ローリング・ストーンズ
| The Rolling Stones | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 別名 | ストーンズ |
| 出身地 | |
| ジャンル | ロック ブルースロック サイケデリック・ロック ロックンロール ロカビリー |
| 活動期間 | 1962年 - |
| レーベル | デッカ・レコード ローリング・ストーンズ・レコード |
| 公式サイト | www.rollingstones.com/ |
| メンバー | |
| ミック・ジャガー キース・リチャーズ ロン・ウッド チャーリー・ワッツ |
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| 旧メンバー | |
| ブライアン・ジョーンズ ミック・テイラー ビル・ワイマン イアン・スチュワート |
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ザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) は、1963年にデビューしたイギリス・ロンドンのロックバンド。
目次 |
[編集] 概要
ロック草創期の1960年代前半から現在まで半世紀近く、1度も解散することなく第一線で創作を続ける、ロックの代名詞的な存在である。エアロスミスやガンズ・アンド・ローゼズ、オアシスなど、ローリング・ストーンズを崇拝するアーティストは数知れない。略称ストーンズ。
バンド名はシカゴブルースの巨匠、マディ・ウォーターズの"Rollin' Stone"にちなんで、当時リーダーであったブライアン・ジョーンズが命名。
全世界でのアルバム総売上は2億枚を超える。代表曲として「サティスファクション」「ひとりぼっちの世界」「黒くぬれ」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「ルビー・チューズデイ」「悪魔を憐れむ歌」「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスを転がせ」「悲しみのアンジー」「ミス・ユー」「スタート・ミー・アップ」など多数のヒット曲がある。
[編集] メンバー
- ブライアン・ジョーンズ(Louis Brian Hopkin Jones、1942年 - 1969年)
- レコードデビュー時から在籍で、バンドにおける当初のリーダーだった。1969年急逝。
- 担当:ギター、ハーモニカ(他にダルシマー、マリンバ、シタールなど多くの楽器を演奏。一部の曲でバッキング・ボーカル)。
- 死因については自殺説や事故説、他殺説がある。
- ミック・ジャガー(Sir Michael Phillip Jagger、1943年 - )
- レコード・デビュー時から在籍。
- 担当:リードボーカル、ハーモニカ(曲によってギター、キーボードなどを担当することもある)。
- 2003年12月12日、英国においてナイトの称号を授与される。
- チャーリー・ワッツ(Charles Robert Watts、1941年 - )
- レコード・デビュー時から在籍。
- 担当:ドラムス。デビュー前からジャズ・ドラマーのキャリアがある。メンバーの中で唯一初婚を貫いている。
- ビル・ワイマン(Williams Parks、1936年 - )
- レコード・デビュー時から在籍。1991年脱退。
- 担当:ベースギター("In Another Land" 1曲のみリードボーカル)。
- ビル・ワイマン脱退後のベースギターは、ダリル・ジョーンズがサポート・メンバーとして担当。
- ロン・ウッド(Ronald David Wood、1947年 - )
- 1968年から1969年にかけて、ベーシストとしてジェフ・ベックのアルバムとツアーに参加。その後、フェイセズでギターを担当。1975年にミック・テイラーの後任として加入。
- 担当:ギター、バッキング・ボーカル(一部の曲でベースギター他)。
- 当初は、フェイセズから・ゲストミュージシャンとしてアルバム「ブラック・アンド・ブルー」(1975年)に参加。その後のストーンズのツアーには、サポートメンバー扱いで参加した。その後、フェイセズが解散した為、ローリング・ストーンズに加入して、現在に至る。ジャケット写真等には、メンバーとして写っているが、契約書上の正式メンバーになったのは1993年からであり、それまでは月給契約であった。
正式メンバーではないが、キーボーディストのイアン・スチュワート(1938年 - 1985年)がいる。彼は、オリジナル・メンバーであったにも関わらず、正式デビュー直前にマネージャーのアンドリュー・オールダムから「顔つきがロックバンドとして相応しくない」との理由で正式メンバーから外されている。ストーンズのメジャーデビュー後は、ロードマネージャーとして関わったが、そのピアノやキーボードの腕前から、レコーディングやツアーには必ず参加しており、1960年代では実質的なメンバー扱いだった。1970年代に入って以降は頻度はやや減ったが『ダーティ・ワーク』までのアルバムに参加している。
[編集] 音楽上の特色
ローリング・ストーンズの音楽的ルーツは、黒人音楽のブルースにある。デビュー曲の「カム・オン」はチャック・ベリーのカバーである。彼らがデビューした1960年代初期、アメリカにおいてはまだまだ黒人に対する差別が根強く、「ブルースのレコード・ジャケットには、黒人の顔写真を載せてはならない(黒人ミュージシャン本人の顔写真を含む)」という慣習のある州さえ多かった。こうした時代にイギリス出身の白人のグループでありながら、黒人の音楽であるブルースを心から尊敬し、影響を受け、黒人になりきって歌や演奏に表現しようとしたバンドがローリング・ストーンズである。彼らは更にブルースだけでなく、モータウンやスタックスといったレコード会社に代表される、同時代の黒人音楽も吸収した。
こうした点でローリング・ストーンズは、「白人なのに黒人のようにブルースを歌える」とされたエルビス・プレスリーや、さまざまなジャンルの音楽を取り入れた「アングロ・サクソン的」なビートルズとは一線を画している。ローリング・ストーンズの活躍は、黒人音楽にルーツをもつ、他の白人ミュージシャンが1960年代後半から1970年代初頭にかけて、米英などで多数登場するきっかけとなったともいえる。
ローリング・ストーンズのサウンドの欠かせない特徴として、その独特のリズムがある。本来バンドであればドラムとベースの絡みが重要といわれているが、ストーンズは違う。そのリズムの核となるのは、チャーリー・ワッツのドラムス、キース・リチャーズが弾き出すリズム・ギターにある。この2人が絡むことで、その独特のリズムが生まれている。ギターがドラムと絡み合うことで、当然ベースも独特な演奏をしていて、サウンドの核となるキースのギター・ラインと、そのギターに絡もうとする他の楽器パートの隙間を、まるで縫い合わせていくように弾いていることに特徴がある。キースのギターが中心となってバンドの音を引っ張っていっていると言ってもいいそのサウンドは、まさに唯一無二である。しかし、1993年にビル・ワイマンが脱退して以来、そのリズムが変わって、サポート・メンバーであるダリル・ジョーンズの弾くベースはより安定したものながらも、それに古くからのファンは「不満」があるようである。
ローリング・ストーンズは、様々な流行の音楽をも取り入れ、一部のメンバーの交替や、様々なアクシデントを乗り越えつつ成長し、デビュー40周年を超えた21世紀に至ってもなお、ブルース(リズム・アンド・ブルース)ルーツのロックンロールという音楽で、第一線で現役を貫き通している。
[編集] スタイル
ストーンズのデビューに当たっては、ビートルズの助言があった。すでにデビューしていたビートルズは、リッチモンドのクローダディ・クラブで、アマチュア時代のストーンズのステージを観ている。休憩時間に会話を交わし意気投合、その日ストーンズがステージを終えるのを待って、朝まで音楽話をし、以来友人関係が続くことになる。
ビートルズは、ブライアン・エプスタインの下で宣伝係を担当していた、アンドリュー・ルーグ・オールダムに「すごいグループがいるぞ」と、ストーンズをスカウトするように薦め、オールダムはストーンズのマネージャーになる。
オールダムは、ストーンズを売り出すに当たって、ビートルズとは逆の事をした。ビートルズのきれいさとは対照的に、ストーンズのメンバーは衣装をあえて統一せず、一般人の普段着のような服をステージでも着ること、髪をきれいにカットせずに伸ばし放題にすることなど、その後のミュージシャン(とりわけロック)のスタイルに大きく影響を与えたとされる。1960年代初期、英国の学校では、ビートルズのマッシュルームカットは禁止されていた。しばらくしてストーンズがデビューしてからは、マッシュルームカットを容認した学校が多かったが、それでもなお、ストーンズを真似た髪型は一切禁止されたという。現在の感覚で、当時のストーンズの写真を見ると、さほど奇抜には感じられないのだが、当時は、彼らのファッションは過激なもの、と認識されていたのである。揃いのスーツを着た初期ビートルズ=優等生という印象に対して、ラフなスタイルで長髪のストーンズ=不良というイメージを打ち出したわけだが、「ビートルズ=優等生、ストーンズ=不良」は、お互いのマネージャーが宣伝の為に作り上げたイメージにすぎなかった。実際、両グループは前述の通り仲が良く、シングルの発売時期が重ならないよう、連絡を取り合っていたという。また、1967年に、ビートルズの「愛こそはすべて(All You Need Is Love)」にミックとキースがコーラスで参加。その返礼として、ストーンズの「この世界に愛を(We Love You)」にジョンとポールがコーラスで参加するなど、音楽面での交流も活発だった。互いのレコーディングも頻繁に訪問していたらしく、ビートルズのレコーディングにミック・ジャガーが訪れた際の写真が現存している。
ビートルズをオーディションで落とし、その後ビートルズの活躍ぶりを観て、慌てて第二のビートルズになるバンドを探していた、デッカレコードのディック・ロウに「ローリング・ストーンズを採るべきだ」と推薦したのが、ジョージ・ハリスンであった。これにより、ストーンズはデッカからデビューする。
最初こそ、プロモーション戦略としての“ストーンズ=不良”というイメージであったストーンズであったが、1960年代後半からそれを地で行くようになる。メンバーの度重なる麻薬所持による逮捕や裁判、1970年代半ばにはカナダの首相夫人とのゴシップなど、スキャンダルに塗れている。そのため、1973年に予定されていた来日公演は、そんなストーンズの度重なるスキャンダルによって入国拒否を受けている。もっとも、それはビートルズも同じで初期の小奇麗な格好はしなくなり、ドラッグ問題に直面した点までもストーンズと共通している。
[編集] 来歴
[編集] レコードデビューまで
- 1960年:「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」を結成していた、ミック・ジャガー(以降、「ミック」)は、キース・リチャーズ(以降、「キース」)を説得し、メンバーに加入させる。アレクシス・コーナーの「ブルース・インコーポレイテッド」のステージにゲスト出演していたブライアン・ジョーンズ(以降、「ブライアン」)のスライドギターを目の当たりにしたミックとキースは衝撃を受ける。その後まもなく、ブライアンが募集したメンバー募集にミックとキースが加わる。
- 1962年:マーキークラブに「THE ROLLING STONES(ザ・ローリング・ストーンズ)」として出演。しかし、綴りは名付けられたマディ・ウォーターズの曲名そのままに「THE ROLLIN' STONES」だった。後のデビューの際に現在の形にすることが決定したという。当時のメンバーは、ミック、キース、ブライアン、イアン・スチュアート、ベースにディック・テイラー、ドラムにミック・エイヴォリー(後に、キンクスに加入)であった。
- 1963年:ブルース・インコーポレイテッド出身の、チャーリー・ワッツ(以降、「チャーリー」)が説得されてメンバーとなる。次いで、ビル・ワイマン(以降、「ビル」)も参加。彼がメンバーに引き込まれた理由が、「当時、大出力のベースアンプを所有していたから」という、ジョーク交じりの他メンバーのインタビューもあった。
- 同年5月:初の公式録音。同年6月:デビューシングル「カム・オン」発売。
[編集] デビュー以降、1960年代
- 1964年:全米デビュー。そのすぐ後に初の全米ツアーを行うも、そのほとんどがガラガラという状況だった。それでも、ストーンズは積極的にメディアへの露出・ライヴ活動を行い、徐々にその人気に火がつき始める。しかしアメリカでの成功が本格化していない頃、本国イギリス、ならびにヨーロッパにおいては、すでに人気を獲得しており、イギリスではデビュー・アルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』が12週連続No.1に輝いている。
- 1965年:ジャガー/リチャーズ作品として(当時、キース・リチャーズはファミリー・ネームをリチャードと名乗っていて、1970年代後半にリチャーズに戻した)、シングル「サティスファクション」が自身初となる全米で4週連続No.1となる。以後、このソングライターチームによって何曲もの大ヒットナンバーを生んでいる。
- 1967年:キースの自宅が警察により捜査され、麻薬容疑の証拠品を押収。後に、ミックとキースが有罪となる。同年、ブライアンも麻薬不法所持で逮捕される。以降10年以上に渡り、ミックと特にキースは同容疑で何度か逮捕される。
- 同年、レコードデビュー前に交わされたアンドリュー・オールダムとのレコードプロデュース契約を解除し、以降の自己プロデュース作品(その初作品は『サタニック・マジェスティーズ』)を発表。
- 1968年:プロデューサーにジミー・ミラーを迎え、製作されたアルバム『ベガーズ・バンケット』を発表。このアルバムの冒頭に収められたナンバー「悪魔を憐れむ歌」は、「歌詞が神を冒涜している」という宗教団体からの抗議が起こり、このアルバムが大量に燃やされるという事件があった。このナンバーのレコーディング風景はジャン=リュック・ゴダール監督によって『ワン・プラス・ワン』というタイトルの音楽映画として記録されている。しかし、このアルバム自体はとても充実したセッションであったことが後年メンバーに語られており、オープン・チューニングによるギターリフが印象的な楽曲「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」が録音・発売され大ヒットを記録している。同曲はアルバムにこそ収められてはいないが、このアルバムセッションの際に生まれたナンバーである。
- 1969年6月:67年頃から公私ともにトラブル続きで、精神的に疲労していたブライアンの正式脱退表明。後釜には、ジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズ出身のミック・テイラー(以降、「テイラー」)が決定。
- 同年7月3日:ブライアンが、自宅のプールで死体で発見される。ちなみにブライアン邸は『クマのプーさん』の作者として有名なA・A・ミルンが以前住んでいた家でもある。
- 同年7月5日:新生ストーンズとして以前から計画中だったハイドパークでのフリー・コンサートを「ブライアン追悼公演」として開催する。
- 同年12月6日:秋から始まった久々の全米ツアー最終公演にカリフォルニア州オルタモント・スピードウェイで行われたラヴ&ピースというテーマのもと行われたフリーコンサートで、警備に雇った暴走族ヘルズ・エンジェルスが観客の黒人青年(メレディス・ハンター)を刺殺するという惨劇が起こる。「オルタモントの悲劇」である。
[編集] 1970年代
- 1971年:イギリスでの重税に辟易し、ミックとキース、ビルの3人がフランスへ移住。その直前にイギリスでツアーを行う。
- 同年、「ローリング・ストーンズ・レコード」 (Promotone BV) を発足。その第1弾作品として『スティッキー・フィンガーズ』を発表。先行シングルとして、「ブラウン・シュガー」が70年代初のNo.1ヒットになった。
- 1972年:傑作として名高い『メイン・ストリートのならず者』を2枚組アルバム(CDでは1枚)で発表。アルバム発表後、3年ぶりの全米ツアーを行う。
- 1973年:前年に日本での公演が発表されるも、メンバーの麻薬所持による逮捕歴や、ビートルズ来日の時のような混乱を避けるためという理由により、入国許可が下りず、チケットが完売していたにも関わらず、公演が直前になって中止に。その後、1990年の初来日までストーンズのライヴは夢のまた夢といわれていた。
- 同年、アルバム『山羊の頭のスープ』の発表と同時に3年ぶりのヨーロッパ・ツアーを行う。アルバムには「悲しみのアンジー」を収録。
- 1974年:アルバム『イッツ・オンリー・ロックンロール』発表。さらに次作の録音が一部開始されるが、テイラーは参加しないまま脱退。 また、このアルバムのタイトルナンバー「イッツ・オンリー・ロックンロール」は名義こそジャガー/リチャーズになっているものの、実際にはロン・ウッドが作曲し、ミックが詞をつけるという意外な形で完成された。これは、同曲が元々ロン・ウッドがソロアルバムのレコーディングのために曲を作っていたため。“たかがロックンロール、でも俺はそれが好きなんだ”というストーンズの意気地ともいえる歌詞は、ロン・ウッドの自宅にきて酒を飲み交わしていた際にミックとフェイセズのメンバーであるケニー・ジョーンズとの口論から生まれたという。これが原因なのか定かではないが、同曲のヴォーカルはミックとケニーの二人がとっている。これは結果的に、後のメンバー昇格する要因の一つだったと思われる(ジャガー/リチャーズ/ウッドという共同名義で作曲をしているものがある)。
- 1975年:テイラーの後釜探し、「グレイト・ギタリスト・ハント」が行われる。セッション等に招待されたギタリストは、後にメンバーとなるロン・ウッド(以降「ロン」)の他、ジェフ・ベック、ピーター・フランプトン、ロリー・ギャラガー、ウエイン・パーキンス、ハービィ・マンデルなど。更に全米ツアーも行っており、サポート・メンバーとしてロン(ギター)、ビリー・プレストン(キーボード)、オリー・ブラウン(パーカッション)などが参加した。公演によっては、イアン・スチュワート(ピアノ)が参加している。
- 同年12月:ロッド・スチュワートがフェイセズを正式脱退し解散したことを受け、諸説はありながらも、この時点を「ロンのローリング・ストーンズの加入」とする説が一般的。
- 1976年3月:正式にロンのストーンズへの内定が発表され、同時にツアーを行うことが告知される。
- 同年4月:前年のメンバーのままヨーロッパ・ツアーを行うと同時に、ロン正式加入後初のアルバム『ブラック・アンド・ブルー』発売。ツアーではキースのヘロインによる依存症状がかなり悪化しており、公演中に居眠りや、ホテルでは禁断症状が出て心臓が停止しかけるなど、ドラッグによるアクシデントが後を絶たなかった。それを見ていたロンは、警察をごまかしてわざわざヘロインを調達して来たというエピソードがある。
- ツアー終了の最後の締めとしてイギリスでネブワース・ロック・フェスティバルに出演し、25万人を超える人の前で演奏した。
- 1977年:トロントにてヘロイン所持により、キースと恋人のアニタ・パレンバーグ逮捕。保釈されるもまた所持していたのが発見され再逮捕。再び保釈金を払うことで保釈はされたものの、裁判に。以後1年以上に渡ってキースはトロントの法廷に出ている。これはエル・モカンボ・クラブという小さなクラブでのライヴのために訪問し、その際に起こった事件だった。同時にこのカナダ訪問では、カナダ首相ピエール・トルドーの夫人、マーガレット・トルドーとのスキャンダルがありといった、様々な問題が起こった。マーガレット夫人は、エル・モカンボでのライヴを見にきていたことがライヴ・アルバム『ラヴ・ユー・ライヴ』に収録されたミックのMCから分かる。
- 1978年:アルバム『女たち』発表と同時に全米ツアー開始。
- 同年10月:ついにトロントでの裁判で、条件として執行猶予と盲目の人のためのチャリティ・コンサートを行うという形で釈放、決着。
- 1979年4月:公約通りチャリティ・コンサートをオシャワ・ホールで開く。その際、ニュー・バーバリアンズというバンドをロンとキースが中心となって結成(よくキースがリーダーだと誤報されているが、あくまでロンがリーダーである。メディアがこぞってキースに注目したためと思われる)され、5月いっぱいまで全米ツアーを行っている。メンバーはロン(ヴォーカル&ギター)、キース(ギター&ヴォーカル)、イアン・マクレガン(キーボード&ピアノ)、スタンリー・クラーク(ベース)、ジョセフ・モデリステ(ドラムス)、ボビー・キーズ(サックス)。 このツアーの模様は、ロンが設立したレコード会社よりライヴ・アルバム(L.A.公演のもの)として2006年になってようやく日の目を見た。 また、ロンはこのバンドで日本に行くことも考えたという(もし予定に組まれたとしてもキースがいる限りそれは叶わないと判断しただろう)。
[編集] 1980年代
- 1980年:アルバム『エモーショナル・レスキュー』発表。
- 1981年:3年ぶりとなる全米ツアーを開始。 とにかくその公演の規模が70年代のツアーとは破格だった。 ツアーそのものは非常にエネルギッシュで、それまでと比べると(麻薬の影響もあっただろうが)かなり新鮮味のあるツアーとなっていた。
- 同年:ツアーとは遅れてアルバム『刺青の男』を発表。 このアルバムより先行シングルで、ミックに「80年代の代表曲」といわしめた「スタート・ミー・アップ」がリリースされ、大ヒットを記録。
- 1982年:ヨーロッパツアーを開始。 ツアーが始まる前に前年のツアーを収録したライヴ・アルバム『スティル・ライフ』が発表される。 このヨーロッパ・ツアーを最後に、ストーンズは1989年までライヴ活動を休止。
- 1983年:アルバム『アンダーカヴァー』を発表。 このアルバムのセッションの頃から徐々にメンバー内の人間関係が悪化(81~82年のツアー中にもそれはミックとキースとの間に現れ始めているが)し始める。
- 1985年12月:イアン・スチュアートが、心臓発作により死去する。47歳。
- 1986年:ミックはソロ活動を開始し、チャーリー・ワッツはアルコールやドラッグに走って人間関係がギクシャクしていた中、キースがうまくとりまとめ製作したアルバム『ダーティ・ワーク』を発表。リリースの前年に亡くなったイアン・スチュアートの短いピアノが、アルバムの最後に収録されている。
- 1988年:この頃のストーンズは有名無実、実質的に解散状態であった。 メンバーの中で唯一ソロ活動をしていなかったキースがついに自身のバンド、エクスペンシヴ・ワイノーズを結成し、ソロ活動を開始。
- 1989年:ロックの殿堂入り。
- 同年:アルバム『スティール・ホイールズ』を発表。 実に3年ぶりとなるこのアルバムはストーンズの氷河期の終わりを告げるものだった。 シングルリリースもされた「ミックスド・エモーションズ」は、それを象徴するナンバーであり、メンバー間の人間関係の悪化より停滞していたバンド活動の停止に終止符を打ったのである。 このアルバムのリリースにより、8年ぶりとなる全米ツアー、日本・ヨーロッパなどを含むワールド・ツアー(北米及び日本では「スティール・ホイールズ」ツアー、ヨーロッパでは「アーバン・ジャングル」ツアーと銘打たれた)を開始。ツアーの実施告知がイベント化したのもこの頃からである。
[編集] 1990年代以降
- 1990年:前年の正式発表を経て、東京ドームでの初来日公演が実現。麻薬常習などを理由に、以前は日本政府から許可が降りなかったもので、その後も何度か来日を果たす。
- 1993年1月:ビル正式脱退。代わりのベーシストは置かず、正式メンバーは4人のまま活動しているが、実質はダリル・ジョーンズがプレイしている。
- 1994年:5年振りのアルバム『ヴードゥー・ラウンジ』は、ビルが脱退した反動からか、ベースを中心とした低音重視の音作りをしており、曲調も新人バンドに戻ったような瑞々しさのある曲が多い。久々の全英1位を獲得。アルバム発売後にはワールド・ツアーを開催。
- 1997年:3年振りのアルバム『ブリッジズ・トゥ・バビロン』を発売。再び大規模なワールド・ツアーへ。
- 2002年:バンド結成40周年を記念した2枚組のベストアルバム『フォーティ・リックス』を発売。
- 2003年:イギリスに於いて、ミック・ジャガーがナイトの称号を授与される。
- 2005年:オリジナル・アルバムとしては実に8年振りとなる新作『ア・ビガー・バン』を発売。そして、こちらも久々となるワールド・ツアーを開催。メンバーの平均年齢も60歳に達したが、衰えを感じさせないパフォーマンスで、記録的な観客動員・興行収入となる。
- 2010年:リマスター盤として再発された『メイン・ストリートのならず者』が全英1位・全米2位を記録。イギリスでの1位獲得は16年振りとなる。
[編集] 作品
「ローリング・ストーンズの作品」を参照
[編集] 日本公演
- 1990年:2月14日,16日,17日,19日,20日,21日,23日,24日,26日,27日・東京ドーム
- アルバム『スティール・ホイールズ』のリリースと共に行われたワールドツアーの一環として初来日。大物バンドの初来日ということで、チケット争奪戦が繰り広げられた結果、チケットは完売、19日に追加公演も行われた。日本テレビが主催、大塚製薬がツアースポンサーとなり、ストーンズロゴ入りパックのポカリスエットが販売された。同ツアーの初日、2月14日の公演はFM東京系27局で3月10日に放送された。26日のステージは、4月29日に日本テレビ系列で放送されたが、一部の局では数曲が差し替えられた。また、それ以来ワールド・ツアーの興行収益のギネス記録を、ツアーの度に塗り替え続けている。
- 1995年:3月6日,8日,9日,12日,14日,16日,17日・東京ドーム、3月22日,23日・福岡ドーム
- アルバム『ヴードゥー・ラウンジ』ツアーの一環。
- 1998年:3月12日,14日,16日,17日・東京ドーム、3月20日,21日・大阪ドーム
- アルバム『ブリッジズ・トゥ・バビロン』ツアーの一環。
- 2003年:3月10日・日本武道館、3月12日・横浜アリーナ、3月15日,16日・東京ドーム、3月20日,21日・大阪ドーム
- アルバム『フォーティ・リックス』リリース後のリックス・ツアーの一環。ツアースポンサーは、サントリー。1973年の初来日が中止になり、それから30年目にしてようやく武道館での公演が実現する。武道館、横浜公演のSS席チケットは22,000円であり、他のドーム公演もS席は13,200円と、それまでの公演に比べ料金が上昇した。
- 2006年:3月22日,24日・東京ドーム、3月29日・札幌ドーム、4月2日・さいたまスーパーアリーナ、4月5日・ナゴヤドーム
[編集] 外部リンク