千代の富士貢
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基礎情報 | ||||
四股名 | 千代の富士 貢 | |||
本名 | 秋元 貢 | |||
愛称 | ウルフ | |||
生年月日 | 1955年6月1日(68歳) | |||
出身 | 北海道松前郡福島町 | |||
身長 | 183cm(現役時) | |||
体重 | 127kg(現役時) | |||
所属部屋 | 九重部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第58代横綱 | |||
生涯戦歴 |
1045勝437敗159休 (125場所、勝ち星歴代2位) | |||
幕内戦歴 |
807勝253敗144休 (81場所、勝ち星歴代2位) | |||
優勝 | 幕内最高優勝31回(歴代2位) | |||
賞 |
殊勲賞1回 敢闘賞1回 技能賞5回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1970年9月場所 | |||
入幕 | 1975年9月場所 | |||
引退 | 1991年5月場所 | |||
備考 | ||||
金星3個(三重ノ海2個、若乃花1個) | ||||
2011年9月28日現在 |
千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、本名:秋元 貢(あきもと みつぐ)、1955年6月1日 - )は、大相撲元力士で、第58代横綱。北海道松前郡福島町出身。身長183cm、体重127kg。現在は年寄・九重として日本相撲協会理事・事業部長であり、九重部屋の親方である。現役時代の異名・愛称はウルフ、大将。血液型はA型。岳父は玄洋社記念館館長や玄洋ビル社長を務めた進藤龍生。夫人は進藤喜平太(第二代及び第五代玄洋社社長)の曾孫で、進藤一馬(第十代玄洋社社長、元福岡市長)の姪孫。次女はファッションモデルの秋元梢。他に息子と娘(梢の兄と姉)が1人ずついる。
史上2位の記録である通算31回の幕内最高優勝、共に歴代2位の通算勝星1,045勝と及び幕内勝星807勝、1988年(昭和63年)5月場所7日目から11月場所14日目までの53連勝(取り直し制度導入後歴代3位)など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いた。
少年時代~入門まで
漁師の息子として生まれた。漁業の手伝いで足腰が鍛えられ、少年時代からスポーツ万能。特に陸上競技では走高跳、三段跳で地方大会に優勝し、オリンピックにもいける、といわれた逸材だったという。
中学時代虫垂炎の手術をした際、彼の腹の筋肉が厚くこれにてこずっているうちに、予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終わる前に麻酔が切れた。それでもなお耐え続ける貢少年を見た執刀医は、感心して知り合いにこの話をしたという。その知り合いという人物が、かつて千代の山(後の九重)をスカウトした若狭龍太郎で、その後貢少年が運動神経を買われて町の相撲大会に引っ張り出され、勝ちを収めたと聞いた若狭はスカウトに乗り出す。話を聞いた九重も若狭と共に乗り出し、直々に説得。貢少年本人は相撲にほとんど興味がなく、両親も反対したため一旦は断わっていた。
しかしそれでも諦めない九重は、貢少年に対して「取り敢えず東京に行こう。入門するなら飛行機(全日空のフォッカーフレンドシップだったとされ、当時は地元福島町の町長でさえも乗ったことがない乗り物であった)に乗っけてあげるよ」また「中学の間だけでもやってみて、後のことを考えたら」などと持ちかけると、結局貢少年はその飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切ってまで九重部屋に入門を決めた、という話がある。この相撲界入門時のエピソードは、現役引退後に自らトーク番組などでよく語っている。
現役時代
初土俵~幕内定着
本名で初土俵を踏み、翌場所には大秋元と改名。その後、千代の冨士、後に点をつけて千代の富士となる。相撲は始めたが、転入した中学でも陸上を続け、区大会入賞するなど活躍、中学卒業後は帰郷するつもりでいた。しかし土俵での成績も概ね好調で、逸材を手放すのを恐れた師匠は、後援会に世話を頼んで貢少年を明大中野高校に通わせる。高校で学業と相撲の両立をはかったが困難となり、退学して相撲に専念することに決し、ここに至って貢少年は本格的に力士の道を歩むことになる。
千代の富士の四股名の由来は、師匠の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱「北の富士」。異名の「ウルフ」については、魚を捌いていたところを見た師匠が「狼みたいだな」と言ったことからついた。当初は狼と呼ばれていたのがいつしか変化したそうで、これを聞いた当時の春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる、儂はマムシだった、狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。
小兵ながら(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)気性の激しさを表す取り口で順調に出世して、史上初の5文字四股名の関取になり、1975年(昭和50年)9月場所で新入幕。しかし相撲の粗さもあってその後幕下まで陥落する。さすがに短期間で関取の座にカムバックするものの、今度はそれまでも課題ではあった先天的に両肩の関節のかみ合わせが浅いという骨の形状からくる肩(特に左)の脱臼癖が顕在化する。取り口も力任せの強引な投げ技を得意とするものだったため更に肩に負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされた。このため、2年ほどの歳月を十両で過ごすことになるが、当時のNHKアナウンサーであった向坂松彦はこの頃から「ケガ(脱臼癖)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」[1]と将来性を見抜いていた。1977年(昭和52年)頃から頭をつける体格にマッチした相撲が見られるようになり、その成果もあり脱臼も幾分かおさまり、1978年(昭和53年)1月場所には再入幕する。5月場所では貴ノ花・旭国の2大関を破るなど9勝をあげ、初の敢闘賞を受賞。翌7月場所では新小結の座についた。しかし、幕内の地位に定着したと思われた1979年(昭和54年)3月場所播竜山との取り組みで右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いをまたも強いられることとなる。この時、肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、毎日500回の腕立て伏せやウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した。
翌5月場所は十両に陥落したものの怪我が取組中であったため、公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずであった。しかし、手続きの不手際で公傷と認められないことが場所の直前に発覚。3日目から強行出場することとなったが、9勝を挙げて翌7月場所に幕内に復帰。以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。
三役から横綱へ~ウルフフィーバー
肩の脱臼癖もあってそれまでの強引な投げから、前廻しを取ってからの一気の寄りという形を作りあげ、1980年(昭和55年)3月場所から幕内上位に定着。横綱大関陣を次々と倒して人気者となり、特に大関昇進後の増位山に対しては6戦6勝であった。同年9月場所に小結で幕内初の二桁勝利となる10勝を挙げた(ちなみにこの場所以降引退するまで、皆勤した場所ではすべて二桁勝利を挙げた)。同年11月場所に新関脇。この場所は11勝を挙げ、大関を目前として1981年(昭和56年)を迎えた。
1981年(昭和56年)1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃で、横綱若乃花を真っ向勝負で寄り倒すなど初日から14連勝した。そして千秋楽、1敗で追いかけた横綱北の湖との直接対決を迎えた。本割では吊り出しで敗れ全勝優勝こそ逃すものの、優勝決定戦では北の湖を右からの上手出し投げで下し、14勝1敗で初優勝を果たした。場所後に大関昇進。千秋楽が行なわれた1月25日の大相撲中継視聴率は、52.2%、瞬間最高で65.3%に及び、これは今に至るまで大相撲中継の最高記録である(ビデオリサーチ調べ)。3月場所(11勝)、5月場所(13勝)と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所に2度目の優勝(14勝1敗)を果たして横綱に推挙される。横綱土俵入りは師匠と同じ雲龍型を選んだ[2]。このとき2代目千代の山の襲名を打診されたが、これを「横綱2人分の今の四股名のほうが強そうだから」と断っている。なお、千代の富士の大関及び横綱昇進伝達式の際、千代の富士と共に同席したのは当時の九重親方(元横綱北の富士)と、1977年(昭和52年)10月に死去した先代九重親方(元横綱千代の山)の未亡人が北の富士からの配慮で同席していた。
新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和に入って武藏山、吉葉山に次いで3人目)。新横綱誕生の期待が失望に変わり、「11月場所は進退が懸かる」などと報じたマスコミもあった。しかし、11月場所では朝汐との優勝決定戦を制し、横綱として初優勝を飾ることで復活を見せた。隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で、千代の富士を長く苦しめることになった。
この1981年には、同一年中に関脇、大関、横綱の3つの地位で優勝するというかつてない記録を達成した。関脇から横綱へと駆け上がるとともに、新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であったと言える。こうした事情から、関脇千代の富士(不詳)、大関千代の富士(テレビマガジンにおける永谷園「味ぶし」の宣伝に登場)と記された各種記録は数が多くない。
この時期の千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から、若い女や幼い子供にまで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。とりわけ一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。千代の富士の取組にかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を二、三周してまだ余るような状態だった。
相撲界唯一の国民栄誉賞受賞
1982年(昭和57年)には3連覇を達成し、自身初の年間最多勝も受賞する。横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが、やや頼りない部分も見受けられ、特に1984年(昭和59年)は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。翌5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖に一方的に寄り切られて11勝止まり。7月場所は左肩の脱臼で全休。9月場所は入幕2場所目の新鋭小錦の突き押しにあっけなく土俵を割り、場所後横綱としての責任を問われる羽目になってしまった。11月場所は久々に優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から一時は限界説も流れた。(この結果、1984年11月場所終了時点で、優勝回数は10回に到達したが、蔵前国技館で開催の東京場所の優勝は2回のみ(1981年1月場所、1982年5月場所)に終わっている。)
しかし、千代の富士にとって本当の黄金時代は30代に入ってからであった。両国国技館のこけら落としとなった1985年(昭和60年)1月場所は全勝優勝で最高のスタートを切り、5月場所から廻しの色が「青」から「黒」に変わり、この年史上3人目となる年間80勝を達成し、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝いた。翌1986年(昭和61年)5月場所から翌年1月場所まで5連覇を達成した(同1986年も2年連続3度目の年間最多勝となるが、これが自身最後の同受賞だった)。1987年(昭和62年)前半は僅かに崩れ、千代の富士時代は終わりに近づいたとの声もあり、「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。しかしその声を打ち消すかのように、1988年(昭和63年)5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝。他を寄せ付けない強さで、昭和50年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」の中でも、昭和最後の4年間は驚異的な成績を残した。ちなみに、53連勝でストップした大乃国との一番が奇しくも昭和最後の一番となる。なお、53連勝は2010年(平成22年)9月場所現在、双葉山、白鵬に次いで歴代3位である。
元号が平成に変わった1989年(平成元年)1月場所も優勝候補筆頭だったが、前場所に連勝記録が途切れ緊張感が無くなった為なのか、雑な相撲が目立ち、8日目に寺尾に敗れて以降優勝争いから脱落し、結局11勝4敗に終わる。4年4か月振りに西正横綱として登場した翌3月場所は初日から他を寄せ付けない強さで14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を脱臼。翌日の千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左手にテーピングを巻いて登場。片方の右手のみで賜杯を手にしていた。
しかし1989年6月に、同年2月に誕生したばかりの三女をSIDS(乳幼児突然死症候群)で亡くす不幸に見舞われる。千代の富士の家族をはじめ、千代の富士自身も精神的なショックが大きく、もう相撲が取れないのではないかと思われた程だった。しかし直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、成績は12勝ながらも千秋楽の優勝決定戦で弟弟子の北勝海を下して、神がかり的な優勝を果たした。翌9月場所に通算勝ち星の新記録を達成し、9月28日に大相撲の世界で初めての国民栄誉賞受賞が決定した。この日は先代九重の千代の山の13回忌が行なわれた日でもあり、この時千代の富士は「苦労をかけた師匠にいい報告ができます」と言ったそうである。これにより協会は一代年寄千代の富士貢を満場一致で承認するが、本人は九重(北の富士)とも相談のうえでこれを断わっている[3]。
1990年(平成2年)1月場所には優勝回数を30と大台に乗せた。翌3月場所の7日目には花ノ国戦の勝利で、当時前人未踏だった「通算1,000勝」の大記録を達成した[4]。しかし5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、千代の富士は2場所連続準優勝に終わり、旭富士の横綱昇進の引き立て役になってしまった。更に夏巡業で左足を痛めて9月場所を全休。35歳という年齢から引退を囁かれたが、11月場所に復帰して4横綱がいる中14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。
翌1991年(平成3年)1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(現在は魁皇に抜かれて史上2位)の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。そして1991年5月場所初日に当時18歳の新鋭貴花田、三日目に貴闘力に敗れ、35歳11か月で気力・体力の限界を表明して引退、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。
弟弟子の北勝海との稽古は壮絶な物であったと言う。が、その甲斐もあって、北勝海は1987年(昭和62年)7月場所に横綱に昇進している。さらに、1989年(平成元年)7月場所では千代の富士は、その北勝海と史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦し、優勝している。北勝海本人も「大将(千代の富士)がいたおかげで、自分も横綱になれたと思う」と語っており、千代の富士の指導力ならびに影響が如何に大きかったかを物語っている。事実、千代の富士が横綱昇進を決めた時は関取は千代の富士だけだったが、その後は北勝海を筆頭に、孝乃富士や巴富士らが関取に昇進している。当の千代の富士本人も、「北勝海との猛稽古がなかったら自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。
横綱土俵入りは四股も美しく、全体として気合の入った土俵入りで、かなり上手い部類に入る。重い横綱を付けた状態で、上げた足が頭より高い位置に達するのは、千代の富士のほかにはほとんど例がない。また取組前の入場時には両手で下がりを持ち、制限時間いっぱいになった時には、頭を下げて、廻しを右手で叩いてピンク色のタオルを受け取り、必ず左右の腋の下の後に顔面の汗を拭くなど、几帳面に見えるほど、礼儀作法を重んじている。
年寄から理事へ
引退後、2010年5月場所まで毎場所中『中日新聞』に「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載していた(系列紙の『東京新聞』には「ウルフの目」というタイトルで掲載)。注目した一番・力士に対する独自の解説や、相撲界への提言、優勝力士の予想など、幅広く執筆していた。優勝力士予想については、千秋楽当日であっても当たらない場合もあった。しかし、親方業の傍ら執筆しているので、自分の部屋に所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞記者の記事とは違った魅力がある。近年は、力士の稽古不足、下半身の強化不足に警鐘を鳴らし続けた。
日本相撲協会では、1994年(平成6年)武蔵川親方と共に役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めていたが、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身[5]であるため、理事に立候補することができないでいた。また1998年(平成10年)に弟弟子の八角親方が格上の監事に就任[6]したり、貴乃花が理事選に立候補をほのめかした際、「九重ですら理事になれないんだから、親方になったばかりの貴乃花に務まる訳がない」と順番を考慮する発言を誰もしなかったなど、協会内での出世や評価は現役時代の実績に比べて芳しくない。審判部長は理事が担当するため、古くから審判部副部長職にあるにもかかわらず、先代二子山、先代押尾川、放駒と3代続いて大関止まりの理事が九重親方を抑えて審判部長になっており、「副部長を務めている」というよりも「部長になれないでいる」という感が漂っていた。
だが、2007年半ばより始まる朝青龍騒動や時津風部屋力士暴行死事件で角界が大揺れの中、一門代表の理事だった高砂親方が朝青龍の師匠として逼塞を強いられたのに代わって2008年2月からようやく理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めた。審判部の職から離れた事でNHKの大相撲中継の解説者として登場できるようになり、2008年3月場所8日目で15年ぶりに正面解説席で解説を務めた。また、直後の5月場所から東京場所限定でファンサービスの一環として、親方衆による握手会を開催して先着100名に直筆サイン色紙をプレゼントした。その後は日替わりで玉ノ井親方、高田川親方とともに、日本相撲協会のキャラクターグッズを先着100名にプレゼントをした。
2010年1月26日、現役引退したばかりの元大関千代大海(現・佐ノ山)親方から、「笑っていいとも!テレフォンショッキング」に前日出演依頼を受け、同番組に初登場。金髪剃りこみ姿で入門を直訴してきた佐ノ山親方のエピソードや、自身が中学3年生時に「飛行機に乗りたいから」と相撲界へ入門した逸話など話し、会場を沸かせていた。翌日のゲストには綾小路きみまろ(漫談家)を紹介。その直後の理事選挙には、高砂一門から立候補して当選を果たす。新弟子検査担当、ドーピング委員長を兼任する審判部長に就任した。理事長が放駒親方に代わった後の体制では、巡業部長を務めている。2010年9月場所7日目に正面解説席で解説を務め、自身の連勝記録を超えた白鵬を祝福した。
2012年の改選で理事に当選し、事業部長に就任。
育成面では元大関の千代大海、元小結の千代天山などを育てている。大鵬以降の一代年寄で大関力士を育てたのは九重親方一人だけである。
強さなど
尊敬する力士は貴ノ花だったと言う。当時1日3箱吸うヘビースモーカーだった千代の富士に貴ノ花は禁煙を勧め、千代の富士は禁煙を実施。これがきっかけで体重が増え後の横綱昇進に繋がっていく(貴ノ花利彰を参照)。
平幕時代苦手にしていたのが琴風。当時琴風の鋭い当たりと一機の出足に苦しんで初顔合わせから5連敗したが、出稽古で克服し6度目の対戦で初めて琴風に勝った後は逆にカモにする(通算で千代の富士の22勝6敗)。ある日佐渡ヶ嶽部屋での三番稽古の際、琴風の右指が大きく裂けるという怪我をしている。琴風本人は裂けた瞬間全く気がつかなかったというエピソードがある。横綱昇進して3年ほど経つまでは琴風との三番稽古を度々行い、これが双方の地力強化につながっていった。
隆の里については千代の富士曰く「裏の裏をかかれる」とのこと。大関から横綱にかけて8連敗するほど苦手にしていた(隆の里俊英を参照)。
小錦についても上述の1984年(昭和59年)9月場所の初対戦では完敗している。当時不振が続いていた千代の富士は目が覚めたかのように場所後小錦対策として高砂部屋に出稽古を開始。翌場所から対小錦戦8連勝を記録(通算でも20勝9敗)。
横綱昇進後、同じ力士には滅多に連敗しないと言われたが、隆の里以外には小錦に1987年(昭和62年)1月場所~5月場所まで3連敗、また小錦が初優勝した1989年(平成元年)11月場所~1990年(平成2年)5月場所まで4連敗している。 1年通して不振だった1984年には朝潮には1月場所から4連敗。北天佑には1月場所から5連敗(不戦敗を含む)している。全盛期でもカモにしていた大乃国や若嶋津、当時小結の益荒雄に2連敗したことがある。さらに平幕だった安芸ノ島には1990年3月と5月に連敗2場所連続で同力士に金星を配給(結局対安芸ノ島戦は千代の富士の7勝4敗。4敗は全て金星)をしているなど、歯車が狂った時は脆かった。
本場所で負けた相手に対して、上述の琴風や小錦のように出稽古や巡業で相手の攻略法を見つけるほか、横綱になってからは若い力士に率先して稽古をつけていた。特に前場所負けた相手に対して巡業では積極的に稽古に狩り出した(安芸ノ島、琴錦、両国など)。
体格で上回る力士との差を埋めるため、土俵上では凄まじい集中力を見せ、本場所で負けた相手に対しては相手の部屋に出向いて稽古、攻略法を身につける努力家。廻しを緩まぬようにきっちり巻くことにより、四つに組み相手の指が廻しにかかっても腰の一振りで払いのける、など体格差を感じさせない取り口で、全盛期に見せた相手の頭を押さえるような独特の上手投げは、「ウルフスペシャル」としてつとに知られた。鍛え抜かれた腕力を生かした廻しの引きつけには脅威的なものがあり、重い相手も腰を浮かせた。また、体の芯が異常に強く、常に軸がぶれずに堂々とした相撲を取った。
立合いの踏み込みの鋭さは歴代屈指のもので、短距離走のスタートにも例えられた。この鋭い立合いが、すぐに得意の左廻しを奪うこと、重みに優る相手にも当たり負けしない強さを可能にしていた。
優勝決定戦に出場した6回すべてで優勝している。北の湖との1回、北尾→双羽黒との2回は、千秋楽の本割に負けた後の再戦で、土壇場での強さを見せつけた。しかし、双羽黒の強さは認めており、不祥事による廃業に関しては、残念がっていた。決定戦での勝率ならびに決定戦での優勝回数はそれぞれ記録。弟弟子の北勝海との優勝決定戦の経験もある。
また相星決戦出場経験が通算9回あり、史上1位である。対戦内訳は、北の湖3回、隆の里4回、北尾→双羽黒2回である。特に隆の里とは1983年7月~1984年1月まで4場所連続相星決戦による千秋楽結びの対戦となった。同じ対戦カードによる相星決戦が連続することは、他には輪島-北の湖(1976年11月~1977年1月)、北の湖-千代の富士(1981年5月~7月)、曙-貴乃花(1995年3月~5月)、朝青龍-白鵬(2008年1月~3月)があるが、いずれも2場所連続にとどまっており、4場所連続で相星決戦が実現したのは、千代の富士-隆の里以外過去に例がない。
- 千代の富士の相星決戦出場一覧
場所 | 対戦相手(地位) | 勝敗 | 備考 |
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1981年5月場所 | 北の湖(横綱) | ● | 千秋楽1敗同士相星決戦 |
1981年7月場所 | 北の湖(横綱) | ○ | 千秋楽1敗同士相星決戦 |
1982年1月場所 | 北の湖(横綱) | ● | 千秋楽2敗同士相星決戦 |
1983年7月場所 | 隆の里(大関) | ● | 千秋楽1敗同士相星決戦 |
1983年9月場所 | 隆の里(横綱) | ● | 千秋楽全勝同士相星決戦 |
1983年11月場所 | 隆の里(横綱) | ○ | 千秋楽1敗同士相星決戦 |
1984年1月場所 | 隆の里(横綱) | ● | 千秋楽2敗同士相星決戦 4場所連続千代・隆対決 |
1986年5月場所 | 双羽黒(当時北尾)(大関) | ○ | 千秋楽2敗同士相星決戦 |
1986年11月場所 | 双羽黒(横綱) | ○ | 千秋楽2敗同士相星決戦 |
優勝回数31回、全勝優勝7回はそれぞれ最多を誇る大鵬に次ぐ記録であり、53連勝も昭和以降では双葉山、白鵬に次ぐ第3位の記録である。また連続優勝5場所も歴代3位タイと堂々たる記録である。参考ながら、九州で行われる11月場所では、1981年(昭和56年)から1988年(昭和63年)までの8連覇を含め9度優勝している。夫人が九州出身であるため、「千代の富士にとって九州場所は地元のようなもの」とも言われた。また、両国国技館が開館した1985年(昭和60年)1月場所から1987年1月場所まで、同所で行われる本場所(毎年1月、5月、9月)に7連覇している。
休場明けの場所に強いことも特徴で、実に6度も休場明けの場所で優勝している。特に30代に入ってからが顕著で、休場の度に限界が囁かれながらも翌場所に優勝して不死鳥とも言われた。
さらに、引退時の通算勝ち星1,045勝と及び幕内勝ち星807勝は、共に当時史上1位の記録だった。それから19年近く経過の後、魁皇(元大関、現・浅香山親方)に2010年1月場所3日目に幕内勝ち星を808勝、翌2011年7月場所5日目には通算勝ち星を1,046勝とそれぞれ更新されたが、その都度九重親方は直接魁皇に「おめでとう」と祝福の言葉を掛け握手を交わし、「(記録を)抜かれた寂しさは全然無い。これからの力士に励みになるようにどんどん記録を作って欲しい」とコメントしていた。なお魁皇はその後通算勝ち星を1,047勝、幕内勝ち星を879勝まで延ばしたが、2011年7月場所10日目限りで現役引退。九重親方は魁皇の引退に「日々こつこつと踏ん張った成果が(通算)1,047もの白星に繋がった。本人は完全燃焼以上だろう。(通算最多勝の)記録を抜いたと同時に心の芯や張りが無くなったのかも。長い間本当にご苦労様だった」とねぎらっていた。
ほか現役時のエピソードなど
なお、今日にいたるまで現役時代の八百長相撲疑惑がついてまわる力士でもあるが、板井圭介、高鐵山といった八百長の告発者たちも、千代の富士が弱かったと言っているわけではない。実力があり、ガチンコで戦っても勝ち目が薄いと相手に思わせられたからこそ、相手の力士も礼金が貰える八百長に応じたという理屈である。告発者の一人、板井圭介は「ガチンコで唯一かなわないと思ったのは大将(千代の富士)だけ」「八百長が無くてもガチンコでは大将が一番強かった」と語って、千代の富士の強さを認めている。ちなみに板井は千代の富士と16回対戦して1度も勝つことができず、また千代の富士が現役最後の白星を挙げた相手でもある。
出身地、卒業した小学校とも師匠千代の山と同じである。これは非常に珍しいケースであり他に例がない。故郷の福島町には横綱千代の山・千代の富士記念館がある。
晩成型で最年少記録の類とは無縁であるが、19歳で新十両、20歳で新入幕と出世は早く、新入幕からしばらくの間は「幕内経験をもつ最若年者」の地位を保っていた。
「入幕後、幕下まで陥落」「三役昇進後、十両まで陥落」という経験を併せて持つことは、後の大横綱としては極めて異例である。
脱臼癖に苦しめられてきた千代の富士であるが、一方では脱臼が大成の一助になったという見方もある。解説者の玉の海は、「若いころの千代の富士は軽量のくせに相手を引っ張り込んで、天井を向いて上手投げにいく「身の程知らずの相撲取り」であった」と語っている。そのような大きな相撲から、前廻しを引き、頭をつける体格にマッチした取り口に変わっていったのは、少しでも脱臼のリスクを軽減するためでもあった。この相撲が完全に身につき、大関・横綱に進むことが出来たことから、元横綱北の富士の前九重親方は「脱臼が千代の富士という大横綱を作った。前のままの相撲なら、陸奥嵐(元関脇)のような存在で終わったかも知れない」と語っている。また、千代の富士自身も「もう少し早く、この相撲の取り方に気付いていたら、もっと早く横綱になれていた」と語っている。
北勝海の横綱昇進に伴い、同部屋に横綱が2人となったため、力士が2人をどう区別して呼ぼうかと迷った際、北勝海の提言で、千代の富士を「大将」と呼ぶ様にさせた、という話も残っているが、横綱となった身の者が、先輩横綱という意味のみならず、ワンランク上の横綱、と見ていた存在感の大きさを現すエピソードである。
その強さもさることながら、均整のとれた筋肉質の体格(183cm・126kg体脂肪率10.3%)、逞しさ漂う風貌でも人気を集めた。幕内→大関→横綱と一気に昇進してしばらくは絶大な人気を誇ったが、あまりの強さにファンがやや飽きたこと、稽古場の土俵上で新弟子に冗談でヘッドロックをかける、新弟子はまわしが外れて局部が露出するなど「度の過ぎたふざけ」(実際には、新弟子の緊張を和らげるための行為であった)、若手のライバル北天佑の実弟富士昇(千代の富士と同じ九重部屋に所属した三段目力士、目に余る素行不良でいわゆる「かわいがり」を受けた)を稽古でリンチまがいにシゴき重傷を負わせたという疑惑[7]が起きたこと、週刊誌などの大相撲八百長疑惑報道で名指しされたことなどで、やや人気が低迷した時期もある(高鐵山孝之進、板井圭介を参照)。
今でこそ角界屈指のゴルフ好きで知られるが、元々は趣味としていなかった。休みの日は麻雀や、ファミコンに夢中の彼に対して、北の富士(当時:九重)が「健康的な休みを取らないとダメだ!」と、無理やり彼をゴルフに連れて行ったのが馴れ初めである。しかし、初めてのゴルフのハーフで40台を出し、ワンラウンドを86で回って、九重のスコアより良かった彼は「いやぁ、ゴルフっていいですねぇ」とすっかり上機嫌になり、北の富士のメンツは丸つぶれ。この日を境に、千代の富士はゴルフに狂い出した。
横綱として全盛期を極めていた当時、テレビ番組、特に生放送の番組に出演することは稀であったが「夜のヒットスタジオDELUXE」(フジテレビ系)には1985~1987年まで3回、特別ゲストとして番組オープニングからエンディングまで出演している。これは当時の同番組司会者であり、千代の富士、及び師匠の九重との親交がある芳村真理の誘いを受けての出演であった[8]と言われている。特に初めて番組に顔を出したときには、アン・ルイスが吉川晃司との過激なパフォーマンスを展開し物議を醸した回であり、歌の最中、千代の富士は不機嫌な表情を浮かべながらその一部始終を見届けており、その形相を気にした芳村真理が、話題をそらそうとして千代の富士に頻繁に話しかけている。
大乃国に敗れた「53連勝でストップ」の一番は連勝記録の方にばかり話題がいくため、あまり語られないが実は「年間3回の全勝優勝」「3場所連続15戦全勝優勝」という史上初の快挙を逸する一番でもあった。(のち2010年3月場所から7月場所にかけて、第69代横綱・白鵬が共に達成した)また、50連勝以上達成した力士のうち、横綱に敗れて連勝記録が止まったのは千代の富士が唯一である。(双葉山、白鵬などは平幕力士に敗れている)
略歴
- 1970年 9月 - 本名である秋元という四股名で初土俵
- 1970年11月 - 四股名を大秋元に改名
- 1971年 1月 - 四股名を千代の冨士に改名
- 1974年 9月 - 幕下優勝
- 1974年11月 - 新十両、昭和30年代生まれで最初。因みに、のちにライバルとなる隆の里とは同時新十両である。
- 1975年 1月 - 四股名を千代の富士に改名
- 1975年 9月 - 新入幕、昭和30年代生まれで最初
- 1981年 1月 - 初の幕内最高優勝。場所後に大関へ昇進。
- 1981年 7月 - 2度目の優勝で場所後に横綱へ昇進。
- 1988年11月 - 千秋楽、同年5月場所7日目から続いた連勝記録を大乃国に53で止められる。
- 1989年 3月 - 14日目に優勝を決めた一番で左肩を脱臼。千秋楽は不戦敗で表彰式に登場。片手で賜杯を受け取る。
- 1989年 9月 - 相撲界で初の国民栄誉賞を受賞、一代年寄授与も打診されるも辞退。
- 1990年 3月 - 7日目に花ノ国を下し、通算1,000勝達成
- 1991年 5月 - 3日目に貴闘力に敗れて現役引退、同時に年寄「陣幕」を襲名、以降後進の指導に当たる
- 1992年 4月 - 当時の九重親方と年寄名跡を交換、年寄「九重」を襲名して同時に九重部屋を継承。
- 1994年 2月 - 役員改選に伴い役員待遇に抜擢され、審判部副部長を務める。
- 2008年 2月 - 役員改選に伴い理事に昇格し、広報部長並びに指導普及部長として執行部入りする。
- 2010年 2月 - 役員改選に伴う理事選挙に高砂一門から立候補して当選。友綱親方と共に審判部長(ドーピング委員長)、新弟子検査担当に就任。
- 2010年 7月 - 大相撲野球賭博問題に弟子が関与していたため、調査委員会から名古屋場所の謹慎を受け入れる。
- 2010年 8月 - 巡業部長だった放駒親方が理事長就任に伴い、後任として巡業部長に就任。
- 2011年 4月 - 大相撲八百長問題に弟子が関与していたため、役員待遇に降格。
- 2012年 2月 - 役員改選に伴う理事選挙に高砂一門から立候補して当選。事業部長に就任。
主な成績
通算成績
- 通算成績:1045勝437敗159休(通算勝ち星は歴代2位) 勝率.705
- 幕内成績:807勝253敗144休(幕内勝ち星は歴代2位) 勝率.761
- 横綱成績:625勝112敗137休(横綱勝ち星は歴代2位) 勝率.848
- 通算在位:125場所
- 幕内在位:81場所(引退当時歴代3位、現在7位)
- 横綱在位:59場所(北の湖に次いで歴代2位)
- 大関在位:3場所
- 三役在位:5場所(関脇2場所、小結3場所)
- 年間最多勝:3回
- 1982年(74勝16敗)、1985年(80勝10敗)、1986年(68勝10敗12休)
- 連続6場所勝利:83勝(1988年5月場所~1989年3月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し:11場所(1986年5月場所~1988年1月場所)
- 幕内連続2桁勝利:9場所(1981年11月場所~1983年3月場所、1984年9月場所~1986年1月場所)
- 幕内連続12勝以上勝利:5場所(1981年11月場所~1982年7月場所、1986年5月場所~1987年1月場所)
- 通算連続勝ち越し・幕内連続2桁勝利・連続12勝以上勝利の記録については、大関及び横綱昇進を果たした1981年以降、年間全て皆勤した年が1982年と1985年の2年間に留まったため、歴代ベスト10には入っていない。しかしながら、初優勝を果たした1981年1月場所以降、大関・横綱時代に皆勤した場所で1桁勝利に終わった場所は皆無である。
連勝記録
千代の富士の最多連勝記録は、53連勝である。(1988年5月場所7日目~1988年11月場所14日目、昭和以降では双葉山、白鵬に次いで歴代3位、大相撲史上では歴代6位)
下記に、千代の富士のその他の連勝記録を記す。(20連勝以上対象)
回数 | 連勝数 | 期間 | 止めた力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 24 | 1982年11月場所2日目~1983年1月場所10日目 | 朝潮 | |
2 | 20 | 1983年11月場所2日目~1984年1月場所6日目 | 朝潮 | |
3 | 22 | 1984年11月場所13日目~1985年3月場所4日目 | 鳳凰 | 1985年1月場所全勝優勝 |
4 | 20 | 1985年11月場所5日目~1986年1月場所9日日 | 旭富士 | |
5 | 21 | 1987年11月場所初日~1988年年1月場所6日目 | 逆鉾 | 1987年11月場所全勝優勝 |
6 | 53 | 1988年5月場所7日目~1988年11月場所14日目 | 大乃国 | 1988年7月場所~9月場所2場所連続全勝優勝 |
7 | 20 | 1989年9月場所初日~1989年11月場所5日目 | 両国 | 1989年9月場所全勝優勝 |
- 上記の通り、20連勝以上7回、30連勝以上1回記録している。
各段優勝
- 幕内最高優勝:31回(大鵬に次いで歴代2位)
- 全勝優勝:7回(北の湖と並んで歴代3位タイ)
- 連覇:5連覇(1986年5月場所~1987年1月場所)
- 幕下優勝:1回(1974年9月場所)
三賞・金星
- 三賞:7回
- 殊勲賞:1回(1981年1月場所)
- 敢闘賞:1回(1978年5月場所)
- 技能賞:5回(1980年3月場所、1980年7月場所、1980年9月場所、1980年11月場所、1981年1月場所)
- 金星:3個
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1970年 (昭和45年) |
x | x | x | x | (前相撲) | 東序ノ口10枚目 5–2 |
1971年 (昭和46年) |
東序二段57枚目 4–3 |
西序二段38枚目 4–3 |
西序二段19枚目 4–3 |
西序二段5枚目 3–4 |
西序二段25枚目 5–2 |
東三段目61枚目 0–0–7 |
1972年 (昭和47年) |
西序二段19枚目 5–2 |
西三段目60枚目 5–2 |
東三段目31枚目 4–3 |
西三段目20枚目 5–2 |
東幕下59枚目 3–4 |
東三段目8枚目 4–3 |
1973年 (昭和48年) |
東幕下59枚目 4–3 |
東幕下51枚目 4–3 |
東幕下45枚目 2–2–3 |
西三段目2枚目 6–1 |
東幕下31枚目 5–2 |
西幕下18枚目 3–4 |
1974年 (昭和49年) |
西幕下25枚目 5–2 |
東幕下15枚目 4–3 |
東幕下11枚目 3–4 |
東幕下20枚目 5–2 | 東幕下11枚目 優勝 7–0 |
東十両12枚目 9–6 |
1975年 (昭和50年) |
西十両4枚目 6–9 |
西十両8枚目 8–7 |
西十両6枚目 9–6 |
東十両2枚目 9–6 |
東前頭12枚目 5–10 |
東十両4枚目 4–8–3 |
1976年 (昭和51年) |
西十両13枚目 4–11 |
東幕下7枚目 5–2 |
西幕下筆頭 4–3 |
西十両13枚目 9–6 |
東十両10枚目 8–7 |
東十両6枚目 5–10 |
1977年 (昭和52年) |
東十両11枚目 8–7 |
西十両10枚目 10–5 |
東十両2枚目 5–10 |
西十両9枚目 8–7 |
東十両7枚目 10–5 |
東十両筆頭 9–6 |
1978年 (昭和53年) |
東前頭12枚目 8–7 |
東前頭8枚目 8–7 |
東前頭5枚目 9–6 敢 |
西小結 5–10 |
東前頭4枚目 4–11 |
西前頭10枚目 9–6 |
1979年 (昭和54年) |
東前頭4枚目 5–10 |
西前頭8枚目 2–6–7[9] |
西十両2枚目 9–4–2 |
西前頭14枚目 8–7 |
東前頭10枚目 8–7 |
東前頭7枚目 7–8 |
1980年 (昭和55年) |
東前頭8枚目 8–7 |
東前頭3枚目 8–7 技★★ |
西小結 6–9 |
西前頭2枚目 9–6 技★ |
東小結 10–5 技 |
東関脇 11–4 技 |
1981年 (昭和56年) |
東関脇 14–1[10] 技殊 |
東大関 11–4 |
東大関 13–2 |
東大関 14–1 |
西横綱大関 1–2–12[9] |
東張出横綱 12–3[11] |
1982年 (昭和57年) |
東横綱 12–3 |
西横綱 13–2 |
東横綱 13–2[11] |
東横綱 12–3 |
東横綱 10–5 |
東横綱 14–1 |
1983年 (昭和58年) |
東横綱 12–3 |
東横綱 15–0 |
東横綱 休場 0–0–15 |
東横綱 13–2 |
東横綱 14–1 |
西横綱 14–1 |
1984年 (昭和59年) |
東横綱 12–3 |
西横綱 4–4–7[9] |
東張出横綱 11–4 |
東張出横綱 休場 0–0–15 |
東張出横綱 10–5 |
西横綱 14–1 |
1985年 (昭和60年) |
東横綱 15–0 |
東横綱 11–4 |
東横綱 14–1 |
東横綱 11–4 |
東横綱 15–0 |
東横綱 14–1 |
1986年 (昭和61年) |
東横綱 13–2 |
東横綱 1–2–12[9] |
東横綱 13–2 |
東横綱 14–1[12] |
東横綱 14–1 |
東横綱 13–2 |
1987年 (昭和62年) |
東横綱 12–3[13] |
東横綱 11–4 |
東横綱 10–5 |
東横綱 14–1 |
東横綱 9–2–4[9] |
東張出横綱 15–0 |
1988年 (昭和63年) |
東横綱 12–3 |
東横綱 休場 0–0–15 |
東張出横綱 14–1 |
東横綱 15–0 |
東横綱 15–0 |
東横綱 14–1 |
1989年 (平成元年) |
東横綱 11–4 |
西横綱 14–1[14] |
東横綱 休場 0–0–15 |
東張出横綱 12–3[15] |
西横綱 15–0 |
東横綱 13–2 |
1990年 (平成2年) |
東横綱 14–1 |
東横綱 10–5 |
西横綱 13–2 |
東横綱 12–3 |
東横綱 休場 0–0–15 |
東張出横綱 13–2 |
1991年 (平成3年) |
東横綱 2–1–12[9] |
西張出横綱 休場 0–0–15 |
西張出横綱 引退 1–3–0 |
x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
主な力士との幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
寺尾 | 16 | 1 | 琴ヶ梅 | 21 | 1 | 花ノ国 | 10 | 0 |
北天佑 | 33 | 14 | 旭富士 | 30 | 6 | 巨砲 | 37 | 5 |
栃乃和歌 | 14 | 0 | 大乃国 | 23 | 9 | 逆鉾 | 27 | 3 |
小錦 | 20 | 9 | 霧島 | 12 | 2 | 太寿山 | 21 | 3 |
安芸乃島 | 7 | 4 | 水戸泉 | 10 | 1 | 両国 | 11 | 3 |
板井 | 16 | 0 | 陣岳 | 15 | 0 | 琴富士 | 4 | 0 |
琴稲妻 | 3 | 0 | 隆三杉 | 6 | 0 | 三杉里 | 2 | 1 |
久島海 | 2 | 0 | 春日富士 | 2 | 0 | 小城ノ花 | 1 | 0 |
琴錦 | 2 | 1 | 朝潮 | 31 | 15 | 琴風 | 22 | 6 |
双羽黒 | 8 | 6 | 花乃湖 | 10 | 2 | 佐田の海 | 19 | 1 |
出羽の花 | 33 | 2 | 若瀬川 | 5 | 0 | 益荒雄 | 5 | 2 |
多賀竜 | 8 | 0 | 舛田山 | 12 | 5 | 麒麟児 | 20 | 6 |
青葉城 | 14 | 4 | 鷲羽山 | 9 | 1 | 隆の里 | 12 | 16 |
若嶋津 | 25 | 3 | 富士櫻 | 8 | 1 | 高見山 | 11 | 1 |
蔵玉錦 | 8 | 1 | 播竜山 | 4 | 3 | 増位山 | 8 | 3 |
輪島 | 1 | 6 | 北の湖 | 6 | 12 | 貴ノ花 | 6 | 4 |
三重ノ海 | 3 | 2 | 若乃花 | 5 | 9 | 栃赤城 | 7 | 8 |
栃光 | 5 | 3 | 大錦 | 8 | 2 | 魁輝 | 9 | 5 |
起利錦 | 3 | 1 | 蔵間 | 11 | 2 | 闘竜 | 14 | 0 |
高望山 | 6 | 0 | 大徹 | 5 | 1 | 栃司 | 7 | 1 |
貴花田 | 0 | 1 | 貴闘力 | 1 | 1 |
引退にまつわるエピソード
横綱昇進が決まった日の夜、師匠の九重(元横綱・北の富士)は千代の富士を自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと、潔く辞めような。ちんたらチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。祝儀がもらえるのかと思っていた千代の富士は、この言葉に面食らったという。しかし、千代の富士の引退は正にこの言葉を守った潔いものとなった。これは栃木山から言われた言葉を栃錦が千代の山へ語り、千代の山から北の富士を経て、千代の富士へ受け継がれたものと言われている。
1991年5月場所が始まる前の最大の注目は、3月場所に幕内下位ながら終盤まで優勝争いに加わった弱冠18歳の貴花田と、大横綱千代の富士との初対戦であった。何日目に対戦するかが話題となる中で、誰も予想しなかった初日に取組が組まれた。これは当時審判部長だった九重が「勝ち負けが全くついていない、まっさらな状態で対戦させたい」との思いからであったが、千代の富士はこの取組に敗れ、その2日後に引退を表明。ある意味、自らの師匠が招いた引退とも言える。貴花田に敗れた時点で実は千代の富士は引退を決意していたが、そのことを伝えに九重のもとに行ったところ、九重は千代の富士を見るなり「先に廻しを取られたからなあ。まあ明日又がんばれよ」と言った。このために、気勢を削がれた千代の富士は引退の意思を伝えそびれてしまったので、引退表明が3日目の貴闘力戦に敗れた後になったという。その千代の富士からついに引退の決意を伝えられた時には、千代の富士も涙したが師匠の九重も思わず泣いたという。
千代の富士が引退した1991年5月14日は午前中に信楽高原鐵道列車正面衝突事故が発生し、NHKでは断続的に事故に関するニュースを放送していた。しかし、夜になって千代の富士が引退会見を行うことになったため急遽ニュースを中断し、会見の生中継を行った。この際に最初は笑みを交えて「皆様、長い間応援して下さり、有り難う御座いました。月並みの引退ですが…」と語ったが、その後思わず言葉に詰まり目を赤くして、「体力の限界!気力も無くなり、引退することになりました…以上です」と振り絞るように言い放った。ちなみに、ちょうど20年前の1971年(昭和46年)5月14日に大横綱であった大鵬幸喜も貴ノ花利彰に敗れて引退を表明しており、大横綱と二子山部屋、藤島部屋が絡んでいる花田家には因縁がある。ちなみに、千代の富士が幕内初優勝を果たした1981年(昭和56年)1月場所は、奇しくも大関・貴ノ花が現役引退を表明した場所でもあった。
翌7月場所前、千代の富士改め陣幕(当時)は自ら土俵に立ち若い力士に稽古をつけたが、あまりの充実ぶりに師匠の九重は「現役以上じゃないか。引退させるのは早かったな」と言ったという。「史上最強の新米親方」と評した人もいた。またそれから21世紀に入り、当時千代の富士の持つ、通算勝星及び幕内勝星をそれぞれ更新した元大関・魁皇も「余力を残して辞められた(現)九重親方と違って、こっちは必死こいて辿り着いた記録。とても比較にならないし、申し訳ない」と謙遜するコメントを述べている。
引退相撲が行われた1992年2月1日はTBSで放送され、最後の横綱土俵入りでは、露払いに当時引退直後の旭富士、太刀持ちには弟弟子の北勝海の両横綱を従えた。大銀杏を切り落とす瞬間には大粒の涙を流していた。
ロンドンにある蝋人形館、マダムタッソーでは最近まで千代の富士の蝋人形が置かれていた。ウルフと呼ばれていたことなどが記載されている。
脚注
- ^ 別冊「グラフNHK」大相撲特集号1977年(昭和52年)春場所(日本放送出版協会発行)の記事より。
- ^ 土俵入りの型は一門、部屋ごとに伝統があり、横綱個人の意思で選択できるというわけではない。
- ^ このため彼を一代年寄に含めるかどうかは議論が分かれているが、大鵬は還暦土俵入りの際に千代の富士も含まれるとの見解を示した。
- ^ その20年後の2010年(平成22年)5月場所千秋楽、大関・魁皇も大相撲史上二人目の通算1000勝を達成。
- ^ 千代の山が出羽海部屋から独立した際に出羽一門を破門され、高砂一門入りしたことによる。
- ^ 八角親方が九重部屋から独立した際に部屋付の年寄がすべて八角部屋に移籍したことも影響している。
- ^ 富士昇本人が週刊文春 2011年3月10日号(「北天佑弟 元富士昇 覚悟の衝撃告発! 千代の富士、わが兄弟子は八百長で横綱になった」)で語ったところによれば、かわいがりの背景には兄の北天佑が千代の富士からの八百長の申し出を断ったことがあり、また千代の富士が別の弟子を執拗にいじめたことに我慢がならず千代の富士を殴ってしまったことがきっかけでリンチを受け引退に追い込まれたという
- ^ そのため、彼女が司会を降板した1988年以降は1回も顔を出していない。
- ^ a b c d e f 途中休場
- ^ 北の湖と優勝決定戦
- ^ a b 4代・朝汐と優勝決定戦
- ^ 北尾(のち双羽黒)と優勝決定戦
- ^ 双羽黒と優勝決定戦
- ^ 千秋楽不戦敗・休場
- ^ 北勝海と優勝決定戦
関連作品
書籍
自著
- 『負けてたまるか』(1991年11月) ISBN 4-89363-625-1
- 『不撓不屈 : 一〇四五勝への道のり』(1992年2月)ISBN 4-89198-090-7
- 『ウルフと呼ばれた男』(1993年4月) ISBN 4-643-93035-7
- 『綱の力』(2011年1月)ISBN 978-4-583-10276-4
共著
- 『私はかく闘った : 横綱千代の富士』(1991年5月) ISBN 4-14-008777-3 (向坂松彦と共著)
漫画
- 『千代の富士物語 北の大将 上・下巻』(山崎匡佑)
テレビドラマ
- 『千代の富士物語』(関西テレビ制作 / フジテレビ系列(FNS)、1991年 - 1992年)