カル・リプケン・ジュニア
2015年12月7日 | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | メリーランド州ハーバー・デ・グレイス |
生年月日 | 1960年8月24日(64歳) |
身長 体重 |
6' 4" =約193 cm 225 lb =約102.1 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手、三塁手 |
プロ入り | 1978年 ドラフト2巡目 |
初出場 | 1981年8月10日 |
最終出場 | 2001年10月6日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選出年 | 2007年 |
得票率 | 98.5% |
選出方法 | 全米野球記者協会選出 |
この表について
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カル・リプケン・ジュニア(英語: Cal Ripken, Jr., 本名:カルビン・エドウィン・リプケン・ジュニア(Calvin Edwin Ripken Jr., 1960年8月24日 - )は、アメリカ合衆国メリーランド州ハバディグレイス出身の元プロ野球選手(内野手)。愛称は"アイアンマン"("Iron man")。
歴代1位となる2632試合連続出場を記録した。現役時代の全てをボルチモア・オリオールズで過ごした現代では数少ないフランチャイズ・プレイヤー。
経歴
[編集]現役初期
[編集]1978年のMLBドラフト2巡目(全体48位)でボルチモア・オリオールズから指名され、入団。
1981年8月10日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーデビューを果たした。
1982年シーズン当初は三塁手として出場していたが、7月1日にアール・ウィーバー監督が遊撃手にコンバート[1]。打率.264・28本塁打・93打点を記録し、アメリカンリーグ新人王を受賞した。
メジャー屈指の攻撃型遊撃手[1]として1982年5月30日から1998年9月20日までの15年間に2632試合連続出場の大記録を成し遂げる。この間に1982年6月5日から1987年9月14日まで8243イニング連続出場や903試合連続フルイニング出場のMLB記録も作っている[1]。
1983年は前年を上回る打率.318、27本塁打、102打点を記録。211安打、47二塁打、121得点はリーグ1位となり、史上初めて新人王の翌年にア・リーグMVPに選出された[2]。チームはワールドシリーズ進出を果たし、打率.167と低迷したがチームは13年ぶりのワールドチャンピオンとなった[3]。
現役中期
[編集]1984年はリーグ新記録となる583補殺を記録し、5月6日にはサイクル安打を達成[1]。また、同年の日米野球のメンバーの一人として参加している。
1985年4月10日に左足首を捻り医師から2週間の休養が必要と宣告されたが次の日は試合がなく12日から出場を続け連続試合の記録は途切れなかった[4]。
1987年に父のカル・リプケン・シニアがオリオールズの監督に就任し、弟のビリー・リプケンがメジャー昇格を果たし二遊間を形成[1]。史上初めて親子3人が同一チームとなった[5]。
1990年4月14日から7月27日かけて当時のMLB新記録となる95試合連続無失策を達成[5]。 1991年には遊撃手として当時のリーグ新記録となる368塁打を記録し(1996年にアレックス・ロドリゲスが記録更新)、遊撃手としてア・リーグ史上初めて3割・30本塁打・100打点を達成[1]。また、この年のオールスターゲームではMVPとなり、前日に行われたホームランダービーでも優勝している。自身2度目のMVPも受賞した。
連続試合出場記録更新
[編集]映像外部リンク | |
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1995年9月6日 カル・リプケン2131試合 連続出場達成の試合(MLB.comによる動画) |
1994年8月12日から1995年4月2日にかけての232日間に及ぶ長期ストライキの際には、オーナー側が代替選手で1995年シーズン開幕を強行させようとしたが、「もし、試合が行われたら記録が2009で途切れてしまう」と、ボルチモア市議会はオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズで代替選手によって試合が行われたらMLB機構に1試合1000ドルの罰金を科す法案を成立させた[5]。そして、4月27日にシーズン公式戦は再開され、9月6日、ルー・ゲーリッグ(ニューヨーク・ヤンキース)の2130連続試合出場を56年ぶりに塗り替える、2131連続試合出場を達成した。
さらには翌1996年6月12日にはカンザスシティ・ロイヤルズ戦にて衣笠祥雄(広島)が持つ2215連続試合出場を越え、2216連続試合出場を達成した。この試合には衣笠も2試合連続で来場しており、記録更新に立ち会った。衣笠とはこれが縁で衣笠が関連する番組にゲストやサプライズ出演することがあった[6]。そして2006年4月9日には当時阪神タイガースに所属していた金本知憲が連続フルイニング出場を更新した時には映像で祝福をした。
現役後期
[編集]1996年にデーブ・ジョンソン監督は若手有望株だったマニー・アレクサンダーを遊撃手に据えようと考え、リプケンを三塁手へ再コンバートしようとした。結局、この案は約1週間しか続かなかったが、この間リプケンはアレクサンダーと1ヶ月以上も話をしなかったという[7]。アレクサンダーは翌1997年にニューヨーク・メッツへトレードされた。アレクサンダーはリプケンを恨み続け、背番号8を提示されたがリプケンと同じ番号であるという理由から拒否した[7]。
1997年からは三塁手として出場を続けた。
1998年の本拠地最終戦となった9月20日、自ら欠場を申し出て連続試合の記録は2632で終わった。[4]。
1999年3月25日に父のシニアが亡くなり精神的に大きなショックを受け開幕を迎えた[8]。開幕から不調で打率.179の成績で4月19日に腰痛のため自身初の故障者リスト入りとなった。故障から復帰して以降は調子を上げ、6月13日のアトランタ・ブレーブス戦で球団記録の1試合6安打を記録。7月には年俸630万ドルで2000年の契約を延長した[8]。8月3日に再び腰痛でリスト入りとなり、2度の故障者リスト入りで出場試合数は86に留まり規定打席に達していないが、打率.340は自己最高となった。
2000年4月16日のミネソタ・ツインズ戦で3000本安打を達成。
引退まで
[編集]2001年6月、この年限りでの現役引退を発表[4]。最後のオールスターゲームにはファン投票で19回目の選出を果たし、アメリカンリーグの選出記録を更新した[9]。試合前に遊撃手のアレックス・ロドリゲスがリプケンとポジションを交代し、リプケンはオジー・スミスの持っていた遊撃手としての出場試合数14を更新した[9]。試合では本塁打を放ち、オールスターゲーム史上最年長でMVPを獲得した。
引退直前の9月9日、リプケンの背番号『8』はオリオールズの永久欠番に指定された[10]。 引退試合はヤンキー・スタジアムの予定だったが、アメリカ同時多発テロ事件のため同年10月6日に本拠地で公式戦最後戦で迎えた。ファンへの挨拶では「今は第1章を終えたばかり。これから第2章が始まる」[4]と述べた。
引退後
[編集]その後は故郷・メリーランド州アバディーンに球場を建設し、オリオールズ傘下のマイナーチームであるアバディーン・アイアンバーズを誘致。現在はアイアンバーズの共同オーナーの1人として名を連ねる。そして、妻ケリーと「ケリー&カル・リプケン基金」を設立して、チャリティ・イベントや募金活動、自身が破った前記録保持者の衣笠と共に少年野球の発展などに力を注ぎ[7]、たびたびその指導のために日本にも来日している。多くの組織に積極的に寄付も行っているが、その中には筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリッグ病)の研究への援助も含まれている。
引退した2001年にUSAトゥデイが満票でアメリカ野球殿堂入りすることができるかと特集が組まれ[4]、殿堂入り有資格者となる2007年、満票ではなかったが537票(98.5%)もの高得票を集め初年度での殿堂入りを果たした。得票率98.5%は歴代3位、野手としては当時史上最高の得票率である[4][11]。
2018年4月23日に前記録保持者の衣笠が死去した折には、リプケンも「偉大な友人だった」と哀悼の意を表した[12]。
選手としての特徴
[編集]連続試合出場記録ばかりがクローズアップされるリプケンだが、通算3184安打、431本塁打、1695打点とバッティングでも優れた成績を残しており、カール・ヤストレムスキー以来のアメリカンリーグのみで3000本安打と400本塁打の記録を達成した[9]。
ゴールドグラブ賞を2回受賞しており、大柄な体を生かしたミスのない職人肌のプレーはメジャー屈指であった。通算守備率.979は、遊撃手のMLB歴代4位(天然芝を本拠地とする選手としては歴代1位)であり、1990年には、95試合連続無失策、シーズン守備率.996という当時の遊撃手のMLB新記録を樹立した。こうした守備面での貢献が評価されたことで、打撃不振に陥った時にもリプケンが変わらず起用され続けたのである。
リプケン登場以前は遊撃手といえば、小柄な選手で打撃に少々難があったとしても守備力が優先されるのが当たり前のポジションだった。しかし、リプケンの登場によって、後のデレク・ジーター、アレックス・ロドリゲス、ノマー・ガルシアパーラの1990年代三大遊撃手にもつながる、打撃にも優れた大型遊撃手時代が幕を開けることとなった[13]。
一方で様々な賞を獲得しながらも、打撃のタイトルは一度も獲得をしたことはなかった。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981 | BAL | 23 | 40 | 39 | 1 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 8 | 4 | .128 | .150 | .128 | .278 |
1982 | 160 | 655 | 598 | 90 | 158 | 32 | 5 | 28 | 284 | 93 | 3 | 3 | 2 | 6 | 46 | 3 | 3 | 95 | 16 | .264 | .317 | .475 | .792 | |
1983 | 162 | 726 | 663 | 121 | 211 | 47 | 2 | 27 | 343 | 102 | 0 | 4 | 0 | 5 | 58 | 0 | 0 | 97 | 24 | .318 | .371 | .517 | .888 | |
1984 | 162 | 716 | 641 | 103 | 195 | 37 | 7 | 27 | 327 | 86 | 2 | 1 | 0 | 2 | 71 | 1 | 2 | 89 | 16 | .304 | .374 | .510 | .884 | |
1985 | 161 | 718 | 642 | 116 | 181 | 32 | 5 | 26 | 301 | 110 | 2 | 3 | 0 | 8 | 67 | 1 | 1 | 68 | 32 | .282 | .347 | .469 | .816 | |
1986 | 162 | 707 | 627 | 98 | 177 | 35 | 1 | 25 | 289 | 81 | 4 | 2 | 0 | 6 | 70 | 5 | 4 | 60 | 19 | .282 | .355 | .461 | .816 | |
1987 | 162 | 717 | 624 | 97 | 157 | 28 | 3 | 27 | 272 | 98 | 3 | 5 | 0 | 11 | 81 | 0 | 1 | 77 | 19 | .252 | .333 | .436 | .769 | |
1988 | 161 | 689 | 575 | 87 | 152 | 25 | 1 | 23 | 248 | 81 | 2 | 2 | 0 | 10 | 102 | 7 | 2 | 69 | 10 | .264 | .372 | .431 | .803 | |
1989 | 162 | 712 | 646 | 80 | 166 | 30 | 0 | 21 | 259 | 93 | 3 | 2 | 0 | 6 | 57 | 5 | 3 | 72 | 22 | .257 | .317 | .401 | .718 | |
1990 | 161 | 695 | 600 | 78 | 150 | 28 | 4 | 21 | 249 | 84 | 3 | 1 | 1 | 7 | 82 | 18 | 5 | 66 | 12 | .250 | .341 | .415 | .756 | |
1991 | 162 | 717 | 650 | 99 | 210 | 46 | 5 | 34 | 368 | 114 | 6 | 1 | 0 | 9 | 53 | 15 | 5 | 46 | 19 | .323 | .374 | .566 | .940 | |
1992 | 162 | 715 | 637 | 73 | 160 | 29 | 1 | 14 | 233 | 72 | 4 | 3 | 0 | 7 | 64 | 14 | 7 | 50 | 13 | .251 | .323 | .366 | .689 | |
1993 | 162 | 718 | 641 | 87 | 165 | 26 | 3 | 24 | 269 | 90 | 1 | 4 | 0 | 6 | 65 | 19 | 6 | 58 | 17 | .257 | .329 | .420 | .749 | |
1994 | 112 | 484 | 444 | 71 | 140 | 19 | 3 | 13 | 204 | 75 | 1 | 0 | 0 | 4 | 32 | 3 | 4 | 41 | 17 | .315 | .364 | .459 | .823 | |
1995 | 144 | 613 | 550 | 71 | 144 | 33 | 2 | 17 | 232 | 88 | 0 | 1 | 1 | 8 | 52 | 6 | 2 | 59 | 15 | .262 | .324 | .422 | .746 | |
1996 | 163 | 707 | 640 | 94 | 178 | 40 | 1 | 26 | 298 | 102 | 1 | 2 | 0 | 4 | 59 | 3 | 4 | 78 | 28 | .278 | .341 | .466 | .807 | |
1997 | 162 | 686 | 615 | 79 | 166 | 30 | 0 | 17 | 247 | 84 | 1 | 0 | 0 | 10 | 56 | 3 | 5 | 73 | 19 | .270 | .331 | .402 | .733 | |
1998 | 161 | 659 | 601 | 65 | 163 | 27 | 1 | 14 | 234 | 61 | 0 | 2 | 1 | 2 | 51 | 0 | 4 | 68 | 9 | .271 | .331 | .389 | .720 | |
1999 | 86 | 354 | 332 | 51 | 113 | 27 | 0 | 18 | 194 | 57 | 0 | 1 | 3 | 3 | 13 | 3 | 3 | 31 | 14 | .340 | .368 | .584 | .952 | |
2000 | 83 | 339 | 309 | 43 | 79 | 16 | 0 | 15 | 140 | 56 | 0 | 0 | 0 | 4 | 23 | 0 | 3 | 37 | 10 | .256 | .310 | .453 | .763 | |
2001 | 128 | 516 | 477 | 43 | 114 | 16 | 0 | 14 | 172 | 68 | 0 | 2 | 2 | 9 | 26 | 1 | 2 | 63 | 15 | .239 | .276 | .361 | .637 | |
MLB:21年 | 3001 | 12883 | 11551 | 1647 | 3184 | 603 | 44 | 431 | 5168 | 1695 | 36 | 39 | 10 | 127 | 1129 | 107 | 66 | 1305 | 350 | .276 | .340 | .447 | .787 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
[編集]年 度 |
球 団 |
三塁(3B) | 遊撃(SS) | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1981 | BAL | 6 | 2 | 6 | 1 | 1 | .889 | 12 | 11 | 24 | 2 | 5 | .946 |
1982 | 71 | 66 | 151 | 6 | 17 | .973 | 94 | 155 | 289 | 13 | 47 | .972 | |
1983 | - | 162 | 272 | 534 | 25 | 113 | .970 | ||||||
1984 | - | 162 | 297 | 583 | 26 | 122 | .971 | ||||||
1985 | - | 161 | 286 | 474 | 26 | 123 | .967 | ||||||
1986 | - | 162 | 240 | 482 | 13 | 105 | .982 | ||||||
1987 | - | 162 | 240 | 480 | 20 | 103 | .973 | ||||||
1988 | - | 161 | 284 | 480 | 21 | 119 | .973 | ||||||
1989 | - | 162 | 276 | 531 | 8 | 119 | .990 | ||||||
1990 | - | 161 | 242 | 435 | 3 | 94 | .996 | ||||||
1991 | - | 162 | 267 | 528 | 11 | 114 | .986 | ||||||
1992 | - | 162 | 287 | 445 | 12 | 119 | .984 | ||||||
1993 | - | 162 | 226 | 495 | 17 | 101 | .977 | ||||||
1994 | - | 112 | 132 | 321 | 7 | 72 | .985 | ||||||
1995 | - | 144 | 206 | 409 | 7 | 100 | .989 | ||||||
1996 | 6 | 5 | 16 | 0 | 1 | 1.000 | 158 | 228 | 467 | 14 | 109 | .980 | |
1997 | 162 | 98 | 314 | 22 | 25 | .949 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
1998 | 161 | 101 | 265 | 8 | 22 | .979 | - | ||||||
1999 | 85 | 36 | 142 | 13 | 11 | .932 | - | ||||||
2000 | 73 | 56 | 134 | 5 | 17 | .974 | - | ||||||
2001 | 111 | 97 | 209 | 14 | 23 | .956 | - | ||||||
MLB | 675 | 461 | 1237 | 69 | 117 | .961 | 2302 | 3651 | 6977 | 225 | 1565 | .979 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
表彰
[編集]- シーズンMVP:2回(1983年、1991年)
- 新人王(1982年)
- シルバースラッガー賞(遊撃手部門):8回(1983年 - 1986年、1989年、1991年、1993年、1994年)
- ゴールドグラブ賞(遊撃手部門):2回(1991年、1992年)
- オールスターゲームMVP:2回(1991年、2001年)
- ルー・ゲーリッグ賞:1回(1992年)
- ロベルト・クレメンテ賞:1回(1992年)
- アメリカ野球殿堂入り(2007年)
- コミッショナー特別表彰(2001年)
記録
[編集]- オールスターゲーム選出:19回(1983年 - 2001年)※1984年から1996年・2001年は遊撃手として、1997年から1999年は三塁手として選出
- サイクル安打:1回(1984年5月6日)
- 連続試合出場:2632(MLB歴代1位、1982年5月30日 - 1998年9月20日)
- 連続試合フルイニング出場:903(MLB歴代1位、1982年6月5日 - 1987年9月14日)※NPBでは金本知憲が1492試合を記録している。
- 通算犠飛:127(MLB歴代2位)
背番号
[編集]- 8(1981年 - 2001年)※ボルチモア・オリオールズの永久欠番
脚注
[編集]- ^ a b c d e f “The Ballplayers - Cal Ripken, Jr.” (英語). BaseballLibrary.com. 2008年9月30日閲覧。
- ^ “Cal Ripken, Jr. from the Chronology” (英語). BaseballLibrary.com. 2008年12月22日閲覧。
- ^ “1983 World Series - BAL vs. PHI” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年9月30日閲覧。
- ^ a b c d e f 樋口浩一「2007年度殿堂入り/C・リプケン&T・グウィン」『月刊メジャー・リーグ』2007年3月号、ベースボールマガジン社、2007年、雑誌 08625-3、91 - 93頁。
- ^ a b c 藤澤文洋『メジャーリーグ・スーパースター名鑑』研究社、2003年、212 - 215頁頁。ISBN 4-327-37689-2。
- ^ “江夏の21球 “赤ヘル野球”軌道乗った1979年”. デイリースポーツ online (2022年7月14日). 2022年7月18日閲覧。
- ^ a b c 「クレメンテ賞受賞者の光と影 優等生たちの隠れた一面」『月刊スラッガー』2006年2月号 日本スポーツ企画出版社 42-43頁
- ^ a b 「30球団マンスリー・リポート ボルチモア・オリオールズ 父の死、故障禍と障害多きシーズン二つの金字塔目前でリプケン離脱」『月刊メジャー・リーグ』1999年10月号、ベースボールマガジン社、1999年、雑誌 08625-5、89頁。
- ^ a b c “ORIOLES RETIRED NUMBERS” (英語). The Official Site of The Baltimore Orioles. 2008年12月22日閲覧。
- ^ “Retired Uniform Numbers in the American League” (英語). Baseball Almanac - The Official Baseball History Site. 2008年12月22日閲覧。
- ^ なお、後年2016年にケン・グリフィー・ジュニアが野手として99.3%の得票率でリプケンの得票率を越えて殿堂入りし、さらに2018年にマリアノ・リベラが100%満票で殿堂入りしている。
- ^ “衣笠祥雄氏の死去、リプケン氏が哀悼「彼に対する尊敬は計り知れない”. full-Count. 2019年3月20日閲覧。
- ^ 福島良一『素晴らしいアメリカ野球』 光文社 123ページ
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- Baseballhalloffame.org – アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- Ripken Baseball
- Cal Ripken Jr. interview
- Cal Ripken Jr (CalRipkenJr) - Facebook