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二村昭雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二村 昭雄
名前
カタカナ ニムラ テルオ
ラテン文字 NIMURA TERUO
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1943-05-02) 1943年5月2日(81歳)
出身地 京都市右京区
選手情報
ポジション MF
ユース
1959-1961 日本の旗 山城高校
1962-1965 日本の旗 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1966-1976 日本の旗 東洋工業 151 (16)
通算 151 (16)
代表歴
1967-1970[1] 日本の旗 日本 5 (0)
監督歴
1978-? 日本の旗 札幌マツダ
1981-1983 日本の旗 マツダ
? 日本の旗 セレッソ大阪ユース総監督
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

二村 昭雄(にむら てるお、1943年5月2日 - )は、京都府京都市右京区出身の元サッカー日本代表選手、サッカー指導者。

来歴

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現役時代は、身体的には恵まれていないが、ポジションセンスと運動量の両方を伴ったMF

中学校から大学時代まで一つ下の後輩の釜本邦茂とプレー。大西忠生、釜本と合わせて「京都三羽ガラス」として名を馳せた。

京都府立山城高等学校3年のときMFとして全日本ユース代表。その後早稲田大学第二政治経済学部へと進学。松本育夫野村尊敬桑田隆幸森孝慈、釜本、大野毅らと同大学ア式蹴球部の黄金時代を創る。1963年日立本社(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。また、大学2年のときMFとして全日本ユース代表に選出されている。

その後、日本サッカーリーグ(JSL)所属の東洋工業(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に進み、小城得達らとともに中盤でプレーし、東洋工業の黄金期を支えた。27歳で第6回アジア大会に出場。

現役引退後は1978年から札幌マツダ(のちのアンフィニ札幌。サンクFCくりやまも参照)、1981年から東洋工業/マツダ監督。

Jリーグが始まるとセレッソ大阪ユース総監督などを務めた。現在はJリーグマッチコミッショナーを務めている。

所属クラブ

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指導歴

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1966 東洋 JSL 11 -
1967 11 -
1968 14 -
1969 -
1970 13 -
1971 - -
1972 JSL1部 -
1973
1974 -
1975 -
1976
通算 日本 JSL1部 151 16
総通算 151 16

代表歴

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出場大会など

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試合数

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  • 国際Aマッチ 5試合 (1970)[1]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1967 0 0 1 0 1 0
1968 0 0 0 0 0 0
1969 0 0 1 0 1 0
1970 5 0 2 1 7 1
通算 5 0 4 1 9 1

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1970年12月10日 タイ王国の旗バンコク  マレーシア ○1-0 岡野俊一郎 アジア大会
2. 1970年12月12日 タイ王国の旗バンコク  クメール ○1-0 アジア大会
3. 1970年12月16日 タイ王国の旗バンコク  インドネシア ○2-1 アジア大会
4. 1970年12月17日 タイ王国の旗バンコク  インド ○1-0 アジア大会
5. 1970年12月19日 タイ王国の旗バンコク  インド ●0-1 アジア大会

監督成績

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年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 JSL杯 天皇杯
1981 JSL1部 マツダ 8位 18 13 4 5 9 2回戦 1回戦
1982 JSL1部 マツダ 7位 18 17 4 9 5 2回戦 準々決勝
1983 JSL1部 マツダ 10位 18 12 5 2 11 2回戦 準々決勝

関連項目

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出典

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  1. ^ a b “二村 昭雄”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_na/teruo_nimura.html 

外部リンク

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先代
n/a
札幌マツダサッカー部監督
1978-19??
次代
吉田三郎