ラーンナー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ラーンナーとは、マンラーイ王によって1292年に成立したとされるタイラーンナー王朝タイ語: อาณาจักรล้านนา)、もしくはその王朝の領土であったラーンナー地域を指す。また、これらの地域ではぐくまれた文化をラーンナー文化という。またチエンマイ王朝ともいう。冊封を受けた際には八百媳婦国とよばれた。

概要[編集]

首都は時代や統治形態などにもよるが現在のチエンマイとしていた。マンラーイ朝出身の人物により代々統治がなされ、南方のスコータイ王朝アユタヤ王朝などとは全く別の覇権を築き上げた。しかし、1558年以降ビルマの覇権下に入り、徐々に完全にビルマの一部と化したが18世紀以降、反ビルマ運動が盛んになり、1774年に南方シャムのタークシン王に寝返り、その後もチャクリー王朝の朝貢国となった。その後、チャクリー改革により中央集権化がはかられるまで、チェットトン王家率いるチエンマイラムプーンラムパーン(これらには現在のメーホンソーン県、チエンラーイ県、パヤオ県なども含まれる)、ナーン王国プレー王国が半独立を維持し続けた。

ラーンナーないしラーンナー地域と称する場合、多くの場合はタイ北部チエンマイ県チエンラーイ県ラムプーン県ラムパーン県ナーン県パヤオ県プレー県メーホンソーン県などの領域をさしていう。広義のラーンナー地域は、狭義のラーンナー地域に加え南はターク県バーンターク郡北部まで西はサルウィン川東岸地域まで、東はメコン川西岸地域すなわちラオスのサイヤブーリー県、北はビルマのシャン州あるいは中国のシップソーンパンナーまで拡大して解釈される。

名称について[編集]

現在、日本語ではラーンナー: ล้านนา)と表記するが、タイ語で 「ラーンナー」を ล้านนา(百万の田)と表記するか ลานนา(多くの田)と表記するかという表記のズレをめぐって、かつて論争があった。(大前提としてこれらの表記法はラーンナータム文字によって表記されるべき物であるが、ここでは便宜上、タイ文字で表記する)

前者「百万の田」表記は、16世紀頃の碑文に見える表記法であるが、この時代の文字表記はそれほど厳密な物では無かった為、この表記法が必ずしも「正しい」とは言えない。ただ、ナーン県などを中心とする地域から発見された古文書群によれば、ラーンナーはパーリ語では ทสลกฺขเขตฺตนคร(タイ語なまりで「タサラッカケータナカラ」と読む)と言う国号を有していたと書かれており、このパーリ語の国号は「百万の田の街」という意味がある。つまりこの古文書群に従えば、前者「百万の田」表記が「正しい」とも推測できる。一方、後者「多くの田」表記は、チャクリー王朝初期に現れ初め、その後20世紀には多く流布し、学術書などにも見られるようになった。1967年以降は明確な根拠なく、学術者達によって、前者「百万の田」表記が推奨されていた。

1980年に、北タイの古文書などの研究者として知られるハンス・ペントが、1553年にチエンラーイで作成されたチエンサー碑文について調べ上げ、考察を発表した。この碑文における「百万の田」表記の存在が決定的となって、「百万の田」表記が学会の定説となった。

1983年、チエンマイマンラーイスコータイラームカムヘーンパヤオガムムアンのタイ族三王が集まり同盟したことを記念する為の歴史書の編纂をチエンマイ県によって命じられ、チエンマイの郷土史研究家のグループは「百万の田」表記を採用したラーンナータイ (ล้านนาไทย) という言葉を用いた。これにより、ラーンナータイ王朝とも呼ばれる。

1987年、歴史学者のプラスート・ナ・ナコーンは、ラーンナー(: ล้านนา)の「ラーン」(: ล้าน)とラーンサーン: ล้านช้าง、「百万の象」の意)の「ラーン」(: ล้าน)とが平行するものであるという説を発表し、広く受け入れられた。

歴史[編集]

建国前史[編集]

チエンセーンから見るメコン川

1261年グンヤーン王国英語版(ヒランナコーングンヤーンとも。現在のチエンセーンにあった)の君主となったマンラーイコック川周辺のヨーン地域にある諸都市(ムアン)を、同盟あるいは攻撃し、自らの覇権下に置き領土を広げた。一方で雲南への侵入(モンゴル帝国の雲南・大理遠征)に悩んでいたマンラーイは1262年に、チエンラーイに遷都した。

1292年、マンラーイは南シナ海への貿易港路開拓のため、チャオプラヤー川上流のピン川にあったハリプンチャイ王国を攻撃しモン族を壊滅させた。一方、先進民族であったモン族は侵略者であるユワン族に多大な文化的影響を及ぼし、建築や、ラーンナータム文字、仏教などに見られるようなラーンナー独特の文化の源流となった。

マンラーイ朝[編集]

黎明期[編集]

チエンマイにあるピン川

マンラーイは1294年、ピン川上流のウィエンクムカーム(現在のチエンマイ南部)に遷都。その後1296年にチエンマイに遷都した。一般にこれがラーンナー王朝の成立と考えられている。その後の晩年のマンラーイは元の侵攻を防ぐ為、シャン族に援軍を送っているが、1311年、マンラーイの死んだ頃に、元の朝貢国となっている。

1325年に王位についた、セーンプーはチエンセーンを建設北方諸都市の防衛拠点を築いた。また1334年に王位についた、カムフー王はパヤオ王国に侵攻し、プレー王国を占領しようとしたが失敗した。その次1336年に王位についたパーユーは歴代の王として初めて仏教を積極的に保護した王として知られる。

繁栄期[編集]

繁栄期に建設された仏教施設の一つ。ワット・チェーディールワン仏塔。1545年の地震で崩壊した。

ラーンナーが大きな繁栄を見せたのは、クーナー王(1355 - 1385)の時からで、ラーマン派(旧ランカーウォン派)と呼ばれる仏教を保護し、スコータイからスマナー長老を招き、ワット・スワンドークを建設して仏教の一代センターを作り上げた。その後サームファンケーン王の(1402 - 1441)時には、長きにわたり滞っていたラーンナーの朝貢に対して侵攻してきたチン・ホー族英語版(雲南省のムスリムを呼ぶ言葉)を追い返し、中国の覇権下から独立した。

ティローカラート王(1441 - 1487)はラーンナー王朝における絶頂期の王として知られる。ティローカラートは即位から10年間は当時独自の王国を築いていたナーンプレーを図版に加え、国力を増強した。その後、南進を進めヨム川上流のピチットを、ティローカラートに帰順したプラヤー・ピッサヌローク(ピッサヌロークの国主)と共に攻め入った。1460年にスコータイ(スコータイ自体、アユタヤ王朝の覇権下にあった)の覇権下にあったチャリエン(現・シーサッチャナーライ)がラーンナーに帰順すると、今度はピッサヌロークカムペーンペットを攻撃したが失敗。しかし当時、ラーンナーの南に台頭してきたアユタヤ王朝の王トライローカナートは、この侵攻にたえきれず北進を開始し、ピッサヌロークに遷都する一方、降着していた戦いを収め、ラーンナーと表面上は友好関係を結んだ。結局ラーンナーとアユタヤの対立は1474年まで続いた。この両国の戦いは同時代のアユタヤ人に影響を与え、この戦争の様子を描いた『リリット・ユワンパーイ』という文学作品を生み出した。

1480年、黎朝レ・タイントンがラーンサーン王国に侵攻し、ラオスの国王を殺した。ティローカラートは、このときにラーンナーへ逃げてきたラーンサーンの王子パヤー・サイカーオを保護した。レ・タイントンはこれを追ってラーンナーへ侵攻してくるがレ・タイントンは逆に敗走した。この後パヤー・サイカーオはラーンサーン王国の王位につきラーンナーと強力な友好関係を結ぶ。また、この戦いに勝利したことにより、ティローカラートは中国から報奨を送っている。

この他、ティローカラートは国内の仏教保護に努め、シーホン派(新ランカーウォン派)と呼ばれるスリランカ式の仏教を導入し、ワット・パーデーンと呼ばれる寺院を建設した。シーホンの僧達はパーリ語の学習を強調し、ラーマンの僧達もこれに応じる形で国内にパーリ語ブームが巻き起こり、1477年にはワット・ポータラーム(ワット・チェットヨート)で8回結集が行われ、トリピタカ(三蔵)の編纂が行われた。このときに編纂されたトリピタカはラーンナーのいくつかの派において基本経典となった。

これらのラーンナー文化の繁栄はケーオ王(1495 - 1525)まで続く事になる。ケーオはワット・プッタラームおよびワット・シースパンを建設。毎年、ワット・ハリプンチャイに喜捨するなど、きわめて精力的であった。この為、多くの仏僧の学者が誕生し、仏教を中心とした文学、歴史、天文学などが花開いた。

一方、1523年から崩御するまで、ケーオはケントゥン英語版に出兵し敗北。多くの権力者や、兵士らを失った。このような人材と、人口の減少は国内を大きく疲弊させ、ラーンナーの衰退の一因を作った。

衰退期[編集]

衰退期のラーンナーにおいては国王の威光は衰退し、台頭してきた官吏らによる政治が行われた。1525年のケートクラオ王の即位は官吏らの指名によるものである。ケートクラオはそれまでムアンノーイという一地方の国主であり、チエンマイに政治基盤を持たなかった故に、脆弱であった。1535年にラムプーンの国主によるクーデタが起きる。これは失敗に終わるが、1538年官吏らによってケートクラオは王位を簒奪され、ケートクラオの息子、チャーイが官吏らに擁立された。しかしチャーイも5年間の統治の後暗殺され、再びケートクラオが擁立されるが、これも2年後に暗殺される。

その後官吏らにより誰を国王に擁立するかで一悶着あったが、結局ラーンサーン王国からケートクラオの甥に当たるセーターティラートを招くことで決着し、セーターティラートがルアンパバーンからチエンマイに到着するまでの間、チラプラパードイツ語版女王が代理で統治した。1546年セーターティラートはラーンナーの王位につくが、2年後にラーンサーンの父ポーティサラ英語版が死ぬと、ルアンパバーンに移り住んだ。この為、ラーンナーを再びチラプラパー女王が代理で統治したが、王位が空位になり大いに混乱を来した。

1551年にメクティドイツ語版: พระเจ้าเมกุฏิสุทธิวงศ์)が王位につくが、1558年東方への領土拡大をねらったタウングー王朝バインナウンの侵攻に遭い、その覇権下に入り、独立国としてのラーンナー王朝は終わりを告げた。その後、マンラーイ王家はチエンマイの土地を引き続き認められるが、1564年から1578年までウィスッティテーウィー女王が君主としてチエンマイを統治した後、ビルマ人ノーヤターミンソーがチエンマイの国主に任命され、マンラーイ王家は終わりを告げた。

ビルマ占領時代[編集]

前期[編集]

1558年以降の占領においてビルマ・タウングー王朝のバインナウンの統治方法は、必ずしも軍事力だけに物を言わせた強権的な政治ではなかった・、帰順した国主には基本的に今までと同じ統治を認た、またメーク王も(あくまで副王(ウッパラート)として)引き続き統治を許された。バインナウンはチエンマイをラーンナー諸都市の支配の中心と位置づけ、多くのビルマ兵士をチエンマイに配備した。

また、旧ラーンナーのタイ族の諸都市の国主も引き続きバインナウンの元統治を認められるが、一方で朝貢を怠ったり、命令を遂行できなかった場合、重い刑罰(主に死刑)がかされた。また、首都のチエンマイにはビルマ兵が置かれ、常時厳重な監視下にあったが、旧ラーンナーの諸都市ではそれほど影響力は無かった。このよう中、ラーンナーに帰順していた諸都市は、ラーンナーの威厳の失墜も手伝い、離反の様相を見せるようになる。

1578年マンラーイ王家のウィスッティテーウィー女王が崩御すると、ノーヤターミンソーが王位につく。するとチエンセーンを中心とするヨーン地域ではアユタヤ王朝に擁立されたパヤー・ラームデーチョー(1596 - 1601)が即位し、ラーンナーは分裂した。1607年にはチョーイがチエンマイの王に擁立されるが、チャイティップとその取り巻きによるクーデターがその2年後に起こり、チエンマイは混乱した。このため1614年ビルマのアナウペッルン王が、混乱収拾のためチエンマイに侵攻しナーンの国主、パヤ・ポンスークサイをチエンマイの国主に任命した。さらに分裂していたチエンセーンを支配下に置き、チエンセーンはラーンナーの北方諸都市の支配の中心として、ビルマに任命された国主を置いた。しかし、パヤー・ポンスークサイは離反し、チエンマイをビルマから独立させようと目論んだ。アナウッペルンの兄弟サールンは1631年この反乱を鎮圧、チエンマイの実質的支配に当たった。

チエンマイはサールンの元、行政改革を行う。チエンマイの国主としての副王(ウッパラート)の制度を廃止、代わりに「長」を置いた。また、国主の裁判権を廃止し、枢密院や新たな裁判制度を設け、枢密院による「長」の任命を行った。これにより、チエンマイ国主の地位は低下した。また、農民の移動を禁止し、格都市ごとに1000人の兵力を常時駐屯させた。これらの、サールンの改革によりラーンナー地域の混乱が収まった。

後期[編集]

1650年から1663年までチエンマイの国主であったセーンムアンはアユタヤに、ビルマに対する戦争を起こす為の援軍を求めた。1660年ごろ、これに応じる形でアユタヤのナーラーイ王がチエンマイに軍を送ったが、そのころまでに状況は変化し、チエンマイはこれに対して、ビルマの報復を恐れて、アユタヤに反旗を翻した。このころから、ラーンナー世界はビルマの属国というよりもむしろ、ビルマの一部と見なされるまでになっていた。

ビルマがコンバウン王朝になると、ラーンナーは2分割され、1701年チエンマイを中心とする南方地域と、チエンセーンを中心とする北方地域に分割された。一方でラーンナーはビルマとそれぞれの国の重税により疲弊するようになり、徐々に行き詰まりが生じ始めた。

1732年、ワット・ナーヤーンのトンブンと呼ばれる僧とそのグループが、「呪術を用いる」ことで疲弊していた農民の支持を集め、初めついに集団で還俗し武装蜂起した。結局、この反乱は鎮圧されるがこれを機に、ラーンナー世界は再び混乱する。これに対し、ビルマ・コンバウンのシンビューシンは1763年チエンマイ討伐に出る。この後、チエンマイの統治はビルマ語で「ポー」と呼ばれる、将軍が統治することになった。ビルマ占領下最後のチエンマイの国主ポー・マーユグワンは、反乱をノーイプロームやチャーバーンの反乱を抑え込む。

しかし、コンバウン王朝は中国との戦いに疲弊しており、南に新しくできたトンブリー王朝の加勢もあり1774年、ついにチエンマイを失う。パヤー・チャーバーンは、チエンマイの国主に任命され、後にチエンマイの王となるカーウィラはラムパーンの国主となった。

復興ラーンナー王朝[編集]

チャーバーン[編集]

チャーバーンは先だって1771年、ビルマに戦争を仕掛けるが、手勢は300人程度で、ほとんど武装していない烏合の衆であり、無論負けた。この戦いの際彼の息子は戦死している。このころのラーンナーではタークシン派とビルマ派で分離しており、互いにしのぎを削っていた。この後、寮内のカーウィラと共にトンブリーまで行き、タークシンに加勢させ、1774年ついにチエンマイを陥落させた。

この後チャーバーンはワット・プラタートハリプンチャイにて、正式にチエンマイの王位に就き、トンブリー王朝の朝貢国となった。この際、カーウィラはタークシンに姪を捧げ、また妹をチャオプラヤー・スーラシーと結婚させ、トンブリーないしチャクリー王朝との連帯関係を築いていた。

このころ、チエンマイは混乱と度重なる戦争で廃墟と化しており、深刻な食糧不足に見舞われた、この為仕方なく1776年ラムパーンに遷都するが、1779年、タークシン王の怒りを買って牢獄に入れられ死亡した。後、タークシンの乱心があらわになると、ラーマ1世が即位し、チエンマイ王にはカーウィラが指名された。

チェットトン朝[編集]

チエンマイの王となったカーウィラは、チエンマイが廃墟と化していた為、もっぱらラムパーンに住み続け、減りに減った人口の回復に没頭した。一方、未だビルマの影響下にあったチエンセーンやケントゥンを攻撃し逃げてきた人々を保護する、あるいは強制移住させる方法で、1813年までに、ラーンナー北部の諸都市はほとんど廃墟とした。このような方法で人口を増やす方法は、カーウィラだけでなく、後に続く王達も行った。

1796年カーウィラはチエンマイを再建、マンラーイ朝における古い儀式を復活しレガリアを定め、仏教を保護し、寺院を建て自らの威信を高めた。またカーウィラは、1805年にラムプーンも再建し、チエンマイ、ラムパーン、ラムプーンの国主の座を自分の兄弟達で独占した。これによりカーウィラのチェットトン王家はラーンナーにおけるもっとも有力な家・王朝を築いた。

その後、チェットトン王家によるチエンマイの支配は、9代続き、8代目のインタウィチャヤーノン王(1901 - 1909)の時代にモントン・パヤップが成立、チェットトン家による専制支配は終了し、実質チャクリー王朝の支配下に入り、ケーオナワラット少将(1911 - 1939)を最後に、ラーンナー王朝は終わりを告げた。

政治[編集]

マンラーイ朝の元ではマンラーイ法典と呼ばれる法典が重きをなし、国の基本法典とされ、これにより統治・刑罰・取引などが行われた。首都はチエンマイで、ラムプーンはチエンマイの衛星都市であった。チエンラーイは副首都でありいわゆる副王(ウッパラート)が治める町であり、その他少数の、王族により治められる都市が定められていた。

それ以外のムアンプラテーサラート (เมืองประเทศราช) と呼ばれる都市(以下、ムアンと呼ぶ)の長(国主)はチエンマイの王による任命であった。任命された国主は国王から給与はあたえられず、自らの領有するムアンにおける税収から、官吏を養い、チエンマイに朝貢する運命であった。

一つのムアンにはパンナー (พันนา) と呼ばれる行政区分がおかれた。パンナーとは「千の畑」を意味する言葉で、そのパンナーごとに国王への税収の負担が割り当てられた。パンナーの数によってムアンの規模が決まった。たとえばチエンラーイなどは32のパンナーがあり、パヤオは36のパンナーがあり、これらの都市は比較的大きい都市であった。パンナーの長はムーン (หมื่น) の称号が授けられた。「ムーン」と呼ばれるパンナーの長は「ムーンナー (หมื่นนา)」 、「ラームナー(ล่ามนา)」 、「パンナーラン (พันนาหลัง)」 、「セーンナー (แสนนา)」 の称号を与えられた官吏らが働いていた。

またパンナーの下にはパークナー (ปากนา) と呼ばれる村落の連合体があった。パークナーとは「百の田」と言う意味でパン (พัน) という称号を有した長が置かれ、その下で「パーク」 (ปากนา) と呼ばれる官吏らが居た。一番下位を構成する行政区分が村(ムーバーン)で、その長は「ケーバーン」と呼ばれた。

これらに住む下級の人民は「カー」と呼ばれる奴隷と「プライ」と呼ばれる平民からなっていたが、両方とも国主の有するものと考えられていた。またこれらの領土や人民は国王の許可無く寺院に寄付することができた。

このようにムアンは格ムアンごとに自主性が高く、ラーンナー全体の統一性に欠いていた。この為、国王は国主を罷免したり、処刑したりすることもあった。また、文学や宗教を用いマンラーイ王家の威厳を高めた。たとえば、『マンラーイの教え』は「王族でなくば王位を望むな。貴族でなければ官位を望むな」という文章をといている。また、寺院への寄進はしばし、国王の威厳や正当性を主張する手段として用いられた。

また、ラーンナーでは同じタイ族のアユタヤ王朝とちがいラーチャーサップと呼ばれる複雑な絶対敬語を生み出さなかった。これには、ラーンナー王朝がクメール王朝の影響を受けなかったこと、それが故にヒンドゥー式のヒエラルキーが発生しなかった。そして、国王の名前などにヒンドゥー教の神の名(たとえば、アユタヤのラーマーティボーディーなど)が現れていなく、国王が現人神(デーヴァラージャ)と見なされることがなかったためであるといえる。また、ラーンナー社会の規模の小ささなども挙げられる。国王に対しては、通常の敬語を用いられることが一般的であった。ただ、仏教の守護者としての仏法王(ダルマラージャ/ダンマラージャ)の概念はあり、これは前述したように、仏教の威厳を高揚するために用いられた。また、国王の世襲の方法は明確に決まっておらず、実力や権力、官吏ら支持者の数で決まる物であった。

特に、ラーンナーはどこに於いても人口不足気味であり、マンラーイ法典は、平民が土地を捨てて逃げ出すことを固く禁じた。人民は一年に月1ヶ月から4ヶ月の間、政府の元で働いた。しかし、人口が極端に不足していた為、統治者側にも人民が逃げ出さない様にするための心配りが求められた。それでも戦時などは、兵役における規則・罰則の重さを避ける為どさくさに紛れて逃げ出す者も少なからず居た。

また、ムアンの中心には税収を増やす為の市場が於かれ他のムアンとの交易が行われた。特に官吏らがこれらの商売に参加する事があった。また、樹脂、象牙サイの角、カテキュ(黒色染料)、スオウ(蘇木、赤褐色染料)、シカの角や皮革などの森林由来の製品は専売品とされ、人民から何らかの形で進上され、主にアユタヤに輸出していた。これらの専売製品や禁止物(アヘンなど)以外は、自由に交易が許されていたと推測されている。これに対し国王は適切な取引価格を守ることを求めるのみにとどまった。

ビルマの占領により、ラーンナーは南方のチエンマイー管区と北方のチエンセーン管区に分けられた。これらの管区の首都である、チエンマイ、チエンセーンにはミョーウン (myowun) と呼ばれる総督が置かれ、シトケ(Sitke タイ語ではเชคคาย, ชคาย, จักกายとも)が軍事面でのミョーウンの補佐役としておかれた。そして、首都の農作地は二つに分けられナーサーイ(左の田, นาซ้าย)、ナークワー(右の田, นาขวา)に分けられ、その下で、パンナーを管理する形で運営がされた。また、国王の秘密の監察官も派遣されている。

各ムアンにおける長はパヤーあるいはチャオファー(多くの場合シャン族の王族)が派遣されたが、ミョーウンやシトケに比べれば、限られた権力しか持っていなかった。

一方、復興されたラーンナー王朝(チェットトン朝)はチャクリー王家の属国であり、朝貢国であった。特に森林由来の製品に関して朝貢が義務づけられていたものの、チェットトン朝は一つの王国であり、内政面では大きく干渉されることはなかった。また朝貢国はラーンナーに限らず、どこの王朝にも義務づけられており、必用に応じてチャクリー王朝に軍隊を提供する義務を負った。

経済[編集]

ラーンナーは農業を中心とする国家であった。建前上の話としては、ラーンナーの国土は国王の物であり、人民は国王の労働力であり、それをサックディナー制の元管理することとなっていた。しかし、国王一人ではとても管理できないがために、官吏や寺院に領地と人民を渡し、治めさせていた、ということが前提条件であった。

国土は肥沃で、ほとんどの地域で自給自作が可能であり、村だけで社会が成立できたとも言える。このような村社会はメコン川やその支流、ヨム川ピン川から耕作のための灌漑運河を掘り、田を耕しており、その生産余剰の多さは、雲南省のホー族におおよそ540トンもの米を朝貢していた事実からもうかがい知ることができる。

一方、国王自身も田畑を有しており、徴用で集められた人民を使い、働かせていた。もっとも、建前上の話で言えばすべてが国王の土地であり、他人に貸しているだけであるので、強制的に「取り返す」事もできた。ただ、平民に於いてはある程度の土地の権利は保障されており、また、開墾も奨励され、開墾から3年間は免税された。

商業もまた盛んであった、チエンマイの商人は遠くはパガンまで言ったという記録も残っている。また、チエンマイはホー族、ビルマ人、シャン人などが訪れ、貿易の中心地であった。また、チエンマイが面するピン川はチャオプラヤー川に通じており、アユタヤとの貿易の中心地であった。アユタヤとは前述した樹脂、象牙サイの角、カテキュ(黒色染料)、スオウ(蘇木、赤褐色染料)、シカの角や皮革などの森林由来の製品は、アユタヤへの最重要輸出品目であった。アユタヤにはチエンマイからの森林製品を保管する倉庫があった。特に蜜については記録が残っており、ムーン・セーンナムプンと呼ばれる官僚のポストが設けられ厳重に管理されていたことが分かっており、他の品目に関しても同様であったと推測される。この貿易により、ラーンナーは大きな富を蓄えた。

外交[編集]

ラーンナーは周のほとんどがタイ族に囲まれており、大まかに北方系のタイ族と、南方系のタイ族との交流が外交の中心となった。むろん、元や明の朝貢国であったことも特筆すべき事項である。

北方[編集]

北方のタイ族とはおおむね、同じ宗教、似た言語、文化を有しており、きわめて良好な関係にあったと言える。

景洪(チエンルン)は、ラーンナーの首都がチエンセーンにあった時代には、メコン川で繋がっており、きわめて良好な関係を保っていた。マンラーイが死に朝貢が始まると、両者の関係は密接になり、記録によればセーンムアンマーの妻に景洪出身の妻が居たことが分かっている。また、セーンムアンマーは仏教を広め、ラーンナータム文字を広め、タイルー文字中国語版を生み出す基礎を作ったと言える。この間にあった、ケンツン英語版(チエントゥン)はマンラーイ時代に元の侵攻を避ける為に建てられた要塞都市で、朝貢後は、雲南とラーンナーをつなぐ交通の要所になった。

西にあるムアンナーイはマンラーイが息子のクルアを送り統治させた地域で、クルアが現地のシャン族から「ナーイ(ご主人様、นาย)」と呼ばれていたことから、ムアンナーイと呼ばれるようになった。これらの地域は、ラーンナーの朝貢国であったが、ラーンナーが衰退期に入り国力が衰えると、チエンマイに攻め入ったりもしている。

東方のラーオ人とはきわめて密接な関係にあり、そのラーンサーン王国とは親密であった。ベトナムの侵攻に対してティローカラートは援軍を送り、撃退しているし、ラーンサーンの王子、セーターティラートはラーンナーの官吏らの招きでラーンナーの王位に上っている。ナーン年代記によれば、スコータイ王国とも、ラーンナー、ラーンサーンは共に親密な関係を築いていたとしている。

ラーンナーが復興されると、今度はこれら北方の町は、ビルマ側の町となり、必ずしも友好的な存在とは言えなくなる。チャクリー王朝はラーンナー王朝に対し、景洪、ケントゥン方面への出兵を命じたことがある。1849/50年、ラーンナーは景洪の内乱に乗じ出兵しており、また、ラーマ4世(モンクット)もビルマ・コンバウン朝が大英帝国相手に疲弊してきた1852年、ウォンサーティラートサニット親王を差し向け侵攻している。さらに、戦況が好ましくないので1854年にさらに、チャオプラヤー・シースリヤウォンをして援軍に向かわせている。これらの侵攻は、いずれも地元のタイ族の官吏や国王などが要請したものであったが、地元の軍隊の協力が得られず結局は失敗に終わる。

これら北方に対する領土拡大はラーンナーだけでなく、チャクリー王朝にとっても悲願であったといえる。ラーマ5世(チュラーロンコーン)は1884年のいわゆるチャクリー改革により、ラーンナーにモントンを設置するが、このころ官吏は景洪をタイの図版に組み入れようとしていた。しかし、1885年大英帝国がビルマの侵攻を完了すると大国を相手に回す事へのためらいから、シャン族やタイ・ルー族への領土拡大はお蔵入りとなる。

南方[編集]

南方のタイ族国家、スコータイ、アユタヤなどとラーンナーは微妙な関係にあった。三者ともピン川、さらに下流のチャオプラヤー川で繋がっており、貿易では密接な関係にあったといえる。スコータイはラームカムヘーン大王の時代、ラーンナーと対等な関係を結ぶまでに成長していたが、新興国家であったアユタヤや、北で勢力を拡大していたラーンナーの間で相対的に地位が低くなっていった。また、ティローカラート王の時代にはアユタヤとラーンナーは旧スコータイの領土をめぐってしのぎを削った。

復興後のラーンナーではチャクリー王朝の時代となり、ラーンナーはビルマとの軍事的な緩衝地帯となった。またラーンナーはチャクリー王朝の朝貢国となる。

君主・国主の一覧[編集]

マンラーイ朝[編集]

記録によって年代に差があるため、広く認められている、サラッサワディー博士が各種資料を批判したものを用いた。

ビルマ占領以降[編集]

年代は『チエンマイ年代記』による。(注:ノーヤターミンソー以外はタイ語読みである)

  • ノーヤターミンソー(1578 - 1607年)
  • チョーイ(1607 - 1608年)
  • チャイティップ(1607 - 1613年)
  • チョーイ(2回目)(1613 - 1615年)
  • ナーンの国主(1615 - 1631年)
  • ルワンティッパネート(1628 - 1655年)
  • セーンムアン(1655 - 1659年)
  • プレーの国主(1659 - 1672年)
  • ウッパラーチャ・インチェマン(1672 - 1675年)
  • チェークトラーの息子(1675 - ?年)
  • マンレーナラー(1707 - 1727年)
  • テープシン(1727年)
  • オンカム(1727 - ?年)
  • チャン(? - 1759年)
  • ワット・ドゥワンディーの還俗僧(1761 - 1763年)
  • ポー・アキアカミニー(1762 - 1768年)
  • ポー・マーユグワン(1768 - 1774年)
ビルマからの占領脱出

チェットトン朝[編集]

ソースは『チエンマイ年代記』、『ヨーノック年代記』、公文書など。年代に空きがあるのは中央政府(チャクリー王朝)の承認まで、時間がかかった為。

チエンマイ王

なお、ケーオナワラットの息子が死んだ為、チェットトンは王家としては廃嫡になったが、男系がナ・チエンマイ家はチエンマイの名家として現存する。

ラーンナー史学史[編集]

プラヤー・プラチャーキットコーラチャック (チェーム・ブンナーク)が1899年『ヨーノック年代記』を編集し、出版したのが始まりとされる。チエンマイ大学では1964年の開設時から、地域史としてこの『ヨーノック年代記』をテキストにラーンナー史の教育・研究を行った。のち、1970年代から加速度的に研究が進んだ。また、ラーンナー史を教える大学もチエンマイ大学だけでなく、チエンマイ師範大学パーヤップ大学などが存在する。

ただ、未批判であったり一次史料もあり、考古学的調査も未完とも言える。ラーンナー王朝が展開した地域は、雲南省ミャンマーラオス、など多くの国にまたがっており、政治的・言語的な理由などから、これらの地域すべての地域の文献。考古学資料を網羅するのは難しい。また、タイ国内にも未発見の数の史料(タムナーン)が寺院などに人知れず眠っているとも考えられている。

参考文献[編集]

概要書[編集]

  • Ongsakul, Sarassawadee, History of Lan Na, trans. Chitraporn Tanratanakul, Chian Mai: Silkworm Books, Thai text 2001, English text 2005, ISBN 9749575849
  • Penth, Hans, A Brief History of Lan Na - Civilizations of Nothern Thailand Chiang Mai Silkworm Books, 2002, ISBN 9747551322

史料[編集]

主要史料

パーリ語史料
タイ北部の史料
シャムの史料
ビルマの史料
の史料
  • 元史明史などの正史や実録などは「八百媳婦國」に関する記述は上記史料の裏付けや、朝貢の記録を見る上で重要な史料となる。
欧米の記録
  • Grabowsky, Volker and Turton, Andrew,The Gold and Silver Road of Trade and Friendship: The McLeod and Richardson Diplomatic Missions to Tai States in 1837, Chiang Mai: Silkworm Books, 2003 ISBN 9789749575093 - Dr David Richardson と Captain William Couperus McLeod の旅行記を収録
  • McGilvary, Daniel, A Half Century Among the Siamese and the Lao: An Autobiography, New York: Fleming H. Revell Company, 1912 - 再版が数多く出ている
  • パヤップ大学所蔵が所蔵する宣教師の記録など。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]