ハリプンチャイ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ハリプンチャイ王国ハリブンジャヤ王国とも)は今のタイ王国ランプーン県にあったモン族の王国。

歴史[編集]

ハリプンチャイ王国に関してはパーリ語で書かれた『ジナカーラマーリー』や『チャーマデヴィーヴァムサー』など多くの年代記があり頻繁に言及されているが、非常に史実に乏しいとされ、実体は大きく謎に包まれている。それらの年代記によれば、チャマデヴィ英語版と呼ばれる姫が当時モン族のドヴァーラヴァティー王国が治めるラヴォー王国英語版(ラヴァプラ、ラヴォープラとも、現在のロッブリー)にいたが、彼女の父がこの姫をラムプーンに送って来たことによって661年国が成立した。しかしながら、実際このあたりに国が建ったのは750年あたりだとされる。

950年ごろ王統史の言う「野蛮人の王」がラヴォー王国を占領したことにより、モン族勢力の中心がハリプンチャイに移ることになった。後、1005年から1022年ごろまでラヴォー王国はクメールの王スーリヤヴァルマン1世英語版の占領を受ける。ハリプンチャイはこの後ラヴォー王国を再びモン族勢力下に取り戻そうとして、クメールとの間に何度も争いが起こった。

1010年、ハリプンチャイはラヴォー王国に軍を送り攻撃を開始した。この戦いは十年も長引いた末、マレー半島ナコーンシータンマラートのクメール人の王が船で援軍を派遣したことによりハリプンチャイの軍は敗走した。それから3年後の1023年にはクメール王、カムボジャラージャ(一説にスーリヤヴァルマン1世)の軍隊がラムプーンに派遣され、ハリプンチャイは攻撃に遭った。

1050年、ラムプーンにコレラが発生し6年間流行し続けた。これによりモン族の一部は下ビルマのハンターワディーペグー)やタトン王国英語版の首都モッタマへ移動、その隙をつくようにタイ族をはじめとする異民族の進入が増え始めた。1090年ごろには異民族によるクーデターも起こっている。

1130年にかけてハリプンチャイ王、アーディッタは再びラヴォー王国に侵攻した。この戦争ではクメール側が敗走し一時的にラヴォー王国がモン族側の勢力に入った。1150年、後にクメール勢力がラヴォー王国を取り戻したが、この後、ラヴォー王国はハリプンチャイの影響を受けクメールから離反する動きを見せ、1155年北宋に使節を送り独立国としての承認を受けた。

その後13世紀初頭までにはランプーンを中心に寺院など建築物の建設が頻繁に行われ黄金期を迎えたが、1281年にはコレラの発生以降進入を続けていたタイ族の一派であるタイ・ユワン族タイ語版マンラーイ王がランプーンを攻撃しラーンナー王朝を建設したことにより、ハリンプチャイ王国は壊滅した。この後にはモン族の中心はペグーに移ることになった。

参考文献[編集]

  • Ongsakul, Sarassawadee, History of Lan Na, trans. Chitraporn Tanratanakul, Chian Mai: Silkworm Books, Thai text 2001, English text 2005, ISBN 9749575849
  • Penth, Hans, A Brief History of Lan Na - Civilizations of Nothern Thailand, Chiang Mai: Silkworm Books, 2002, ISBN 9747551322

外部リンク[編集]

メンライ王の出自  ラワ・チャカラート王朝の第25代王、パヤー・メングライは、父がラワ族の王チャオ・ラワ・メンと、母は西双版納の傣ルー族の王ケーン・チャイの娘ナング・ウアミン・チョム・ムアングの間に、仏暦1781年(西暦1238年)3月上弦の9日、日曜日に生まれました。 ラワ族は夫家長を採っているので、ポー・クン・メンライ(チェングマイ人がメンライ王をそう呼びます)はラワ族とするのが正しいとされています。

関連項目[編集]