藤川球児
阪神タイガース #18 | |
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阪神時代・第1期(2011年3月9日、阪神甲子園球場) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 高知県高知市 |
生年月日 | 1980年7月21日(43歳) |
身長 体重 |
184 cm 86 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1998年 ドラフト1位 |
初出場 |
NPB / 2000年3月31日 MLB / 2013年4月1日 |
年俸 |
1億5,000万円(2016年) ※2016年から2年契約 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2008年 |
WBC | 2006年、2009年 |
この表について
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藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、阪神タイガースに所属する高知県高知市出身のプロ野球選手(投手)。血液型はO型。右投げ左打ちで、実兄の藤川順一は、かつて四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスのゼネラルマネージャーを務めていた。
1999年から2012年まで阪神に在籍した後に、2013年から2015年の5月まで、シカゴ・カブスおよびテキサス・レンジャーズの投手としてメジャーリーグ公式戦に登板した。高知での日本球界復帰(2015年6月 - 9月)を経て、2016年シーズンから阪神に4年振りに復帰。
経歴
阪神への在籍期間のうち、1999年~2012年シーズンは便宜上「第1期」、2016年シーズン以降は「第2期」と表記する。
プロ入り前
父が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため球児と名付けられた[1][2][3]。少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代に遊撃手から投手にコンバートされた。幼少期はぜんそくを患っているなど決して丈夫な体ではなかった。1993年4月、高知市立城北中学校に入学。同じ体育会系の陸上部に所属していた広末涼子とは同級生。
高知商業高校に進学し、2年生の時に第79回全国高等学校野球選手権大会に右翼手兼控え投手として兄の順一との兄弟バッテリーで出場、2回戦で川口知哉を擁する平安高校に敗れた[3]が、豊田大谷高校の古木克明と共に2年生では2人だけ高校日本代表に選出された。高校時代は寺本四郎、土居龍太郎らと共に高知三羽烏と呼ばれていた。
1998年のプロ野球ドラフト会議で阪神から1位指名を受け入団。この時の背番号は「30」であった。入団発表の記者会見では、当時の監督の野村克也にビッグマウス気味な話術を褒められた。
阪神時代・第1期(1999 - 2012年)
プロ1年目の1999年は体力強化を中心に過ごし、二軍でも3試合の登板にとどまった。
2000年にフレッシュオールスターゲームに選出されてリリーフで登板し、初めて一軍登録もされてプロ初登板を果たしたが、野村監督の期待に応えることはできなかった。同年、高校時代から交際していた女性と結婚して同学年・松坂世代のプロ野球選手で最初の既婚者となった。
監督が星野仙一に代わった2002年から背番号を名前の「きゅうじ」に掛けた「92」に変更。先発投手として積極的に起用されて12試合に登板し、9月11日の対ヤクルトスワローズ戦で8イニングを1失点に抑えて初勝利を挙げ、フレッシュオールスターゲームのウエスタン・リーグ先発投手も務めたが、同年は前出の1勝のみで先発ローテーションに定着することはできず、2003年までは目立った成績を残せなかった。
2003年のファーム日本選手権ではセーブを記録し胴上げ投手になったが、日本シリーズでは登板機会がなかった。なおこの年に球団から戦力外通告を受ける可能性があった事が、同年オフにコーチから昇格して新監督となった岡田彰布によって明かされている[4]。
2004年5月、肩の故障もあって二軍生活を送っていた頃、当時二軍投手コーチだった山口高志のアドバイスを受けフォームを改造し[3]、高校の先輩でもある一軍投手コーチの中西清起の助言で[3]中継ぎに転向した。このフォーム改造・ポジション転向によってシーズン後半には一軍に定着。31回を投げて35三振を奪った。
2005年、背番号を「22」へ変更。この時「佐々木さん、高津さんと同じ背番号で光栄です」と語っている。JFKの一角としてセットアッパーを務め、6月14日から7月20日にかけてプロ野球記録となる17試合連続ホールドを記録し、6月には月間MVPを受賞。オールスターゲームのファン投票では中継ぎ投手部門1位で初出場を果たした。チームがリーグ優勝を決めた9月29日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦では、当時のシーズン最多登板記録を更新する79試合目の登板をし、最終的に登板数は80試合を記録。また、同年53ホールドポイントで初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得した。4月21日の対巨人戦7回裏二死満塁で清原和博に対してフルカウントからフォークボールで三振に打ち取ったが、試合後には清原から「フルカウント二死満塁の場面でフォークを投げるような逃げ腰のピッチングをするような臆病な投手には男性器がついていない」という趣旨[3]の罵倒を受けた。しかし、藤川は「あの一件のおかげで、僕はストレートにこだわるようになった。自分を常に磨かないといけないと思うようになった」[3]とこれに発奮し、6月25日に再び清原と対戦した際、今度はストレートで三振を奪った。これに清原は「完敗。僕が20年間見てきた中で、最高のストレートです」[3]と藤川を絶賛した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは第3戦で登板し、橋本将にタイムリー二塁打にされ降板し、チームは敗れた。翌日の第4戦も敗れ、4連敗でシリーズを終えた。
2006年はWBC日本代表に選ばれた。背番号は、同じ「22」を着ける球界の先輩里崎智也に配慮して「24」を選んだ[1]。対アメリカ戦ではアレックス・ロドリゲスのバットを直球で折った。シーズンに入ると前年同様に中継ぎでスタートしたが、6月に抑えの久保田智之が怪我で離脱したことに伴い、抑えに定着。7月4日の対横浜ベイスターズ戦で35試合連続無失点となり、豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新したが、翌7月12日の対広島東洋カープ戦で失点し、連続無失点試合数は38, 連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日のオールスターゲーム第1戦では登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、先頭打者のアレックス・カブレラへの投球前に、全球ストレートを予告し、一回もバットに当てさせず空振り三振に取り、続く小笠原道大に対しても全て直球を投じて空振り三振に打ち取った。7月23日の第2戦では、同年からオリックス・バファローズに移籍した清原と再び対決。全て直球で空振り三振に取り、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。同年は阪神と中日ドラゴンズが優勝を争う状況だったが、阪神はオールスター終了後の7月下旬以降なかなか勝てず、堅実に勝ち星を積み重ねる中日に8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。8月12日に首の寝違えにより登録抹消されていた藤川は8月27日の対巨人戦で8回から復帰後初登板して勝利投手となりお立ち台に立つと、マスメディアからの批判やファンの野次に対して「選手も必死でやっているということを分かって下さい」と涙を流しながらコメントした。結局チームは優勝を逃したが、藤川自身は2年連続の最優秀中継ぎ投手を獲得した。
2007年は開幕から抑えとして安定した投球を見せた。7月20日のオールスター第1戦ではセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場し、「僕の変化球なんか誰も見たくないでしょ?」と全て直球勝負で2三振を奪い、試合を締めた。9月7日の対巨人戦ではリリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤にはセ・リーグ記録となる10試合連続登板をして2勝7セーブ、防御率1.80で、チームは10連勝した。10月3日のチーム最終戦で日本タイ記録(前々年の岩瀬仁紀と並ぶ、右投手としては新記録)となる46セーブ目を挙げ、初の最多セーブ投手を獲得。オフには球団にポスティングシステムの行使を申請し、「自分の気持ちにウソをついたまま来年プレーするのがイヤだった」として[5]メジャーリーグ (MLB) 挑戦を希望していることを表明したが、ポスティング行使は球団に拒否された[6]。
2008年はオールスターゲーム前までに30セーブを挙げ、オールスター直後の北京オリンピック野球日本代表に選ばれ、星野仙一監督の構想した7・8・9回を担当する「トリプル抑え」の一角として指名された。五輪では準決勝の対韓国戦で2対1とリードした7回から登板したが同点打を浴びた。帰国後は同点時や大差のリード時などのセーブのつかない場面や、2イニングのロングリリーフなど、起用法は過酷になったが終始安定した投球で応え、9月25日の対横浜戦で通算100セーブを達成。しかし、中日とのクライマックスシリーズファーストステージでは、1勝1敗で迎えた3試合目で9回にタイロン・ウッズに決勝打を浴びてチームは敗退。オフには年俸4億円で契約更改し「メジャー挑戦の思いは持ち続けるが、阪神に入って10年。酸いも甘いも知った。来年はもう1回、阪神で巨人を倒したいという気持ちが強い」と語った[7]。
2009年は2大会連続で第2回WBC日本代表に選ばれた。背番号「22」をつけ、1次予選・2次予選の4試合に登板して防御率0.00と結果を残した。しかし、直球が走らずにたびたび走者を出すなど内容が不安定だったことから、準決勝と決勝ではダルビッシュ有が抑えを務め、自身は登板なしに終わった。この際、抑えの経験がないダルビッシュに求められ気構えや調整方法などについて助言した。大会終了後、この起用法に不満があるとして日本代表を引退するかのような報道が多数された[8][9][10]が、後日自身の公式サイト内のブログで「悔いが残るとか、準決勝・決勝と連投して胴上げ投手になりたいという発言は一切していない」「代表を引退するとも言っていない」と報道を完全否定した[11][12]。レギュラーシーズンでは、5月途中の時点で早くも3敗を喫するなど不調にあえぎ、前年までと比較して登板数が大きく減少したが、6月以降は負けなしの5勝3敗25セーブでシーズンを終え、3年連続20セーブを達成した。この年のオフも「あえてしゃべらなくても、やることは同じ。どんな状況でも全力で前を向いてトライしていかないといけない。ポスティングは交渉の中で伝えていこうと思う。球団の了承がない限りメジャーに行けない」として2011年以降のメジャー挑戦のためポスティングシステムの行使を球団に申請したが、「やすやすとは出したくない。ビジネス以前の問題」として拒否された[13][14]。
2010年は開幕から16試合連続無失点を記録し、例年以上の好調ぶりを見せた。この年は他の中継ぎ投手の不調でセットアッパーが固定できず、交流戦と夏場を中心に、本来の抑え投手の役目に加えてセットアッパーのポジションも兼任することとなった。結果として例年よりイニングをまたぐ登板が増え、1イニング以上の登板した試合はシーズン全体で12試合に及んだ[15]。4月13日東京ドームでの対巨人戦で、通算セーブ数で山本和行の130セーブを抜き、歴代単独14位と球団記録を達成した。ファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で6年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦の9回に登板し、里崎智也・片岡易之・中島裕之を迎えて投じた16球全て直球で、三者連続三振に仕留めた。9月5日の対広島戦で通算150セーブを達成。9月に入ると久保田の復調でイニングまたぎ登板は減ったが、制球が定まらず9月だけで2本の逆転被本塁打を打たれたり、それ以外でもピンチを招く場面がたびたびあった。この年の被本塁打はプロ入り後ワーストの7本を数え、防御率・WHIPはそれぞれ2.01と1.08で、いずれも中継ぎに定着した2005年以降では最低の数字であった。
2011年も抑えとして活躍し、前半戦は26試合に登板して防御率0.76(自責点2)で昨年に続いてファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で7年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦では2007年同様にセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場して試合を締めた。8月25日の対巨人戦で同点の場面で登板し3者連続三振で1回を抑え、この登板で通算100ホールドを記録し、史上初の通算100ホールド・100セーブの2つを達成した投手となった。10月21日の対横浜戦でセーブを挙げ4年ぶりの40セーブに達し、最終的に41セーブを挙げて二度目の最多セーブ投手を獲得した。オフにはこの年取得した国内FA権を行使せず残留。契約更改の交渉でも球団から2,000万アップの年俸4億2千万円を提示されたが、優勝を逃したことを理由に固辞し、翌年の海外FA権取得を見据えての単年契約の4億+出来高払いで更改した[16]。
2012年は、この年からチームがキャプテン制度を定めたのに伴い、野手キャプテンの鳥谷敬と並んで投手キャプテンに選ばれた。この年も抑えとして活躍し、4月11日の対広島戦で通算200セーブを達成した。オフには海外FA権を行使し、「2007年のオフに初めてお話しさせていただいた、メジャーリーグへの思いはずっと抱き続けておりました。今年に入ってからはすべての可能性を考え、熟慮した末、やはり、長年の目標に挑戦したい気持ちは強く、考えが変わることはありませんでした」として[17]、アーン・テレムと団野村を代理人としてMLB挑戦を表明した[18]。
カブス時代
2012年12月2日にシカゴ・カブスと2年総額年俸950万ドル+出来高(3年目は年俸550万ドルの球団オプション。交代完了が一定数以上の場合は年俸600万ドルで自動更新)で契約合意し[19]、12月7日に契約。背番号は「11」となった。入団会見では「すべてが挑戦。しっかりと結果を出すために努力を重ねたい」と語った[20]。
2013年、渡米前に羽田空港で「向こうで(現役の)最後までやるつもりでやってくる」と語った[21]。開幕戦となった4月1日の対ピッツバーグ・パイレーツ戦の9回二死の場面でメジャー初登板し、2球でメジャー初セーブを挙げた[22][23]。4月7日には不振のカルロス・マーモルに代わりクローザーとして起用されることが発表された[24]。4月12日の対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦では2点リードの場面で登板し、3安打1死球1暴投の3失点で逆転を許した[25]ものの、その裏に味方が逆転したためメジャー初勝利を挙げた[25]。しかし、13日に右前腕部の張りで故障者リスト入り[26]。5月10日の対ワシントン・ナショナルズ戦で復帰し、復帰後は7試合の登板で防御率1.17・WHIP 0.55と好投を続けていたが、5月26日の対シンシナティ・レッズ戦で右前腕部の張りを再発させ降板した[27]。トミー・ジョン手術を受けることが5月29日に球団から発表され[28][29][30]、6月11日に手術を受けてシーズンを終えた[31]。
2014年3月30日に前年の手術の影響で、15日間の故障者リスト入りし[32]、5月3日に60日間の故障者リストへ異動した[33]。7月16日にリハビリのためA級ケーンカウンティ・クーガーズに異動[34]。8月6日に故障者リストから復帰した[35]。オフにFAとなった。
レンジャーズ時代
2014年12月16日に年俸100万ドル+出来高の1年契約(翌年の契約は年俸200万ドル+出来高の球団オプション)でレンジャーズと契約[36]。背番号は「21」となった[37]。
2015年、右脚付け根の張りで故障者リスト入りして開幕を迎えた[38]。5月14日に復帰し移籍後初登板[39]。しかし2試合の登板で3失点を喫した[40]のち17日にDFAとなって40人枠から外れ、22日に自由契約となった。
独立リーグ・高知時代
レンジャーズを自由契約となったあと、古巣・阪神が先発投手として獲得を調査していることが報じられ[41]、2015年6月1日付の『スポーツ報知』では「阪神復帰が決定的」とも報じられた[42]。しかし、「地元の子どもたちに夢を与えたい」との思い[43]から出身地である高知で野球人生を再スタートすることにし[44]、阪神からのオファーを拒否[45]して四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスに入団を決めた[46]。これには、かつての藤川のチームメイトであり、当時阪神球団の駐米スカウトを務めていたジェフ・ウィリアムスおよびアンディ・シーツ両名のシビアな報告に球団側が及び腰になっていたことが背景にあった、と報じるメディアもあった[47]。
6月8日に高知市内で開かれた入団記者会見では、登板する試合ごとに高知と契約を結ぶ形となり、藤川自身は無報酬であること、また登板試合のチケット売上から10%を児童養護施設に寄付することを発表する一方、オファーがあればNPBに復帰する可能性については否定しなかった[48]。高知と藤川との間に契約文書はなく、試合外での行動については球団ではなく藤川の所属するエイベックス・スポーツが管理する異例の形であった[49]。
6月20日に高知市野球場で行われた香川オリーブガイナーズ・徳島インディゴソックス連合チームとのオープン戦に先発し、4回を1失点という内容であった[50]。2015年シーズンのNPB復帰期限だった7月31日までにオープン戦3試合に登板したが、NPB球団との契約には至らなかった[51]。これに伴い、高知球団は8月4日に藤川と、リーグの基準に従った形で後期シーズン(ポストシーズンを含む最終戦まで)の契約を締結した[52]。ただし、引き続き報酬は受け取らない条件で、以前同様常時チームには帯同しないと報じられている[53]。8月6日の対徳島戦に先発し、リーグ公式戦に初登板したが、先頭打者への5球目の投球が頭部に接触したため「危険球」として退場処分になった[54]。翌8月7日の対愛媛戦で、チームが6-2とリードした5回から登板し、5イニングを無失点・12奪三振の内容で、アイランドリーグ公式戦で初勝利をあげた[55]。地元の高知で開かれた9月7日の対香川戦では、先発投手として登板すると、被安打3の完封で2勝目を記録[56]。公式戦での完封勝利は、阪神の投手としてウエスタン・リーグ公式戦で2完封勝利を挙げた2000年以来15年振りであった[57]。
球団では9月10日に、藤川との契約を2015年シーズン限りで終了することを発表。当初は、最終登板として、同月16日の対徳島戦での先発を予定していた[58]。しかし、発表直後に左足首を痛めたため先発を回避。同カードおよび、チームのシーズン最終戦(同月17日の対香川戦)ではベンチに入ったものの、登板機会のないままシーズンを終えた[59]。
在籍中には、古巣の阪神を含めて、複数のNPB球団関係者が藤川の投球を視察[60]。契約期間の満了直後には、中日やヤクルトが、藤川の獲得を視野に調査を進めていることが報じられた[61][62]。
阪神時代・第2期(2016年 - )
阪神では、渡米前のチームメイトだった金本知憲が、2015年10月17日に一軍監督へ就任。金本は監督就任の直後に藤川へ接触するとともに、球団として復帰を受け入れる姿勢を改めて示した[63]。ヤクルトも水面下での交渉で藤川サイドに2年契約を提示していたが、条件面などで折り合いが付かなかったこと[64]から、藤川は阪神への復帰を決断。11月14日には、阪神との入団契約で合意に達したことが球団から発表された[65][66]。契約期間は2年で、期間中の年俸総額は推定4億円[67]。同月24日には、球団と正式に契約を結んだ後に、入団記者会見で背番号18の付いたユニフォーム姿を披露した[68][69]。
首脳陣は藤川の復帰が決まった時点で、2014年から藤川の渡米前の背番号(22)を着用していたクローザー・呉昇桓の残留を前提に、藤川へ先発陣の一角を担わせることを構想。一軍投手コーチの香田勲男も、藤川に対して先発向けの調整を求めた[70]。ちなみに金本は、藤川の役割について、「先発の準備をしておけば途中から中継ぎにいける(転向できる)。中継ぎの準備しかしていなかったら、先発(への転向)はしんどい」と説明している[71]。
もっとも、阪神球団では、2015年12月2日公示の保留選手名簿に呉を掲載せず、自由契約選手として同月11日に呉との残留交渉終了を発表した(この事情は呉昇桓参照)。藤川自身も、先発以外の役割も担う姿勢を示している[72]。
2016年には、先発投手としての調整を春季キャンプ以降も継続。オープン戦では、3月6日の対巨人戦(甲子園)でNPB復帰後初登板を果たす[73]と、先発でチーム最多の2勝を挙げた。レギュラーシーズンでは、中日との開幕カード第3戦(3月27日・京セラドーム大阪)で、先発投手としてNPB復帰後初の公式戦登板[74]。4月3日の対DeNA戦(横浜)にも先発すると、6回を2被安打無失点という好投で、NPB復帰後初めて公式戦の勝利投手になった。NPB一軍公式戦での先発投手としては、2003年9月19日の対巨人戦(東京ドーム)以来、自身4580日振りの勝利であった[75]。
選手としての特徴
オーバースローから投じる「火の玉ストレート」と呼ばれる[76]平均球速約149 km/h[77]、最速156 km/hのストレート[78]を最大の武器とし、フォークとカーブも混ぜる[79]。ストレートは手元で浮き上がるような伸びを特徴とし[80]、一軍に定着した2005年からの日本通算奪三振率は12.81という高い数字である。
2004年に当時の二軍投手コーチの山口高志から「上から投げ下ろすようにボールをたたきつけて投げろ」というアドバイスを受け、下半身を使い、しなりを残しながらも右ひざをあまり折らずにタメを作って投げ下ろすフォームで軸足の使い方を覚えたことから球速が急激に増加した[80][81]。
ストレートを投げる時のボールの握りは人差し指と中指の間を完全にくっつけて握る[80]。リリース時にはボールを潰すような感覚で投げ[76]、「ピンポン玉のように浮き上がれ」と意識するという[80]。また、できるだけ前でボールをリリースするために7足の広いストライドを作っている[80]。さらにタイミングをズラすために、打者の振り出してくるタイミングとキャッチャーミットにボールが届くまでの時間を体で感じながら、体の開きや腕の振り、リリースポイントを微妙に変えているという[80]。
2011年は平均球速が約147 km/h[79]に落ち[78]、それまでリーグ平均約8パーセントに対し30パーセント近い数字を記録していたストレートでの空振り率も20パーセント弱に落ちた[78]。しかし、フォークでの空振りが増え[81]、奪三振率は12.59と高い数字を保った。トミー・ジョン手術から復帰した2014年からは平均球速90.6 mph(約145 km/h)[注釈 1]とさらに微減した[82]。
ストレートに関する調査
日刊スポーツによる調査
『日刊スポーツ』大阪版が独自にスピードガンで計測した2006年のオールスター第2戦でのマーク・クルーンと藤川のストレートを比較では、初速と終速の差はクルーンがおおむね10 km/h前後で藤川はおおむね13 km/h前後だった。藤川とクルーンのリリースポイントを調べると藤川の方が10 cm前だった。藤川は身長184 cmでクルーンは188 cmと大きな差はないが、ABCラジオでのアナウンサーの取材によると、平均的投手は踏み出す足をプレートから6足半の場所に置くが、藤川は7足目であった[80]。
テレビ朝日による調査
『報道ステーション』では、ボールに回転を過剰にかけることによりマグヌス効果を発生させ、進行方向に対して垂直上向きの揚力を発生させることにより一般の選手よりもボールの落下を減らし、打者にボールの下を空振りさせているのではないかという仮説が提唱された。調査の結果、プロ野球選手15人のストレートの回転数の平均値が1秒間に37回転 (37 rps) であるのに対し、藤川のストレートは45回転 (45 rps) していた。また、一般的な投手のリリース時のボールが水平軸に対する回転軸の傾きが約30度なのに対し、藤川の場合は約5度と、リリースしたボールの回転軸の傾きが少ないため、さらに効率的にボールに揚力が発生していることが判明した。
理化学研究所によるコンピュータシミュレーションの結果、これらの要素を加味した場合、藤川のストレートは最大で一般的なプロ野球の投手のストレートに比べ30 cmも落差に差が付くことから、他の投手のストレートの感覚で打者がスイングした場合、ボールがバットに全く当たらないことが実証された。
人物
巨人に所属していた投手・斎藤雅樹の大ファン。「野球を始めたきっかけの人。あの人がいなかったら野球をやっていなかった」と語り、グラブとマジックを持ってサインをもらいにいったことがある[83]。
広末涼子とは中学時代の同級生。阪神入団時には「自分のことのようにうれしく思っています」とコメントされ、激励の手紙も受け取っている[80]。
中学時代には鏡川に転落した男性の救助活動をしたことで、仲間3人とともに感謝状を受けている[84]。
スコアボード表示名
阪神時代には、第1期の2010年に同姓の藤川俊介が入団した。本来なら区別のためスコアボードなどの表記が「藤川球」となるところであったが、本人の希望を理由に、表記は「藤川」のままにすることが2010年1月22日の契約合意時に決定された[85]。そのため、2010年シーズンは藤川球児が「藤川」、藤川俊介が「藤川俊」として区別されていたが、報道では「藤川球」または「球児」と表記されることが多かった。なお、藤川俊介が登録名を「俊介」に変更した2011年からは、登録名・報道での表記とも「藤川」に統一された[86]。
兄・順一と同時に出場した高知商業高校時代の1997年夏の甲子園大会では、甲子園球場のスコアボードで「藤川球」(兄は「藤川順」)という表記を使用していた。
登場曲
- 「every little thing every precious thing」
阪神主催試合での登場テーマ曲は、夫人と結婚する前からの2人の思い出の曲である、LINDBERGの「every little thing every precious thing」だった。この曲が流れると、スタンドでは多くの阪神ファンがメガホンを曲に合わせて左右に振りながら歌っている光景が見られた。サンテレビ野球解説者の中田良弘は「(他の選手がアップテンポな曲を使う中)藤川投手はかわいらしい曲を選びますね」とコメントした。なお、2007年には藤川と同郷であるスーパーバンドの「笑顔のゆくえ」が併用されることになったが、こちらは結局一度も使われなかった。
2007年3月14日に読売テレビ系『HEROたちの音色』(同年4月1日放送)の企画で、リンドバーグのボーカル渡瀬マキと甲子園で初対面し対談。それによれば、藤川は観客やファンにどうしたら自分を表現できるかをずっと考え、そのために夫人が大好きな曲で、自身も歌詞と歌声に感激したため登板する際のテーマ曲に決めたという。ブルペンから出て行く時、曲が始まってから出るタイミングを決めており、歌詞の一部分で一瞬に気力を高めるという。これを聞いて感激した渡瀬に、藤川は同年使っていた『気力一瞬』の刺繍が入った自身のグラブをプレゼントした[87]。同年8月1日には、藤川が甲子園球場のマウンドで投げている姿の写真をジャケットに使った再発盤シングルを発売。初週で3629枚を売り上げるとともに、オリコンCDシングルウィークリーチャートで初登場38位を記録した。2016年の阪神復帰後も、ファンの意向を受けて、この曲を登場曲に使用している[88]。
- 「Don't leave me」
島田紳助が司会のクイズ番組『クイズ!ヘキサゴンII』で結成された里田まい with 合田家族の「Don't leave me」は藤川をイメージした曲で、藤川の許可なく作られたものであったが、この縁から2009年7月16日の阪神甲子園球場での対中日戦では、合田家族のメンバーである里田まい、神戸蘭子、misonoが始球式に登場した。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000 | 阪神 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 113 | 22.2 | 25 | 1 | 18 | 3 | 4 | 25 | 4 | 0 | 15 | 12 | 4.76 | 1.90 |
2002 | 12 | 12 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | -- | .167 | 285 | 68.0 | 56 | 6 | 30 | 0 | 2 | 64 | 4 | 0 | 33 | 28 | 3.71 | 1.26 | |
2003 | 17 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 126 | 29.1 | 28 | 4 | 12 | 1 | 1 | 19 | 2 | 0 | 12 | 11 | 3.38 | 1.36 | |
2004 | 26 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 129 | 31.0 | 26 | 3 | 11 | 0 | 2 | 35 | 0 | 0 | 10 | 9 | 2.61 | 1.19 | |
2005 | 80 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 1 | 1 | 46 | .875 | 349 | 92.1 | 57 | 5 | 20 | 1 | 1 | 139 | 5 | 0 | 20 | 14 | 1.36 | 0.83 | |
2006 | 63 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 17 | 30 | 1.000 | 306 | 79.1 | 46 | 3 | 22 | 2 | 0 | 122 | 5 | 0 | 6 | 6 | 0.68 | 0.86 | |
2007 | 71 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 46 | 6 | .500 | 313 | 83.0 | 50 | 2 | 18 | 4 | 1 | 115 | 2 | 0 | 15 | 15 | 1.63 | 0.82 | |
2008 | 63 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 1 | 38 | 5 | .889 | 249 | 67.2 | 34 | 2 | 13 | 3 | 3 | 90 | 3 | 0 | 6 | 5 | 0.67 | 0.69 | |
2009 | 49 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 3 | 25 | 3 | .625 | 217 | 57.2 | 32 | 4 | 15 | 2 | 1 | 86 | 0 | 0 | 9 | 8 | 1.25 | 0.82 | |
2010 | 58 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 28 | 5 | .429 | 257 | 62.2 | 47 | 7 | 20 | 2 | 5 | 81 | 1 | 0 | 14 | 14 | 2.01 | 1.08 | |
2011 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 41 | 5 | .500 | 193 | 51.0 | 25 | 2 | 13 | 1 | 1 | 80 | 3 | 0 | 9 | 7 | 1.24 | 0.75 | |
2012 | 48 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 24 | 2 | .500 | 189 | 47.2 | 34 | 1 | 15 | 1 | 2 | 58 | 2 | 0 | 7 | 7 | 1.32 | 1.03 | |
2013 | CHC | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 2 | 1 | .500 | 50 | 12.0 | 11 | 1 | 2 | 0 | 2 | 14 | 2 | 0 | 7 | 7 | 5.25 | 1.08 |
2014 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 64 | 13.0 | 18 | 2 | 6 | 2 | 2 | 17 | 2 | 0 | 8 | 7 | 4.85 | 1.85 | |
2015 | TEX | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 8 | 1.2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 3 | 3 | 16.20 | 1.20 |
NPB:12年 | 562 | 14 | 0 | 0 | 0 | 42 | 25 | 220 | 102 | .627 | 2726 | 692.1 | 460 | 40 | 207 | 21 | 22 | 914 | 31 | 0 | 156 | 136 | 1.77 | 0.96 | |
MLB:3年 | 29 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 2 | 1 | .500 | 122 | 26.2 | 31 | 4 | 8 | 2 | 5 | 32 | 4 | 0 | 18 | 17 | 5.74 | 1.46 |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録
タイトル
- NPB
表彰
- NPB
- 最優秀バッテリー賞:1回(2005年、捕手:矢野輝弘)
- 最優秀バッテリー賞(特別賞):1回(2008年)
- 月間MVP:2回(2005年6月、2008年9月)
- JA全農Go・Go賞:1回(救援賞:2008年6月)
- ゴールデンスピリット賞:1回(2012年)
- 若林忠志賞:1回(2012年)
- オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2005年第2戦)
- オールスターゲーム・ベストピッチャー賞:1回(2008年第2戦)
記録
NPB
- 投手記録
- 初登板:2000年3月31日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、3回裏に2番手で救援登板、2回無失点
- 初奪三振:同上、3回裏に谷繁元信から空振り三振
- 初先発:2002年7月21日、対横浜ベイスターズ18回戦(横浜スタジアム)、4回2失点
- 初勝利・初先発勝利:2002年9月11日、対ヤクルトスワローズ26回戦(明治神宮野球場)、8回1失点
- 初ホールド:2005年4月6日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、6回裏1死に3番手で救援登板、1回1/3を無失点
- 初セーブ:2005年9月9日、対広島東洋カープ17回戦(阪神甲子園球場)、8回表2死に3番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点
- 100セーブ:2008年9月25日、対横浜ベイスターズ22回戦(阪神甲子園球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上21人目
- 150セーブ:2010年9月5日、対広島東洋カープ20回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、8回裏2死に3番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点 ※史上10人目
- 500試合登板:2011年8月28日、対東京ヤクルトスワローズ13回戦(阪神甲子園球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点でセーブ投手 ※史上87人目
- 200セーブ:2012年4月11日、対広島東洋カープ2回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上5人目
- 打撃記録
- 初安打:2002年8月11日、対中日ドラゴンズ20回戦(ナゴヤドーム)、3回表に山本昌から左前安打
- 初打点:2010年9月5日、対広島東洋カープ20回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、9回表に岸本秀樹から左前適時打
- その他の記録
- シーズン46セーブ:2007年、岩瀬仁紀と並ぶプロ野球タイ記録
- 17試合連続ホールド:2005年、エディソン・バリオスと並ぶプロ野球タイ記録
- 47回2/3連続無失点:阪神タイガース球団記録
- 開幕以降11試合連続セーブ:阪神タイガース球団記録
- 38試合連続無失点:セ・リーグ記録
- 10試合連続登板:セ・リーグ記録(2007年8月30日 - 9月9日)
- オールスターゲーム出場:8回 (2005年 - 2012年)
MLB
- 投手記録
- 初登板・初セーブ:2013年4月1日、対ピッツバーグ・パイレーツ1回戦(PNCパーク)、9回裏に4番手で救援登板、0回 1/3を無失点
- 初ホールド:2013年4月4日、対ピッツバーグ・パイレーツ3回戦(PNCパーク)、8回裏に4番手で救援登板、1回無失点
- 初奪三振:同上、8回裏にギャレット・ジョーンズから空振り三振
- 初勝利:2013年4月12日、対サンフランシスコ・ジャイアンツ2回戦(リグレー・フィールド)、9回裏に3番手で救援登板、1回を3失点
独立リーグ時代の成績
年 度 |
球 団 |
防 御 率 |
登 板 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
投 球 回 |
打 者 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
奪 三 振 |
与 四 球 |
与 死 球 |
失 点 |
自 責 点 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2015 | 高知 | 0.82 | 6 | 2 | 1 | 0 | 2 | 1 | 0 | 33.0 | 124 | 21 | 1 | 47 | 3 | 3 | 5 | 3 | 0 | 0 |
通算:1年 | 0.82 | 6 | 2 | 1 | 0 | 2 | 1 | 0 | 33.0 | 124 | 21 | 1 | 47 | 3 | 3 | 5 | 3 | 0 | 0 |
背番号
- 30 (1999年 - 2001年)
- 92 (2002年 - 2004年)
- 22 (2005年 - 2012年)
- 11 (2013年 - 2014年、2015年6月 - 同年終了)
- 21 (2015年4月 - 同年5月)
- 18 (2016年 - )
関連情報
著書
- 未熟者(ベースボール・マガジン社)2009年3月 ISBN 9784583101569
脚注
注釈
出典
- ^ a b 原点の原点…球児 背番号「24」(デイリースポーツ)
- ^ 1999年 (平11) 藤川球児、故郷で大物女優とバッタリ「標準語だった」日めくりプロ野球(スポーツニッポン)
- ^ a b c d e f g 松下雄一郎『藤川球児 ストレートという名の魔球』ワニブックス、2007年。ISBN 978-4-8470-1752-0。
- ^ 第1部プロ野球のドラフト1位たちが告白「これで終わった」自分の心が折れた瞬間、週刊現代2013年1月19日号
- ^ 阪神球児が来オフのメジャー移籍を直訴 日刊スポーツ、2007年12月12日
- ^ 球児、契約更改でメジャー移籍直訴 日刊スポーツ、2007年12月13日
- ^ 4億円球児「メジャーより打倒巨人」 日刊スポーツ、2008年12月17日
- ^ 準決、決勝出番なし…球児 代表引退を示唆 スポーツニッポン、2009年3月25日。
- ^ 藤川、出番なし…代表「僕はもういいよ」 サンケイスポーツ、2009年3月25日。
- ^ 球児よ、胸を張れ!侍が帰ってきたゾ デイリースポーツ、2009年3月25日。
- ^ 2009年3月26日の記事「WBC世界一!!」 公式サイト内のブログ
- ^ 藤川球児投手が代表引退報道を完全否定「そういう発言は一切していない」 livedoorスポーツ、2009年3月26日。
- ^ 球児やっぱりメジャー、来オフ移籍要求へ 日刊スポーツ、2009年11月24日
- ^ 球児は「球界の宝」ポスティング認めない 日刊スポーツ、2009年11月25日
- ^ やはり迷采配!? 真弓監督に問いたい、「勝ちに行く」という言葉の真意。 氏原英明「野球善哉」Number Web, 2010年10月13日。
- ^ 虎・和田監督、球児発言に「ありがたい」 サンケイスポーツ、2011年12月1日
- ^ 長年の思い変わらず…球児米球界を目指す 日刊スポーツ、2012年11月9日
- ^ 藤川球児投手のFA権行使について 阪神タイガース公式サイト、2012年11月8日
- ^ “Cubs sign Japanese closer Fujikawa”. MLB.com. (2012年12月2日) 2012年12月2日閲覧。
- ^ “球児「やっぱり縦じまだと」/一問一答”. 日刊スポーツ (2012年12月8日). 2015年8月27日閲覧。
- ^ 球児が金髪で渡米「向こうで最後まで」 デイリースポーツ 2013年2月1日配信 同日閲覧
- ^ “球児「米国流」2球で開幕セーブ”. 日刊スポーツ (2013年4月3日). 2013年4月3日閲覧。
- ^ “「これはもらおうかなと」/球児一問一答”. 日刊スポーツ (2013年4月2日). 2013年4月3日閲覧。
- ^ Marmol out, Fujikawa in as Cubs' closer
- ^ a b “球児 3失点救援失敗も幸運なメジャー初白星「9回の攻撃の集中力はすごい」”. スポーツニッポン. (2013年4月13日) 2013年4月13日閲覧。
- ^ 球児DL「15日で治る」 日刊スポーツ、2013年4月15日。
- ^ 球児、右腕に異常 DL逆戻り 日刊スポーツ、2013年5月28日。
- ^ Cubs lose Fujikawa to Tommy John surgery MLB.com, 2013年5月29日。
- ^ 球児が右肘靱帯手術 来季開幕も絶望 日刊スポーツ、2013年5月30日。
- ^ より強い状態で帰ってくる/球児一問一答 日刊スポーツ、2013年5月30日。
- ^ 球児、右肘靱帯再建手術は成功 日刊スポーツ、2013年6月12日。
- ^ “Chicago Cubs set 2014 Opening Day roster”. MLB.com Cubs Press Release (2014年3月30日). 2014年3月31日閲覧。
- ^ “Cubs Activate Right-Handed Pitcher Jake Arrieta And Select The Contract Of Outfielder Chris Coghlan”. MLB.com Cubs Press Release (2014年5月3日). 2014年5月4日閲覧。
- ^ デイリースポーツ カブス藤川球児が1Aに“昇格” デイリースポーツ、2014年7月16日、2014年7月21日閲覧
- ^ “球児復活10球無失点「大変ではなかった」”. 日刊スポーツ (2014年8月8日). 2015年8月27日閲覧。
- ^ 藤川がレンジャーズ入り、1年契約 ダルと同僚に スポーツニッポン、2014年12月17日
- ^ 21 藤川球児オフィシャルブログ
- ^ 球児 DLで開幕も「悲観的ではない」 日刊スポーツ、2015年4月5日
- ^ 球児速球切れた!3人全て飛球 阪神時代のリンドバーグで登場 スポニチ、2015年5月16日
- ^ 球児連投2/3回を2安打3失点 日刊スポーツ、2015年5月17日
- ^ 阪神が球児と“交渉開始” 交渉解禁で先発起用視野に調査 スポーツニッポン、2015年5月26日
- ^ 【阪神】球児、獲得決定的!今週中にも3年ぶり古巣復帰 スポーツ報知、2015年6月1日
- ^ 藤川球児が四国IL高知に入団 球団が発表 日刊スポーツ、2015年6月1日
- ^ 志 藤川球児オフィシャルブログ、2015年6月1日
- ^ 球児、阪神に断り入れる 四国アイランドリーグplus高知へ入団 サンケイスポーツ、2015年6月1日
- ^ 6/1 藤川球児選手入団のお知らせ 高知ファイティングドッグス公式サイト、2015年6月1日
- ^ 虎、意見バラバラで球児獲り失敗…坂井オーナー「残念です」(3/4) サンケイスポーツ 2015年6月2日、同11月14日閲覧。
- ^ 球児 異例1試合ごと契約 自身無報酬で登板日売り上げ10%寄付へ スポーツニッポン、2015年6月9日
- ^ 球児 高知FD入団で“狂騒曲” 高知新聞、2015年6月20日夕刊
- ^ 藤川球児「楽しかった」高知デビュー戦4回1失点 - 日刊スポーツ(2015年6月20日)
- ^ 球児今季NPB復帰なし FDと契約交渉へ - 高知新聞2015年8月1日
- ^ 藤川球児選手 後期シーズン選手契約締結のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2015年8月4日)
- ^ 藤川球児投手 後期終了までFDと無報酬契約に - 高知新聞2015年8月5日
- ^ 球児 初回に危険球で退場 - 高知新聞2015年8月7日
- ^ FD球児 5回12Kで初勝利 愛媛を6-2で下す - 高知新聞2015年8月8日
- ^ 藤川球児がプロ入り初の完封勝利 131球投げ3安打8K 東京スポーツ、2015年9月8日。
- ^ サンケイスポーツ 2015年9月8日付記事
- ^ 9/10 藤川球児選手 9月16日最終登板予定のお知らせ - 高知ファイティングドッグス 球団公式サイト 2015年9月10日閲覧
- ^ 藤川球児シーズン終了、去就については言及せず 日刊スポーツ、2015年9月17日。
- ^ 藤川球児の登板を阪神、DeNA、西武が視察 日刊スポーツ、2015年6月28日。
- ^ 中日が藤川球児獲り!複数年契約を用意 デイリースポーツ、2015年9月24日。
- ^ ヤクルトが藤川獲得に名乗り「先発でも救援でも」 日刊スポーツ、2015年10月3日。
- ^ 球児、阪神復帰へグラリ!金本監督が“直接オファー”で急加速 サンケイスポーツ、2015年10月25日。
- ^ 【ヤクルト】球児争奪戦から撤退 条件折り合わず スポーツ報知、2015年10月30日。
- ^ 藤川球児選手との契約合意について | 阪神タイガース公式サイト 2015年11月14日。
- ^ 藤川球児が阪神復帰「全身全霊をかけて戦いたい」 日刊スポーツ、2015年11月14日。
- ^ 球児が涙の入団会見「いつ倒れてもいい」 2年総額4億円、背番号は「18」に サンケイスポーツ(共同通信配信記事)、2015年11月24日。
- ^ 藤川球児選手入団会見阪神タイガース公式サイト、2015年11月24日。
- ^ 藤川球児が阪神復帰会見 涙で「いつ倒れてもいい」 日刊スポーツ、2015年11月24日。
- ^ 阪神香田コーチ、藤川に正式通達「先発で準備を」 日刊スポーツ、2015年11月27日。
- ^ 阪神金本監督「藤川は先発、準備次第で中継ぎも」 日刊スポーツ、2015年11月26日。
- ^ 阪神藤川 緊急抑え構想に「やれと言われればやる」 日刊スポーツ、2015年12月3日。
- ^ 阪神藤川4回1失点 復帰後甲子園初登板で好投 日刊スポーツ、2016年3月6日。
- ^ 球児、13年ぶり先発勝利ならず 4点リード吐き出し、5回で降板スポーツニッポン、2016年3月27日。
- ^ 球児が13年ぶり先発勝利デイリースポーツ、2016年4月3日。
- ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2009』アスペクトムック、2009年、38頁頁。ISBN 978-4-7572-1628-0。
- ^ 『2011プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2011年、184頁頁。ISBN 978-4-930942-98-2。
- ^ a b c 『週刊プロ野球データファイル』2012年48号、ベースボール・マガジン社、雑誌27743-3/21、5-6頁。
- ^ a b 『2012プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2012年、145頁頁。ISBN 978-4-905411-04-8。
- ^ a b c d e f g h 『週刊プロ野球データファイル』2011年5号、ベースボール・マガジン社、雑誌27743-5/11・18、9-10頁。
- ^ a b 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰『プロ野球スカウティングレポート2012』廣済堂出版、2012年、364頁頁。ISBN 978-4-331-51613-3。
- ^ PITCHf/xによる2014年から2015年の通算記録
- ^ 虎・球児、G・斎藤雅コーチと夢の初対面 サンケイスポーツ、2010年6月25日。
- ^ 珍しい名に「おや?」水難救助で感謝状手渡す57歳の男性(高知新聞)
- ^ 虎・球児が契約合意!表記「藤川」のまま イザ!、2010年1月24日付。
- ^ 背番号及び登録名について 阪神タイガース公式サイト、2010年12月28日
- ^ 日刊スポーツ、2007年3月14日。
- ^ 【球児の一人語り】激白、虎党と戦う思いサンケイスポーツ 2015年12月28日
参考文献・資料
- 松下雄一郎『藤川球児 ストレートという名の魔球』ヨシモトブックス、2008年、ISBN 978-4-8470-1752-0
- 日刊スポーツ連載コラム「伝説」~剛速球に賭けた男 山口高志~ 2008年9月2日 - 9月6日・9月9日 - 9月13日掲載
関連項目
- 高知県出身の人物一覧
- 松坂世代
- 兄弟スポーツ選手一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
- JFK (阪神タイガース)
- 日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧
- 日本人のメジャーリーグベースボール選手一覧
- 高知ファイティングドッグスの選手一覧
外部リンク
- 個人年度別成績 藤川球児 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 藤川球児オフィシャルブログ Powered by Ameba:(2013年1月 - 2015年1月 ※削除済み)
- 藤川球児オフィシャルブログ by Ameba(2015年6月 - )