マイク・グリーンウェル

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マイク・グリーンウェル
Mike Greenwell
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ケンタッキー州ルイビル
生年月日 (1963-07-18) 1963年7月18日(55歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
205 lb =約93 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 左翼手
プロ入り 1982年 MLBドラフト3巡目
初出場 MLB / 1985年9月5日
NPB / 1997年5月3日
最終出場 MLB / 1996年9月28日
NPB / 1997年5月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

マイケル・ルイス・グリーンウェルMichael Lewis "Mike" Greenwell , 1963年7月18日 - )は、アメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビル出身の元プロ野球選手外野手)・カーレーサー。愛称は「ザ・ゲーター」。ジョーイ・テルドスラビッチ(ブレーブス)がいる[1][2]

来歴・人物[編集]

レッドソックス時代[編集]

1982年MLBドラフト3巡目でボストン・レッドソックスに指名され契約。1985年9月5日にメジャーデビュー。1996年までの12年間左翼手としてプレーした。

メジャー2年目の1986年にはまだレギュラーではなかったが、ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズにも出場。1988年には打率と打点で3位、勝利打点[3]はメジャー新記録の23で1位、出塁率2位、長打率5位、敬遠四球1位で、シルバースラッガー賞を受賞。MVP投票でも2位となる[4]。その後も1989年に打率9位、1993年には打率5位、メジャー通算打率.303で、MLBオールスターゲームにも2度出場する。三振(364)よりも四球(460)が多い[5]

阪神時代[編集]

1997年に球団史上最高額の年俸3億円超という条件で阪神タイガースに入団し、来日。シーズン前の春季キャンプ途中で背中の痛みを訴え一時帰国し[6]、再来日は4月30日となった[7]。当時の阪神甲子園球場電光掲示板には7文字が入らなかったため、電光掲示板が改造された。5月3日の対広島戦で公式戦初出場し決勝打を含む2安打2打点、5月10日の対巨人戦で自打球を右足甲に当て骨折し[8]、「野球を辞めろという神のお告げ」と引退宣言し、5月16日に帰国する[9]。当時監督の吉田義男は「嵐のように来て嵐のように去っていった、つむじ風のような男だった」と述べる[10]。試合に出た時期から「GreenWellじゃなくてGoldenWeekだ」等と揶揄された。

このような展開になる伏線は、実は複数存在していた。当時の球団常務取締役の野崎勝義はグリーンウェル本人には好感を持っていたものの、グリーンウェルの代理人ジョー・スロバへの警戒心は最後まで解けなかったという[11]。スロバは過去、MLBで「問題児」として知られ日本では福岡ダイエーホークスで短期間プレーしたものの無断帰国や金銭トラブルなどの問題を起こしたケビン・ミッチェルの代理人を担当しており、同じ時期にグリーンウェル獲得を検討していた近鉄バファローズが獲得を断念した最大の理由も、代理人がミッチェルを担当したスロバであることだった[11]。グリーンウェルが自宅で契約発表をしている最中にもスロバと阪神の担当者が契約の細部を詰めており、阪神球団側が用意したマンションを「狭い」とクレームをつけ、球団は隣の部屋も借り、壁を取り払って2倍の広さにしたのも、「本人と家族とゲストのために」と考えたスロバの要求によるものであった[11][12]。また、同時に2月からの安芸キャンプを途中で離脱できる条項も付け加えられ、これが騒動の火の元になったと日刊スポーツ記者の町田達彦は回想する[11]

1997年1月29日に関西空港に降り立ったグリーンウェルは予定通り2月1日から安芸キャンプに加わり、打撃のみならず守備練習も精力的にこなしていた[13]。セ・リーグ他球団のスコアラーも早めに視察を開始したが、これは契約中の途中離脱事項が公になっていたからであった[13]。2月11日に副業の事務処理と夫人との結婚記念日の祝いを理由に予定通りにキャンプを離脱して一時帰国したが[13]、2月20日になってスロバより「キャンプ中に背中を痛めた」ことを理由に再来日が遅れると伝達[14]。一方的な伝達内容や診断書などの不送達に球団側はスロバに対する疑念を増加させる一方、渉外担当をグリーンウェルのもとに直接派遣させ、早期の再来日の言質をとることには成功する[14]。負傷自体は事実であったが、阪神球団指定の医師による「軽症」の見立てに対してグリーンウェルが自身の主治医から完治の告知をもらうことにこだわった上に治療法についても二転三転したため、明確な復帰時期がなかなか見いだせなかったのも、また事実であった[14]

4月30日に再来日後、前述のように5月3日からの甲子園での広島3連戦に出場し、3試合で12打数5安打5打点の成績でチームの勝率5割復帰に貢献し「救世主到来」を思わせた[7]。しかし、次の中日との2連戦(5月7日・8日ナゴヤドーム)で7打数無安打と広島3連戦とは一転して沈黙し、5月10日からの問題の巨人戦を迎えることとなった[8]。5月10日の試合もヘッドコーチの一枝修平が「悪循環にはまっている」と指摘するほどの調子で第3打席まで快音は聞かれず、問題の第4打席で自打球を当てたあと体勢を崩しながらかろうじて走ったが遊ゴロ併殺に終わる[8]。グリーンウェル自身はその時点では骨折よりもスイングが問題と思っていた節があり、翌5月11日の試合も東京都内の病院で異常が見られなかったために出場したが、4打数1安打に終わる[8]。そして、自打球を受けた右足の痛みは限界をとうに超えており、岡山での試合のため5月12日に新幹線に乗った際は裸足で乗車、岡山に到着するや否や市内の病院で診断を受けたところ、第2中足骨の骨折が判明する[8]。直ちに大阪に引き返し阪大病院で患部を固定したのち、三好一彦球団社長と面会して引退を申し入れた[15]。11日の時点で夫人に「骨折していたならば引退する」旨伝えており[8]、それを履行した形となった。引退を申し入れた際、グリーンウェルは年俸の4割の返上を申し出て受理された[15]。引退をめぐる過程でスロバは一切介在しなかったが、町田は「もしスロバが介在していたら、引退はもちろん退団も許されなかったのではないか」としている[15]

引退後[編集]

引退宣言の後で「引退して農場を経営する」「これからは家族のために頑張る」等と話していた。現在はフロリダに甲子園球場の20倍もの広大な“マイク・グリーンウェルズ・ファミリー・ファン・パーク”という遊園地を建設し、そのオーナーとなっている。

また2005年には、ステロイド剤の使用を告白したカンセコに対して「彼のせいで1988年に自分がMVPになれなかった」と非難し、「ステロイド使用の選手はMVPから除外すべきだ」等と主張した記事で久々に日本のメディアに登場した。カンセコとグリーンウェルは1995年から1996年までレッドソックスで一緒にプレーしている。

2006年NASCARのレーサーとなり、クラフツマントラックシリーズにグリーンライツレーシングの一員として2戦に参戦した。

2008年2月25日、ボストン・レッドソックスのチーム殿堂入りが発表された。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1985 BOS 17 34 31 7 10 1 0 4 23 8 1 0 0 0 3 1 0 4 0 .323 .382 .742 1.124
1986 31 40 35 4 11 2 0 0 13 4 0 0 0 0 5 0 0 7 1 .314 .400 .371 .771
1987 125 456 412 71 135 31 6 19 235 89 5 4 0 3 35 1 6 40 7 .328 .386 .570 .956
1988 158 693 590 86 192 39 8 22 313 119 16 8 0 7 87 18 9 38 11 .325 .416 .531 .946
1989 145 641 578 87 178 36 0 14 256 95 13 5 0 4 56 15 3 44 21 .308 .370 .443 .813
1990 159 682 610 71 181 30 6 14 265 73 8 7 0 3 65 12 4 43 19 .297 .367 .434 .801
1991 147 598 544 76 163 26 6 9 228 83 15 5 1 7 43 6 3 35 11 .300 .350 .419 .769
1992 49 202 180 16 42 2 0 2 50 18 2 3 0 2 18 1 2 19 8 .233 .307 .278 .585
1993 146 603 540 77 170 38 6 13 259 72 5 4 2 3 54 12 4 46 17 .315 .379 .480 .859
1994 95 374 327 60 88 25 1 11 148 45 2 2 0 5 38 6 4 26 12 .269 .348 .453 .800
1995 120 525 481 67 143 25 4 15 221 76 9 5 0 4 38 4 2 35 18 .297 .349 .459 .808
1996 77 318 295 35 87 20 1 7 130 44 4 0 0 3 18 3 2 27 11 .295 .336 .441 .777
1997 阪神 7 29 26 2 6 1 1 0 9 5 0 0 0 0 3 0 0 0 4 .231 .310 .346 .656
MLB:12年 1269 5166 4623 657 1400 275 38 130 2141 726 80 43 3 41 460 79 39 364 136 .303 .368 .463 .831
NPB:1年 7 29 26 2 6 1 1 0 9 5 0 0 0 0 3 0 0 0 4 .231 .310 .346 .656
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

MLB

記録[編集]

MLB
NPB

背番号[編集]

  • 39 (1985年 - 1997年)

脚注[編集]

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  1. ^ Joey Terdoslavich #53
  2. ^ Joey Terdoslavich
  3. ^ 当時は表彰タイトルだった。
  4. ^ 受賞者はホセ・カンセコ
  5. ^ 12.70打数に1三振で、現在のメジャーで三振が少ない事で知られるイチローでも、2013年までに9.82打数で1三振(8,605打数876三振)である。また、イチローの四球は544である。
  6. ^ 【5月3日】1997年(平9) 満を持して登場?グリーンウェル、華々しく2安打も…
  7. ^ a b 「猛虎の80年 激震・・・グリーンウェル・5」日刊スポーツ(大阪)第7版 p. 7
  8. ^ a b c d e f 「猛虎の80年 激震・・・グリーンウェル・6」日刊スポーツ(大阪)第7版 p. 3
  9. ^ ヒット1本5000万円…超大物大リーガーだったグリーンウェル 【タイガース80年】名勝負の目撃者(7)「神のお告げ」で引退したMr.レッドソックス 断じて「不良外国人」ではなかった
  10. ^ 清原14億円、“神のお告げ”グリーンウェル…カラ騒ぎに終わった主砲獲得
  11. ^ a b c d 「猛虎の80年 激震・・・グリーンウェル・2」日刊スポーツ(大阪)第7版 p. 3
  12. ^ 阪神グリーンウェルの真実 本人から猛抗議「撃たれても仕方ない」
  13. ^ a b c 「猛虎の80年 激震・・・グリーンウェル・3」日刊スポーツ(大阪)第7版 p. 4
  14. ^ a b c 「猛虎の80年 激震・・・グリーンウェル・4」日刊スポーツ(大阪)第7版 p. 7
  15. ^ a b c 「猛虎の80年 激震・・・グリーンウェル・7」日刊スポーツ(大阪)第7版 p. 3

関連項目[編集]

外部リンク[編集]