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[[1997年]]、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りした。
[[1997年]]、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りした。

== 21本塁打を放ちながらの突然の引退 ==
1983年6月17日、18日の阪神戦において、大杉は2試合5本塁打を成し遂げ、史上初のセ・パ両リーグで2試合5本塁打を達成した。最終的に規定打席未満ながら21本塁打を残したが突然引退を発表し、プロ野球ファンを驚かせた。その理由は表向きでは自身の「発作性突発性心房細動」と「夫人の入院」が重なったためと言われているが、実際は、大杉勝男自身は生前、自身の書籍「サムライたちのプロ野球:1984年徳間書店」において「球団から無理矢理引退させられた。僕の引退は不整脈なんかでは断じて無い」と打ち明けている。大杉は書籍内において1983年8月3日の対広島戦の守備(打席に山本浩二)から「動悸が激しくなった」と打ち明けておりシーズンオフに病院で検査を受けているが、主治医から「問題なく野球が出来る体である」と診断を下された。それを球団側に伝えると、ヤクルト球団社長から「その医師からはもう野球が出来ない体だと聞いている」と正反対のことを言われたという。大杉は主治医に「そういうことを球団に言ったのか」と確認すると、主治医は「大杉さんにどうして嘘を言わないといけないのですか。大丈夫です。大杉さんは野球をやれる体です。しかし球団のしていることはわかりませんね」と返したという。大杉が再度球団社長に問い詰めると、ヤクルト球団社長は「どうだ、大杉。巨人へ行って野球をやらんか。話はつけてやる。それか今辞めるなら、解説者やコーチとして活躍できるよう約束もしよう」と追い出す発言を出した。大杉は書籍内で「野球が出来ない体であると言ったくせに、巨人へ行けとはどういうことだ。僕が知らないところで球団は僕を辞めさせようと動いていたのだろう。巨人へ行くと新監督に就任した王(貞治)さんにも迷惑がかかる。僕には1つしか答えが残されていなかったのだ」と延々と当時の球団とのやり取りを綴っている。


== 人物 ==
== 人物 ==
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本塁打は「狙って打った」という。(リイド社:大杉勝男のバット人生)その言葉通り1000安打、1500安打、3000塁打、1500打点、4000塁打の節目は本塁打であり、1978年6月6日の対巨人戦でも9回裏2アウトから逆転3ランを放ったり、日本シリーズでの打ち直し本塁打など、数々の劇的シーンの主人公を演じた。
本塁打は「狙って打った」という。(リイド社:大杉勝男のバット人生)その言葉通り1000安打、1500安打、3000塁打、1500打点、4000塁打の節目は本塁打であり、1978年6月6日の対巨人戦でも9回裏2アウトから逆転3ランを放ったり、日本シリーズでの打ち直し本塁打など、数々の劇的シーンの主人公を演じた。


どの投手のどの球種やコースにも素直に順応できる天才的なバッティングの持ち主であった。ライバルの1人であった野村克也は「どんな球種やコースにも体勢を崩さず素直に対応出来るバッティングの体捌きは大杉が歴代ナンバーワンだったのではないか」と公言している。(野村克也「私が見た最高の選手、最低の選手」)また、1992年2月にヤクルトの同僚であった[[八重樫幸雄]]は「右打者では少なくとも落合よりは大杉さんでしょう。落合は読みが素晴らしく、どの投手の軌道も把握しているため対応出来るが、ナチュラルに変化するスライダーやシュートには対応できなかった。反対に大杉さんは9割以上の確率でストレートを待ちながら、変化球が来ても本能的に体を開かずにボールを拾うことができた。イメージ的に落合が『運ぶ』なら、大杉さんは『そのまま打撃する』感じ。それにパワーもある。大リーグに通用するのは大杉さんでしょう」と野村克也の指摘より更に前に大杉の特徴を述べている。(1992年2月初版:二宮清純「最強のプロ野球論」)
どの投手のどの球種やコースにも素直に順応できる天才的なバッティングの持ち主であった。ライバルの1人であった野村克也は「どんな球種やコースにも体勢を崩さず素直に対応出来るバッティングの体捌きは大杉が歴代ナンバーワンだったのではないか」と公言している。(野村克也「私が見た最高の選手、最低の選手」)また、1992年2月にヤクルトの同僚であった[[八重樫幸雄]]は「右打者では少なくとも落合よりは大杉さんでしょう。落合は読みが素晴らしく、どの投手の軌道も把握しているため対応出来るが、ナチュラルに変化するスライダーやシュートには対応できなかった。反対に大杉さんは9割以上の確率でストレートを待ちながら、変化球が来ても本能的に体を開かずにボールを拾うことができた。イメージ的に落合が『運ぶ』なら、大杉さんは『そのまま打撃する』感じ。それにパワーもある。大リーグに通用するのは大杉さんでしょう」と野村克也の指摘より更に前に大杉の特徴を述べている。また、日本人メジャーリーガー第1号の村上雅則も、「大杉ならメジャーリーグに十分通用したと思う」と述べている(1992年2月初版:二宮清純「最強のプロ野球論」)


外角打ちを得意としていた。元阪急の[[山田久志]]は「大杉さんはパワーでガツンと打つように皆さん思われるかも知れないが、決してそうではなく、技で器用にカキンと打つタイプだった。打たれたら次は絶対に負けないと闘志を燃やさせてくれる人。勝負した男の爽快感を漂わせてくれる人だった。本当に良い勝負をさせていただいた打者の1人でしたね」と打ち明けている。
外角打ちを得意としていた。元阪急の[[山田久志]]は「大杉さんはパワーでガツンと打つように皆さん思われるかも知れないが、決してそうではなく、技で器用にカキンと打つタイプだった。打たれたら次は絶対に負けないと闘志を燃やさせてくれる人。勝負した男の爽快感を漂わせてくれる人だった。本当に良い勝負をさせていただいた打者の1人でしたね」と打ち明けている。

2019年7月28日 (日) 23:10時点における版

大杉 勝男
文藝春秋社『週刊文春』第9巻第24号(1967)より
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県勝田郡奈義町
生年月日 (1945-03-05) 1945年3月5日
没年月日 (1992-04-30) 1992年4月30日(47歳没)
身長
体重
181 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
プロ入り 1965年
初出場 1965年4月20日
最終出場 1983年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1997年
選出方法 競技者表彰

大杉 勝男(おおすぎ かつお、1945年3月5日 - 1992年4月30日)は、岡山県勝田郡奈義町出身のプロ野球選手内野手)。

NPBにおける通算本塁打数・通算打点数共に歴代9位(2016年シーズン終了時点)[1][2]

経歴

プロ入り前

3兄弟の次男として生まれ、4歳年上の兄に影響されて野球を始めた。その後、兄と父を病で亡くす。白血病で亡くした兄の「兄の姿を甲子園に再現させて下さい」という願いを叶えることと、自身も兄の出場した甲子園に憧れ、野球に本格的に打ち込むようになった。

関西高校に入学し、硬式野球部に入部。1年でありながら真っ先にレギュラー捕手となる。しかし経済的負担もあって軟式に転向、甲子園に出場することは叶わなかった。卒業後は、1963年に野球部を新設し、高校の先輩である岡田悦哉が監督となった丸井に入社。都市対抗の東京都予選などで活躍するが、創部2年目の1964年に野球部は休部する。

1965年、岡田の勧めもあり東映フライヤーズの入団テストを受ける。テストでは力を発揮できず、球団幹部は獲得に難色を示した。しかし当時の打撃コーチ・藤村富美男が才能を見出し「東映が獲らないなら、私が(藤村の古巣である)阪神に推薦しますが、それでも構いませんか」と監督の水原茂に問い詰めると、「お前がそこまで言うのだから、さぞ凄い打者なんだろう」と水原は大杉の獲得を決意。入団に至った[3]

また、張本勲氏は「新人の大杉を見ると非凡なものを感じた。軽く振っているのに物凄く勢いよく球がグンとびる。なぜかと思って、打率を意識すれば本塁打が出ず、本塁打を意識すれば打率が伸びず、その葛藤で悩んでいた私は新人の大杉のバッティングをよく観察した。するとバットの出方が投手でいう、スリークォーターで、高めに来たときは自然な無理のないアッパー。真ん中は綺麗なレベルスウィング。低めに来たときは腰を落として奇麗に払っていく。球の高低、コースによってもバットの出方は変わらない。そのときに私は確信した。こいつは三冠王を獲る」と打ち明けている(別冊宝島珠玉の好敵手)

また、この大杉に感じたものは後の落合にも共通していたとも述べている。

ライバルであった、阪急の長池は丸井時代の大杉と顔を合わせており、大杉のバッティングを見て「凄いのがいるなあと思った」と振り返っている。

現役時代

水原監督は大杉を入団1年目から積極的に起用し、2年目には101試合の出場、180打数ながら8本塁打を残し、大器の片鱗を見せた。打率.269を記録。

3年目の1967年飯島滋弥コーチの「月に向かって打て」の助言で開眼し、5月の段階で両リーグトップの13号を放つ。レギュラーに定着し、オールスターゲームにも出場。第3戦で江夏豊から満塁本塁打を放ちMVPを獲得する。同年は全試合に出場して打率.291・27本塁打・81打点の成績を残すが、リーグ最多の107三振を喫した。

1968年も三振が目立ったが、34本塁打を放ち89打点を残し、この年から73年まで6年連続30本塁打を記録。

1969年は監督に就任した松木謙治郎から「バットのヘッドが投手寄りに向いていると、近くには詰まり、高めはバットが波を打つ。だから打率が落ちたのだ」と指摘され、バッティングを修正。(リイド社:大杉勝男のバット人生)三振も減り、5試合連続本塁打も達成。日本記録のサヨナラ安打5本。パリーグ記録のサヨナラ本塁打3本を成し遂げた。また、オールスター前の前半戦は両リーグトップの20本塁打60打点の2冠王で折り返し、オールスター選出。最終的に打率.285 36本塁打 99打点を残した。

1970年からは3年連続40本塁打を放った。1970年には自己最高となる打率.339・44本塁打・129打点、日本記録となるシーズン15犠飛を記録。同年と1971年には2年連続本塁打王のタイトルを獲得する。1970年と1972年には打点王を獲得し、張本勲との3、4番コンビはOH砲と呼ばれた。1970年には2試合5本塁打の固め打ちを達成(これは1983年の引退年度にも達成し、史上唯一の両リーグ2試合5本塁打達成打者である)

1972年5月に当時の日本記録である月間15本塁打を達成。更に9号目で当時の王貞治の最少試合数200号を抜き、史上最少試合数200号を更新する。同年7月11日の対南海ホークス戦で大杉は初回に26号本塁打を放つものの、降雨ノーゲームとなり、幻の本塁打となった。最終的に長池徳二阪急ブレーブス)に本塁打1本差の2位。打点は野村克也(南海)と同点1位に終わった。

1973年、東映が日拓ホームになると同時に長年つけていた背番号「51」を「3」に変えるが34本塁打と40本を切り、本塁打2位に終わるも、10月に6試合連続本塁打のパリーグ新記録を達成。

1974年に再起をはかり再び「51」に戻す。シーズン前半こそ、打率3割近くを維持し、14本塁打、両リーグトップの65打点を残し再びタイトル奪還を期待させたが後半戦に極度の不調に陥る。その後復調せず、打率.234と成績が低迷。球団の親会社が前年オフに日本ハムに替わり、東映カラーの払拭を目指すフロントは主力選手の大量放出を断行する。大杉も1975年ヤクルトスワローズ内田順三小田義人との交換トレードで移籍した。

移籍1年目の1975年は荒川博監督の指導が合わず[3]、打率.237と結果を残せなかった。

その後に猛練習を重ね、2年目の1976年に代打3試合連続本塁打の離れ業でレギュラーに返り咲き、シーズン出遅れながら前半を打率.312 13本塁打で折り返す。最終的に打率.300・29本塁打・93打点の好成績を残す。1977年からは広岡達朗が監督に就任した。同年は打率.329・31本塁打・104打点を記録した。

1978年には開幕から5番打者を務め、後半戦は4番で打線を引っ張り、チームも開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てた。同年はシーズン前半を打率2位の.343で折り返す。(1位はヒルトンの.351)後半戦も好調で打率.327・30本塁打・97打点を記録する活躍を見せて球団のリーグ初優勝に貢献。阪急との日本シリーズでは同じ岡山出身の松岡弘とともに活躍した。大杉は第7戦の6回裏に足立光宏からレフトポール際に本塁打を放った。この判定を巡って阪急の監督の上田利治が猛抗議。1時間19分も試合が中断するも、判定は覆らなかった。抗議されたことに怒った大杉は、次の8回裏2アウトで迎えた第4打席で山田久志から文句なしの本塁打を放ち、チームは日本一となった。この2打席連続本塁打で大杉は第2戦・第5戦の本塁打と合わせて長嶋茂雄のシリーズ4本塁打の記録に並び、同じく長嶋のシリーズ記録であった9打点を更新する10打点を残し、シリーズMVPを獲得した。

1980年は前年のスランプを引き摺り、開幕から6番を打たされ続けた。6月初旬まで復調の兆しさえ見えなかったが、4番に戻ると復調。打率.301 21本塁打 82打点を残し、スランプを脱出した。

1981年は36歳ながら、巨人の篠塚利夫と激しい首位打者争いを演じた。最終的にキャリアハイの打率.343を記録するも、首位打者には及ばず。打率3位。

1982年は前年の好調を維持し、6月中旬の段階で打率.340 10本塁打を残しており、37歳とは思えない活躍を見せていたが、それ以降急激な途中退場が多くなり、規定打席に届かないままシーズンを終える。

1983年6月3日、史上初の両リーグ1000安打を達成[4]。6月17日、18日の阪神戦において、2試合合計5本塁打を達成。史上初の両リーグ2試合5本塁打を残した。8月8日には史上初の両リーグ1000試合出場達成。両リーグ200本塁打の記録[5]もあと1本まで迫っていたが(通算本塁打はパ・リーグで287本、セ・リーグで199本)、持病の不整脈が悪化し、夫人が入院生活を送っていたこともあり、同年限りでの現役引退を表明した。引退試合のあいさつで「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません」という言葉を残した。また引退会見の席では「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」という句を詠んでいる。

引退後

引退発表の日、背番号8がヤクルト初の欠番に内定。1984年から1989年までフジテレビニッポン放送野球解説者を務め、1990年横浜大洋ホエールズの一軍打撃コーチに就任したが、1991年に癌が判明し退団。

1992年4月30日肝臓癌のため死去。47歳没。名球会会員最初の物故者となった。

1997年野球殿堂入りした。

21本塁打を放ちながらの突然の引退

1983年6月17日、18日の阪神戦において、大杉は2試合5本塁打を成し遂げ、史上初のセ・パ両リーグで2試合5本塁打を達成した。最終的に規定打席未満ながら21本塁打を残したが突然引退を発表し、プロ野球ファンを驚かせた。その理由は表向きでは自身の「発作性突発性心房細動」と「夫人の入院」が重なったためと言われているが、実際は、大杉勝男自身は生前、自身の書籍「サムライたちのプロ野球:1984年徳間書店」において「球団から無理矢理引退させられた。僕の引退は不整脈なんかでは断じて無い」と打ち明けている。大杉は書籍内において1983年8月3日の対広島戦の守備(打席に山本浩二)から「動悸が激しくなった」と打ち明けておりシーズンオフに病院で検査を受けているが、主治医から「問題なく野球が出来る体である」と診断を下された。それを球団側に伝えると、ヤクルト球団社長から「その医師からはもう野球が出来ない体だと聞いている」と正反対のことを言われたという。大杉は主治医に「そういうことを球団に言ったのか」と確認すると、主治医は「大杉さんにどうして嘘を言わないといけないのですか。大丈夫です。大杉さんは野球をやれる体です。しかし球団のしていることはわかりませんね」と返したという。大杉が再度球団社長に問い詰めると、ヤクルト球団社長は「どうだ、大杉。巨人へ行って野球をやらんか。話はつけてやる。それか今辞めるなら、解説者やコーチとして活躍できるよう約束もしよう」と追い出す発言を出した。大杉は書籍内で「野球が出来ない体であると言ったくせに、巨人へ行けとはどういうことだ。僕が知らないところで球団は僕を辞めさせようと動いていたのだろう。巨人へ行くと新監督に就任した王(貞治)さんにも迷惑がかかる。僕には1つしか答えが残されていなかったのだ」と延々と当時の球団とのやり取りを綴っている。

人物

現役時代は道具を大切にし、特にバットにおいては毎日手入れを欠かさず、牛骨を使って木目を締め、体調に応じてバットの重さも変えていた。しかし普段は850gの軽いバットだった(別冊宝島:王長嶋だけがスターじゃない)

本塁打は「狙って打った」という。(リイド社:大杉勝男のバット人生)その言葉通り1000安打、1500安打、3000塁打、1500打点、4000塁打の節目は本塁打であり、1978年6月6日の対巨人戦でも9回裏2アウトから逆転3ランを放ったり、日本シリーズでの打ち直し本塁打など、数々の劇的シーンの主人公を演じた。

どの投手のどの球種やコースにも素直に順応できる天才的なバッティングの持ち主であった。ライバルの1人であった野村克也は「どんな球種やコースにも体勢を崩さず素直に対応出来るバッティングの体捌きは大杉が歴代ナンバーワンだったのではないか」と公言している。(野村克也「私が見た最高の選手、最低の選手」)また、1992年2月にヤクルトの同僚であった八重樫幸雄は「右打者では少なくとも落合よりは大杉さんでしょう。落合は読みが素晴らしく、どの投手の軌道も把握しているため対応出来るが、ナチュラルに変化するスライダーやシュートには対応できなかった。反対に大杉さんは9割以上の確率でストレートを待ちながら、変化球が来ても本能的に体を開かずにボールを拾うことができた。イメージ的に落合が『運ぶ』なら、大杉さんは『そのまま打撃する』感じ。それにパワーもある。大リーグに通用するのは大杉さんでしょう」と野村克也の指摘より更に前に大杉の特徴を述べている。また、日本人メジャーリーガー第1号の村上雅則も、「大杉ならメジャーリーグに十分通用したと思う」と述べている(1992年2月初版:二宮清純「最強のプロ野球論」)

外角打ちを得意としていた。元阪急の山田久志は「大杉さんはパワーでガツンと打つように皆さん思われるかも知れないが、決してそうではなく、技で器用にカキンと打つタイプだった。打たれたら次は絶対に負けないと闘志を燃やさせてくれる人。勝負した男の爽快感を漂わせてくれる人だった。本当に良い勝負をさせていただいた打者の1人でしたね」と打ち明けている。

ファンサービスにも積極的で、本塁打を打った後に観客に向けて投げキッスをするなどのパフォーマンスを行っていた。また、愛妻家であり、生前書いていた日記のほとんどは夫人にあてたもので、スランプに陥れば妻も世間から責められるからと奮起したり、ヤクルトが初優勝した時は他の選手と違い、真っ先に夫人の待つ家に帰ったりしている。

グラウンド上ではケンカっ早く、乱闘では相手選手に殴りかかることがたびたびあった。1970年の西鉄戦では、西鉄の攻撃時、西鉄の二塁走者カール・ボレスが左中間のフライでタッチアップした際に二塁のベースカバーに入った大杉がボレスと接触した。この接触が余りにも激しかったため、大杉は激怒し、ボレスにつかみかかった。ボレスも応戦して大杉に殴りにかかったが、大杉は回避して逆に右拳でボレスを殴り、昏倒させている[6]。 また1978年の巨人戦で両軍入り乱れての乱闘の際には、当時の巨人監督である長嶋茂雄にも殴り掛かって一発加えている。大杉自身は乱闘の際に興奮しすぎて、長嶋に殴り掛かったことは覚えていないという。巨人の選手として立ち会っていた元同僚の張本勲が暴れる大杉を止めないといけないほどであった。コーチになってからも同様で、不整脈の持病がありながらも1990年6月24日の広島戦では外野まで追い掛け回したマイク・ヤングに掴みかかるなど晩年でも血気盛んであった。

持論は「あいさつのできない奴は伸びない」であり、「あいさつのできない奴は大抵、二流か三流で終わる」と指摘している。

阪急の長池をライバルとして認めており、1967年のお互いの27本塁打を「あれが競争の合図だった」と生前語っていた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1965 東映
日拓
日本ハム
60 113 104 7 20 5 1 1 30 13 0 1 1 2 5 0 1 23 3 .192 .232 .288 .521
1966 101 203 186 29 50 6 1 8 82 28 1 0 2 3 7 0 5 29 1 .269 .308 .441 .749
1967 134 552 491 64 143 25 1 27 251 81 1 4 4 3 46 4 8 107 11 .291 .359 .511 .871
1968 133 536 476 76 114 17 1 34 235 89 4 6 1 3 51 7 5 106 15 .239 .318 .494 .811
1969 130 548 495 71 141 22 2 36 275 99 3 3 0 3 43 9 7 77 16 .285 .349 .556 .904
1970 130 556 492 84 167 27 2 44 330 129 5 4 0 15 44 1 5 61 18 .339 .388 .671 1.059
1971 130 562 489 74 154 17 1 41 296 104 7 8 0 4 63 18 6 65 15 .315 .397 .605 1.002
1972 130 559 492 81 145 18 1 40 285 101 0 1 0 2 57 9 8 58 21 .295 .376 .579 .955
1973 130 548 478 74 129 14 1 34 247 85 3 1 0 7 59 2 4 56 21 .270 .350 .517 .867
1974 130 521 461 54 108 14 0 22 188 90 4 2 0 8 48 7 4 73 12 .234 .307 .408 .715
1975 ヤクルト 115 431 389 42 92 9 1 13 142 54 1 3 3 4 30 1 5 64 13 .237 .297 .365 .662
1976 121 466 423 62 127 21 1 29 237 93 0 3 0 3 35 2 5 43 19 .300 .358 .560 .919
1977 123 505 453 62 149 19 1 31 263 104 0 2 0 8 37 9 7 65 16 .329 .382 .581 .963
1978 125 516 462 73 151 17 0 30 258 97 0 2 0 3 47 4 4 51 27 .327 .391 .558 .950
1979 118 456 413 46 100 18 0 17 169 68 1 1 0 2 38 1 3 74 10 .242 .309 .409 .718
1980 118 462 425 52 128 19 1 21 212 82 0 3 0 7 27 2 3 42 14 .301 .342 .499 .841
1981 120 453 414 59 142 21 2 20 227 78 1 3 0 4 33 8 2 43 12 .343 .391 .548 .939
1982 88 324 298 30 84 11 0 17 146 59 1 0 0 4 22 3 0 39 11 .282 .327 .490 .817
1983 99 349 322 40 84 6 2 21 157 53 0 0 0 1 23 5 3 40 11 .261 .315 .488 .803
通算:19年 2235 8660 7763 1080 2228 306 19 486 4030 1507 32 47 11 86 715 92 85 1116 266 .287 .350 .519 .869
打撃ベストテン順位及び回数
打率 本塁打 打点
1965年
1966年
1967年 6位 6位 4位
1968年 2位 3位
1969年 10位 2位 2位
1970年 2位 1位 1位
1971年 6位 1位 4位
1972年 9位 2位 1位
1973年 2位 5位
1974年 6位 2位
1975年
1976年 8位 3位
1977年 5位 7位 4位
1978年 4位 9位 7位
1979年
1980年 8位 5位
1981年 3位 8位
1982年
1983年
通算 9回 11回 13回
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

タイトル

表彰、記録

  • ベストナイン:5回 (1967年、1969年 - 1972年)
  • ダイヤモンドグラブ賞:1回 (1972年)
  • オールスター選出9回(1967年、69年、70年、72年~74年、77年、80年、81年)
  • 5試合連続本塁打(1969年)
  • 6試合連続本塁打パリーグ記録(1973年10月2日~10月9日)
  • サヨナラ本塁打3本パリーグ記録(1969年)
  • サヨナラ安打5本日本記録(1969年)
  • シーズン15犠飛日本記録(1970年)
  • 月間本塁打15本(1972年5月)
  • セ・パ両リーグ2試合5本塁打(1970年8月6日対阪急戦・8日対南海戦、1983年6月17日・18日対阪神戦)
  • 日本シリーズMVP:1回 (1978年
  • 日本シリーズ4本塁打日本記録
  • 日本シリーズ10打点日本記録
  • オールスターゲームMVP:1回 (1967年 第3戦)
  • セ・パ両リーグ1000安打(1983年 6月3日対中日戦)
  • セ・パ両リーグ1000試合(1983年 8月8日対巨人戦)
  • 野球殿堂競技者表彰(1997年)

背番号

  • 51 (1965年 - 1972年、1974年)
  • 3 (1973年)
  • 8 (1975年 - 1983年)
  • 88 (1990年 - 1991年)

関連情報

著書

関連書籍

  • 『大杉勝男:神宮に咲いたかすみ草』(奥田益也原作、高橋達央作画、ぎょうせい〈名球会comics 6〉、1992年11月、ISBN 4324026351

出演番組

脚注

  1. ^ 本塁打 【通算記録】 - 日本野球機構オフィシャルサイト 2016年12月16日閲覧。
  2. ^ 打点 【通算記録】 - 日本野球機構オフィシャルサイト 2016年12月16日閲覧。
  3. ^ a b 大杉勝男『大杉勝男のバット人生 アイ・ラブ・素敵な野球野郎たち』リイド社、1984年、[要ページ番号]頁。ISBN 4947538422 
  4. ^ リーグを問わない2球団での1000安打も史上初。
  5. ^ この記録は後に落合博満によって達成された。
  6. ^ このような暴力行為があったにもかかわらず、大杉は退場となっていない。この時の二塁塁審は沖克己で、試合後記者に大杉を退場にしなかった理由を問われ「パンチが速過ぎて見えなかった」と答えた。

関連項目

外部リンク