コンテンツにスキップ

バーニー・ウィリアムス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Bcxfubot (会話 | 投稿記録) による 2023年4月27日 (木) 23:26個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (外部リンクの修正 http:// -> https:// (www.milb.com) (Botによる編集))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

バーニー・ウィリアムス
Bernie Williams
1999年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 プエルトリコの旗 プエルトリコ自治連邦区サンフアン
生年月日 (1968-09-13) 1968年9月13日(56歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
205 lb =約93 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 中堅手指名打者
プロ入り 1985年 アマチュアFA
初出場 1991年7月7日
最終出場 2006年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム プエルトリコの旗 プエルトリコ
WBC 2006年2009年
獲得メダル
陸上競技
プエルトリコの旗 プエルトリコ
中央アメリカ・カリブ海競技大会ジュニア陸上競技英語版(U-20)
1984英語版 4×100m リレー
中央アメリカ・カリブ海競技大会ジュニア陸上競技英語版(U-17)
1984英語版 200m
1984英語版 400m
1984英語版 4×100m リレー
1984英語版 4×400m リレー

バーニー・ウィリアムス英語: Bernie Williams, 本名:ベルナベ・ウィリアムス・フィゲロアスペイン語: Bernabé Williams Figueroa, 1968年9月13日 - )は、プエルトリコサンフアン出身のミュージシャン、元プロ野球選手中堅手指名打者)。右投両打。

1991年から2006年までヤンキース一筋でプレーしたフランチャイズ・プレイヤーとして知られる。背番号は『51』。正式な引退表明をしないまま、2006年に事実上引退[1]。2015年4月にヤンキースとマイナー契約を結び引退届にサインすることとなった[2]。同年に背番号51がヤンキースの永久欠番に指定されている[3]

経歴

プロ入り前

プエルトリコのベガアルタで育ったウィリアムスは小さい頃から運動神経が抜群だった。野球クラシック・ギターに強い関心を示してきたが、その一方で陸上競技でもプエルトリコの代表となる名を成し、15歳の時に出場した国際大会で4つの金メダルを獲得している[4]。同年代の中では世界有数の400mの選手であった[5]

プロ入り

1985年9月13日、ちょうど17歳を迎えた誕生日の日にウィリアムスはヤンキースとプロ契約(ドラフト外)を結ぶ[6]

当初はオールバニにあったヤンキース傘下のマイナーリーグ球団(AA級)でプレイし、そこでは持ち前の運動神経の良さを発揮し、スイッチ・ヒッティングを身につけた。球団幹部からは素晴らしい素材と目されていたものの、当時(1990年代初頭)のヤンキース外野陣の層が厚かった事から、彼のメジャー昇格は遅れていた。

1991年に怪我で戦列を離れたロベルト・ケリーの代役としてメジャー昇格[6]。7月7日メジャーデビューを果たし、320打席で打率.238の成績を残す。その後一時期マイナー落ちしたが、ダニー・タータブルの怪我で再昇格[6]。以降中堅手のポジションを獲得した。

1993年までには完全に中堅手としてのレギュラーを掴む。しかしその後、チームオーナーであるジョージ・スタインブレナーの意向から、1995年までトレードの噂が絶えなかった。強権的な事で知られるスタインブレナーは彼のプレイスタイルがそれまでの選手とは異なることにストレスを感じ放出を企てていたが、バック・ショーウォルター監督やジーン・マイケルGMの取り成しにより踏み止まった[6]。ウィリアムスは一番打者を任せるには盗塁数が少なく、中堅手にしては弱肩であり、そして打率を残せるがパワーに欠ける中途半端で使いにくい選手であった[6]

1995年に18本塁打を打ち、得点・安打・塁打・盗塁でチーム最多に輝いた[6]。チームはワイルドカードで1981年以来14年ぶりにポストシーズン進出を果たし、シアトル・マリナーズとのディビジョンシリーズで敗れたが、ウィリアムスは打率.429を記録し、第3戦でポストシーズン史上初となる1試合で左右両打席から本塁打を記録した[6]

1996年アメリカンリーグ優勝決定シリーズで打率.474・2本塁打を記録し、同シリーズのMVPを獲得。最終的にヤンキースは勝ち進みワールドシリーズ制覇に至った。

1998年、シーズン最終戦で2安打を放ち、モー・ボーンの打率.337を上回り、打率.339で首位打者に輝いた[6]。そして、MLB史上初めて首位打者・ゴールドグラブ賞・ワールドシリーズ制覇を同じ年に達成した選手となった。シーズンオフには総額8500万ドルの7年契約を結んだ[6]

2002年まで8年連続で3割を記録。チームの中心選手として高い人気を誇った。

2003年ヤンキー・スタジアムでの開幕戦では4番に座ったが、同年から成績が下降しはじめる。

2004年リーグチャンピオンシップシリーズで2本塁打を記録するも、チームは3勝0敗から4連敗というMLB史上初の屈辱でワールドシリーズ進出を逃した。

2005年は7年契約の契約最終年とだったが、打率.249と打撃不振に陥った。

2006年は前年の8分の1の年俸の単年150万ドルでヤンキースと再契約することで合意した。開幕前の3月には第1回WBCプエルトリコ代表に選出された[7]

シーズンでは前年よりも盛り返し、メルキー・カブレラと共に故障者が続出したチームの穴を埋める活躍を見せたが、本来の輝きを取り戻すまでには至らず、シーズン終了後にFAとなり、オフにはヤンキースからマイナー契約での契約を打診されるも拒否し、引退宣言もせずフリーエージェントの状態が続いた。

引退後

ウィリアムスの背番号「51」。
ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番2015年指定。

その後は、プロのミュージシャンとして活動していたが、突如2009年の第2回WBCのプエルトリコ代表に選出され[8]、2大会連続2度目の選出を果たす。2年半のブランクを空けて現役復帰し話題となった。

2011年2月、元同僚のアンディ・ペティットの引退会見に同席し、事実上キャリアが終わったことを認めた。ウィリアムスのポストシーズンにおける80打点の記録はMLB最高記録であり、ギネス世界記録に認定されている[9]

2014年のデレク・ジーターの引退に際して、ヤンキー・スタジアム最終戦でマリアノ・リベラホルヘ・ポサダアンディ・ペティットらと共にサヨナラヒットを打ったジーターを迎えた[10]。 ジーターの最終戦は敵地レッドソックスのフェンウェイ・パークであったが、ウィリアムスはジーターに向けて『Take Me Out to the Ball Game』をアコースティック・ギターで演奏した。

欠番表彰式で、ウィリアムスの記念プレートを前に、かつてのチームメイトであるアンディ・ペティットホルヘ・ポサダマリアノ・リベラデレク・ジーターと写るウィリアムス(写真右から2人目。2015年)

2015年2月16日、ヤンキースはウィリアムスの在籍時の背番号『51』をホルヘ・ポサダの『20』、アンディ・ペティットの『46』とともに永久欠番に指定することを発表し、同年5月24日、ヤンキー・スタジアムで背番号51の永久欠番表彰式が行われた。セレモニーには同じく欠番に指定されたペティット、ポサダに加えてかつてのチームメイトのティノ・マルティネスポール・オニール、マリアノ・リベラ、デレク・ジーターや監督のジョー・トーリが出席し、ウィリアムスを祝福した[11]。ウィリアムスは「プエルトリコから来たやせっぽちの17歳だった。自分がこんな瞬間を迎えられるなんて。本当に幸せ」とスピーチし、喜びを表した[12]

ちなみに、欠番指定されることになったウィリアムスの背番号『51』は、欠番指定される3年前の2012年シーズン途中に交換トレードでヤンキースに入団したイチローに付けさせることも球団の構想にあったが、イチロー自身が、ウィリアムスへの敬意から、「とてもつけることはできない」と固辞し『31』を選んだため、『51』はイチローの手に渡らなかった。

ミュージシャンとしてのキャリア

ギターを披露するウィリアムス

野球での才能の他に、ウィリアムスはミュージシャンとしての力量も高く評価されている。「小さい頃は野球選手よりもプロの音楽家になりたかった」と述べ、ギター演奏の他に作曲も行う。ジャンルはジャズスムーズ・ジャズ)、クラシックポップブラジル系、そしてラテン音楽などと非常に多種多様である。

2003年7月15日に、コンテンポラリー・ジャズレーベルGRPレコード」より、メジャー・デビュー・アルバム『ザ・ジャーニー・ウィズイン (The Journey Within)』を発売。彼のスムーズ・ジャズに対する想いが、サルサなど故郷プエルトリコのリズムに乗って垣間見える一枚となっている。本人の腕前もさることながら参加アーティストの顔ぶれもスムーズ・ジャズのトップ・ミュージシャンばかりで非常に豪華であり、ルーベン・ブラデス(2003年にグラミー賞を受賞)やデヴィッド・サンシャスリーランド・スカラーといったメンバーも参加している。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1991 NYY 85 374 320 43 76 19 4 3 112 34 10 5 2 3 48 0 1 57 4 .238 .336 .350 .686
1992 62 293 261 39 73 14 2 5 106 26 7 6 2 0 29 1 1 36 5 .280 .354 .406 .760
1993 139 628 567 67 152 31 4 12 227 68 9 9 1 3 53 4 4 106 17 .268 .333 .400 .734
1994 108 475 408 80 118 29 1 12 185 57 16 9 1 2 61 2 3 54 11 .289 .384 .453 .837
1995 144 648 563 93 173 29 9 18 274 82 8 6 2 3 75 1 5 98 12 .307 .392 .487 .878
1996 143 641 551 108 168 26 7 29 295 102 17 4 1 7 82 8 0 72 15 .305 .391 .535 .926
1997 129 591 509 107 167 35 6 21 277 100 15 8 0 8 73 7 1 80 10 .328 .408 .544 .952
1998 128 578 499 101 169 30 5 26 287 97 15 9 0 4 74 9 1 81 19 .339 .422 .575 .997
1999 158 697 591 116 202 28 6 25 317 115 9 10 0 5 100 17 1 95 11 .342 .435 .536 .971
2000 141 616 537 108 165 37 6 30 304 121 13 5 0 3 71 11 5 84 15 .307 .391 .566 .957
2001 146 633 540 102 166 38 0 26 282 94 11 5 0 9 78 11 6 67 15 .307 .395 .522 .917
2002 154 699 612 102 204 37 2 19 302 102 8 4 0 1 83 7 3 97 19 .333 .415 .493 .908
2003 119 521 445 77 117 19 1 15 183 64 5 0 0 2 71 8 3 61 21 .263 .367 .411 .778
2004 148 651 561 105 147 29 1 22 244 70 1 5 1 2 85 5 2 96 19 .262 .360 .435 .795
2005 141 546 485 53 121 19 1 12 178 64 1 2 1 6 53 1 1 75 16 .249 .321 .367 .688
2006 131 462 420 65 118 29 0 12 183 61 2 0 1 6 33 5 2 53 14 .281 .332 .436 .768
MLB:16年 2076 9053 7869 1366 2336 449 55 287 3756 1257 147 87 12 64 1069 97 39 1212 223 .297 .381 .477 .858
  • 各年度の太字はリーグ最高

WBCでの打撃成績















































2006[13] プエルトリコ 6 26 24 2 6 1 0 2 13 5 0 1 0 1 0 0 3 1 .250 .280 .542
2009[14] 4 7 5 4 4 2 0 0 6 6 0 0 0 2 1 0 1 0 .000 .286 .000

タイトル

表彰

背番号

  • 51(1991年 - 2006年)

代表歴

脚注

  1. ^ 伊武弘多 (2015年2月5日). “ヤンキース元4番打者の「終わらない旅」 異色のミュージシャン転身”. Full-Count. 2015年2月17日閲覧。
  2. ^ ヤンキース一筋16年のバーニーが引退届サインへ、4度のWS制覇に貢献.SANSPO.COM.2015/04/23
  3. ^ ヤンキース、黄金時代を支えた3選手の背番号を永久欠番に”. AFP=時事 (2015年2月17日). 2015年2月17日閲覧。
  4. ^ Bernie's Profile” (英語). berniewilliams.net. 2008年9月9日閲覧。
  5. ^ Becoming a Yankee Legend” (英語). Bernie Williams.com. 2008年9月9日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i The Ballplayers - Bernie Williams Biography” (英語). BaseballLibrary.com. 2008年12月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年9月9日閲覧。
  7. ^ 2006 Tournament Roster[リンク切れ] The official site of World Baseball Classic (英語) 2016年9月1日閲覧 [リンク切れ]
  8. ^ 2009 Tournament Roster[リンク切れ] The official site of World Baseball Classic (英語) 2016年9月1日閲覧 [リンク切れ]
  9. ^ Most runs batted in a postseason baseball career” (英語). Guinness World Records. 2014年3月6日閲覧。
  10. ^ Core Four in attendance to watch Derek Jeter's 'perfect ending'”. Newsday (September 26, 2014). April 23, 2015閲覧。
  11. ^ Yankees honor Bernie Williams by retiring No. 51 while Derek Jeter returns to Yankee Stadium for first time since retirement”. NY Daily News (May 24, 2015). May 25, 2015閲覧。
  12. ^ バーニー氏、背番号51の永久欠番式で「こんな瞬間を迎えられるなんて」”. サンケイスポーツ (May 25, 2015). May 25, 2015閲覧。
  13. ^ 2006 WBC Player Hitting StatsMLB.com 2023年3月28日閲覧
  14. ^ 2009 WBC Player Hitting StatsMLB.com 2023年3月28日閲覧

関連項目

外部リンク