | Bama hnithitku | |
5月1日 | 労働節 | အလုပ်သမားနေ့ | A louk thama nei | |
5月11日 | カゾンの満月 | ကဆုန်လပြည့်နေ့ | Kason la pyei Boda nei | 仏陀の誕生・入滅・悟りを菩提樹に水をかけて祝う |
7月9日 | 雨安居(仏教徒受難節始日) | ဝါဆိုလလပြည့် | Waso la pyei nei | |
7月19日 | 殉教者の日 | အာဇာနည်နေ့ | Azani nei | 1947年7月19日のアウンサンらの暗殺を記念 |
10月6日 | 仏教徒受難節終日 | သီတင်းကျွတ် | Thadingyut | |
10月 - 11月 | ディーワーリー | ဒေဝါလီ | Deiwali | |
11月4日 | ダザウンダインの満月 | တန်ဆောင်တိုင်ပွဲ | Tazaungdaing pwe | ランタンの祭り |
11月14日 | 国慶日 | အမျိုးသားနေ့ | Amyotha nei | 1920年11月14日のビルマ最初の学生ストを記念 |
12月19日 | カレンの新年 | ကရင်နှစ်သစ်ကူး | Kayin hnithiku | カレン族の新年 |
12月25日 | クリスマス | ခရစ္စမတ် ပွဲတော်နေ့ | Hkarissamat nei | |
11月 - 1月 | イード | အစ္စလာမ် ဘာသာ | Id nei | イスラム教徒の祭日(イード・アル=フィトル、イード・アル=アドハー) |
ミャンマーを題材とした作品
脚註
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ Myanmar gets new flag, official name, anthem | Reuters (Thu Oct 21, 2010 9:25am EDT)
- ^ “ミャンマー新国旗を公表 市庁舎などで一斉付け替え”. MSN産経ニュース (2010年10月22日). 2011年1月9日閲覧。
- ^ “UN gains leverage over Myanmar”. Asia Times Online. (2009年7月15日) 2012年1月2日閲覧。(英語)
"I will be an ordinary citizen, a lay person, and my colleagues will too because it will be a civilian government." - ^ “野党副議長の軟禁解除 ミャンマー軍政、7年ぶり”. MSN産経ニュース (2010年2月14日). 2011年1月9日閲覧。
- ^ “国連人権報告者が1年ぶりにミャンマー訪問”. MSN産経ニュース (2010年2月15日). 2011年1月9日閲覧。
- ^ “ミャンマー新国旗を公表 市庁舎などで一斉付け替え”. MSN産経ニュース (2010年10月22日). 2011年1月9日閲覧。
- ^ スー・チーさん、民主化勢力の再結集訴え 解放後初演説 2010年11月15日]
- ^ “ミャンマー新政府が発足=軍政解散、「民政移管」完了”. asahi.com (朝日新聞社). (2011年3月30日) 2011年4月3日閲覧。
- ^ “ミャンマー新政府が発足 大統領就任、軍政に終止符”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2011年3月30日) 2011年4月3日閲覧。
- ^ “「国の発展に協力」スー・チーさんと政権が共同声明”. 朝日新聞. (2011年8月12日) 2011年8月17日閲覧。
- ^ “ミャンマーで政治犯釈放開始、民主化デモ指揮の僧侶も”. ロイター. (2011年10月12日) 2011年10月13日閲覧。
- ^ “スー・チーさん政党参加可能に ミャンマーで改正政党登録法が成立”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2011年11月5日) 2011年11月7日閲覧。
- ^ ミャンマー総選挙:立候補者名簿、届け出締め切り 毎日新聞 2010年8月31日
- ^ “最近のミャンマー政治情勢”. 在ミャンマー日本国大使館. 2012年1月2日閲覧。
2010年11月には複数政党制民主主義制度に基づく総選挙を20年ぶりに実施した結果、連邦連帯開発党 (USDP) が連邦及び地方議会の双方で8割近くの議席を獲得して圧勝しました。 - ^ ミャンマー議会開幕 上下両院議長に退役将軍
- ^ スー・チーさんのNLD、40人当選と選管発表(読売新聞 2012年4月2日)
- ^ “ミャンマーに最先端スマートシティ 日本政府が全面協力、インフラ輸出促進”. 産経新聞. (2012年2月29日) 2012年2月29日閲覧。
- ^ International Institute for Strategic Studies(IISS),The Military Balance 2008
- ^ “ミャンマー、核兵器開発に着手か=反軍政メディアが証拠放映”. 時事通信. (2010年6月4日) 2010年6月5日閲覧。
- ^ “Myanmar 'nuclear plans' exposed”. アル・ジャジーラ. (2010年6月4日) 2010年6月5日閲覧。
- ^ “【米公電流出】ミャンマーが秘密の地下核施設? 北朝鮮関与も”. 産経新聞. (2010年12月10日) 2010年12月11日閲覧。
- ^ IMF
- ^ 国民経済計算
- ^ CIA The World Factbook
- ^ “ミャンマー:「民政移管」 アジア最後のフロンティア、経済成長なるか”. 毎日新聞. (2011年2月7日) 2011年2月8日閲覧。
- ^ “【ルポ】ミャンマー「秘密首都」を歩く”. 時事通信 2010年11月23日閲覧。
- ^ 出典:英語版(en)の数値
関連項目
外部リンク
- 政府
- 国家平和開発評議会 (英語)
- 在日ミャンマー大使館 (英語)
- 日本政府
- 日本外務省 - ミャンマー連邦共和国 (日本語)
- 在ミャンマー日本国大使館 (日本語)
- 観光
- ミャンマー観光促進部 (日本語)
- その他