バゴー

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バゴー
Bago

ミャンマーの旗
Bago-Blick von Mahazedi Paya.JPG
位置
の位置図
座標 : 北緯17度19分 東経96度29分 / 北緯17.317度 東経96.483度 / 17.317; 96.483
行政
ミャンマーの旗 ミャンマー
 管区 バゴー管区の旗 バゴー管区
 市 バゴー
Bago
人口
人口 (現在)
  市域 22,000人
その他
等時帯 ミャンマー標準時 (UTC+6:30

バゴー(Bago)は、ミャンマー(ビルマ)の都市。バゴー管区の中心都市。以前はペグーと称された。人口は約22万人。

歴史 [編集]

言い伝えによると、西暦573年タトーン英語版からやってきた二人の王女がバゴーを創設した。年代記に、8年間の説法の後、仏陀が弟子と共に、東南アジア諸国を回ったと記述されていた。その帰路でマルダバン湾を横切る際潮が引き、仏陀は2羽の黄金のツクシガモが、鳥の止まり木としては十分な海より突き出た土地のの頂上に、メスがオスの上に乗りとまっているのを見た。不思議な現象を目撃して、仏陀は、彼の説で繁栄国家が広大な海の地域にいつか出現すると弟子に予言した。 仏陀の予言の約1500年後、その海の場所は浅くなり、居住が可能となっており、タトーン王朝よりやって来たモン族によって植民されていた。そして、モン族は歴史上Hongsawatoiとして知られる国の最初の支配者となった。

街の歴史上の初期の記述は、西暦850年頃のアラブ人の地理学者Ibn Khudadhbinによるものである。当時、モン族の首都はタトーンに移っていた。この地域は、1056年パガンから来たビルマ人の支配下にあった。1287年モンゴル人によってパガン朝が崩壊すると、モン族は再び独立をした(ペグー王朝英語版)。

低地ビルマにおいて、モン王朝は当初マルダバン、その後バゴーで設立した。Rajadhirat王の統治下(在位1383年1421年)で、アヴァ王朝とペグー王朝は、絶え間ない争いに巻き込まれた。平和的な女王Baña Thauの統治下(在位1453年 - 1472年)で、彼女は仏僧のDhammazedi(在位1472年 - 1492年)を後継者に選び、争いに終止符が打たれた。Dhammazediの統治下で、バゴーは商業と上座部仏教の中心地となった。

1369年から1539年の間、Hanthawaddyは、Ramanadesaのモン王国の首都であった。この王朝は現在の低地ビルマをすべて支配していた。1539年、この地域は再び、タウングー王朝タビンシュエーティー王により併合され、ビルマ人が支配した。タウングー王朝は、1539年から1599年の間と1613年から1634年の間、バゴーを王都とし、繰り返されたシャムの侵攻に対する基地として使用した。主要な港として、街には頻繁にヨーロッパ人が訪れ、壮大な街であると述べた。1634年ビルマ人の首都はアヴァに再度移された。1740年、モン族は反乱を起こし、つかの間の独立を再度勝ち取ったが、1757年ビルマ王Alaungpayaは、街を略奪し完全に破壊した。

バゴーは、Bodawpaya王(1782-1819)によって再建されたが、その時までに川が進路を変えてしまっていたため、街は海と切り離されていた。そして街が再び以前のような重要拠点になることは無かった。第二次英緬戦争英語版後、1852年に英国はバゴーを併合した。1862年英国領ビルマが設立し、首都はヤンゴンに移った。バゴーの文語上のスペルはpeh kouである。口語と文語の発音の実質的な違いは、英国人がPeguと訛らせたことによるものである。

18世紀半ば、コンバウン朝のアラウンパヤー王によって征服され、その繁栄を失った。

観光 [編集]

シュエモード・パヤー
  • シュエモード・パヤー
  • ヒンダゴン・パヤー
  • マハーゼディー・パヤー
  • シュエグーガラー・パヤー
  • チャイプーン・パヤー
  • シュエターリャウン寝仏(映画「ビルマの竪琴」に登場)
  • チャカッワイン僧院