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望月一頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
望月 一頼
名前
カタカナ モチヅキ カズヨリ
ラテン文字 MOCHIZUKI Kazuyori
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1961-11-20) 1961年11月20日(62歳)
出身地 静岡県静岡市
選手情報
ポジション GK
ユース
1977-1979 日本の旗 清水東高校
1980-1983 日本の旗 筑波大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1984-1988 日本の旗 マツダSC 0 (0)
1992-1994 日本の旗 サンフレッチェ広島 0 (0)
通算 0 (0)
監督歴
1988-1990 日本の旗 マツダSCアシスタントコーチ
1991-1992 日本の旗 マツダSCコーチ兼GKコーチ
1992-1996 日本の旗 広島トップチームGKコーチ
1997-1998 日本の旗 広島トップチームコーチ
1998-2001 日本の旗 日本GKコーチ
2001-2006 日本の旗 広島トップチームGKコーチ
2006 日本の旗 広島監督
2006-2011 日本の旗 広島トップチームGKコーチ
2012 日本の旗 広島ユースダイレクター
2013-2014 日本の旗 広島ユース監督
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月15日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

望月 一頼(もちづき かずより、1961年11月20日 - )は、静岡県静岡市出身の元サッカー選手 (GK)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。筑波大学卒業

来歴

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清水東高出身。同期に大木武、二年先輩に内山篤、一年後輩に内田一夫、二年後輩に反町康治望月達也沢入重雄らがいる[1]。1977年高1時、高校では控え選手だったが偶然松本育夫日本ユース代表監督の目にとまり、地元開催の1979 FIFAワールドユース選手権に出場するユース日本代表に選出されるも、最終的には本選出場選手に選ばれなかった[2]

高校卒業後、筑波大学に進学した[3]。一年先輩に松田浩、同期に風間八宏鈴木淳、一年後輩に小野剛がいる。4年時にはキャプテンも務めた。[4]

大学を卒業後、1984年にマツダへ入社、マツダSCでゴールキーパーとして入団する[3]。1986年のディド・ハーフナーの加入のため結局レギュラーになれず、公式戦出場はまったくなかった。1988年に現役引退[3]

その後は同チームやサンフレッチェ広島のGKコーチを歴任する[3]

既にコーチになっていたJリーグ初期の1992年から1994年、GKの層が薄かった関係で選手登録された。ちなみに、ベンチ入りメンバーに入ったことがあるが、出場はない。また、このころにJFA 公認S級コーチライセンスを取得。1997年、エディ・トムソンに監督が変わるとコーチに就任し、トム・セルマーニと共にトムソン監督の参謀となった。

1998年11月、フィリップ・トルシエ監督率いるサッカー日本代表にGKコーチとしてスタッフ入りし[3]ワールドユースナイジェリア大会シドニーオリンピックアジアカップ2000などの試合でチームを支えた[5]

2001年、サンフレッチェ広島フロントの強い要望により、広島GKコーチに復帰する[5]

GKコーチとして働いていた2006年4月に、チームの成績不振による小野剛監督の辞任に伴い、ドイツW杯開催によるJリーグ中断期間までの監督に就任する[6][7]。たった2ヶ月間で劇的に立て直す時間はないとの判断から、5バックと中盤2人が常時自陣深くに引いて敵の攻撃を跳ね返し、自チームの攻撃は中盤を省略したロングボール一辺倒という、超守備的なサッカーを展開。その4試合すべてで先制点を挙げ、しかも2勝1分1敗で勝ち点7あげたことにより残留争いに優位に立った。当初「つまらないサッカー」との批判を浴びていたが、短期間でチームを立て直したことから、2006年の影の功労者として評価されている[8][9]

その後ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の就任に伴いGKコーチに復帰する。

2012年からトップチームを離れ高橋真一郎の後任としてユースダイレクターに就任し、2013年から森山佳郎の後任としてユース監督に就任した[10]。2014年末を持って退任し、アカデミー所属コーチとなった[11]

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1984 マツダ JSL2部 0 0
1985 0 0
1986-87 JSL1部 0 0
1987-88 0 0
1992 広島 - J - 0 0 0 0 0 0
1993 0 0 0 0 0 0 0 0
1994 0 0 0 0 0 0 0 0
通算 日本 J 0 0 0 0 0 0 0 0
日本 JSL1部 0 0
日本 JSL2部 0 0
総通算 0 0

監督成績

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第1種
年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
2006 J1 広島 - 4 7 2 1 1 - -
第2種

脚注

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  1. ^ サッカー部 OBの活躍”. 清水東高サッカー部. 2013年8月17日閲覧。
  2. ^ ヴァンフォーレ甲府に続き、がんばれサンフレッチェ広島”. 桜えび・磯料理「くらさわや」(同級生のブログ) (2006年4月20日). 2013年8月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e サンフレッチェ広島の 望月 一頼 コーチが残念ながら退団することになりました。”. サンフレッチェ広島公式 (1998年11月13日). 2001年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月17日閲覧。
  4. ^ 「内側から見た日本サッカー協会」”. サポティスタ (1999年1月19日). 2013年8月17日閲覧。
  5. ^ a b 日本代表GKコーチの望月、3年ぶり復帰”. 中国新聞 (2001年1月28日). 2001年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月17日閲覧。
  6. ^ 望月一頼監督の就任記者会見”. 広島サッカー向上委員会 (2006年4月18日). 2013年8月17日閲覧。
  7. ^ 下.立て直しの方策”. 中国新聞 (2006年4月20日). 2013年8月17日閲覧。
  8. ^ ピンポイント 手堅い望月流「合格」”. 中国新聞 (2006年5月6日). 2013年8月17日閲覧。
  9. ^ ピンポイント 監督に感謝のMVP”. 中国新聞 (2006年11月18日). 2013年8月17日閲覧。
  10. ^ 次期監督には望月氏就任へ”. 中国新聞 (2012年12月17日). 2013年8月17日閲覧。
  11. ^ 広島ユースの監督に沢田氏”. 中国新聞 (2015年1月9日). 2015年1月16日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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