日本哲学

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日本哲学(にほんてつがく)は日本哲学思想のこと。歴史的には土着の神道と大陸からやってきた思想、例えば仏教儒教との混淆であった。かつて中国哲学インド哲学の両方から影響を受けた水戸学のように、今日より近代の日本哲学も西洋哲学の影響を受けている。

古代・中世の思想[編集]

封建制が定着する以前の日本では仏教が日本思想の本流を占めた。聖徳太子によって政治的に導入された仏教文化は奈良時代に「国家鎮護」の思想として完成された。平安時代が始まると、「国家鎮護の思想」の代わりに密教が一般的になった。しかし後に、「末法思想」によって悲観主義が一般的になった有名な時代に、この世界での命をなげうって未来の声明を強く称揚する浄土思想が広がった。武士が政権を握る鎌倉時代が始まると、新しく起こってきた社会階級(武士)のための「新」仏教が現れた。

日本への仏教の到来と初期の影響[編集]

古代の日本では、仏教の到来は国家の建設や中央集権化と密接に関連していた。聖徳太子蘇我氏は古代日本の宗教を牛耳っていた物部氏を戦争で打ち倒し、体系的な法典と仏教に基づいた国家統治の計画を起草した。推古天皇の摂政である聖徳太子は蘇我氏と協力しながら「外国の」仏教に深い理解を示し[1]、仏教によって国の政治を安定させようとした。仏教の力で国の平和と安全を得ようとする思想は「国家鎮護」思想と呼ばれる。奈良時代に、特に聖武天皇の時代に、国分寺・国分尼寺が全国に建てられ、東大寺大仏奈良に作られた。鑑真が東大寺の戒壇をもたらした時期に、国家による仏教政策が頂点に達した。

奈良仏教が「国家鎮護」思想の面を強く持っている一方で、平安仏教は国の平和と安全だけでなく個人の現世利益ももたらした。それらが強く禁欲主義的な実践、つまり山中での加持祈祷を行ったため、これらの仏教は密教と呼ばれる。空海中国の秘密仏教を学び、真言宗を開いた。最澄は中国の天台宗を学び、法華経の精神こそが仏教の神髄であると固く信じた

「罪深い時代」である平安時代に現世を信じる可能性は否定され、死後に仏教の楽園に転生することを求めることが流行した。「後世にこの世界で仏教が廃れる」という考えとともに、仏教の楽園へ連れて行ってもらうという「浄土」思想が広がった。空也が諸国行脚して阿弥陀如来への帰依を説いた。

鎌倉仏教[編集]

浄土信仰は平安時代末期に浄土宗によって始められたもので、「阿弥陀如来の慈悲を通じての開放」に強く結び付けられ、阿弥陀如来の力による救済を。浄土宗を開いた法然は他の禁欲的な実践を完全に廃した。彼は弟子に阿弥陀如来を信仰し熱心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できると説いた。彼の弟子の親鸞は新たに浄土系の宗派を開き、法然の教えを果たしぬいて、阿弥陀如来の力に完全に頼ることを説いた。また、親鸞は、阿弥陀如来による往生の対象者は俗世の自ら自分の罪を自覚したがっている悪人であると主張した。時宗を開いた一遍は「踊念仏」を始めた。

浄土信仰とは対照的に、禅宗坐禅による自己覚醒を試みた。栄西は中国の臨済宗を学んだ。彼は弟子に「公案」(難題)を与えてそれを解かせ、それによって弟子たちは自己啓蒙した。臨済禅は鎌倉時代の上流武士階級から広い支持を集めた。道元は中国の曹洞宗を学んだ。栄西に対して、彼は弟子に「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)による覚醒を説いた。曹洞禅は地方の武士から支持を得た。

日蓮ははじめ天台の思想の影響を受けていたが、やがてその思想を発展させ独特の思想へとたどりついた。日蓮が生きた鎌倉時代、日本は戦乱状態で、政治は民の幸福を目指しているとはとても言えない状態で、民は貧しく不幸な状態におかれたままになっていたが、そうした政治の状況を目の当たりにし、また仏教界にもすでに諸宗があるにもかかわらず、そのどれも民の悲惨な状況を十分に改善する力になっていない状況をふまえて、日蓮は「諸宗は本尊に迷えり」(心や意識を向けたり祈る対象となる仏や仏典を選ぶ段階ですでに問題がある)と指摘し、(もともと平安時代には日本に届いていて、もともとは知られていた)法華経こそが正しい教えである、と説き、「南無妙法蓮華経[注 1]と唱えることを広めた。(法華経以外の経典では、この世で人の行動や社会を改善することは半ばあきらめているものも多く、この世以外に空間を思い描かせること(例えば、地の下に「地獄」を描いたり、はるかかなたに「清らかな浄土」があると思い描かせること)で人々に悪い行動を思いとどまらせたり、心理的な救いをもたらそうとするが、法華経という経典の教えが目指す方向はそれとは異なっていて、人々にこの世で境涯(価値観や生き様)を変え、この世をたくましく生きるための教えや、人々がこの世で生きている間に互いを幸せにするための教え、が含まれている。)だから日蓮は、政治の実態を見たり、様々な経典の内容を学んだ後に、民を救うためには他の経典ではなく法華経を選ぶべきだと見定めたわけである。そして日蓮は、信心の目的というのは(死んでからではなく)一生のうち(つまり生きているうちに)に「仏に成る」こと(=正しい境涯を得ること)(=「一生成仏」)と説き、また自身も社会の問題を解決すべく具体的に行動し、当時の権力者(幕府・将軍)に対しても、(権力者のためではなく)民の幸福のために政治を行うという正しい思想を立てるべきこと、を説き、また「汝 須く一身の安堵を思わば 先ず四表の静謐を祷らん者か」(あなたが自分の安泰を願っているのなら、まず周囲(世界)の平安・平和を祈るべきです)と説き、そうすれば結果として国も平和になるといった内容の手紙を届け(『立正安国論』)、結局、皆が「南無妙法蓮華経」と唱え法華経の教えを実践することで(様々な働きによって)やがて国の平和が実現されてゆく、とした。なお、日蓮の教えには(日本の思想には珍しく、西洋のキリスト教の「受難」思想とも相通ずるような面があり)、《受難》を予期しつつも、むしろそこにも人生の意味を見出す思想が含まれていることは、様々な学者から指摘されている[注 2][2]。日蓮が広めた教えは日蓮宗となった。上述のような内容の教えなので、本尊(=祈る対象)が法華経以外になることを好まず、また積極的に他の宗派の信者にも働きかけて、他の本尊を捨てさせ法華経に向かわせ(=「破折」)ようとする傾向があり、既存の仏教宗派とは緊張関係が生まれた。

近世思想[編集]

日本の古代・中世思想は仏教と強く結びついていたが、日本の近世思想は主に儒教宋明理学である。林家朱子学は江戸幕府の公式の学問に指定された。また、江戸中期以降に国学蘭学、その他大衆の思想が合理主義的な儒教に刺激されて興ってきた。

儒教[編集]

江戸時代には、儒教が権威ある学問であった。様々な学派の宋明理学が一般的になった。

宋明理学における朱熹の学派は家族的な封建制の社会的地位の秩序を尊重した。林羅山朱子学を江戸幕府の理論的基盤であると強く考えていた。市民による政府の原理を通じて、孔子を祀る湯島聖堂がたてられた。寛政の改革によって、江戸幕府によって朱子学はさらに力と権威を増した。さらに、朱子学の思想は江戸幕府末期に尊王攘夷を唱える社会的運動に大きな影響を与えた。

朱子学とは対照的に、実践的な倫理を尊重する陽明学は江戸幕府によって一貫して監視・抑圧された、というのは江戸幕府の下での社会・政治的状態を批判していたからである。

宋明理学の第3の学派は孔子や孟子の原典の本来の意図を考慮に入れた。山鹿素行は儒教的倫理学に基づいた武士道を打ち立て、武士を最も高貴な階級だと強く信じた。伊藤仁斎は儒教の「」に注意を払い、「仁」を他の人に対する愛、そして純粋な思考としての真理であるとしてこれを尊重した。また、古代中国の古典に対する重要な研究によって、荻生徂徠は本来の儒教の精髄は世界を支配し民草を守ることであると主張した。

国学と蘭学[編集]

江戸時代中期に、国学、つまり古代日本の思想と文化の研究が仏教儒教のような外国の思想に対抗して盛んになった。江戸幕府の鎖国政策によって江戸の知識人は西洋文明と積極的な交流を持てなかったため、蘭学、つまりオランダの研究が唯一の西洋を覗き見る窓であった。

江戸時代中期に、国学は背景としての自然主義および実証的な儒教の影響を受けながらも広まった。国学は、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』を含む古代日本の思想・文化を実証的に研究した。国学は仏教や儒教と異なる日本の本来の道徳文化を発掘することを狙いとしていた。賀茂真淵は『万葉集』の研究に取り組み、男性らしく寛容な様式を「益荒男ぶり」と呼び、蔵書を純粋かつ簡潔に評価した。古事記の研究を通じて、本居宣長は、日本文学の本質は、物事に接した時に自然に起こってくる感情である「もののあはれ」から生まれてくると主張した。彼は中国の(儒教・仏教の)「からごころ」に代えて「やまとごころ」を尊重した。彼によれば、国学は神道という日本の古い流儀を追究するべきであるという。国学の研究を通じて、平田篤胤は国粋的な国家神道天皇への服従、儒教及び仏教の廃止を唱えた。これが江戸幕府の崩壊と明治維新の駆動力となった。

鎖国されていた江戸時代には、西洋と直接交流できなかったが、享保の改革の頃に中国からの漢訳された西洋の書籍の輸入を奨励することで蘭学が流行した。前野良沢杉田玄白ターヘル・アナトミアを和訳した。蘭学は江戸幕府末期までにはイギリスフランスアメリカ合衆国といった他の西洋の国々の研究にまで展開していた。「和魂洋才」という思想は佐久間象山の直接的な表現「東洋の道徳、西洋の芸。」に完成された。蘭学者の高野長英渡辺崋山鎖国政策を厳しく批判したため、蘭学者たちは江戸幕府に抑圧された。

大衆の思想[編集]

江戸時代には、私塾が実際的な側面で働く武士、商人、学者らに開かれていた。彼らの思想は封建秩序による支配に対する批判であった。

石田梅岩は儒教、仏教、神道を統合して大衆のための実践的な哲学を創始した。彼は誠実さと倹約による効果として商業に精を出すことを奨励した。安藤昌益は自然の世界をそこで人間が農業に従事して不自然なものなしに自給自足的に生きる理想的な世界であるとした。彼は、封建的な階級差別や貧富の差が存在するとして法治的な社会を批判した。二宮尊徳は、人はに報いなければならず、そのことがその人個人の徳とともにその人の存在を支持すると主張した。

近代思想[編集]

近世日本思想が儒教仏教の中で発展したのに対して、急速に西洋思想に影響を受けた明治維新の後にイギリス啓蒙フランス人権が流行した。これは、横井小楠福沢諭吉の近代主義に代表されて現出した[3]日清戦争及び日露戦争の時期から、日本資本主義がよく発展した。キリスト教社会主義が発展し、様々な社会運動と結びついた。また、ナショナリズム的な思想・学問が外国の学問に反発しつつ形成された。

啓蒙と人権[編集]

明治維新において、イギリスフランス市民社会、特にイギリスの功利主義および社会的ダーウィニズム、フランスの国民主権ジャン=ジャック・ルソーが紹介された。

明治初期の思想家は西洋の市民社会の中でもイギリス的な啓蒙を唱えた。彼らは日本の伝統的な権力や封建社会を批判しようとした。しかし、彼らは結局政府と迎合して抜本的でない上からの近代化を受け入れた。1873年に、森有礼明六社を結成した。この文化的会合に参加する人々は実学重視、人間の特徴を実践的につかむこと、国情に合った政府の形成を理想とすることといった点を共有していた。森有礼は文部卿として国民教育の普及に努めた。横井小楠は、幕末に実学党を結成して門閥制度に代わる能力主義共和思想を反映し、儒学・朱子学の流派に影響された実学を提唱した。

福沢諭吉は科学技術やアレクシ・ド・トクヴィル英国文明論を日本に紹介して、自然権は当然人権が天賦のものであることであると唱えた。彼は文明の発展は人間の精神の発展であり、人の独立は国家の独立を導くと考えた[4]。「便宜のために」政府は存在し、その出現は文化に見合ったものであると福沢は考えた。政府の唯一の理想的な形など存在しないと彼は言った。また、日本は列強に対抗して大陸へと対外進出するべきだと彼は主張した[5]西周は人の振る舞いはその人の持つ関心に基づくと断言した。加藤弘之は社会的ダーウィニズムの影響のもとで自然権を放棄し、代わりに適者生存を唱えた。

明六社のメンバーは結局政府と人民の調和を唱えたが、民主思想家はフランスの基本的人権を吸収し、西南戦争後に明治寡頭制に対して言論によって国民が反抗・革命を起こすことを支持した。1874年に、板垣退助が民選議院設立建白書を提出した。このことが自由民権運動として日本中に広まった。植木枝盛は板垣を支持して基本的な草稿を作成した。ルソーに強く影響されて、中江兆民が主権在民と個人の自由を主張した。しかし、日本の状況を考慮して、彼は立憲君主制の重要性に言及している。彼によれば、大日本帝国憲法議会によって徐々に改正されるのが望ましいということであった。

明治後期から大正期にかけて、ブルジョア階級の政治意識の背景として民主主義運動が広がった。この流れは護憲と普通選挙を求める政治運動を導いた。吉野作造政党内閣制と普通選挙を主張した。彼は誰に主権があるかは深く追究しなかったが国民の幸福を狙った政治的目的と国民の意思を狙った政治的決定を主張した。美濃部達吉は主権を天皇ではなく国家に帰するものと解釈した。彼によれば、大日本帝国憲法のもとでは天皇はただ最上位の機関として自身の政治的権能を取り持つに過ぎない。彼の理論は初め広く認められたが、後には軍人国粋主義者によって政治的に抑圧されることになる。

1911年に、平塚らいてう青鞜社を立ち上げた。彼女は女性自身の目覚めとフェミニスト運動の発展を求めた。与謝野晶子ジェンダーの違いを否定したが、らいてうは子を育てる母性を強調し、女性が女性としての能力を説明するための公的な援助を認めた。1920年に、らいてうは市川房枝奥むめおらと新婦人協会を結成した。彼女らの活動が女性が政治的演説に参加することに成功してすぐに、協会は内部分裂によって解散した。その後、市川が女性参政権運動を続けるため新しく団体を設立した。

キリスト教と社会主義[編集]

日本において近代化による社会矛盾と戦ったのはキリスト教徒と社会主義者である。資本主義と資本主義による矛盾を日本にもたらした日清戦争日露戦争の後にキリスト教社会主義運動が活発となった。多くの日本の社会主義者はキリスト教的人間中心主義に影響を受けており、この点で彼らはキリスト教と強く関連している。

キリスト教は江戸幕府によって禁じられたが明治の知識人に影響した。内村鑑三は「二つのJ」の思想を発展させて伝統的な武士道とキリスト教を統合した。自分の天職は「日本(Japan)」と「イエス(Jesus)」に奉仕することだと彼は信じていた。彼は無教会運動を提唱した。彼は教育勅語に挑戦して日露戦争に反対した[6]新渡戸稲造クェーカー教徒で日本文化とキリスト教の融合に努めた。彼は日本文化を海外に紹介した。また、彼は国際連盟事務総長になった。新島襄は渡米して神学を学び、京都同志社大学を設立してキリスト教による人格陶冶に従事した。

日清・日露戦争期には、日本が産業革命を通じて資本化に成功するとともに資本主義に対抗する社会主義が広がっていた。しかし、社会運動は1900年に制定された治安警察法によって抑圧され、ついには1910年大逆事件で社会主義者たちは軍隊及びファシスト政府によって根絶やしにされた。…河上肇新聞で困窮について記事を書いている。彼は、初めは個人の変革によって貧困を解決することを強調したが、後にマルクス主義者になって社会的強制による社会変革を主張した。幸徳秋水はもともと議会を通じての社会主義の実現を模索していたが、ユニオニストとなってゼネラル・ストライキによる直接的行動を訴えた。彼は1910年の大逆事件の首謀者として処刑された。大杉栄アナーキズムとユニオニズムを利用して個人的自由を主張した。彼は政府によって脅威とみなされ、関東大震災の後の混乱の中で秘密警察に暗殺された。

1925年に、元軍人で新聞記者の夢野久作は九州日報連載「東京人の堕落時代」の中で、「田舎の人々が東京へ集まる傾向が強まり、世間が世智辛くなっていった。日本の教育は忠孝仁義を説きながら、実は物質万能、智識万能を教えており、日本の若者はことごとく物質万能主義者となっている。」「上流社会が平民的になってきて、風紀頽廃していった」と述べている。また、「無産階級の人々が目標とし、規準とする生活が、東京人の生活と同様の意味の文化生活を夢見るものであったならば、それ等の人々の覚醒と運動とは、将来に於て無価値のものとなり終るべき可能性を、充分に持っていはしまいかと疑い得られる」として都会人による社会主義にも警告を発しているほか、「農民文化が尊重される傾向が出来つつある」「新たに天下を取る者は常に田舎者である」「今日の如く、東京を憧憬する人々、東京の文化を本当の文化と信ずる人々が無暗に殖えて行ったならば、今に日本人全体が東京人のようになってしまいはしまいか」として地方の人々による警鐘が必要ではないかとした。

ジャポニスムの発展[編集]

啓蒙時代キリスト教、そして社会主義明治維新以降の日本思想に影響を与えてきた。日本における政治文化と国家の伝統の強調は西洋化に対する反応として起こった。この流れは帝国主義軍国主義/ファシズムを正当化するというイデオロギー的な側面を持っている[7]

徳富蘇峰は雑誌を出版し、その中で日本の西洋化に反対して自由民主主義ポピュリズムを主張した。しかし、政治的な役割を演じるべきブルジョワに彼は幻滅した。陸羯南は日本の政治文化と国家の伝統を非常に優れたものとみなした。彼は国民感情の回復と強化を狙った。しかし、彼は心の狭い国粋主義者ではなかった。彼は軍隊を批判して政府の議院内閣制参政権の拡大を唱えた。竹越与三郎南進論を唱えて南洋諸島への植民地主義を唱え、一方近衛篤麿北進論を唱えた。北進論は関東軍における大東亜共栄圏確立の思想と結びついた。

明治維新の後、日本の政府は神道を保護して、それをしばしば単なる一個の宗教ではなく国家神道として扱った。政府は神道を天皇と密接に関連させ、神道を国家運営の道具として利用した。国家神道は明らかに民間的な神道の教派とは区別される。国家神道を組織して教育勅語を公布することはイデオロギー的な国家運営のモデルであった。明治国家主義日清戦争日露戦争を通じて国家主権を回復して帝国主義・植民地主義を追究しようとした。しかし、その軍国主義的な流れが極端なナショナリズムへ発展した。北一輝財閥元老政党の排除と、天皇と国民が直接的に結びついた政府の設立を唱えた[8]

柳田國男は日本の民俗学の最先端にいた。政治的指導者でも知識人でもない一般大衆を彼は「常民」と名付けた。他の民俗学者には南方熊楠柳宗悦折口信夫がいる。また、井筒俊彦大川周明クルアーンに基づくイスラム主義を研究した。

戦前の日本では、ドイツ哲学が熱心に研究・紹介された。しかし、明治後期から大正時代にかけて、京都学派西洋思想禅宗のような東洋思想を融合しようと試みた。西田幾多郎は禅と西洋思想の融合により独自の思想を打ち立てた。彼の思想は西田哲学と呼ばれる。純粋経験の中では主観と客観の間の対立は存在しないと彼は主張した[9]。彼の存在論絶対無に由来する。和辻哲郎は西洋の利己的な個人主義を批判した[10]。彼の倫理学では人間は独立した存在ではなく関係的存在であると説かれる。個人的・社会的存在は自身が個人であることと社会の成員であることの両方を自覚すべきだと彼は主張した。彼は『風土』で自然環境と地域的生活様式の関係を研究した。

脚注[編集]

  1. ^ 「法華経に帰依します」という意味を含む言葉。「題目」。それまでの仏教用語で言えば「マントラ」に当たるようなもの。例えば真言密教では、祈る対象となる仏が非常に多数あり、その時々に意識を向ける仏ごとにマントラが設定されていて、それを繰り返し唱えることで唱える者に結果として様々なことが起きることを意図している。それに対して、日蓮の題目はただひとつで、法華経に焦点を当てている言葉であり、(ちょうど密教の「マントラ」が繰り返し唱えることで行者に様々なことが起きることを意図しているように)題目を繰り返し唱えることで、結果として、それを唱える人の心や行動に様々なことが起きることを意図している。
  2. ^ 例えば日蓮の『開目抄』は、旧約聖書の『ヨブ記』と並ぶ、受難思想を記した作品の白眉と言われることがある。
出典
  1. ^ 三経義疏十七条憲法を参照。
  2. ^ 日蓮の受難とその思想の関係に言及している文献は非常に多数あるが、一例を挙げるとたとえば『法華經と日蓮聖人』大東出版社、1985 、「仏教の思想」 第2巻 梅原猛執筆記事 等々でも受難に対する日蓮の考え方に関する記述がある。
  3. ^ 源了円 『近世初期実学思想の研究』 創文社2004年、pp.634。ISBN 442315014X
  4. ^ 学問のすゝめ』(1872年-76年)および『文明論之概略』(1875年)
  5. ^ 脱亜論
  6. ^ 『How I became a Christian(余は如何にして基督信徒となりし乎)』 (1895)
  7. ^ 全面戦争汎アジア主義も参照。
  8. ^ 二・二六事件を参照。
  9. ^ 善の研究
  10. ^ 『人間の学としての倫理学』

文献情報[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]