安藤昌益

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安藤昌益(あんどう しょうえき、元禄16年(1703年) - 宝暦12年10月14日1762年11月29日))は、江戸時代中期の医者思想家秋田藩出身。号を確龍堂良中。

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[編集] 経歴

秋田比内二井田村(現在の大館市)の農家に生まれた。長男ではなく利発であったことから、元服前後に京都に上り、仏門に入った(寺は不明)。しかし、仏教の教えと現状に疑問を持ち、どういう伝手かは不明だが医師である味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は後世方別派に属する医師である。ここで医師としての修行をし、八戸で開業する以前に結婚し子ももうけている。

陸奥国八戸の櫓(やぐら)横丁に居住し開業医となった。延享元年(1744年)8月の八戸藩の日記には、櫛引八幡宮流鏑馬の射手を治療したことが記録に残されている。同年に八戸の天聖寺にて講演を行う。宝暦8年(1757年)にも同寺で討論会を開いている。その後、出羽国大館に帰郷。弟子の神山仙確は八戸藩主の側医。

宝暦6年(1756年)9月、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐものがいなくなった。このため、宝暦8年ごろに二井田に1人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れて継がせたが、昌益自身も村に残り村人の治療にあたった(八戸では既に息子が周伯を名乗って医師として独り立ちしていたため)。なお、宝暦10年前後には、八戸の弟子たち(真栄道の弟子)が一門の全国集会を開催し、昌益も参加した。参加者は松前から京都、大阪まで総勢14名。その後再び郷里へ戻り、そこで亡くなった。

身分・階級差別を否定して、全ての者が労働(鍬で直に地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くという「直耕」)に携わるべきであると主張した。徹底した平等思想を唱えている。 特に著書『自然真営道』の内容は、共産主義農本主義エコロジーに通じる考えとされているが、無政府主義(アナキズム)の思想にも関連性があるという、間口の広さが見受けられる。またこの書の中で安藤は日本の権力が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたとみなし、孔子と儒教を徹底的に批判した。発見者・狩野亨吉をして「狂人の書」と言わしめ、レーニンをも唸らせたという。

後に在日カナダ大使であるH(ハーバート)・ノーマンの手により、『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』が記されることで周知の人物となった。

[編集] 著書

  • 稿本『自然真営道』(全101巻。1899年、狩野亨吉が再発見)- 弟子の神山仙確が昌益の死後に遺稿をまとめたもの(序文が仙確による追悼文)
  • 『統道真伝』(1752年頃著す。全5巻)
  • 刊本『自然真営道』(1753年、刊行。3巻3冊)
  • 大半が関東大震災で焼失。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 狩野 亨吉 / 安部 能成(編集)(1958)『狩野亨吉遺文集 』岩波書店
  • E・ハーバート・ノーマン、大窪 愿二(翻訳)(1950)『忘れられた思想家~安藤昌益のこと~』岩波書店
  • 桜田 常久(1969)『安藤昌益』東邦出版社
  • 奈良本 辰也(翻訳)(1970)『統道真伝 上・下』岩波書店
  • 渡辺 大濤(1970)『安藤昌益と自然真営道(渡辺大濤 昌益論集)』勁草書房
  • 野口 武彦(1971)『日本の名著〈19〉安藤昌益』中央公論社
  • 八戸市市立図書館(編集)(1974)『安藤昌益』伊吉書院
  • 安永 寿延(1976)『安藤昌益』平凡社
  • 尾藤 正英(校訂)(1977)『日本思想大系第45巻「安藤昌益・佐藤信淵」』 岩波書店
  • 寺尾 五郎(1978)『安藤昌益の戦い』農山漁村文化協会
  • ラードゥーリ・ザトゥロフスキー著、村上恭一(翻訳)(1982)『18世紀日本の唯物論者 安藤昌益の世界』雄山閣出版
  • 三宅 正彦(1983)『安藤昌益の思想的風土 大館二井田民俗誌』そしえて出版
  • 東条 栄喜(1996)『安藤昌益の「自然正世」論』農山漁村文化協会
  • 尾藤 正英、石渡 博明、松本 健一(2002)『安藤昌益(日本アンソロジー)』光芒社
  • 稲葉 克夫(2002)『八戸の安藤昌益』八戸市・八戸史編纂室
  • 稲葉 守(2004)『今にして安藤昌益』風濤社
  • 石渡 博明(2007)『安藤昌益の世界―独創的思想はいかに生れたか 』草思社

[編集] 外部リンク

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