平松政次
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 岡山県高梁市 |
生年月日 | 1947年9月19日(76歳) |
身長 体重 |
176 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1966年 第2次ドラフト2位 |
初出場 | 1967年8月16日 |
最終出場 | 1984年10月13日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
平松 政次(ひらまつ まさじ、1947年9月19日 - )は、岡山県高梁市出身のプロ野球選手(投手)、野球解説者。
「カミソリシュート」の異名を取る、高速かつ凄まじい切れ味を誇るシュートを武器に、大洋ホエールズで18年間活躍した。愛称は「カミソリ平松」。風邪をよく引いたり故障が多かったことから「ガラスの平松(ガラスのエース)」とも。
経歴
3歳で父親と死別[1]。
岡山県立岡山東商業高等学校時代の1964年、湊山球場での秋季中国大会決勝で米子東に敗れたが、準優勝の成績を収め、翌1965年春の第37回選抜高等学校野球大会に出場。39イニング連続無失点の大会新記録を樹立し、決勝で藤田平のいた市和歌山商を、延長13回サヨナラ勝ちで降し優勝した。同年夏は県予選準決勝で倉敷商の松岡弘、東中国大会決勝で関西高校の森安敏明に投げ勝ち甲子園出場を決める。この大会では春夏連覇が期待されたが、1回戦で降雨ノーゲームによる再試合の末、日大二高に敗れた。
同年の第1回ドラフト会議で中日ドラゴンズに4位指名を受けるが入団拒否。社会人野球の日本石油に入社した。翌1966年の第2回第2次ドラフト会議で大洋ホエールズから2位指名を受けるが入団保留。このドラフト会議では巨人から1位指名の確約を受けていたが、巨人は槌田誠を指名した。巨人は競合した槌田の抽選に外れた場合、平松を指名する予定であったといわれている。1967年8月8日に行われた第38回都市対抗野球大会で優勝し橋戸賞を受賞。大会終了の2日後、大洋に入団[2]。なお、入団説得のために高校の先輩でもあり、当時の大洋の主力選手であった秋山登と土井淳も平松の許に訪れた[3]。
1・2年目はチャンスがなく、一軍選手が雨天のため体育館で練習をした際に、打席に立った近藤和彦から冷やかしで投げさせられたのが、本人も初めて投げたシュートであった。初めて投げたシュートは胸元に食い込み、驚いた一軍選手がコーチに報告してチャンスが到来した[4]。
そして3年目の1969年に14勝をあげて頭角を現す。翌年の1970年は25勝をあげ[5]、最多勝利投手のタイトルを獲得し、沢村賞を受賞。また、セ・リーグのベストナインにも選出された。1971年も17勝で2年連続最多勝。12年連続2桁勝利をあげるなどエースとして低迷するチームを支えた。現役末期は怪我に泣き「ガラスのエース」と呼ばれたが、1983年に200勝を達成。甲子園優勝投手で、投手として名球会入りしたのは現在のところ平松だけである(王貞治と柴田勲は打者として名球会入りしている)[6]。
1984年限りで現役引退。リーグ優勝は経験できなかった(Aクラス経験はある)。同じ岡山県出身の星野仙一(中日)、松岡弘(ヤクルト)と共に、「打倒巨人」に燃え、巨人キラーとして活躍。彼の投げるシュートボールは「カミソリシュート」と呼ばれ、数多くの右打者のバットを根元からへし折った。全盛期には、ど真ん中のボールが、右打者の体に当たるくらいまで変化したとまで言われている。
引退直後、近藤唯之が「あなたは巨人戦51勝、200勝も達成した。悔いはないでしょう。」と尋ねたところ、「自分は現役生活で1度も優勝できなかった。それに鈴木啓示はまだやっている(鈴木は同学年でライバルかつ親交があった)。2つも悔いがあるんですよ」と語っている[7]。
また、投手としては打撃にも優れ、投手では歴代4位の通算25本塁打を記録した。ちなみに、漫画「巨人の星」にて大リーグボール3号を初めてヒットにした打者である。
引退後はフジテレビ(フジテレビONE「プロ野球ニュース」などで司会を担当することもある)、ニッポン放送(2005年まで)、テレビ神奈川の野球解説者を務め、現在に至る。大洋や後身の横浜、DeNAの監督・コーチなどに就任することはなかったが、1998年に横浜が日本一になった時には我がことのように喜んでいた。また、2006年に発足したNPO法人・横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティの初代理事長に就任した。この団体はベイスターズが新日本石油株式会社と提携して、スポーツを通じて地域貢献を目指す法人である。平松がベイスターズ・日本石油野球部(現新日本石油ENEOS)双方のOBに当たる縁から就任要請を受けたものである。
2006年6月2日、横浜スタジアムの右翼外野部分に名球会入りした選手を称えるプレートが設置された。
2012年12月1日、ホエールズ ベイスターズOB会の会長に就任した。
シュートボール
平松の代名詞であるシュートだが、アマチュア時代には試合では全く投げたことはなかった。入団当初は結果が出せず二軍に甘んじていた1969年の春のキャンプで、先輩打者に大したことないというような内容を言われ、カッと来た時に社会人時代に教わったシュートを思い出して全力で6球投げてみた。するとボールは鋭い変化をみせた。平松はこの時の6球でシュートをほぼ会得したと言う[8]。間もなく一軍に昇格しその後の活躍に至った。
投球フォームはストレートと同じで、一瞬左肩を早く開いて右腕を遅らせる[8]。晩年に球威が落ちると腕を内側にねじる投げ方に変えたが、平松は全盛期の右腕を遅らせる投法を理想として後輩に教えている。しかし難しいらしく、なかなかものにできないと嘆いている[8]。
1974年7月9日の対巨人戦、平松の投じたシュートが河埜和正の左手に当たってバックネットに転がりデッドボールかと思われたが、球審の平光清は「ストライクのコースに入った球を河埜が打ちに行き、グリップエンドに当たった」としてファールボールを宣告。これに激高した巨人の川上哲治監督が平光に執拗に突っかかった為、平光は川上に退場を宣告。ちなみにこれが川上の監督生活最初で最後の退場であった。
しかし、後に平松は「できればシュートではなく、ストレートとカーブで勝っていきたかった。」と語っている。
巨人キラー
平松の巨人戦通算51勝は金田正一(65勝)に次ぐ歴代2位。ただし、金田は国鉄時代の通算353勝の1/5に満たない65勝なのに対し、平松は通算201勝の1/4以上を巨人から挙げている。また、金田は65勝72敗と負け越しているが平松は51勝47敗と勝ち越している。巨人戦30勝以上している投手で勝ち越しているのは平松と星野仙一、川口和久だけであるが、星野、川口が巨人より勝ち星の多い対戦相手(いずれも阪神)があったのに対し、平松は巨人戦の勝利数が飛び抜けて多い(巨人の次に勝利数が多かったのは後述する中日で42勝)。
特に長嶋茂雄が最も苦手にしていた投手として知られている。長嶋と平松の通算対戦成績は181打数35安打8本塁打、打率.193、三振33、内野ゴロ65(内併殺打7)で、25打数無安打の時期もあった。長嶋は平松の200勝達成記念パーティで「あの頃は寝てもさめても平松のシュートが頭から離れなかった」とコメントしている。
しかし長嶋と並ぶ巨人打線の中核であった左打者の王貞治に対しては苦手意識を持っており、最も多くのホームラン(25本)を打たれている。同時代に活躍したヤクルトの松岡や中日の星野も、同様に長嶋は抑えても王には(3割以上)打たれた。これは彼らの最盛期が長嶋の最晩年(72~74年、打率.266、.269、.244)に重なっているためである。
他のチームでは中日戦の対戦成績も42勝32敗と強く、中日キラーとも言える。
人物
短気で気が強い性格である。若手時代、エラーをしたベテランの江尻亮に砂を蹴飛ばして首脳陣から大目玉をくらった[9]。ある試合でKOされたあと、利き手の右手でベンチにあった扇風機を叩き壊したことがある。当時の扇風機の羽根は金属製であり、大怪我をしても不思議ではなく、無傷で済んだのは奇跡としか言いようがない。本人も「一歩間違えば投手生命が終わっていたかも。無茶をやった」と述懐している。 周囲に対して怒るので「みんな懸命にやってるんだ。変なプレーをしてもお前が助けろ。」とコーチに諭されても、負けん気の強さから「俺は勝ちたいんだ!変なプレーをして巨人に勝てるのか!」と言い返した。[10]
松岡弘とは学校・チームが一緒になることは無かったが、同じ岡山県出身で同学年で投手同士、すなわち岡山時代からプロ球界に至るまでの長年のライバルであり、友人でもある。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1967 | 大洋 | 16 | 10 | 2 | 2 | 1 | 3 | 4 | -- | -- | .429 | 291 | 70.1 | 66 | 13 | 14 | 1 | 3 | 42 | 2 | 1 | 31 | 28 | 3.60 | 1.14 |
1968 | 51 | 13 | 2 | 1 | 1 | 5 | 12 | -- | -- | .294 | 531 | 120.1 | 119 | 14 | 54 | 0 | 7 | 77 | 4 | 0 | 71 | 57 | 4.28 | 1.44 | |
1969 | 57 | 25 | 8 | 5 | 1 | 14 | 12 | -- | -- | .538 | 991 | 245.2 | 215 | 24 | 56 | 4 | 14 | 157 | 3 | 1 | 78 | 70 | 2.56 | 1.10 | |
1970 | 51 | 38 | 23 | 6 | 5 | 25 | 19 | -- | -- | .568 | 1279 | 332.2 | 226 | 18 | 68 | 6 | 13 | 182 | 1 | 2 | 80 | 72 | 1.95 | 0.88 | |
1971 | 43 | 32 | 11 | 3 | 1 | 17 | 13 | -- | -- | .567 | 1112 | 279.0 | 211 | 18 | 82 | 5 | 10 | 153 | 3 | 2 | 78 | 69 | 2.23 | 1.05 | |
1972 | 41 | 26 | 10 | 0 | 2 | 13 | 15 | -- | -- | .464 | 998 | 243.2 | 211 | 32 | 84 | 8 | 11 | 118 | 4 | 0 | 111 | 93 | 3.43 | 1.21 | |
1973 | 49 | 19 | 9 | 1 | 2 | 17 | 11 | -- | -- | .607 | 842 | 207.2 | 180 | 15 | 56 | 8 | 4 | 110 | 0 | 0 | 78 | 70 | 3.03 | 1.14 | |
1974 | 46 | 30 | 12 | 1 | 0 | 15 | 16 | 2 | -- | .484 | 1004 | 243.2 | 222 | 37 | 74 | 4 | 7 | 175 | 2 | 1 | 112 | 99 | 3.65 | 1.21 | |
1975 | 28 | 22 | 9 | 1 | 0 | 12 | 10 | 2 | -- | .545 | 696 | 172.1 | 145 | 25 | 50 | 1 | 6 | 134 | 1 | 0 | 71 | 62 | 3.24 | 1.13 | |
1976 | 41 | 35 | 16 | 2 | 1 | 13 | 17 | 2 | -- | .433 | 1089 | 260.1 | 227 | 40 | 95 | 7 | 9 | 170 | 0 | 0 | 121 | 110 | 3.81 | 1.24 | |
1977 | 32 | 21 | 10 | 2 | 0 | 10 | 9 | 1 | -- | .526 | 723 | 166.0 | 182 | 25 | 50 | 3 | 6 | 105 | 2 | 0 | 75 | 73 | 3.96 | 1.40 | |
1978 | 36 | 15 | 4 | 0 | 0 | 10 | 5 | 7 | -- | .667 | 622 | 146.2 | 142 | 18 | 49 | 3 | 7 | 83 | 1 | 0 | 73 | 64 | 3.92 | 1.30 | |
1979 | 30 | 25 | 11 | 3 | 2 | 13 | 7 | 1 | -- | .650 | 784 | 196.0 | 155 | 20 | 50 | 4 | 6 | 138 | 4 | 0 | 58 | 52 | 2.39 | 1.05 | |
1980 | 30 | 29 | 9 | 0 | 0 | 10 | 11 | 0 | -- | .476 | 855 | 199.1 | 227 | 26 | 57 | 4 | 6 | 107 | 1 | 1 | 108 | 95 | 4.30 | 1.42 | |
1981 | 17 | 16 | 4 | 0 | 0 | 6 | 7 | 1 | -- | .462 | 464 | 110.2 | 109 | 9 | 31 | 2 | 3 | 70 | 1 | 0 | 45 | 43 | 3.49 | 1.27 | |
1982 | 25 | 25 | 1 | 0 | 0 | 9 | 10 | 0 | -- | .474 | 603 | 140.1 | 150 | 15 | 31 | 1 | 5 | 83 | 1 | 0 | 65 | 62 | 3.99 | 1.29 | |
1983 | 23 | 22 | 4 | 1 | 1 | 8 | 8 | 0 | -- | .500 | 577 | 131.0 | 136 | 14 | 53 | 4 | 1 | 83 | 2 | 0 | 67 | 57 | 3.92 | 1.44 | |
1984 | 19 | 18 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | 0 | -- | .091 | 430 | 95.0 | 114 | 11 | 36 | 2 | 2 | 58 | 0 | 1 | 63 | 60 | 5.68 | 1.58 | |
通算:18年 | 635 | 421 | 145 | 28 | 17 | 201 | 196 | 16 | -- | .506 | 13891 | 3360.2 | 3037 | 374 | 990 | 67 | 120 | 2045 | 32 | 9 | 1385 | 1236 | 3.31 | 1.20 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
記録
- 初記録
- 初登板・初先発:1967年8月16日、対広島カープ19回戦(川崎球場)、5回1失点
- 初奪三振:同上、4回表に藤井弘から
- 初勝利・初先発勝利・初完封勝利:1967年8月20日、対サンケイアトムズ20回戦(県営宮城球場)
- 初セーブ:1974年5月19日、対読売ジャイアンツ6回戦(川崎球場)、6回表2死に3番手で救援登板・完了、3回1/3を3失点
- 節目の記録
- 100勝:1974年6月1日、対中日ドラゴンズ6回戦(札幌市円山球場)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回1失点 ※史上61人目
- 1000奪三振:1974年10月3日、対中日ドラゴンズ22回戦(中日スタヂアム)、5回裏に広瀬宰から ※史上50人目
- 150勝:1978年6月3日、対中日ドラゴンズ10回戦(札幌市円山球場)、9回1失点完投勝利 ※史上30人目
- 1500奪三振:1978年9月9日、対中日ドラゴンズ24回戦(横浜スタジアム)、7回表にフレッド・クハウルアから ※史上25人目
- 500試合登板:1979年5月26日、対読売ジャイアンツ7回戦(石川県立野球場)、先発登板で7回4失点で勝利投手 ※史上38人目
- 600試合登板:1983年6月23日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で2回2/3を9失点で敗戦投手
- 200勝:1983年10月21日、対読売ジャイアンツ25回戦(後楽園球場)、先発登板で5回1/3を1失点完投勝利(雨天コールド) ※史上19人目
- 2000奪三振:1984年5月10日、対広島東洋カープ5回戦(横浜スタジアム)、3回表に山根和夫から ※史上10人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:8回(1969年 - 1974年、1976年、1980年)
- 通算25本塁打(投手として歴代4位の記録)
- 通算201勝(球団記録)
- 通算145完投(球団記録)
- 通算120与死球(セ・リーグ記録)
背番号
- 3 (1967年)
- 長嶋茂雄に憧れて野球を始めたこともあり、長嶋と同じ数字であった。日本では投手がほとんど付けない番号であり、非常に珍しい例である。
- 27 (1968年 - 1984年)
関連情報
著書
- 『プロ野球をカミソリシュートで斬る!』(日本文芸社:1987年4月)
- 『カミソリシュート』(ベースボール・マガジン社:2011年5月)
歌
- 六つの星(1976年5月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
- 愛してヨコハマ
- ソロ歌手としてのシングル盤
- 夜明けまでヨコハマ
- 伍代夏子(当時の芸名は「加川有希」)とのデュエット曲
出演番組
- 野球道 ~挑戦~
- SWALLOWS BASEBALL L!VE
- プロ野球ニュース(1988年4月 - 1992年3月:土日担当、2003年度 - :火曜日司会(2008年度のみ水曜日))
- すぽると!
- スポーツ特Q
フィクションでの登場
- 漫画「巨人の星」 - 星飛雄馬の大リーグボール3号から最初に安打を奪った選手として描かれている。「投手なのでスイングがゆるく、バットに当たった」という理由だった。
- 漫画・アニメ「野球狂の詩」-原作・アニメにも時折、登場していた。
脚注
- ^ 現役引退後に出演した資生堂「ヴィンテージ」CMより
- ^ 大洋と入団契約を交わした1967年8月10日は大洋の平松との交渉権が切れる当日でもあった。都市対抗野球大会の終了日がこの日以降になった場合、大洋が自動的に平松との交渉権を喪失することを意味した。平松は事前に大洋側に対して、大会の終了後に入団表明を行うとしていた(大会中にプロ入りを表明した場合、即座にアマチュア資格を剥奪されるため)。また当時「巨人が平松の大洋入団を阻止するために、大会終了後直ちに平松を雲隠れさせる」という噂が飛び交っており、そのため大洋の関係者達はひたすら8月10日までに大会が終了することのみを願っていたという(岡邦行『江川になれなかった男たち』p.91-92)。
- ^ フジテレビONE「プロ野球ここだけの話」2011年12月20日放送にて
- ^ テレビ愛知制作『プロ野球列伝』より。シュートボール項参照。
- ^ 1970年の25勝のうち、7勝(完封4・防御率1.50)が巨人戦での勝ち星だった。これは、チーム全体の巨人戦勝利数(14勝)の半分にあたる。平松はこのシーズンから、「カミソリシュート」にスライダーを組み合わせるようになった。なお、巨人監督の川上哲治はこの年のペナントレースを振り返って、「平松に抑えられなかったら、ウチはもっと楽に優勝できた(2位阪神とのゲーム差は2)。シュート・直球・スライダーの組み合わせには王も長嶋も手が出なかった。」という趣旨の発言をおこなっている(岡邦行『江川になれなかった男たち』p.92)。
- ^ 甲子園優勝投手でプロ通算200勝を記録した投手としては他に野口二郎(237勝)がいるが、野口は大正生まれのため名球会員ではなかった。また、200勝以上の投手のうち、プロで現役としての優勝経験がないのは野口と平松だけである。
- ^ 近藤唯之『引退 そのドラマ』新潮文庫
- ^ a b c 「変化球握り大図鑑 シュート 平松政次」 『週刊ベースボール』2009年6月22日号、ベースボール・マガジン社、2009年、雑誌20444-6/22、10頁。
- ^ 村瀬秀信「4522敗の記録」P・135 双葉社 2013年
- ^ 村瀬秀信「4522敗の記録」P・136 双葉社 2013年
関連項目
外部リンク
期間 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976.4 | 1977.9 | 佐々木信也 | 土居まさる | |||||
1977.10 | 1977.12 | はらたいら | ||||||
1978.1 | 1980.3 | 押阪忍 | ||||||
1980.4 | 1983.9 | みのもんた | ||||||
1983.10 | 1985.9 | 佐々木信也 | みのもんた | 佐々木信也 | ||||
1985.10 | 1986.3 | 佐々木信也 | みのもんた | |||||
1986.4 | 1988.3 | みのもんた、大島智子 | ||||||
1988.4 | 1991.3 | 野崎昌一、須田珠理 | 中井美穂 大矢明彦、平松政次、谷沢健一 | |||||
1991.4 | 1992.3 | 野崎昌一、石川小百合 | ||||||
1992.4 | 1992.10 | 中井美穂 | 田尾安志、石川小百合 | 中井美穂 | ||||
1992.11 | 1993.3 | 田尾安志、小島奈津子 | ||||||
1993.4 | 1994.3 | 田尾安志 森口博子 |
中井美穂 | 森脇健児 関根潤三 八木亜希子 | ||||
1994.4 | 1995.3 | 福井謙二、志岐幸子 | (『スポーツWAVE』に内包) | |||||
1995.4 | 1996.3 | 福井謙二、久保恵子 | パンチ佐藤 中村江里子 |
田尾安志 陣内貴美子 斎藤英津子 | ||||
1996.4 | 1997.3 | 福井謙二 西山喜久恵 |
福井謙二 木佐彩子 |
パンチ佐藤 西山喜久恵 |
田尾安志 西山喜久恵 | |||
1997.4 | 1997.9 | 福井謙二、西山喜久恵 | 木佐彩子 | (放送なし) | ||||
1997.10 | 1998.3 | 木佐彩子 | ||||||
1998.4 | 1999.3 | 福井謙二 木佐彩子 |
福井謙二 西山喜久恵 |
長嶋一茂、中村江里子 | ||||
1999.4 | 2000.3 | 木佐彩子 | 長嶋一茂、荒瀬詩織 | |||||
2000.4 | 2001.3 | 三宅正治 宇田麻衣子 |
三宅正治 荒瀬詩織 |
田尾安志、大久保博元 大橋マキ |