逸見政孝

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いつみ まさたか
逸見 政孝
プロフィール
愛称 いっつみい
出身地 日本の旗 日本大阪府大阪市阿倍野区
生年月日 1945年2月16日
没年月日 (1993-12-25) 1993年12月25日(48歳没)
最終学歴 早稲田大学第一文学部
所属事務所 オフィスいっつみい
(現: 株式会社オフィスいつみ)
職歴フジテレビアナウンサー
活動期間 1968年 - 1993年
ジャンル 報道・情報・バラエティ
配偶者 逸見晴恵
著名な家族 逸見太郎(長男)
逸見愛 (長女)
出演番組・活動
出演経歴3時のあなた
FNNスーパータイム
クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!
たけし・逸見の平成教育委員会
FNSの日』など

逸見 政孝 (いつみ まさたか、1945年昭和20年)2月16日 - 1993年平成5年)12月25日) は、日本フリーアナウンサータレント

フジテレビアナウンサー。フジテレビ退社後は、三木プロダクションと業務提携する個人事務所「オフィスいっつみい(逸見の死後オフィスいつみに名称変更)」に所属していた。大阪府大阪市阿倍野区出身。

妻はエッセイストで所属事務所社長だった逸見晴恵俳優逸見太郎は長男、女優の逸見愛は長女。

生涯

父親は広島県尾道市の出身で旧姓は毛利[1][2]、逸見家に養子入る[1]。父親は長く福徳相互銀行に勤務した[1][2]。時期は不明だが、桑名正博の父が経営する桑名興業の経理をしていたと本人が『夜も一生けんめい。』の番組内で語っている。母親は大阪の出身[1][2]。子供の頃から映画鑑賞が趣味で、特にチャップリン黒澤明の作品は全て観たという。「この2人に関しては映画評論家の方たちと話してもなんとかなる」と自信を持っていた。逸見が挙げた日本映画の最高傑作も黒澤の『生きる』だった。フジテレビに入社して間もない頃は、映画番組を担当している先輩アナウンサーのところに映画の試写会の案内が多く届くのを見て「自分もああなりたい」と思っていたという。後年、映画賞の審査員にも起用され、それがきっかけで逸見にも映画試写会の招待状が届くようになって希望は果たされた[1][2]

大阪市立阪南小学校大阪市立阪南中学校を経て、大阪府立阿倍野高等学校を卒業後、一浪して、早稲田大学第一文学部演劇学科に入学[3]。大学ではアナウンス研究会に所属。大阪出身であったため大阪方言を話していたが、標準語のアクセントを徹底的に覚えた。ラジオとテープレコーダーを購入し、ラジオでアナウンサーの声を聞き、テープレコーダーで新聞記事を読む自分の声を録音。アクセント辞典を見ながら、録音した自分の声を聞き、間違ったアクセントで発音した語句は、ペンでマーク。また、その語句を黒板に書き、覚えるまで消さないようにした。さらに、日常でも標準語で話すようにした。

高校卒業直後に関西学院大学の受験に失敗した際、当時付き合っていた女性にふられてしまい、「見返してやりたい」という気持ちと高校時代に放送部に在籍し、「自分にもできそうで高収入の仕事」という理由から、在京テレビ局のアナウンサーを志したという。早稲田大学に進んだのも、アナウンサーになるのに最も有利な大学という判断からだった。逸見の大学時代は学生運動の盛んな時期だったが、就職に向けた準備に追われて目もくれなかったという[1]。大阪弁を完全に矯正して専ら標準語で話していたが、一方で、言葉以外では関西出身者としての誇りを持ち続けた。当時大阪から東京に進出したばかりで全国的には無名だったお笑いコンビのダウンタウンなどの若手タレントを可愛がり、プロ野球は当時低迷が続いていた阪神タイガースを生涯変わらず愛し続けた。関東での阪神の試合には、家族で頻繁に応援に訪れていた。父親、逸見、そして息子の太郎と親子3代続く阪神ファンだと著書で公言している[2]

フジテレビ時代

フジテレビのアナウンサー試験では試験官から出身地を確かめられたという程の実力で、フジテレビ入社後には毎年の新社員研修にて「当社にはアクセント辞典を食べた特異体質の男がいる」と語られるようになる。逸見は自著で「大学時代、フランス語辞典は真っ白だったが、アクセント辞典は真っ黒だった」と語っている。父親に「アナウンサーになりたい」と告げると「お前のやりたいようにやれ」と認められた。

早稲田大学の同期で友人でもあった松倉悦郎とともに、フジテレビのアナウンサー試験を突破し、大学卒業後の1968年にフジテレビに入社した。同期入社にはアナウンサーでは山川建夫小林節子竹下典子山根佳代子[4]、他職では坂井義則がいる。

最終面接の際、当時の鹿内信隆社長が「早稲田の文学部から2人受けているか。君、どちらか1人しか受からないとなったらどうするかね?」という質問をした。質問に困り果てた逸見はとっさに「そ、それは困ります」と答え[5]、その場にいた重役たちは笑みを浮かべた。逸見は、「松倉にも同じ質問をして松倉も同じように答えたのだな」と思ったという。この言葉が最終的に2人そろっての採用の決め手になったと言われる。なお、1967年7月3日午後5時というフジテレビの入社試験の合格発表の日時を逸見は終生覚えていたという。また、並行して高校の先輩の乾浩明がいた地元・大阪の朝日放送の入社試験も受けてカメラテストまで通過していたが、フジテレビの内定を得たため辞退した[1]

若手時代の逸見は「暗い」「つまらない」「売れないだろう」という否定的な見方が大勢であったが、大橋巨泉は「わかんないぞ。逸見が突然、人気アナウンサーになるかもしれない」と後年の活躍を予見していたという。

当初はスポーツアナウンサーとして活躍し、輪島功一の世界タイトルマッチの実況を中心にプロボクシング中継を担当。ボクサーより先に倒れるのではないかと思われる程の絶叫調の実況で頭角を現した[6]。ボクシング以外にもバレーボールの実況中継も担当しており、全国高等学校バレーボール選抜優勝大会日本バレーボールリーグの中継でもマイクロフォンサイドに立っている。

スポーツ中継と並行して、ワイドショー3時のあなた』のサブ司会者としても活躍した。また、フジテレビが制作に関わっていたテレビドラマ『金メダルへのターン!』や、特撮テレビ映画『ミラーマン』にもアナウンサー役で出演している。

その後、報道番組へ転属し、1976年、『FNNテレビ土曜・日曜夕刊』で週末のニュースを担当したことを皮切りに、1978年平日放送の『FNNニュースレポート6:30』(関東ローカル番組)のキャスターとなった。当時のニュース番組のキャスターに逸見の年代(1978年当時33歳。当時の報道キャスターは40代後半の男性アナが多かった)で起用されるのは珍しかった。それから2年余りが経過した頃、『テレポート6』を見て感銘を受けたので、アナウンス研究会の先輩でもあり、当時同番組のキャスターであったTBSアナウンサーの山本文郎に直接電話をかけ、どのようにすれば質の高いニュース番組になるのかを尋ねた。山本からは「できるだけ現場へ行くように」と指導を受けた。その後、逸見は共演の田丸美寿々とともに様々な現場へ取材に出向く。取材範囲は原則的に関東地方に限られたが、それ以外の地域へ赴いたこともあり、山口組三代目田岡一雄組長狙撃犯の死体が発見された際には、神戸の山口組本部に突撃取材を行ったこともある。

1979年、2歳年下の実弟が胃癌の中で最も予後の悪いものであるスキルス胃癌で半年間の闘病の末、1980年3月22日に32歳の若さで死去。このことから逸見は、人一倍に対して気をつけ、年一回の検診も欠かさず受診するも、自身も弟の死から13年後に同じ病で死去した。

1980年頃から、自宅新築のために結婚式の司会などの副業を始めた。有名になるに連れて副収入も増え、フジテレビを退社する頃には給料の倍以上の額を稼ぐ程になっていた。このため、20年返済で組んだ住宅ローンもわずか6年で完済。その一方、副収入が増えたことで追徴課税がなされるようになっていた。逸見がこのことを知人に相談したところ「必要経費が認められるから独立するのが一番良い」と返答された[7]。それまで「フリーには絶対ならない」と公言していた逸見は、「管理職昇進でアナウンスの現場から離れたくない」という気持ちもあり、方針を転換し、独立を検討する契機となった。

1984年4月、『FNNニュースレポート6:00』のキャスターに就任し、同年10月に後番組としてスタートした『FNNスーパータイム』の初代メインキャスターも引き続き担当。幸田シャーミンとのコンビで人気を博す。また、1985年4月から開始した『スーパータイム』の前時間帯の生放送番組『夕やけニャンニャン』に設けられていた同番組の予告コーナーに、放送曜日である月曜から金曜まで毎日に渡って出演したが、片岡鶴太郎とんねるずとの当意即妙なやりとりが視聴者の注目を集め、これが逸見の転機となった。当時までのニュースキャスターといえば堅物で真面目一直線といった人間が就く職業というイメージしかなく、当時の逸見の外見も「七三分け」に「黒縁メガネ」と、その例に漏れなかったが、ひょうきんなキャラクター、そのギャグセンスの高さとのギャップが若年層の視聴者に意外性をもって受け入れられた。そして、番組開始からおよそ一ヶ月後、「逸見のことを知りたい」という十代の視聴者からの投書が番組に舞い込むようになり、それに応えるかたちで別コーナーにもゲスト出演する。逸見の番組内人気は過熱の様相を呈していて、鶴太郎から「プロマイドは出さないんですか?」とアイドル的人気にひっかけたギャグを振られるなどして大いに盛り上がるが、早速翌日にはマルベル堂から本当にプロマイド発行のオファーが舞い込み、フジテレビと逸見は驚きながらも受諾。テレビアナウンサーのプロマイド製作は史上初の出来事であったが、何の変哲もない中年男性の外見であった逸見の心配をよそに売れ筋商品となった。その後も『夕やけニャンニャン』と『スーパータイム』の視聴率が上がるに連れ、逸見の人気も急上昇し、一年間で170社もの取材を受け、著書やレコードも立て続けに出していくようになる[8]

1985年8月12日、夏休みを取って家族4人で大阪へ帰省するため、羽田発伊丹行日本航空123便に搭乗する予定だった。しかし長男の太郎が「4人なら新幹線の方が安い」と提案し、晴恵が飛行機嫌いであったこともあり、直前に東海道新幹線に変更したため、その墜落事故の難を逃れた。航空機墜落を大阪の実家で知った逸見は「東京に戻るべきか」と思い立つが、最終的に「今から戻ってもニュースの一番おいしい所を良いとこ取りするだけだ」と思い留まり、実家で『FNN報道特別番組』を見守った。この時、10時間に亘って原稿なしでコメントを続けた露木茂のキャスターぶりを、後に著書で絶賛した[2]

人気の高まりを受け、1986年には映画『コミック雑誌なんかいらない!』にも出演。また、バラエティ番組への出演が増え、同年からそれまで21年連続で司会を務めてきた高橋圭三の勇退を受けて、『新春かくし芸大会』の司会を芳村真理とのコンビで担当、名実共にフジテレビを代表する看板アナウンサーとしての地位を確立する。また、この年にはベスト・ファーザー イエローリボン賞にも選出された。

フリー転身後

1987年に勤続20年を迎えた逸見は、管理職に昇格したことによって『スーパータイム』以外の番組への出演機会が徐々に減少。「生涯、一アナウンサーでありたい」との思いが強くなり、同年11月に退職願を提出。翌1988年3月末を以って、アナウンス部副部長待遇を最後にフジテレビを円満退職した。三木プロダクションと業務提携を結んだ「オフィスいっつみい」を設立(社長は晴恵で、逸見は平社員。逸見の死後「株式会社オフィスいつみ」に社名変更)してフリーとなる。

フリーに転身したが、『スーパータイム』については、コンビを組んでいた安藤優子が強く希望したことから、1年間キャスターを続けた[9]。テレビでは『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『夜も一生けんめい。』、『たけし・逸見の平成教育委員会』など数多くの人気番組の司会を務め、「いっつみい(It's me)」の愛称で、視聴者から高い好感度を得た。ラジオの『オールナイトニッポン』でパーソナリティを務めたこともある。バラエティ番組の司会を担当するようになってから、「いっつみい」というニックネームがついた。本人も「司会は“いっつみい”、逸見政孝です」、「司会はいっつみい、それは私です」と自己紹介をする番組も多かった。メディアでの「ユーモア」も評価を増し、1991年には『ゆうもあ・くらぶ』主催のゆうもあ大賞が授与された[10]

個性が全く異なるタモリビートたけし明石家さんまからなるBIG3を仕切ることが出来た稀有な司会者として、また日本を代表する司会者として知られており、前述の通りBIG3を束ねる能力を持つほぼ唯一の人物でもあったため、結果的には逸見の逝去がBIG3関連企画の失速につながった。なお、逸見は著書で「『SHOW by ショーバイ!!』と『平成教育委員会』が自分にとって一番思い入れのある仕事である」と述べている。また、BIG3との共演に関して「BIG3の仕切り役だけは絶対誰にも譲らない」と語った(実際には、1990年の『テレビ夢列島』では全コーナーをフジテレビアナウンサーが進行する方針だったことから露木が進行を担当したが、それ以外はすべて逸見が進行を担当)。また、『夜も一生けんめい。』では、音痴でありながらも精一杯に熱唱していた。

1991年、古舘伊知郎の姉が癌で他界。同じフリーアナウンサーであり、比較的若い年齢で兄弟を癌で亡くした悲しみを知る者として、古舘にお悔やみの手紙を送った。また、四十九日法要の際には霊前に手を合わせ、思い出話をしていったという。これをきっかけに2人は親交を持つようになり、逸見の癌での休養中、古舘は『SHOW by ショーバイ!!』の店長代理として2度代理司会を担当した[11]。古舘には、1993年9月6日の会見前に自身が癌であることを伝えていた[12]

順調に仕事をこなす中、1992年11月には世田谷区奥沢の131の土地に12億円(当時)のイギリス風の大豪邸を築きあげた。同時に大阪に居住していた両親を呼び寄せ、旧宅に住まわせた。

1993年1月18日、胸のみぞおちの辺りに痛みを訴え、番組で共演していた江川卓に紹介された前田外科病院(現:赤坂見附前田病院)に、年に1度の定期健診も兼ねて受診。その際に担当医から、胃癌の診断が下された。担当医は逸見夫妻に対して「あくまで初期の癌ですから、手術すればすぐに完治しますよ」と告知した。

1週間後の1月25日に入院、前田昭二院長はじめ医師の執刀により、同年2月4日に胃の4分の3と周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する3時間程度の手術を受けた。本人には胃の3分の2を取り除いたと伝えられたが、晴恵だけには前田院長が「ご主人の病状は、実際は初期の癌ではなかった。ギリギリの所ですべての癌細胞を取り除いたんですが、残念ながら5年先の生存率はゼロに近いでしょう」と宣告していた。実際、逸見の死後に前田外科病院は、手術の時点ですでに癌が胃に近接する腹膜にまで転移していたことを公表している。

手術から1ヶ月後の同年2月25日に退院。翌日には『夜も一生けんめい。』の収録で仕事復帰。当初逸見は、病名を穿孔性十二指腸潰瘍と偽って公表していた。退院後も、抗癌剤投薬や前田外科病院への検査通院を続け、同年春から新番組も始まったことで、逸見は再び軌道に乗り始めたかに思えた。

司会者としての地位を確立したこともあり、解答者として他のクイズ番組に出演することはほとんどなかったが、1993年春のTBSオールスター感謝祭』に、自身が司会を務める『逸見のその時何が!』の解答者として出演、この時が唯一の出演となった。同年7月『マジカル頭脳パワー!!』にもゲスト解答者として出演している。

1993年8月1日、目黒のカトリック碑文谷教会で催された、設楽りさ子三浦知良の披露宴で司会を務めた。

同年5月下旬頃になるとメスを入れた手術跡の線上がケロイド状に膨れ始めた。担当医からは「通常、手術後に起こる症状であるから心配ない」と言われたが、その突起物が次第に大きくなり、やがて服を着るに邪魔になるほどであった。逸見のスケジュールの都合で、夏休み中の同年8月12日にその「突起物を除去する」という名目で2度目の手術を受けたが、癌はすでに腹腔全体に広がるまでに進行しており、もはや手のつけようがない状態だった。執刀医は逸見本人に癌の再発を一切告知しなかった[13]

当時の逸見は、前田外科病院に全幅の信頼を置いており、晴恵や三木プロの三木治社長など、何度も周囲から別の病院での診察を勧められても全く聞き入れず[14] 、加えてこの時期にはレギュラー番組を週5本も抱えており、極めて多忙な日々を送っていた。

再手術にあたり、逸見が前田院長に直接「執刀をしてくれますね?」と尋ねたが、前田院長は笑みを浮かべながら「丁度その頃、僕は夏休みに入っているんだよなあ」と、思わぬ返答をされ、代わりに副院長が手術する方針であることが告げられた。さらに前田院長から勧められたアメリカでの民間療法が直前で取り止めになったことから、逸見は次第に前田外科への不信感を抱き始め、晴恵や三木社長らの勧告もあって[15]、同年9月3日にようやく東京女子医科大学病院へ番組収録前の午前中に訪れ、この時に初めて癌の再発を宣告される。そして、羽生冨士夫教授をはじめとする医師団からは、触診の際に「何故ここまで放っておいたのですか!?」と怒られ、厳しい現状を告げられた。そのことを受け止めた逸見は、東京女子医科大学病院での手術を決意した。

同年9月6日午後3時、当時の日本テレビ麹町本社内2階の大型ホールで緊急記者会見を行い、各局のワイドショーで生中継された。冒頭のコメントでこう述べた。

「こういう形での記者会見は賛否あると思いますが、私が入院してから事務所を通じてのコメントを出しますと、真意が伝わらなかったり、あるいは誤解を生じてもいけませんので、私の口から伝えることによって、皆さんに集まって頂きました。最初に皆さんにお詫びをしなければいけないのですが、今年の1月から2月にかけて私が入院いたしまして、手術そして退院した時に、やはり集まって頂きました。その時に私が発表した病名は大変申しわけなかったのですが、嘘の病名を発表致しました。これはなぜかと言いますと、当時、本当のことを言うことによって、迷惑がかかる人が大変に多かったということがありまして、私自身本当に心苦しかったんですけれども、いずれ折を見て、本当のことを言うことができるときには、それを言おうという風に思っておりました。そして、その時にあえて嘘をついたのですが、その嘘は、許される嘘だと思ってつきました。ただ、こういう形で本当のことを申し上げなければならない事態になったことは、私は全く予想もしなかったことですし、非常に残念であります。今回は、嘘をつくことによって、迷惑かける方々が非常に多いということで、本当のことを申し上げます。私が今、侵されている病気の名前、病名は、癌です」

この会見で、自ら進行胃癌(スキルス胃癌)であることを、初めて公の場で告白した。そして、これから癌闘病生活を送ることを述べた逸見は、記者から闘病に挑む心境を尋ねられ「やはり自分にとって一番難しいことですが、仕事のことを忘れることでしょうかね。なるべくそうして闘いに行ってきます」と述べた。会見の最後の方では、「もう一回、いいかたちで生還しましたというふうに言えればいいなと思っています……どうもありがとうございました」と復帰に懸ける闘病への意気込みを語った。

その記者会見の翌9月7日から全ての仕事を休止。東京女子医科大学病院に入院しての本格的な闘病生活に入り、9月16日に13時間[16]にも及ぶ大手術を受けた。

手術後は歩行訓練を行ったり、お粥などの流動食から、好物のたこ焼きを食べるなど、順調に回復している様子を見せ、週刊誌等のメディアで報道された。

ところが手術から1ヶ月が経過していた10月23日、突然激しい腹痛を起こして食べ物を嘔吐した。この日は一時帰宅日であったが、その後の検査結果が腸閉塞と判明したために中止となった。これにより、普通食禁止の絶対安静となり、絶食状態を余儀なくされたため高栄養の点滴をつけられたが、逸見は徐々に衰弱していった。その状態にも関わらず、11月上旬から抗癌剤の投与が開始され、副作用の影響から日頃の表情豊かであった逸見とは程遠い状態に陥った。

激しい吐き気を催して意識が朦朧となり、うわ言を発するなど益々病状は悪化していった。体重が50kgを下回っていた12月16日には、再検査で腸にも転移した癌が見つかった。主治医は、12月1日に「ご主人の体に再びメスを入れる事はこれ以上不可能。残念な話ですが、年を越せるかは厳しい状況です」と家族に宣告。

12月24日、意識不明の危篤状態に陥り、翌12月25日午後0時47分、末期のスキルス胃癌・再発転移による癌性悪液質のため、東京女子医科大学病院で息を引き取った、48歳没[17]戒名は、誠實院温譽和顔政孝居士(じょうじついんおんよわげじょうこうこじ)。クイズ関係の仕事が晩年に続いたためか、最期の言葉は朦朧とする意識で言った「三番が正解です」だったとされる[18]。しかし、死去発表時の内容・弔問の様子が記された翌26日朝刊の紙上では、見舞いに来た親族に対して言った「もういいから帰れ」という言葉を最後に容体が急変し危篤状態になったとされている[19]

手術についての賛否

結果的に癌の再発を根治することはできず、胃壁の中に広がる特殊な進行癌という特質上、死後「末期の状態であったにもかかわらず、なぜ大手術を受けた(受けさせた)のか」「クオリティ・オブ・ライフを無視した手術だった」といった疑問・批判の意見が多数あがった。

当時の医学水準での意見として、手術も抗癌剤投与も行わず処置した方が、苦しむこともなく1年程度は長く生きることができたとの見方もあった[20]

一方では腸閉塞を防ぐため、中・長期的な生存のためには、このような大手術が必要であったという見方もあり、賛否両論がある[21]

死後

通夜・告別式

新宿区信濃町にある千日谷会堂12月26日に通夜が、12月27日に葬儀・告別式が行われた。出棺後、TBS(先代の本社屋、後の赤坂メディアビル)→テレビ朝日(当時のアークヒルズ本社)→テレビ東京(当時の虎ノ門本社)→NHK放送センターを周り、告別式の後は、フリー転身後に最初の他局レギュラー番組を持った日本テレビ(当時の麹町本社)、そして最後に古巣のフジテレビ(当時の河田町本社)を経由したのち、午後5時20分、落合斎場で荼毘に付された。棺には、ゴルフウェアを着せられた遺体と共に愛の「たくさんのカエルコールをして欲しい」という願いから大量のテレホンカード、『平成教育委員会』で着た学級委員長の制服(複数あり、一部は自宅に保管されていた。)も一緒に納められ、死化粧はIKKOが施した。

遺影は、自身が司会を務める予定であった『平成初恋談義』(1993年10月よりスペシャル番組からレギュラー番組に昇格)のPR番宣ポスターなどに使用するために撮影されたものである[22]

墓所は東京都世田谷区の伝乗寺[23]

芸能界関係者の反応

初代キャスターを務めた『スーパータイム』では、逸見の訃報をトップ項目として扱い、その死を悼んだ。この時訃報を伝えたのは、逸見の13期後輩である山中秀樹であり、『FNN NEWSCOM』の土曜版でも訃報をトップ項目として扱い、逸見の15期後輩である牧原俊幸が訃報を伝え、14期後輩である向坂樹興が生い立ち等のVTRナレーションを担当した。

告別式の行われた12月27日には、露木茂が『スーパータイム』でニュースを読み上げた。露木は癌を公表した記者会見の後、本番前の露木の元へ挨拶に来た逸見に「掛ける言葉が見つからなかった」というエピソードも明かしている。安藤優子は葬儀の模様をレポートし、生放送中のVTR終了後に号泣した。また、亡くなる前夜、危篤の一報を『NEWSCOM』で伝えた木村太郎は、逸見に最後のエールを送っている。

また、亡くなった直後に日本テレビで放送された『夜も一生けんめい。』を急遽内容変更して緊急追悼特番を放送。入院に際して同番組の司会を引き継いでいた徳光和夫がCM中にスタジオの隅で号泣していたとされ、『SHOW by ショーバイ!!』で共に司会をした渡辺正行と電話を繋いだが、既に渡辺はショックのあまり嗚咽を漏らし続けながら号泣し、終始声にならない声で心境を語った。さらに、逸見のレギュラー番組だった『SHOW by ショーバイ!!』、『平成教育委員会』、『いつみても波瀾万丈』でも追悼特番を放送した。『平成教育委員会』は死去当日が放送日であったが、急遽追悼番組に切り替えられ[24]、出演した天本英世は番組内で「日本人はいかんですね。国から会社から社会から全てが狂ってますね。忙しいことがいいことなんて、とんでもない間違いですよ。俳優も忙しい人がいい俳優だなんて、とんでもないですよ。自分のことを考えなきゃね。会社のためとか国のためとかそんなものダメですよ。『平成教育委員会』なんか春に越真一プロデューサー[25]が32歳で自殺したんですからね。これで2人目ですよ。僕はあんなもの(『平成教育委員会』)にケラケラ笑って出たくないです」、「仕事が趣味だって言うのはおかしい。断らなきゃダメなんですよ」と発言。天本は言葉通り、以降『平成教育委員会』には一切出演しないままこの世を去った[26]

逸見が解答者として出演した1993年春の『オールスター感謝祭』にて、総合司会の島田紳助は、春先に手術を受けていた逸見の本当の病名を知らずに、番組本番中に解答者席に座っていた逸見に向かって「実は癌なんです」「もうすぐ死にますよ」など冗談を言い放った。その後、紳助は自らの冗談が本当だったことに驚きながらも「やっぱりな」と感じたという。亡くなった日の夜に紳助はインタビューで「癌という重病を抱えているのに何で仕事してたんですか。ドアホですよ、逸見さんは」と泣きながらコメントを述べていた。また、BIG3として共演が多かった明石家さんまは「逸見さんがテレビで癌を告白したとき、『この人はもう2度と帰ってこれないだろうな』と正直思いました。正直ね…」と、すでに逸見の死を覚悟していたと言う。加えて『SHOW by ショーバイ!!』にレギュラー出演していた高田純次は、癌告白の会見から死去するまでの3か月間が「あっという間だった…」と無念の胸中を語っている。『なんてたって好奇心』で共演していた西田敏行は「なんでいい人ばかり逝っちゃうんですかね…残念です」、『いつみても波瀾万丈』で共演していた野際陽子は、「半年もたたないうちのに、まさかそんな早いなんて…」と絶句していた。

また、ナンシー関も「他の芸能人の時とは違い、まるで自分の親戚が死んでしまったかのような気持ちになった」と逸見の死を悼んだ。他にも、同じ関西出身者という共通点から何度も番組で共演していたダウンタウンの2人も、「逸見さんには本当によくして頂き、感謝しています」と、涙ながらに語った。森口博子は逸見の訃報に涙で言葉が詰まり、『夜も一生けんめい。』で共演していた美川憲一も「クリスマスの日に逸見さんが亡くなるなんて…だから一生、忘れられないわね」と沈痛な表情を浮かべ、徳光和夫は「遺影を前にして、お別れの言葉なんてとても言えなかった…」と涙ながらに語っていた。TBSで葬儀の模様を中継した特別番組(『スーパーワイド』のタイトル差し替え)でも、一期上の先輩だった司会の宮崎総子や葬儀場からリポートした同期の竹下典子が故人を惜しむコメントを残した。

ビートたけしは告別式にて、参列者席で号泣しており、隣席の山城新伍に「こんなにこたえることはないね…」と語ったという。前述の通り、自身にとって思い入れの番組だった『平成教育―』と『―ショーバイ』で立ち上げから長らく共演し、親友であり続けたたけしと山城は、1993年初頭の手術の際、実は癌であったことを本人からそれぞれ伝えられたと告白している。記者会見の前日、癌の再発で再入院する事実を告げられたたけしは、その日から告別式の日まで酒を断ち、告別式では「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげれば良かった」と涙ながらに語った。1997年9月に『平成教育委員会』は最終回を迎えたが、記者会見でたけしは「逸見さんと最後までやりたかった。それが心残り」と述べている。

告別式の弔辞は、三木プロの三木治社長、松倉悦郎、山城新伍が読み上げた。

松倉悦郎
「"逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず"と言いますが、こうして君の遺影の前に立っていると、30年間の思い出が走馬灯のように駆け巡ります。あのエネルギッシュで人懐っこい逸見政孝君が、明終してしまったなんて、未だに信じたくありません。逸見との出会いは昭和39年の4月、早稲田のキャンパスでした。今朝、早く起きてその場所へ行ってきました。30年前とまったく変わっていませんでした。弊衣破帽、素足に高下駄の逸見はバンカラそのもの。それでいて、神田川の近くの2階3畳間の下宿は塵ひとつなく、きちんと整理整頓されており、小さな黒板にはその日に間違えた言葉のアクセントが横書きに几帳面な字で記されていたのが印象的でした。大阪生まれ、大阪育ちの君は、アクセント、イントネーションのハンデ克服のため、百数十ページにも及ぶ発音アクセント辞典を最初のページから覚えはじめ、覚えた言葉は片っ端から赤鉛筆で塗りつぶし、大学4年間で3冊もダメにしてしまうなど、普通の人間には到底真似のできない、筋金入りの努力家でした。情熱家の逸見は、よく片思いもしました。人を好きになっては振られ、気分転換と称しては丸坊主になり、しばらくするとまた、別の女性に思いを寄せる、多い年は一年間に3回も頭を丸めたことを記憶しています。でも、マーちゃん!こうしたほろ苦い体験を重ねたからこそ、ハーちゃん、晴恵さんを射止めることができたのです。マーちゃん、ハーちゃんは今日も気丈に立ち居振舞っています。安心してください。昭和43年、私たちは幸運にもフジテレビジョンにアナウンサーとして入社することができました。逸見は報道、私はスポーツと仕事の分野は違っても、お互い切磋琢磨し、友人として、時にライバルとしてのよい関係が続きました。一度としてお互い気まずい思いをしたことがなかったのが、誇りとしているところです。アナウンサー生活20年を契機にフリーの道を選んだ君は、瞬く間にお茶の間の顔となりました。「アナウンサーは50歳までが勝負だ」という、予てからの持論を実践するかのように。そんな逸見が50歳前に逝ってしまうなんて、余りにも残酷すぎます。癌と闘うことを宣言してからの君は、最後まで弱音ひとつ吐きませんでした。お見舞いに行っても口をついて出るのは仕事の話。根っからの仕事大好き人間でした。律儀な君は、11月に私たちフジテレビのアナウンサー同窓会が開かれた時も、病床からメッセージを届けてくれました。「ご承知のように、私は今、癌と闘っています。癌患者にとって辛い言い方ですが、もし、来年命があれば、どんなことがあっても参加したいと思います。明日からいよいよ抗癌剤の投与です。頑張ります」。皆、涙なくしては読めませんでした。最後に見舞った時、ベッドから不自由な体を起こすようにして、私に手を振った君の姿。あれは何だったんでしょう。お別れの挨拶だったとは決して思いたくありません。12月24日、容体急変の知らせを受けて駆け付けたときの君は、今にも命の炎が燃え尽きてしまうかのようでした。そんな中で、「逸見!俺だよ!松倉だよ!わかるだろ!」という私の問いかけに、かすかではありましたが、反応を示してくれました。「明朝まで持てばいいでしょう」と言われるほどの悪い状態にも関わらず、君の強靭な精神力、生きることへの執念は、一度ならずも死線を乗り越えました。あの朦朧とした意識の中で、2度にわたって起き上がろうとした仕草は、やり残した仕事に対する未練だったに違いありません。今際の際まで仕事のことを思い続けた逸見。君の思いは必ずや、太郎君に受け継がれていくことでしょう。君が目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた愛ちゃんも、君の壮絶なる闘いを通して命の尊厳を深く深く心に刻んだに違いありません。ハーちゃんも、太郎君も、愛ちゃんも、お年を召したご両親も皆、しっかりしています。人一倍、心配性の君ですが、決して心配することはありません。どうか広々としたグリーンの上で、周囲に気を遣うことなく、好きなゴルフを心行くまで楽しんでください。30年間世話になりっぱなしでしたが、これからのお付き合いは倶会一処でと願っています。お別れに万感の思いをこめて…。ありがとう、逸見!さようなら、逸見政孝!!」
山城新伍
「あなたの、その指で、原稿が長ければ巻きを入れてください。逸見さん、本当にご苦労さんでした。ご家族・全国のファンのみなさんの願いもむなしく逝ってしまったあなた。思えば今年の1月、あなたは普段と全く変わらぬにこやかな顔で、「山城さん、番組収録後10分か20分ちょっとお話ししたいんですが、時間はありますか?」と切り出されましたね。「もちろん」と答え部屋で待っていますと、あなたは真顔で「実は早期発見なので幸いでしたが、僕はがんです。」と切り出されました。プロデューサーの小杉(善信)さんと、僕と、三人きりでした。「世間に向けては違う病名として発表するが、本当のことを知っていてほしい」と、冷静な、時には笑顔を見せながら、僕に伝えてくれましたね。それはあなたの責任感が成せる技で、「1、2週ストックが無く抜けるので、僕に司会を代わってやってくれ」というために告白されました。「よ、頼むよ」で済む話をそこまで気を遣うなんて、なんといういい人なんだろうと僕の方が取り乱しそうになりました。「ほかにもご存じの方がいらっしゃるんですか?」と聞くと、「身内以外では山城さんと小杉プロデューサーだけです」とおっしゃいました。あなたの言葉通り、戻ってこられて番組を続けていたあなた。仕事への責任感とそれ以上に「仕事が好きで好きでたまらない」といった表情で、嬉々として仕事をしていたあなた。こんな結末が待っているとは想像だにできず、心の底から帰還を喜びました。秘密を知っている僕は、どうしても責任から他のメンバーには悟られないように、復帰後はプロレスでいう「善玉」と「悪玉」、いわゆる「ヒール」の二人で作った関係をさらに強め、あなたに友情ある、愛のある、ツッコミを仕掛けました。嬉しそうに受けてくれたあなた。そして、自らががんの告知に至る少し前のフジテレビの24時間番組(平成教育テレビ)のなかで、『平成教育委員会』に僕が出演した時、「24時間も出ずっぱりで、人一倍気遣いのあなたは大丈夫かな?」と心配がよぎりました。あなたの表情ばかり追っていると、あなたは膝を、偶然なのでしょうが、ガクッと折ったような、セットに躓いたような瞬間がありました。もちろんプロのあなたが画面に映るような場面じゃなく、CMに入って気をふっと抜かれた時にです。「大丈夫?」とそっと僕が聞くと、「大丈夫」とにっこり愛らしい人懐っこい笑顔で応えてくれましたね。あの一言が、あなたと交わす最後の一言になってしまいました。逸見さん、本当にありがとう。5年目を迎える短いお付き合いになってしまいましたが、年長の僕を立ててくれて、時には自宅に電話をくれて、「これこれこういう仕事が来ているんだ。これこれこういう理由で断ろうかと思うんですが、どう思いますか?」とか、慎重のあなたの中では結論が出ているだろうに、さらに確認のためによく電話をくれましたね。テレビの世界で頂点を極めたあなたの、謙虚な謙虚な一面でした。僕の映画の試写会に来てくれて、その後のパーティであなたと畑違いの映画関係の輪の中に僕がいる。人の群れの中で遠くにいたあなたと目線が合ったので、あなたのそばにいこうとすると手で制して、遠くから手で大きな輪を描いて「良かったよ」のサインを示して、去っていったあなた。涙が出そうになりました。(中略)毎年、12月25日はあなたを偲ぶ日です。やや時代錯誤で突然ですが、広沢虎造さんの浪曲で吉良の仁吉が亡くなった描写を、「ほしい男を亡くしたものだ」と次郎長さんが嘆くセリフがあります。本来の日本語なら「おしい男を亡くしたものだ」なのですが、何度聞いても「ほしい男」になっています。録音ミスかなとも思いましたが、あなたが去って行った今、ご家族にも、ファンの皆様にも、我々友人たちにとっても、「ほしい男」が正解のような気がします。もう一度言わせてください。「ほしい男を亡くしたものだ」。あなたが送ってくれたさわやかな風は、今も僕の心の中に吹いています。天国に悪人どもが増えたので、善人逸見さんを呼ぼうというのは、神様のわがままの様な気がします。悔しいです。さようなら逸見さん。たくさんの友情をありがとう。奥様、お子様達、こんな素敵な父を夫を持ったことを誇りにしてください。テレビらしく、どうやらあなたの指から巻きが入っています。とりあえずお別れします。友人代表ならぬ、一緒に愛した番組代表、山城新伍」

2016年10月28日に放送された『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』に出演した古舘伊知郎は、逸見から癌を記者会見前に逸見宅で事前に告知され、古舘は姉の死同様に逸見に対して言葉をかけられずに涙を流すことしかできなかったと明かし、記者会見をテレビで見た後、「立派でした。素晴らしかったです」と逸見に電話で話したと明かしている。

逸話

  • 「アナウンサーの仕事の中で一番好きな仕事は何か?」と質問された逸見は「インタビュー」であると答えている。実際に『夜も一生けんめい。』や『いつみても平平凡凡』など、トーク番組の司会の仕事経験から「同じインタビューでも、タレントの聞き方とアナウンサーの聞き方はまったく違う自負がある」と発言。また、「『夜も一生けんめい。』で下手な歌を歌っていられるのも、その前のトークパートではきちんと仕事をしているという自信があるからだ」とも発言している。逸見は「自然体だが鋭く切り込んでいく」スタイルのインタビューを理想としていた。自らが取材やインタビューをする立場を経験していることもあり、逆に取材やインタビューを申し込まれた時には、極力受けるようにしていたという。ただし、インタビューへの思い入れの強さもあってか、特に若手の記者・インタビュアーへの評価はかなり厳しかった[2]
  • 一般的に「マジメ」と思われていた逸見だが、著書『新版 逸見政孝 魔法のまじめがね』では、山城新伍とビートたけしの親友2人が揃って「マジメだとは思わない」と述べた。山城は「必要以上に人に気を遣う人。良しにつけ悪しにつけテレビ人間と思える節がある。もう少し無責任になった方がいい」と述べた。また、直接「もう少し悪人になってもいい」とアドバイスしたこともあるとし、本人は笑って否定したという。たけしは「逸見さんみたいな人は、今だからマジメと言われるだけで、昔なら不マジメ。昔は一つのものに集中する人がマジメだったが、逸見さんは色んなことに夢中になっているからね」と述べている。
  • NHK連続テレビ小説青春家族』に俳優として出演した。同ドラマで逸見が演じた岩井一之は、アメリカに永住してビデオレターを送ったりもしたが、アルコール依存症で途中帰国するという役設定だった。この役柄設定は、酒飲みだった三木プロダクションの三木豊常務をモチーフにしたものである[27]
  • NHK紅白歌合戦』の司会を目指していた[28]。なお実際、1991年前後には紅白の白組司会の候補に挙がっていたとされる[29]
  • 時間にルーズな人物を嫌っており、逸見とのプライベートのゴルフで一緒にラウンドする予定だった者が遅刻してきた時には、逸見はその者とプレー中一切口を利かなかっただけでなく、以降その者を二度とゴルフに誘わなかったという[30]

逸見に関するテレビ放映

1993年9月6日15時から行われた「癌告白会見」は日本テレビ系『ザ・ワイド』、TBS系『スーパーワイド』、フジテレビ系『タイム3』で生中継され、大きな反響を呼んだ。

3番組の合計視聴率は30%を超え、3番組の前4週間の合計平均20%台前半を大幅に上回った[31]。この3番組のうち、『ザ・ワイド」と『スーパーワイド』は約30分の会見の全編を途中CM挿入なしで完全中継した。特に『スーパーワイド』は当初全編放映の予定ではなかったにもかかわらず、会見の開始後に急遽全編放映に切り替えたという[32]

逸見が死去した12月25日の午後(12時47分の死去の直後)には、日本テレビとフジテレビで緊急追悼番組が放送された。高視聴率を記録し、視聴者からの強い関心を集めた。

まず日本テレビが13時42分から13時55分に『緊急!逸見政孝さん壮絶ガン死!』を放送。視聴率は2桁に達した[31]。 引き続き日本テレビは15時30分から16時25分にも同タイトルの番組を放送。こちらは20%近い視聴率を記録した[31]

さらにフジテレビでも18時30分から19時54分に『追悼・衝撃のガン告白から110日…逸見政孝さんついに逝く』を放送し、30%に迫る視聴率を記録[31]。そして日本テレビも19時から19時54分に『逸見政孝さん追悼・逸見さん安らかに…あなたの笑顔をいつまでも忘れません』を放送し13時台の放送を上回る視聴率を記録した[31]

19時台には上記2局で逸見の緊急追悼番組が放送される運びとなり、より多くの視聴者からの関心を集めることとなった(視聴率はいずれもビデオリサーチ社・関東地区調べ)[31]

一周忌に合わせて日本テレビでは1994年12月20日に『逸見政孝・メモリアル 特別番組』を21時03分から22時54分に放送。20%を超える視聴率を記録した(ビデオリサーチ社関東地区調べ)[33]

「癌告白会見」の直前の1993年7月23日に『金曜エンタテイメント』で放送された『人間ドキュメント 石原裕次郎物語』では、逸見がナビゲーターを務めたが、奇しくも一周忌が迫った1994年12月23日に、同じ『金曜エンタテイメント』にて、逸見自身の生涯、及び闘病生活を描いたドラマ『人間ドキュメント 逸見政孝物語』が放送され、三田村邦彦が逸見を演じた。

出演

テレビ番組

フジテレビ系

日本テレビ系

TBS系

テレビ朝日系

テレビ東京系

  • 湯原・逸見のゴルフ苦楽部

NHK

映画

CM

書籍

  • マジメまして逸見です Majime it's Me(逸見政孝・著、1985年
  • 素敵します 新装開店 いっつみいさん(逸見政孝・著、1988年ISBN 4062038897
  • 逸見政孝 魔法のまじめがね—ブラウン管は思いやり発信局(逸見政孝・著、1989年ISBN 4890367659
  • 新版 逸見政孝 魔法のまじめがね—ブラウン管は思いやり発信局(逸見政孝・著、1993年
  • ガン再発す(逸見政孝・著、逸見晴恵・補筆、1994年1995年文庫化)ISBN 4331504344

音楽作品

シングル

脚注

  1. ^ a b c d e f g 自著『マジメまして逸見です Majime it's Me』フジテレビ出版、1985年、34-49頁
  2. ^ a b c d e f g 自著『魔法のまじめがね—ブラウン管は思いやり発信局』文芸春秋、1989年、14、15頁
  3. ^ 『マジメまして逸見です Majime it's Me』、51-76頁
  4. ^ Shimon Yuki(松倉悦郎)2016年3月12日の投稿 - Facebook
  5. ^ 後に鹿内の娘婿である鹿内宏明が同局のアナウンサーとなった木幡美子の入社試験での面接の際にも木幡に対して同じ質問を行っている。また木幡の回答も逸見と同じものであった。
  6. ^ 後に自身が司会を務めた『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』で紹介された
  7. ^ 『ガン再発す』(逸見政孝・著、逸見晴恵・補筆)、廣済堂出版、1994年
  8. ^ 『月刊明星』1987年1月号
  9. ^ 三木治著書『天国へのメッセージ-逸見政孝 その出会いから別れまで』によれば、逸見自身はフリーになる前に『なんてったって好奇心』の司会継続を望んでいたが、「退社した人間を複数の番組に起用するのは社風に反する」という当時のフジテレビの意向で『スーパータイム』のみ継続となった。また『スーパータイム』を1年で降板した理由は「報道アナウンサー時代に10年間ポケベルを持たされ、それに振り回される生活をフリーになっても続けたくなかった」ことであり、降板発表の記者会見でも「これでポケベルを持たずに済みます」と発言していた。
  10. ^ ゆうもあ大賞 歴代受賞者 アーカイブ 2016年4月5日 - ウェイバックマシン - ゆうもあ・くらぶ 公式ページ。
  11. ^ 古舘伊知郎、報道ステーションを降板,マイナビスチューデント,2015年12月26日
  12. ^ [1],goo
  13. ^ 晴恵は癌再発を告知するよう依頼するも、執刀医から「逸見との信頼関係を崩すから告知しない」と断固拒否されたという。
  14. ^ 二十三年目の別れ道―はじめて明かす夫・逸見政孝の闘病秘話とそれからのこと(逸見晴恵・著)、フジテレビ出版、1994年
  15. ^ 後に晴恵は、逸見に「お願いですから他の病院で診て貰って下さい!」と土下座してまで頼み込んだというエピソードを明かしている。
  16. ^ 臓器摘出手術に5時間、大腿部から腹部への皮膚移植手術に8時間。
  17. ^ 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月20日閲覧。
  18. ^ “逸見太郎、父・逸見政孝さんの頑固さ受け継ぎ「言ったらやる」 追憶のあの人”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2017年9月30日). オリジナルの2017年10月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171002023329/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170930-OHT1T50099.html 2017年10月2日閲覧。 
  19. ^ 『朝日新聞』、1993年12月26日付朝刊、23面。
  20. ^ 一般的にはS-1とシスプラチンによる術前補助療法と術後抗癌剤逐次投与を組み合わせた治療が有用であるとされる。ただし、遠隔腹膜転移がある場合は、手術適応外ー胃癌取扱い規約第12版P2/P3ーとされる。
  21. ^ 慶應義塾大学医学部近藤誠教授は、前田外科病院と東京女子医科大学の治療・手術方法の問題点を自著『がんは切ればなおるのか』(1998年、新潮文庫)で指摘しており、同著で「同年2月の手術の段階の病状でいかなる治療を受けても助かる見込みは100%なかった」「この際に手術を行わなければ、あと数年は生きられた」と述べている。
  22. ^ 晴恵の著書『二十三年目の別れ道—はじめて明かす夫・逸見政孝の闘病秘話とそれからのこと』の表紙にもこの写真が使われている。
  23. ^ 爆報!THE フライデー|2015/02/20(金)19:00放送|TBS”. TVでた蔵. 富士ソフト. 2017年6月3日閲覧。
  24. ^ なお、追悼番組は『幽☆遊☆白書』を休止し、18:30からの90分番組として、須田哲夫大坪千夏の司会で放送された。
  25. ^ 『平成教育委員会』の初代プロデューサー。
  26. ^ この他には、『3時のあなた』で共演した坪内ミキ子や『FNNスーパータイム』で共演した長田渚左、『平成初恋談義』司会の板東英二と森口博子(両者とも途中から)が出演した。
  27. ^ 三木治著書『天国へのメッセージ―逸見政孝 その出会いから別れまで』(1994年7月刊)
  28. ^ 牧山泰之『想い出の紅白歌合戦』、32頁。
  29. ^ 1991年に『ザテレビジョン』が誌上で「紅組司会:山田邦子、白組司会:逸見」と同年の『第42回NHK紅白歌合戦』の両組司会の人選予想を行っていた。
  30. ^ 『天国へのメッセージ—逸見政孝 その出会いから別れまで』134-138頁。
  31. ^ a b c d e f 日本民間放送連盟編集『日本民間放送年鑑'94』項目名「逸見ガン宣言とその死」 102頁に詳細 コーケン出版 1994年
  32. ^ 『逸見政孝さんの生きかた—48年の人間記録 あなたは新たなる自分を発見する』、P119
  33. ^ 『毎日新聞縮刷版1994年12月』 毎日新聞社 1994年12月30日付朝刊、1061頁 視聴率(ビデオリサーチ)
  34. ^ クイズ・太平洋”. NHKクロニクル. NHK. 2016年7月6日閲覧。

参考文献

  • マジメまして逸見です Majime it's Me(逸見政孝・著、1985年
  • 素敵します 新装開店 いっつみいさん(逸見政孝・著、1988年ISBN 4062038897
  • 逸見政孝 魔法のまじめがね—ブラウン管は思いやり発信局(逸見政孝・著、1989年ISBN 4890367659
  • 新版 逸見政孝 魔法のまじめがね—ブラウン管は思いやり発信局(逸見政孝・著、1993年
  • ガン再発す(逸見政孝・著、逸見晴恵・補筆、1994年1995年文庫化)ISBN 4331504344
  • 逸見政孝さんの生きかた—48年の人間記録 あなたは新たなる自分を発見する(人物データ研究会・編、1994年)
  • 天国へのメッセージ—逸見政孝 その出会いから別れまで(三木治・著、1994年)
  • 二十三年目の別れ道—はじめて明かす夫・逸見政孝の闘病秘話とそれからのこと(逸見晴恵・著、1994年、2003年文庫化)
  • ゴンドラの詩—父が遺してくれたもの—(逸見愛・著、1995年)
  • 息子への遺書(てがみ)—夫・逸見政孝が遺した家族への愛と絆(逸見晴恵・著、1995年、2003年文庫化)
  • がんは切ればなおるのか(近藤誠・著、新潮社1995年 ISBN 41040810191998年文庫化 ISBN 4101245215

関連項目

  • 原國雄板倉俊彦 - 早稲田大学時代のアナウンス研究会の同僚・同期。逸見や同じく同期の松倉とともに放送局のアナウンサーとなった。

外部リンク