柏レイソル

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柏レイソル
原語表記 柏レイソル
愛称 レイソル
クラブカラー  [1] 
創設年 1940年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン1
ホームタウン 千葉県柏市[1]
ホームスタジアム
日立柏サッカー場[1]
収容人数 15,349
運営法人 株式会社日立柏レイソル[1]
代表者 御手洗尚樹[1]
監督 ブラジルの旗ネルシーニョ
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

柏レイソル(かしわレイソル、Kashiwa Reysol)は、日本千葉県柏市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

概要

株式会社日立柏レイソル[1]
Hitachi Kashiwa Reysol Co., Ltd.
種類 株式会社
略称 柏レイソル
本社所在地 277-0083
千葉県柏市日立台1-2-50[1] (日立柏総合グラウンド内)
設立 1992年4月1日
業種 サービス業
法人番号 1040001066366 ウィキデータを編集
事業内容 サッカークラブ運営
代表者 河西 晋二郎
資本金 2,200万円
売上高 28億5,900万円 (2010年3月期)
営業利益 ▲7,100万円 (2010年3月期)
純利益 ▲5,500万円 (2010年3月期)
決算期 3月期
主要株主 日立製作所
外部リンク http://www.reysol.co.jp/
特記事項:当初社名「日立スポーツ株式会社」[1]
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1940年に創部された日立製作所本社サッカー部(1970年に日立製作所サッカー部へ改称)が前身となり[1]1995年にJリーグへ加盟した[1]。運営会社は株式会社日立柏レイソルであり[1]千葉県柏市ホームタウンを置いている[1]。なお、柏市のほか、同じ東葛地域我孫子鎌ケ谷流山野田松戸の5市、印旛地域印西白井の2市を活動エリアとして、サッカースクールや各市の市民招待デーなどを企画している。

チーム名はスペイン語の「レイ(Rey)」(王)と「ソル(Sol)」(太陽)を合わせた造語で、「太陽王」を意味する[1]。ホームスタジアムは日立柏サッカー場である[1](詳細は#スタジアムを参照)。

キャッチフレーズは「生活がスタジアム。ホームタウン柏、そして感動が聞える街へ」。

歴史

Jリーグ昇格前

日立製作所サッカー部が前身で、1965年に創設された日本サッカーリーグ(JSL)に初年度から参加した8チームのうちの1つ。JSLではリーグ優勝1回、JSLカップ優勝1回の戦績を残し、天皇杯で2度の優勝を果たした。

1990年にプロリーグ(Jリーグ=1993年創設)参加を表明。1992年には運営会社となる株式会社日立スポーツを設立し[1]、初年度からのJリーグ参加は成らなかったが、「日立FC柏レイソル」(後に「日立FC」は日本協会正式登録名からは除去)とクラブ名称を改称して[1]フジタサッカークラブ(現:湘南ベルマーレ)、ヤマハFCジュビロ磐田(現:ジュビロ磐田)と共にJリーグ準会員に認可された。

1993年、当時ブラジル代表カレカを獲得し昇格を目指したが、ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)5位に終わり昇格はならなかった。

1994年10月23日 JFL最終節でNTT関東に1-0で勝利したことで2位を確定し、悲願のJリーグ昇格を果たした。カレカはこの最終節のゴールを決めた他、チーム最多の19得点を決めて、昇格の立役者となった。

1995年-2005年(Jリーグ・J1)

1995年、Jリーグ昇格1年目は1stステージで大苦戦し、最終戦はそれまで10連敗していたホームで勝利をあげるも最下位に終わる。2ndステージでは尻上がりに調子を上げ、特に1stステージ優勝の横浜Mに2戦2勝するなど5位となった。

1996年からはニカノール・デ・カルバーリョが指揮を執り、エジウソンや両サイドバックが激しく動く攻撃的なサッカーを展開、これが実を結び12連勝を達成。

1998年、監督に西野朗が就任。1999年横浜Fから薩川了洋平塚から洪明甫を獲得し、チーム強化を図る。その結果、ナビスコカップで優勝し、クラブ初タイトルを獲得。

2000年も好調を維持し、リーグ戦2ndステージでは終盤まで優勝を争った。 しかし最終節、勝った方が優勝という鹿島との直接対決でスコアレスドローとなり優勝を逃す。 結局、年間では最多の勝点を獲得したものの、1st/2ndステージ勝者が年間1位/2位となるため、総合3位でシーズンを終えた。勝ち点1位のチームが優勝を逃したことはチャンピオンシップの結果によって数例あるが、チャンピオンシップ出場を逃したのはこれが唯一のケースである。

2001年は、西野の長期政権による硬直した選手起用・世代交代の遅れなどの弊害も表面化し、西野を途中解任。 新監督のスティーブ・ペリマンの就任も功を奏さなかった。

2002年は連敗を重ね、J2降格危機に陥り、チームをまとめることができなかったペリマンを解任し、2ndステージからは マルコ・アウレリオが監督に就任。監督となったマルコは玉田圭司など若手の育成に力を入れるが、2003年もチームは低迷。2004年、生え抜きの池谷友良がコーチから監督に昇格したが成績はかわらず、1stステージ終了後に池谷は辞任。監督に早野宏史が就任するも歯止めは効かず、J1最下位に終わる。しかしJ1・J2入れ替え戦福岡に勝利し、J1に残留した。

2005年は早野自ら、獲得に乗り出した当時韓国代表FW崔成国クレーベルを迎え、立て直しを図る。しかし、崔は結果が残せず7月31日付でレンタル移籍を終了した。なお、4月23日のホームで行われた名古屋戦では、試合後一部サポーターが相手サポーターを暴行し処分される騒ぎが起こった。その後、低迷打破のため、元ブラジル代表FW フランサの獲得や、元東京Vラモス瑠偉をコーチに起用するなど、てこ入れを図った。ラモスのコーチとしてのデビュー戦となった9月17日、ホーム日立柏サッカー場でのG大阪戦で、先制されたもののその後2点を取り、逆転勝利で白星を飾った。

10月15日、アウェー駒場スタジアムでの浦和戦で、2人の退場者を出すなどし、0-7で大敗。その後、チームは勢いを失い、入れ替え戦のラインである16位付近を彷徨う。11月26日、ホームの東京V戦に5-1と大勝したものの、柏と残留争いをしていた清水が残留を決めたため、2年連続でJ1・J2入れ替え戦に回った。

J1・J2入れ替え戦では甲府と対戦。第1戦はアウェーで1-2での惜敗、第2戦ではホームで2-6の大敗を喫し、Jリーグ加盟11年目にして初のJリーグ ディビジョン2(J2)降格となった。特に第2戦はバレーに6点を奪われた[2]。 ブラジル人選手に10億円もの大金を注いだといわれる補強をもってしても降格を防ぐことはできなかった。早野は天皇杯(対G大阪戦)を前に辞任。後任は東京Vのコーチだった石崎信弘が就任。

2006年(J2)

J2降格を受けて明神智和がG大阪、波戸康広土屋征夫大宮玉田圭司も名古屋、大野敏隆が東京V、矢野貴章永田充新潟など、主力選手が揃って他チームへ完全移籍していったものの、フランサの残留や北嶋秀朗の復帰、ディエゴの加入などにより攻撃陣が機能し開幕戦は引き分けるものの第2節から6連勝と首位を独走。終盤ペースを落とし横浜FC神戸との自動昇格枠争いとなり、2位神戸と勝ち点差1の3位で迎えた最終節・湘南戦に勝利、神戸が仙台に敗れたため2位での自動昇格を決め、1年でのJリーグ ディビジョン1(J1)復帰を果たした。守備は48試合60失点という平凡な成績だったものの、攻撃では84得点と2006年シーズンJ2最多得点を記録。石崎にとっては自身初のJ1昇格となった[3]

2007年-2009年(J1)

2007年

J1復帰に大いに貢献したリカルジーニョディエゴが退団。GK水谷雄一、MFアルセウマルシオ・アラウージョ、FW阿部吉朗、そして名古屋を10年間支えたDF古賀正紘などが加入。J1復帰1年目の目標を「勝ち点45を取る」と設定した。シーズンでは開幕戦の磐田戦に4-0で圧勝する(しかし、最終節の同カードは0-4と完敗)と、その後も苦手にしていたアウェーでも勝ち点を得るようになり、前半戦の台風の目となる。3月末に小野寺重之から河西晋二郎に社長が交代。小野寺はサポーターから補強に関する疑問の声や、チームのJ2降格により厳しい批判があったが、1年でのJ1復帰という約束を果たした。中盤戦は、2年前は大敗したアウェーの浦和戦を1-1で乗り切ると、苦戦が予想された8月を3勝2分と無敗で過ごす。特に浦和・横浜FMら強豪クラブと共にJ1最少失点の座を争い、8月までの23試合中12試合が無失点という、2006年とは打って変わって強固な守備陣を武器にして勝ち点を挙げた。9月23日の川崎戦で当初の目標の勝ち点45を残り8試合を残して達成したがその後は故障者が相次いだ事もあり、4連敗を含む1勝1分6敗と翌シーズンに不安を残した。

2008年

GK水谷雄一、MF谷澤達也が移籍したものの、GK菅野孝憲、MFアレックス、FWポポなどを獲得[4]。DFの補強は鎌田次郎[5]のみと攻撃陣の補強が目立った。

リーグ戦では序盤は上位につけるも、中盤に低迷し、一時は残留争いに巻き込まれる乱調ぶりで、目標の勝ち点55に及ばず、前年の成績も下回った。加えて、来季の強化方針を巡って、フロントと石崎の間で意見の相違が露呈したため、石崎はこのシーズンをもって退任(事実上の解任)。だが、天皇杯では、前身の日立製作所本社サッカー部時代以来、33年ぶりに決勝へ進出。決勝は延長でG大阪に敗れたが、準優勝の成績を収めた。

2009年

石崎の後任監督に高橋真一郎が就任。更に元日本代表DFの井原正巳や、元清水シジマール・アントニオ・マルチンスをコーチに招聘。選手では目立った退団者は千葉に移籍したアレックスのみで、新入団選手は柏レイソルユースから史上最多の5人の選手が入団。退団したアレックスに代わる外国人選手として、2007年に在籍していたアルセウが復帰、更にナイジェリアからアデバヨを獲得した。

ところがシーズンが始まると、アルセウがケガのため登録抹消。フランサ李忠成などの主力選手が相次いで負傷離脱するなどチームは低迷。その状態を打破するため、大宮から小林慶行クルゼイロECからアンセウモ・ハモン、G大阪からパク・ドンヒョクをレンタル移籍で獲得した。 石崎前監督の築いた徹底したプレッシングサッカーを基調としつつ、より支配率を高めるアクションサッカーへの転換を目指したものの、怪我人の続出もあって思うようにサッカーの成熟が進まず、リーグ最多失点での17位と低迷。7月15日をもって成績不振により、高橋監督を解任。新監督には東京V名古屋で監督経験のあるネルシーニョを招聘。J1残留に向けたチームの建て直しに期待がかけられたが第33節の大宮戦に引き分けて、2006年以来2度目のJ2降格となった。なお、この年は千葉も降格が決定し、千葉勢がJリーグ発足18年にして初めて1部から姿を消すことになった。かつ同一都道府県のチームが2チーム降格するのはJリーグ史上初である。

2010年(J2)

戦力外になった選手以外ではレンタル元の清水に戻った杉山浩太のみの移籍に留め、フランサ、大津祐樹など、多くの主力選手は残留した。J2屈指の戦力を揃え、1年でのJ1復帰を目指した。シーズン途中にフランサが退団、菅沼実古賀正紘が期限付きで磐田に移籍。それでも、司令塔レアンドロ・ドミンゲスを中心としたリーグ最多得点タイの攻撃と、GK菅野孝憲を中心としたリーグ最少失点の鉄壁の守備が噛み合い、開幕から19試合無敗と年間最少敗戦数「2」のJリーグ新記録を樹立した。 第33節の岐阜戦に3位以内が確定してJ1復帰が決定、第36節の横浜FC戦に勝利してJ2優勝も決めた。これにより、Jリーグのクラブでは史上初となる「J1、J2両ディビジョンで年間で最多の勝ち点を獲得」(ただしJ1の最多勝ち点を取った2000年は当時の2シーズン制でのリーグ規定により優勝とは扱われず)という快挙を達成した。

2011年-現在(J1)

2011年

2009年以来2度目のJ1復帰。右SBのレギュラーだった小林祐三が横浜FMへ完全移籍。期限付き移籍中だった古賀正紘菅沼実が磐田に完全移籍となった。 補強として大宮から安英学京都から増嶋竜也福岡から中島崇典、清水から兵働昭弘を獲得、新外国人としてジョルジ・ワグネルを獲得。ネルシーニョ監督はシーズン6位以内を目標に掲げてシーズンに入った[6]。シーズンではU-22日本代表酒井宏樹澤昌克ジョルジ・ワグネルらの活躍もあり首位戦線で健闘、名古屋G大阪との熾烈な優勝争いの中、11月に首位に立つとリーグ最終節で浦和に3-1で勝ち、J1初優勝を、Jリーグ初となるJ1昇格1年目での優勝で飾った[7][8][9]。試合後、地元・日立柏サッカー場で優勝報告会があり、地元に残って応援し続けたサポーターが公式戦並みに集まって、凱旋した選手と祝勝に浸っていた[10]。また、翌日午前10時から行われた柏市主催による柏駅西口ロータリーでの優勝報告会は突然の告知にも関わらず、8000人ものサポーターが駅前を埋め尽くし、監督・選手たちのあいさつに大いに沸いた[11]。12月にはクラブワールドカップに初出場。北中米王者CFモンテレーをPK戦の末下し、初の世界大会で4位となった。

2012年

藏川洋平が退団、パク・ドンヒョク大連実徳に、仙石廉岡山)、池元友樹北九州)がそれぞれレンタル移籍していたにチームに完全移籍、兵働昭弘千葉に、相馬大士JFLFC琉球に、岡山にレンタル移籍していた山崎正登FC岐阜に、JFL・秋田にレンタル移籍していた比嘉厚平山形に、FC岐阜にレンタル移籍していたエフライン・リンタロウがJFL・秋田にレンタル移籍、武富孝介熊本への期限付き移籍期間も延長した。

補強は横浜FMから昨シーズン横浜FCに期限付き移籍していた藤田優人栃木SCからリカルド・ロボ磐田から那須大亮東京Vから昨シーズン北九州にレンタル移籍していた福井諒司を完全移籍で獲得、FC岐阜にレンタル移籍していた川浪吾郎、栃木SCにレンタル移籍していた渡部博文が復帰、ユースから山中亮輔が昇格した。

3月3日、スーパーカップFC東京を2-1で破りスーパーカップ初優勝を果たす。

成績

タイトル

クラブ

個人別

スタジアム

日立柏サッカー場(2012年・柏熱地帯<ゴール裏レイソル応援席>増築後)

なお、浦和戦など、多数の入場が見込まれる場合は、国立霞ヶ丘陸上競技場を使用する場合もある。過去には柏の葉公園総合競技場もホームスタジアムとして併用していた。

  • 練習場は上記のスタジアムの他、日立柏サッカー場に隣接する日立柏総合グラウンドと[1]、柏市内にあるあけぼの山農業公園芝生広場が使われる。

本拠地問題

  • Jリーグ参入の際、笠松運動公園陸上競技場をホームスタジアムとして加盟申請したが却下された。レイソルは日立製作所発祥地の日立市がある茨城県をホームタウンにすることも検討していたが、日立市では「日立製作所のチーム」になってしまうことが懸念され、当時は笠松競技場もJリーグ規格を満たしていなかった上に、住友金属工業蹴球団(後の鹿島アントラーズ)が鹿島町(現・鹿嶋市)を本拠地にしたこともあって実現しなかった。習志野市秋津公園サッカー場なども検討されたが[12]、自前のスタジアムがある柏市に落ち着くことになった(元々は「あかね町ベアーズ」という少年野球チームのグラウンドがあった)。
  • 当初、レイソルはJリーグからの勧告(出来るだけ地方自治体保有のスタジアムをホームとすること)もあり柏の葉公園総合競技場(以下、柏の葉)をホームとすることを前提として、日立柏サッカー場(以下、柏サッカー場)を暫定的にJリーグ基準のキャパシティー(J1の場合は15000人以上収容)に沿ったスタジアムにすることで準会員承認を受けた。しかし、不況の折から柏の葉の設置工事実施が遅れJリーグ昇格を果たした1995年になっても完成のメドが付かなかった。このため、レイソルでは柏サッカー場の収容人数をJリーグの基準の15000人に合わせるためJリーグ昇格決定後に改修工事を実施し15900人収容のスタジアムとすることで基準を満たし柏の葉の完成後に本拠地を移転することとした。
柏の葉公園総合競技場
  • ようやく1999年4月24日に柏の葉は竣工したが、こけら落としの浦和との対戦で、一部のサポーターが暴動を起こし、またレイソル応援席から「史上最低のスタジアム」「本拠地移転を認めない!!」「陸上競技場でサッカーやるな」「好き好き日立台、いやいや柏の葉」などと書かれた横断幕が掲示された。その理由として以下が挙げられている。
  1. 交通の便が非常に悪い
    当時の最寄り駅は東武野田線江戸川台駅だったが、徒歩30分以上かかる。そのため試合日には江戸川台駅と柏駅からの臨時バスが運行されているが、運行本数が少なく乗り切れない人が出る上に、柏駅からの便は渋滞により到着時間が読めない。
    2005年8月にはつくばエクスプレス線柏の葉キャンパス駅が開業したため、東京方面からの交通アクセスは幾分改善されたが、ここもスタジアムまでは徒歩18分となっている。
  2. 陸上競技場との併用であるためスタンドとピッチの間に距離があり、特にコーナー部からバックストレッチ部分のスタンドが低いため非常に見づらい
    スタンドの傾斜が低いことなどの設備面についてはクラブ側も不満を隠しておらず、後述するような申し入れを行っている。また『柏レイソル10年史』に寄稿した当時のJリーグチェアマン・鈴木昌もその中で「ファンに失礼」と述べている。
  3. 元々柏サッカー場はクラブの聖地であり、ファンには愛着がある。
  • クラブ側もコーナーからバックストレッチ部分のスタンドの改善や駐車場スペースの確保などを行うよう管理者である千葉県に対して求めているが、県はスタジアム完成から間もないとして大規模な改修には慎重である。
  • また、柏サッカー場もメインスタンドの一部を除いて鉄骨製の簡易的なものであるため、施設の老朽化が著しい。故に柏市とサポーターがスタジアムの増築により現在の15900人収容のスタンドを25000人程度が収容できる本格的なものにし、温水プールや体育館を兼ね備えて整備することを目指した「市民スタジアム」計画を立ち上げた。柏市は調査費用を予算に盛り込んできた。ただ、25000人規模のスタジアムにした場合、スタジアムとピッチとの間の距離が開き、従来のようなアットホームなスタジアムの雰囲気を維持できるのか疑問であり、検討が要される。
  • しかし、柏市は現状スタジアムの改修に乗り出すための予算費用が取り付けられないとして増築・改修を現在見合わせている。レイソル側も2003年シーズンから柏サッカー場を規模縮小し鉄骨製スタンドを撤去して練習場として使用し、試合会場は柏の葉に完全移転することを一旦決めた。しかし、サポーターは「柏サッカー場に愛着があるから」などの理由で本拠地の完全移転に反対し、柏サッカー場での試合継続を求めて署名活動を行った。また他チームのサポーターにとっても日立台の方が観戦しやすいため、移転に反対する声が出た。
  • 結局2003年度以後も柏サッカー場をメインにして、柏の葉では年間数試合に限定してホームゲームを開催している。
    • なお、FC東京については、2003年11月29日の試合終了後、FC東京サポーターが同年限りで退団するアマラオとの別れを惜しみグラウンドへ乱入する事件があり、2004年以降の試合は同様の事件を防止する意味で柏の葉での開催となっている。ただし、2005年のナビスコカップグループリーグの試合は柏サッカー場で開催された。また、2007年のリーグ戦も柏サッカー場で開催されている。
    • 2008年については、リーグ戦は基本的に柏サッカー場をメインに使う事となった。これにより柏の葉はナビスコカップのみが開催された。2009年以降は柏の葉から撤退し、柏市内での試合は柏サッカー場のみに一本化した。
  • 2005年秋になって、一部の報道では柏サッカー場の改修を2009年度以後に進める「市民スポーツ文化スタジアム」の基本構想をまとめ、整備する計画であると伝えられていたが、実現していない。スタジアムとピッチの距離を保ち、今のアットホームな雰囲気を保つため、25000人規模のスタジアムを目指しての改修ではなく、現状の規模を維持したままでの改修を望む声もある[13]。なお、柏市の市議会も2012年3月の開幕までに完成することを目指し、座席3000人分の増築を検討していることを公表した[14]。2011年8月から増築工事が開始された[15]
    • これについては、2011年にレイソルのサポーターズカンファレンスで公表され、この準備段階として2005年4月から西側の旧・アウェーゴール裏(2012年以後ホームサイド)に設置してあった大型映像装置を、東側の旧・ホームゴール裏(2012年以後アウェーサイド)に移設する工事をした。(これに伴い老朽化した簡易フリーボード付きの得点専用掲示板は撤去された)[16]
  • 2012年3月11日に竣工。前述のとおりゴール裏の応援席の配置を入れ替えて、ホームが西側、アウェーが東側となった。新・ホームゴール裏の応援席・「柏熱(はくねつ)地帯」を二層式(新設の2階席は座席)としたほか、メインスタンドのホーム側の座席も一部増築し、Jリーグ届出の収容人員が15,349人となった(これまでは15,900として届け出ていたため500人程度減った形になるが、緩衝地帯や立見席などがあるため実勢は13,000程度だった)。また市民寄付によるホームゴール裏の正門「柏シヴィックプライドゲート」が設置された。

チームの特徴

チーム編成
  • 2006年以降のチーム編成は、世代分布のバランスが歪なチームと言える。特にアテネ世代を中心とした中堅(26〜30歳前後)の経験豊富な日本人選手が他のチームと比べて不足している。これは2000年頃までの黄金時代の中でスタメン選手が強く、次世代の若手が育つ機会が少なかった事に加え、2005年のJ2降格により主力選手が大勢移籍した事が原因として挙げられる。この上のベテラン世代の中では藏川洋平はJ2降格・J1復帰の過程で加入したため柏から見れば「比較的新しい選手」であり、北嶋秀朗は1997年の入団時〜2002年は柏在籍であり、新加入というよりは「復帰」と認識されている。一方アテネ世代の層の薄さに対して、北京五輪世代は多くて林陵平橋本和らは既にチーム主力となっている。また大津祐樹工藤壮人酒井宏樹らロンドン世代も多く、若手も積極的に起用するネルシーニョ監督の影響もあって試合に出る機会も多い。
  • 近年のチーム編成には、近年は他のクラブと比べて、積極的に大学や高校の有望選手を練習参加させたり、特別指定選手として受け入れている。特別指定選手としては2006年に流通経済大学の鎌田(2010年にベガルタ仙台に移籍)、2007年に順天堂大学村上佑介、2008年に専修大学渡部博文、2009年には順天堂大学の田中順也を受け入れており、卒業後にそのままレイソル入りするケースが多い。特に2006年の鎌田は負傷者の多かったスタメンに割って入り、チームが昇格を争う中15試合に出場した。また、2007年に特別指定選手となった村上は、2008年にリーグ戦初出場の試合でハットトリックを達成するというジーコ以来の快挙を成し遂げ、その後スタメンに定着した。また林陵平は、プロ入りする前にレイソルの練習に参加していた事がある(プロ入り時に加入したのは東京V、その後柏に移籍加入)。
  • 柏ユース出身者が他のクラブと比べると多い。2010年ではある試合のスタメン・ベンチ入りメンバー18名のうち、半分近くの8名がユース出身者だった。これは2009年のユース出身者の大量昇格の影響もある。また、ここ数年レイソルの下部組織では統一した戦術のテーマを掲げ、それに沿った育成法を実施し、優秀人材をトップチームに輩出するようにまでなった。これについては週刊サッカーダイジェストFoot!J SPORTS)にも詳しく紹介された。
タイトル/対戦成績
  • Jリーグ発足後最初のタイトルは1999年のナビスコ杯だが、全般的に見ればナビスコカップの成績は芳しくない。天皇杯は1999年シーズンのベスト4以来、2008年に決勝進出し準優勝を果たすまで、ベスト16以下であった。格下のクラブに敗戦し、初戦敗退することも多かった。ナビスコ杯に関しても2000年以降はほぼベスト16以下である。中でも、2000年シーズンの両カップ戦の成績はリーグ戦と比べて極端だった。ナビスコ杯に関しては低迷していた川崎に敗れる。天皇杯もリーグ戦の終盤勢いがありながらベスト16だった。2007年のナビスコ杯はルールの穴を掻い潜り、リーグ戦のスタメンを総入れ替えしたメンバーで戦い、物議をかもした。リーグ優勝した2011年も初戦でベガルタ仙台に敗れる。
  • リーグ戦では、低迷していた2001年 - 2005年を除くと、ホームの日立柏サッカー場で勝ち点を稼いでいる傾向にあった。特に2006年のJ2リーグでは17勝3分4敗という成績を上げている(年間通算の成績は27勝7分14敗)。これは、国内有数のピッチとスタンドが近い造りの柏サッカー場において有利に試合を進めていた事を表している。しかし、2007年以降はアウェーでもコンスタントに勝ち点を稼ぐようになり、いわゆる「内弁慶」からは脱しつつある。
  • チームに対する相性としては大阪勢を除く西日本のチームに大きく勝ち越しており、東日本のチームに互角または相性が悪い傾向がある(特に鹿島浦和を苦手にしている)。だが、ここ最近、西日本の名古屋をアウェーで苦手にしている。
  • 2011年にリーグ優勝した際は、上記の多くのジンクスや鬼門を打ち破った末の快挙だった。「甲府戦アウェー未勝利(第18節)」に始まり、「鹿島戦8年間未勝利(第6節)」、「鹿島戦アウェー未勝利(第28節)」、「J1山形戦未勝利(第29節)」、「新潟戦ホーム未勝利(第30節)」、「広島戦アウェー13年間未勝利(第31節)」とこれまで苦手にしていた相手をことごとく打ち破った。
昇降格
  • これまで、2000年に川崎を、2005年に東京Vを、2007年に甲府を、2008年に札幌を、シーズン終盤の対戦にて下し、それぞれJ2に降格させている。対戦相手にJ2降格の引導を渡した回数は最多の4回(2009年時点)。ただし、2005年は柏もJ2に降格している。このとき、引導を渡したのは甲府であるが、後に柏が甲府に引導を返すこととなった。
  • ちなみに2000年に柏に降格させられた川崎は2006年にC大阪、2008年に東京V、2009年に千葉と3回J2降格の引導を渡し、2位についている。

サポーターの特徴

  • J2降格した2005年は、成績不振や事件などでサポーターと選手の間に溝が生まれた。この反省から、2006年以降は選手の「サポート」に徹している傾向にある(代表サポーター曰く「大切なのはスポンサー」と発言している事から、オーナーの日立との関係が良好である事が伺える)。この時所属していたDF 岡山一成はサッカー情報番組『スーパーサッカー』内で「サポーターのおかげで勝ち点30くらい稼いでいる」と言っている。
  • 欧米クラブの応援の影響を受けたチームが多いJリーグのサポーターの中で、昭和時代のテレビやアニメのテーマソング、CMソングを多く応援歌に取り入れているのが特徴。

以下はその一例。

サポーターの評価

柏サポーターは独特なギャグとネタの効いたゲートフラッグを出す事で知られている。2006年以降はホーム・アウェー問わず試合に勝利した後に「レッツゴー柏」(「グリーングリーン」が原曲の応援歌)を選手・サポーターが全員で歌って踊る(柏サポーターからは「勝利のダンス」と呼ばれる)が、この時、そのゲートフラッグを何人かの選手が掲げて踊っている。この勝利のダンスやマイクパフォーマンスなど、試合後のお楽しみイベントを総称して「日立台劇場」と呼ぶ。(岡山一成在籍時には「岡山劇場」とも呼ばれた) また試合前には、サポーターの一人(工務店経営)が中心となって派手なパフォーマンスで選手を迎えるなど、ユニークな応援を演出している。(試合前のパフォーマンスについては2011年シーズン途中から諸事情により自粛している)

以下の通り。なお、これらはほんの一例であり、他にもさまざまなバージョンがある。


このようなサポーターによるパフォーマンス等の風景は、試合会場ではもちろん、You tubeニコニコ動画などのインターネットサイトに一部載せられている事があるため、Jリーグ全体で話題になる事が多く、特にスカパーのサッカー中継の柏の主催試合の際に、実況がこのパフォーマンスのことを語ることもしばしばある。また、パフォーマンスのネタの大半が、話題性の強いものであるため、サッカー以外の分野からも影響を受けていることもある。

他チームのサポーターは、選手の応援歌などは太鼓と手拍子で歌っているが、柏サポーターは、トランペットなどを使う珍しいサポーターである。また最近では、チームや選手の応援歌の音源などを試合当日に即席で流して歌うことが多い。また前述のような派手なパフォーマンスをする時も、(特に試合前に)それに応じた音楽や効果音などを流すことがある。これらは、アウェーでも行っている。またホームの試合では、大型スクリーンを使った大胆なパフォーマンスも行い、相手サポーターからブーイングが起こることもある(しかし、逆に相手サポーターが呼応する事もある[22])。最近では対戦チームや、古巣の選手に対し讃えるような応援をすることもある。

柏市は茨城県と接しており、東京都埼玉県とも近く、国道や鉄道などの交通の要衝でもある。そのためサポーターの分布はホームタウンエリア以外や千葉県内だけではなく、茨城県南部・東京都葛飾区足立区・埼玉県の三郷市周辺にも比較的多いと言われている。

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) [1]
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd)
GK(3rd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd
GK 3rd

クラブカラー

  •  [1] 

スポンサー

掲出
箇所
スポンサー名 表記 掲出年 備考
日立製作所 HITACHI
(ロゴの下は日立グループのコーポレート・ステートメントInspire The Nextが入る)
1992年 -
背中 アメリカンファミリー生命保険会社 Aflac 2005年 -
日立製作所 情報・通信グループ uVALUE 2007年 -
パンツ セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン 2012年 -

※国際試合用のユニフォームは胸スポンサーのHITACHIのみで背中に選手名が入る。このユニフォームはFIFAクラブワールドカップ2011から使用されている。

2011年から各アカデミーチームのみ、背中にマブチモーター(表記:MABUCHI MOTOR)のロゴが入るようになった。

ユニフォームサプライの遍歴

  • 1992年 - 1994年(Jリーグ準会員)アディダス
  • 1995年 - 1996年 リーグ戦はミズノ(2ndモデルの配色は、シャツ・紺、パンツ・白、ソックス・紺)、カップ戦はアディダス(2ndモデルの配色は、シャツ・パンツ・ソックスすべて、白)
  • 1997年 - 2010年 リーグ戦・カップ戦ともにアンブロに統一(1997、1998年の2ndモデルの配色は、シャツ・青、パンツ・白、ソックス・青で、1999年 - 2002年の2ndモデルの配色は、シャツ・紺×白、パンツ・紺、ソックス・紺。2003年‐2010年の2ndモデルの配色は、シャツ・白、パンツ・紺、ソックス・白。)
  • 2011年 - ヨネックス

歴代スポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1992 HITACHI - - adidas
1993 - -
1994 - -
1995 - maxell Mizuno/adidas
1996 -
1997 - UMBRO
1998 -
1999 アメリカンファミリー
生命保険会社
2000
2001
2002 - Aflac maxell
2003 -
2004 -
2005 -
2006 Wooo
2007 uVALUE
2008
2009 麗澤大学
2010
2011 YONEX
2012 セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン

下部組織

下部組織からは多くの選手をトップチームに輩出しているが、その反面定着した選手は多いと言えない。また、プリンスリーグの参入戦で2007年から4年連続でPK戦で敗退していたが、2011年の関東プリンスリーグへの参入を決めた。なお、過去には東京都青梅市のサッカークラブ(現:アーゼット'86東京青梅)と業務提携し「柏レイソル青梅」が活動していたが、2008年10月に提携を解消している[23]

出身選手

獲得タイトル

U-15

1回: 2002年
1回: 2004年
2回: 2008年、2011年

U-12

優勝3回: 1995年、1997年、2011年
準優勝3回: 1999年、2001年、2004年
三位4回: 1996年、2002年、2008年、2010年

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s クラブガイド:柏レイソル Jリーグ公式サイト
  2. ^ なお、両クラブはそれぞれ前身(JSL)時代に、柏は日立製作所として甲府は甲府サッカークラブとして、入れ替え戦を戦ったことがあり、その際は日立が2戦2勝だった。
  3. ^ 石崎は、大分(1999年・2000年)、川崎(2003年)の監督時代は昇格争いに加わるも、いずれも3位止まりだった(当時は3位に昇格の機会が無かった)。
  4. ^ 同シーズンは過去に柏在籍経験があるMF茂原岳人も再加入したが、神戸在籍時(当時未成年)の不祥事により逮捕され、2008年5月16日付で解雇。
  5. ^ 2006年に特別指定選手として在籍。
  6. ^ 魅惑の攻撃サッカーで柏がJ1を面白くする。~レイソル躍進の理由と展望~ -NumberWeb: 2011年7月27日
  7. ^ 現J1相当のみの時代の2部組織であるジャパンフットボールリーグからの昇格組も1年目での優勝を果たしたチームはなかった。
  8. ^ 前身の日立製作所サッカー部時代には1972年の日本サッカーリーグで優勝しており、トップリーグ優勝は39年ぶりであった。またオリジナル10以外のチームが優勝するのはジュビロ磐田に続き2チーム目。1995年に加盟したJリーグチームでは初である。
  9. ^ 本物の強さを証明した柏がJ1初制覇! 名古屋、G大阪の戦い方と徹底比較。 - NumberWEB: 2011年12月5日
  10. ^ レイソルウェブ「【12/3】『日立台へ集まれ!J1リーグ優勝報告会』のお知らせ」
  11. ^ レイソルウェブ「【12/4】『柏レイソルJ1リーグ優勝報告会』のご案内
  12. ^ 同じ千葉県に本拠地を置くジェフユナイテッド市原・千葉も、Jリーグ参加に際して秋津公園サッカー場をホームタウンに検討したが、地元の賛同が得られず見送った経緯がある。
  13. ^ なお、2010年11月30日付けの日刊スポーツ西日本版(大阪・名古屋・西部本社発行)の記事で「日立柏サッカー場のアウェー席を増築し、消防法の収容人員が18000人に拡張される」と報じられたが、クラブから正式な改修の発表はこの当時はなされていなかった。
  14. ^ 2010年12月10日・朝日新聞
  15. ^ スタジアム増築に伴うホームゲーム開催時の運営方法変更について
  16. ^ その説明映像
  17. ^ 同年は勝ち点を上げると「地球滅亡まであと勝ち点○○」という横断幕が掲げられ、勝ち点45を達成すると「コスモクリーナーで地球は救われた」という横断幕が掲げられた。
  18. ^ サポティスタ「柏のゴール裏にオバマ氏が登場」
  19. ^ この際使われた龍は、近くのお寺から拝借したもの。
  20. ^ YouTube 柏レイソル 今日のみゃ長 2011年開幕戦
  21. ^ 曰くレンタル料は3日間で57,000円との事。
  22. ^ 2010年8月21日の柏vs甲府など。この試合では2005年のJ1・J2入れ替え戦におけるネタを行い、バレーの顔写真幕を掲げたところ、甲府側からバレーコールが巻き起こった(と、同時に両チームでプレー経験があった(逮捕・解雇された)茂原岳人の顔写真幕も出てしまい、「今の写真は忘れろ、双方何かを感じてる筈だ」とネタにされていた)。
  23. ^ アーゼット'86 東京青梅沿革

関連項目

参考文献

外部リンク