アマラオ
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| 名前 | |||||||
| 本名 | ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ | ||||||
| 愛称 | アマ、キング・オブ・トーキョー | ||||||
| ラテン文字 | AMARAL | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1966年10月16日(45歳) | ||||||
| 出身地 | サンパウロ州 | ||||||
| 身長 | 183cm | ||||||
| 体重 | 76kg | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 監督歴 | |||||||
| 2006 2010 2011 |
アルテ高崎 FC刈谷 東京23FC |
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2009年7月3日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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アマラオ(Amaral)こと、本名ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ(Wagner Pereira Cardozo, 1966年10月16日-)は、ブラジル・サンパウロ州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。
Amaral(アマラオ)という愛称は、1970年代のブラジル代表ディフェンダーだったアマラウに由来する。日本では一般的にアマラオと表記されるが、ブラジルポルトガル語の発音はアマラウ(厳密にはアマラゥ)が近い。
目次 |
[編集] 来歴
1987年、サンパウロ州の3部に所属していたコメルシアルとプロ契約。カッピバリアーノ、イトゥアーノと移籍した後、1992年に当時SEパルメイラスの監督の任に就いていたネルシーニョにプレーを認められ[1]名門パルメイラスにレンタル移籍で加入。移籍初戦となったフルミネンセ戦でゴールを決める。
その直後、当時ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に所属していた東京ガスサッカー部から勧誘を受け、1992年5月13日に初来日[2]。1994年には天皇杯上位進出、1998年には旧JFLでの優勝に貢献するなど活躍。この年の5月には東京ガスがサッカー部を翌1999年からプロクラブ化し、FC東京となる事も発表され、アマラオも引き続いてFC東京と契約しJ2リーグを戦う事となった。
1999年は一時怪我で戦線離脱したがJ2準優勝に貢献し、自身も来日9年目にしてようやく日本のトップカテゴリー・J1の檜舞台に立つことになった。
2000年のシーズン終盤には、翌年からの横浜F・マリノスへの移籍話が実現しそうになったこともあったが、結局2003年シーズン終了までの4シーズンの間、FC東京でJ1を舞台に戦った。しかしチームが若返りを図る一方で本人は現役続行を希望し、2003年シーズン終了後に退団することとなった。この際、クラブのホームスタジアムがあり、本人も当時居住していた調布市から感謝状が送られ、市役所にてセレモニーが執り行われている。
2004年からJ2の湘南ベルマーレに完全移籍したが、故障がちで目立った活躍をすることなく、2005年には日本フットボールリーグ(JFL)のFCホリコシ(現・アルテ高崎)に完全移籍、同年のJFL後期第9節三菱水島FC戦でJFL史上初の1試合5得点を記録している。2006年8月にはチーム事情もあり、シーズン途中から選手を兼ねながら監督を経験している。2007年は新監督を迎えた為、選手として契約を更新していたが、長年悩まされていた膝のケガの回復状態が思わしくなく、同年4月に現役引退を表明。この際、今後は日本で指導者ライセンスの獲得を目指し、将来はJリーグのクラブで監督を務めたいとコメントしている。
同年5月より、ハロー!プロジェクトのメンバーで構成されているフットサルチーム「Gatas Brilhantes H.P.」のコーチに就任。また、外国籍プレイヤーとして初のJFAアンバサダーにも任命された[3]。同年6月より2008年12月まで東京中日スポーツ(同紙はFC東京を応援)にコラム「King of Talk」を連載していた。
2008年10月には、アマラオのドキュメンタリー映画『KING OF TOKYO O FILME(キング・オブ・トーキョー・オ・フィウミ)』が公開された。
2009年4月1日、東京ガスFC時代の同僚である浮氣哲郎が監督を務めるFC刈谷のコーチに就任する事が発表された。同年7月3日、アマラオ自身が選手と同じ視点で指導したいとの考えから、FC刈谷のコーチ兼任での選手登録がされた。これにより2年ぶりに現役復帰したことになり、浮氣監督より年上の選手となった。シーズン終了後、2010年シーズンからの監督専任が発表された[4]。2010年は東海社会人リーグ1部2位で終わり、JFL復帰を逃した。翌シーズンの運営費削減に伴い、同年11月24日、プロ契約監督だったアマラオの退任が発表された[5]。
2011年より、株式会社ファンルーツ所属のコーチングスタッフとして東京23FC監督、FCトレーロス、ファンルーツアカデミーコーチに就任。東京23FC監督としては、東京都リーグ1部優勝、第47回全国社会人サッカー選手権大会優勝に導いたが、同年12月31日付で東京23FC監督を退任、帰国した[6]。
[編集] 評価
FC東京のサポーターからは、キング・オブ・トーキョーの名で愛され[7]、今なお味の素スタジアムでFC東京が試合をする際には、KING AMARAL STUDIUMの巨大な横断幕がゴール裏に掲げられる。
1992年から2003年シーズン終了までに記録された、東京ガス-FC東京における公式戦出場数330は、日本のクラブチームに所属した外国籍選手の「同一クラブにおける出場試合数」としては最多である(ただしクラブのJリーグ加盟が1999年からなので、Jリーグの公式記録としては1998年以前の記録はカウントされていない)。
[編集] エピソード
- 日本での生活も長いため、日本語もかなり流暢に話すことができる。ひらがな・カタカナであれば読む事も支障は少ない。現役引退後日本でサッカー指導者になりたいとの希望からさらに日本語を勉強する事を希望し、公文式の国語の授業を日本の中学生のクラスに混じり勉強した[8]。ブログも日本語で書いている。
- 来日直後からラモス瑠偉との親交が深い。当初、ブラジルとは全く違う日本の環境や食事に馴染めずホームシックになりブラジルに帰りたがったアマラオを、東京のディスコやブラジル料理の食べられる店などに外食に連れて行き元気付けるなど、ブラジル出身の先輩として大きな支えとなった[9]。2008年に行われたアマラオ引退試合にも参加した。
- 来日当初は日本食で口に合うものがなく、「近所にあったそば屋で毎日蕎麦ばかり食べていた」(アマラオ談)。その後好き嫌いはほとんど無くなったが、魚介類は嫌いで自ら口に運ぶ事はない[10]。
[編集] 所属クラブ
- ユース経歴
- 1977年
AAポンチ・プレッタジュニア - 1984年-1986年
パルメイリーニャ (SEパルメイラスのユース) - 1987年
カッピバリアーノユース
- プロ経歴
- 1987年
コメルシアル (loan) - 1988年
カッピバリアーノ - 1989年-1991年
イトゥアーノFC - 1992年
SEパルメイラス (loan) - 1992年-2003年
東京ガス/FC東京 (1995年に完全移籍加入) - 2004年
湘南ベルマーレ - 2005年-2007年4月
FCホリコシ/アルテ高崎 (2006年8月 - 12月は選手兼任監督) - 2009年7月-12月
FC刈谷 (コーチ兼任)
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1987 | コメルシアル | サンパウロ州3部 | 16 | ||||||||
| 1988 | カッピバリアーノ | サンパウロ州2部A | 18 | ||||||||
| 1989 | イトゥアーノ | ||||||||||
| 1990 | サンパウロ州1部 | ||||||||||
| 1991 | |||||||||||
| 1992 | パルメイラス | サンパウロ州1部 | |||||||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1992 | 東京ガス | 11 | 旧JFL1部 | 16 | 7 | - | - | 16 | 7 | ||
| 1993 | 17 | 8 | - | - | 17 | 8 | |||||
| 1994 | 旧JFL | 30 | 20 | - | 3 | 1 | 33 | 21 | |||
| 1995 | 28 | 16 | - | 1 | 0 | 29 | 16 | ||||
| 1996 | 25 | 17 | - | 3 | 5 | 28 | 22 | ||||
| 1997 | 25 | 18 | - | 0 | 0 | 25 | 18 | ||||
| 1998 | 24 | 15 | - | 3 | 2 | 27 | 17 | ||||
| 1999 | FC東京 | J2 | 26 | 15 | 8 | 2 | 3 | 2 | 37 | 19 | |
| 2000 | J1 | 22 | 13 | 2 | 0 | 1 | 0 | 25 | 13 | ||
| 2001 | 25 | 17 | 2 | 0 | 0 | 0 | 27 | 17 | |||
| 2002 | 29 | 15 | 6 | 1 | 0 | 0 | 35 | 16 | |||
| 2003 | 25 | 4 | 6 | 3 | 2 | 0 | 33 | 7 | |||
| 2004 | 湘南 | 12 | J2 | 19 | 2 | - | 2 | 0 | 21 | 2 | |
| 2005 | ホリコシ | 7 | JFL | 24 | 15 | - | 2 | 3 | 26 | 18 | |
| 2006 | 高崎 | 11 | 4 | 1 | - | 0 | 0 | 4 | 1 | ||
| 2007 | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | |||||
| 2009 | 刈谷 | 28 | - | 1 | 0 | ||||||
| 通算 | ブラジル | ||||||||||
| 日本 | J1 | 101 | 49 | 16 | 4 | 3 | 0 | 120 | 53 | ||
| 日本 | J2 | 45 | 17 | 8 | 2 | 5 | 2 | 58 | 21 | ||
| 日本 | JFL | 28 | 16 | - | 2 | 3 | 30 | 19 | |||
| 日本 | 旧JFL1部 | 165 | 101 | - | 10 | 8 | 175 | 109 | |||
| 総通算 | |||||||||||
[編集] 指導歴
- 2006年8月-2006年12月
アルテ高崎 (選手兼任監督) - 2009年4月-12月
FC刈谷コーチ (2009年7月から選手兼任) - 2010年
FC刈谷監督 - 2011年
東京23フットボールクラブ監督
[編集] 監督成績
| 年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | 備考 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | リーグ杯 | 天皇杯 | ||||
| 2006 | JFL | アルテ高崎 | 10位 | - | 2回戦 | 8月より (順位は最終順位) | |||||
| 2010 | 東海1部 | FC刈谷 | 2位 | 16 | 35 | 10 | 5 | 1 | - | - | |
| 2011 | 東京都1部 | 東京23FC | 1位 | 14 | 40 | 13 | 1 | 0 | - | - | |
その他
- 全国社会人サッカー選手権大会 優勝 (2011年)
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ FC東京ファンブック2000 75頁
- ^ FC東京ファンブック2000 72頁
- ^ アマラオ以降、外国籍者へのアンバサダー認定は行われず、制度自体も2010年4月に廃止されたため、アマラオが唯一の外国籍アンバサダーとなった
- ^ アマラオ新監督就任のお知らせ FC刈谷 ニュースリリース 2009年12月20日付
- ^ アマラオ監督退任のお知らせ FC刈谷 ニュースリリース 2010年11月24日付
- ^ アマラオ監督退任のお知らせ 東京23FC ニュースリリース 2011年12月29日付
- ^ この呼び名のきっかけは、1997年JFL第21節・川崎フロンターレ戦に遡る。アマラオはこの試合で4ゴールを挙げた。
- ^ 東京MXTV FC東京vs横浜Fマリノス戦副音声インタビュー 2007年10月6日
- ^ 串田杢弥『KING OF TOKYO アマラオ』ゴマブックス、2008年、50-58頁
- ^ 週刊サッカーダイジェスト 2003年3月25日号 99頁
[編集] 外部リンク
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