ブラディミール・ゲレーロ

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ブラディミール・ゲレーロ
Vladimir Guerrero
Vladimir Guerrero (1428701289).jpg
ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムでの現役時代
(2007年9月23日)
基本情報
国籍 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
出身地 ペラビア州ニサオ英語版
生年月日 (1975-02-09) 1975年2月9日(48歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
235 lb =約106.6 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 右翼手指名打者
プロ入り 1993年 アマチュアFA
初出場 1996年9月19日
最終出場 2011年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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選出年 2017年
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選出年 2018年
得票率 92.9%
選出方法 BBWAA選出

ブラディミール・アルビーノ・ゲレーロVladimir Alvino Guerrero, 1975年2月9日 - )は、ドミニカ共和国ペラビア州ニサオ英語版出身の元プロ野球選手外野手)。右投右打。愛称は"ブラッド"("Vlad")、又は"ブラッド・ザ・インペーラー"("Vlad the Impaler")[1]同名の息子が有力選手となって以降は、息子との区別のためブラディミール・ゲレーロ・シニア、愛称としてはブラッディ・シニアなども見られる。

現役時代は主にモントリオール・エクスポズロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムで活躍して、2004年にはアメリカンリーグMVPに輝いた[2]。2018年、ドミニカ共和国出身の野手として史上初めて、アメリカ野球殿堂入りを果たした[3]

兄のウィルトン・ゲレーロ英語版も元メジャーリーガーで、エクスポズ時代には4年間一緒にプレーしている。甥はこちらもメジャーリーガーのガブリエル・ゲレーロ。息子のブラディミール・ゲレーロ・ジュニアトロント・ブルージェイズに所属している。

経歴[編集]

プロ入りとエクスポズ時代[編集]

16歳の時にロサンゼルス・ドジャースのドミニカアカデミーのテストを8週間受けたが不合格で、その後テキサス・レンジャーズのテストも不合格だった[4]。しかし、モントリオール・エクスポズはゲレーロの強肩やスピードに魅力を感じ[4]1993年3月1日にドラフト外で入団[5]

1995年1996年と2年連続で球団マイナー最優秀選手に選出された[6]

1996年はA+級ウェストパームビーチ・エクスポズとAA級ハリスバーグ・セネターズでプレーし、AA級ハリスバーグでは打率.360、19本塁打、78打点の成績で、イースタンリーグ最優秀新人選手に選出された[6]9月19日アトランタ・ブレーブス戦においてメジャーデビュー。

1997年は開幕を故障者リスト入りで迎えるなど計3回も故障者リストに入ってしまった。90試合にしか出場できなかったが、打率.302、11本塁打、40打点を記録し、新人王投票では6位に入った。

1998年にメジャーに定着し、7月には打率.385、11本塁打、27打点を記録し、プレイヤー・オブ・ザ・マンスを受賞した[7]。159試合に出場し、球団新記録の38本塁打を放ち、球団史上最年少で30本塁打・200本安打・[7]MVPの投票では13位に入り、オフに財政難のエクスポズにとって異例の5年総額2800万ドルで契約延長[4]

1999年、前年より打率こそ落としたものの、初めてオールスターに出場し、7月27日から8月26日にかけて球団新記録となる31試合連続安打を達成し[8]。球団記録を更新する42本塁打、131打点を記録[9]。打撃二部門で自己最高の記録を残し、初のシルバースラッガー賞を受賞。

2000年、自己最多の44本塁打を記録し、2001年には34本塁打37盗塁を記録し、球団史上初めて30本塁打、30盗塁を達成[10]2002年は7月20日に1000本安打を達成し、8月9日に200本塁打を達成。9月4日にはティム・レインズのシーズン最多敬遠球団記録(26回、1986年)を更新するシーズン27回目の敬遠を記録し、32まで記録を伸ばした[11]。リーグ最多、球団新記録[9]となる206安打を記録し、39本塁打40盗塁と1本塁打足りず40-40クラブ入りを逃したものの2年連続でトリプルスリーを達成。

契約最終年となった2003年は故障の影響でわずか112試合の出場に留まった。シーズン終了後FAとなった。

エンゼルス時代[編集]

2004年1月14日、5年総額7,000万ドルでアナハイム・エンゼルスへ移籍した。英語が話せないため、入団会見の際にはエンゼルスオーナーのアルトゥーロ・モレノが臨時で通訳を行った[12]

2004年は2000年から2002年までの間に残した3年間の平均成績を上回る打率.337、39本塁打、126打点を記録。また、リーグ1位、球団新記録となる124得点を記録し、2000年にダリン・アースタッドが記録したシーズン最多塁打記録に並ぶ366塁打を記録[13]。シーズン終盤の9月・10月には打率.363、11本塁打、25打点を記録し、月間MVPに選出され、オークランド・アスレチックスを破り、チーム18年ぶりの地区優勝の原動力となった(ワールドチャンピオンの2002年はワイルドカード[14]。シーズン終了後にMVPに選出された。ゲレーロにとって初のプレーオフとなったが、ボストン・レッドソックスとのディビジョンシリーズでは打率.167と不調で、チームも1勝もできず敗退。

2005年は5月20日から6月10日までを故障で欠場したが、6月の月間打率球団新記録となる打率.443を記録し、9月2日には300本塁打を達成[15]

2006年は膝を痛めた影響で外野手としてはリーグ最多の11失策を記録するなど守備で精彩を欠き、指名打者として出場することが増えた。

2007年MLBホームランダービーに7年ぶりに出場し、アルバート・プホルスライアン・ハワードといった強打者を抑え、見事初優勝を飾った。

デビュー年を除き打率3割を下回ったことがなかったが、2008年は6月6日時点で打率.254。ゲレーロはスランプ状態と認め、6月1日には三塁に滑り込んだ際に右ひざを負傷し、3試合を欠場[16]。前年まで4年連続で先発出場していたオールスターに選出されずにいた。7月29日にマーク・テシェイラが加入し、マイク・ソーシア監督はテシェーラを「攻撃の基点を作ることがうまく、前後の打者は打ちやすい」と絶賛し、前半戦.286だった打率は後半戦は.330と復調[17]ルー・ゲーリッグに並ぶ11年連続3割25本塁打を達成し、球団はシーズン終了後の10月28日に1,550万ドルのオプションを行使[18]。しかし、膝の手術のため第二回WBCドミニカ共和国代表の辞退が決まった[19]

2009年は怪我の影響もあり、11年継続してきた3割25本塁打が途絶えたばかりか、メジャー定着後最低の成績に終わった。出場100試合のほとんどが指名打者としてであり、高額年俸や守備への不安から、翌年以降の新契約は難航すると見られていた。

レンジャーズ時代[編集]

テキサス・レンジャーズ時代
(2010年10月9日)

2010年1月9日にテキサス・レンジャーズ入団が決定した。背番号はロサンゼルス・エンゼルス時代と同じ「27」に決定。 レギュラーシーズンでは、1年間故障者リストに入ることなく、2年ぶりの3割、3年ぶりの100打点を記録した。チームのリーグ優勝に貢献し、指名打者としてシルバースラッガー賞を受賞した。

オリオールズ時代[編集]

ボルチモア・オリオールズ時代
(2011年5月10日)

2011年2月18日にFAでボルチモア・オリオールズに移籍した。同年に通算2587安打目を放ち、ドミニカ共和国出身選手ではフリオ・フランコを抜いて歴代1位(当時)の安打数を記録した(2017年8月1日現在ではエイドリアン・ベルトレに次いで歴代2位)。オフにFAになった。

ブルージェイズ傘下時代[編集]

2012年は、開幕をFAで迎えた。5月10日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約を結んだ[20][21]5月27日にA+級ダニーデン・ブルージェイズの試合に出場し本塁打を放った。その後、AAAのラスベガス・フィフティワンズに昇格した。6月12日に球団に退団を求め、球団が合意して自由契約となった[22]

その後[編集]

2012年11月4日に故郷ドミニカ共和国の野球リーグでプレーした。

2013年4月4日にアトランティックリーグロングアイランド・ダックスと契約を結んだ[23]が、同年9月13日に引退を表明した。

2017年カナダ野球殿堂入りを果たした[24]。エンゼルスの殿堂入りも果たし、8月26日に式典が行われた[25]

2018年アメリカ野球殿堂入りを果たした[26]。なお、野球殿堂入りの記念式典では、エンゼルスの帽子を被って出席することを表明した(エンゼルスの選手として野球殿堂入りするのは史上初になる。過去にもノーラン・ライアンなど、エンゼルスの在籍歴のある選手の殿堂入りはあったが、殿堂入り式典では他球団の帽子をかぶっての出席であったため)[27]

選手としての特徴[編集]

打撃[編集]

2000年代のMLBを代表する強打者の1人であり、通算8度のシルバースラッガー賞に輝いた。

非常に珍しい素手でバッターボックスに立つ選手。滑り止めの松脂をヘルメットに塗りつけていた。MLB屈指の「バッドボール・ヒッター(悪球打ち)」で知られ[28]、エンゼルス時代に指導したマイク・ソーシアは「(ゲレーロのストライクゾーンは)鼻からつま先まで」と評している[29]。通常、投手は半分を上回る確率でストライクゾーンへ投げるが、ゲレーロに対しては32%(2007年)しか投げていない[30]。逆方向に流す器用さも有し[31]、早打ちで三振は少ない。

走塁[編集]

2001年に本塁打34・盗塁37、2002年に本塁打39・盗塁40(いわゆる30-30クラブのメンバー)を記録するなど俊足でもあった[32]

守備[編集]

肩は2008年当時に現役最強と言われるほど強く[30]、ライト最深部からサードにノーバウンドで送球することができる。ただややコントロールに難があり、現地では彼の送球が「バズーカ」と呼ばれていた。2004年の失策9個のうち6個は送球エラーによるものである。

打球判断も悪く、打球処理も非常に雑であるため、その強肩を以てしてもゴールドグラブ賞とは無縁だった[32]。特に、エクスポズ時代は、毎年のように2ケタ補殺と2ケタ失策を記録しており、1999年には15補殺ながら、19外野失策を喫している。何でもないイージーフライを落球することもしばしば見られた。

エクスポズの本拠地オリンピック・スタジアムで長年、外野手としてプレーしたが、膝を故障したことで守備に就けなくなってしまった。

人物[編集]

2012年に写真を公開し、5人の違う女性との間に8人の子供をもうけている[33]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1996 MON 9 27 27 2 5 0 0 1 8 1 0 0 0 0 0 0 0 3 1 .185 .185 .296 .481
1997 90 354 325 44 98 22 2 11 157 40 3 4 0 3 19 2 7 39 11 .302 .350 .483 .833
1998 159 677 623 108 202 37 7 38 367 109 11 9 0 5 42 13 7 95 15 .324 .371 .589 .960
1999 160 674 610 102 193 37 5 42 366 131 14 7 0 2 55 14 7 62 18 .316 .378 .600 .978
2000 154 641 571 101 197 28 11 44 379 123 9 10 0 4 58 23 8 74 15 .345 .410 .664 1.074
2001 159 671 599 107 184 45 4 34 339 108 37 16 0 3 60 24 9 88 24 .307 .377 .566 .943
2002 161 709 614 106 206 37 2 39 364 111 40 20 0 5 84 32 6 70 20 .336 .417 .593 1.010
2003 112 467 394 71 130 20 3 25 231 79 9 5 0 4 63 22 6 53 18 .330 .426 .586 1.012
2004 ANA
LAA
156 680 612 124 206 39 2 39 366 126 15 3 0 8 52 14 8 74 19 .337 .391 .598 .989
2005 141 594 520 95 165 29 2 32 294 108 13 1 0 5 61 26 8 48 17 .317 .394 .565 .959
2006 156 665 607 92 200 34 1 33 335 116 15 5 0 4 50 25 4 68 16 .329 .382 .552 .934
2007 150 660 574 89 186 45 1 27 314 125 2 3 0 6 71 28 9 62 19 .324 .403 .547 .950
2008 143 600 541 85 164 31 3 27 282 91 5 3 0 4 51 16 4 77 27 .303 .365 .521 .886
2009 100 407 383 59 113 16 1 15 176 50 2 1 0 1 19 3 4 56 16 .295 .334 .460 .794
2010 TEX 152 643 593 83 178 27 1 29 294 115 4 5 0 6 35 5 9 60 19 .300 .345 .496 .841
2011 BAL 145 590 562 60 163 30 1 13 234 63 2 2 0 4 17 3 7 56 23 .290 .317 .416 .733
MLB:16年 2217 9059 8155 1328 2590 477 46 449 4506 1496 181 94 0 64 737 250 103 985 277 .318 .379 .553 .932
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ANA(アナハイム・エンゼルス)は、2005年にLAA(ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)に球団名を変更

年度別守備成績[編集]



中堅(CF) 左翼(LF) 右翼(RF)




































1996 MON 1 4 0 0 0 1.000 - 7 7 0 0 0 1.000
1997 1 0 0 0 0 ---- - 84 147 10 12 3 .929
1998 - - 157 325 9 17 3 .952
1999 - - 160 332 15 19 3 .948
2000 - - 151 299 12 10 3 .969
2001 - - 158 320 14 12 5 .965
2002 - - 161 298 14 10 4 .969
2003 - - 112 217 10 7 1 .970
2004 ANA
LAA
- - 143 308 13 9 2 .973
2005 - - 120 242 8 3 2 .988
2006 - - 126 251 7 11 2 .959
2007 - - 108 208 5 9 3 .959
2008 - - 99 180 8 4 1 .979
2009 - - 2 4 0 0 0 1.000
2010 TEX - 1 1 0 0 0 1.000 17 27 1 2 0 .933
MLB 2 4 0 0 0 1.000 1 1 0 0 0 1.000 1608 3169 126 125 32 .963
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ANA(アナハイム・エンゼルス)は、2005年にLAA(ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)に球団名を変更

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 27(1996年 - 2011年)

脚注[編集]

  1. ^ Landrey, Corinne (2016年12月17日). “Vlad Guerrero's uniform number is etched into the side of a hill he owns in the Dominican Republic”. MLB.com. 2021年11月17日閲覧。
  2. ^ ジョーンズ氏ら4人が野球殿堂入り、ボンズ氏とクレメンス氏は落選”. AFP時事. 2018年1月26日閲覧。
  3. ^ 野茂のライバルらが米国野球殿堂入り 当選した4選手たちの球歴は!?”. スポーツナビ. 2018年1月25日閲覧。
  4. ^ a b c 「ドミニカが生んだ「無限の可能性」 ブラディミール・ゲレーロ」『月刊メジャー・リーグ』2000年7月号、ベースボールマガジン社、2000年、雑誌 08625-7、13 - 15頁。
  5. ^ Vladimir Guerrero Transactions” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年8月24日閲覧。
  6. ^ a b Vladimir Guerrero Awards” (英語). The Baseball Cube. 2009年3月27日閲覧。
  7. ^ a b Biography and Career Highlights 1998” (英語). 2008年1月21日閲覧。
  8. ^ Vladimir Guerrero 1999 Career Highlights” (英語). 2008年4月14日閲覧。
  9. ^ a b Washington Nationals Batting Leaders - Baseball-Reference.com” (英語). 2008年1月21日閲覧。
  10. ^ Vladimir Guerrero 2001 Career Highlights” (英語). 2008年4月14日閲覧。
  11. ^ Vladimir Guerrero 2002 Career Highlights” (英語). 2008年4月14日閲覧。
  12. ^ 『月刊スラッガー』2004年3月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、82頁。
  13. ^ Vladimir Guerrero 2004 Career Highlights” (英語). 2008年4月15日閲覧。
  14. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2005』廣済堂出版、2005年、167頁頁。ISBN 978-4-331-51093-3 
  15. ^ Vladimir Guerrero 2005 Career Highlights” (英語). 2009年3月27日閲覧。
  16. ^ 小林信行 「MLB30球団レポート&全選手個人成績 ロサンゼルス・エンジェルス/LAA チームは首位を走るも、怪物はスランプ」『スラッガー』2008年8月号、日本スポーツ企画出版社、2008年、雑誌 15509-8、79頁。
  17. ^ 小林信行 「MLB30球団レポート&全選手個人成績 ロサンゼルス・エンジェルス/LAA テシェーラの恩恵を最も受けているのは彼」『スラッガー』2008年10月号、日本スポーツ企画出版社、2008年、雑誌 15509-10、79頁。
  18. ^ Spencer, Lyle (2008年10月28日). “Angels exercise buyout on Anderson” (英語). The Official Site of The Los Angeles Angels of Anaheim. 2009年3月27日閲覧。
  19. ^ Spencer, Lyle (2008年12月10日). “Angels' Guerrero to miss Classic Star from Dominican Republic recovering from left knee surgery” (英語). MLB.com. 2008年12月14日閲覧。
  20. ^ Bautista sees Vlad as good fit
  21. ^ Blue Jays Sign Vladimir Guerrero
  22. ^ Blue Jays Release Vladimir Guerrero
  23. ^ VLADIMIR GUERRERO SIGNS WITH DUCKS
  24. ^ Inductees” (英語). Canadian Baseball Hall Of Fame and Museum. 2017年7月14日閲覧。
  25. ^ Angels induct Guerrero into Hall of Fame MLB.com (英語) (2017年8月26日) 2017年8月28日閲覧
  26. ^ Chipper, Vlad, Hoffman, Thome elected to Hall” (英語). MLB.com. 2018年1月25日閲覧。
  27. ^ 殿堂入りのゲレロ氏 式典ではエンゼルスの帽子を選択 球団史上初”. スポーツニッポン. 2018年1月26日閲覧。
  28. ^ 「異次元のコンタクト力!」 殿堂入りしたゲレーロの“超絶悪球打ち”を米紙紹介”. THE ANSWER. 2018年1月25日閲覧。
  29. ^ 野茂のライバルらが米国野球殿堂入り 当選した4選手たちの球歴は!?”. スポーツナビ. 2018年1月25日閲覧。
  30. ^ a b 三尾圭「エンジェルスが実践するベースボール ソーシアボール」『スラッガー』2008年7月号、日本スポーツ企画出版社、2008年、雑誌15509-7、16 - 19頁
  31. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2007』廣済堂出版、2007年、203頁頁。ISBN 978-4-331-51213-5 
  32. ^ a b FOX Sports on MSN: Vladimir Guerrero - Scouting” (英語). 2008年1月31日閲覧。
  33. ^ MLB Star Vladimir Guerrero -- My Baby Mamas Cost $25k a Month ... But It's Cool”. TMZ (2012年6月10日). 2021年7月14日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]