「サンフレッチェ広島F.C」の版間の差分

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== 年度別成績・歴代監督 ==
== 年度別成績・歴代監督 ==
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!年度!!所属!!年間順位<br/>(チーム数)!!ステージ<br/>順位!!試合!!勝点!!勝利!!敗戦!!引分!!得点!!失点!![[Jリーグカップ|ナビスコ杯]]!![[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]!!他公式戦!![[監督]]!![[ゼネラルマネージャー|GM]]!![[代表取締役|代表]]
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|1992||-||-<br/>(-)||-||-||-||-||-||-||-||-
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||予選敗退||2回戦敗退||-
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|rowspan="5"|[[古田徳昌]]
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|rowspan="2"|[[1993年のJリーグ|1993]]
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||J サントリー||rowspan="2"|5位<br/>(10)||6位||18||-||9||9||-||23||24
||J サントリー||rowspan="2"|5位<br/>(10)||6位||18||-||9||9||-||23||24
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|rowspan="2"|ベスト4
|rowspan="2"|ベスト4
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||J ニコス||5位||18||-||9||9||-||31||25
||J ニコス||5位||18||-||9||9||-||31||25


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|rowspan="2"|[[1994年のJリーグ|1994]]
|rowspan="2"|[[1994年のJリーグ|1994]]
||J サントリー||rowspan="2"|2位<br/>(12)||bgcolor="gold"|'''優勝'''||22||-||17||5||-||44||26
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||J ニコス||4位||22||-||12||10||-||27||31
||J ニコス||4位||22||-||12||10||-||27||31


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|rowspan="2"|[[1995年のJリーグ|1995]]
|rowspan="2"|[[1995年のJリーグ|1995]]
||J サントリー||rowspan="2"|10位<br/>(14)||10位||26||39||13||13||-||39||33
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|rowspan="3"|{{flagicon|Netherlands}} [[ビム・ヤンセン|ヤンセン]]
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|rowspan="5"|[[信藤整]]
|rowspan="5"|[[信藤整]]
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||J ニコス||12位||26||28||9||17||-||28||43
||J ニコス||12位||26||28||9||17||-||28||43


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|[[1996年のJリーグ|1996]]||J||14位<br/>(16)||-||30||30||10||20||-||36||60
|[[1996年のJリーグ|1996]]||J||14位<br/>(16)||-||30||30||10||20||-||36||60
||予選敗退||準優勝||-
||予選敗退||準優勝||-


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|rowspan="2"|[[1997年のJリーグ|1997]]
|rowspan="2"|[[1997年のJリーグ|1997]]
||J 1st||rowspan="2"|12位<br/>(17)||10位||16||21||8||8||-||22||23
||J 1st||rowspan="2"|12位<br/>(17)||10位||16||21||8||8||-||22||23
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|rowspan="8"|{{flagicon|SCO}} [[エディ・トムソン|トムソン]]
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||J 2nd||13位||16||15||5||11||-||21||27
||J 2nd||13位||16||15||5||11||-||21||27


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|rowspan="2"|[[1998年のJリーグ|1998]]
|rowspan="2"|[[1998年のJリーグ|1998]]
||J 1st||rowspan="2"|10位<br/>(18)||13位||17||19||7||10||-||22||33
||J 1st||rowspan="2"|10位<br/>(18)||13位||17||19||7||10||-||22||33
300行目: 300行目:
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|rowspan="16"|[[久保允誉]]
|rowspan="16"|[[久保允誉]]
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||J 2nd||9位||17||24||9||8||-||23||19
||J 2nd||9位||17||24||9||8||-||23||19


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|rowspan="2"|[[1999年のJリーグ|1999]]
|rowspan="2"|[[1999年のJリーグ|1999]]
||J1 1st||rowspan="2"|8位<br/>(16)||6位||15||27||9||6||0||30||18
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309行目: 309行目:
|rowspan="2"|準優勝
|rowspan="2"|準優勝
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||J1 2nd||8位||15||21||7||7||1||24||25
||J1 2nd||8位||15||21||7||7||1||24||25


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|rowspan="2"|[[2000年のJリーグ|2000]]
|rowspan="2"|[[2000年のJリーグ|2000]]
||J1 1st||rowspan="2"|11位<br/>(16)||10位||15||19||7||7||1||19||15
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318行目: 318行目:
|rowspan="2"|4回戦敗退
|rowspan="2"|4回戦敗退
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||J1 2nd||11位||15||18||6||8||1||23||25
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|rowspan="2"|[[2001年のJリーグ|2001]]
|rowspan="2"|[[2001年のJリーグ|2001]]
||J1 1st||rowspan="2"|9位<br/>(16)||13位||15||13||5||10||0||25||33
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|rowspan="2"|{{flagicon|RUS}} [[ヴァレリー・ニポムニシ|ヴァレリー]]<br/>{{flagicon|JPN}} [[木村孝洋]](代行)
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||J1 2nd||3位||15||24||8||7||0||36||27
||J1 2nd||3位||15||24||8||7||0||36||27


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|rowspan="2"|[[2002年のJリーグ|2002]]
|rowspan="2"|[[2002年のJリーグ|2002]]
||J1 1st||rowspan="2"|15位<br/>(16)||15位||15||10||3||11||1||14||26
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|rowspan="2"|{{flagicon|RUS}} [[ガジ・ガジエフ|ガジエフ]]<br/>{{flagicon|JPN}} 木村孝洋<br/>{{flagicon|JPN}} [[小野剛 (サッカー指導者)|小野剛]]
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||J1 2nd||14位||15||16||5||8||2||18||21
||J1 2nd||14位||15||16||5||8||2||18||21


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|[[2003年のJリーグ|2003]]||J2||2位<br/>(12)||-||44||86||25||8||11||65||35
|[[2003年のJリーグ|2003]]||J2||2位<br/>(12)||-||44||86||25||8||11||65||35
||出場権なし||4回戦敗退||-
||出場権なし||4回戦敗退||-
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|rowspan="4"|[[高田豊治]]
|rowspan="4"|[[高田豊治]]


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|rowspan="2"|[[2004年のJリーグ|2004]]
|rowspan="2"|[[2004年のJリーグ|2004]]
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|rowspan="2"|4回戦敗退
|rowspan="2"|4回戦敗退
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||J1 2nd||11位||15||16||3||5||7||21||23
||J1 2nd||11位||15||16||3||5||7||21||23


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|[[2005年のJリーグ|2005]]||J1||7位<br/>(18)||-||34||50||13||10||11||50||42
|[[2005年のJリーグ|2005]]||J1||7位<br/>(18)||-||34||50||13||10||11||50||42
||予選敗退||5回戦敗退||-
||予選敗退||5回戦敗退||-


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|[[2006年のJリーグ|2006]]||J1||10位<br/>(18)||-||34||45||13||15||6||50||56
|[[2006年のJリーグ|2006]]||J1||10位<br/>(18)||-||34||45||13||15||6||50||56
||予選敗退||5回戦敗退||-
||予選敗退||5回戦敗退||-
366行目: 366行目:
|rowspan="2"|([[織田秀和]])
|rowspan="2"|([[織田秀和]])


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|[[2007年のJリーグ|2007]]||J1||16位<br/>(18)||-||34||32||8||18||8||44||71
|[[2007年のJリーグ|2007]]||J1||16位<br/>(18)||-||34||32||8||18||8||44||71
||準々決勝敗退||準優勝||[[J1・J2入れ替え戦|入替戦]] 降格
||準々決勝敗退||準優勝||[[J1・J2入れ替え戦|入替戦]] 降格
|rowspan="3"|{{flagicon|AUT}} ペトロヴィッチ
|rowspan="3"|{{flagicon|AUT}} ペトロヴィッチ


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|[[2008年のJリーグ|2008]]||J2||bgcolor="gold"|'''優勝'''<br/>(15)||-||47||100||31||4||7||99||35
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||出場権なし||ベスト8||bgcolor="gold"|'''[[Jリーグスーパーカップ|スーパーカップ]] 優勝'''
|colspan="2" rowspan="2"|[[本谷祐一]]
|colspan="2" rowspan="2"|[[本谷祐一]]


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|[[2009年のJリーグ|2009]]||J1|| <br/>(18)||-|| || || || || || ||
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!箇所!!スポンサー名!!表記!!掲出年!!備考
!掲出箇所
!スポンサー名
!表記
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!備考
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| 胸||[[デオデオ]]||DeODEO||1997年||2003年のみ胸に「YourVoice」パンツに「DeODEO
| 胸||[[デオデオ]]||DeODEO||1997年||2003年のみ「YourVoice」
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| 背中||[[ライフ (信販)|ライフ]]||Life CARD||2003年||
| 背中||[[ライフ (信販)|ライフ]]||Life CARD||2003年||
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| 袖||[[カルビー]]||Calbee||1999年||
| 袖||[[カルビー]]||Calbee||1999年||
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| パンツ||[[エディオン]]||エディオン||2009年||
| パンツ||[[エディオン]]||エディオン||2009年||2003年のみ「DeODEO」
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;練習着
;練習着
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!箇所!!スポンサー名!!表記!!備考
!掲出箇所
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!備考
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| 胸||[[マツダ]]||MAZDA||
| 胸||[[マツダ]]||MAZDA||
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=== 歴代スポンサー年表 ===
=== 歴代スポンサー年表 ===
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|年度||胸|||袖||背中||パンツ||サプライヤー||配色遍歴(1st、2nd)
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|1992年||-||[[マツダ|mazda]]||-||-||[[ミズノ|Mizuno]]||紫・白・紫、白・紫・白
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|}


*スポンサーの特徴としては広島市(または広島県)に本社を置く企業、もしくは広島が発祥の企業が協賛する傾向がある。
* スポンサーの特徴としては広島市(または広島県)に本社を置く企業、もしくは広島が発祥の企業が協賛する傾向がある。
* 当初はフォードグループ(マツダ)、近年はエディオングループ(デオデオ)が協賛する傾向にある。またYourVoiceとは、当時存在していたエディオングループのオリジナルブランド。
* 1993年 - 1994年のナビスコカップでは、胸ロゴからFordが外れチームロゴに、天皇杯は1992年と同じだった。
* 1993年 - 1994年のナビスコカップでは、胸ロゴからFordが外れチームロゴに、天皇杯は1992年と同じだった。
* YourVoiceとは、当時存在していたエディオングループのオリジナルブランド。
* Jリーグ発足時、[[オリジナル10]]のユニフォームサプライヤーはミズノの一括契約であったが、その中で現在もミズノと契約しているのは広島だけである。
* Jリーグ発足時、[[オリジナル10]]のユニフォームサプライヤーはミズノの一括契約であったが、その中で現在もミズノと契約しているのは広島だけである。



2009年5月2日 (土) 09:24時点における版

サンフレッチェ広島F.C
原語表記 サンフレッチェ広島F.C
愛称 サンフレッチェ、サンフ、サンフレ
クラブカラー
創設年 1938年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン ディビジョン1(J1)
ホームタウン 広島県広島市
ホームスタジアム 広島ビッグアーチ
収容人数 50,000
運営法人 株式会社サンフレッチェ広島
代表者 本谷祐一
監督 ミハイロ・ペトロヴィッチ
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

サンフレッチェ広島(サンフレッチェ ひろしま、Sanfrecce Hiroshima)は、日本広島県広島市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

クラブ概要

広島ビッグアーチ(メインゲート正面部分から)
事務所のある広島西飛行場ターミナルビル

1991年Jリーグ加盟(オリジナル10のひとつ)。ホームタウン広島県広島市。前身は自動車メーカー・マツダのサッカー部であるマツダサッカークラブ

チーム名の「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ(複:frecce)」はイタリア語で矢を意味し、戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる。

チームカラーは、紫(青紫、VIOLET)。クラブスローガンは、「WE FIGHT TOGETHER」。

チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ君」と「フレッチェちゃん」。

チームエンブレム2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)。

ホームスタジアムは広島ビッグアーチ。練習は主に安芸高田市吉田サッカー公園、試合前や天候などの理由によりビッグアーチやその隣の補助競技場も利用している。以前の使用場所については下記スタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。

Jサテライトリーグは主に吉田サッカー公園、年に1試合程度福山市竹ヶ端運動公園陸上競技場で開催されている。以前はマツダ鯛尾グラウンドや広島広域公園第一球技場などでも行われていた。

グッズ・チケット等は広島市中区大手町にあるV-point、あるいはオフィシャルネットショップ「e-Vpoint」で購入できる。

なお、下部組織についてはサンフレッチェ広島の下部組織を参照のこと。

クラブ運営

株式会社サンフレッチェ広島
SANFRECCE HIROSHIMA FC Co.,Ltd.
種類 株式会社
市場情報 非上場 (2008年Jリーグ資料 (PDF) )
本社所在地 733-0036
広島県広島市西区観音新町四丁目10番2号広島西飛行場ターミナルビル1階
設立 1992年4月24日
業種 サービス業
法人番号 4240001004278 ウィキデータを編集
事業内容 プロサッカークラブの運営
代表者 取締役会長 久保允誉
代表取締役社長 本谷祐一
資本金 21億1,005万円
売上高 26億26百万円 (07年度)
総資産 10億88百万円 (同上)
決算期 毎年1月
主要株主 デオデオ 39.85%、マツダ 21.37%、広島県 4.27%、広島市 4.27%、中国電力 3.42%
関係する人物 竹下虎之助(広島県(公選5代)知事)
古田徳昌(初代代表・マツダ7代社長)
久保允誉(3代代表・デオデオ2代社長)
特記事項:取締役会長の久保允誉はエディオン社長、デオデオ会長、ミドリ電化会長を兼務。
テンプレートを表示

歴代社長は下記年度別成績・歴代監督の項を参照。当初はマツダ系の、近年はデオデオ系の人物が就任している。本社事務所は設立当初、中区中町広島クリスタルプラザ4階にあったが、1998年8月に現在地に移転した。海辺近くにあるため、2004年9月台風18号により床上浸水の被害にあい、一時事務所が機能しなくなったことがある。

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(現:デオデオ)・中国電力・広島銀行等59団体の出資により設立、筆頭株主はマツダ。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため、Jリーグ参加条件であった「チーム名に企業名を入れない」意味を企業に説明して、出資団体を募った。その当時、オリジナル10のほとんどが親会社100%出資でチームを設立していたため、この官民の出資による設立はJリーグの方向性を示したと言える。

1995年度までJリーグバブルにより黒字が続いたが、それ以降バブルが弾けた影響や運営に対してマツダが消極的な姿勢を続けたため、経営危機に陥る。そこで、他のクラブに先駆けて行った選手人件費の見直しや1997年からのデオデオの積極的な資本介入などがあったためクラブ消滅から免れた。以降徐々に改善され2000年度には6期ぶりの黒字となった。以降黒字が続いたが、2005年からの積極的な補強や監督交代などが響き、2年連続で赤字となったが、2007年度は黒字に持ち直している。同年に第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった。

2008年、J2降格を受け組織を再編。「強化本部」を軸とする1本部5部制から、トップチームの強化・育成普及などを担当する「管理強化本部」と営業・運営・広報などを担当する「事業本部」の2本部7部制を採用。管理強化本部長はデオデオ出身の社長が兼務、事業本部長はマツダからの出向の取締役が就任している。同年度は戦力維持や降格によるJリーグ分配金減および世界的な経済情勢の悪化から赤字となった。

以下に現在の株主を示す。

参考資料

クラブの歴史

前史(マツダ時代)

1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると2度に渡りJSL2部へ降格してしまう。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更。1982年今西和男がサッカー部総監督に就任、のちにチームに多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した。

低迷の原因が地方のハンディによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国社会人リーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた。ここで確立された育成重視の方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。

またこの時期に、すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた。

1990年、プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請された。当初、マツダは財政的理由から降りようとしたものの、野村尊敬広島県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者、市民の運動により、1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。関西以西、中国地方では唯一の参加となった。(田辺一球コラム参照)

1992年 - 1994年(バクスター時代)

1992年に、スチュワート・バクスターが監督に就任。イワン・ハシェックパベル・チェルニー盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強であった。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。

当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン松田浩望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のJリーグヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位と不甲斐ない成績を残してしまった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活き活きと活躍しだし、1994年には見事サントリーシリーズで初優勝を果たす。

この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏佐藤康之柳本啓成森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを浅くとり裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神で広島サポーターのみならず、多くのJリーグサポーターを魅了した。

しかし同年ニコスシリーズになると、組織的でオートメーション化したパスサッカーが、逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり、トーレをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下していった。

その結果、Jリーグチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗戦、惜しくも年間優勝には届かなった。

1995年 - 1996年(ヤンセン時代)

チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年ハンス・オフトの推薦でオランダ人のビム・ヤンセン監督が就任する。 ジョン・ファンルーンピーター・ハウストラサントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。

しかしあまりにも変わりすぎたため、ほとんどの選手たちはこれについていけず、柳本や風間などは公然と監督批判、さらには主力の高木・森保は怪我から満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。 1995年シーズン終了後、システムについていけないベテラン選手を次々と放出。風間にいたっては「選手として何一つ得る物がない1年だった」とはき捨て退団。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して観客動員低下につながって行った。

その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義笛真人森秀昭久保竜彦ら若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。

リーグでは結局不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。

1997年 - 2000年(トムソン時代)

Jリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた1997年バルセロナオリンピックで名を上げ、若手育成に定評があったスコットランドエディ・トムソンが就任する。同年末、経営難はピークに達し、クラブ側は選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった。結果、高木・森保・路木・柳本(森保のみレンタル移籍)と次々と移籍していった。

限られた予算の中、他チームで構想外となった選手を中心に補強、藤本主税沢田謙太郎伊藤哲也吉田康弘山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜・下田崇服部公太高橋泰らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルドアウレリオ・ヴィドマートニー・ポポヴィッチハイデン・フォックススティーブ・コリカら外国人選手も補強した。

財政難からまともに戦力が整わなかったため、就任当初は5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開、オズワルド・アルディレスから「サッカーは得点しなければ勝てないことを、(トムソンは)広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた。

就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。翌2000年、更なる上位進出を目指したが、リアクションサッカーからの脱却ができず、肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。

2001年(ヴァレリー時代)

4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブはより攻撃的なサッカーを目指すために、ロシアヴァレリー・ニポムニシを新監督に招聘した。

センターフォワードタイプの選手を2人以上並べる3トップを採用し、超攻撃戦術への大転換を図った。久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った。

残留に向けオレグ・パシニンセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。すると日本代表にも選ばれた久保竜と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した94年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった。

ところがこの年のオフ、ヴァレリーは「夫人の病気」(後に、フロントとのチーム方針を巡る意見の相違から、好条件を提示された中国・山東魯能監督に就任するための狂言と判明)を理由としてわずか1年で辞任する。この際、ヴァレリーが新監督に推薦したロシア人ガジ・ガジエフを、クラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。

2002年(ガジエフ/木村/小野時代)

2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」とばっさりと放出。さらにキャンプでも選手たちの心を全く掴むことができずチームはバラバラのまま、またさらにはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。 そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村の怪我で急遽獲得したビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。結局ガジエフは第8節終了後に健康上の理由により辞任。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった。

同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格する形で監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷した。また主力の久保竜と藤本もコンディション不良による低調なパフォーマンスに終始し、他チームで構想外となった選手をレンタルで獲得するも期待はずれに終わってしまう。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になるが結局勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJ2降格が決まった。

同年12月、責任を取って木村は辞任。後任には小野が監督に昇格し、会見の場で「1年目にはJ1復帰、2年目にはJ1残留、3年目にはJ1で優勝争い」という『3ヵ年計画』を発表した。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、準決勝で敗れはしたが、その戦いぶりは来期への明るい展望を抱かせるのに充分な内容だった。

2003年 - 2005年(小野時代)

J2降格を受け主力の久保竜と藤本の二人は移籍してしまったが、そのほかの主力は残留させることに成功、一方でサンパイオリカルドらのJで実績のあるブラジル人を獲得した。こうして迎えたシーズンは、1stレグ11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走した。だが次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)、1年でJ1返り咲きを決める。

J1復帰後の2004年、上村・桑原・高橋などのベテラン・中堅を次々に放出し、森崎兄弟・駒野を中心とするチームの若返りに着手、高校生Jリーガーの高萩洋次郎前田俊介高柳一誠なども起用された。一方で補強では後手に回り、小村徳男ベット盛田剛平などベテラン中心の補強となってしまった。チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまった。

翌2005年、就任3年目を迎え優勝争いの公約を果たすため積極的な補強に動く。佐藤寿人茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たち、ジニーニョガウボンなどブラジル人を獲得。新キャプテンに就任した森崎和、前年から起用してきた前田などの若手が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上した。しかし、その後は下田の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁で、前半戦を終えた時点でどの試合も0分~45分の間は無失点という驚くべき記録を残し、佐藤寿は久保竜の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取り、J1日本人得点王にも輝いている。

同年には駒野が東アジア選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。

2006年(小野/望月/ペトロヴィッチ時代)

2006年、昨年足りなかった部分をウェズレイ戸田和幸らJリーグ実績のあるベテランで補強し更なる上位進出を狙った。しかし、より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊し10戦未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した。

後任には、GKコーチの望月一頼ドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任した。望月は、前回降格した2002年の反省や、さらに中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫くことにより、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリアミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した。

ペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人でたたき出した(ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点)。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した。

また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。その後も、佐藤寿と共にオシムジャパンに招集された。

2007年 - (ペトロヴィッチ時代)

2005年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため、2007年は実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった。主力に戦術が浸透した結果、現行ルールで決勝トーナメントへ進んだ事のなかったナビスコカップで初の決勝トーナメント進出を果たし、育成面では上々の成果をもたらし年代別代表にのべ7人を送り出し、リーグ序盤は好調を維持した。しかし頼みのウェズレイと佐藤寿人の2トップが他チームに研究され得点力が徐々に低下、財政上の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、控え組の底上げができていなかったことから主力を固定したため、コンディションが落ちはじめて守備が崩壊し、リーグ戦績が徐々に悪化し下位に低迷した。その結果、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、J1・J2入れ替え戦にも敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した。

これに対しクラブ幹部は若手を育てた実績を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定。これには「甘すぎる」と批判の声が挙がったが、同年の天皇杯ではこれまでのリーグ戦での不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した。

2008年は降格によりウェズレイと駒野が移籍したものの、ペトロヴィッチ留任によりほとんどの主力が残留し結果として戦力維持に成功し、さらに久保竜彦が6年ぶりに復帰した。しかしキャンプから年間を通じて怪我人続出に悩まされ、戦術も1トップ、時にはFWを置かない0トップを採用する状況になった。だが戦術変更が功を奏し、怪我人の穴を埋めた高萩洋次郎森脇良太佐藤昭大、年間通じて右サイドを務めた李漢宰、DF陣に欠かせない存在となった槙野智章など若手が台頭し選手層の厚みに繋がった。

同年3月のゼロックス・スーパーカップでは、PK戦のすえ勝利。これにより1994年のサントリーシリーズ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。リーグ戦でも序盤から失速することなく独走状態で勝ち続け、J2史上初の「9月中での優勝」、開幕から1度も首位の座を譲る事なく「全節首位での優勝」、J2史上2チーム目となる「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出。J1勢を相手にしてもその力を存分に見せ付け、来季に繋がる戦いをみせた。

2009年も現有戦力で戦う路線は継続、主な補強も即戦力MFミハエル・ミキッチを獲得した程度に止まったものの、昨シーズン台頭した若手の力とペトロヴィッチが約1年間のJ2の期間をかけてチームに浸透させた戦術を武器に昇格1年目での優勝も視野に入れながら、来期のAFCチャンピオンズリーグ出場権獲得を目指して出発した。

年度別成績・歴代監督

年度 所属 年間順位
(チーム数)
ステージ
順位
試合 勝点 勝利 敗戦 引分 得点 失点 ナビスコ杯 天皇杯 他公式戦 監督 GM 代表
1992 - -
(-)
- - - - - - - - 予選敗退 2回戦敗退 - イングランドの旗 バクスター 今西和男 古田徳昌
1993 J サントリー 5位
(10)
6位 18 - 9 9 - 23 24 予選敗退 ベスト4 -
J ニコス 5位 18 - 9 9 - 31 25
1994 J サントリー 2位
(12)
優勝 22 - 17 5 - 44 26 1回戦敗退 ベスト8 チャンピオンシップ 準優勝
J ニコス 4位 22 - 12 10 - 27 31
1995 J サントリー 10位
(14)
10位 26 39 13 13 - 39 33 開催せず 準優勝 - オランダの旗 ヤンセン 信藤整
J ニコス 12位 26 28 9 17 - 28 43
1996 J 14位
(16)
- 30 30 10 20 - 36 60 予選敗退 準優勝 -
1997 J 1st 12位
(17)
10位 16 21 8 8 - 22 23 予選敗退 4回戦敗退 - スコットランドの旗 トムソン
J 2nd 13位 16 15 5 11 - 21 27
1998 J 1st 10位
(18)
13位 17 19 7 10 - 22 33 予選敗退 ベスト8 - 久保允誉
J 2nd 9位 17 24 9 8 - 23 19
1999 J1 1st 8位
(16)
6位 15 27 9 6 0 30 18 2回戦敗退 準優勝 -
J1 2nd 8位 15 21 7 7 1 24 25
2000 J1 1st 11位
(16)
10位 15 19 7 7 1 19 15 2回戦敗退 4回戦敗退 -
J1 2nd 11位 15 18 6 8 1 23 25
2001 J1 1st 9位
(16)
13位 15 13 5 10 0 25 33 3回戦敗退 4回戦敗退 - ロシアの旗 ヴァレリー
日本の旗 木村孝洋(代行)
J1 2nd 3位 15 24 8 7 0 36 27
2002 J1 1st 15位
(16)
15位 15 10 3 11 1 14 26 予選敗退 ベスト4 - ロシアの旗 ガジエフ
日本の旗 木村孝洋
日本の旗 小野剛
J1 2nd 14位 15 16 5 8 2 18 21
2003 J2 2位
(12)
- 44 86 25 8 11 65 35 出場権なし 4回戦敗退 - 日本の旗 小野剛 高田豊治
2004 J1 1st 12位
(16)
13位 15 15 3 6 6 15 19 予選敗退 4回戦敗退 -
J1 2nd 11位 15 16 3 5 7 21 23
2005 J1 7位
(18)
- 34 50 13 10 11 50 42 予選敗退 5回戦敗退 -
2006 J1 10位
(18)
- 34 45 13 15 6 50 56 予選敗退 5回戦敗退 - 日本の旗 小野剛
日本の旗 望月一頼
オーストリアの旗 ペトロヴィッチ
織田秀和
2007 J1 16位
(18)
- 34 32 8 18 8 44 71 準々決勝敗退 準優勝 入替戦 降格 オーストリアの旗 ペトロヴィッチ
2008 J2 優勝
(15)
- 47 100 31 4 7 99 35 出場権なし ベスト8 スーパーカップ 優勝 本谷祐一
2009 J1
(18)
-
  • 所属欄における「サントリー」はサントリーシリーズ、「ニコス」は日本信販・NICOSシリーズの意味
  • 監督交代について
    • 2001年1月〜12月 ヴァレリー、12月 木村(代行)
    • 2002年1月〜6月 ガジエフ、6月〜12月 木村、12月 小野
    • 2006年1月〜4月 小野、4月〜6月 望月、6月〜12月 ペトロヴィッチ

獲得タイトル・記録

クラブ記録

なおオリジナル10の中で唯一、日本国内3大タイトル(Jリーグ(J1)年間、Jリーグカップ、天皇杯)を獲得していない。

個人記録

Jリーグ

ナビスコカップ

  • MVP
  • ニューヒーロー賞
  • 通算試合出場
    • 小村徳男(300試合) 2004年4月10日 J1・1st第4節 対大分(大分スタジアム
    • 小村徳男(350試合)2005年11月12日 J1第30節 対大分(広島ビッグアーチ)
    • 下田崇(250試合)2006年10月15日 J1第27節対FC東京(広島ビッグアーチ)
    • 服部公太(250試合)2006年10月28日 J1第29節 対横浜FM(広島ビッグアーチ)
  • リーグ通算記念ゴール
    • 高木琢也(3,500ゴール目)1997年5月3日 J・1st第6節 対京都(広島ビッグアーチ)
    • 久保竜彦(7,000ゴール目)2001年5月12日 J1・1st第9節 対C大阪(広島スタジアム)
    • ウェズレイ(12,000ゴール目)2007年6月23日 J1第17節 対神戸(ホームズスタジアム神戸
  • その他
    • 久保竜彦 AFC月間最優秀ゴール賞(8月)2000年8月19日 J1・2nd第10節 対G大阪(広島ビッグアーチ)
    • 森崎和幸・浩司 兄弟アベックゴール 2004年5月5日 J1・1st第8節 対C大阪(長居スタジアム、48分 和幸・89分 浩司)
    • 佐藤寿人 Jリーグ最速得点(開始8秒)2006年4月22日 J1第9節 対C大阪(広島ビッグアーチ)
    • ウェズレイ J1通算100ゴール 2007年3月31日 J1第4節 対横浜FM(広島ビッグアーチ)
    • 服部公太 J1リーグ戦連続試合フルタイム出場126試合
      • 2004年3月13日 J1・1st第1節 対清水(広島ビッグアーチ)〜2007年10月6日 J1第28節 対磐田(広島ビッグアーチ)

対戦成績

対戦通算成績
相性
  • 清水エスパルスのホームスタジアムである日本平スタジアムを非常に苦手にしており、1995年の勝利を最後に、2006年までリーグ戦では1分9敗と11年間に渡りこのスタジアムで勝利を奪えていない。リーグ戦の通算成績でも2勝10敗1分と大きく負け越しており、まさに鬼門のスタジアムである。
  • 一方で、鹿島アントラーズのホームであるカシマサッカースタジアムでの相性がよく、1997年から2006年まで負け無しだった。通算成績でも鹿島を除くJ1所属経験のあるチームの中では2007年において唯一勝ち越していたが2009年3月22日J1第3節で負けたことで7勝1分7敗の五分になった。また、鹿島がこのスタジアムで初めて負けたときの相手が広島である。
  • ベガルタ仙台にはリーグ戦での勝利がない。2008年のJ2でJ全チーム(横浜フリューゲルス含む)から勝利を挙げるチャンスがあったが、J2新規加盟のFC岐阜ロアッソ熊本には勝利するも、仙台とは2分け1敗に終わった(2002年J1では0勝2敗)。J1復帰の2009年もJ2に新規加盟チーム(栃木SCカターレ富山ファジアーノ岡山)が加わるため、J全チーム勝利は当面できそうにない。

その他、詳細なデータは外部サイト(サンフレッチェ広島記録集)を参照。

リーグ戦ホームゲーム観客動員数

リーグ戦のみ、BA:広島ビッグアーチ、S:広島スタジアム

年度 カテ
ゴリ
1試合
平均
試合数・
年間入場者
最多動員 最少動員
動員数 試合日 対戦 会場 動員数 試合日 天気 対戦 会場
1993 J 16,644 18 299,586 36,863 5月22日(土) V川崎 BA 9,672 12月8日(水) 名古屋 S
1994 J 17,191 22 378,195 42,505 9月3日(土) V川崎 BA 8,523 11月16日(水) 磐田 S
1995 J 11,689 26 303,903 20,265 3月29日(水) V川崎 BA 7,012 11月11日(土) 名古屋 BA
1996 J 8,469 15 127,040 18,863 3月20日(水) 鹿島 BA 4,491 11月6日(水) 福岡 BA
1997 J 6,533 16 104,534 10,504 8月20日(水) V川崎 BA 4,156 4月16日(水) BA
1998 J 8,339 17 141,769 17,020 8月8日(土) 鹿島 BA 4,132 5月2日(土) 市原 S
1999 J1 9,377 15 140,650 18,263 9月15日(祝) 横浜FM BA 3,812 4月10日(土) 曇/雨 G大阪 S
2000 J1 8,865 15 132,978 20,876 11月23日(祝) 磐田 BA 4,175 4月5日(水) BA
2001 J1 9,916 15 148,741 19,423 11月24日(土) 鹿島 BA 5,161 4月14日(土) 福岡 BA
2002 J1 10,941 15 164,111 18,404 11月23日(土) BA 6,481 3月16日(土) 京都 BA
2003 J2 9,000 22 198,004 26,158 9月23日(祝) 新潟 BA 3,471 4月9日(水) 水戸 S
2004 J1 14,800 15 222,005 29,332 5月2日(日) 浦和 BA 5,251 4月14日(水) 名古屋 BA
2005 J1 12,527 17 212,960 26,083 9月18日(日) 浦和 BA 6,230 7月13日(水) 磐田 BA
2006 J1 11,180 17 190,066 17,564 3月5日(日) 鹿島 BA 5,545 7月26日(水) 曇/雨 甲府 BA
2007 J1 11,423 17 194,199 22,675 9月15日(土) 浦和 BA 6,037 6月20日(水) 川崎F BA
2008 J2 10,840 21 227,631 19,349 9月23日(祝) 愛媛 BA 4,622 6月25日(水) 徳島 BA
2009 J1 17 月 日( ) BA 月 日( ) BA
  • 現在では、1990年代後期と比べれば徐々にではあるが増えているが、Jリーグ全体からすると芳しいとは言えない状況である。
  • 最多平均動員は17,191人(1994年)、最小平均動員は6,533人(1997年)。最多1試合動員は42,505人(1994年9月3日ヴェルディ川崎戦)、最小1試合動員は3,471人(J2、2003年4月9日水戸ホーリーホック戦)・3,812人(J1、1999年4月10日ガンバ大阪戦)。
  • 広島ビッグアーチおよび広島スタジアムはほとんどの観客席に屋根がないため、天候が崩れると観客数に減少傾向がでる。2006年は動員が多く見込めるゴールデンウィークとリーグ終盤に雨が続き、観客動員に影響した。最近数年は「梅雨期の水曜日開催試合」に最小動員となる傾向にある。
  • Jリーグ開始時から最小動員が1万人を切っており、さらに90年代後半のJリーグバブル崩壊と共に急激に動員数が減っていることから、当初クラブ自体が営業努力を疎かにしていたことが分かる。そのほかの動員急減理由として、94年ステージ優勝メンバーである主力数人を放出したことやリーグ成績の低迷などが挙げられる。
  • さらに問題なのが、「新広島市民球場での広島東洋カープ」の試合と「広島ビッグアーチでのサンフレッチェ広島」の試合が、同じ日の同じ時間に開催される、双方にとってメリットのない状況も要因のひとつである。

エピソード・アラカルト

記録・事件

チーム名

チーム名は公募したものだが、「高貴な色」を付けた「広島パープル」で決定しかけたという。川淵三郎の著書『虹を掴む』によると、川淵と広島球団社長が一緒に飲んだ際に、川淵は愛称的なチーム名を期待していたが色だけのチーム名に難色を示し、その場にいた芸者らも川淵の意見に賛同して改名を考慮。結果としてチーム名は公募され、最も多かった毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんだ「スリーアローズ」をさらにもじり、「サンフレッチェ」の名前が誕生した。

ただ、広島の本来のチームカラーは、紫は紫でもパープル(赤紫)ではなくバイオレット(青紫)である。また、広島は当初マツダSC時代のカラーである青をクラブカラーとして申請していた(青を希望したクラブが多かったため、バランスをとる形で紫になった)こと、J開幕時にはすでにJFLに将来のJリーグ入りを目指す京都パープルサンガが存在しており、重複する名前をつけようとしたとは考えづらいことなどから、この話は100%虚偽ではないにせよ、ある程度協会関係者による創作が混じっている可能性もある。

またこのチーム名を由来として1993年、プロ野球パシフィックリーグの西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)主力投手であった鹿取義隆潮崎哲也杉山賢人の3人が、「サンフレッチェ」の愛称で呼ばれていた。

チェアマン杯破損事件

1994年6月11日磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。ところがこの際、授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)をサポーターに見せてやろうと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損。この珍事は翌日のスポーツ新聞の1面を飾った。クラブはその場でJリーグ側に陳謝、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。この事件以降、チェアマン杯は金属製となった。

ちなみに当時その模様を伝えるニュースでは、森山佳郎が持ってサポーターの方へ向かっていた状況が放送されたため、多くのファンは「割ったのはムードメーカーたる森山」と考え、森山本人も以後会う人全員から疑われて否定に必死だったという。

ユニフォーム忘れ事件

1995年4月1日熊本市水前寺陸上競技場横浜フリューゲルス戦が行われた。この試合は当時九州にJリーグチームがなく、熊本県ホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームなので、広島はアウェーゲームで使う白の2ndユニフォームを持参していた。ところが横浜Fの1stユニフォームは白。競技場に着いて初めてこのことに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだが、当然ながら間に合うはずもない。そこで広島は横浜Fの了解を得て、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、当時胸スポンサーだったマツダや背中スポンサーだった住建産業のロゴが描かれていないものもあった(自分が書いたサイン入りのユニフォームを着た選手もいた)。ちなみにパンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。

試合は延長前半12分にイワン・ハシェックVゴールで広島が勝ったものの、後日Jリーグから制裁金が課せられた。

ちなみにユニフォームを貸したサポーターには、この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙がプレゼントされた。

J2クラブ初の「日本一」達成

2008年3月1日国立霞ヶ丘陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、2部制ができた1999年以降初めてJ2のクラブが「日本一」の称号を手にする偉業を達成した。

交流

吉田町(安芸高田市)

チーム名は上記のとおり毛利元就の故事にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である高田郡吉田町(現:安芸高田市)とサンフレッチェとの交流が始まった。その後交流が進み、吉田サッカー公園完成や、毎年清神社に必勝祈願参拝するなど、現在の吉田町はサンフレッチェのマザータウンとなっている。

横川町(西区)

2007年3月、広電バスがホームゲーム開催日に、JR・広電横川駅とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが横川町商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。

サンフレと若者支援で町に活気を(週刊中国新聞経済メールマガジン)
横川のまちづくり サンフレバスで新機軸(07年3月11日中国新聞社説)
他のJリーグクラブへの協力
  • 発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡ヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。
  • 大分トリニータ愛媛FCは、創設時に元広島総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた。
  • 中国・四国地方のJリーグクラブで中国・四国Jクラブ情報懇談会を結成。定期的に集まり、おのおのクラブ運営の問題解決にむけ意見交換を行っている。
他競技交流
  • 2000年4月、広島市内を拠点として活躍する4競技5団体でトップス広島(異競技間交流ネットワーク)を結成、スポーツ教室の開催や相互競技応援など活動して来た。その後加入団体は増え2009年現在で8競技9団体になる予定。
  • 2007年6月、それとは別にP3 HIROSHIMA(広島三大プロ共同体)という地域活性化プロジェクトも開始した。

所属選手

トップチーム
下部組織

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 紫紺 紫紺or白
FP(2nd) 白×グレー グレー
GK(1st) オレンジ オレンジ オレンジ
GK(2nd) 水色 水色 水色
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

チームカラー

紫色(色決定経緯については上記エピソード・アラカルト内の「チーム名」欄を参照)

ユニフォームスポンサー

公式戦用
箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
デオデオ DeODEO 1997年 2003年のみ「YourVoice」
背中 ライフ Life CARD 2003年
カルビー Calbee 1999年
パンツ エディオン エディオン 2009年 2003年のみ「DeODEO」
練習着
箇所 スポンサー名 表記 備考
マツダ MAZDA
背中 ミズノ MIZUNO
左袖 広島銀行 広島銀行 クロスシャツ、ウインドブレーカー
右袖 中国電力 中国電力 クロスシャツ、ウインドブレーカー
左袖 中電工 中電工 プラクティスシャツ
右袖 月刊タウン情報 ひろしま Tj Hiroshima プラクティスシャツ

歴代スポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー 配色遍歴(1st、2nd)
1992年 - mazda - - Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
1993年 Ford mazda JUKEN - Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
1994年 Ford mazda JUKEN - Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
1995年 mazda - JUKEN - Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
1996年 mazda - JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
1997年 DeODEO - JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
1998年 DeODEO - JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
1999年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2000年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2001年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2002年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2003年 YourVoice Calbee LifeCARD DeODEO Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
2004年 DeODEO Calbee LifeCARD - Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
2005年 DeODEO Calbee LifeCARD アーバンコーポレイション Mizuno 紫・紫・紫、白・紫・白
2006年 DeODEO Calbee LifeCARD アーバンコーポレイション Mizuno 紫・紫・紫、白・紫・白
2007年 DeODEO Calbee LifeCARD アーバンコーポレイション Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2008年 DeODEO Calbee LifeCARD アーバンコーポレイション Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2009年 DeODEO Calbee LifeCARD エディオン Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
  • スポンサーの特徴としては広島市(または広島県)に本社を置く企業、もしくは広島が発祥の企業が協賛する傾向がある。
  • 当初はフォードグループ(マツダ)、近年はエディオングループ(デオデオ)が協賛する傾向にある。またYourVoiceとは、当時存在していたエディオングループのオリジナルブランド。
  • 1993年 - 1994年のナビスコカップでは、胸ロゴからFordが外れチームロゴに、天皇杯は1992年と同じだった。
  • Jリーグ発足時、オリジナル10のユニフォームサプライヤーはミズノの一括契約であったが、その中で現在もミズノと契約しているのは広島だけである。

チーム名変遷

  • 1938年~ 東洋工業蹴球部
    • 1943年~1947年 休部
  • 1971年~ 東洋工業サッカー部
  • 1981年~ マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部
  • 1984年~ マツダスポーツクラブサッカー部
  • 1986年~ マツダサッカークラブ
  • 1992年~ サンフレッチェ広島

スタジアム

ホームスタジアム推移

現在、公式戦はすべて広島ビッグアーチで行われている。

  • 1992年~1994年 - 広島スタジアム
  • 1994年~ 広島ビックアーチ(実公式な本拠地移転の届出は1996年)
    • 1994年~2003年 - 広島スタジアムと併用。
      • 年によって区々(1997年はリーグ戦・カップ戦すべてビッグアーチ、2003年はリーグ戦両所ちょうど半分ずつ、など)。
      • 1998年1stステージ - 広島ビッグアーチの施設・ピッチ改修のため、広島スタジアムをホームに。
    • 2004年~2006年 - リーグ戦は広島ビッグアーチ、カップ戦は広島スタジアム。
    • 2007年~ リーグ戦・カップ戦すべて広島ビックアーチ。
専用スタジアム構想

練習場・キャンプ地

練習場

現在、主に使用されるのは下記の3つ。

また、過去には下記の場所で練習していたこともある[1]。現在も吉田およびビッグアーチともに積雪で使用できなくなった場合のみ使用されることがある。

キャンプ地
  • 現在のキャンプ日程は、まず広島で1週間ほど練習を行い、その間集合写真撮影や清神社にて必勝祈願を行う。その後一次キャンプを海外で、二次キャンプを宮崎・シーガイアで行なう。
  • 国内キャンプは、地元広島のほか、過去には大分県淡路島筑波大学(ともに冬季)、北海道松江市(ともに夏季)などで行われている。
  • 海外キャンプは監督の意向で決まることが多い(括弧内は行なった監督)。過去には東欧北欧(バクスター)、浦項スティーラース練習場(ヤンセン)、アデレード(トムソン)、グアム(小野剛)、アンタルヤ(ペトロヴィッチ)で行われている。
  • 珍しい練習として、2003年と2004年の春キャンプにて1泊の「野宿」が行われた。これは、ASE(Action Socialization Experience:社会性を育成する実体験・野外活動)によるトレーニングの一部で、たった一人で限られた食物とテントを持ち山の中で過ごし、孤独な時間の中で自分の心や人間関係を見つめなおすというもの。選手のみならず監督・コーチスタッフも行い、テント数が限られていたため半数近くがブルーシートで寝泊りしている(参考:淡路島でのトレーニングサンフレッチェ広島キャンプでホイ(開運!?スポよた堂))。

メディアなど

紙媒体
テレビ
ラジオ
応援歌
交通

関連項目

外部リンク