ペグー王朝

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ペグー王朝
パガン王朝 1287年 - 1539年 タウングー王朝
ペグー王朝の位置
15世紀の東南アジアの勢力図
ピンクの地域がペグー(ハンターワディー)王朝の支配範囲にあたる
首都 マルタバン、ドンウン、ペグー(ハンターワディー)
元首等
1287年 - 1296年 ワーレルー
1385年 - 1423年 ラーザーディリ
1472年 - 1492年 ダンマゼーディー
1747年 - 1757年 ビンニャー・ダラ
変遷
建国 1287年
ペグー(ハンターワディー)への遷都 1369年
タウングー王朝によるペグー併合 1539年
ペグーを首都とする政権の再興 1740年
コンバウン王朝によるペグー併合 1757年
通貨 ガンサ、ブゼオ、銀貨、鉛貨

ペグー王朝は、13世紀末よりビルマ(ミャンマー)のペグー(バゴー)を首都としてエーヤワディー川流域の南部(下ビルマ)を支配した王朝

建国者のワーレルーはシャン族の人間であるが[1][2]、事実上モン族の国家と見なされている[3][4]王朝港市国家に分類される[5]。この王朝を指す際に、ペグーの旧称であるハンターワディー(ハムサワティ)にちなんだハンターワディー王朝ビルマ語: ဟံသာဝတီ ပဲခူး တိုင်းပြည်モン語: ဟံသာဝတဳ)の名称が使用されることも多い。

下ビルマには11世紀初頭までモン族の国家であるタトゥン王国英語版が存在していたが、タトゥン王国がビルマ族の国家であるパガン王朝によって征服された後、13世紀末にモン族の王朝が再興された経緯については不明な点が多い[6]。遅くとも15世紀の時点のペグー王朝は、過去に存在したモン族の国家とは全く異なる性質を有していた[6]

歴史[編集]

ハンターワディー遷都前[編集]

王朝の創始者であるマガドゥーは、下ビルマのタトゥン英語版地方のドンウン村の出身で、キンマ売りの行商人の元締めの子として生まれた[7]。マガドゥーはスコータイ王国の象使いに仕え、働きぶりを認められて近衛隊長に抜擢された。やがてマガドゥーはスコータイの王女と故郷の下ビルマに駆け落ちし、1281年マルタバン(モッタマ)のビルマ族太守アレインマを殺害して独立する[7]。独立後、マガドゥーはペグー太守タラビャーの元に妹を嫁がせ、婚姻関係を構築した。パガン王朝から派遣されたペグー遠征軍を撃退した後、マガドゥーは不仲になったタラビャーを殺害し、下ビルマ全域を支配下に置いた。

1287年にスコータイの援助を受けたマガドゥーはマルタバンを首都とする政権を樹立し、ワーレルーという即位名を称した。ワーレルーはスコータイに忠誠を誓い、スコータイ王ラームカムヘーンからチヤオ・ファ・ルアの称号を授与された[8]。そして、パガン王朝はワーレルーの独立によって経済の要の一つである海上交易の拠点を喪失した[9]。ワーレルーの治世に占い師、仏僧、バラモンが集められて既存の法典、司法判例を検討させ、新たな法典「ワーレルー・ダンマタ」が編纂された[10]。「ワーレルー・ダンマタ」はビルマに現存する最古の法典であり[11]、後世に編纂されたビルマの法典の基礎となった[12]1296年、ワーレルーはタラビャーの2人の遺子に殺害される。

ラームカムヘーンの死後にペグーはスコータイへの臣従を破棄し、スコータイ領のタヴォイとテナセリムを奪取した[8]。しかし、王族、盗賊、シャン族移民の反乱のため、政情は不安定な状態に置かれていた[13]。やがて、マルタバンはスコータイ、ラーンナー(チエンマイ)、新興のアユタヤなどのタイの政権の攻撃に晒されるようになる。1363年に反乱に遭った国王ビンニャー・ウーはドンウンに避難するが、6年間をドンウンで過ごした後に反徒によってドンウンの町を追放される。1369年にビンニャー・ウーは首都をハンターワディー(ペグー)に移した[10][14][15]。遷都後、ビンニャー・ウーの長子ラーザーディリ(ヤーザーディリ)がダゴン(ヤンゴン)で自立し、敵対する王族たちと争った。ビンニャー・ウーの死後にラーザーディリがペグーに入城し、王位を継いだ。

アヴァとの戦争[編集]

ラーザーディリの治世にアユタヤの支配下に置かれていたタトゥンを奪回し[14]、エーヤワディー流域南部が王朝の支配下に入る[16]1390年に内部の反乱と外敵の攻撃を克服したラーザーディリの政権は最盛期を迎え、アユタヤからはペグーの成功を祝福して白象が贈られた[17]。ラーザーディリの即位直後から、ペグーと上ビルマアヴァ王朝との戦争が本格化する[4]。アヴァとの戦争は稲の収穫が終わる時期に行われ、稲を植える雨季に戦争は中断された[18]1407年にラーザーディリはアヴァ王ミンカウンと講和を結び、ラーザーディリはミンカウンの妹を妃に迎えた[19]

1408年にミンカウンはペグーを攻撃するためにラーンナーと同盟し、戦争が再開された。アヴァ軍を破ったペグーはミンカウンの妃を捕虜にするが、母が捕らえられたことを知ったアヴァの王子ミンイエーチョーゾワは報復としてペグー各地を攻撃し、1415年にはペグーの領土西部がアヴァの支配下に入った[20]。ラーザーディリにはペグーとマルタバンのみが残されたが、1417年にミンイエーチョーゾワはペグーの捕虜になり、陣没した。1422年にミンカウンが没し、翌1423年にラーザーディリが没した[21]。ミンカウンが没したころに、ペグーとアヴァは休戦したと考えられている[21]

ラーザーディリの死後、子のビンニャー・ダンマヤーザーが即位するが、アヴァと同盟を結んだ兄弟の反乱に苦しんだ[22]。アヴァの兵士はペグーの領地で無差別に攻撃を行い、戦争の最中にビンニャー・ダンマヤーザーは妹のシンソーブを人質としてアヴァに差し出した[22]1426年にビンニャー・ダンマヤーザーは兄弟のビンニャー・ランに毒殺され、代わってビンニャー・ランが王位に就く。ビンニャー・ランはアヴァから脱出して帰国したシンソーブを厚遇し、タウングーの領主と同盟してアヴァを攻撃した[23]1446年にビンニャー・ランが没し、シンソーブの子ビンニャー・ワーレルーが新たな王となる。

また、15世紀のビルマにはしばしば西欧人が来航し、ロシアのアタナシウス・ニティキン、ジェノヴァのジェロニモ・デ・サント・ステファノらがペグーを訪れた[24]

ダンマゼーディーの登位[編集]

1453年のモードーの死後、ラーザーディリの男系子孫が断絶したため[25][6]、シンソーブが王に擁立され、ビンニャー・チャンドーの即位名を称した。シンソーブはアヴァの僧侶ダンマゼーディーの助けでアヴァからの脱出に成功し[26]、シンソーブはダンマゼーディーを重用して行政を委ねた[27]。シンソーブの治世にペグーが国家の中心的な都市になり、インド洋を通した海上交易によって繁栄する[28]1472年にシンソーブは退位し、ダンマゼーディーに王位を譲る。シンソーブに請われたダンマゼーディーは還俗し、シンソーブの娘と結婚して王位に就いた。

ダンマゼーディーはシュエモードー寺院を囲む形でのペグーの増築を計画し、多くの宗教建築物が新旧ペグーの間の高台に建設された[29]。ダンマゼーディーの元では、王権の正当化を目指して仏教界の改革が行われた[14]1475年にダンマゼーディーはセイロン島に22人の仏僧を派遣し、彼らはカルヤーニ川(ケラニ川英語版)の上流で具足戒を受けた[30]。カルヤーニ戒壇には内外から多くの若者が集まり、仏教の一大中心地となった[31]1479年にカルヤーニ戒壇にモン語パーリ語によって書かれた10基の碑文が奉納され、碑文はモン族の歴史、ビルマにおける仏教史を研究する上で重要な史料となっている[4]。また、ダンマゼーディーの治世には『ダンマゼーディー司法判決集』が編纂された。

1492年、ダンマゼーディーは王子ビンニャー・ランによって殺害される。

滅亡[編集]

1492年に即位したビンニャー・ラン2世は歴代の王の中で傑出した人物の一人だった[32]16世紀に入ってポルトガル王国が東南アジアの交易圏に現れるとペグーにヨーロッパの銃火器が輸入され、それを扱うポルトガル人傭兵が雇用されるようになった[33]。16世紀のペグーを訪れたポルトガル人トメ・ピレス英語版は、肥沃な土地と良港を称賛した[34]。ポルトガルを通してペグーの名前はヨーロッパに伝えられ[11]、ヨーロッパ人はこの地に成立していた政権をペグー王国と呼んだ[16]

しかし、ペグーは北方で勢力を広げるタウングー王朝からの攻撃に晒される。1539年にポルトガル人傭兵と銃火器の力を借りたタウングー王タビンシュエーティーによってペグーは占領され、ペグーはタウングー王朝の都とされた[35]。ペグー王タカーユッピはピェーの城主の元に逃亡し、アヴァと連合してタウングーを攻撃したが、タビンシュエーティーに敗北した[36]。同年、タカーユッピは亡命先での象狩りの最中に病死する[37]1550年シリアムでペグー王家の末裔が反乱を起こし、タウングー宮廷ではタビンシュエーティーがペグー王を自称する人物に殺害される事件が起きた。翌1551年にタビンシュエーティーの義弟バインナウンによってペグーの反乱は鎮圧される。

18世紀のペグー王朝[編集]

1598年から1599年にかけてペグーは大規模な破壊に晒され、復興が不可能となるほどの痛手を受けた[38]

17世紀にニャウンヤン英語版が再興したアヴァのタウングー王朝(ニャウンヤン朝)においては、ペグーは一地方都市に零落する[16]1739年にペグー知事ウー・ターアウンが政府に対して反乱を起こす。翌1740年に重税に苦しむペグーの住民はタメイントー・ブッダケティを王に擁立し、ウー・ターアウンとは別に反乱を起こした[39]1752年にペグー王ビンニャー・ダラは復興タウングー王朝の王都アヴァを占領し、国王マハーダンマヤーザディパティらタウングーの王族の多くをペグーに連行した。しかし、同1752年にコンバウン王朝の建国者アラウンパヤーによってアヴァを奪われる。1757年にペグーはコンバウン軍の攻撃を受けて陥落し、コンバウン王朝の支配下に置かれた。

社会[編集]

ペグー王朝においては、軍の司令官が国王に次ぐ地位にあり、ダゴン(ヤンゴン)、マルタバンの総督が司令官に次ぐ地位にあった[40]

ピンヤ朝、アヴァ王朝と同様に、ペグー王朝もミョウ(城壁で守られた地方の城市)が行政の基本構成単位となっていた[41]。ラーザーディリは支配地域をモッタマ、ハンターワディー(ペグー)、バセインの3州に分け、それぞれの州は32のミョウを含んでいた[42]。バンヤと呼ばれる首長によって統治される3州は高い独立性を持ち、独自に海外との交易を行っていた[42]

経済[編集]

ペグー王朝は東のマラッカ王国と西のインドとの交易で繁栄していた[5]。15世紀末からの宗教改革は、豊かな経済力を元に行われた[27]

トメ・ピレスが訪れた16世紀初頭のペグーには鋳造された貨幣は無く、ガンサ(カンサ)という粗質の金属が秤量貨幣として商取引に用いられていた[43][44]。また、ブゼオ(貝貨)が補助的な通貨として使われていた[45]。1530年代に入ると、ペグーに銀貨、鉛貨が導入された[46]

交易に訪れる外国の船舶はマルタバン、ペグー、バセイン3州の中から、最も取引に有利な港を選んで寄港した[47]。うちペグーはダゴンを外港として交易を行っていたが、ダゴンが交易港としての地位を確立した時期はマルタバン、バセインと比べて遅く、ダルウィーシュと呼ばれたインド系商人が取引を統制していた[27]。当時のペグー王朝にはポルトガル、ギリシャヴェネツィア、マグレブ、アルメニア、エチオピア、スマトラなど、ヨーロッパ・アフリカ・アジア各地の船舶が訪れていた[47]。そして、ペグーの支配下に置かれている港を訪れた商人には12%の税金が課せられていた[48]

ペグー王朝はマラッカ王国から赤塗りの粗製の陶器、水銀辰砂緞子、通貨となるガンサを輸入していた[49]。インドのグジャラートからは銅、水銀、辰砂、アヘン、織物が輸入されていた[40]。また、ペグーの支配領域では赤系統の染料が産出されなかったため、赤に染め上げられた織物や撚糸が珍重されていた[16][50]

対してマラッカ王国には米、ラック、安息香、ジャコウ、貴金属、食料品を輸出していた[51]。インド方面には砂糖、ラック、ジャコウ、マラッカから輸入された中国製の陶磁器が輸出されていた[5]。マラッカ、スマトラ島北部のサムドラ・パサイ王国の地位が向上するにつれて、輸出品としての米の価値が上がっていった[27]。これらの輸出品は、上ビルマ、タイ北部からシッタウン川を経由して港に運び込まれていた。そして、ペグーは交易の輸出品である宝石、森林の産品、綿花を安定的に調達するため、上ビルマを支配下に置くことを強く求めていた[52]

チークが供給可能な位置にあるマルタバンには造船所が置かれ、マルタバンで建造された船舶はマラッカの商人によって購入された[53]。そして、マルタバンで建造された船舶はマラッカ商人を経由してジャワ島、スマトラ島、ルソン島、中国へと渡った[53]

ダンマゼーディーの宗教改革[編集]

セイロンから帰国した僧侶はカルヤーニの戒法を持ち帰り、1476年にダンマゼーディーはペグーの近郊にカルヤーニ戒壇を設置した[54]。カルヤーニ戒壇ではマハーヴィハーラ派の伝統に則った受戒が実施され[55]、カルヤーニ戒壇で受戒した者のみが僧侶として認められるようになった[14]。国内の僧侶はカルヤーニ戒壇での再受戒か還俗の選択を迫られ、宗教改革前に僧侶が有していた諸権利は無効とされた[56]。ダンマゼーディーの宗教改革に伴い、15,666人の仏僧が新たにカルヤーニ戒壇で受戒したと言われる[57]。また、私財の放棄に応じない仏僧、重大な犯罪に関わりを持った仏僧、薬の調合や占星術によって利益を得ている仏僧は強制的に還俗させられた[57]

改革の過程で13世紀半ばからビルマで強い影響力を有していた密教的な教義を有するアラニャ教団の教義・活動は異端とみなされ、その活動は取り締まられた[58]。また、ペグー政府はアラニャ教団の寺領を没収し、国家の元に戻った土地から上がる収益によって経済的安定が確保された[59]。かくしてビルマで力を持っていたアラニャ教団の力は抑えられ、ペグーでは上座部仏教的な政治体制が確立される[16]。ダンマゼーディーの構築した体制は、後世にエーヤワディー流域に成立する王朝に継承されていく[16]。しかし、後世に編纂されたビルマの史書においてはダンマゼーディーの宗教改革の評価は低く、それらの史書では仏教の改革はパガン王朝の創始者アノーヤターの功績に帰せられている[57]

文化[編集]

建国の経緯と同様に、モン語による文学とモン族の文化の復興に関連する動向についても明らかになっていない点が多い[6]。15世紀のペグー王朝で建立された碑文に使われているモン文字は、11-12世紀の碑文と異なる点がある[60]

14世紀末からのアヴァとの戦争のためにペグーの文化の発展は停滞したが、和平が成立した後に文化の発展が再び始まった[18]。国王ラーザーディリは戦闘に際し、士気を高揚させるための詩文、檄文などを熱心に学んだと伝えられている[18]。シンソーブ、ダンマゼーディーの治世にモン語の文学、モン文化はより発達した[6]。歴代の王はシュエダゴン・パゴダの増築を行い[61]、ダンマゼーディーはシュエモードー寺院に菩提樹と鐘を寄進した[29]

歴代国王[編集]

ハンターワディー朝[編集]

代数 君主名 在位期間 先代との関係
1 ワーレルー 1287年 - 1296年 -
2 クン・ロー 1296年 - 1310年 1の兄弟
3 ソー・ウー 1310年 - 1324年 1,2の甥
4 ソー・ゼイン 1324年 - 1331年 3の兄弟
5 ソー・エー・ガン・ガウン 1331年 3,4の甥
6 ビンニャー・エー・ロー 1331年 - 1353年 2の子
7 ビンニャー・ウー 1353年 - 1385年 6の子
8 ラーザーディリ(ヤーザディリ) 1385年 - 1423年 7の子
9 ビンニャー・ダンマヤーザー 1423年 - 1426年 8の子
10 ビンニャー・ラン1世 1426年 - 1446年 8の子
11 ビンニャー・ワーレルー 1446年 - 1450年 8の孫、9,10の甥、12,13の従兄弟
12 ビンニャー・チャン 1450年 - 1453年 8の孫、9,10の甥、11,13の従兄弟
13 モードー 1453年 8の孫、9,10の甥、11,12の従兄弟
14 シンソーブ(ビンニャー・チャンドー) 1453年 - 1472年 8の子、11の母
15 ダンマゼーディー 1472年 - 1492年 14の娘婿
16 ビンニャー・ラン2世 1492年 - 1526年 15の子
17 タカーユッピ 1526年 - 1539年 16の子
家系
ラーザーディリの男系子孫
ダンマゼーディーおよびその子孫

18世紀のペグー王朝[編集]

  1. タメイントー・ブッダケティ(在位:1740年 - 1747年
  2. ビンニャー・ダラ(在位:1747年 - 1757年

脚注[編集]

  1. ^ ハーヴェイ『ビルマ史』、161頁
  2. ^ 『もっと知りたいミャンマー』、19,128頁
  3. ^ 『もっと知りたいミャンマー』、19頁
  4. ^ a b c 大野『謎の仏教王国パガン』、232頁
  5. ^ a b c 奥平「ペグーおよびインワ朝からコンバウン朝へ」『東南アジア史 東南アジア近世の成立』、263頁
  6. ^ a b c d e ケーティーモン「モン世界」『ミャンマー概説』、184頁
  7. ^ a b 大野「ワーレルー」『新版 東南アジアを知る事典』、496頁
  8. ^ a b ロン・サヤマナン『タイの歴史』(二村龍男訳, 近藤出版社, 1977年6月)、51,54頁
  9. ^ 伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』、291-292頁
  10. ^ a b ケーティーモン「モン世界」『ミャンマー概説』、182頁
  11. ^ a b 荻原「ペグー」『アジア歴史事典』7巻、229-230頁
  12. ^ ハーヴェイ『ビルマ史』、163頁
  13. ^ ハーヴェイ『ビルマ史』、164頁
  14. ^ a b c d 飯島、石井、伊東「上座仏教世界」『東南アジア史1 大陸部』、171頁
  15. ^ 奥平「ペグーおよびインワ朝からコンバウン朝へ」『東南アジア史 東南アジア近世の成立』、262頁
  16. ^ a b c d e f 伊東「ペグー」『新版 東南アジアを知る事典』、400-401頁
  17. ^ ハーヴェイ『ビルマ史』、167頁
  18. ^ a b c ケーティーモン「モン世界」『ミャンマー概説』、183頁
  19. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、233頁
  20. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、233-234頁
  21. ^ a b 大野『謎の仏教王国パガン』、234頁
  22. ^ a b ハーヴェイ『ビルマ史』、170頁
  23. ^ ハーヴェイ『ビルマ史』、170-171頁
  24. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、234-235頁
  25. ^ ハーヴェイ『ビルマ史』、172頁
  26. ^ 大野「ダンマゼーディー」『新版 東南アジアを知る事典』、269頁
  27. ^ a b c d 伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』、307頁
  28. ^ リード『拡張と危機』(新装版)、264頁
  29. ^ a b ハーヴェイ『ビルマ史』、175頁
  30. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、236-237頁
  31. ^ 『もっと知りたいミャンマー』、20頁
  32. ^ ピレス『東方諸国記』、204頁
  33. ^ 奥平「ペグーおよびインワ朝からコンバウン朝へ」『東南アジア史 東南アジア近世の成立』、267頁
  34. ^ ピレス『東方諸国記』、203-204頁
  35. ^ リード『拡張と危機』(新装版)、282頁
  36. ^ 伊東「帝国ビルマの形成」『東南アジア史1 大陸部』、279頁
  37. ^ ハーヴェイ『ビルマ史』、177頁
  38. ^ リード『拡張と危機』(新装版)、412,414頁
  39. ^ 伊東「帝国ビルマの形成」『東南アジア史1 大陸部』、289-290頁
  40. ^ a b ピレス『東方諸国記』、209頁
  41. ^ 飯島、石井、伊東「上座仏教世界」『東南アジア史1 大陸部』、173頁
  42. ^ a b 飯島、石井、伊東「上座仏教世界」『東南アジア史1 大陸部』、175頁
  43. ^ ピレス『東方諸国記』、207頁
  44. ^ リード『拡張と危機』(新装版)、136頁
  45. ^ ピレス『東方諸国記』、199-200,208頁
  46. ^ リード『拡張と危機』(新装版)、123頁
  47. ^ a b 飯島、石井、伊東「上座仏教世界」『東南アジア史1 大陸部』、175-176頁
  48. ^ ピレス『東方諸国記』、266頁
  49. ^ ピレス『東方諸国記』、206頁
  50. ^ 飯島、石井、伊東「上座仏教世界」『東南アジア史1 大陸部』、176頁
  51. ^ ピレス『東方諸国記』、205頁
  52. ^ 伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』、306頁
  53. ^ a b リード『拡張と危機』(新装版)、55頁
  54. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、232,236-237頁
  55. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、237頁
  56. ^ リード『拡張と危機』(新装版)、265頁
  57. ^ a b c 伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』、308頁
  58. ^ 飯島、石井、伊東「上座仏教世界」『東南アジア史1 大陸部』、129,171頁
  59. ^ 飯島、石井、伊東「上座仏教世界」『東南アジア史1 大陸部』、129-131,172頁
  60. ^ ケーティーモン「モン世界」『ミャンマー概説』、191頁
  61. ^ ハーヴェイ『ビルマ史』、165,172,174頁

参考文献[編集]

  • 飯島明子、石井米雄、伊東利勝「上座仏教世界」『東南アジア史1 大陸部』収録(石井米雄、桜井由躬雄編, 世界各国史, 山川出版社, 1999年12月)
  • 伊東利勝「帝国ビルマの形成」『東南アジア史1 大陸部』収録(石井米雄、桜井由躬雄編, 世界各国史, 山川出版社, 1999年12月)
  • 伊東利勝「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録(石澤良昭責任編集, 岩波講座 東南アジア史2巻, 岩波書店, 2001年7月)
  • 伊東利勝「ペグー」『新版 東南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2008年6月)
  • ケーティーモン「モン世界」『ミャンマー概説』収録(伊東利勝編, めこん, 2011年3月)
  • 大野徹『謎の仏教王国パガン』(NHKブックス, 日本放送出版協会, 2002年11月)
  • 大野徹「ダンマゼーディー」『新版 東南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2008年6月)
  • 大野徹「ワーレルー」『新版 東南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2008年6月)
  • 荻原弘明「ペグー」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年)
  • 奥平龍二「ペグーおよびインワ朝からコンバウン朝へ」『東南アジア史 東南アジア近世の成立』収録(石井米雄責任編集, 岩波講座 東南アジア史3巻, 岩波書店, 2001年8月)
  • G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』(東亜研究所訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1976年)
  • トメ・ピレス『東方諸国記』(生田滋等訳注, 大航海時代叢書5, 岩波書店, 1966年5月)
  • アンソニー・リード『拡張と危機』(新装版)(平野秀秋、田中優子訳, 大航海時代の東南アジア2, 法政大学出版局, 2002年3月)
  • 『もっと知りたいミャンマー』(綾部恒雄、石井米雄編, 弘文堂, 1994年12月)

関連項目[編集]