チャクリー王朝

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チャクリー王朝(チャクリーおうちょう)は、1782年タイ仏暦2325年)、乱心をきたしたタークシン王を処刑したラーマ1世によって起こされたタイの現王朝。首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島にあることからラッタナーコーシン王朝ラタナコーシン王朝とも表記される)という別名がある。現在まで続く王朝で、現在のラーマ9世を含めて、9代の歴王が名を連ねる。チャクリーとは、ラーマ1世の改名前の名前である。

歴史[編集]

トンブリー王朝アユタヤー王朝を占領したビルマに取って代わりタイを掌握すると各地に軍閥のような勢力が力を付けてきた。ソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスック(後のラーマ1世)もそのような中の一人であった。トンブリー王・タークシンはその圧倒的なカリスマ性と軍事力で何とかタイ全国を維持していた。しかし、タークシン王は晩年、精神に異常をきたして、そのカリスマ性にかげりが見え始める。その中で、官吏のプラヤー・サンがタークシン王を寺に幽閉し、自分が摂政に就いた。これはソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスックがカンボジアの遠征に行っている途中であった。プラヤー・サンカブリーはついでに王位もねらったが、急報を受けて戻ったソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスックによって摂政から降ろされた。

チャクリー王朝のエンブレム。 スダルシャナヴィシュヌの力の象徴である円盤状の武器・チャクラム)の中にあるトリシューラシヴァが持つ三叉戟

ラーマ1世トンブリー王朝下でも破格の出世を遂げ、タイ史を通して滅多に与えられることのなかったソムデットチャオプラヤー(一位)の位を受けた。そのカリスマ性はタークシンに負けず劣らずで、プラヤー・サンカブリーによる反乱軍を制した後、官吏らに推挙され王位に就いたとされる。ここにチャクリー王朝は成立した。

この王朝の体制は絶対王政であるとされるが、しかし、まだ中央集権国家ではなかったため、実際に「王の威光」が及んでいる地域はバンコクとその周辺地域のみだった。地方政治は中央に忠誠を誓う地方の豪族・あるいは中央の派遣知事に任せられ、その行政は実質野放し状態であった。

ラーマ2世ラーマ3世は詩人であり、ラーマ4世(モンクット王)は仏教改革者あるいは西洋に門戸を開いたという功績がある。この時代王一人が何十人もの妻を持ち、何十人もの子供を持つと言うことが行われていたため、王族の数が多くなり、権力が分散されていってしまった。中央政府では王侯貴族の権力が強く、戦時中以外は王の権力が一般に弱かった。王の特権は富と文化の中心であることだけだった。特にこの時代、ブンナーク家が王族との婚姻により大きな力を付け、本来王が行うはずの王の承認まで口出しするようになった。

ラーマ5世(チュラーロンコーン大王)は王の力を強めるため、チャクリー改革を行った。チャクリー改革はここでは詳しくはふれないが要は近代化政策のことである。西洋を手本に国内の交通・通信を整え、中央政権支配の基礎を整えた。この時代、ラオスカンボジアと南部の一部をそれぞれフランスイギリスに取られていた。残った領土を死守するため、タイを中央集権国家にすることを決め、各地の王を廃止し、各県を中央政府の支配下に置いた。一方、中央にはびこっていたブンナーク家のたぐいは奴隷解放などの政策により財力を失い、官僚制導入によって、ほぼ行政的な意味での支配力を失った。ラーマ5世は自ら王=文武官吏の長となって、ほぼ完全な貴族政治から離れた絶対王政を実現した。

ラーマ6世(ワチラーウット王)に至っては父王の作った絶対王権によりやりたい放題だった。チャクリー王朝史上初めての留学生であった。愛国精神を強調し、財政の続く限りスアパー団(青年自警団)などの愛国主義に満ちた無意味な浪費を続けたため、そのうち官僚の不信感が高まった。ラーマ5世の代まで王室は中国の姓「鄭」を自称し、華人を優遇したため、華人が暴利を貪っていた。これに対し、ラーマ6世はこの華人優遇政策を一転、論文「東洋のユダヤ人」を著し、華人の批判を行った。一方で華人のタイへの同化を計り、属地主義を導入した。

ラーマ7世(プラチャーティポック王)も留学生であり、より新しい西洋の教育を受けていた。このため、ラーマ5世、6世が「民主主義はタイの風土に合わない」と述べていたのと違い、民主主義には元来積極的であった。治世中にはラーマ6世の財政浪費が祟り官僚の大幅リストラ(合理化)を行ったが、ラーマ6世時代から溜まっていた官僚の鬱憤が次第に溜まっていった。そのため、憲法を設置し本格的な民主主義を設置しようと、憲法を公募し、その草案に加筆した上で発表しようとしたが、発表直前に残存していた王族勢力の猛反対に遭い、憲法布告をあきらめた。これを見た官僚勢力は猛烈に怒り、官僚のプリーディー・パノムヨンは陸軍勢力のプレーク・ピブーンソンクラーム元帥、プラヤー・パホンポンパユハセーナー大佐と共同で立憲革命を起こした。これにより、チャックリー王朝の絶対王政は崩壊した。

その後のチャクリー王朝の王は単なる傀儡として扱われた。ラーマ8世時にはその権威は完全に失墜し、戦時中には、日本の友好象徴として祭り上げられた。その後ラーマ8世は戦後、謎の変死を遂げるが、あくまでも暗殺説を唱える人は、日本との友好的な印象が敗戦後にはマイナスに作用したため殺されたと主張する人もいる(この記述はタイでは違法)。

その後現タイ国王ラーマ9世には憲法の枠内での立憲君主として大きく国家元首としての地位の回復をした。即位してから20年続いた摂政時代には特に目立った行動はなかったものの、暗黒の5月事件1992年クーデター)の時には、当事者のスチンダー・クラープラユーンチャムロン・シームアンの調停役を行った。このときの様子はテレビで放映され、当事者2人が国王の前に泣きながらひざまずいている姿は、国民に「タイ国王ここにあり」と見せしめ、一部では政治介入に危惧する声はあるものの、国王の評価が非常に上がり国民に尊敬されるチャクリー史上初めての国王らしい王となった。

歴代王[編集]

  1. ラーマ1世プッタヨートファーチュラーローク : 1782年 - 1809年
  2. ラーマ2世プッタルートナーパーライ : 1809年 - 1824年
  3. ラーマ3世ナンクラオ : 1824年 - 1851年
  4. ラーマ4世モンクット(チョームクラオ) : 1851年 - 1868年
  5. ラーマ5世チュラーロンコーン(チュラチョームクラオ) : 1868年 - 1910年
  6. ラーマ6世ワチラーウット(モンクットクラオ) : 1910年 - 1925年
  7. ラーマ7世プラチャーティポック(ポッククラオ) : 1925年 - 1935年
  8. ラーマ8世アーナンタマヒドン : 1935年 - 1946年
  9. ラーマ9世プーミポンアドゥンラヤデート : 1946年 - 現在

副王[編集]

チャクリー王朝には他のインドシナの上座部仏教国同様、副王(ウパラージャ英語版)の制度があった。以下にチャクリー王朝期における副王を挙げる。副王から国王になったのはラーマ2世ただ一人で、副王の周りには反国王派などのたまり場となることが多く弊害が多かった(たとえば、ワンナー事件タイ語版など)。そのためラーマ5世時を最後に任命されなくなり。同時に、西洋を真似て摂政と皇太子の制度が導入された。

摂政[編集]

ラーマ5世
ラーマ7世
ラーマ8世
ラーマ9世

参考文献[編集]

  • 石井米雄吉川利治『タイの事典』同朋舎、1993年、pp.331-335,338-349, ISBN 9784810408539
  • 赤木攻『タイ政治ガイドブック』Meechai and Ars Legal Consultants CO.,LTD.、1994年 ISBN 9784905572831
  • 村嶋英治著『現在アジアの肖像9 ピブーン 独立タイ王国の立憲革命』岩波書店、1996年、ISBN 9784000048644
  • 石井米雄『タイ仏教入門』めこん〈めこん選書〉、第三版1998年 ISBN 9784839600570
  • Finestone, Jeffrey: The Royal Family of THAILAND - The Descendants of King Chulalongkorn, Bangkok: White Mouse Editions/Phitsanulok Publishing, 1989/2532, ISBN 9789748356907
  • Finestone, Jeffrey: The Children and Grandchildren of King Mongkut (Rama IV) of Siam, Thailand: Goodwill Press (Thailand) Co., Ltd., 2000, ISBN 9789748714882
  • Handley, Paul M. The King Never Smiles, United States of America: Yale University, 2006, ISBN 9780300106824

関連項目[編集]