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サンフレッチェ広島F.C

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サンフレッチェ広島F.C
原語表記 サンフレッチェ広島F.C
愛称 サンフレッチェ、サンフ、サンフレ、熊
クラブカラー  
創設年 1938年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン1 (J1)
ホームタウン 広島県広島市
ホームスタジアム
広島ビッグアーチ
収容人数 50,000
運営法人 株式会社サンフレッチェ広島
代表者 本谷祐一
監督 日本の旗森保一
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

サンフレッチェ広島(サンフレッチェ ひろしま、: Sanfrecce Hiroshima)は、広島県広島市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

概要

株式会社サンフレッチェ広島[1]
Sanfrecce Hiroshima FC Co., Ltd.[2]
種類 株式会社
市場情報 非上場
略称 S.FC
本社所在地 733-0036
広島県広島市西区観音新町四丁目10番2号広島西飛行場ターミナルビル1階
設立 1992年4月24日
業種 サービス業
法人番号 4240001004278 ウィキデータを編集
事業内容 プロサッカークラブの運営[1]
代表者 取締役会長 久保允誉
代表取締役社長 本谷祐一
資本金 2億2,030万500円[3]
売上高 26億539万円 (2011年1月期)[1]
従業員数 35人 (2011年1月現在)[1]
主要株主 エディオン 46.96%、マツダ 16.67%、中国電力 3.42%、広島銀行 2.99%、広島県 2.50%、広島市 2.50% 含め64株主[3]
関係する人物 竹下虎之助(広島県(公選5代)知事)
古田徳昌(マツダ7代社長)
久保允誉(旧デオデオ2代社長)
特記事項:取締役会長の久保允誉はエディオン社長を兼務。
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1991年Jリーグ加盟(オリジナル10のひとつ)。ホームタウン広島市。前身は自動車メーカー・マツダ(旧・東洋工業)のサッカー部であるマツダサッカークラブ

運営法人(株)サンフレッチェ広島は1992年4月に設立。設立当初はマツダ系の、近年は家電量販店エディオン(旧デオデオ)系の人物が社長に就任している。なお2011年6月現在サンフレ運営法人を、エディオンの有価証券報告書では「関係会社」、マツダでは「持分法適用関連会社」として記載されている。

チーム名の「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ」はイタリア語で「矢(の複数形:frecce)」を意味し、戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる。

チームカラーは、紫(青紫、VIOLET)。クラブスローガンは、「WE FIGHT TOGETHER 団結」。

チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ君とフレッチェちゃん」。

チームエンブレム2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)。[4]

ホームスタジアムは広島ビッグアーチ。練習は主に安芸高田市吉田サッカー公園、試合前や天候などの理由によりビッグアーチやその隣の補助競技場も利用している。以前の使用場所については下記スタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。

なお、下部組織についてはサンフレッチェ広島の下部組織を参照のこと。

グッズ・チケット等は広島市中区大手町にあるV-point、あるいはオフィシャルネットショップ「e-Vpoint」で購入できる。

歴史

前史(マツダ時代)

1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると2度に渡りJSL2部へ降格してしまう。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更[注 1]1982年今西和男がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した[5][6]

低迷の原因が地方のハンデキャップによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた[7]サンフレッチェ広島の下部組織#前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた[8]。ここで確立されたさまざまな育成重視の方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。

すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた[6][7]

Jリーグ創設前夜

プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。関西以西、中国地方では唯一の参加となった[5][9]

同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた[10](チーム名やチームカラー決定経緯については下記記録・出来事内の「チーム名」項を参照)。

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後のデオデオで現エディオン)・中国電力広島銀行等59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため[9]、Jリーグ参加条件であった「チーム名に企業名を入れない」意味を企業に説明して、出資団体を募った。

1992年 - 1994年(バクスター時代)

バクスター

1992年に、スチュワート・バクスターが監督に就任。イワン・ハシェックパベル・チェルニー盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。

当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン松田浩望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のJリーグヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位に終わった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活躍しだし、1994年には見事サントリーシリーズで初優勝を果たす。

この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏佐藤康之柳本啓成森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを浅くとり裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神で広島サポーターのみならず、多くのJリーグサポーターを魅了した[6][7]

しかし同年ニコスシリーズになると、高木に徹底マークが着いたため攻め手がなくなり[6]、組織的でオートメーション化したパスサッカーが逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり、トーレ・ペデルセンをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下していった。

その結果、Jリーグチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗戦し、年間優勝には届かなかった。

1995年 - 1996年(ヤンセン時代)

チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦[6]オランダ人のビム・ヤンセン監督が就任。また、同年6月の取締役会で元マツダ副社長の信藤整の社長就任が決定した。

ジョン・ファンルーンピーター・ハウストラサントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。しかしあまりにも変わりすぎたため、ほとんどの選手はついていけず、更に主力の高木・森保は怪我から満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った[6][7]。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。

前年度優勝した事により総年俸が上がり人件費が増加するものの、当年度は成績低迷により観客動員が減少し、クラブ財政を圧迫したこともあり、1995年シーズン終了後、システムについていけない選手を次々と放出した[6]。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して更に観客動員低下につながって行った[11]

その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義笛真人森秀昭久保竜彦ら若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。

リーグでは不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。

1997年 - 2000年(トムソン時代)

Jリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた1997年バルセロナ五輪で名を上げたスコットランド人エディ・トムソンが監督就任する。

同年末、クラブ経営難はピークに達し、筆頭株主でありメインスポンサーであるマツダもフォード・モーター主導で経営建て直し中であったためクラブへさらに資金投入するわけにもいかず、結果クラブは経営危機に陥る[12]。 経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった[13][14]。結果、高木・森保・路木(以上1997年末)、柳本(1998年末)と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの[14]、森保だけが完全から期限付き移籍に変わった[7]のみだったため失望し、更に観客動員は減少していった[11]。クラブ消滅の噂は新人スカウトにも影響し、本契約寸前で他チームと契約する選手も出た。

そこへ、経営建て直しに家電量販店のデオデオの介入が決定、1998年6月の取締役会で久保允誉の社長就任が決定した[14]。久保社長のもとチーム運営は改善され、同年8月本社事務所を現在の広島西飛行場ターミナルビル1階に移転、同年11月には吉田サッカー公園完成、観客動員も徐々に増え、2000年度には6期ぶりの黒字となった。

一方チームは、限られた予算のなか他チームで構想外となった選手を中心に補強、藤本主税沢田謙太郎伊藤哲也吉田康弘山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦・下田崇服部公太高橋泰らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルドアウレリオ・ヴィドマートニー・ポポヴィッチハイデン・フォックススティーブ・コリカら外国人選手も補強した。

トムソン就任当初は主力に怪我人が続出し、更に財政難からまともに戦力が整わなかったため、5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開した。オズワルド・アルディレス(当時清水監督)から「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」[15]と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた[14]

就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破[16]。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。翌2000年、更なる上位進出を目指したが、得点力不足が響き肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた[17]。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。

2001年(ヴァレリー時代)

ヴァレリー

4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブはより攻撃的なサッカーを目指すために、ロシアヴァレリー・ニポムニシを監督招聘した。当時Jリーグで唯一3トップを採用し[18]、超攻撃戦術への大転換を図った。久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った[19]

残留に向けオレグ・パシニンセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。すると日本代表にも選ばれた久保竜彦と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功する。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した94年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった[20]

ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任した[注 2][22]。この際、ヴァレリーが新監督に推薦[23]したロシア人ガジ・ガジエフをクラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった[24]

2002年(ガジエフ/木村/小野時代)

ガジエフ

2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」と放出した[24]。戦術が定まらずチームはバラバラのまま[25]、更にはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい[26]、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村の怪我で急遽獲得したミシェル・パンセ・ビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。結局ガジエフは第8節終了後に健康上の理由により辞任。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった[23][25]

同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格する形で監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった[27]。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えた為、更にチームは混迷する[28]。また主力の久保竜彦と藤本もコンディション不良による低調なパフォーマンスに終始し、他チームで構想外となった選手をレンタルで獲得するも期待はずれに終わってしまう。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になる[29]。しかし結果的には勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。

同年12月、責任を取って木村は辞任した[30]。後任に小野が監督に昇格し、「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という「3ヵ年計画」をうちだした[31]。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。

同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ[5]、元Jヴィレッジ副社長の高田豊治ゼネラルマネージャーに就任した。

2003年 - 2006年(小野時代)

J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本の二人は移籍したが、その他の主力は残留。一方でセザール・サンパイオリカルド・カヴァルカンテ・リベイロらのJで実績のあるブラジル人を獲得した。こうして迎えたシーズンは、開幕から11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走した。だが次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、1年でJリーグ ディビジョン1(J1)昇格を決める。(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)[32]

J1復帰後の2004年、上村・桑原・高橋などのベテラン・中堅を次々に放出し、森崎兄弟・駒野を中心とするチームの若返りに着手、高校生Jリーガーの高萩洋次郎前田俊介高柳一誠なども起用された。一方で補強では後手に回り、小村徳男ベット盛田剛平などベテラン中心の補強となった。チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまった[33][34]

2005年、就任3年目を迎え優勝争いの公約を果たすため積極的な補強に動く。佐藤寿人茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たち、ジニーニョジョゼ・アントニオ・マルチンス・ガウボンなどブラジル人を獲得。新キャプテンに就任した森崎和、前年から起用してきた前田などの若手が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上。しかし、その後は下田の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた[35]。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁で前半戦を終えた時点でどの試合も0分~45分の間は無失点記録を残し[36]、佐藤寿は久保竜の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取りJ1日本人得点王にも輝いている[37]

同年には駒野が東アジアサッカー選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。

2006年、昨年足りなかった部分をウェズレイ戸田和幸らJリーグ実績のあるベテランで補強し更なる上位進出を狙った。しかし、より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した[38]

2006年 - 2007年(望月/ペトロヴィッチ時代)

後任に、GKコーチの望月一頼ドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任する[39]。望月は、前回降格した2002年の反省や、更に中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿人の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫いたことで、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリアミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した[40][41]

新監督のペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人(ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点)で叩き出した。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した[41][42]

また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。

2007年、前々年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった[43]。同年には第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった[44]。シーズン序盤は前年からの好調をそのまま維持したが、頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究されると得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権[注 3]の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、控え組の底上げができていなかったことから主力を固定した為、A代表および年代別代表招集も重なりコンディションが落ち始めていた。それに加えてDFラインの選手が途中まで定まらなかったこともあり守備が崩壊、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた京都サンガF.C.とのJ1・J2入れ替え戦に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した[46]

これに対しクラブ幹部はペトロヴィッチの戦術と選手掌握力を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定する[47]。同年の天皇杯はこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した。

同年末、J2降格を受け組織を再編、社長の久保允誉が責任を取って辞任し会長に、元デオデオ取締役の本谷祐一が社長に新任、会長と社長を残し全ての常任取締役は退任した[45]。また、降格原因の一つとなったフロント陣の編成を改め、決定権の迅速化[注 4]を図った[48]

2008年 - 2011年 (ペトロヴィッチ時代)

2010年ナビスコカップ決勝時のサンフレッチェ広島サポーターによるコレオグラフィー

2008年、降格によりウェズレイおよび駒野友一は退団したものの、監督留任によりほとんどの主力が残留し結果として戦力維持に成功し、更に久保竜彦が6年ぶりに復帰する。同年3月のゼロックス・スーパーカップ[注 5]で、PK戦の末、鹿島に勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。またリーグ戦でも、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目の「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した[47]

J1復帰の2009年、即戦力MFミハエル・ミキッチを獲得するも現有戦力で戦う路線は継続した。熟成したチーム戦術で躍進し、一時は優勝争いにも絡み、シーズン開幕前の下馬評を覆す大躍進を遂げ、最終的にはJ1昇格1年目での優勝はならなかったものの、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位で終えた。また天皇杯の結果により繰り上がりで翌年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)への出場権[注 6]を獲得し[49]、前身大会を含めればアジアクラブ選手権1969出場以来41年ぶり2回目、チャンピオンズリーグ発足以後では初出場となった。

2010年、「ACL男」山崎雅人をレンタル移籍で獲得し[50]、ACLに挑んだもののグループリーグ敗退に終わった。リーグ戦ではACLの過密日程、故障者の続出もあり、前年から順位を落としたものの賞金圏内の7位に踏みとどまった。またクラブ初のJリーグカップの決勝に進出したが、ジュビロ磐田に敗れ、初のJリーグ3大タイトルの獲得とはならなかった。2011年東日本大震災が発生し、様々な影響を受けている。リーグ戦では、序盤は上位争いにも顔を出し上々の出だしだったが、7月以降は勝てない試合が続き、優勝争いから脱落し、結果前年と同じく7位に終わった。Jリーグカップおよび天皇杯でも早期敗退した[51]

2008年以降のペトロヴィッチ時代の広島は、主力に常に怪我人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなった。しかし戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・高萩洋次郎森脇良太佐藤昭大槙野智章中林洋次など若手が台頭した[47]。更に、それまでJリーグ独自で規定されていた移籍金制度が2009年をもって撤廃されたこと[52]がチームに大きく影響した。選手はチームとの契約期間満了により移籍金ゼロで移籍できることから補強も主力流出も活発となり、北京五輪U-23代表(西川周作水本裕貴李忠成)や、ペトロヴィッチと同様の戦術に慣れていたオシムチルドレン[53]中島浩司山岸智・水本など)を移籍金ゼロあるいは従来より安い移籍金で獲得し選手層の厚みにつなげる一方で、柏木や槙野・李や中林は移籍していった。外国人選手はそれまでのブラジル路線から、ミキッチやダビド・ムジリなど東ヨーロッパ系の選手を中心に獲得するようになった。

2009年のJ1復帰後3年連続でリーグ7位以内に入り、タイトル争いに絡む成績を残したものの、リーグ戦やACL2010や2010Jリーグカップ決勝など肝心なところで勝負弱さが露呈した[51]。ペトロヴィッチは信頼する主力を使い続けたことにより、夏場のコンディション低下し、得点は奪えるものの失点が減ることはなかった[51]。ただ、独特の攻撃的なサッカーや、J2でチームを熟成させJ1に復帰し以降のJ1での躍進は、チーム作りの好例として評価された。J2に降格しながら監督を代えなかった前代未聞の判断をした広島フロントは賞賛され、これ以降他のJ2降格チームも監督を留任するケースが出てきた。

経営改革

2012年にプロクラブ創設から20周年を迎えたが過去19年で20億円を超える累積赤字を出してしまい、その中で2013年から始まるクラブライセンス制度に対応するため、資本金約21億円を99%減資し累積赤字解消にあて、更に約2億円の第三者割当増資を行うことになった[54]

2012年5月、すべての手続が完了した[3]。資本金は21億1005万円から2億2030万500円、株主数は58から64[3]、累積赤字は約5000万円に圧縮された[55]。なお、広島県・広島市および安芸高田市の3自治体を含め従来の58株主はすべて減資に応じ、35株主が増資に応じている[3][56]

こうした流れがあったため2011年末、ACL出場および東日本大震災の影響により2年連続で赤字になる見込みとなったことから累積赤字解消のため、高年俸となったペトロヴィッチの契約延長を断念した[57][58][59]。更にムジリや服部公太、盛田剛平などベテラン勢を中心に構想外とし、契約更新選手も減俸や微増に止め総額年俸を抑えていった[60]

2012年(森保時代)

ペトロヴィッチとの契約を断念したチームは、ペトロヴィッチのサッカーを継承および調整し、現状のクラブ方針を把握している広島OBを登用することになり、その中でアルビレックス新潟のヘッドコーチでOBの森保一の名前が挙がることになった[61][62]。森保は3年ぶりの広島復帰で、クラブ史上初の生え抜きとなるトップチーム監督を務めることとなった[62][61]

15年間在籍していた服部公太中林洋次岡山に、トミッチ愛媛に、髙柳一誠札幌に、盛田剛平甲府に、李忠成サウサンプトンFCに、ムジリFCゼスタポニに移籍、山崎雅人山形)、内田健太(愛媛)がレンタル移籍先に完全移籍、鳥栖にレンタル移籍している岡本知剛のレンタル移籍期間が延長、新潟から千葉和彦大宮から石原直樹を獲得、2年間レンタル移籍していた平繁龍一が復帰、ファン・ソッコイ・デフォン増田卓也が入団した。

年度別成績

  • 年度別成績・歴代監督
  • 対戦成績
  • リーグ戦ホームゲーム観客動員数

タイトル

  • 国内タイトル
  • 国際タイトル
  • 表彰

記録

  • クラブ記録
  • 個人記録

国際記録

  • 国際試合
  • 国際大会出場選手

エピソード・アラカルト

チーム名およびチームカラー

決定に直接携わった今西和男[5]およびフロントスタッフ[10]は次のように語っている。

チーム名は公募したところ、県花である「モミジ」やそこから連想する「赤」、そして「毛利元就」に関するもので占められていた。その中で最多案ではなかったが、元就の故事・三本の矢にちなんだ「スリーアローズ」がクラブスタッフの目に止まった。ただ商標登録されていたため、それをもじり「サンフレッチェ」という名をスタッフ会議で作りだした。サンを日本語のまま残したのは、セイント(saint)を意識したとも。
次にチームカラーは、当初マツダSCのチームカラーである「青」を考えていたが、他チームと色が被らないようにというJリーグ側の意向[注 7]もあり、スタッフ会議でチームカラーの一新も決定した。そこで、広島サッカー界の名門・広島一中(現国泰寺高校)のチームカラーにあやかり、聖徳太子の冠位十二階で最上位を象徴し高貴なイメージがあるため、更にはナイトゲームで最も映える色として事前調査で判明したため、「紫」に決定した。
そこからチーム名を「パープル」にする提案も出たが、語感の悪さから却下された。

また、川淵三郎の著書『虹を掴む』の中にも以下のようなエピソードがある。

川淵と広島球団社長との酒席で、広島社長がチーム名は「高貴な色」を付けた「広島パープル」に決定したと話した。川淵は愛称的なチーム名を期待していたが色だけのチーム名に難色を示し、その場にいた芸者らも川淵の意見に賛同して改名を考慮、結果としてチーム名は公募され、最も多かった毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんだ「スリーアローズ」をさらにもじり、「サンフレッチェ」の名前が誕生した。

1993年当時は組織内のトリオを「○○のサンフレッチェ」と自称するものも出てきた。

設立当時はユニフォーム等で赤紫(パープル)を用いていたが、同じ紫をチームカラーとしているサンガとの差別化を図り近年は青紫(バイオレット)を用いている。

2011年からはユニホームサプライヤーがそれまでのミズノからナイキに変更されたこともあって、アウェー用ユニホームがそれまでの白から「朱色」に変更された。これは厳島神社鳥居をイメージする色として採用されたという。なお白色ユニホームはサードユニホームとして引き続き採用される。

記録・出来事

チェアマン杯破損

1994年6月11日磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。ところがこの際、授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)をサポーターに見せてやろうと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損。この珍事は翌日のスポーツ新聞の1面を飾った。クラブはその場でJリーグ側に陳謝、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。

この件以降、チェアマン杯は金属製となった。また、割ってしまった旧チェアマン杯は一旦溶かされてペンダントとなった[63]

ちなみに当時その模様を伝えるニュースでは、森山佳郎が持ってサポーターの方へ向かい広告ボードで躓いた状況が放送されたため、多くのファンは「割ったのは森山」と考え、森山本人も以後会う人全員から疑われて否定に必死だったという。

ユニフォーム忘れ

1995年4月1日熊本市水前寺競技場横浜フリューゲルス戦が行われた。この試合は当時九州にJリーグチームがなく、熊本県をホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームだった。広島は、4日後の4月5日万博記念競技場でガンバ大阪戦を控えており、アウェーゲームが続くため横浜F戦を前に2試合分のアウェーゲーム用の準備[64]をし、熊本には白の2ndユニフォームを持参していた。ところが横浜Fの1stユニフォームは白(当時、白、またはそれに近い色を1stユニにしていたのは横浜Fの1チームだけであり、横浜Fとアウェーで対戦するクラブは必然的に1stユニを着用しなければいけなかった)。水前寺競技場に着いて間違いに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだ[64]が、当然ながら間に合うはずもない。

広島は横浜Fの了解を得て、まず白ユニを紫に着色することを思いつき、熊本県サッカー協会からスプレーを借りたが時間が足りなかった[64]。そこで、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ[64]。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、スポンサーのロゴが描かれていないものもあった。ちなみにパンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。

この試合はNHKBSにより生放送され、延長前半12分にイワン・ハシェックVゴールで広島が勝利しJ通算50勝を達成した[64]。広島の営業はスポンサーに詫びを入れに回り[64]、Jリーグから制裁金が課せられた。

ちなみにレプリカユニを借りたサポーターには「選手が着用したものだから洗わずに今すぐ返してほしい」と言われ、後日この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙をプレゼントした[64]

初のJ2クラブ「日本一」達成

2008年3月1日国立霞ヶ丘陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、2部制ができた1999年以降初めてJ2のクラブがJ2リーグ戦優勝以外のタイトルを獲得する偉業を達成した。

初の「ベストメンバー規定」違反による罰則

2009年6月3日、ナビスコ杯・対大分トリニータ戦において、先発メンバーのうち10人がJリーグ規約第42条違反、俗に言うベストメンバー違反とされ、同年9月15日のJリーグ理事会にて制裁金を科された。

ただ、広島は事前にリーグ側に規約について問い合わせを行っている事もあり、逆に規約の問題点も浮き彫りとなった。

交流

吉田町(安芸高田市)

チーム名は上記のとおり毛利元就の故事にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である高田郡吉田町(現:安芸高田市)とサンフレッチェとの交流が始まった。その後交流が進み、吉田サッカー公園完成や、毎年清神社に必勝祈願参拝するなど、現在の吉田町はサンフレッチェのマザータウンとなっている。

横川町(西区)[65]

2007年3月、広電バスがホームゲーム開催日に、JR・広電横川駅とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが横川町商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。

他のJリーグクラブへの協力

発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。

大分トリニータや愛媛FCは、創設時に元広島総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた[6]

2008年、中国・四国地方のJリーグクラブで中国・四国Jクラブ情報懇談会を結成。定期的に集まり、おのおのクラブ運営の問題解決にむけ意見交換を行っている。

他競技交流

広島県内を拠点として活躍する8競技9団体でトップス広島(異競技間交流ネットワーク)を結成、相互競技応援や若年層向けにスポーツ教室の開催、自治体が主催するスポーツによる地域活性化事業に参加するなどしている。

それとは別に2競技1文化団体によるP3 HIROSHIMA(広島三大プロ共同体)という地域活性化プロジェクトを開始、家族向けに夏休み期間中各団体活動を体験する事業を行っている。

サンフレッチェ劇場[66]

広島がしゃもじの生産地であるため、しゃもじを鳴り物代わりとして使って応援するサポーターも一部いる(他、広島東洋カープなど広島県を本拠地とするスポーツクラブの応援団もそれを使う)が、ホームである広島ビッグアーチにおいて試合で勝利後、選手がトランジスタメガホン片手にサポーター席の前で選手自身が用意した扮装等パフォーマンスを行っている。

自チームサポーターに向けてパフォーマンスを行っていた中山雅史岡山一成に憧れた柏木陽介槙野智章が、2007年にホームゲームで勝利するとサポーター席の前にやってきてパフォーマンスを行っていたのが始まり。当初は2人の名前を取って「カシマキ劇場」と呼ばれていた。翌2008年、ここに森脇良太が加わり、現在の名前となった。

上記の3人のみならず、他の選手もゲストとして参加している。ちなみに、試合後の渋滞が緩和されるとして「クラブ公認」となっており、公式ウェブサイトにこの様子の動画が公開されている。また、スカパー!の試合中継内でも放送される。

ゴールパフォーマンス

2010年に槙野智章と森脇良太を中心にゴール後にさまざまなゴールパフォーマンスを行うようになり、全国ネットのスポーツニュースで取り上げられるなど注目された。

所属

フロント


トップチーム
下部組織

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 濃紫
FP(2nd) 朱色 朱色 朱色
FP(3rd) 白×朱色
GK(1st)
GK(2nd)
GK(3rd)
FP 1st
FP 2nd
FP 3rd
GK 1st
GK 2nd
GK 3rd

チームカラー

紫色

色決定経緯については上記エピソード・アラカルト内の「チーム名」欄を参照。

ユニフォームスポンサー

公式ウェブサイト 参照。なお同スポンサーでも表記名や掲出個所が年により変わっており、詳細は下記の歴代スポンサー年表参照。
公式戦用
箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
エディオン エディオン 1997年-
背中 マツダ MAZDA 2010年- 2010年にはACL用の胸にも掲出
k.a.a JAPAN AS進学セミナー 2011年-
パンツ エディオン イードットコム 2012年-
※ : 表記は1997年-2002年、2004年-2011年まではDeODEO、2003年はYourVoice、エディオンは2009年-2011年までパンツに掲出、2011年の3rdユニフォームにはedionとして胸に掲出
練習着
箇所 スポンサー名 表記 備考
胸あるいは背中 マツダ MAZDA 練習着の種類により異なる
左袖 広島銀行 広島銀行
右袖 中国電力 中国電力
パンツ 産興 Tj Hiroshima

歴代スポンサー年表

スタジアム

ホームスタジアム推移

現在、Jリーグ主催公式戦はすべて広島ビッグアーチで行われている。

  • 1992年 - 1994年:広島スタジアム
    • 当初からビッグアーチと併用していたが、1993年までの通年と1994年ニコスシリーズ(第2ステージ)はアジア大会に備えた芝生保護、開催準備などの観点で試合数を制限していた。
    • 1995年ぐらいまで、びんご竹ヶ端博多の森大分市陸愛媛鳥取バードでもホームゲームを開催していた。
  • 1994年 - 現在 広島ビッグアーチ(実公式な本拠地移転の届出は1996年)
    • 1994年から2003年まで広島スタジアムと併用。年によって区々(1997年はリーグ戦・カップ戦すべてビッグアーチ、2003年はリーグ戦両所ちょうど半分ずつ、など)。
      • 1998年1stステージは広島ビッグアーチの施設・ピッチ改修のため、広島スタジアムをホームに。
    • 2004年から2006年までリーグ戦は広島ビッグアーチ、カップ戦は広島スタジアム。
    • 2007年以降、リーグ戦・カップ戦すべて広島ビッグアーチ。

広島スタジアムは13000人収容だが、座席(イス)の部分が7000人程度しか収容[67]できず、Jリーグが定める座席の収容人員の基準(J1:15000人、J2:1万人)を満たしていないために使用不可となった。但し、2011年8月13日の名古屋戦はビッグアーチが他のイベント開催優先の都合上使用不可の特例処置で、ゴール裏スタンドの一部に仮設座席をこしらえて広島スタジアムで開催された。

かつて行われていたJサテライトリーグでは、1997年ごろまでマツダ鯛尾グラウンドや広域第一などで行われ、吉田サッカー公園ができて以降は吉田、年に1試合のみ竹ヶ端で開催されていた。

専用スタジアム構想

練習場・キャンプ地

吉田サッカー公園
練習場

現在、主に使用されるのは下記の3つ。

また、過去には下記の場所で練習していたこともある[68]。現在も吉田およびビッグアーチともに積雪で閉鎖された場合のみ使用されることがある。

キャンプ
  • 現在のキャンプ日程は、まず広島で1週間ほど練習を行い、その間集合写真撮影や清神社にて必勝祈願を行う。その後一次キャンプを沖縄・本部町で、二次キャンプを宮崎・シーガイアで行なう。
  • 国内キャンプは、地元広島のほか、過去には大分県淡路島(ともに冬季)、北海道松江市筑波大学(ともに夏季)などで行われている。2011年から本部町キャンプを開始した。
  • 海外キャンプは監督の意向で決まることが多い(括弧内は行なった監督)。過去には東欧北欧(バクスター)、浦項スティーラース練習場(ヤンセン)、アデレード(トムソン)、グアム(小野剛)、アンタルヤ(ペトロヴィッチ)で行われている。

メディアなど

紙媒体
テレビ
ラジオ
応援歌など
交通

注釈

  1. ^ 1980年代、社名変更やJSL1部昇降格を機に数度正式名称を変えている。1981年から「マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部」、1984年から「マツダスポーツクラブサッカー部」、1986年から「マツダサッカークラブ」。
  2. ^ 後に、フロントとのチーム方針を巡る意見の相違から、好条件を提示された中国・山東魯能監督に就任する[21]ための狂言と判明した。
  3. ^ 2006年に組織再編を行い織田秀和強化部長が実質的な現場のトップとなったが、最終的な決定権は久保允誉社長に委ねられていた。ただ久保は本業であるエディオン社長の激務もあり、迅速な決定が下せない状況だった[45]
  4. ^ 今まで久保がエディオンの社業と兼任していたクラブ社長業を、本谷がクラブ専任で行うこととなった。また、「強化本部」を軸とする1本部5部制から、トップチームの強化や育成普及などを担当する「管理強化本部」と営業や運営や広報などを担当する「事業本部」の2本部7部制を採用。管理強化本部長は本谷が兼務、事業本部長はマツダからの出向の取締役が就任した[48]
  5. ^ Jリーグ優勝の鹿島アントラーズが天皇杯も制した為、当時の規定により天皇杯優勝チームの代替として出場。
  6. ^ 前年度のJ1上位3チームならびに天皇杯優勝チームに翌年のAFCチャンピオンズリーグ出場権が与えられるが、J1上位3チームのいずれかが天皇杯を優勝した場合、J1第4位チームに繰り上がりで出場権が与えられる。
  7. ^ マツダがリーグ加盟およびチーム詳細決定が遅かったせいもある。他にも、青と水色の「古河ゼブラ」の古河電工や、旧JFL時に濃い青を使っていたフジタヤマハも、それぞれジェフ、ベルマーレ、ジュビロとしてリーグ加盟時に濃い青系から変えている。

出典

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  5. ^ a b c d 『今西和男インタビュー』
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参考資料

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  • 加部究「GM考察 第1章 広島のドン:今西氏のクラブGM論」『サッカー批評』第33号、2006年12月、ISSN 4575478938{{issn}}のエラー: 無効なISSNです。 
  • 森保一西岡明彦『ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に』フロムワン(原著2004年2月)。ISBN 4757210159 
  • 紫熊倶楽部各号
  • 季刊紙「ASSIST」各号
  • 中国新聞各紙
  • サンフレッチェ広島記録集
  • SANFRECCE Diary

関連項目

外部リンク