片岡保幸

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片岡 易之(片岡 保幸)
埼玉西武ライオンズ #7
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県千葉市花見川区
生年月日 (1983-02-17) 1983年2月17日(41歳)
身長
体重
176 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手遊撃手
プロ入り 2004年 ドラフト3巡目
初出場 2005年3月26日
年俸 1億3,000万円(2012年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
WBC 2009年

片岡 易之(かたおか やすゆき、本名:片岡 保幸(読み同じ)、1983年2月17日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手内野手)。兄は社会人野球選手の片岡昭吾。 愛称はヤス、また、年下の選手からはヤッさんと呼ばれている。

経歴

プロ入り前

3人兄弟の末っ子。小学生の頃は作新ヤンキースの4番打者&投手として活躍。中学校に入学すると学校の軟式野球部には在籍せず、千葉北シニアリーグ(OBには五十嵐亮太もいる)に所属。2年の頃からレギュラーで活躍。3年時には1番打者・三塁手・主将としてチームを全国大会に導くが、怪我に苦しんだ時期が長かった。

中学校卒業後、栃木県の宇都宮学園高校(現・文星芸大付高)に進学。2人の兄がそれぞれ同校で活躍し有名であったことから、片岡が入学後「片岡3兄弟」としてさらに知名度が増す。高校3年の時には3番・遊撃手として自らのサヨナラヒットで甲子園へ出場するが、甲子園では2回戦敗退(2回戦は腰痛で欠場)。甲子園出場当時、肺に穴が空いていたという逸話もある。この時のチームメイトに2学年下の泉正義がいる。また、兄も宇都宮学園時代に甲子園出場あり。観音寺中央戦でも活躍した。高校の同期にプロバスケットボール選手の荒井尚光がいる。

2001年東京ガスに入社。読売ジャイアンツの内海哲也とは同期入社だった。怪我が多かったため、登録名を「片岡 易之」(読み同じ)にした。

プロ入り後

2005年、ドラフト3巡目で西武ライオンズに入団。石毛宏典ダリン・ジャクソン松井稼頭央のつけていた背番号7を入団時にいきなり与えられたことからも、球団の期待の大きさが窺い知れる。その期待に応え、2005年5月1日に9番二塁手で初スタメン出場。その後も安定した結果を残し、シーズン途中からは栗山巧と1・2番コンビを組んだ。1年目から一軍に定着して81試合に出場。4本塁打・6盗塁と結果を残した。シーズン終了後には盗塁増加のため色々なトレーニングを試みるも結果は出ずにいたが、盗塁に必要不可欠な足の遅さを技術で補おうと陸上競技をトレーニングに取り入れたところ、盗塁数が倍増したという[1]

2006年、5月に高木浩之から二塁手のレギュラーを奪うと、打率.292を記録して2番・二塁手のレギュラーをほぼ不動のものにした。中島裕之の故障で8月からは遊撃手に回った。ロッテ戦では1試合3盗塁を2試合連続で決めるなど走塁技術も向上し、1番・右翼手の福地寿樹とのコンビで2人合わせて53個の盗塁を決めた。またバントの技術にも優れ、リーグ2位の33犠打を記録した。

2007年、2番・二塁手で初の開幕スタメンをつかんだが、4月18日の日本ハム戦で右翼手G.G.佐藤と接触して右ひざと胸部を打撲し途中退場。翌日の試合ではケガを押して代打に出て安打を放ったものの、状態が悪く登録を抹消された。5月30日に復帰したが、しばらくはケガの影響で2割台前半の低打率にあえいだ。8月に.353・13盗塁の大活躍で打率を急上昇させたが、最終的に打率.256に終わった。しかし盗塁技術は格段に向上し、38盗塁を記録。本多雄一との激しい争いを制して自身初の盗塁王のタイトルを獲得した。守備でも失策が前年の13個から5個と大幅に減り、守備率.993は二塁手部門でリーグトップの数字であった。犠打も前年より増やし、リーグ2位の35個を記録した。

2008年、初めて1番打者に定着。選手間投票で選出されオールスターゲームに初出場した。中島が北京オリンピック出場で不在の間は遊撃手に回ることもあった。リーグ最多打数を記録しながら前年より打率を大きく上げ、2番を打った栗山とともに167安打で最多安打のタイトルを獲得した。盗塁は前半戦だけで前年を上回り、12個増やし50盗塁を記録。2位の渡辺直人を16個引き離し2年連続の盗塁王となった(パ・リーグの50盗塁以上は1997年の松井稼頭央以来)。打率は3割に満たず、四球が少ないことから出塁率も.322と、やや物足りない面はあったが、リーグトップの得点圏打率.382と勝負強さを見せた。日本シリーズでは7試合で5盗塁(成功率10割)と大暴れし、特に第7戦の8回表においては先頭バッターとして越智大祐から死球を受け出塁したが、続く栗山巧の打席の初球でいきなり盗塁を敢行した。この時監督の渡辺久信は、死球の際に片岡がガッツポーズをしたのを見て彼の盗塁意欲を感じ取り、初球でのバント指示をやめたという。この試合の解説として出演していた赤星憲広からも「僕には出来ない」と言わしめた盗塁だった。その後改めてバントで3塁に進み1死3塁で3番中島裕之を迎えた。1回表の同様の場面では「ゴロゴー(ゴロと判断したらスタート)」でホームに突入して本塁タッチアウトになり先制点を逃していたが、この場面では「ギャンブルスタート」指示によりバットに当った瞬間にスタートを決行。中島のサードゴロの間にホームへ突入して同点に追いつき、逆転日本一の足がかりを作る活躍を見せた。アジアシリーズ初戦のSK戦では風邪のため欠場したが、決勝までの3試合に1番遊撃手で出場、チームのAS制覇に貢献した。

2009年WBC日本代表に選出された。片岡を選出した理由として日本代表監督の原辰徳は「足(走塁)で代表に選んだ」という程、片岡の走塁技術の高さが評価された形になった。その際、片岡をトランプの「JOKER」と例えた[2]。また、イチローも「ファミスタの『ピノ』みたいでしょ」と評しており、一次候補選手の中では中島裕之岸孝之に並ぶキーマンに挙げた[3]。一次ラウンドこそ出番はなかったが、キューバ戦から主に先発が左投手時にスタメンに。決勝・韓国戦では、同点の7回表、先頭打者としてレフト前ヒットで出塁すると続くイチローの打席では1ボールからの2球目で盗塁に成功。さらにイチローのバントヒット、中島裕之のレフト前ヒットと続き、片岡が貴重な勝ち越しのホームを踏んだ。 大会通じて打率.308、盗塁は1位タイの4盗塁を挙げて監督の期待に応えた。慣れぬ三塁手の守備も手堅くこなしてWBC2連覇に貢献した。 一方シーズンでは1番二塁のレギュラーとして起用されたがなかなか打率が上がらず、4打数以上無安打の試合は29回とリーグ最多で出塁率の落ち込みがチーム失速の一因と言われることもあった。前半戦は打率.282で折り返したが、結局最後まで不調で打率.260と物足りない数字に終わった。一方で13本塁打・58打点は自己最高と長打率は上がり二塁手部門でパ・リーグトップの守備率を記録したが、時折緩慢なプレーでピンチを招くこともあった。盗塁数もあまり上がらず9月までは本多雄一川﨑宗則にリードを許していたが、9月20日から6試合で10盗塁を決めて抜き去り、自己最多の51盗塁を記録、三年連続となる盗塁王に輝いた。

2010年、シーズン当初は荻野貴司本多雄一に盗塁数で差を付けられ、打撃の調子も上がらず打順も1番から9番に下げられることもあった。後に復調すると、オールスターゲーム第2戦では5打数4安打でMVPを獲得、更にパ・リーグでは福本豊以来となる3年連続50盗塁を達成、9月20日のソフトバンク戦で脹脛を痛めて2軍落ちするまでに自己最多の59盗塁まで数を伸ばし、本多と並び4年連続の盗塁王に輝いた。また、打撃面でも前年度開花した長打力を残したまま打率、出塁率を上昇させ、いずれも自己最高の記録を残した。

2011年、キャンプ中に起こした足の怪我による調整不足により打撃不調に陥り、打順も1番から2番に降格されてしまう。さらに試合中に両肩を次々に脱臼してしまい、7月9日に二軍降格となった。その後一軍に復帰、9番打者としてチームの10連勝に貢献するものの、守備範囲内の後藤光尊のタイムリーをケガをかばって捕れなかったことをきっかけに再び一軍を離脱。本人の意向により左肩の手術をすることが決まった。

プレースタイル

50m走で6秒3、一塁到達まで4.06秒と盗塁王経験者の中でもずば抜けた俊足ではないものの[4]、精度の高い盗塁技術を誇り盗塁成功率が高い[5]。この走塁技術はイチローも高く評価しており、練習中お互いに走塁技術について語る場面も見られた。盗塁数の増加の要因としてはスタートの向上と、プロ入り前からの特徴であった独特なスライディング法を挙げており、低いスタート姿勢によって素早くトップスピードに入り、「ベースを吹っ飛ばすつもりでやる」というベースの近くギリギリからのスライディングを行うことにより、スピードのロスを防いだまま次塁に到達することができるという[6]

守備では主に二塁手として起用されており、中島裕之が欠場時は遊撃手としてスタメン起用されることもしばしばある。二塁守備では打球に対する反応の良い上に球際に強く[7]、得点換算でも高い数値を記録している[8]

打撃では二塁打、三塁打が多く2009年以降二桁本塁打を記録しパンチ力も備えるが、アッパースイングのため高めの球に弱い[7]。またリードオフマンタイプではあるが四球が少なく出塁率に課題を残す。三振は少なく早いカウントから打ちに行きフライアウトで凡退することが多い。

スパイクシューズは以前はゼットを使用、現在はアディダスのスパイクシューズを使用している。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
2005 西武 81 219 194 29 51 10 0 4 73 16 6 1 14 1 9 0 1 21 1 .263 .298 .376 .674
2006 115 468 404 57 118 21 4 4 159 44 28 9 33 3 24 0 4 42 4 .292 .336 .394 .729
2007 116 486 422 40 108 19 2 3 140 34 38 9 35 6 17 1 6 51 7 .256 .290 .332 .622
2008 139 634 582 85 167 25 6 4 216 46 50 17 19 2 24 1 7 57 11 .287 .322 .371 .693
2009 139 646 588 92 153 32 4 13 232 58 51 12 12 3 36 2 7 72 8 .260 .309 .395 .704
2010 137 643 576 100 170 31 5 13 250 54 59 12 14 5 43 0 5 72 9 .295 .347 .434 .781
2011 86 364 326 43 75 8 2 1 90 18 22 10 8 0 26 1 4 51 3 .230 .295 .276 .571
通算:7年 813 3460 3092 446 842 146 23 42 1160 270 254 70 135 20 179 5 34 366 43 .272 .317 .375 .692
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績


二塁 三塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2005 47 51 78 3 13 .977 1 0 0 0 0 ---- 28 43 91 4 17 .971
2006 76 167 193 6 28 .984 - 38 66 119 7 26 .964
2007 110 261 345 4 63 .993 - 7 9 8 1 4 .944
2008 128 315 388 11 78 .985 - 15 12 19 0 4 1.000
2009 139 322 440 7 88 .991 - -
2010 137 308 433 9 84 .988 - -
2011 86 161 278 4 55 .991 - -
通算 723 1585 2155 44 409 .988 1 0 0 0 0 - 88 130 237 12 51 .968
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 7 (2005年 - )

登場曲

脚注

  1. ^ <「Get sports 2009年3月1日493回放送分 WBC日本代表片岡易之 「JOKER」より」>
  2. ^ <「Get sports 2009年3月1日493回放送分 WBC日本代表片岡易之 「JOKER」より」>
  3. ^ 2008年、テレビ番組「J-SPO」(TBS、同年12月21日付放送分)でのインタビューより参考リンク(livedoorスポーツ)
  4. ^ 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰『プロ野球スカウティングレポート2011』廣済堂出版、2011年、76頁頁。ISBN 978-4-331-51519-8 
  5. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』白夜書房、2011年、35頁頁。ISBN 978-4-86191-710-3 
  6. ^ 2008年11月17日テレビ朝日Get Sports「日本シリーズ検証企画 埼玉西武ライオンズ 片岡易之 「日本一を勝ち取った足」」での栗山英樹との対談より。
  7. ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2009』アスペクトムック、2009年、36-37頁頁。ISBN 978-4-7572-1628-0 
  8. ^ Baseball Lab守備評価~Second BasemanSMR Baseball Lab
  9. ^ 相手投手交代に伴い代打の代打柴田博之と交代したため実際に打席には立っていない。3月28日の北海道日本ハム戦に守備固めとして出場し、初めて実際に打席に立ったのは3月29日に初安打を放った打席である。

関連項目

外部リンク