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=== G7閉幕後の記者会見での出来事 ===
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記者会見での中川の姿は日本の[[新聞]]やテレビの[[ニュース]]で大きく取り上げられ、その結果、世界中に報道された。
記者会見での中川の姿は日本の[[新聞]]やテレビの[[ニュース]]で大きく取り上げられ、その結果、世界中に報道された。

2009年7月5日 (日) 12:50時点における版

中川 昭一
生年月日 (1953-07-19) 1953年7月19日(70歳)
出生地 東京都渋谷区宮代町
(本籍地:北海道広尾郡広尾町)
出身校 東京大学法学部
所属政党 自由民主党伊吹派
親族 祖父・中川文蔵(広尾町議)
父・中川一郎(衆議院議員)
叔父・中川義雄(参議院議員)
公式サイト 衆議院議員・中川昭一
選挙区 北海道第11区
当選回数 8回

内閣 麻生内閣
在任期間 2008年9月24日 - 2009年2月17日

内閣 第3次小泉内閣改造内閣
在任期間 2005年10月31日 - 2006年9月26日

内閣 第1次小泉第2次改造内閣 -
第3次小泉内閣
在任期間 2003年9月22日 - 2005年10月31日

内閣 小渕内閣
小渕内閣第1次改造内閣
在任期間 1998年7月30日 - 1999年10月5日
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中川 昭一(なかがわ しょういち、1953年7月19日 ‐ )は、日本政治家自由民主党衆議院議員(8期)。志帥会会長代行。過去に農林水産大臣経済産業大臣自由民主党政務調査会長財務大臣金融担当大臣を歴任した。超党派でつくる北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟の会長代行を務める。自民党内では拉致問題特命委員長および集団的自衛権に関する特命委員長を入閣前まで務める。選挙区は北海道11区。

農林水産大臣、科学技術庁長官を務めた中川一郎は父。参議院議員中川義雄は叔父。

政策

政治思想

信条・政策を共有する安倍晋三麻生太郎の所謂・AAダブルエー)に中川を加えた3人はANAとも称される。さらに、平沼赳夫を加えたHANAや、中川、麻生に菅義偉甘利明を加えたNASAとも呼ばれる。

農政を中心に、郵政、電波、文教など幅広く政策に通じる。

農政

アメリカ合衆国農務長官エドワード・トマス・シェーファー(左)と

典型的な農林族議員として知られていたため、小泉政権での経済産業大臣就任(2003年)は事務方から驚きと困惑をもって迎えられたが、日本の農業に打撃を与えかねない農業作物の自由化が問題となっていた自由貿易協定(FTA)交渉を巡っては、農林族の大物として党内の族議員の反発を抑えつつ、積極的に推進してメキシコフィリピンとの合意に至るなど、自由化に反対する族議員とは異なる姿勢を見せた。続く2005年の内閣改造では農水大臣に横滑りし、引続きWTOの通商交渉を行った。

2006年1月30日衆議院予算委員会BSE問題での答弁で、「アメリカでの調査は施行しておらず、閣議通りに調査しなかった」と発言し、閣議決定と実際が相違したことを農水大臣として認めた。

2008年5月2日、アメリカ訪問の際に、農務長官のエドワード・トマス・シェーファーと会談。会談の中では、アメリカ産牛肉の輸入再開に対する懸念を示した。

経済

2008年10月10日EDT)、アメリカ合衆国財務省での先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議にて(前列の右から3番目)

金融界の出身で住専問題・税制改正に関わるなどして財政金融には明るい。2003年からは経済産業大臣を2年間務め、2008年からは財務大臣を務めた。

財務大臣就任時、日本を含めた各国は世界的な金融危機に陥っている状況であった。国内市場に対する危機回避として、政府保有株の売却凍結、空売り規制強化、ドル供給オペ拡充、無制限のドル貸し出し政策など、迅速な対応を取った。中川は、世界的には以下のような貢献をしている。

財務大臣就任後間もない2008年10月10日の先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議では、IMF(国際通貨基金)に新興・中小国向けの新たな緊急融資制度を設ける構想を提案し、G7各国から高い評価を受けた[1]。この「中川構想」提案に対して、ブラジルを含む中南米の低収入国がIMFCで歓迎する公式声明を出した[2]。実際にウクライナ、ベラルーシ、パキスタンが、中川構想ベースによるIMFからの緊急融資で救済された。

2009年2月14日のG7では、会議に先立ち、2月13日にアメリカの財務長官のティモシー・フランツ・ガイトナーと会談し、バイ・アメリカン条項に懸念を示したうえで、保護主義の排除で一致した[3]。その後の本会議では、日本が先頭に立って、G7各国の間で保護主義的な動きに走ることがないよう牽制する姿勢が注目され、特に開催国イタリアのメディアは高く評価した[4]。 さらに、IMFに外貨準備金の一部(1000億ドル)[5]を拠出する取り決めに正式に署名し、新興・中小国の救済に充てられることになった[6]。これに対して、IMF専務理事のストロスカーンより「日本による融資は、これまで人類の歴史で最大のものだ」という謝意が表明された[7][8]

経済産業大臣時代の政府系金融機関の統合問題では財務大臣(当時)の谷垣禎一とともに政策金融の重要性を訴え、首相小泉純一郎総務大臣竹中平蔵(いずれも当時)と意見が分かれたことがあった。

財界などが求める法人税減税には賛成の立場を取り、2兆円の法人税減税を提唱している[9][10]

2006年4月7日記者会見で、当時の経済産業大臣で親中派二階俊博が打ち出した「東アジアEPA経済連携協定)」構想について、「この構想は中国の参加を想定している。昨年春に中国で起きた反日デモの、一般人や民間企業が襲われたことの総括もできていない」と異論を唱えた。中川は同日「日本は中国と経済連携協定締結の努力をするべきではない。なぜなら中国は日本国民の安全を保証できないからだ」とも語っている。さらに、中川は同年6月6日の記者会見で日本政府が凍結していた中国向け円借款の再開を決めたことについて「なぜ中国に対し、また援助するのか。正直言って分からない」と述べた。

外交・安保・その他

外交や国家観においては概して保守的であり、中国や北朝鮮に対する強硬発言が目立つ。経済産業大臣時代、中国とのガス田問題では法的・理論的根拠による姿勢を崩さず、帝国石油に初めて試掘権を与えた。中国側の要求する共同開発についても、前提として日中中間線より中国側でも日本側に試掘を認めるよう再三要求している。また拉致問題に早くから取り組んできた政治家の一人であり、拉致議連の会長もつとめた(家族会代表の横田滋は中川を最も信頼する国会議員の1人に挙げている)。毎年靖国神社に参拝することも欠かさず、経産大臣、農水大臣の職にある際にも参拝をしている。政治家としての活動は「親父の遺言」とたびたび公言している。

2006年10月15日、テレビ番組内で「非核三原則は国民との重い約束だ。しかし、最近の北朝鮮の核兵器実験の動向を受けて、この約束を見直すべきかどうか議論を尽くすべきだ」とアドバルーン発言。その翌日、自民党を含む政治家からの非難及び国内世論(特に反核団体)の非難の声や、アメリカ大統領のジョージ・W・ブッシュ(当時)から苦言を述べられたことを受けて釈明した。しかし同時に「非核三原則の下で核を持たずにどういう対抗措置ができるのか真剣に考えなければならない」と指摘。「その議論と非核三原則を守ることは矛盾しない」と強調した。各国が北朝鮮の核問題への対応に追われる中、中川の発言によって「北が核を持てば日本も核武装するのではないか」との(米中への)外交的圧力が強まり、米中との連携を強化する結果となった。訪米中の10月27日にも、元副大統領のダン・クエールや元上院議員のトム・ダシュルらアメリカの要人たちを相手に、“NPTや非核三原則の堅持は当然”としながらも日本の核武装の是非について繰り返し“論議すべし”と言及。これらの発言に対し、民主党前原誠司らから批判もあった。2009年4月5日に北朝鮮がミサイルを発射したことについて「純軍事的に言えば核に対抗できるのは核だというのは世界の常識だ」と述べ、日本は核武装について議論をすべきであることを表明している[11]

中川は、毎日新聞が2003年の総選挙直前に、日本の核武装に対する4項目のアンケートをおこなった際にも「状況によっては検討すべき」と答え、2006年11月1日の記者会見でも「(北朝鮮が核実験を行った)この時期だからこそ提起することに意義がある」と語っている。

中川の核問題発言について、実際に日本の核武装化を目指して運動を行っているわけではなく、あくまで非核三原則を守ることによって日本が得られる利益について議論しようとしているだけだとの意見もある[要出典]エラー: タグの中に無用な文字が含まれていないか、{{要出典範囲}}と{{要出典}}を間違えていないかを確認してください。貼り付け年月は「date=yyyy年m月」、チップテキストに表示する文字列は「title=文字列」と指定してください。

2006年10月23日付けの毎日新聞によると、同紙の取材に、教員免許の更新制度に関連して「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモ騒音をまき散らしている」「(デモという)下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許剥奪だ」と、日教組の活動を強く批判した。

2006年12月19日、中川は産経新聞のインタビューに答え、官憲(役人、特に警察関係)による慰安婦募集の強制性を認めた1993年の「河野談話について早期に見直しを検討すべきだとの考えを示した。自身の核論議発言に関しては直後に雑誌で「最近は非核三原則に『言わせず』を加えた非核四原則どころか、『考えてもいけない』という非核五原則だ」と指摘し、国会で議論が封殺されている現状を批判した。

週刊新潮(2007年2月2日号)の櫻井よしことの対談では、核論議と海洋権益保護の必要性を強く訴えた。旧ソ連北方領土侵略を「20世紀最大の国際法違反」としたうえで、当時の外務大臣であった麻生太郎が唱えた「北方領土・面積二等分論」を激しく批判している。中川は「面積二等分論」について、外務省の暴走、との認識を示している。中川は同領土問題に対し、「北海道の政治家として、絶対に譲れない一線。領土というのは2島と言ってしまった瞬間に、2島以上のものは返ってこない」と断言している。

2007年12月17日慶應義塾大学の授業における講演で「原爆投下はアメリカが世界ナンバーワンの軍事力を持つための実験だった」と主張。さらに「我々は実験台にされた」としてアメリカに抗議し、場合によっては国会でも非難決議を行うべきという見解を示した。また、中川は「原子力船、あるいは原子力潜水艦を持つ、という議論が何で出てこないのかなあと、私は思っているわけであります」と切り出し、国内唯一の原子力実験船だった「むつ」が放射線漏れ事故を起こして以来、動力としての原子力を活用しようという動きが事実上なくなっていることを指摘。軍事目的の利用については否定しつつも、「原子力タンカー」の実現を訴えた[12]

対東アジア認識

1998年7月31日、農水大臣就任直後の記者会見で「強制連行があったのか、なかったのか分からない。中学校教科書に従軍慰安婦問題が記述されたことも疑問だ」と発言した。

2001年4月14日、北海道帯広市内で、歴史教科書問題をめぐる報道機関に対して、「ヤコブ病で脳がスポンジ状態になっていて思考が停止している」と発言し、薬害ヤコブ病訴訟の原告団から、発言の撤回と謝罪を求める抗議文を提出され、後日謝罪した。

2005年、NHK番組改変問題に関与したと報道される。中川は、報道当初は「公正中立の立場で放送すべきであることを指摘した。政治的圧力をかけて中止を強制したものではない」と主張したが、その後「NHKが説明に来たのは(番組放映後の)2月2日。放送内容の変更や放送中止に関しては一切言っていない」と見解を変えている。朝日新聞と中川の対立の根は、1998年に中川が小渕内閣で農水大臣をつとめていた際、省内の会見場に日の丸を掲揚したことに対して朝日新聞が批判したことが発端である。2008年10月17日には、閣議後の会見の場で中川が日の丸を掲揚した際、会見を主催する財務省の記者クラブ・財政研究会の一部の記者が「国民の中には違和感を持つ人もいる」と発言したが、それに対して中川は「世界に発信する場という認識で国旗掲揚は当然だ」と述べた。

2005年8月13日の記者会見で、1998年にミサイルを発射した(三陸沖に着弾)北朝鮮について、中川は「相手(北朝鮮)はまともな国ではない。気違いだと思っている」と発言し、保守派の賞賛を受けた。

2006年10月20日夜、静岡県浜松市内の講演で、北朝鮮による日本への核攻撃の可能性に関し「普通はやらないが、あの国の指導者はごちそうを食べ過ぎて糖尿病ですから考えてしまうかもしれない」と述べた。その後「指導者がぜいたくざんまいをしているのはおかしいという趣旨の発言で、誤解のないようにしてほしい」と釈明した。

2007年2月、名古屋での講演会で「中国は北京オリンピックを契機に経済・軍事的台頭を終える準備を進めているのではないか。日本はあと20年もすれば中国の省になっているかもしれない」と発言し近年の中国における軍拡路線を批判・懸念するという中国脅威論を唱えた。

2007年4月15日に都内のホテルで講演した際、中国の首相である温家宝が来日したことに対して「日本のナンバー1が行ったのに、中国のナンバー3が来るというのは、外交儀礼から言っておかしい」と、中国の外交姿勢は非常識であると批判した。

2007年4月22日、都内で行われた拉致問題の国民大集会に出席する。そこで北朝鮮の不誠実な態度を激しく批判したうえで、日本独自で北朝鮮への「テロ支援国家指定」を可能にできる法整備に言及した。前国連大使ジョン・ボルトンらの辞任後、北朝鮮に融和的な対応が見られるアメリカの政策転換を意識した発言と見られる。

2007年5月9日、都内で開かれた、伊吹派の政治資金パーティーで、「日米同盟強化や国際貢献の観点から武器輸出三原則を緩和すべき」という認識を示す。

2007年5月17日、安倍が掲げる価値観外交および中国の脅威に対抗するため、インドオーストラリアとの連携を促進させるための議員連盟・「価値観外交を推進する議員の会」の旗揚げに関与する。

2007年7月6日、ラジオ番組内で1993年の従軍慰安婦問題に関する河野談話について、「(河野洋平は)自虐的な方」、「外国なんか、うそでも誇りを持って(話を)する。(日本政府が)真実と思われるものを封じ込めているのは納得できない」と発言した。

中央公論(2008年2月号)でジャーナリスト田原総一朗田中均・元外務審議官と鼎談。その中で、金正日体制崩壊後、衆議院の「北朝鮮復興委員会」を創設するとし、その委員長として北朝鮮の復興・民主化推進に強い意欲を示した。

自民党内での動き

父・一郎の自殺後に起きた鈴木宗男との後継争いは、当時、マスコミから骨肉の争いと書き立てられた。当選後は父の派閥であった自由革新同友会に所属、その後は清和会→亀井グループ→志帥会と歩み、農水系の有力議員として地歩を築いた。しかし早くから竹下派で頭角を現し、経世会系の実力者に上り詰めた鈴木宗男には後れを取っていた。両者の実力が逆転したのは、小泉政権下であり、中川が一貫して党幹部・閣僚として政権中枢にあったのに対し、鈴木はスキャンダルで離党・逮捕されるに至った。

2006年9月の自民党総裁選では、友人である、時の内閣官房長官・安倍晋三を支持する考えを明言。安倍総裁のもと政調会長に就任した。

郵政解散後の造反組リーダーであった平沼赳夫とは銀行員時代から兄弟のような間柄で、最初に選挙に出馬した際も、応援に駆けつけた経緯がある。そのため昭一は、郵政民営化には賛成ながらも、造反組には半ば同情的だった。また平沼に対しては、2003年に経済産業大臣として入閣するのに伴い、不在になった拉致議連会長就任を、安倍晋三とともに三顧の礼で打診している。

2007年に持ち上がった政府税調会長の本間正明の愛人問題が持ち上がった際には、「道徳の問題」と一刀両断。辞任への流れをつくる。

2007年度予算案の衆議院採決において民主党が多数の解任決議案を出して抗戦したことについて、ほかの自民党議員が「大義なき抵抗」と批判する中、「民主党は、本当に採決を阻止したいならもっと徹底的に抵抗するべきだった」という意味のことを講演で述べた。

2007年8月27日に予定された安倍改造内閣人事ないし自民党役員人事では最後まで重要ポストでの起用が確実視されており、東京新聞や毎日新聞などは中川の入閣の可能性を報じていたが、実際には入閣や党重要役員への就任はなかった。

以後は解散・総選挙に備えて、地元での活動を精力的に行う模様だったが、2007年9月12日、安倍首相が突如辞意を発表すると麻生太郎"首相"の擁立に動く。翌・13日には都内のホテルで麻生と会談し支持を伝え、総裁選の推薦人に名を連ねた。翌々日の14日には日本テレビスッキリに出演、同局が流布した「麻生クーデター説」を「こういう謀略説は往々にして一人歩きする。真実でないものをあたかも真実であるかのように発言するのはいかがなものか」と同説を強く牽制している。同月22日には麻生に同行し、弁護士北村晴男や、衆議院議員西川京子とともに新宿での街頭演説を行っている。月刊誌・WILL(2007年12月号)のインタビューに、2006年の自民党総裁選では安倍晋三を支持したが、その際に次の総裁選では麻生を支持する旨を伝えていたことを明らかにした。

2007年9月27日派閥の領袖である伊吹文明が福田政権下で幹事長に就任したことに伴い、志帥会の会長代行に就任。

2007年10月18日、都内のホテルで政策勉強会を開催。中曽根康弘らが講師として出席した。

2007年11月28日、都内のホテルで開いた前述の勉強会の準備会合で東トルキスタンの人権活動家・ラビア・カーディルと会談。その席で中国による東トルキスタンウイグル人に対する弾圧に対する強い懸念を示した。

2008年9月4日、首相であった福田康夫の退陣表明に伴う自民党総裁選で、幹事長であった麻生太郎への支持を表明。同日には、自身が所属する志帥会の、派閥としての麻生支持が確認された。

兄貴分の亀井静香や平沼赳夫が派閥から離れ、志帥会領袖の伊吹文明もいわゆる総裁候補ではないため、中川への期待は大きい。小泉内閣の5年間には一貫して党7役(広報本部長、組織本部長)や閣僚(経産大臣、農水大臣)として重用され、安倍政権では引続き党三役(政調会長)、さらに麻生政権では財務・金融担当大臣を務めるにおよび、同派では有力な総裁候補と目されつつある。

人権擁護法案に対して

安倍と同様に北朝鮮による拉致問題に長年取り組んできた経緯から、中川は、“言論弾圧法案”とも称される人権擁護法案には明確に反対している。安倍が中川を政調会長に起用したのは、同法案を絶対に上程させないという安倍のメッセージでもある。2006年10月6日、自民党は人権擁護法案の議論を行ってきた党人権問題等調査会の会長ポストを、中川昭一政調会長預かりとすることを決めた。 調査会は事実上、機能停止状態となった。

2007年11月14日、中川は東京都内のホテルで、安倍内閣崩壊以降停滞していた保守政治再建のための勉強会の準備会合を行った。会合には元農水大臣の島村宜伸や、元経済産業大臣の平沼赳夫が参加した。中川は保守主義の大家であるエドマンド・バークの言説を引用し、集団的自衛権の明確化や人権擁護法案反対を強く訴えた。同年12月4日、中川は前述の保守の勉強会を発足させる。同会の名称はその際には決まらなかったが、会長には中川が、最高顧問には平沼赳夫が、議長には島村宜伸が就いた。会には代理出席を含め、50人以上が参加した。出席者の中から、この法案の上程を懸念する意見が相次いだ。同月17日には、勉強会の正式名称が「真・保守政策研究会」に決定した。

2008年2月15日、中川は真・保守政策研究会の人権擁護法案勉強会にて、以前からの持論として同法案を第二の“治安維持法”と激しく批判した。翌16日の大阪府内の講演では、「この法案が成立すれば、私や麻生さんはブタ箱行き」と改めて批判したうえで、同法案上程阻止のため、国民運動を起こしていく考えを示した。

2008年3月10日、憲政記念館で開かれた、人権擁護法案上程阻止のための、いわゆる「人権擁護法案」再提出に対する要請受付国民集会に出席し、同法案が戦前の治安維持法に匹敵する危険性や、自身に寄せられる国民の声の中に賛成意見はただの1つもない点、また、同法案推進派議員が反対派に対して脅迫とも取れる発言をしていたことを明らかにした。

人物像

趣味は水鉄砲サッカー、自宅で花を育てること。特技はテニスである。政界きっての読書家で、HPで読書の感想を多く記している。尊敬する政治家は、父の中川一郎と英国の首相(当時)でヘンリー・パーマストン

2004年に発覚した年金未納問題では、18年1か月であることが発覚した。他の未納議員が大臣や次官就任時の年金切り替えにおける不備による未納と違って国会議員当選以来一度も納入していなかった事実が明らかとなった(2年分事後納付)。ただし、議員年金には加入していた。

第3次小泉改造内閣で農水大臣に再登板した際の産経新聞の報道によれば、たびたび出演している報道2001では注目度が高く、中川が出演した際は高視聴率を叩き出すとのことである。また、同大臣再登板の際には、中華民国総統であった李登輝から祝意が寄せられている。中川自身も李を人間として慕っており、政界きっての親台派である。

2005年11月、小池百合子とともに慶應義塾大学学園祭である三田祭にて、経済新人会主催の講演会を行っている。2006年11月から夕刊フジ金曜日のコラムを隔週で担当している。同コラムは、小泉純一郎、安倍晋三が首相就任前まで担当しており、厚生労働大臣の舛添要一も過去に執筆していたことで知られる。

2007年11月、保守派の議員で集まる勉強会、真・保守政策研究会を設立するにあたってのまとめ役となる。同勉強会には、伊吹派麻生派の大多数の議員に、津島派から鳩山邦夫久間章生石破茂斉藤斗志二戸井田徹馬渡龍治町村派から長勢甚遠高市早苗古賀派から丹羽雄哉鈴木俊一菅義偉山崎派から甘利明高村派から大島理森江渡聡徳など各派幹部から中堅、無派閥議員からも島村宜伸浜田靖一梶山弘志まで50名規模になると言われている。なお、同勉強会参加者の多くが2007年自由民主党総裁選挙において麻生太郎を支持していることから、次期総裁選における麻生支持の母体となると目された。2008年自由民主党総裁選挙では全員が麻生支持で固まったわけではないが(たとえば石破は対抗馬として出馬している)、麻生当選の原動力にはなった。

中川秀直との関係

安倍晋三政権時にともに自民党の党三役に起用された中川昭一と秀直は、名字こそ同じだが、両者間での血縁関係は無く、またその政治思想も大きく異なる。経済政策において秀直が「上げ潮派」の代表格として金融政策を重視し、概して新自由主義的なのに対し、昭一は財政出動に積極的であり、構造改革路線とはやや距離がある。他方、昭一は保守正統派の代表格で靖国神社参拝を是とするのに対し、秀直は、かつて新自由クラブに籍を置いていたこともあり、イデオロギー的にタカ派的な主張をすることは少なく、靖国に代わる国立追悼施設建設が持論である。

首相であった安倍晋三が中川昭一を政調会長に起用した裏には、秀直に対する牽制との見方もある。安倍は政権発足当初、麻生太郎を幹事長に考えていたとされる。ところが、森喜朗と秀直の横槍で断念し、秀直を幹事長に据えた経緯がある。他方、昭一は時事通信や朝日新聞のような一部のメディアが「文科相に内定」と報じており、政治ジャーナリストの末延吉正なども文科相就任を予測していた。昭一の政調会長起用が秀直に対する相当な警戒感であることを伺わせる。

上記のように、靖国神社参拝や人権擁護法案反対で政策を共有する昭一と異なり、秀直は対中融和派で人権擁護法案の推進派でもある。安倍は、拉致問題や経済制裁などの対北朝鮮政策に関しては党内議論を昭一に任せているが、秀直には触らせていない。現実に安倍の政権運営の躓きは、秀直の幹事長起用に端を発しており、藤原正彦屋山太郎などは「秀直を幹事長から解任すべき」と提言していた。

郵政造反組復党問題が持ち上がった際には、造反組に反省と総括を要求する秀直と衝突。「まるで天安門事件のよう」と、秀直を激しく批判した。なお、本人は「本当は文化大革命と言いたかった」そうだが、誤って天安門事件と発言したとしている。

飲酒癖にまつわるエピソード

自他ともに認める大の好きである。しかし中川が政界で重要な地位を占め、ニューリーダーの一人と目されるようになるにつれ、周囲からも酒癖を注意されることが増え、本人もしばしば禁酒・断酒を宣言するが、長続きしなかった。

経済産業相時代の中川を知るキャリア官僚は「見かけによらずプレッシャーに弱いのか、大きな交渉の前に酒を飲まずにはいられないようだった」と、仕事中に酒を常飲していたともとれる発言をしている[13]

だるまの目を塗りつぶす

2000年総選挙で当選を決めた際、選挙事務所で酒に酔い、ふらふらとしながら万歳三唱している姿が全国に放映された。当選直後、だるまに目を入れる際に、酔っ払っていたことや墨の量も考えずに行ったために黒い涙のようになってしまい、周囲を慌てさせた[14]

酔ったまま初閣議

経済産業相当時、2004年9月の小泉政権時の内閣改造では、お別れ会見後に経産省を出て別の場所で酒を飲んだが、再任されてあわてて官邸に向かい、酔ったまま初閣議に臨んだ[14]

酩酊状態で後援会で挨拶

2005年夏に十勝管内本別町で行われた後援会パーティーに酩酊状態で現れ、10分間を予定していた挨拶はろれつが回らずに、数分間で終了した。中川は、その時に同席していた同管内の首長から「ちゃんと挨拶した方がいい」と一喝されたという[14]

宮中晩餐会で悪酔い騒動

2008年11月20日スペイン国王フアン・カルロス1世夫妻を迎えて開催された、天皇皇后主催の晩餐会において、悪酔いして騒動を起こしたことが週刊新潮で報道され、本人もこれを認めている。晩餐会では、テーブルを挟んで正面にいた妻に、何度も「お酒、もうやめなさい」と言われていたにも関わらず多量飲酒。その後、中川は東宮大夫野村一成に対して、「水問題について皇太子殿下もお詳しいと聞いたので是非お話しさせていただく機会がほしい」と絡んだところ、素っ気なく「無理」と返されたことに対して中川が激怒、「分かった、帰る!」と大声で怒鳴ったとされる。また読売新聞は、酔った勢いで「宮内庁のばかやろう」などと怒鳴って途中退席したと報道している[13]

中川本人はインタビューで「まぁ、お酒が入っていましたから、“帰る”と大声で言ったかもしれません。言ったような気がします、はい、大声で。殿中ですよね…。酔ってるな、という自覚はあったんですが」、「場所が場所だけに…失態をしてしまいました。お酒が悪い。本当にお酒が悪い」と語っている。

演説で26ヵ所の読み間違い

2009年1月28日の衆議院本会議で、財務・金融担当大臣として財政演説を行ったが、「渦中」を「うずちゅう」、「改正」を「改革」、「削減」を「縮減」などと読み間違え、財務省が計26ヵ所の訂正を申し出るという事態になった。後日、議事録の訂正に衆議院議院運営委員会の野党側の理事の了承も必要であるため訂正箇所を減らして再度要請した(政府批判の材料になる可能性もあるため、重要な間違いでない部分=話が通じる部分はそのまま訂正しないことにしたとされる)。また、年度予算の計数について、2009年度の税収の減収額(7兆4510億円減)を「7兆4050億円減」と間違えた。財務省によると、間違えた理由として「風邪で体調が悪かった」のが原因としている。麻生太郎の漢字の読み間違えが話題になる中での現職閣僚の読み間違いであったことで、メディアがこれを取り上げた[15]

なお、自民党国会議員の秘書によると、中川は前日に東京都内で酒を飲みながらテニスをし、持病の腰痛を悪化させていたという[16]

G7閉幕後の記者会見での出来事

2009年2月13日先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議に先立ちアメリカ合衆国財務長官ティモシー・フランツ・ガイトナー(左)と会談する中川

2009年2月14日にイタリアローマで開催されたG7財務大臣・中央銀行総裁会議の会議終了後の内外記者を集めた日本銀行総裁白川方明財務官篠原尚之との共同記者会見の場にて、中川はろれつが回らず、あくびをし、表情は目がうつろで、日銀政策金利の言い間違え等はあったものの、記者の質問にまともに答えていた[17]。しかしながら、質問した記者が見つけられず「どこだ!」と言ったり、白川総裁への質問に大して「な、なに?もう一回言って?」と聞き返したり、「共同宣言みたいなものが出ました」などと不明瞭な発言をしたことから、各方面から「時差ぼけ」の影響だけでなく、健康不安や深酒を疑われている。

記者会見での中川の姿は日本の新聞やテレビのニュースで大きく取り上げられ、その結果、世界中に報道された。

帰国後の2009年2月16日の衆議院財務金融委員会での答弁で、中川は会見前に「(ワインを)飲んだのをごっくんということであれば、ごっくんはしておりません。たしなんでいるんです。グラス一杯飲んでおりません」と発言している[18]

原因は機内での風邪薬[19]の大量服用と同時に飲んだアルコールの相乗効果によるものとしている(ただし佐藤優によると、この釈明では海外メディアに「アルコール中毒」どころか「薬物」を連想させかねないため、釈明の意味をなさない恐れがあるという[20])。当初飲酒の事実を否定していたが、その後、当日G7の公式行事を中座し、複数の女性番記者と飲食していた事実が判明したこともあり、状況として本人の酒好きから泥酔疑惑が指摘されたが、帰国後の番記者との会話で、当時、会議に行く機内での飲酒と服用した風邪薬の併発の副作用であると釈明している。中川は、機中でも度の強いアルコールを数杯飲用していたことを認めている。この場合、酒と薬による複合中毒を起こし、本来よりも強い効果を示してしまうことが報告されている。

官房長官の河村建夫は会見で、「風邪薬の大量服用が原因。昼食にワインが出て、ぜんぜん手つかずだったということではないが、深酒したとかとは全く関係ない」と述べた[21]。自民党幹部からは「前代未聞の珍事で世界に対して恥ずかしい」「国辱だ」との批判が出た。また、アメリカABCテレビの記者のブログでは、「トヨタ自動車や日産が何万人も解雇していることは目を覚ますのに十分な理由だ」「各国首脳が集まったが、起きているだけでも難しいことが判明した」「(眠いのであれば、会議が開催されたイタリアには)いつでもエスプレッソがある」などと、皮肉交じりの批判などが記載された[22]

この事態を受けて2月17日、民主党・日本共産党社民党国民新党新党日本野党5党による、参議院への中川に対する問責決議案提出が固まった。同日、中川は昼過ぎからの財務省での緊急記者会見で、平成21年度予算案およびその関連法案の衆議院通過後に辞表を提出し、財務・金融担当大臣を辞任すると表明したが、即座の辞任ではないために野党側はさらに態度を硬化させ、問責決議案を野党5党で提出、自民党内では「(衆議院通過後の辞任というのは)わかりづらい」(塩崎恭久)、「即座に辞任すべき」(山崎拓)との声が出たほか、公明党北側一雄も自民党幹部を訪ねて即座の辞任を要請、予算審議における、民主党など野党側の「辞任しなければ予算審議しない」、「辞任表明した閣僚に質問しても意味がない」という、予算委員会欠席の国会対応もあり、結局、同日に辞表を提出するに至った[23]。辞任の際、中川は「予算委員会の雰囲気を見て、自分が辞めた方が国家のためになると判断した」と述べている。後任は経済財政担当大臣与謝野馨が、財務大臣と金融担当大臣を兼任することとなった。

バチカン美術館でのトラブル

バチカン美術館ラオコオン

上記の問題の記者会見が終了してから15分後、バチカン市国にあるバチカン美術館を約2時間観光した。そこで、触ることが禁止されている美術品に素手で触ったり、柵を越えて警報を鳴らしたり、ラオコーン像の台座に座るなど非常識な行動をしていたと報道された。中川の事務所は「体調が悪かったため、見学中に入ってはいけない区域に入ってしまって警報が鳴ったのは事実だ。関係者に迷惑をかけることになり申し訳ない」と釈明した[24]。しかし、中川自身は2009年3月14日午前に放送されたCS番組で「非常に事実と違う」「(博物館を)案内してもらい、つつがなく終わったと思っていたらあの報道。(バチカン側も)全く警報機も鳴っていないし、私に注意もしていないとお怒りになっている」と述べ、事実関係を否定した[25]が、政府は2009年4月7日の閣議で決定した答弁書で、中川が2月にバチカン市国のバチカン博物館を視察した際、立ち入り禁止区域に入り、同博物館の警報機が鳴っていたことを明らかにした。答弁書では、同博物館に確認し、「警報機は鳴ったが、その音量は全館に響くほど大きくなく、気づいた人も気づかなかった人もいただろう」としている[26]

献金

消費者金融業界からの献金

食肉偽装業者からの献金

  • 牛肉偽装事件2004年に摘発を受けたハンナングループの団体や企業(いずれも代表はハンナン会長だった浅田満)から、パーティー券購入などにより1999年からの2年間で計200万円の資金提供を受けていた[28]。牛肉偽装業者から農水大臣経験者(中川はその後も農水大臣に就任)への献金ということもあって国会でもたびたび取り上げられ、中川もハンナングループからの資金提供の事実を認めた上、別の政治団体でも献金を受けたことを明らかにした[29]

年譜

主な所属議員連盟

著書

関連項目

脚注

  1. ^ 10月15日号〇中川財務・金融相、G7で高く評価〇(デイリーヨミウリ メルマガ)
  2. ^ International Monetary and Financial Committee / Eighteenth Meeting October 11, 2008 / Statement by Guido Mantega Minister of Finance, Brazil / On behalf of Brazil, Colombia, Dominican Republic, Ecuador, Guyana, Haiti, Panama, Suriname, Trinidad and Tobago
  3. ^ 保護主義排除で一致=中川氏、バイ・アメリカンに懸念-日米財務相会談(時事ドットコム2009年2月14日)
  4. ^ 【イタリア】伊メディアのG7論調:日本が保護主義けん制の先頭に立つと高評価/NNA.EU
  5. ^ 仮に、この外貨準備金(ドル建て)を例えば景気対策等のため日本国内で使うには円転しなければならず、円高を招いてしまう。また、IMFからの融資は100%返済されるため、2国間での直接融資より安全である。
  6. ^ IMF拠出で署名=過去最大の1000億ドル-中川財務相(時事ドットコム2009年2月14日)
  7. ^ G7後の会見での要人発言要旨(ロイター2009年2月15日)
  8. ^ G-7 meeting IMF Gains New Funding, Puts Focus on Bank Clean Up(IMF Survey online)
  9. ^ 毎日新聞 2008年7月10日
  10. ^ 中央公論2008年7月10日号
  11. ^ 「核に対抗できるのは核」北朝鮮情勢で中川前財務相”. 産経新聞. 4月19日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
  12. ^ J-CASTニュース 「我々は原爆の実験台にされた」 中川昭一氏、米非難決議を主張
  13. ^ a b ヤマ場になると飲まずにいられない…中川氏、失態いろいろ 読売新聞 2009年2月18日
  14. ^ a b c 中川財務相辞任:何度も酒に飲まれ 千鳥足で会議出席 04年改造、初閣議でも失態 毎日新聞 2009年2月18日[リンク切れ]
  15. ^ 財務省が大臣の財政演説で26カ所の訂正願 (MSN産経、2009年1月30日付)
  16. ^ 中川昭一財務・金融担当相辞任 毎日新聞 2009年2月19日
  17. ^ 財務大臣等記者会見:財務省 中川財務大臣、白川日本銀行総裁共同記者会見の概要 平成21年2月14日
  18. ^ 衆議院-会議録 財務金融委員会 第171回第4号平成21年2月16日
  19. ^ 麻生太郎は予算委員会にて、「抗ヒスタミン剤が含まれていたという説明を受けた」と、民主党の枝野幸男に答弁している。
  20. ^ 東京スポーツ、2009年2月19日付における佐藤優と鈴木宗男の対談
  21. ^ 中川財務相「風邪薬飲みすぎ、酒は口に含んだ程度」読売新聞、2009年2月16日付)
  22. ^ 「中川さん、眠気にはエスプレッソ」…米記者ブログで読売新聞、2009年2月16日付)
  23. ^ 中川財務相が辞任、G7後の醜態会見で引責 (読売新聞、2009年2月17日付)
  24. ^ 中川氏、バチカンでもお騒がせ 美術品に素手・警報作動朝日新聞、2009年2月20日付)
  25. ^ 中川前財務相、バチカン騒動を否定 警報機報道「事実と違う」日本経済新聞、2009年3月14日付)
  26. ^ やっぱり鳴っていたバチカン博物館の警報機…政府が答弁書読売新聞、2009年4月8日付)
  27. ^ しんぶん赤旗 2003年9月12日 パーティ券リストの面々
  28. ^ しんぶん赤旗 2004年4月28日 ハンナン献金 中川経産相への200万円「幽霊団体」からも
  29. ^ [1] 2004年5月18日 参議院経済産業委員会
  30. ^ 慶應義塾大学経済学部に通いながらの仮面浪人2009年2月[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

外部リンク


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