髙柳一誠

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髙柳 一誠
名前
愛称 イッセイ
カタカナ タカヤナギ イッセイ
ラテン文字 TAKAYANAGI Issei
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1986-09-14) 1986年9月14日(37歳)
出身地 神奈川県横浜市
身長 174cm
体重 68kg
選手情報
ポジション MF / DF
利き足 右足
ユース
1993-1996
1996-1998
1999-2001
2002-2004
瀬谷FC (南瀬谷小)
広島高陽FC (亀崎小)
サンフレッチェ広島ジュニアユース (亀崎中)
サンフレッチェ広島ユース (吉田高)
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2003-2004 サンフレッチェ広島 (2種登録) 3 (0)
2005-2011 サンフレッチェ広島 107 (3)
2012 コンサドーレ札幌 0 (0)
2013-2014 ヴィッセル神戸 8 (0)
2014 ロアッソ熊本 (loan) 16 (0)
2015-2016 ロアッソ熊本 61 (1)
2017-2018 レノファ山口FC 21 (0)
2019-2022 沖縄SV 46 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年3月15日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

髙柳 一誠(たかやなぎ いっせい、1986年9月14日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー広島県立吉田高等学校卒業

人物[編集]

基本ポジションはトップ下だが、ボランチ・左右両アウトサイド・ストッパーをもこなすユーティリティープレイヤー[1][2][3][4]

2011年時点では、広島における公式戦最年少得点記録保持者(17歳10ヶ月10日、2004年7月24日ナビスコカップ第6節・東京V戦)だった。

来歴[編集]

転勤族であった家族の影響で横浜や名古屋など転校を繰り返し、小学校4年生より広島市安佐北区高陽地区で暮らす。小学生時代は広島高陽FCに在籍、FWとしてプレーした。このときの1学年先輩に田坂祐介、 1学年後輩に森重真人がいる。

1999年、広島ジュニアユースに入団。同期に、大屋翼長谷川博一中村重和らから指導を受け成長し頭ひとつ抜けた存在となり[5]、2001年中学3年次にはU-15日本代表に選ばれる[3]

2002年、広島ユースへ昇格。同期に、大屋・前田俊介佐藤昭大髙萩洋次郎森脇良太桒田慎一朗藤井大輔冨成慎司。同年、左サイドバックのレギュラーポジションを掴み、Jユースカップ準優勝に貢献。翌2003年、トップチームのキャンプに髙萩・前田・佐藤と共に招集され、2種登録選手としてトップチーム登録。この年の広島ユースは全国で旋風を巻き起こしユース二冠達成、自身も左サイドバックやボランチとして活躍した[3]。同年10月高円宮杯準決勝敗退後、トップチーム昇格の打診を受けるが、自らのプレーに自信が持てない事や準決勝敗退に終わった高円宮杯のリベンジを果たしたいとの思いから、この打診を断っている[注 1]

2004年、ユース所属ながら引き続き2種登録登録。同年7月、アテネオリンピック出場のため離脱した駒野友一の代わりに[6] 右ウイングバックとしてナビスコカップ対東京ヴェルディ1969戦に公式戦デビューしミドルレンジからゴールを決めている。その後、駒野が復帰するまで右サイドバックとしてJ1リーグ戦に3試合に出場した。一方同年のユースではボランチとしてチームの中心選手となり、ユース三大大会のうち三大会とも決勝進出、二冠を達成した。

2005年、正式にトップに昇格。同期に、ユースからの昇格組である前田・佐藤・森脇・桒田のほか、入船和真中尾真那西河翔吾がいる[3]。同年、ワールドユース・オランダ大会に出場するU-20日本代表に選ばれる[7] も急性A型肝炎により出場辞退[8]。トップチーム昇格後、小野剛望月一頼ミハイロ・ペトロヴィッチと歴代監督に評価されるものの、相次ぐ怪我による離脱によりレギュラーに定着出きず途中出場が続いた[4][9]

2009年、森崎浩司・髙萩および桒田慎一朗と怪我や体調不良による欠場により、トップ下のレギュラーとして抜擢され、同年4月ガンバ大阪戦でリーグ戦初ゴールを決めている[10]。2010年、佐藤寿人山崎雅人・森崎浩と怪我や体調不良により欠場すると李忠成と共に先発メンバーに定着し李・髙萩・髙柳のトライアングルが噛み合いチームの好調を支えた[11] が、同年11月に左膝前十字靭帯損傷し長期離脱した[12]。ただ、この怪我の完治が長引き、復帰以降は中盤の選手層の厚さ[13] に阻まれ出場機会を得られなかった。同年末、構想外となった[13]

2012年、コンサドーレ札幌に完全移籍した。同年2月、古傷である左膝前十字靭帯の部分損傷により長期離脱した[14]。同年12月には札幌から契約満了が発表された。Jリーグ合同トライアウトへの参加を経て[15]、2013年1月からはヴィッセル神戸の練習に参加[16]。同年2月には神戸への加入決定が発表された。

神戸ではほとんど出場出来ず、リーグ戦では1年半で8試合の出場に留まっていたことから、2014年8月にロアッソ熊本期限付き移籍[17] した。熊本では加入後すぐにボランチとして起用、終盤まで主力として出場し続けた。2015年1月7日にロアッソ熊本への完全移籍が発表された[18]。熊本には2年半在籍し、2016シーズンには実に7年ぶりとなるゴールを決めるなど主軸として活躍したが、同年シーズン終了後に契約満了により退団することが発表された[19]

2016年12月23日、レノファ山口FCへの移籍が発表された[20]。山口では初年度こそ20試合に出場したものの、翌2018年はわずか1試合の途中出場にとどまり、シーズン終了後、契約満了による退団が発表された[21]

2019年に入っても新たな所属先が決まらなかったが、2019年2月22日に沖縄SVへ移籍することが発表された[22]

2021年12月21日、沖縄SVの選手兼コーチに就任すると発表された[23]

2023年1月7日、現役引退とトップチームコーチ退任、並びに沖縄SV U-18監督就任が発表された[24]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2002 広島Y 8 - - - 1 0 1 0
2003 2 - - 1 0 1 0
2004 広島 36 J1 3 0 1 1 0 0 4 1
2005 25 6 0 1 0 0 0 7 0
2006 13 0 5 0 1 0 19 0
2007 21 0 8 0 5 1 34 1
2008 J2 24 0 - 4 2 28 2
2009 J1 26 3 5 1 2 1 33 5
2010 13 17 0 3 0 2 0 22 0
2011 0 0 0 0 0 0 0 0
2012 札幌 14 0 0 0 0 0 0 0 0
2013 神戸 26 J2 4 0 - 1 0 5 0
2014 J1 4 0 1 0 0 0 5 0
熊本 37 J2 16 0 - - 16 0
2015 8 35 0 - 1 0 36 0
2016 26 1 - 1 0 27 1
2017 山口 14 20 0 - 1 0 21 0
2018 1 0 - 0 0 1 0
2019 沖縄SV 22 九州 18 0 - 2 0 20 0
2020 4 0 - 1 0 5 0
2021 16 0 - 1 0 17 0
2022 8 0 - 0 0 8 0
通算 日本 J1 90 3 24 2 10 2 124 7
日本 J2 126 1 - 8 2 134 3
日本 九州 46 0 - 4 0 50 0
日本 - - 2 0 2 0
総通算 262 4 24 2 24 4 310 10
  • 2002年および2003年はユースチームとして出場、2004年は2種登録(ユース所属)でトップチーム出場
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2010 広島 13 5 1
通算 AFC 5 1

出場歴・タイトル[編集]

クラブ[編集]

アンダーカテゴリー
  • 日本クラブユース選手権U-15 (2001年)
  • メニコンカップ日本クラブユースサッカー東西対抗戦U-15 (2001年・西軍)
    • ※クラブユース選手権優秀選手より選抜
  • Jユースカップ (2003年優勝、2002年・2004年準優勝)
  • 日本クラブユース選手権 (2002年GL敗退、2003年・2004年優勝)
  • 高円宮杯全日本ユース選手権 (2003年・3位、2004年優勝)
  • 天皇杯全日本選手権 (2002年・2003年、1回戦敗退)
  • 国民体育大会広島県代表 (2003年、1回戦敗退)
トップチーム

代表[編集]

アンダーカテゴリー
  • フランス遠征U-15日本代表 (2001年)
  • U-17アジア選手権大会UAE2002(他)U-16日本代表 (2002年)
  • SBSカップ国際ユース(他)U-18日本代表2003年)
  • アジアユース2004(他)U-19日本代表 (2004年)
  • ワールドユース2005 U-20日本代表 (2005年) ※急病の為、出場辞退

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 同時期にトップチーム昇格を打診された髙萩は、そのまま昇格を果たしている。

出典[編集]

  1. ^ 選手データベース”. サッカーマガジン. 2010年1月29日閲覧。
  2. ^ 選手情報”. Sports Graphic Number. 2009年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年1月29日閲覧。
  3. ^ a b c d 飛翔へ サンフレの新人たち”. 中国新聞 (2005年1月18日). 2010年1月29日閲覧。
  4. ^ a b 挑戦者 MF25高柳一誠”. サンフレッチェ広島公式 (2009年9月25日). 2010年1月29日閲覧。
  5. ^ 1学年後輩の槙野智章のインタビュー、紫熊倶楽部2006年2月号
  6. ^ 後半失速 逆転負け”. 中国新聞 (2004年8月14日). 2010年1月29日閲覧。
  7. ^ 吉弘充志選手、高柳一誠選手、前田俊介選手が「FIFA ワールドユース選手権大会オランダ2005」日本代表メンバーに選出”. J's GOAL (2005年5月28日). 2010年1月29日閲覧。
  8. ^ 高柳一誠選手の診断結果について”. J's GOAL (2005年6月3日). 2010年1月29日閲覧。
  9. ^ 高柳が回復 MF争いへ”. 中国新聞 (2008年4月10日). 2010年1月29日閲覧。
  10. ^ 復帰の高柳、飛躍の好機”. 中国新聞 (2009年6月2日). 2010年1月29日閲覧。
  11. ^ 前線トリオ乗ってます ここ6戦7得点3アシスト”. 中国新聞 (2010年10月23日). 2010年11月25日閲覧。
  12. ^ 高柳一誠選手の負傷について”. J's GOAL (2010年11月22日). 2010年11月25日閲覧。
  13. ^ a b 札幌が広島高柳獲り J1定着へ中盤強化”. ニッカンスポーツ (2011年12月13日). 2011年12月28日閲覧。
  14. ^ コンサドーレ札幌 髙柳一誠選手の負傷について”. コンサドーレ札幌 (2012年3月2日). 2012年3月15日閲覧。
  15. ^ 三都主ら84人参加/トライアウト ニッカンスポーツ (2012年12月11日). 2013年2月13日閲覧。
  16. ^ 神戸が“黒いメッシ”マジーニョ獲得へ デイリースポーツ(2013年1月31日)2013年2月13日閲覧。
  17. ^ 髙柳 一誠選手、期限付き移籍加入のお知らせ ロアッソ熊本(2014年8月12日)2014年8月12日閲覧。
  18. ^ 髙柳一誠選手、完全移籍加入のお知らせ”. ロアッソ熊本オフィシャルサイト (2015年1月7日). 2012年1月10日閲覧。
  19. ^ 契約満了選手のお知らせ - ロアッソ熊本公式サイト 2016年11月28日
  20. ^ “山口、MF高柳一誠の獲得を発表…今季熊本で26試合出場も契約切れで退団”. サッカーキング. (2016年12月24日). https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20161224/531034.html 2016年12月27日閲覧。 
  21. ^ “髙柳 一誠選手 契約満了のお知らせ”. レノファ山口FC. (2018年11月28日). http://www.renofa.com/archives/39753/ 2018年12月18日閲覧。 
  22. ^ “2019新加入選手のお知らせ 髙柳一誠選手”. 沖縄SV. (2019年2月21日). https://www.okinawasv.com/news/detail/id/170/ 2019年2月22日閲覧。 
  23. ^ “2022 契約更新ならびにトップチームコーチ就任のお知らせ 髙柳一誠選手”. 沖縄SV. (2021年12月21日). https://www.okinawasv.com/news/detail/id/850/ 2022年1月18日閲覧。 
  24. ^ “髙柳一誠選手兼トップチームコーチ 引退ならびにトップチームコーチ退任、アカデミースタッフ就任のお知らせ”. 沖縄SV. (2023年1月7日). https://www.okinawasv.com/news/detail/id/1148/ 2023年3月15日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]