横浜F・マリノス

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横浜F・マリノス
原語表記 横浜F・マリノス
愛称 マリノス
クラブカラー    ブルー[1]
   レッド[1]
   ホワイト[1]
創設年 1972年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン1
ホームタウン 神奈川県横浜市[1]横須賀市[1]
ホームスタジアム
日産スタジアム[1]

ニッパツ三ツ沢球技場[1]
収容人数 72,370(日産ス)/15,046(三ツ沢)
運営法人 横浜マリノス株式会社[1]
代表者 嘉悦朗[1]
監督 日本の旗 樋口靖洋
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

横浜F・マリノス(よこはま エフ・マリノス、Yokohama F・Marinos)は、日本神奈川県横浜市[1]および横須賀市[1]にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。旧名称は横浜マリノス横浜フリューゲルスが消滅した際に吸収合併した為、その頭文字のFを名称に取り入れ横浜F・マリノスに改称した。

概要

横浜マリノス株式会社[1]
YOKOHAMA MARINOS LTD.
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 220-0012[1]
神奈川県横浜市西区みなとみらい6-2[1]
設立 1992年7月17日
業種 サービス業
法人番号 7020001023990 ウィキデータを編集
事業内容 サッカークラブの運営
代表者 嘉悦朗[1]
資本金 3,100万円
売上高 35億0,500万円 (2010年1月期)
純利益 3,600万円 (2010年1月期)
決算期 1月期
主要株主 日産自動車
外部リンク http://www.f-marinos.com
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  • 1991年、Jリーグ加盟。Jリーグ創設時からの加盟チームのひとつである。
  • 日産自動車を親会社とする企業色の強いクラブである。
  • ホームタウン神奈川県横浜市[1]横須賀市[1]2005年より)。横須賀市は2005年以前より、下部組織の練習会場として長年利用されていた。
  • ホームスタジアムは日産スタジアム[1]ニッパツ三ツ沢球技場[1]。近年は、メインとして日産スタジアムをJ1リーグ戦の大部分及びカップ戦等(AFCチャンピオンズリーグ含む)の一部に使用し、残るJ1リーグ戦の数試合(主に平日開催の試合)及びカップ戦等の大部分はニッパツ三ッ沢球技場を利用している。
  • クラブの法人事務所、練習場などの施設は、横浜市西区みなとみらいにあるマリノスタウン2007年1月グランドオープン)に集約されている[1]
    • 法人事務所は神奈川区新子安から移転した。
    • 練習場は、戸塚区戸塚トレーニングセンターからの移転である。同地は、元々は横浜フリューゲルスの練習場で、フリューゲルスとの合併以前は鶴見区の獅子ヶ谷グラウンドを用いていた。横浜国際競技場完成後は、日産フィールド小机(小机陸上競技場。横浜国際の補助トラック)でも練習を行っていた。
    • 本施設の建設に際し、建設費および借地料、さらに成績の低迷に伴う観客動員減などが重なった事で、強化費などの他の部分に影響が及んでいるとされる。実際、2007年、監督として早野宏史を招聘したのには、「安く雇えるから」という理由もある。戦力補強に関しても、世代交代という目標と併せ、即戦力となる選手の獲得ではなく、高卒・大卒・ユース出身選手の獲得、若手育成などを進めていく方針に転換している。また、サポーター向けのサービスにも変更が出ている。
  • チーム名の「マリノス (Marinos)」は、スペイン語で船乗りを意味する[1]。「F」はフリューゲルス (Flügels) の頭文字(詳細は後述)。
  • チームカラーは「青・白・赤」[1]のトリコロール(三色)。これは元々日産自動車コーポレートカラーであったものである。各色の意味合いは、青「冷静さと港町・横浜の海」、赤「スポーツに触れ合う場をつくり、皆が誇れるクラブを目指す」、白「皆に支えられ、息の長い活動を続ける、自立したクラブを目指す」である。
  • クラブの社長は嘉悦朗(かえつ あきら)[1]一橋大学商学部卒。日産自動車HQファシリティマネージメント部担当執行役員も兼務していた(2010年3月31日まで)。2009年6月末より体調不良を理由(中村俊輔の獲得失敗の心労と言われている)に前任者の斎藤正治が休養したのを受け、7月23日に取締役と社長代行に就任。2010年2月1日付けで斎藤の退任と共に正式に社長となった。 
  • 井原正巳小村徳男松田直樹中澤佑二栗原勇蔵など伝統的に優秀なディフェンダーが多く、日本代表の守備陣を多く輩出している。また、松永成立川口能活の日本代表GKもマリノスから輩出している。過去数年リーグ戦での失点数の少なさにおいても上位に入っている。残留争いに巻き込まれた2001年、2008年シーズンにおいても、失点数はリーグ3番目に少ない。
  • 2008年6月、下部組織の選手育成・強化を目的にフランスのオリンピック・リヨンと業務提携を結んだことを発表した。

スポンサー契約について

表記略称について

  • Jリーグ公式サイトでは「横浜FM」、totoでは「横浜M」である。新聞・雑誌等でも、これらに倣い「横浜FM」もしくは「横浜M」とすることが多い。「横浜F」と略した場合、基本的には横浜フリューゲルスのことを指す場合が多く、しかも横浜FCと区別が付かないため、前者は区別が付く2文字目(「横浜FM」「横浜FC」)までを表記している。後者は、前者の表記において重複する「F」の省略か、(マリノスの場合においては)以前の表記(後述)をそのまま使っているものである。
  • 一部の媒体、例えば日刊スポーツスポーツニッポンサッカーダイジェストなどでは、単に「横浜」と表記する。これは、横浜FCがJ2リーグに昇格するまでの2年間(1999-2000年)、横浜市をホームタウンとするJリーグのクラブがマリノスのみであったため、マリノスを「横浜」と表記していたことの名残である。
  • なお、2006年まで横浜FCとは別カテゴリ(マリノスはJ1、横浜FCはJ2)に所属していたので、J1のみについて扱うなど、特に紛らわしくない場合は単に「横浜」とすることも多かった(これは横浜FCについても同様である)。
  • 2007年度は横浜FCがJ1に所属したため、一部媒体が使用する略称が変更された。例えば、スポーツニッポンは、横浜FCと同時に名前が出る記事においては「横浜M」と表記していた。
  • Jリーグ発足当時は「横浜M」「横浜マ」と表記するマスコミが多かった。ただし、読売新聞フジテレビプロ野球ニュース」では、横浜フリューゲルスの本拠地が横浜市(ホームタウン)と九州地方(特別活動地域。長崎県熊本県鹿児島県)にまたがる特殊な扱いであったこと、またプロ野球ニュースでは全日空が番組スポンサーだったこともあり、やはり略称を「横浜」のみで出したことがあった(同時期読売系のスポーツ報知日本テレビは「日産横浜(マリノス)」と表記)。

歴史

前身

1972年創部の日産自動車サッカー部が前身となり[1]日本サッカーリーグ(JSL)1部へ1979-80年に昇格[1]

日本初のプロ監督・加茂周のもとチームは上位をキープし、1988-89年度のJSL1部リーグ、JSL杯天皇杯の当時の日本サッカー主要大会三冠を達成した。

金田喜稔水沼貴史木村和司井原正巳など数々の日本代表を輩出してきた。読売サッカークラブとの対決は「黄金カード」として、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)でも人気カードであった。

1991年 - 1998年

1991年にJリーグ加盟[1]1993年5月15日Jリーグの開幕試合(対V川崎戦)を2-1で制した。当初はV川崎との2強と見られながら、実際にはV川崎の2連覇を許し、さらにステージ優勝も1993年鹿島1994年広島にさらわれた。

しかし、1995年にはシーズン途中で就任した早野宏史の指揮でJリーグチャンピオンシップでV川崎を下し、リーグ初優勝を果たした。これは、アルゼンチン人のホルヘ・ソラリ監督が進めるチーム改革に対するベテラン選手の反発が2年目のGK川口能活の抜擢を巡って表面化し、先発から外された日本代表GK松永成立ジャパンフットボールリーグ (JFL) ・鳥栖への移籍、さらにその直後のソラリ監督の退団という激動を収拾した結果であった。ただし、その後は鹿島や磐田の台頭があり、覇権はマリノスの手を離れた。

1999年のシーズンから、同じ横浜市をホームタウンとしていた横浜フリューゲルスを吸収合併し、現在の名称となった。これは、従来は日産自動車が100%出資していた運営会社「株式会社日産フットボールクラブ」に、フリューゲルスの親会社だった全日本空輸が資本参加し、「横浜マリノス株式会社」として70:30の資本比率にした。「F・マリノス」の「F」は、横浜フリューゲルス(FLÜGELS)の頭文字から取ったものである。なお、フリューゲルスはマリノスのチーム史では傍系(別チーム)として扱われるので、フリューゲルスの優勝回数や個人賞などの記録はマリノスに通算されない。

1999年 - 2002年

2000年に5年ぶりとなる1stステージでの優勝を果たしたが、2ndステージ優勝の鹿島とのチャンピオンシップに敗れ、年間チャンピオンにはならなかった。この年中村俊輔が史上最年少でMVPを受賞した。

2001年シーズンは、ナビスコカップで初優勝を飾る一方、主力の三浦淳宏柳想鉄の移籍もあって、1stステージでは16チーム中15位という成績に陥り、残留争いに巻き込まれ、最終節に残留を決めた。しかし、この成績に日産のゴーン社長が激怒。翌年、ステージ優勝または年間3位以内でなければチームを解散させる、と発言したという報道も一部あり、サッカー好きが行き過ぎた冗談とも取れたが、チームは存続の危機に立った。

2002年東京Vから中澤佑二磐田から奥大介(レンタル)、清水範久札幌からウィルなど各チームの主力選手を補強し、1stステージは2位と好発進した。この年は磐田がJリーグ史上初の両ステージ制覇を達成したため、チャンピオンシップに出場せずに年間総合順位が2位となり、ステージ優勝こそならなかったもののゴーン社長の気まぐれ解散の可能性は消滅した。

2003年 - 2006年

2003年基本フォーメーション <4-4-2>

2003年、監督に岡田武史を招聘し、この年J2に降格した広島から久保竜彦を補強。1stステージを制し、2ndステージも劇的な逆転優勝(2003年J1・2ndステージ最終節)を飾り、前年度の磐田に続く両ステージ制覇で年間王者に輝いた。

2004年、韓国のエースFW安貞桓などを補強し、昨年度の2ステージに続きこの年の1stステージでも優勝し、3ステージ連続優勝を達成。2ndステージの優勝は浦和に譲ったが、浦和の圧倒的優位との予想の中、サントリーチャンピオンシップ第1戦横浜国際総合競技場での対戦は河合竜二がコーナーキックから先制ゴールを決め、1-0で勝利。第2戦埼玉スタジアムでの対戦は三都主にFKを直接決められ0-1。延長戦では決着が着かず、PK戦で勝利し連覇を達成。

2005年は、期待されたACLでのグループステージ敗退、主力選手の怪我などがリーグでの成績にも影響したのか、年間9位と不振であった。2006年も、元名古屋FWのマルケスを補強し、開幕4連勝で首位に立つ。しかし不敗チーム同士の直接対決となった第5節の浦和戦で敗戦して以降、15試合で2勝と低迷し、シーズン途中の8月に成績不振で岡田が監督を辞任、後任に水沼貴史が監督に昇格した。それでも残留争いを回避するのが精一杯で、上位進出とはならず、前年と同じ9位で終了。

2007年

2007年みなとみらいへの移転(『マリノスタウン』)など、クラブとして節目を迎えることになったが、奥大介久保竜彦ドゥトラを初めとしたベテラン選手の退団・移籍、ユース・高校・大学からの若手選手の大量加入など、チームも世代交代を図ることとなった。

コーチへ降格した水沼貴史に代わり、監督には早野宏史がサポーターの抗議(をJ2へ降格させたとしてサポーターは拒絶反応を示し、700通に及ぶ抗議メール、更には年間チケットの不買運動が起きた)も強い中、11年振りに就任した。余談だが、奇しくも早野は水沼が現役引退した年に、(シーズン途中からの指揮ではあるが)マリノスを優勝に導いている。

開幕第2節の横浜FCとの横浜ダービーに敗れたが、ホームで迎えた第19節の横浜ダービーでは攻撃陣が大活躍を見せ、チーム新記録の1試合8得点を記録し、8-1で快勝している。なお、この年はFWの大島秀夫坂田大輔、トップ下の山瀬功治が2ケタ得点をマーク。大島は日本人最多得点で、坂田はフェアプレイ個人賞受賞、山瀬は日本代表の常連になった。最終的に前年度を上回る7位でリーグ戦を終了した。しかし、目標とした3位以内には届かなかったため、翌シーズンへの契約更新はなされず、天皇杯終了後にコーチの水沼・高橋真一郎・武藤覚らとともに辞任(事実上の解任)。

2008年

2008年シーズンからは磐田をリーグ優勝に導いた桑原隆が監督に就任した。松田直樹をボランチにあげる奇策が嵌って開幕2連勝で発進。山瀬功治の活躍も光って、4月までは最高で3位だった。

ところが、第10節に相性が良かったはずの東京Vに負けてから、戦術を見破られ始めたせいか得点が取れなくなった。5月以降は勝ち星を挙げられず4連敗を喫する。特に、第16節の新潟戦では、26本のシュートを放ちながら1点も取れず、反対にシュートを4本しか打てなかった新潟に敗戦するという記録的な決定力不足を露呈し、この敗戦でチームも16位まで転落。この試合後、桑原は解任された。

後任には生え抜きOBでもある木村浩吉が統制本部長から昇格。桑原が頑なに使い続けた新外国人を諦め、調子重視・若手重視の方針の下で臨んだものの、就任後にも2連敗し、クラブ史上最悪のリーグ戦6連敗を含む10試合勝ちなし(クラブタイ記録の公式戦6連敗も記録)となった。しかし、木村が促したチーム内競争によって中澤佑二らの守備陣が奮闘、狩野健太ら若手の台頭を生み、8月以降はチームが好転。第22節に降格圏を脱出し、その後も順位を少しずつ上げ、第33節に残留を確定、最終的に年間9位でシーズンを終えた。一方、前年度日本人得点王だった大島秀夫の退団(その後新潟に移籍)、木村の3年契約での監督続投が発表されている。天皇杯も好調だったが、準決勝でG大阪に破れシーズンを終了した。

2009年

2009年シーズンは、昨年残留争いに巻き込まれたこと、石油高・リーマンショックに拠る不況の影響からか、オフシーズン開始直後から他チームからの選手の獲得オファーが殺到。特に神戸からは主力である中澤、山瀬功、坂田の獲得を打診された(3名とも残留)。2007-2008年オフの千葉に比べると主力の引止めはうまく行ったが、田中隼磨名古屋乾貴士C大阪に移籍。中村俊輔の凱旋獲得は親会社である日産自動車からの獲得資金調達が本業の業績悪化により困難に陥り、この時点では失敗に終わっている。

若手を抜擢する木村らしくルーキーにしてリーグ13得点と得点源になっている渡邉千真を筆頭に、天野貴史飯倉大樹などの抜擢・台頭、長谷川アーリアジャスールの成長、坂田大輔狩野健太らの復調により、上位の鹿島、川崎、清水、名古屋にホームゲームで勝利している一方で、下位の山形に逆転負けを喫し、この年J2に降格となった千葉に2引き分けした。結局10位に終わり、3年契約だった木村は監督契約を解除された。

2010年

2010年シーズンは、解任された木村の後任に、マリノスOBの木村和司が監督に就任した。 補強は、6年ぶりの復帰となる波戸康広藤田優人バスティアニーニと最小限にとどめた。その後エスパニョールから中村俊輔が8年ぶりに復帰した。

シーズンを通して、優勝争いに絡むことはなく、8位でシーズンを終えた。最終節前には松田直樹山瀬功治などのベテラン選手の解雇を発表。最終節の大宮戦に敗北した後、松田らの解雇に反発して紛糾したサポーターの前で社長の嘉悦朗が「2011年シーズンで3位以内でなければ辞任する」と発表した。

シーズン終了後、松田直樹JFL松本へ移籍)、山瀬功治川崎へ移籍)のほか、田中裕介(川崎)、河合竜二札幌)、清水範久福岡)、坂田大輔ギリシャ1部アリス・テッサロニキ)、浦田延尚鳥栖)、JFL金沢にレンタル移籍していた斎藤陽介アルビレックス新潟シンガポール)がそれぞれ移籍、草津に期限付移籍していた梅井大輝が退団、藤田優人横浜FC齋藤学愛媛田代真一がJFL・町田に1年間の期限付移籍をし、シーズン途中に栃木に期限付移籍した水沼宏太が、同クラブへの期限付移籍期間を1年延長した。

2011年

2011年シーズンは、清水から青山直晃、川崎からユース出身の谷口博之から小林祐三東京Vから昨シーズンFC東京にレンタル移籍していた大黒将志を獲得、また昨シーズン山形にレンタル移籍していた金根煥が復帰。4月30日付けで阿部陽輔を契約解除。なお、これは本人の希望によるものである。

こうして新たな布陣で臨んだ2011年シーズンは、谷口のオーバーラップや金のFW起用などが次々と的中し、近年では類を見ない快進撃を見せ、前半戦を首位で折り返す。その矢先の8月4日、前年まで所属していた松田直樹の訃報が届く。直後の戦では、試合前の練習時に選手全員が背番号3を付けた前年度のユニフォームを着て登場。「松田のために勝利を」という気運が高まっていたが、試合は0-2で敗れた。

8月12日には、松田が在籍時に使用していた背番号3を永久欠番にすると発表[2]Jリーグ創設以来、サポーターナンバーを除いては初の永久欠番となった。このことを報告した、ホームゲームの対磐田戦に1-0で勝利し、松田の死以来では初勝利を挙げ、その後も川崎に4-0で圧勝する(9月14日ナビスコカップ第1回戦)など好調を維持したが、9月24日仙台戦での敗戦以来再び調子を落とし、やがて優勝争いからも離脱。最終節の鹿島戦も引き分けに終わり、得失点差で仙台に抜かれ、シーズンを5位で終えた。

天皇杯では着々と勝利を積み重ね、カマタマーレ讃岐に3-1、栃木SCに3-0と圧勝し、迎えた12月17日の松田が最後に所属した松本山雅FC戦は4-0で勝利し、準々決勝では名古屋グランパスをPK戦で下す。しかし、準決勝で京都サンガF.C.に延長戦の末、2-4で敗れ翌年のACL出場が消滅し、12月30日に監督の木村和司を解任した。

シーズン終了後、波戸康広が現役を引退し、横浜FCへ期限付移籍中の藤田優人柏レイソルへ移籍)、秋元陽太愛媛FCへ移籍)、渡辺千真長谷川アーリアジャスール(共にFC東京へ移籍)、端戸仁ギラヴァンツ北九州へ期限付き移籍)、武田英二郎ジェフユナイテッド千葉へ期限付き移籍)、金根煥サガン鳥栖へ期限付き移籍)がそれぞれ移籍し、田代真一が、FC町田ゼルビアへの期限付き移籍期間を1年延長した。

2012年

2012シーズンは、2011年に嘉悦朗社長が2012年のACLに出場出来なかったら辞任すると明言しており、ACL出場は叶わなかったが嘉悦朗社長は辞任せず続投。近年ではトップの好成績を収めた木村和司監督がなぜか契約解除されることとなった。解任された木村和司の後任には、木村和司の下でコーチをしていた樋口靖洋が監督に就任した。 補強は東京ヴェルディから富澤清太郎アビスパ福岡から六反勇治中町公祐アトレチコ・ミネイロから2003年に在籍していたマルキーニョスを獲得し、愛媛FCへ期限付き移籍していた齋藤学が復帰した。また、シーズン開幕後の3月23日、かつて6シーズンに渡ってチームを支えたドゥトラが、約6年ぶりに復帰した。

タイトル

国内タイトル

※ユニフォームのエンブレムの上にリーグを制覇した数の星があるが、天皇杯、Jリーグカップの星はついていない。

国際タイトル

個人別タイトル

なお日産自動車時代のタイトルについてはその項参照

歴代監督と成績

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) [1]
FP(2nd)
GK(1st) 黄×黒
GK(2nd) 灰×黒
GK(3rd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd
GK 3rd

配色について

  • ユニフォームのデザインは基本的に上:青、下:白、靴下:赤のトリコロールである[1]。これは日産FC時代から続いた伝統である。
  • 副は長らく上:白、下:青、靴下:白でメインとの色違いであるデザインを採用していたが、2003 - 2006年はこの配色をスパルタングレーのユニフォームを使った。2007年以降は白のユニフォーム、青のパンツに白ソックスという伝統的な配色へ戻っている。
  • 2001年は黒の第3ユニフォームが誕生した。これは海外クラブに倣いチームカラーと関係無い色調のユニフォームを取り入れたものである。尚、2002年までで第3ユニフォームの採用を取り止めた。
  • 2002年は上衣が青と紺のツートンのユニフォームを採用した(上:青/紺、下:白、靴下:赤) これはYC&AC(横浜カントリー・アスレチッククラブ)で使われた紺と白の概念を取り入れたものである。
  • 2003年は上下靴下全て紺のユニフォームで戦った。尚、副は上:白/シルバー、下:黒(チェンジショーツはシルバー)、靴下:シルバーであった。トリコロールの封印は「名門復活なるまでは」という左伴繁雄社長(当時)の大号令に基づくものであった。この年はJリーグ始まって以来のクラブ史上最高位となる完全優勝を納めた。名門復活を果たし、翌2004年には再び伝統のトリコロールのユニフォームに戻した。
  • 2009年は期間限定で、特別ユニフォームを着用した。これは、横浜港開港150周年記念として、青と白の2色横じま模様(NISSANのロゴ、背番号と選手名ローマ字は赤文字、全日空ロゴは企業カラーの青地に白文字)であしらったものである。
  • 2009年より背番号に選手名を記入。その中で中澤佑二は「BOMBER」、清水範久は「JIRO」と表記されるなど、姓名に捉われないニックネーム表記のものも登場(由来についてはそれぞれの項で参照)。
  • 2011年の副は、上/黄色、下/黒、靴下/黄色と5年振りにチームカラーとは関係ない色調のユニフォームを採用している。なお、フィールドプレーヤーのユニフォームに黄色を使うのは初めてである。

スポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
日産自動車 NISSAN 1993年-
背中 三栄建築設計 三栄建築設計 2012年-
全日本空輸 ANA 1999年-
パンツ ライフプラザホールディングス[3] ほけんの窓口 2012年-

ユニフォームサプライ遍歴

  • 1992年 - 1996年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はアディダス (デサント)
  • 1997年 - 2007年 リーグ戦・カップ戦ともにアディダスに統一 (厳密には1998年まではデサント社、1999年以降はアディダス・ジャパン社)
  • 2008年 - ナイキと8年総額30億円というJリーグ史上最高のユニフォームサプライ契約を結ぶ。
    • しかし一部のサポーターからは、「ユニフォームサプライヤーを変えるのはやめろ」「俺たちの誇りを汚すな」や「伝統を消すな」など批判が出て、クラブへの抗議や苦情が送信されるなどのトラブルも発生した。これは日産時代からアディダス一筋(厳密には1980年代中頃までルコック製だったり、Jリーグ開幕当初にミズノ製を併用した時期もある)だったにもかかわらず多額の契約金を契機に簡単に鞍替えしたことが批判につながった。
  • 2011年11月14日、来季のナイキとの契約が打ち切られ(結果、8年→4年に短縮される)、代わって2012年からアディダスと再びサプライ契約するという情報が報道された[4]
  • 2012年1月7日にアディダスとオフィシャルパートナー契約を結んだ事を正式に発表(2月1日より発効)。

歴代スポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1992 - - - - Mizuno/adidas
1993 NISSAN BP Kodak -
1994 -
1995 -
1996 xanavi -
1997 - adidas
1998 -
1999 - ANA -
2000 - -
2001 - -
2002 - -
2003 GE -/NATURALLY PLUS
2004 -
2005 MLJ -
2006 -
2007 -
2008 メガネスーパー - Nike
2009 -
2010 ELGRAND[5] KARADA factory
2011 ANA - -
2012 三栄建築設計 ほけんの窓口 adidas

永久欠番

  • #3 松田直樹
    • 2011年8月4日、現役中に心筋梗塞により急逝。同年8月12日、クラブは「横浜F・マリノス、日本代表、そして日本サッカー界への多大なる貢献への敬意と謝意、さらには松田直樹という偉大な選手への心からの追悼の証」として、永久欠番に指定[2]

エピソード

  • 新規スタジアム、または大幅改修を行った後のスタジアムこけら落とし試合をアウェイチームとして迎えることが多く、これらの試合では無敗であるため「こけら落とし無敗神話」とも言われる。2001年の3試合は2002 FIFAワールドカップ用の新しいスタジアムで行われた。
  • 反対にホームの横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)においてはこけら落としで敗戦している。
    • 1998年のダイナスティカップの日本vs韓国戦がこけら落としであったが、Jリーグの初開催となったこの年の開幕戦・横浜マリノスvs横浜フリューゲルスの「横浜ダービー」では、延長戦の末佐藤一樹(のちに吸収合併によりF・マリノスに入団)のVゴールで敗れている。
    • 命名権により「日産スタジアム」となった初戦の横浜FMvs磐田でも、ロスタイムに福西崇史のヘディングでのゴールを喫し、敗れている。尚、このゴールは福西がジャンプをした時に伸ばしていた手に当たって決まったのではないのかとの疑惑が挙がった。また福西本人も手に当たった感触が有った。ラッキーなゴールだね(後日談)と語っている(その試合で主審を務めていた岡田正義も参照)。
  • 天皇杯では日産FC時代を含めて計6回優勝しており、クラブチームでは浦和レッズ(三菱重工時代を含む)と並んでトップタイである。ただし、1993年のJリーグ開幕後の最高成績はベスト4(1994年、2008年、2011年)で1度も決勝進出をしていない。
  • 以下のように格下のチームに苦戦したり敗戦することがたびたびある。
    • 1994 - 1998年までの5大会連続で当時JFL所属だったチームに敗退した[6]
    • 2005年の1シーズン制以降、J1へ初昇格したチームとの初対決にすべて敗れている[7]
    • リーグ戦完全優勝を果たした2003年市立船橋高校戦でPK戦までもつれ込み(試合は勝利)、また翌2004年チャンピオンシップを制した後、当時JFLの草津戦で、2人の退場者を出して9人となった相手にVゴール負けを喫した。
  • 神奈川県内の4チームで唯一J2を経験していない(1999年以後)。

下部組織・サッカースクール

下部組織

横浜F・マリノスの下部組織は高校生世代が在籍するユース、中学生世代が在籍するジュニアユース、ジュニアユース追浜、小学生世代が在籍するプライマリー、プライマリー追浜で構成されている。

  • 育成方針
プライマリーからユースまで一貫してスピーディーで細かいパスワークを基調にしたサッカーを志向している。
伝統的に体格やフィジカルよりもテクニックを重視しており、小柄で高いテクニックを誇る選手をプロに送り込む半面、長身のプロ選手を輩出した実績が少ない。
  • 主な大会の戦績
プライマリーが2006年全日本少年サッカー大会で前人未到の大会3連覇を達成。同年の大会においてはプライマリー追浜も3位入賞を果たしている。
また、ジュニアユース追浜も全国制覇を成し遂げており、ユースもJFAプリンスリーグU-18関東で2005年 - 2006年に2連覇を成し遂げている。
2009年、ユースが高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会を初優勝した。
  • ユース出身者

サッカースクール

日産自動車時代の1985年に発足したサッカースクールは現在、会員数は3,500名にものぼり、日本でも最大級のサッカー教室である。対象は幼児から中学2年生までで、みなとみらい校、追浜校、NAS二俣川校、大和校の4校と、2010年5月に東山田校が専用グランド、横浜Marinos football park東山田をOPEN。計5箇所でスクールが実施されている。

地域貢献活動

サッカー教室

ホームタウンである横浜市、横須賀市を中心とした地域の学校やスポーツセンターで横浜F・マリノス専属コーチによるサッカー教室を行っている。サッカー教室は大きく分けて小学生以下の子供を対象とした「ふれあいサッカー教室」、「サッカーキャラバン」と成人を対象とした「ENJOY FOOTBALL」に分かれる。

障がい者サッカー

横浜F・マリノスでは障がい者サッカープロジェクト「futuro」が行われている。「futuro」では横浜ラポールで行なわれている「体験・育成」プログラムと連携しながら横浜F・マリノスのコーチを中心に基本的な技術や個人・チーム戦術のトレーニングを行い、大会に参加していて、よりコミュニケーションを深めている。

商店街でのフラッグ等の掲出

横浜市、横須賀市、大和市の商店街にチームフラッグやポスターの掲出をしている。

地域イベントへの参加

横浜市、横須賀市、大和市の商店街や大学、メインスポンサーである日産の工場関連のイベントにブースを出展している。また、公式チアリーディングチームであるトリコロールランサーズによる演技が披露されることもある。 マスコットキャラクター「マリノスケ」は大半のイベントに登場してくる。

横浜市内にある大学との業務提携

2007年11月現在、関東学院大学横浜国立大学と業務提携を結んでいる。

サポーター・応援スタンスについて

トリパラ

応援の必須アイテムの一つとして、トリコロールの傘、通称「トリパラ」がある。 元々は2003年に某サポーター集団のメンバーが発案し、実際にトリコロールカラーのビーチパラソルを試合に持ち込んだところから始まる。その後にパラソルサイズでサポーター有志で特注して始まる。

当初はサポーター有志により作られていたもので、その作業には多くの時間を要したという。現在では、サポーターがグッズショップ「トリコポイント」[1]と連携して生産・販売を行ったり、チームもオフィシャルグッズの一つとして販売するなど、その認知度は高くなっている。

そして、試合に勝つとトリパラをコーヒールンバをベースにした応援に合わせて回す(コーヒールンバを基調にした応援はボカ・ジュニアーズヴァンフォーレ甲府でも行われる)。現在では発案とは別の応援グループがトレードマークに利用する程、横浜の顔として定着している。

NPO 法人ハマトラ・横浜フットボールネットワーク

横浜F・マリノスサポーター有志によって設立されたNPO法人。

平成21年4月30日神奈川県による特定非営利活動法人の認証を取得。

サッカークラブのサポーターの活動を超えて、市民や各団体などとネットワークを形成すると同時に、地域活動に関わる行政や企業とも連携しながら、「スポーツカルチャーへの貢献」および「地域社会の活性化と地域愛の醸成」を横浜市を中心とした地域に浸透させることが設立目的。

主な活動内容は

  • フリーペーパー(「hamatra」、「バモバモコミック」、「We are F・Marinos」)の配布
  • ウェブ・コミュニティ「ハマトラ SNS」の企画・開発・運用活動
  • 横浜市を中心とした地域で開催されるイベントへの参加
  • サポーターによる地域清掃活動
  • 横浜市を中心とした地域での横浜F・マリノスやその他サッカー大会のポスター掲示や配布
  • ハマトラ・オリジナルアパレルブランドの企画・販売

活動内容は「ハマトラ SNS」で告知されている。ハマトラの名称の由来は次項詳述参照

hamatra

NPO 法人ハマトラ・横浜フットボールネットワークが中心となり作成されている、hamatra(ハマトラ。Yokohama Traditionalが由来)というフリーペーパーがホームゲーム時に配布されている。サポートソングの歌詞カードをフリーペーパーとして発展させたものであり、歌詞とともにサポーター有志によるコラムなどが掲載されている。また、その名は同名を冠したマリノス・サポーター用のSNS、「ハマトラSNS」[2]を指すこともある。

なお、hamatraをマッチデープログラムと見る者もいるが(例: サッカーJ+ Vol.1でのホームスタジアム・日産スタジアムの紹介において、「マッチデープログラムはサポーター有志が配布」と記載)、マッチデープログラムはhamatraとは別に販売されており、その捉え方は間違いである。

トラブル

  • 2006年Jリーグ第5節(3月25日)、日産スタジアムで行われた浦和戦の試合前、本来横浜F・マリノスのサポーターにのみ許された横断幕の掲出場所を、運営の都合としてサポーターの了承も無く勝手に浦和レッズに提供し、サポーター同士でにらみ合いが生じた。
  • 2007年Jリーグ第8節(4月28日)、アウェイで行われた新潟戦の試合終了後、スタジアム付近の交差点にてサポーターによる発煙筒および爆竹の使用があった。
  • 2007年第19節(8月11日)の横浜FC戦(日産スタジアム)の前日(8月10日)深夜、サポーターグループの「JUST GEDO」のリーダー(当時)ら数人が、同スタジアム南ゲート前で横浜FCサポーターの男性三人に暴行を加え怪我を負わせたとして、翌2008年1月に同グループのリーダーが逮捕(不起訴)された。
    • 試合当日、横浜FCのサポーターがF・マリノスの入場待機列に生卵を投じる報復を行った。
  • 2007年第31節(11月24日)の千葉との試合終了後、F・マリノスサポーターがシーズンの最終節ということからホーム最終節セレモニーを開催してもまだ、選手チャントをやめなかったこと(その年に退団する選手のコールをしていた)からジェフユナイテッド市原・千葉サポーターとの乱闘騒ぎが起きた。
    • ただその一方で試合後、急病で倒れた当時のイビチャ・オシム日本代表監督の回復を祈願してジェフとサポーターとともに「オシムコール」を行ったことがある。[3]
  • 2008年8月、横浜FCのサポーターにF・マリノスの広告を無断で破棄され、警察に届けるトラブルも起こった。これは刑法261条・器物損壊罪に該当する。横浜FC側が謝罪し、今は和解。詳細は[4]

その他

マスコットキャラクター

チームキャラクターは「マリノス君」と「マリノスケ」[1]。ともにカモメをモチーフとしたキャラクターである。マリノスケは『月刊コロコロコミック』誌上で誕生し、マリノス君の甥という設定になっている。マリノスケはホームゲーム以外に地域のイベントにも参加して横浜F・マリノスのPRのために活動している。

2008年、謎のマスコットキャラクター「ワルノス」が突然出現した。「ワルノスクイーン」と呼ばれる女性たちと行動を共にしており、同年の開幕戦の「トリコロールランド」でダンスを披露する、敵チームの偵察と称して無断で日立柏サッカー場に訪問する、「クラシコ」を前に東京Vのクラブハウスを「襲撃」するなどの活動を行っている。チーム側はあくまで「非公認」としており、素性などは一切不明である。HIP-HOPダンスを得意とし、独自のスタンスでチームを鼓舞、応援している。2008レジェンド・オブ・F・マリノスのトレーディングカードにも登場し、非売品のグッズ(バンダナなど)のプレゼントや広報活動を行っている。2010年にチームよりTシャツとコインパースが公式グッズとして発売された。目標はJリーグ・ナンバーワンキャラクター。ダンスの技術はプロ級。

応援番組

公式応援番組としてキックオフ!!F・マリノスtvkで毎週金曜日22時~22時30分に、横浜ケーブルビジョンでMy town and My F・Marinosが毎日(内容は月1回更新)放送されている。

また、横須賀市・三浦市を受信エリアとするコミュニティFM局FMブルー湘南で毎週金曜日18時から横浜F・マリノスニュースを放送している。

トリコロールマーメイズ

2007年、公式チアリーディングチームとして「トリコロール・ランサーズ」が結成された。詳細はランサーズの項を参照のこと。その後、2008年6月28日から「トリコロールマーメイズ」と名称を変更しリニューアルした。

その他

  • Jリーグ発足時、同じ横浜市をホームタウンとしていたマリノスとフリューゲルスが同じ日にホームゲームを組むことがあった。しかし、Jリーグではスタジアムの芝生保護や観客入れ替えなどの観点上、1日2試合の開催を認めていなかったので、マリノスが三ツ沢(球)、フリューゲルスは九州地方(特別活動地域の長崎県熊本県鹿児島県の3県)または国立などで試合を行うことがあった。なお1995年以後はホームゲームの開催日が調整され、同じ日にマリノスとフリューゲルスの主催試合を重複開催することは皆無となった。
  • オフィシャルテーマソングはゆずが歌う「We are F・Marinos」。
  • マリノスクイーンと呼ばれる広報や試合運営補助を仕事とする女性がいる。なお、マリノスクイーンは神奈川県在住・通勤・通学者から選ばれている。

チーム名変遷

  • 1972年 - :日産自動車サッカー部
  • 1991年 - :横浜マリノス
  • 1999年 - :横浜F・マリノス

関連項目

オフィシャル・パートナー

注記

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac クラブガイド:横浜F・マリノス Jリーグ公式サイト
  2. ^ a b 背番号「3」永久欠番のお知らせ
  3. ^ J2横浜FCのユニフォームパンツにもスポンサーを掲出
  4. ^ 横浜“盟友”との関係復活、5年ぶりアディダスと契約
  5. ^ スポンサー名義は日産車体
  6. ^ 対戦相手は1994年セレッソ大阪、1995年アビスパ福岡、1996年大塚製薬サッカー部(現在の徳島ヴォルティス)、1997年東京ガスサッカー部(現在のFC東京)、1998年ベガルタ仙台。後に5チーム全てJリーグへ加盟している。
  7. ^ 2005年大宮アルディージャ、2006年ヴァンフォーレ甲府、2007年横浜FC、2009年モンテディオ山形、2012年サガン鳥栖

外部リンク