盧 廷潤(ノ・ジョンユン、노정윤、1971年3月28日 - )は、大韓民国出身の元サッカー選手。元韓国代表。京畿道仁川市(現・仁川広域市)出身。Jリーグ初期はノ・ジュンユンの読みで登録されていた。元韓国女子代表選手の[1]劉永玉[2] は妻。韓国代表として初めてJリーグでプレーしたサッカー選手。
地元の富平高等学校から高麗大学校[注 1]へ進学し、大学在籍中の1990年には韓国代表入りする。
卒業後、1992年度行われたKリーグドラフトで油公(現済州ユナイテッドFC)に指名されたが、以前からオファーの届いていたJリーグのサンフレッチェ広島に入団[注 2]。韓国内でも将来の中心選手として期待が高かったため、Jリーグ入りは韓国国民から強い非難を受けた。しかしJリーグ開幕時から不動のレギュラーの座をつかみ、1994年のサントリーシリーズ(1stステージ)優勝に貢献。なお、本人はワールドカップアメリカ大会出場のため、チームが優勝を決めた同年6月11日のジュビロ磐田戦を含め、第1ステージ終盤の5試合はチームを離れた。
1994年ワールドカップアメリカ大会アジア地区最終予選中の参加国の合同宿舎においては、上記の軋轢から自身をスパイ扱いする韓国代表選手との接触を避ける一方、Jリーグで同僚の森保一や他の日本代表の選手にキムチや焼き肉を差し入れたり、他のチームの情報を伝えたりしていた[3]。最終予選で韓国が日本に敗れ、ほとんどの選手が悔しさのあまり取材すら拒否してスタジアムを後にする中、盧だけは日本のテレビカメラに向かって笑顔で「おめでとう」とコメントを残した。この試合に敗れたことについて、金皓韓国代表監督が「廷潤が日本代表のスパイであったせいで韓国は負けたのだ」とテレビカメラの前で主張を展開。それ以降、決定的に韓国全土にスパイの汚名を着せられることとなる[注 3]。同年、韓国代表メンバーとしてW杯アメリカ大会への出場を果たす。[5]
1998年のフランス大会にも1試合出場。1998年にオランダのNACブレダへローン移籍した後、1999年の1stステージからセレッソ大阪に加入。2000年1stステージの躍進に貢献したものの、翌年のシーズン途中、チームの不振に伴い金都根と共に契約解除。蔚山現代に加入する一歩手前まで来たが、当時のKリーグの規定(ドラフトから入団しない選手はリーグでプレーする資格を失う)に抵触するため断念。アビスパ福岡へ入団したものの、この年の福岡はJ1残留争いに巻き込まれ、最終順位15位となりJ2リーグへ降格してしまう。2002年も福岡に残留したがJ1昇格を果せず、また事件[注 4]の影響もあってシーズン終了後に退団。
Kリーグの規定が解除された2003年に釜山アイコンズ(現:釜山アイパーク)に入団し、翌年のFAカップ優勝に貢献。2005年からは以前に入団しかけた蔚山現代でもプレーし、2006年シーズン終了をもって35歳で現役を退いた。
その後、アメリカに渡りロサンゼルスを拠点に生活、サッカー指導者を志す[6]。2010年6月より韓国に帰国し、ゲーム会社顧問として活躍している[7]。
個人成績[編集]
- 注釈
- ^ 先輩でもある車範根を非常に尊敬しており、会話の端々で「私の尊敬するチャ・ブングン先輩は・・・」という言葉が出てくる。
- ^ 新人としての同期入団は、上村健一、アンドレイ、安部雄大、若松賢治。
- ^ 当時日本代表であり広島でのチームメイトである森保一は、キムチとプルコギのさしいれへの感謝と、盧のスパイ容疑の否定を自伝で述べている[4]。
- ^ 2002年、なかなか調子の上がらない福岡の中で盧は一人気を吐いていたが、ある日の試合後、引き分けの結果に怒ったある福岡サポーターが、盧に韓国代表のユニフォームを投げつけた。当時盧は韓国代表ではなく、この侮辱行為に普段は温厚な盧も「国(代表)のは関係ないだろう」と激怒し、即時の退団を示唆。このときは慰留され福岡に留まったが、同年限りでJリーグを去るきっかけになってしまった。
- 出典
関連項目[編集]