森鴎外
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| 森 鴎外 | |
|---|---|
森鷗外(1911年)
|
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| 誕生 | 1862年2月17日 石見国津和野 現・島根県津和野町 |
| 死没 | 1922年7月9日(満60歳没) |
| 職業 | 小説家、評論家、翻訳家、戯曲家、陸軍軍医、官僚、医学博士、文学博士 |
| 国籍 | |
| 主題 | 小説、翻訳、史伝 |
| 配偶者 | 登志子(1889年 - 1890年) 志け(1902年 - 1922年) |
| 子供 | 於菟(長男) 森茉莉(長女) 小堀杏奴(次女) 不律(二男) 類(三男) |
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森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)- 大正11年(1922年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、戯曲家、陸軍軍医、官僚(高等官一等)。陸軍軍医総監(中将相当)・正四位・勲二等・功三級・医学博士・文学博士。第一次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京帝国大学医学部 卒業[1]。
大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごした。帰国後、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表し、また自ら文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、軍医総監(中将相当)となり、一時期創作活動から遠ざかったが、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを執筆。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』などの歴史小説、史伝『渋江抽斎』を書いた。なお、帝室博物館(現在の東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国津和野(現島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子[2]として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。また前年、祖父の白仙が東海道の土山宿で病死したため、とくに祖母は鴎外を白仙の生まれ変わりといって喜び、後年、鴎外が留学と出征から無事帰国するたびに、はらはらと涙を落としたという。藩医の嫡男として、幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており[3]、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになった。
1872年(明治5年)、廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京し、翌年、住居などを売却して残る家族も故郷を離れた。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、1872年10月に私塾の進文学社[4]に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族西周(にし・あまね)の邸宅に寄食した。このような幼少期を過ごした鴎外は、ドイツ人学者にドイツ語で反論して打ち負かすほど、語学に堪能であった。著作でドイツ語やフランス語などを多用しており、また中国古典からの引用も少なくない。なお、西洋語学を習得する秘訣として、作品内で語源を学習に役立てる逸話を記した[5]。
[編集] ドイツ留学
1873年(明治6年)11月、入校試問を受け、第一大学区医学校(現東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、11歳で入学(のちに首席で卒業する同級生の三浦守治も同年11月に入学)[6]。1881年(明治14年)7月4日、19歳で本科を卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。卒業席次が8番であり[7]、大学に残って研究者になる道が閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。その進路未定の状況を見かねた同窓生の小池正直は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に鴎外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また小池と同じく陸軍軍医になっていた親友の賀古鶴所(かこ・つると)は、鴎外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ鴎外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した[8]。なお妹、小金井喜美子の回想によれば、若き日の鴎外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家の長唄を聴いて中座)したという[9]。
入省して半年後の1882年(明治15年)5月、東京大学医学部卒の同期8名の中で最初の軍医本部付となり、プロイセンの陸軍衛生制度に関する文献調査に従事し、早くも翌年3月には『医政全書稿本』全十二巻[10]を役所に納めた。1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日、天皇に拝謁し、賢所(かしこどころ)に参拝。8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、10月7日にフランスのマルセイユ港に到着。同月11日に首都ベルリンに入った。
最初の一年をすごしたライプツィヒ(1884年11月22日-翌年10月11日)で、生活に慣れていない鴎外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった[11]。また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館にも行き、ラファエロの「サン・シストの聖母」を鑑賞した。次の滞在地ドレスデン(1885年10月11日-翌年3月7日)では、主として軍医学講習会に参加するため、5ケ月ほど生活した。王室関係者や軍人との交際が多く、王宮の舞踏会や貴族の夜会や宮廷劇場などに出入りした。また、二人の大切な友人を得ており、一人は鴎外の指導者ザクセン軍医監のウィルヘルム・ロートで、もう一人は外国語が堪能な同僚軍医のキルケ[12]である。なお、ドレスデンを離れる前日、ナウマンの講演に反論しており、のちにミュンヘンの一流紙で論争が起こった。
ミュンヘン(1886年3月8日-翌年4月15日)では、ミュンヘン大学のペッテンコーファーに師事した。研究のかたわら、邦人の少なかったドレスデンと違って同世代の原田直次郎や近衛篤麿など名士の子息と多く交際し、また、よく観劇していた。次のベルリン(1887年4月16日-翌年7月5日)でも、早速北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座をへてコッホの衛生試験所に入った[13]。9月下旬、カールスルーエで開催される第四回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳軍医監に随行し、通訳官として同会議に出席。9月26・27日に発言し、とりわけ最終日の27日は「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった[14]。会議を終えた一行は、9月28日ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加した。11日間の滞在中、鴎外は恩師や知人と再会した。1888年(明治21年)1月、大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞されており、18日から田村怡与造大尉の求めに応じてクラウゼヴィッツの『戦争論』を講じた。なお、留学を一年延長した代わりに、地味な隊付勤務(プロイセン近衛歩兵第二連隊の医務)も経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。ただし、後述するドイツ人女性と出会った都市でもあった。
1888年7月5日、石黒とともにベルリンを発ち、帰国の途についた。ロンドン(保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い詩を4首おくった)やパリに立ち寄りながら、7月29日マルセイユ港を後にした。その4日前の7月25日、あるドイツ人女性がブレーメン港から日本に向かっていた。9月8日、横浜港に着き、午後帰京。同日付けで陸軍軍医学舎の教官に補され、11月には陸軍大学校教官の兼補を命じられた。なお帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(9月12日-10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説『舞姫』の素材の一つとなった。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる[15][16]。
[編集] 初期の文筆活動
1889年(明治22年)1月3日、読売新聞の付録に『小説論』[17]を発表し、また同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲『調高矣津弦一曲』(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆をつとめる民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集『於母影』(署名は「S・S・S」(新声社の略記)[18])を発表した。その『於母影』は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また『於母影』の原稿料50円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(日清戦争の勃発により59号で廃刊)[19]。このように、外国文学などの翻訳を手始めに(『即興詩人』『ファウスト』などが有名)[20]、熱心に評論的啓蒙活動をつづけた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を相次いで発表。とりわけ、日本人と外国人が恋愛関係になる『舞姫』は、読者を驚かせたとされる。ちなみに、そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。1889年(明治22年)に東京美術学校(現東京藝術大学)の美術解剖学講師を[21]、1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)[22]講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱))。
[編集] 日清戦争出征と小倉「左遷」
1894年(明治27年)夏、日本と清が軍事衝突・開戦(8月1日、日本が宣戦布告)したため、鴎外は8月29日に東京を離れ、9月2日に広島の宇品港を発った。下関条約の締結後、1895年(明治28年)5月10日に近衛師団つきの従軍記者、正岡子規が帰国のあいさつのため、鴎外を訪ねた[23]。清との戦争が終わったものの、鴎外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており(朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる)、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀等とともに台湾に向かった。4ヶ月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。翌1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴、斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)[24]。また、このころより、評論的啓蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった[25]。
陸軍内で対ロシア戦の準備が進む中、1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第十二師団軍医部長に「左遷」[26]された(このとき『小倉日記』が書かれる)。世紀末から新世紀の初頭をすごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。「鴎外漁史とは誰ぞ」(文壇時評)、「原田直次郎」(日本の近代西洋絵画)、「潦休録」(近代芸術)、「我をして九州の富人たらしめば」(社会問題)、「北清事件の一面の観察」(講演録)、「新社会合評」(矢野竜渓『新社会』の評論で社会主義などを記述)[27]。またドイツ留学中、田村怡与造に講じていた難解なクラウゼヴィッツの『戦争論』について、師団の将校たちに講義をするとともに、井上光師団長などの依頼で翻訳をはじめた[28]。その内部資料は、ほかの部隊も求めたという。
小倉時代に「圭角」がとれ、「胆が練れて来」たと末弟の森潤三郎が記述したように、そのころ鴎外は、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた[29]。私生活でも、徴兵検査の視察時などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟との出会いを通し、とくに後年の史伝につながる掃台(探墓)の趣味を得た[30]。新たな趣味を得ただけではなく、1900年1月に赤松登志子(旧妻)が結核で死亡したのち[31]、母の勧めるまま1902年1月、18歳年下の荒木志げと見合い結婚をした(再婚同士)。さらに、随筆「二人の友」に登場する友人も得た。一人は曹洞宗の僧侶、玉水俊虠(通称、安国寺)で、もう一人は同郷の俊才福間博[32]である。二人は、鴎外の東京転勤とともに上京し、鴎外の自宅近くに住み、交際をつづけた[33]。
[編集] 軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動
1902年(明治35年)3月、第一師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。6月、廃刊になっていた『めざまし草』と上田敏の主宰する『芸苑』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。その頃は、12月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲にかかわる活動が目立っていた。1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に第二軍軍医部長として出征[34]。1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した[35]。なお同年9月、美術審査員に任じられ、第一回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任になった[36]。このころまでは翻訳が多かったが、1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、これに毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。『半日』『ヰタ・セクスアリス』『鶏』『青年』などを『スバル』に載せ、『仮面』『静』などの戯曲を発表。その『スバル』創刊年の7月、鴎外は、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。しかし、直後に『ヰタ・セクスアリス』(『スバル』7月号)が発売禁止処分を受けた。しかも、内務省の警保局長が陸軍省を訪れた8月、鴎外は石本陸軍次官から戒飭(かいちょく)された。同年12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。
慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)した1910年(明治43年)は、5月に大逆事件の検挙がはじまり[37]、9月に東京朝日新聞が「危険なる洋書」という連載を開始して6回目に鴎外と妻の名が掲載され、さらに南北朝教科書問題が大きくなった。そうした閉塞感がただよう年に『ファスチェス』(発禁問題)、『沈黙の塔』(学問と芸術)、『食堂』(クロポトキンや無政府主義等を記述)などを発表。翌1911年(明治44年)にも『カズイスチカ』『妄想』を発表し、『青年』の完結後、『雁』と『灰燼』の2長編の同時連載を開始。同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、次のように記述した。冒頭「芸術に主義というものは本来ないと思う。」とした上で、「無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。」と結んだ[38]。1912年-1913年(大正元年-2年)には、『かのように』から『槌一下』まで五条秀麿を主人公にした連作を、また司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた『鼠坂』[39]などを発表した。このころは、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。もっとも公務のかたわら、『ファウスト』などゲーテの三作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説もつづけていた。
なお、1910-1911年、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、件(くだん)の石本次官と医務局長の鴎外とが激しく対立し、鴎外が石本に辞意を告げる事態にまでなった。結局のところ、医学優先の人事が鴎外の退官後もつづいた。階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の鴎外の主張がとおった背景の一つに、山県有朋の存在があったと考えられている[40]
1912年(大正元年)8月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、鴎外独自の小説作品の最初のもの」[41]である『羽鳥千尋』を発表。翌9月13日、乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に『興津弥五右衛門の遺書』(初稿)を書き終えた[42]。これを機に歴史小説[43]に進み、「歴史其儘」の『阿部一族』、「歴史離れ」の『山椒大夫』『高瀬舟』などののち、史伝『渋江抽斎』に結実した。ただし、1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。1916年(大正5年)には、後世の鴎外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を[44]、ロシア革命の翌年1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した[45]。
[編集] 晩年
1916年(大正5年)4月、任官時の年齢が低いこともあり、トップの陸軍省医務局長を8年半つとめて退き、予備役に編入された。その後、1917年(大正7年)12月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ) に[46]、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した[47]。さらに1918年(大正8年)9月、帝国美術院(現日本芸術院)初代院長となった。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡(おくりな)と元号の考証・編纂に着手した。しかし『天諡考』は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見いだした吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の『元号考』の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出することとなった[48]。
1922年(大正11年)7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。享年61。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して[49]墓には「森林太郎ノ墓 」とのみ刻されている。向島弘福寺に埋葬された。墓碑銘は、遺言により中村不折によって筆された。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。なお、関東大震災後、東京都三鷹市の禅林寺[50]と津和野町の永明寺に改葬された。
[編集] 人物評
[編集] 評論的啓蒙活動
鴎外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。
また、鴎外の論争癖を発端として論争が起きた事もある。逍遥が「早稲田文学」にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このような形で鴎外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「論争的啓蒙」などと評される。もっとも三十歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的啓蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。さらに、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。
[編集] 幅の広い文芸活動と交際
肩書きの多いことに現れているように、鴎外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集『於母影』(共訳)と、1892-1901年に断続的に発表された『即興詩人』とが初期の代表的な仕事である。『於母影』は明治詩壇に多大な影響を与えており、『即興詩人』は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地をまわる文学青年(正宗白鳥など)が続出した。
また鴎外は、戯曲の翻訳も多く(弟の竹二が責任編集をつとめる雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)[51]、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた[52]。ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」をつくっており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない[53]。
翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象となった。単なる訳者にとどまらない鴎外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた[54]。その鴎外は、上記のとおり東京美術学校(現東京藝術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や帝国美術院初代院長などをつとめた[55]。
交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった漱石のように弟子を取ったり[56]、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した鴎外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
文学者・文人に限っても、訳詩集『於母影』は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鴎外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人をまねいて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月までつづいた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斉藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)[57]。
また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が鴎外)やらいてうや純芸術雑誌「番紅花」(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した[58]。その鴎外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(『安井夫人』、戯曲『静』、『花子』、翻訳戯曲『ノラ』(イプセン作『人形の家』))。
[編集] 軍医として
| 森 林太郎 | |
|---|---|
| 1862年2月17日-1922年7月9日 | |
| 所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
| 軍歴 | 1891 - |
| 最終階級 | 陸軍軍医総監 |
| 指揮 | 陸軍省医務局長 |
| 賞罰 | 正四位・勲二等・功三級 |
| 除隊後 | 小説家 |
上記のとおり鴎外は、東京大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であり、医学先進国ドイツに4年間留学し、最終的に軍医総監(中将相当)・医務局長にまで上りつめた。 当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌による感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(およびイギリス医学)と対立した。自説に固執し、当時海軍で採用していた脚気対策の治療法として行われていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。ただし当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的には)科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を(イギリス医学の手法である、患者と食料の統計学的分析から)たんぱく質不足であるとしていた。ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死させる事態となった。実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のために戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」との批判も存在している[要出典]。日露戦争終戦直前、陸軍大臣寺内正毅が大本営陸軍部の野戦衛星長官、小池正直(陸軍省医務局長)の頭越しに麦飯の支給を決定し、陸軍衛生部の面目が失われることとなった(寺内は日清戦争時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を石黒忠悳野戦衛星長官に反対された経緯があり、そのとき鴎外も同調)。「予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外の述懐である。
鈴木梅太郎がオリザニン(ビタミンB1)を発見し、脚気の治癒報告が一部あったものの(ただし1912年に鈴木が抽出に成功したオリザニン「結晶」は、ニコチン酸を含む不純化合物であり、結果的に純粋単離に成功したのが1931年。そして翌1932年、脚気病研究会でオリザニンの「純粋結晶」は脚気に特効のあることが報告された)、鴎外はかたくなに鈴木の見解を批判した[要出典]。また、赤痢菌を見つけた志賀潔などが変説したこともあり、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。しかし、脚気の原因究明を目的とする臨時脚気病調査会の委員長、その後、委員長代理もつとめた晩年の鴎外は、調査研究中の「脚気の原因」について態度を明らかにしなかった。結局、鴎外の存命中には脚気ビタミン欠乏説が完全に確定されず、100%確定したのは1925年のことであった。
鴎外を擁護する立場からは、下士官・兵達の「入隊したからには白米を食べたい」という声があり、当時、麦飯は白米に比べ美味でないとされていた(麦の精白技術が現代ほど発達していなかったため)ことを考慮すべきとの意見もある[59]。
麦飯食を推進した高木兼寛は都市衛生問題で「貧民散布論」を提案し、東京から貧民を追い出すべきとの主張をしていた。この主張はたしかに医学的・公衆衛生学的にはある程度評価できるものであったが、人道上の大きな問題があり、その立場から「貧民散布論」を徹底批判したのが鴎外ということもあって、両者の間には感情的にも深い対立関係が存在していた。
加えて脚気細菌起源説は鴎外のドイツ留学実現に尽力した石黒忠悳の主張だった。このため当時ドイツ留学が国費留学以外に不可能だったという事情を鑑みる向きもある。なお、森鴎外も食事上の栄養価については考慮していて、日露戦争時は新たに兵に十分な肉と野菜を与えるように指示していたが、脚気は細菌に由来すると考えていたため、脚気を考慮していたものではなかった。(ただし、当時肉として主に使われていた豚肉には大量のビタミンB1が含まれているため、森鴎外の指示が行われていたら、脚気は発生しなかった可能性が高い。)日露戦争では補給が滞り現地調達も困難であったため、米のみで熱量(カロリー)を補給する事態となり、鴎外らによって麦飯の補給を止められた陸軍では、大量の脚気患者と死者を生み出す結果となった。
『森鴎外全集』には医学に関する論文が多数収められている。また、なぜビールに利尿作用があるのか、といった研究も行っている。軍医であったためか「情勢を報告する・させる」目的から「情報」という言葉を考え出した人物とも言われる(異論もある)。
[編集] 医学功績と脚気問題から見た再評価
鴎外の医学業績として、とくに二つの点が挙げられる。一つは、ドイツから帰国した翌年の陸軍兵食試験(1889年8月-12月)であり、その試験は当時の栄養学の最先端に位置した。もう一つは、陸軍省医務局長就任後の臨時脚気病調査会の創設(1908年)である。脚気病の原因究明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、当代一流の研究者が総動員され、多額の予算がつぎ込まれた。脚気ビタミン説が確定して廃止(1924年)されたものの、その後の脚気病研究会の母体となった。鴎外が創設に尽力した臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたとして位置づけられている。
もっとも、脚気問題について高木兼寛は、海軍の兵食改革で海軍の脚気を「根絶」したとして賞賛されるのに対し、鴎外は陸軍の脚気惨害を助長したとして非難されやすい[60]。しかし、その対照的な評価には、「内実を知らない浅薄な見方にすぎない」との批判がある[61]。第一に海軍で「根絶」したはずの脚気病が大正期の中頃から急増した事実がある(たとえば昭和期に入っても1928年に1,153人、また1937年から1941年まで1,000人を下回ることがなかった)。海軍で患者が増加した理由として、次のことが挙げられる。兵食の問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質不足が原因)の誤りの影響、「海軍の脚気は撲滅した」という信仰がくずれたこと(脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになった(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある))である。
第二に、鴎外が陸軍の脚気惨害を助長したという批判に対し、次のような見解がある。まず、陸軍の脚気惨害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任を負う大本営陸軍部の野戦衛生長官(日清戦争・石黒忠悳、日露戦争・小池正直)ではなく、隷下の一軍医部長を矢面に立たせることへの疑問である。次に、鴎外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判については、日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅が陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として「麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、味が悪い、輸送が困難などの反対論がつよく」[62]、その上、脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情があった。最後に、鴎外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したという批判については、兵食試験の内容(当時として正しい試験で正しい結論[63])を把握せず、しかもビタミンの存在を知っている後世から、その存在を知らなかった前世への暴論である[64]。ただし兵食試験の成績は、上官の石黒によってゆがめられた[65]。その誤用を看過したことは、階級社会の軍隊でも、部下の鴎外に責任がまったく無いといえない。
以上より、鴎外が脚気問題で批判される多くは、筋違いという意見がある。鴎外への批判が起こった理由として、海軍の兵食改良を批判しすぎたこと、論理にこだわりすぎて学術的権威に依拠しすぎたこと、日清戦争時の上官の石黒に同調したことが挙げられる。なお、脚気問題で批判される根拠としては、日露戦争後に鴎外がトップの陸軍省医務局長になったとき、麦飯を禁止して違反者を取り締まった事実や「脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎」(1901年掲載)という論説を衛生関連の7雑誌に掲載したことで牽制する結果を招いた事(『鴎外全集』第34巻、165-168頁)、「勝てば官軍」等に表されるように軍人は特に経過を問われずに結果だけで評価されやすい事などがあげられる。
しかし、米食を麦食に変えて、結果として脚気が激減するという現象が多く認められたにもかかわらず麦食を排除し続けた姿勢は、「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以って志とすべし。 わが身の利養を専に志すべからず」(貝原益軒「養生訓」)という「医」の本質に対する認識の欠如、患者はマテリアルであるとする倒錯した思い上がり[66]であり、学理を振りかざして多くの人を死に至らせたその姿勢は現在のエイズ薬害に通じるという指摘もある[67]。なお歴史的事実として、麦飯は脚気に有効という認識をもつ医者がいたにもかかわらず、海軍軍医部が海軍の兵食で脚気を「根絶」したと自信をもった後も、大規模なヒトのビタミンB欠乏食試験によって脚気ビタミン欠乏説が確定(1924年)した後も、国内では多くの脚気死亡者がでた。国民の脚気死亡者数は、大正末期に年間2万5千人を超え(日露戦争時の陸軍の脚気死亡者数とほぼ同じ水準)、昭和期に入っても日中戦争の拡大などで食糧事情が悪化する1938年(翌年12月1日に「白米」禁止[68])まで、毎年1万人~2万人の間で推移した。千人を下回ったのが1950年代後半であった('50年3,968人、'55年1,126人、'60年350人、'65年92人)[69]。脚気問題の詳細は、日本の脚気史を参照のこと。
[編集] 年譜
年齢は数え年
- 1862年2月17日(文久2年1月19日・1歳) - 石見国津和野藩の津和野(現・島根県鹿足郡津和野町)に、津和野藩医・森静泰(後に静男と改名)、峰子の長男として生まれる。
- 1867年(慶応3年・6歳) - 11月、村田久兵衛に論語を学ぶ。
- 1868年(慶応4年・7歳) - 3月、米原綱善に孟子を学ぶ。
- 1869年(明治2年・8歳) - 藩校の養老館で、四書を一から読み直す。
- 1870年(明治3年・9歳) - 五経、オランダ語を学ぶ。
- 1871年(明治4年・10歳) - 藩医の室良悦にオランダ語を学ぶ。
- 1872年(明治5年・11歳) - 6月、父とともに津和野を発ち、8月に東京入り(向島小梅村)。その後、向島曳舟通りに転居。10月、ドイツ語習得のため、本郷の進文学社(私塾)に入学。
- 1873年(明治6年・12歳) - 6月、津和野町の家を売却し、祖母、母なども上京。11月、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)に入学。同校は、のちに東京医学校に改称。
- 1877年(明治10年・16歳) - 東京医学校は、東京開成学校と合併して東京大学医学部に改組され、その本科生になる。
- 1880年(明治13年・19歳) - 本郷龍岡町の下宿屋「上条」に移る。翌年3月、下宿先で火災に遭い、講義ノートなどを失う。
- 1881年(明治14年・20歳) - 春、肋膜炎にかかる。7月、東京大学医学部を卒業。父 森静男の経営する南足立郡千住町の橘井堂医院に転居。文部省広報に「東京府士族 森林太郎 十九年八ヶ月」とみえる。その後、明治政府に仕える。9月、読売新聞に寄稿した「河津金線君に質す」が採用される。これが鴎外の初めて公にされた文章であろう。12月、東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医の副の任務につく。
- 1882年(明治15年・21歳) - 2月、第一軍管区徴兵副医官(中尉相当)になり、従七位の勲等を授かる。5月、陸軍軍医本部課僚になり、プロシア陸軍衛生制度の調査に駆り出される。
- 1884年(明治17年・23歳) - 6月、陸軍衛生制度、衛生学研究の目的で、ドイツ留学を命じられる。8月、横浜を出航。10月、ドイツに到着。ライプツィヒ大学でホフマン教授などに学ぶ。『ビイルの利尿作用に就いて』の研究を始める。
- 1885年(明治18年・24歳) - 1月、ハウフの童話を翻訳した『盗侠行』を発表。2月には、ドイツ語で『日本兵食論』『日本家屋論』を執筆。5月、陸軍一等軍医(大尉相当)に昇進。10月、ドレスデンに移る。
- 1886年(明治19年・25歳) - 3月、ミュンヘンに移る。大学衛生部に入学し、ペッテンコーフェルに衛生学を学ぶ。
- 1887年(明治20年・26歳) - 4月、ベルリンに移る。5月、北里柴三郎とともにコッホを訪ね、衛生試験所に入る。
- 1888年(明治21年・27歳) - 3月、プロシア近衛歩兵第二連隊の軍隊任務につく。9月、日本(横浜港)に帰国。10月、陸軍大学校教官に就任。12月、『非日本食論将失其根拠』を自費出版。
- 1889年(明治22年・28歳) - 1月東京医事新誌』を主宰。その後、読売新聞に『医学の説より出でたる小説論』が発表され、本格的な文筆活動が始まる。3月、写真婚で、海軍中将赤松則良の長女登志子と婚約。5月、東京美術学校専修科の美術解剖学講師に就任。8月、『国民之友』に訳詩編「於母影」を発表。10月、軍医学校陸軍二等軍医正(中佐相当官)教官心得になる。
- 1890年(明治23年・29歳) - 1月、『医事新論』を創刊。『国民之友』に「舞姫」を発表。8月、『しからみ草紙』に「うたかたの記」を発表。この作品は、石橋忍月との論争の火種になる。9月、長男於菟誕生。しかし、まもなく妻登志子と離婚。10月、本郷駒込千駄木町57に居住を移す。鴎外は、そこを「千朶山房」と呼ぶ。
- 1891年(明治24年・30歳) - 1月、『文づかひ』を刊行。8月、医学博士の学位を授与される。9月、『しからみ草紙』に「山房論文」を発表。「早稲田文学」で坪内逍遙と没理想論争を交わす。
- 1892年(明治25年・31歳) - 7月、翻訳小説集『美奈和集』(春陽堂)を刊行。8月、医学と文学の論争から離れて休息を取るため、自宅(観潮楼)を建設。11月、『しからみ草紙』にアンデルセンの「即興詩人」を連載。
- 1893年(明治26年・32歳) - 11月、陸軍一等軍医正(大佐相当)に昇進し、軍医学校長になる。
- 1894年(明治27年・33歳) - 8月、日清戦争開戦。軍医部長として中国(盛京省花園口)に上陸。10月、大本営のある広島市で執務をし、11月大連に上陸。
- 1895年(明治28年・34歳) - 5月、日清講和条約の調印後、帰国(帰京することなく広島市にとどまる)。8月、台湾総督府陸軍局軍医部長になり、台湾に赴任。9月、帰国の途につく。
- 1896年(明治29年・35歳) - 1月、『めさまし草』を創刊。3月、幸田露伴、斎藤緑雨らとともに『めさまし草』に「三人冗語」を連載。4月、父静男死去。
- 1897年(明治30年・36歳) - 1月、中浜東一郎(中浜万次郎=ジョン万次郎の長男)、青山胤通らとともに公衆医事会を設立、『公衆医事』を創刊。
- 1898年(明治31年・37歳) - 10月、近衛師団軍医部長兼軍医学校長に就任。
森鴎外旧居、小倉北区 - 1899年(明治32年・38歳) - 6月、軍医監(少将相当)に昇任し、第十二師団軍医部長として福岡県の小倉に赴任。
- 1902年(明治35年・41歳) - 1月、大審院判事荒木博臣の長女志げと再婚。3月、東京に転勤。
- 1903年(明治36年・42歳) - 1月、長女茉莉誕生。
- 1904年(明治37年・43歳) - 2月、日露戦争開戦。4月、第二軍軍医部長として、広島市の宇品港をたつ。『うた日記』を書く。
- 1905年(明治38年・44歳) - 奉天会戦勝利後、残留していたロシア赤十字社員の護送に尽力。翌年、1月帰国。
- 1906年(明治39年・45歳) - 6月、賀古鶴所らとともに歌会「常磐会」を設立(のちに山県有朋などが参加)。
- 1907年(明治40年・46歳) - 3月、与謝野寛、伊藤左千夫、佐佐木信綱らと自宅で「観潮楼歌会」を開く。6月、西園寺公望が主催した歌会「雨声会」に出席。8月、次男不律誕生。10月、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長となる。
- 1908年(明治41年・47歳) - 1月、弟篤次死去。2月、次男不律死去。5月、文部省の臨時仮名遣調査委員会委員になる。
- 1909年(明治42年・48歳) - 3月、『スバル』に口語体小説「半日」を寄稿。以後、頻繁に寄稿する。5月、次女杏奴誕生。7月、文学博士の学位を授与され、また『ヰタ・セクスアリス』が発売禁止となる。
- 1910年(毎時43年・49歳) - 2月、慶應義塾大学の文学科顧問になる。
- 1911年(明治44年・50歳) - 2月、三男類誕生。5月、文芸委員会委員になる。9月、『スバル』に「雁」を連載。
- 1912年(明治45年・51歳) - 1月、文芸委員会に頼まれていた戯曲『ファウスト』の訳を完結させる。10月、鴎外にとって初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を『中央公論』に発表。
- 1913年(大正2年・52歳) - 1月、『中央公論』に「阿部一族」を発表。
- 1914年(大正3年・53歳) - 1月、『中央公論』に「大塩平八郎」を発表。2月、『新小説』に「堺事件」を発表。
- 1915年(大正4年・54歳) - 1月、『中央公論』に「山椒大夫」を、『心の花』に「歴史其儘と歴史離れ」を発表。11月、大嶋陸軍次官に辞意を表明。同年、渋江抽斎の調査研究を始める。
- 1916年(大正5年・55歳) - 1月、『中央公論』に「高瀬舟」を、『新小説』に「寒山拾得」を発表。東京日日新聞と大阪毎日新聞に「渋江抽斎」を連載。3月、母峰子死去。
- 1917年(大正6年・56歳) - 12月、帝室博物館総長に就任し、高等官一等に叙せられる。
- 1918年(大正7年・57歳) - 11月、正倉院宝庫開封に立ち会うため奈良に一時滞在。以後1921年まで毎秋、奈良を訪れた。
- 1919年(大正8年・58歳) - 9月、帝国美術院の初代院長に就任。
- 1920年(大正9年・59歳) - 1月、腎臓を病む。
- 1921年(大正10年・60歳) - 6月、臨時国語調査会長に就任。秋、足に浮腫が出来はじめるなど、腎臓病の兆候が見られ始める。
- 1922年(大正11年・61歳) - 4月、イギリス皇太子の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の旅行。途中、いくどか病臥する。6月29日、萎縮腎と診断される。また、肺結核の兆候も見られた。7月6日、友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。7月9日、午前7時死去。向島弘福寺に埋葬される。
- 1927年(昭和2年) - 墓が三鷹市禅林寺に移される。分骨され津和野町永明寺にも墓がある。
[編集] 主な作品
[編集] 小説
- 舞姫 (『国民之友』、1890年1月)
- うたかたの記 (『国民之友』、1890年8月)
- 文づかひ (吉岡書店、1891年1月)
- 半日 (『スバル』、1909年3月)
- 魔睡 (『スバル』、1909年6月)
- ヰタ・セクスアリス (『スバル』、1909年7月)
- 鶏 (『スバル』、1909年8月)
- 金貨 (『スバル』、1909年9月)
- 杯 (『中央公論』、1910年1月)
- 青年 (『スバル』、1910年3月 - 11年8月)
- 普請中 (『三田文学』、1910年6月)
- 花子 (『三田文学』、1910年7月)
- あそび (『三田文学』、1910年8月)
- 食堂 (『三田文学』、1910年12月)
- 蛇 (『中央公論』、1911年1月)
- 妄想 (『三田文学』、1911年4月)
- 雁 (『スバル』、1911年9月 - 1913年5月)
- 灰燼 (『三田文学』、1911年10月 - 1912年12月)
- 百物語 (『中央公論』、1911年10月)
- かのように (『中央公論』、1912年1月)
- 興津弥五右衛門の遺書 (1912年10月、『中央公論』)
- 阿部一族 (『中央公論』、1913年1月)
- 大塩平八郎 (『中央公論』、1914年1月)
- 堺事件 (『新小説』、1914年2月)
- 安井夫人 (『太陽』、1914年4月)
- 山椒大夫 (『中央公論』、1915年11月)
- じいさんばあさん (『新小説』、1915年9月)
- 高瀬舟 (『中央公論』、1916年1月)
- 寒山拾得 (『新小説』、1916年1月)
[編集] 戯曲
[編集] 詩歌
[編集] 翻訳
- カルデロン・デ・ラ・バルカ『調高矣津弦一曲』、1889年。※三木竹二との共訳
- 『於母影』 (新声社訳『国民之友』夏期付録、1889年)
- ハンス・クリスチャン・アンデルセン『即興詩人』 (『しからみ草紙』1892年11月 から掲載され、『めさまし草』1901年2月完)
- ゲーテ『ファウスト』 (第一部:1913年1月、第二部:3月、冨山房)
- 『サロメ』 オスカー・ワイルド
[編集] 史伝
- 続篇として『狩谷棭斎』を執筆する予定だった。
[編集] 家族 親族
妻子
- 先妻 登志子(海軍中将赤松則良娘)
- 長男 於菟(おっと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)
- 後妻 - 志け
- 小説「波瀾」を著しており(『樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集』現代日本文学大系5、筑摩書房、1972年)、義妹の小金井喜美子とともに雑誌『青鞜』の賛助員になった。
4人の子供はいずれも鴎外について著作を残しており、とりわけ茉莉(国語教科書に載った『父の帽子』)と杏奴(『晩年の父』)が有名である。
弟妹
- 弟 森篤次郎(三木竹二)
- 明治期を代表する劇評家で、内科医。演劇雑誌『歌舞伎』を主宰し、歌舞伎批評に客観的な基準を確立した(三木竹二『観劇偶評』、渡辺保編、岩波文庫、2004年)。
- 妹 小金井喜美子
- 明治期に若松賤子と並び称された翻訳家で、また随筆家・歌人でもあった(『鴎外の思い出』岩波文庫、1999年。『森鴎外の系族』岩波文庫、2001年)。
- 義弟 小金井良精
- 喜美子の夫。初期の文部省派遣留学生(鴎外の前年にドイツ留学)。24歳で帰国し、27歳のとき高給の外国人教師に代わって東京帝国大学医学部教授に就任。
小金井夫妻の孫の一人が小説家の星新一。
傍系
[編集] 系譜
玄佐━玄篤━玄叔━周菴━玄佐━玄碩━玄叔━周菴━秀菴━立本━秀菴━白仙━静泰━┳林太郎 ┣篤次郎 ┣喜美子 ┗潤三郎
[編集] その他
- 常日頃、文人の自分と武人のそれを厳格に分けて考えていた。あるとき文壇の親しい友人が軍服を着て停車場にいた森に何気なく話しかけたら、その友人を怒鳴りつけたことがある。
- 軍人としての誇りが高く、娘と散歩する時にも必ず軍服に着替えた。あるとき杏奴と散歩をしていると、「わー中将が歩いているぞ」と子供たちがバラバラと駆け寄ってきた。日露戦争後で、軍人が子供たちのヒーローであったのである。得意満面の鴎外を、あこがれの目で見つめていた子供たちの一人が、襟の深緑色を見て、「おい、なんだ、軍医だよ」と声をあげると、「なーんだ、軍医かあ」と言いながら子供たちは散ってしまった。あとには呆然として立ち尽くす父娘が残され、がっかりとした鴎外は帰宅するまで、一言もしゃべらなかったという。
- 1892年に東京都文京区へ建設し、晩年まで過ごした住居「観潮楼」跡地に、文京区立本郷図書館鴎外記念室がある。
- 細菌学を究めて以来、パスツール同様潔癖症になってしまい、どんな食べ物も加熱しないと食べられなくなってしまったという。その一方で、風呂嫌いでもあった。
- 大の甘党でもあり、娘(茉莉・杏奴)の著書によると饅頭を茶漬けにして食べていたという。これは潔癖症も原因で、食品を砂糖漬けにしたり、熱湯をかけたりすれば細菌は死滅するから、という考えもあったようだ。
- 鈴木梅太郎が米糠に含まれる成分オリザニン(ビタミンB1)が脚気に有効であると報告したとき、「農学者が何を言うか、糠が効くのなら小便でも効くだろう」と非難した「某医学者」は、青山胤通あるいは鴎外だったといわれる。もっとも山下(2008)によれば、オリザニンは1911年10月1日に販売されたものの、都築甚之助が開発した製糠剤[70]「アンチベリベリン」(1911年4月に粉末・丸などを販売。同年9月、注射液を販売)が広く愛用された(純粋ビタミンB1剤が登場する昭和期のはじめまでよく売れた)のに対し、なぜか医界に受け入れられなかった(8年後の1919年、ようやく島薗順次郎がはじめてオリザニンを使った脚気治療報告を行った)。なお、1912年に鈴木が抽出に成功したオリザニン「結晶」は、ニコチン酸を含む不純化合物であった。結果的に純粋単離に成功したのが1931年であり、オリザニン発売から実に20年がすぎていた。そして翌1932年、脚気病研究会で、香川昇三によってオリザニンの「純粋結晶」は脚気に特効のあることが報告されたのである。といっても、価格が高いうえ、もともと消化吸収率がよくない成分であるために発病後のビタミンB1摂取が困難であり、その後も国民の脚気死亡者は、日中戦争の拡大等によって食糧事情が悪化するまで年間1万人~2万人で推移した。
- 臨終の際にのこした最後の言葉は「ばかばかしい」だった。
[編集] 関連項目
- 井上通泰:『於母影』の共訳者で、歌会常磐会の創設メンバーの一人。
- 上田敏:一緒に雑誌『芸文』『万年艸』を創刊する等、親交を深めた。
- 木下杢太郎:医学生時代、鴎外に進路を相談。後年、鴎外の心境を深く理解した。
- 黒田清輝:東京美術学校の後輩教員。鴎外の依頼を受け、故原田直次郎展の発起人となった。
- 佐佐木信綱:『めさまし草』に歌を発表し、長年にわたり親交を深めた。
- 太宰治:希望したとおり、鴎外の墓のはす向かいに埋葬された(禅林寺)。
- 田山花袋:とくに鴎外の審美学(美学の旧称)が好きで、その影響を受けたと書いた。
- 永井荷風:鴎外の推薦で慶應義塾大学教授に就任。生涯その恩を忘れなかった。
- 中村不折:鴎外の自宅から別荘の表札、墓碑銘まで書いた。
- 原田直次郎:ドイツ留学時代からの友人。
- 吉田増蔵:晩年の鴎外に乞われて上京し、元号や勅語や皇族名などに関わった。
- 交響曲(訳語)
- 戦争論
- 美学
- 飛行機(訳語)
- 横浜市立横浜商業高等学校(Y校校歌)
- エルヴィン・フォン・ベルツ
[編集] 脚注
- ^ 第一大学区医学校予科に入学。
- ^ 祖母も養子であり、祖父母の代で森家の血筋が絶えていた。このため鴎外は、親戚の西周(にし・あまね)と血がつながっていない。
- ^ 『講座 森鴎外』第1巻、15頁。なお同書は、学生、作家、軍医、家庭人の側面から、鴎外の実像にせまった。
- ^ ドイツ人教員がいて生徒の1割強が華族の身分。当時の父親の収入を踏まえると、西周が学費も世話をしたという説がある。
- ^ 自伝的小説『ヰタ・セクスアリス』に主人公の哲学者金井湛の体験として「寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘拉甸の語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない。何故語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。」と記されている。
- ^ 校名が頻繁に変更されたように当時は、大学制度確立の過渡期にあたる。鴎外が入学した明治6年度は、予科(旧制高等学校に相当する課程)の年齢制限が14歳~17歳であった(明治7年度は15歳以下の入学が見合わされており、明治8年度は年齢制限が16歳~20歳に引き上げられた)。また9月入学の予定であったものの、明治6年度は、定員100名に達しなかったため、学生募集が続けられた。最終的に実年齢をいつわった11歳の鴎外のほか、17歳の上限年齢を超えた18歳と19歳の応募者も入学した(計71名)。なお、本科に進めるのは30名にすぎず、上級の落第者と編入生を加え、予科生は厳しい競争にさらされた。ちなみに、予科71名の新入生はドイツ語の能力で3クラスに分けられており、鴎外の属した中位のクラスでストレートに本科を卒業したのは24名のうち11名、下位のクラスでストレートに本科を卒業したのは41名のうち2名であった。『講座』第一巻、129-134頁。
- ^ 卒業席次が8番となった理由として、卒業試験の最中に下宿が火事になって講義ノート類を焼失したり、外科学のシュルツ教授が鴎外の講義ノートに漢文の書き込みを見つけて反感を買ったりした等が挙げられる。また妹の回想には、下宿に同居して鴎外の世話をしていた祖母が、卒業試験前に文学書を読みふける鴎外を心配する件(くだり)がある。しかし、首席で卒業した三浦守治東京帝国大学教授が門下生に「余ガ大学ニ在ルヤ同級生ニ森林太郎ノ俊才アリ、高橋順太郎ノ勉強アリ。共ニ畏敬セル競争者ナリキ」と語ったなど、卒業席次上位10名の中で他者より5~7歳年下の鴎外は、なかなか優秀であった。山﨑(2007)、38頁。
- ^ 鴎外の陸軍省入りには、当時の軍医総監、林紀とじっこんの間柄である西周の助力も働いていたようで、1882年5月には同期の中で初の「軍医本部付」となった。山﨑(2007)、41-42頁。
- ^ 小金井(1999)、35-37、39頁
- ^ 『医政全書稿本』全十二巻の前部は、陸軍衛生制度のほか、軍隊での儀礼や法制、経理、給与、設営などが取り上げられた。また、その後部は、軍陣衛生の各論で構成された。二十歳の鴎外は、そうした膨大な内容の稿本を十ヶ月ほどで編集したのである。山﨑(2007)、45頁。
- ^ 鴎外は、ドレスデンに移った年のクリスマス休暇で、ライプツィヒに出かけた。予定を延ばして滞在していたが、12月30日さらに滞在をすすめる人たちに別れを告げた。金子(1992)、15-18頁。
- ^ キルケの名は、ドレスデン滞在時の日記に17回登場し、鴎外がドレスデンを離れた後も、つきあいが続いていた。金子(1992)、42頁。
- ^ 近代細菌学の開祖とされるコッホは、ミュンヘン大学の恩師ペッテンコーファーと対立していたが、北里柴三郎の勧めもあり、鴎外はコッホにも師事した。
- ^ 9月26日は、オランダ代表の「欧州外の戦争で傷病者を救助すべきか否か」という問題提起に、「眼中唯〃欧州人の植民地あるを見て発したる倉卒(そうそつ)の問いなり。」と発言。翌27日の最終日は、石黒の許可を得て「アジア外の諸邦に戦いあるときは、日本諸社は救助に力を尽くすこと必然ならんと思考す」と演説し、喝采を博した。ちなみに、その演説主旨は、4月18日に同期の谷口謙とともに乃木希典、川上操六の両少将を訪問したとき、どちらかの少将の発言内容とほぼ同じである。もっとも当時、あまり知られていない極東の小国(モンゴロイドで非キリスト教徒の国)の通訳官が、国際会議で発言すること自体、相当勇気が必要であろう。山﨑(2007)、66-67、70-73頁。
- ^ 小堀杏奴『晩年の父』、195-196頁。林尚孝『仮面の人・森鴎外』、小平克『森鴎外「我百首」と「舞姫事件」』など。林尚孝はドイツ人女性をエリーゼ・ヴィーゲルトとする。エリーゼ・ヴァイゲルト(Elise Weigert)説もあり、また当時既婚者であったエリーゼ・ヴァイゲルト説を否定し、裕福な既製服店の娘アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト(Anna Berta Luise Wiegert)とする新説もある。AnnaとLuiseが鴎外の子供達の名(杏奴、類)と一致することも指摘されている(植木哲『新説 鴎外の恋人エリス』)。
- ^ 森鴎外と「エリス」―ドイツ・ベルリン
- ^ 日本で最初に、ゾラの文学的傾向の実体を紹介するものとなった。ちなみに、日本でゾラの自然主義の影響が出始めたのは、明治30年代である。山﨑(2007)、100頁。
- ^ 新声社の同人は、落合直文、市村瓚次郎、井上通泰、三木竹二(鴎外の実弟)、小金井喜美子(実妹で既婚)、鴎外本人の計6名。ただし竹二は、『於母影』の共訳に参加していない。山﨑(2007)、103頁。
- ^ 『しがらみ草紙』は、3号に坪内逍遥と幸田露伴の、4号に山田美妙と石橋忍月の文が掲載され、その地位が高まった。最盛期に2,000部が売られた。
- ^ 鴎外の「翻訳」(広義)ぶりの現代的意味は、長島要一『森鴎外 文化の翻訳者』が参考になる。ちなみに、『鴎外全集』53巻(岩波書店、1951-56年)の内訳は、著作編33巻、翻訳編18(戯曲10、小説6、戦論・医事2)巻、別巻2である。
- ^ 日清戦争後、東京美術学校に復職した後、審美学と西洋美術史を講じた。新関、180頁。
- ^ 山﨑(2007)は、「遅れた社会に科学を育てるには条件が必要。それは「標準」である。「芸術」の「標準」として鴎外は乾いた日本の土壌に「審美学」を植え付けようとした」と指摘した。202頁。
- ^ 第二軍の兵站部軍医部長として遼東半島にいた鴎外などとの交際は、遼東五友の交わりといわれた。その五友とは、新聞『日本』の正岡子規と中村不折、『読売新聞』の河東銓(かわひがし・せん。俳人河東碧梧桐の兄)、久松定謨(ひさまつ・さだこと)、鴎外の5人である。佐谷眞木人『日清戦争』講談社現代新書、2009年、54頁。
- ^ 1月に創刊された『めさまし草』は、3月から「三人冗語」が掲載され、9月以降これに依田学海・饗庭篁村(あえば・こうそん)・森田思軒・尾崎紅葉等が加わり、「雲中語」として評判になった。紅葉・川上眉山・正岡子規・高浜虚子・落合直文などが文を寄せた。また『於母影』の共訳者であった井上通泰の実弟、柳田国男も松岡国男名で歌評を書いており、夏目漱石の俳句も掲載された(3号)。
- ^ 池内、67頁。
- ^ この人事は、鴎外本人の受け止め方を別にして当時の状況を踏まえれば、左遷と言えるのか疑問視する声もある。松本、108-111頁。なお、その小倉転勤は、前任者の江口襄(作家江口渙の父。なお渙の『わが文学半世紀』青木文庫、1953年には父の友人として鴎外の名が何度か登場)が着任後わずか8ケ月で辞職(軍医の開業禁止を受け、病院での診療に専念)したために行われた穴埋め人事である。このため、後任の鴎外は、ほかの新設5師団の軍医部長5名と同じように1902年3月まで在任することとなった。
- ^ 池内、73-92頁。
- ^ 末弟の森潤三郎は、『戦争論』の翻訳について「この事は軍人社会に兄の声望を重からしめ、山県元師に名を知られる因となった。」と書いた。森潤三郎『鴎外森林太郎』。
- ^ 後年、小倉時代を素材にした短編小説『鶏』で表れたように、田中美代子は、小倉での生活によって「それまで一途に中央志向に凝り固まっていた鴎外は、だが次第に、日本の懐深く息づいている土着の魂というべきものに目覚めていったのではなかろうか。」と指摘した(「解説」『森鴎外全集』13巻)。また、「上京して以来、(中略)ドイツでの留学生活を除いて、鴎外の生活の場であり続けた東京と比べると、人々の生活・行動規範が緩やかで、ある意味で自由奔放な北九州のローカル都市・小倉と、そこで生活する人々の生活風俗は、鴎外にとって異質で、新鮮な世界を意味していた」。末延、112、114頁。
- ^ 貝原益軒(博多)の墓を皮切りに、加藤清正(熊本)、高山彦九郎(久留米)、広瀬淡窓(大分県・日田)など、文人と武人の墓を探して参り、墓碑を筆記した。また東京に出張する途中、客死した祖父、森白仙(1861年、東海道の土山宿で没)の墓も参った。末延、117頁。
- ^ 西周等とともに幕府派遣留学生であった赤松則良海軍中将の長女、登志子との結婚生活は、1年半ほどで破綻した。1888年9月8日に鴎外が帰国した直後、ドイツ人女性が来日して離日(9月12日-10月17日)する出来事をきっかけに、留学中より西周から話のあった縁談が急に進み(9月18日に祖母が、10月17日に母と弟の竹二が西邸を訪問)、翌年2月24に鴎外と登志子は結婚した(森まゆみ、148頁)。鴎外の弟二人、登志子の妹二人、女中が同居し、また新居には同人などが数多く出入りした。後年、幸田露伴は、鴎外宅に行くと夜12時になっても1時になっても引き留められたと回想し、内田庵魯も、夜が更けたので帰ろうとすると「マダ早いよ、僕の処は夜が昼だからね。眠くなったらソコの押入から夜具を引きずり出してゴロ寝をするさ。賀古なぞは12時が打たんけりや来ないよ」といわれ、実際に賀古鶴所が12時すぎに来たのに数回出会ったと回想した。1890年1月に小説『舞姫』が発表されると、9月13日に長男於菟が生まれたものの、10月4日に鴎外は同居する弟二人を連れて赤松家所有の家を出て行った(仲人の西周が激怒し、鴎外は西邸の出入りを禁じられた)。離婚の理由は、登志子の容姿や嫁姑問題(『講座』第一巻、177-178頁)など、いくつか推測されてきたものの、わかっていない。なお、於菟によれば、父鴎外は母に結核をうつされたと祖母が語ったという。その真相は不明であるが、少なくとも鴎外は、1909年に戯曲『仮面』(離婚して2年後に結核が発症したことを示唆)をつくり、また没する10年ほど前から結核が発症していた。森まゆみ、137-183頁。山﨑(2007)、98-99頁
- ^ 1875年(明治8年)5月に島根県安濃郡で生まれ、37歳で没。鴎外は随筆「二人の友」を発表しており、のちに芥川龍之介も第一高等学校でドイツ語を習った福間を回想して随筆「二人の友」を発表した。
- ^ ただし僧侶の玉水は、敬愛する鴎外の後を追うように上京したものの、嫁姑問題にかかわったため、森家に出入りできなくなり、失意のうちに東京を離れた。なお小倉の新婚時代には、家主の10歳くらいの娘で、鴎外にかわいがられた盲目の八重も、「お祖母さんがそんなに毎日伺ってはお邪魔じゃろうと申しますが、また伺いました」といって鴎外宅によく来ていた。ときには、「お祖母さんが怒ると私の事を穀盗人と申します。そう言う時は森さんがそれはそれは御親切に慰めて下さいます」と、目に涙をたたえて鴎外の新妻に訴えることもあった。小堀(1981)、150頁。
- ^ 凱旋した1906年1月12日には、親族のほか、佐佐木信綱や上田敏、小山内薫など一同で祝宴が催された。
- ^ 慣例として前任者(小倉「左遷」人事をした小池正直)の推薦が必要であった。その小池は、7歳年上であったが、鴎外とは同窓生であり、かつて鴎外を採用してもらえるように陸軍軍医監の石黒忠悳に熱い推薦状を提出していた。学生時代の二人を知る緒方収二郎は、鴎外を「強記は実に天才」、小池を「沈黙謹厳」と評した。山﨑(2007)、41頁、310-311頁。また小池は、7ヶ月間の外遊から帰国後、トップの医務局長に就任するまでの半年間、鴎外と毎月1~2度会っていた。老朽軍医の淘汰を断行した小池の初回人事では、その淘汰で空いたポスト二つのうち第二師団(仙台)ではなく、近衛師団(東京)の軍医部長に鴎外をつけた。鴎外が小倉にいた1900年5月末、小池医務局長の推薦にもとづく軍医の叙勲が行われ、鴎外は小池と同等に勲四等に叙せられた。日露戦争後、第一軍~第四軍の軍医部長経験者5名のうち中央に残されたのは鴎外だけであり、会議などでも鴎外がNo.2の地位にあることが明確にされた。以上のように、鴎外に関する小池の人事では、小倉「左遷」だけが特異であった。その理由として山下(2008)は、「左遷」人事をした小池には鴎外への悪意がなく、「左遷」には別の理由があったとした。また「左遷」人事の背景として、日清戦争後の台湾平定戦での脚気大流行とその隠蔽、陸軍大臣の高島鞆之助とその後任桂太郎など台湾での出来事を知る将官による責任追求とその反動(山県有朋元師や大山巌元師や児玉源太郎などと懇意である石黒忠悳(衛生の総責任者)の保身運動)という複雑なものを挙げた。
- ^ 山﨑(2007)、837頁。新関、180頁。
- ^ 鷗外は、1910年12月10日、被告26人が出廷した大審院特別法廷(非公開)の高等官傍聴席にいたという説がある。なお同年12月14日、与謝野鉄幹と大逆事件弁護人の平出修とを供応した。その平出は、鷗外から一週間にわたって無政府主義・社会主義に関する講義を受けたと伝えられている。『講座』第二巻、303-306頁。
- ^ 「文芸の主義」『鴎外随筆集』、千葉俊二編、岩波文庫、2000年、138-140頁。初出1911年4月。
- ^ 末延は、小説『鼠坂』についての見出しに「「剣」に屈服した新聞記者」という副題をつけた。246-281頁。
- ^ 陸軍に絶大な影響力をもつ山県有朋とは、親友の賀古鶴所をとおして関係があった。1906年6月10日、鴎外と賀古が佐佐木信綱と井上通泰ら4名を酒楼「常盤」に招いて歌会を起こすことを勧め、その後、賀古が山県に話のついでに告げたところ、山県も力をそえることとなった(山﨑、2007年、285頁)。その歌会常盤会は、山県が他界するまで15年間つづいた。もっとも5ケ月後、前年から体調を崩していた鴎外も他界した。ちなみに、鴎外が山県の誕生祝の宴に初めて招かれたのは、軍医総監を退く前年の1915年である。
- ^ 池内、137頁。
- ^ 乃木希典の殉死と「興津弥五右衛門の遺書」に関する通説・定説には、批判もある。池内、147-157頁。
- ^ 鴎外の歴史小説は、『阿部一族』、『大塩平八郎』、『堺事件』、戯曲『曾我兄弟』(1914年3月)まで「権力と民衆」への視点を基本構図としながらも、殺伐とした物語が多かった。『安井夫人』(1914年4月)以来、『山椒大夫』、『じいさんばあさん』、『最後の一句』、『高瀬舟』など家族の情を主体としたものが多くなっていく。山﨑(2007)、655頁。
- ^ 「空車」(むなぐるま)に対し、これまで様々な解釈がなされている。近年も注目すべき解釈が提示された。池内、198-207頁。
- ^ 唐木順三にしたがえば、「礼儀小言」は大正期の日本人の暮らしと思想のあまりの大変動に恐怖を感じた明治人、鴎外の大正的なるものに対する深刻な憂いの表明である。片山杜秀『近代日本の右翼思想』講談社選書メチエ、2007年、106頁。
- ^ 帝室博物館では月・水・金曜日(8時から16時まで)に、図書寮では火・木・土曜日(8時から13時まで)に勤務した。なお、博物館総長として毎秋、正倉院の虫干しに立ち会わなければならず、奈良や京都に1ケ月ほど滞在していた。また、総長就任の4年間で博物館の歳出が大幅に伸び、就任4年目で就任直前の2倍強になった。館内の構造物について「分類陳列」方法があらたまり、「時代別陳列」に変更された。また、正倉院の参観資格が緩和され、帝室技芸員や古社寺保存会委員や美術審査員などのほか、「学術技芸ニ関シ相当ノ経験アリト認メタル者」にも参観の道が開かれた。山﨑(2007)、705-707、785頁。
- ^ すでに臨時宮内省御用係として1913年(大正2年)2月から、勅語や令旨など、特別な文章の起草、執筆にかかわっていた。1915年5月には、即位式前の大正天皇から漢詩を所望され、「応制の詩」をつくった。なお、御用係は総長・図書頭就任時に免じられたものの、特別な文章へのかかわりは1921年頃までつづいた。山﨑(2007)、625、702-703頁。
- ^ この点は、猪瀬直樹『天皇の影法師』が詳しい。
- ^ 遺言ではないが漱石も「ただの夏目なにがしで暮らしたい」という言葉が有名である。ただし、その言葉どおりに漱石が辞退した文学博士の栄誉、称号を鴎外は受けている。
- ^ 「立ち依(よ)らば、大樹の陰、その名は鴎外、森林太郎」と書いた太宰治は、遺言にもとづき、鴎外の墓の前(はす向かい)に埋葬された。猪瀬、9頁。
- ^ たとえば、日本初の西洋風演出による新劇運動として、その後の演劇界に多大な影響を与えた自由劇場の第一回旗揚げで上演されたのは、イプセン作・鴎外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』(小山内薫の演出)であった(1909年11月)。当時の鴎外は、「草創期の新劇にとって非常に大きな力」となり、「ある時期、鴎外が西洋の近代戯曲への窓口だったといっていい」とまで評価されている。『講座』第三巻、176-177頁。
- ^ 国民歌劇協会が作曲家グルック生誕200年を祝って1914年7月2日に上演を予定し、鴎外に訳を委嘱した。ただし、第一稿は留学先のドイツから持ち帰った台本を底本としたため、協会の楽譜に合わず、その後、第二稿は完成したものの、第一次世界大戦の勃発など諸般の事情によって上演されなかった。しかし、91年後の2005年9月18・19日、その幻のオペラは、関係者の尽力により、鴎外が希望したフルオーケストラで初演された(上野・東京藝術大学奏楽堂)。DVD:森鴎外訳オペラ『オルフエウス』紀伊国屋書店、KKCS-65。
- ^ たとえば、ドイツから帰国した翌1889年年8月、発足したばかりの日本演芸協会の文芸委員になっており、同年10月刊行の『しがらみ草紙』創刊号で「演劇改良論者の偏見に驚く」を発表。
- ^ 田山花袋は、「私は殊に鴎外さんが好きで、『柵草紙』などに出る同氏の審美学上の議論などは非常に愛読した。鴎外さんを愛読した結果は私もその影響を受けた。」(「私の偽らざる告白」『文章世界』1908年9月)と書いた。日露戦争中、第二軍写真班の取材記者として5ケ月ほど従軍した花袋は、宇品港のある広島市本町の宿に同軍軍医部長の鴎外を訪ねており(初対面)、二人は文学談義を交わすなど頻繁に会っていた。『講座』第一巻、388、403-405頁。
- ^ 鴎外が日本の近代美術史に残した足跡の一つに、実質的編集者として展覧会カタログ『原田先生記念帖』を発行したことが挙げられる。その展覧会とは、1909年11月28日(日曜日)、東京美術学校校庭の校友会倶楽部で開催された「原田直次郎没後十周年記念遺作展」である。故人は、東京美術学校と関係がなかったものの、かつて同校で教鞭をとっていた鴎外が発起人に黒田清輝をまきこみ、校友会倶楽部での展覧会開催が実現した。その展覧会カタログは、全出品作23点の写真と、黒田清輝や松岡寿、長沼守敬など同時代人による回想とが掲載されており、明治美術史の貴重な資料となっている。また、日本にまだ美術館学芸員が存在しなかった当時、公務(医務局長等)と執筆活動で多忙をきわめていた鴎外がやり遂げたことは、今日の美術館学芸員の先駆的仕事でもあった。新関、138-140頁。
- ^ 弟子の有無に限らず、松本清張による鴎外と漱石の比較が興味ぶかい。松本、93-97頁。なお、鴎外と漱石の対比は、生前の鴎外を知る平塚らいてうもしており、金子『鴎外と〈女性〉』、314-315頁で読むことができる。
- ^ 山崎(2007)、299頁。
- ^ そうした鴎外の女性観については、金子幸代『鴎外女性評論集』が参考になる。同書には、一葉や晶子やらいてうの評なども集められている。また、金子幸代『鴎外と〈女性〉』には、鴎外と女性解放運動に関する記述があり、らいてうの回想文を引用(322頁)し、鴎外が日本初の女性団体新婦人協会の設立にどう関わったのか等を紹介している。ちなみに、若き日の鴎外は、1885年9月28・29日にライプツィヒでドイツ初の女性団体「独逸婦人会」(1865年設立)の第13回総集会を傍聴していた。
- ^ 平時よりもはるかにストレスの溜まりやすい戦場において、食事は重要な娯楽のためである。また食事が士気に影響することは軍隊に限らず、スポーツなどの場面でも言われている。
しかし、この当時は「海軍のメシはうまい(西欧食中心であったため)」が陸軍兵士の羨望であり、かつ脚気が海軍で少ないこと、栄養に原因がありそうだという噂も一部の上級将校は知っており、ひっそり戦地で麦飯を調達する将校すらいた。ただ、上述のような事情があるため、下士官以下には海軍の健康状況は伏せられた。 - ^ この項目の参考文献は、山下政三『鴎外森林太郎と脚気紛争』。なお、『脚気の歴史』や『明治期における脚気の歴史』なども著した山下は、「兵食問題や脚気問題を精密に検討するには、基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識が不可欠である。それらの知識なくしては、問題の内容を正確に把握できるはずはない。核心を正しく論評できるはずはない。錯誤におちいるのは必然である。」と指摘した。471-472頁。
- ^ 山下、437頁。
- ^ 山下、306頁。
- ^ 兵食試験は、当時の栄養学にもとづく栄養試験であり、脚気問題と無関係の試験であった。それにもかかわらず、兵食試験をあたかも脚気の試験であったかのように誤用し、試験成績を独断的にゆがめたのが上官の石黒忠悳であった。石黒の誤用により、兵食試験は誤解されることとなった。山下(2008)、448-449頁。
- ^ 山下、448頁。
- ^ 鴎外は軍医総監になった後も、石黒のとった方針を修正することも、麦食が脚気に有効であるか否かを学理として検証することも全くなかった[要出典]。もっとも、本文のとおり軍医トップの陸軍省医務局長に就任してまもなく、脚気の原因究明を目的とする研究機関の創設にうごき、半年後の1908年5月30日、勅令で「臨時脚気病調査会官制」が公布された。その4か月前の1月18日、海軍軍医の本多忠夫(1913年に軍医総監、1915年に海軍省医務局長)は、医学雑誌『医海時報』の掲載文に「脚気調査会の設置は、早くからわれわれの切望してきたところである」と記述し、その掲載誌も脚気調査会の設置を強く求めていた(山下、344頁)。つまり、脚気問題に真剣に向き合っていた当時の関係者は、有効な対策をとるために原因を究明すること、いいかえると脚気医学の混乱(欧米でビタミン学が興隆して日本に決定的な影響を与える1920年前後まで混乱がつづいた。山下、424頁)にピリオドをうつことを切望していたのである。現実にアリナミンとその類似品が社会に浸透する1950年代中頃まで、多くの国民が脚気で死亡した。
- ^ 志田、237頁
- ^ 志田、16-18頁
- ^ 「米穀搗精(とうせい)制限令」(需給調整の手段として、酒造米など加工米の制限のほか、つき減りを少なく(精白度を低く)し、食用米(粗精米)を増やす意図)が公布された。山下(2008)、460頁。野本京子「都市生活者の食生活・食糧問題」、戦後日本の食料・農業・農村編集委員会編『戦時体制期』、農林統計協会、2003年、352頁。
- ^ 山下(2008)、459-460頁
- ^ 1920年代に入るまで日本では、「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」について意見が分かれていた。その大きな要因は、糠の有効成分(ビタミンB1)の溶解性にあった。当時は、糠の不純物をとり除いて有効成分を純化するため、アルコールが使われていた。しかしアルコール抽出法では、糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出されなかった。そのため、脚気患者とくに重症患者に対し、顕著な効果を上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をしなくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復にむかうことが多かった)。したがって、糠製剤(ビタミンB1が微量)の効否を明確に判定することが難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無効」とも解釈できるような状態であった。山下(2008)、392-393頁。
[編集] 参考文献
- 池内健次『森鴎外と近代日本』ミネルヴァ書房、2001年。ISBN 4-623-03559-X
- 猪瀬直樹「元号に賭ける」『天皇の影法師』著作集10、小学館、2002年。ISBN 4-09-394240-4
- 植木哲『新説 鴎外の恋人エリス』 新潮選書 2000年。
- 金子幸代『鴎外と〈女性〉』大東出版社、1992年。ISBN 4-500-00588-9
- 金子幸代(編・解説)『鴎外女性論集』不二出版、2006年。ISBN 4-8350-3497-X
- 小金井喜美子『鴎外の思い出』岩波文庫、1999年。
- 小平克『森鴎外「我百首」と「舞姫事件」』同時代社、2006年。ISBN 4-88683-577-5
- 小堀杏奴『晩年の父』岩波文庫、1981年。ISBN/ASIN 4003109813
- 小堀桂一郎『森鴎外 批評と研究』岩波書店、1998年。ISBN 4000252836
- 末延芳晴『森鴎外と日清・日露戦争』平凡社、2008年。
- 長島要一『森鴎外 文化の翻訳者』岩波新書、2005年。ISBN 4-00-430976-X
- 志田信男『鴎外は何故袴をはいて死んだのか 「非医」鴎外・森林太郎と脚気論争』公人の友社、2009年。ISBN 9784875555407
- 新関公子『森鴎外と原田直次郎』東京藝術大学出版会、2008年。
- 林尚孝『仮面の人・森鴎外』同時代社、2005年。
- 平川祐弘・平岡敏夫・竹盛天雄 編『講座 森鴎外』第一巻~第三巻、新曜社、1997年。
- 防衛研究所図書館「軍隊と脚気」[1]
- 松本清張『両像・森鴎外』文春文庫、1997年。ISBN 4-16-710684-1
- 森まゆみ『鴎外の坂』新潮文庫、2000年。ISBN 4101390223
- 山﨑國紀『評伝 森鴎外』大修館書店、2007年。
- 山下政三『鴎外森林太郎と脚気紛争』日本評論社、2008年。
- 吉村昭『白い航跡』上下、講談社、1994年。ISBN 4061856790(上) ISBN 4061856804(下)
[編集] 外部リンク
- 森 鴎外:作家別作品リスト(青空文庫)
- 作品リスト (近代デジタルライブラリー。往時の印刷状態のまま読める)
- 文京区立本郷図書館鴎外記念室(文京区)
- 鴎外文庫書入本画像データベース(東京大学総合図書館。鴎外の自筆草稿や書入本を見ることができる)
- 森 鴎外
- 森鴎外経歴
- 森鴎外遺言
- 森鴎外 名所
- 近代文学研究会:『舞姫』論、鴎外の医学方面での活動
- 島根ゆかりの文学者 森 鴎外
- 森鴎外のお墓
- 森鷗外記念館 ベルリン
- 壺齋閑話[2](右側タグクラウドの「森鴎外」)


