大野豊 (野球)

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大野 豊
広島東洋カープ コーチ #74
Ohno Yutaka, Beijing 2008.jpg
北京オリンピックでの大野豊(2008年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 島根県出雲市
生年月日 1955年8月30日(56歳)
身長
体重
177cm
75kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト外
初出場 1977年9月4日
最終出場 1998年9月27日(引退試合)
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
  • 広島東洋カープ (1999, 2010 - )

大野 豊(おおの ゆたか、1955年8月30日 - )は、島根県出雲市出身の元プロ野球選手投手)。1977年から1998年まで広島東洋カープに投手として22年間在籍した。

1998年に現役引退後は野球解説者野球評論家を経て、2010年プロ野球指導者として広島東洋カープのヘッド兼投手コーチ就任。2011年から投手コーチを務めている。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

出雲商業高校時代は、地元ではそこそこ有名な選手で、強豪社会人チームからの誘いもあり、広島のスカウト木庭教もマークしていた。しかし、当時の大野は体力的に自信がなく、また母子家庭で苦労をかけた母のため、軟式ながら地元で唯一野球部がある出雲市信用組合へ就職した。3年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けていた。

1976年秋、出雲で広島東洋カープの野球教室が開かれ、当時の山本一義打撃コーチと主戦投手池谷公二郎が講師として参加。これを機にプロ入りを決意し、人を介して山本打撃コーチにその旨を伝え、翌1977年呉市営二河野球場で行われていた二軍キャンプにおいて、山本と木庭教の立ち会いのもと一人だけの入団テストを受けて合格。3月6日、軟式野球出身という異色の経歴で、広島にドラフト外入団を果たした(契約金なし、俸給は月額12万5千円)。

[編集] 現役時代

1年目の1977年9月4日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)に1試合登板したのみだったが、この時片岡新之介に満塁本塁打を打たれるなど、アウト一つを取ったのみで降板。自責点5、防御率135.00という成績を残した。この試合後、大野はあまりの悔しさに泣きながら太田川沿いを歩いて寮まで帰り、帰寮直後には観戦していた友人から「自殺するなよ」という電話があったと後に明かしている(2007年4月15日放送のNHK総合『サンデースポーツ』では帰寮時に「(山本一義)コーチから“死ぬなよ”と言われた」とも述べている)。大野は後年これについて、「いくら成績が悪くとも、この時の防御率を下回ることは絶対にない。スランプの時にそう考えると、精神的に大分楽になった」と語っている。

1978年南海ホークスから移籍してきた江夏豊に見初められ、古葉竹識監督から預けられるという形で、二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組み始める。江夏は当時の大野について「月に向かって投げるようなフォームだった。しかし、10球に1球ほど光るものを感じたから、とりあえずキャッチボールから変えてみようかということになった」と語っている(また江夏は、「俺と同じ『豊』と言う名で、俺と同じ母子家庭で育ち、俺と同じ左腕投手なのも何かの縁。俺の弟のようなもの。是非、俺の後継者にしたい!」と大野を評していた)。時に鉄拳も飛ぶ厳しい指導の末、やがて大野は中継ぎの柱へと成長を遂げた。1981年には、トレードで日本ハムファイターズへと移籍した江夏の後を受けてリリーフに抜擢され、「気の弱い大野に抑えは無理」と非難を浴びながらも同年8勝11セーブ、翌1982年には10勝11セーブを記録した。

1984年から先発に転向し、同年の日本シリーズ制覇、1986年セ・リーグ優勝に貢献。1990年までに4度の二桁勝利を記録し、1988年には13勝7敗、防御率1.70という好成績で最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞も受賞した(2010年現在、史上最少勝利数での沢村賞受賞である)。翌1989年にも防御率1.92を記録し、2年連続防御率1点台という出色の成績を収める。1970年以降、2年連続防御率1点台を記録した選手は大野とダルビッシュ有の2人のみである(2010年現在)。

時速140km/h後半から150km/hの速球に加え、パームボール真っスラ(ストレートとスライダーの中間軌道の変化球)、スラーブ(スライダーとカーブの中間軌道の変化球)、シュートドロップ、といった様々な変化球を駆使する様は『七色の変化球』と形容され、『精密機械北別府学、『巨人キラー』川口和久らと共に、1980年代広島投手王国を支えた。

1991年には、津田恒実とのダブルストッパー構想の下、抑えに再転向するが、病気による津田の早期戦線離脱に伴い、クローザーの責務を一人で負うことになる。しかし大野はシーズンを通して抑えとして大活躍を見せ、6勝26セーブで最優秀救援投手に輝き、また14試合連続セーブという日本記録(当時)も樹立(7月札幌円山球場読売ジャイアンツの主砲フィル・ブラッドリーサヨナラ本塁打を打たれストップ。開幕からの連続セーブとしては現在も日本記録)、チーム6回目のセ・リーグ優勝に大きく貢献した。1992年も、26セーブでリーグ最多セーブを記録(36歳で開幕を迎えたシーズンのセーブ王獲得は現在も日本記録)。

1993年シーズンオフ、アメリカMLBアナハイム・エンゼルスから広島に、大野をチームに獲得したいという公式オファーがあった。年俸100万ドル、専従通訳と住宅付きで一年間のレンタル契約、代わりの外国人選手を広島に一人紹介するという破格の内容だったが、本人は翌年開幕時で38歳となる高齢などを理由にこれを固辞。当時はまだ野茂英雄がアメリカで旋風を巻き起こす前であり、メジャーリーグに挑戦する日本人選手はいても、メジャー球団から日本の現役選手に誘いが掛かることは異例中の異例であった。

1995年からは再び先発に転向。

1996年8月中旬から約1ヶ月間、上腕動脈血栓症により戦列離脱。

1997年には41歳にして開幕を迎えながら防御率2.85で2回目の最優秀防御率タイトルを獲得。

1998年4月3日の広島市民球場での中日ドラゴンズとの開幕戦で、史上最年長となる42歳での開幕投手を務め通算146勝目を記録。これにより記録した21年連続勝利は2009年山本昌に更新されるまではセ・リーグ記録であった。だが、持病となっていた血行障害が悪化し、8月4日の巨人戦において高橋由伸に逆転3ランを打たれたことをきっかけに引退を決意した。9月27日の自身の引退試合(相手球団は同年の日本シリーズを制覇する横浜ベイスターズ)は、既に消化試合であったにもかかわらず球場は満員であった。登板は中根仁に対するリリーフだけであったが、初球のストレートは146km/hを記録し、最後は142km/hのストレートで空振り三振に切って取った。中根は、引退試合の礼儀から対戦前から三振することを決めていた。しかし、初球の146km/hのストレートを見て「これは本気でぶつからないと失礼だ」と感じ、全力で向かい三振に終わった。試合後の挨拶では、大野の人徳からか対戦した横浜の選手までもがセレモニーに参加しその中で「我が選んだ道に、悔いはなし!」と答え、ファンの大歓声を受けた。広島の選手やファン以外に、対戦相手である横浜の選手・ファンも涙していた。

引退当時の年齢は43歳、チーム在籍年数22年。通算148勝138セーブ、生涯防御率2.90。

[編集] 引退後

引退直後の1999年に1年間広島の一軍投手コーチを務めたが、チーム防御率は4.78(前年のチーム防御率4.01)で3年連続でチーム防御率がリーグ最下位になるなど投手陣が低迷し、同年に責任を取る形で退団した。退団後は、NHKの野球解説者、スポーツニッポン(大阪本社)の野球評論家を務める傍ら、プロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズに参加している。村田兆治同様、引退後も現役時代と変わらぬ体格を維持し続け、マスターズリーグにおいても140km/hを超える直球を投げるなど、50歳を越えても現役時代を彷彿とさせる姿を見せ続けている。開幕初年度、46歳ながら146km/hの投球を見せ、ファンの度肝を抜いた。これはマスターズリーグの最高球速記録である。社会人野球鳥取キタロウズのアドバイザーも務めている。

2004年アテネオリンピック2008年北京オリンピックにおいては野球日本代表の投手コーチを務めたが、アテネでは銅メダル獲得に貢献したものの、北京ではダルビッシュ有涌井秀章川上憲伸岩瀬仁紀ら、そうそうたる選抜メンバーを擁したものの、中継ぎ専門投手を1人も選考せず[1]、代わりに先発投手に中継ぎをやらせるなどした結果、投手陣崩壊を招き、金メダルを期待されながらメダル無しに終わった。

2010年より、野村謙二郎が監督となる広島のヘッド兼投手コーチに就任したが、前監督マーティ・ブラウンが導入した練習時の投げ込み制限等を撤廃し、先発投手には1試合で7~8イニングを投げるよう求めた。さらにストライク先行を奨励していた前年までの配球を根本的に見直し、バッテリーには「ボール球を有効に使って考える」配球を求めた。 しかしオープン戦時点において先発投手陣の調子は全く上がらず、それをカバーするためにペナントレース開幕時には中継ぎ投手を多くブルペンに配置したが、マーティ・ブラウンが行ったブルペンでの球数制限や、試合前にあらかじめ登板する中継ぎ投手を決めておく等はほとんど無く、代わりに「ブルペンで調子の良い投手から起用する」という方針を取った。そのため好調な中継ぎ投手は試合展開に関わらず連投させられることになる。その結果、シーズン半ばにして故障者が続出した[2]

調子が上向かない投手陣については、地元マスコミからも、前年と同様に中継ぎ投手の役割分担を明確化するよう再三の提言がなされたが[3]、こうしたマスコミ・ファンの提言・疑問に関しても、2010年シーズン中、ほとんど省みることはなされなかった。また試合後の大野のコメントからも、コーチとしてどのような指導・対策を行うのか、具体策を伺うことはできなかった[4]

こうして、キャンプから自己流の調整法を貫いた前田健太[5]が投手3冠(勝利数・防御率・奪三振)のタイトルを獲得する奮闘を見せたものの、最終的なチーム防御率は前年から1.5点近く悪化させて4.80となってしまった。

このような結果に終わったことで、投手陣指導の最高責任者として去就が注目されていたが、広島球団はヘッドコーチの肩書きを外す形で投手コーチとしての残留を発表している[6]

[編集] プレースタイル

軸足を深く沈み込ませて溜めを作る、独特の投球フォームが特徴だった。この溜めと数々の変化球によって打者のタイミングを外すことを得意としていたが、このフォームは下半身を安定させることが難しく、真似をしようとする投手は現れなかった。また、入団当時広島のヘッドコーチだったドン・ブレイザーからは「それを直さない限り(試合で)使わない」と言われ、本人も矯正に努力していたそうだが、結局うまくいかず、かえって持ち味が無くなるということで諦めたという。

1990年代半ば、40代を迎えながらも第一線で投球を続けられる秘訣について、江川卓は「節制とトレーニングを余程欠かさないということもあるだろうが、10代の頃に甲子園や地区予選で無茶な投げ方をしてこなかったことが、この歳になって良い影響を与えているのではないか」と分析していた。

巨人時代の松井秀喜は大野を大の苦手にしており、「大野さんのボールは一生打てません」「ベンチにいるだけで嫌だった」と発言していた。また大野が引退する報を聞いたときには「本当ですか!?」と、敬意を表するのと同時に以降対戦しなくてすむことを喜んでいた。巨人を代表する4番打者である王貞治松井秀喜の両方と対戦した投手は大野ただ一人である。

[編集] 人間関係

広島のスカウトだった木庭教とは高校時代に知り合ったが、大野は高校卒業まで父方の姓を名乗っていたため、木庭は入団時に「大野豊」の名前を聞いた際、すぐには誰のことか分からず、改めて対面して初めて分かったという。

最大の恩師とも言える江夏豊については「フォームや配球だけでなくロジンバッグの置き方に至るまで、本当に細かく指導された」「テスト生で硬式経験も無い選手に、当時のスター選手がコーチをしてくださることは夢のようだった」と感謝・尊敬の念を語り、現在でも「プロ野球リリーフ大鑑」(ベースボール・マガジン社)などで対談を行っている。ただ、気難しい性格ですぐ手が出る部分(キャッチボールの仕方が悪いと殴られたこともあるという)については「ついていけないと思った」とも述べている。なお、江夏は大野の大成について「彼の努力以外の何物でもない」と語っている。

結婚式に当時の球団オーナーである松田耕平を招待したが、松田は用意された上座ではなく、身内が座る末席に座った。他の出席者が「オーナー、席はあちらです」と言うと、松田は「いや、広島の選手はみんな息子みたいなもんだ」と話した。母子家庭で父親のいない大野は深く感動し、涙を流したという。

親友でありチームメイトでもあった達川光男や、掛布雅之、江川卓らと同学年である。大野が現役晩年に最優秀防御率のタイトルを獲得した時は、既に引退して解説者として名を成していた彼らと比較して「現役で一軍にいることすら驚異的な年齢であるにもかかわらず」と語られることがしばしばあった。彼らの学年は多くのスター選手を輩出したことで知られ、高校3年時が昭和48年だったことから“花の48年組”とも呼ばれている。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1977 広島 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 8 0.1 5 1 2 0 0 0 0 0 5 5 135.00 21.00
1978 41 3 1 1 0 3 1 0 -- .750 314 74.1 67 12 28 2 1 54 3 0 34 31 3.75 1.28
1979 58 4 0 0 0 5 5 2 -- .500 459 105.1 106 14 37 2 7 64 1 0 55 45 3.84 1.36
1980 49 2 0 0 0 7 2 1 -- .778 447 109.2 104 7 31 3 4 76 0 1 41 33 2.71 1.23
1981 57 0 0 0 0 8 4 11 -- .667 437 111.0 84 10 31 3 5 78 6 0 36 33 2.68 1.04
1982 57 0 0 0 0 10 7 11 -- .588 441 106.1 94 9 40 5 3 82 4 0 39 31 2.62 1.26
1983 49 5 2 1 0 7 10 9 -- .412 465 115.1 90 14 38 4 4 89 3 1 49 45 3.51 1.11
1984 24 21 9 2 1 10 5 2 -- .667 615 147.0 133 14 49 2 4 95 4 0 52 48 2.94 1.24
1985 32 26 6 0 0 10 7 2 -- .588 706 161.2 157 26 80 3 0 86 2 0 79 73 4.06 1.47
1986 15 15 2 1 0 6 5 0 -- .545 383 92.0 97 10 15 1 4 63 1 0 36 28 2.74 1.22
1987 25 25 8 1 1 13 5 0 -- .722 655 159.2 144 14 35 1 3 145 1 0 58 52 2.93 1.12
1988 24 24 14 4 3 13 7 0 -- .650 723 185.0 132 11 39 4 3 183 4 0 46 35 1.70 0.92
1989 19 19 5 4 1 8 6 0 -- .571 555 145.2 97 4 36 4 1 139 4 0 36 31 1.92 0.91
1990 27 17 3 1 1 6 11 3 -- .353 527 125.0 112 12 46 2 1 118 4 0 54 44 3.17 1.26
1991 37 0 0 0 0 6 2 26 -- .750 181 46.1 28 2 17 4 1 58 3 0 11 6 1.17 0.97
1992 42 0 0 0 0 5 3 26 -- .625 236 59.0 39 5 25 3 0 77 2 0 15 13 1.98 1.08
1993 31 0 0 0 0 3 1 23 -- .750 149 38.0 26 2 13 1 0 46 2 0 10 10 2.37 1.03
1994 42 0 0 0 0 4 2 18 -- .667 199 48.2 34 2 19 1 1 38 3 0 17 13 2.40 1.09
1995 22 14 4 2 0 7 5 4 -- .583 411 102.2 81 7 40 1 1 66 3 1 42 35 3.07 1.18
1996 19 18 3 1 1 5 4 0 -- .556 502 119.0 122 5 33 1 2 72 4 0 54 52 3.93 1.30
1997 23 23 2 1 0 9 6 0 -- .600 570 135.2 121 7 47 2 0 80 3 0 58 43 2.85 1.24
1998 13 8 0 0 0 3 2 0 -- .600 184 43.1 41 4 17 2 0 24 1 1 18 14 2.91 1.34
通算:22年 707 224 59 19 8 148 100 138 -- .597 9167 2231.0 1914 192 718 51 45 1733 58 4 845 720 2.90 1.18
  • 各年度の太字はリーグ最高

生涯防御率2.90は、投球回数2000イニング以上の投手の中では歴代30位の成績である。しかし、ランキング入りしている選手はほぼ全員1960年代以前のいわば「投高打低」だった時代の投手であり、1970年以降に入団した選手に限定すれば、この成績は斎藤雅樹の2.77(歴代23位)に次ぐ。両翼が狭くフェンスが低い広島市民球場を本拠地としていたことを考慮すると、驚異的な防御率であると言える。

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

  • オールスターゲーム出場:10回 (1980年・1982年・1984年・1985年・1987年・1988年・1991年・1992年・1993年・1997年)
  • 初出場 1977年9月4日 対阪神戦(広島市民球場)
  • 初勝利 1978年8月12日 対ヤクルト戦(広島市民球場)
  • 初セーブ 1979年6月20日 対ヤクルト戦(神宮球場)
  • 通算100勝 1989年9月27日 対巨人戦(東京ドーム)
  • 通算100セーブ 1993年4月29日 対ヤクルト戦(広島市民球場)
  • 通算1000奪三振 1988年9月16日 対阪神戦(甲子園)
  • 通算1500奪三振 1997年6月4日 対巨人戦(東京ドーム)
  • 通算500試合登板 1991年8月11日 対阪神戦(広島市民球場)
  • 通算600試合登板 1994年5月29日 対巨人戦(広島市民球場)
  • 通算700試合登板 1998年5月16日 対阪神戦(広島市民球場)
  • 通算2000投球回 1996年6月8日 対ヤクルト戦(福島)
  • 1991年6月8日、11連続セーブを挙げ、日本新記録(当時)を樹立。同年記録を14まで伸ばした。

[編集] 背番号

  • 60 (1977年)
  • 57 (1978年 - 1979年)
  • 24 (1980年 - 1998年)
  • 72 (1999年)
  • 74 (2010年 - )

[編集] 関連情報

[編集] 出演番組

[編集] 著書

[編集] 関連CD

津田恒美を題材にした曲「炎のストッパー」収録 広島東洋カープ公認。 CDへのコメントに大野豊(広島東洋カープヘッドコーチ)が寄せている

[編集] 脚注

  1. ^ 投手担当コーチとして、年齢的なものや左右のバランスは取れた人選ができたと思います-北京五輪・野球日本代表メンバー発表会見(スポーツナビ 2008年7月17日付記事)より
  2. ^ 【検証】野村カープ元年<中>長期離脱-中国新聞2010年10月14日付記事より
  3. ^ 「形なき継投」の限界-中国新聞2010年6月10日付記事より
  4. ^ 大野ヘッドコーチは「何とかするしかない」と具体案を示せずに手をこまねく-中国新聞2010年7月28日付記事より
  5. ^ [1]-『前田健太に真のプロ根性を見た』 二宮清純・スポーツコミュニケーションズ2010年9月28日付記事より
  6. ^ 野村監督の続投決定 大野コーチは投手専任に-中国新聞2010年10月9日付記事より

[編集] 関連項目

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