クイーン (バンド)

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Queen
Queen – montagem – new.png
ブライアン・メイ(上段左)
フレディ・マーキュリー(上段右)
ジョン・ディーコン(下段左)
ロジャー・テイラー(下段右)
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル ロック[1]
ハードロック[1][2]
ポップ・ロック[1]
プログレッシブ・ロック[1][2]
ヘヴィメタル[2]
アート・ロック[2]
グラムロック
ロック・オペラ
ピアノ・ロック
スタジアム・ロック
活動期間 1971年 -
レーベル パーロフォン
ハリウッド
ユニバーサルミュージック
公式サイト クイーン公式サイト
メンバー フレディ・マーキュリーボーカル
ブライアン・メイギター
ジョン・ディーコンベース
ロジャー・テイラードラムス

クイーン (Queen) は、イギリスロンドン出身の男性4人組ロックバンド

イギリスアメリカ日本をはじめ、世界中で成功したバンドの一つである。これまでに15枚のスタジオ・アルバム、その他多くのライブ・アルバムベスト・アルバムを発表。アルバムとシングルのトータルセールスは1億7千万枚以上[3]ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて3位[4]

1991年リードボーカルフレディ・マーキュリーが死去してからも、残されたメンバーによるクイーン名義での活動は断続的に続いており、ギターブライアン・メイドラマーロジャー・テイラーの2人が、2005年から2009年までポール・ロジャースと組んで「クイーン+ポール・ロジャース」として活動を行った。その後はアダム・ランバートを迎えた「クイーン+アダム・ランバート」としての編成での活動も行なっている。

2001年には、マイケル・ジャクソンエアロスミスらと共にロックの殿堂入りをした。また、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第52位となった[5]

よく知られたヒット曲として『炎のロックンロール』、『輝ける7つの海』、『キラー・クイーン』、『ナウ・アイム・ヒア』、『ボヘミアン・ラプソディ』、『タイ・ユア・マザー・ダウン』、『ウィ・ウィル・ロック・ユー』、『伝説のチャンピオン』、『ドント・ストップ・ミー・ナウ』、『バイシクル・レース』、『地獄へ道づれ』、『愛という名の欲望』、『レディオ・ガ・ガ』、『ボーン・トゥ・ラヴ・ユー』などがある。

メンバーと主な担当楽器[編集]

全員が作詞作曲を行い、ギターキーボードピアノシンセサイザーチェレスタも含む)が演奏できるため、上記に当てはまらないケースも多い。各メンバーのページを参照のこと。

名前 生年月日 出身 担当
フレディ・マーキュリー
Freddie Mercury
1946年9月5日 - (1991-11-24) 1991年11月24日(45歳没) ザンジバル ザンジバル保護国
ザンジバルシティ ストーン・タウン
リードボーカル
ピアノ
ブライアン・メイ
Brian May
(1947-07-19) 1947年7月19日(71歳) イングランドの旗 イングランド
ミドルセックス ハンプトン英語版
ギター
ジョン・ディーコン
John Deacon
(1951-08-19) 1951年8月19日(67歳) イングランドの旗 イングランド
レスターシャー オードビー英語版
ベース
ロジャー・テイラー
Roger Taylor
(1949-07-26) 1949年7月26日(69歳) イングランドの旗 イングランド
ノーフォーク キングズ・リン
ドラムス

サウンドの特徴[編集]

エレクトリックギターをダビングすることによって作られる「ギター・オーケストレーション」と、マーキュリー、メイ、テイラーの3人のメンバーが声のパートを重ねることによって作られる重厚な「コーラス」が、特に初期に目立ったサウンド上の特徴といわれている。

そのギター・オーケストレーションを生み出す源であるメイのハンドメイドギター「レッド・スペシャル」は、机のオークや暖炉のマホガニーを素材にし父親と作ったハンドメイドのギターであり、当時ではまだ珍しかった位相で音を変えるフェイズスイッチ、ローラーブリッジなどの斬新なアイデアが盛り込まれた。また、6ペンスコインをピックの代わりに使用していたのも音に影響を与えたといえる。

フィードバック奏法をやりやすくするための空洞なども、独自のサウンド作りに貢献している。ジョン・ディーコンが作った(あるいは既存の製品を改造した)とされるギターアンプも、随所で使用されている。

シンセサイザーを用いずにギター・オーケストレーションで重厚なサウンドを生み出していることを明示するため、初期のレコードには「ノー・シンセサイザー」というクレジットがなされている。

クイーンのコーラスの録音方法については、最上パートはテイラーが担当することが多い。特にオペラ風コーラスに際しては、BS−TBS番組「SONG TO SOUL ボヘミアン・ラプソディ」において当時のエンジニアら制作関係者の証言で、マルチトラックテープの磁性体が摺り減りテープのベース部分が透けるほど繰り返しコーラス部分のダビングを行った経緯が細かく説明されていた。

また、メンバー全員が作曲をして、作風もそれぞれ異なっているため、バリエーションの多様さがクイーンの強みとなっている。

来歴[編集]

レコードデビューまでの経緯[編集]

ブライアン・メイとロジャー・テイラーの在籍していたバンド「スマイル」がクイーンの母体となった。スマイルは、1969年9月にシングル「Earth」(B面は「Step On Me」)をリリース[6]。これはまったく成功せず、ボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退[7]。その後任として、加入したのがスタッフェルの同級生でバンドとも知り合いだったフレディ・マーキュリーであった[8]1970年7月12日のライブより「クイーン」と名乗り始める。何人かのベーシストが加入と脱退を繰り返し[9]、最終的にオーディションで加入したのが、ジョン・ディーコンであった。1971年2月のことである。クイーンの英公式サイトでは、4人が揃った1971年を正式なバンド結成の年としている[10]

初期(1973年)[編集]

1973年7月13日、本国イギリスでデビューアルバム『戦慄の王女』をリリース。その1週間前の7月6日にシングル『Keep Yourself Alive』を先行リリース。日本では、1974年に『戦慄の女王』がリリースされた。『戦慄の王女』リリース当時、母国イギリスでは「ロックなのに曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い」「ディープ・パープルレッド・ツェッペリンイエス[11]の亜流」などとメディアから酷評され、遅れてきたグラムロックバンドと見られることもあった。また、彼らはこのアルバム制作から発売までに2年近くももたつき、後にマーキュリーがインタビューで述べていたように、レコード契約から1年以上待機させられたため「発売時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」という。

黄金期(1974年-1979年)[編集]

1977年、ニューヘイヴン公演。

1974年3月、2ndアルバム『クイーン II』をリリース。イギリスのメディアの評価はいっこうに変わらなかったが、シングル曲「輝ける7つの海」のヒットもあり、アルバムは全英5位まで上がるヒット作になった。このアルバムをきっかけに本格的なブレイクにつながるようになる。

1974年、3rdアルバム『シアー・ハート・アタック』からの先行シングル「キラー・クイーン」が全英2位のヒットとなる(後にマーキュリーは作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する)。また同年、ディープ・パープルモット・ザ・フープルの前座として初のアメリカツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまいツアーの途中でクイーンは降板を余儀なくされる。

1975年2月にカンサススティクスらの前座として再びアメリカツアーを開始する。ツアーは各地で大盛況を得て、「キラー・クイーン」は全米12位まで上昇する。しかしツアーの途中、今度はマーキュリーが喉を痛めてしまう。マーキュリーはしばらく安静状態を強いられたが、その後、回復してツアーを無事終了させる。当時日本ではルックスや煌びやかなサウンドから若い女性を中心に人気を集めており、同年4月に初来日した際には、空港に約1200人のファンが押し寄せ、武道館ライブは成功を収めた。

10月には、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』からの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が全英9週連続1位の大ヒットを記録。当初「6分を超える長い曲などラジオで流してくれない」とレコード会社側は曲のカットを指示したが、マーキュリーとテイラーは知り合いのラジオDJであるケニー・エヴェレットに意見を求めた。エヴェレットはこの曲を気に入り、自身のラジオ番組で2日間で14回も流したという。「ボヘミアン・ラプソディ」はチャリティーでない曲としてはイギリス史上最高の売り上げを記録し、マーキュリーは同曲の世界的ヒットにより2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する。その結果、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』は初の全英1位を獲得、アルバムはクイーンに批判的だったメディアからも非常に高い評価を得た。

フレディ・マーキュリー(1977年)

1976年、軌道に乗ったクイーンはアメリカ、日本、オーストラリアなどで次々とツアーを敢行する。

1977年、自身のレコーディングスタジオで創作活動に専念し、初のセルフ・プロデュースである5枚目のアルバム『華麗なるレース』を発表。これまで以上に分厚いサウンドになっているものの、基本的には『オペラ座の夜』の路線をさらに推し進めた作風となっている。全英2位、全米13位のヒットとなった先行シングル「愛にすべてを」や「懐かしのラヴァー・ボーイ」のほかに、歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」が収録され、アルバムはイギリスや日本で1位を獲得するヒット作となった。

再びセルフ・プロデュースで臨んだ6枚目のアルバム『世界に捧ぐ』では、パンク・ロックが流行しつつあった当時の音楽シーンの流れを意識し、サウンド的にはシンプルな方向へ向かい、トレードマークの一つであったコーラス・パートの全くない曲(「永遠の翼」など)も収録された。アルバムは日本とイギリスで4位止まりだったが、「伝説のチャンピオン」や「ウィ・ウィル・ロック・ユー」がヒットしたアメリカではこれまでの最高位である3位を記録。またヨーロッパの中で唯一、クイーンが苦手としていたフランスで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が12週連続1位となり、13週目には「伝説のチャンピオン」が1位となった。

1978年にはヨーロッパ9カ国でツアーを開催。6年目にして初のフランスでのコンサートも成功を収めた。

7枚目のアルバム『ジャズ』では再びロイ・トーマス・ベイカーを迎え、バラエティに富んだサウンドと楽曲を展開している。「バイシクル・レース」プロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとプロモーションビデオは物議をかもした。「バイシクル・レース」の影響もあり、このアルバムの発売直後にはマスコミは一斉にクイーンを批判したがアルバムは全英2位の大ヒットとなった。このアルバム発売と同年、クイーンはカナダを皮切りに北米ツアーを開催。マーキュリーはステージに上半身ヌード姿で自転車に乗って登場した。

1979年にはヨーロッパツアーを開催。東西冷戦状態であったユーゴスラビアもツアーのプログラムに入っていたことで話題を呼んだ。また、マーキュリーがバレエ好きであったことから国立バレエ団の知的障害者への義援金チャリティ特別公演に出演、マーキュリー自身もバレエを踊った。カンボジア救済チャリティコンサートにも出演し、初日に単独コンサートを開いた。さらに、マーキュリー作の「愛という名の欲望」が全米1位と、アメリカを始め全世界で好成績を収め、ライブ・アルバム『ライヴ・キラーズ』で1970年代を締めくくる。

クイーンのライヴ(1984年、フランクフルト)

第2次黄金期(1980-1986年)[編集]

エルヴィス・プレスリー風の「愛という名の欲望」の大ヒットに続いて、1980年のアルバム『ザ・ゲーム』 も全英・全米ともに1位を記録。またアルバムからシングルカットされ全米1位を記録したディーコン作の「地獄へ道づれ」は、アメリカでの「ファンク」「ソウル」など、ブラックミュージックのチャートでも上位にランクインし、アメリカでのクイーン最大のヒット曲となった。

また、その他のサウンド上の特色として、このアルバムから、シンセサイザーが導入されていることが挙げられる。これは『ザ・ゲーム』制作途中で、同名映画のサウンドトラック『フラッシュ・ゴードン』の録音が挟まった形となったことが、大きな要因となっている。

1981年、初の南米進出となる、ブエノスアイレスでのライブをはじめ、サンパウロではたった2日で観客動員数の記録を更新した。南米でのツアーを終えたメンバーはスイスでレコーディング中に親交を深めていたデヴィッド・ボウイとの共作による「アンダー・プレッシャー」はイギリスやアルゼンチンで1位を獲得するなど世界的にヒットした。さらに、この年発表された『グレイテスト・ヒッツ』は、イギリス史上最も売れたアルバムである。

1982年発表されたアルバム『ホット・スペース』は、「地獄へ道づれ」などがアメリカで成功したことから、マーキュリーとディーコンを中心にファンク、ダンスミュージックの要素をアルバム全編にわたって突き詰めた内容だった。しかしこの方向転換はファンや評論家らから強い反発を受けた。

1983年にはバンドを小休止し、各自ソロ活動に専念した。

その結果、1984年のアルバム『ザ・ワークス』では軌道修正を図り、ファンが待ち望んでいたような楽曲が集まった保守的ともいえる作品に仕上がった。この頃になるとアメリカや日本での人気は落ち着く一方で、テイラー作の「RADIO GA GA」が19ヵ国1位と大ヒットし、またディーコンの「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」が、南米などで「自由へのシンボルとしての曲」と位置づけられるなど、ヨーロッパ圏だけではなく南アメリカやアフリカといった地域でも人気を集めるようになっていった。しかしこの頃から、前述にもあるように各メンバーのソロ活動も盛んとなり、加えてメンバー間の仲も険悪になっていく。

1985年7月13日ライヴエイド出演がなければ、そのまま、本当に解散していたかもしれない」と、後にメンバーも振り返っている。

1985年リオデジャネイロで行われたライブでは、2日で観客動員数60万人という驚異的な記録をつくった。

1985年に行われた20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」では出演アーティスト中最多の6曲を披露、そのパフォーマンスの質の高さにロンドン会場のヘッドライナーを務めたエルトン・ジョンがバックステージで悔しさを顕にし地団駄を踏んだとされる。クイーンの圧倒的なライブは、スタジアムの観客やライブが中継された国々のファンからも絶大な反響があり、世界各国でクイーンのアルバムがチャートを急上昇した。この思わぬ反響を受けてクイーンは新曲のレコーディングを開始し、同年11月にシングル「ワン・ヴィジョン」を発表。メディアはこぞって「ライヴエイドの便乗商売だ」とこれを批判したが、イギリスではチャート7位にランクインした。

1986年、アルバム『カインド・オブ・マジック』を発表し、イギリスを中心に世界中で大ヒットを記録。またアルバム発表後の「マジック・ツアー」では、ヨーロッパ諸国の全26公演で200万人以上の観客を動員。中でもウェンブリー・スタジアムで行われたコンサートは2日間で15万人の観客動員を記録し、8月9日にはイギリスのネブワースパークで観客30万人を記録。ツアーは大成功を収めた。しかし、マーキュリーの容態の悪化に伴い、クイーンの4人が揃ってツアーを行ったのは、これが最後となった。

後期、フレディ・マーキュリーの死(1987年-1991年)[編集]

書籍「フレディ・マーキュリー 華やかな孤独」によれば、ライブ後のパーティーでレズビアン・ショーや、約10人のダンサーによるストリップ・ショーがおこなわれたこともあったという。フレディーの誕生パーティーでは、総額20万ポンド(当時約8千万円)が浪費された。「マジック・ツアー」の成功以来、メンバーは各自ソロ活動を行っていた。

1988年1月にはスタジオに再集結し、アルバムの制作を開始。

1989年5月に、約2年ぶりのアルバム『ザ・ミラクル』を発表。先行シングル「アイ・ウォント・イット・オール」共々、本国イギリスやヨーロッパ各国でビッグ・ヒットを記録し、人気が健在であることを証明。しかし、アルバムにともなうツアーについては、マーキュリーはあっさり否定。一方以前からマーキュリーには「エイズに感染しているのではないか」との噂が飛び交っていたが、当時本人はこれを否定し続けていた。実際にはマーキュリーがエイズに感染していることは1987年頃に判明したといわれているが、その真相は長年ベールに包まれていた。

1991年初頭に、前作からわずか1年あまりで14作目のアルバム『イニュエンドウ』をリリース。サウンド的にはやや初期に戻ったか、ブリティッシュ系ロックバンドをさらに自覚したようなサウンドとなった。タイトル・ナンバーではスティーヴ・ハウによるアコースティック・ギターソロがフィーチャーされた。メンバー以外のミュージシャンがクイーンのスタジオアルバムでギターを演奏したのはこれが最初で最後である。アルバム『イニュエンドゥ』からシングルカットされた「イニュエンドゥ」は全英1位、「ショウ・マスト・ゴー・オン」は全仏2位とシングル面でも大健闘した。しかし、この頃すでにマーキュリーの体は病魔に侵されていた。

輝ける日々」は、マーキュリーの生前最後のミュージックビデオ出演になった。映像では、マーキュリーが見る影もなくやせ衰えていることがわかる。

1991年11月23日、マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて以下の声明文を発表している。

「私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。 しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい」

そして翌24日、フレディ・マーキュリーはHIVによる免疫不全が原因となって引き起こされたニューモシスチス肺炎により45歳という若さで死去。亡くなった1991年は、奇しくもクイーン結成20年目だった。マーキュリーが死んだことによって世界中に衝撃が走り、葬儀会場は世界中から駆けつけたファンの花束で埋め尽くされた。

マーキュリーの死の直後、クイーンのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは「ボヘミアン・ラプソディ」がイギリス史上初の同一曲2度目の1位という記録を打ち立てた。また、マーキュリーの遺言により初登場1位を獲得した作品の収益金はすべてエイズ基金に寄付された。 また、1992年バルセロナオリンピックの開会式でオペラ歌手のモンセラート・カバリェとマーキュリーがデュエットする予定だったが、マーキュリーの急死によりホセ・カレーラスが代役を務めた。

フレディ・マーキュリー死後の活動[編集]

ミュージカル『ウィ・ウィル・ロック・ユー』の新宿公演

クイーンは正式に解散したことはなく、テイラーとメイがそれぞれソロ活動を行ったり、残されたメンバーでクイーン名義でたびたび活動したりしている。ソロ活動においては、メイは、クイーン時代の延長線上に当たる音楽を、一方、テイラーは、クイーンとは異なったアプローチで、それぞれ音楽活動を断続的に続けていた。ディーコンは、あまり目立った活動は行っておらず、後述するように2011年の時点では音楽業界から完全に引退している。

マーキュリー死後から活動再開までの、クイーン名義での主な活動は以下の通り。

フレディ・マーキュリー追悼コンサート(1992年)[編集]

マーキュリーが死去した翌年の1992年2月12日、メンバーからマーキュリーの追悼コンサートが4月20日に開催されることが発表された。出演者は未定だったもののチケットは2時間で完売した。そして同年4月20日に行われたフレディ・マーキュリー追悼コンサートにはロバート・プラントエルトン・ジョンデヴィッド・ボウイメタリカといった大物アーティストが集結し、会場となったウェンブリー・スタジアムには7万人を超えるファンが集まった。世界でも生中継され、元祖クイーン大国・日本でも、NHKでクイーンの歴史を紹介するVTRと共にライブの様子が放送された。

メイド・イン・ヘヴン(1995年)[編集]

フレディ・マーキュリーの死から4年後、マーキュリーが生前最後に残したスタジオレコーディング曲が収録されたアルバム『メイド・イン・ヘヴン』が発売された。クイーンとしてのオリジナルアルバムはこれがラストとなる。「ヘヴン・フォー・エブリワン」や「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」などの各メンバーのソロ曲のリメイク版と、「マザー・ラヴ」や「イッツ・ア・ビューティフル・デイ」などの新曲、合計11曲が収録されている。また、最後にはCDには記されていない22分間のボーナストラックが出現し、マーキュリーへの追悼または天国をイメージさせるような音声が収録されている。アルバムは全世界で1,000万枚近くを売り上げるヒットを記録した。

ジョン・ディーコンの引退(1997年)[編集]

ジョン・ディーコンは、1997年の「ノー・ワン・バット・ユー」の発表を最後に、クイーンとしての活動には一切参加しなくなった。2004年にはテイラーが「ジョンは事実上引退している」と発言したほか、クイーンと付き合いの長い東郷かおる子が寄稿したクイーン+ポール・ロジャース日本公演(2005年)のパンフレットには「音楽業界から引退」と記載された。しかし2002年の「エリザベス女王在位50周年式典」(The Queen's Golden Jubilee)の一環であるロックコンサート以降は、メイとテイラーの二人が「クイーン」名義で出演したため、最低この2人のメンバーが揃うと、「クイーン」のバンド名が使えると解釈しうる。最近のインタビューによると、ディーコンは荒波の音楽業界を嫌い、家族と共に暮らしているとのこと。メイとテイラーがイベントに誘ってもディーコンは一切参加しようとしないが「彼は今でもクイーンの一員だよ」と2人は述べている。

クイーン+ポール・ロジャース(2004年-2009年)[編集]

クイーン+ポール・ロジャース
左からポール・ロジャース、ロジャー・テイラー、ブライアン・メイ

2004年後半、テイラーとメイ(前述のとおり、ディーコンは音楽業界から引退)は、英国音楽殿堂の授賞式での共演をきっかけにして、2005年1月、元フリーバッド・カンパニーヴォーカリストであったポール・ロジャースと組んで、「クイーン+ポール・ロジャース」として活動することを正式に決定した(メイは、それ以前にもロイヤル・アルバート・ホールでの公演など、数回ロジャースと共演していた)。

フレディ・マーキュリーという超個性派ヴォーカリストの後任としてマーキュリーとは似ても似つかない男、ロジャースが選出されたことは世界中から疑問の声が挙がったが、メイは「僕は誰かをフレディの代役に立てるという意見にはずっと反対だった。でもフレディの代わりを務めようなんてこれっぽっちも思っていない男に出会ったんだ。ポールは彼だけの色を持ったフレディには似ても似つかない男さ」と述べた。『愛にすべてを』をカヴァーしたジョージ・マイケル、『伝説のチャンピオン』をカヴァーしたロビー・ウィリアムズなどがクイーンの新ヴォーカルに相応しいのではないかという意見があった。実際、メンバーもウィリアムズをクイーンの新ヴォーカルとして迎え入れる話はしていたそうだが「やはり違う気がする」ということでロジャースを選出した。

ヨーロッパツアーのチケットはソールドアウト、来日公演は、さいたま横浜名古屋福岡で行われ、10万人を動員するなど、各地で大成功を収めた。2006年にはクイーン名義では24年ぶりの全米ツアーも成功させる。10月には「クイーン+ポール・ロジャース」としてスタジオ入りするとメイのホームページで宣言され、2008年にはニューアルバム『ザ・コスモス・ロックス』(The Cosmos Rocks)が発売され、それに伴うヨーロッパ・南米ツアーを行っていたのだが、2009年、ロジャースは「クイーン+ポール・ロジャース」としての活動に終止符を打ちバッド・カンパニーの再始動に移行した[12]

その後の活動(2010年-2012年)[編集]

この時期クイーンとしての表立った活動はなかったが、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの2人によって今もバンドは存続しており、日刊スポーツの取材に対してテイラーは「クイーンは永久に続ける」と誓っている[13]

2011年にクイーン結成40周年を記念して、音源をクリアにしたリマスター盤のオリジナルアルバムおよびベストアルバムが随時発売されているが、7月現在まだ3分の1ほどしかリリースしていないにも関わらず、日本円にして56億7600万円以上もの売上を記録し、改めて未だ人気が衰えていないことを証明した。 さらにメイとテイラーによると「今、フレディとマイケル・ジャクソンが共同制作した大量の未発表音源をいじっているんだけど、近いうちに2人のコラボアルバムが発売できたらいいなと思うんだ」と述べており、世紀のスーパースターであるフレディ・マーキュリーとマイケル・ジャクソンのコラボアルバム発表間近かと世界中で注目されている。ちなみに先日行われたNMEの「世界最高のヴォーカリストは?」という1000万人以上を対象とした大規模アンケートで1位にジャクソン、2位にマーキュリーが輝き、この2人が他のアーティストを大きく離していたことが発表された。

メイはイギリスの女性ミュージカル歌手ケリー・エリスとアルバムを制作したり、全英ツアーを行ったりと相変わらず積極的な音楽活動を続けている。 また、2011年5月23日に発売された世界的ポップスシンガーであるレディー・ガガの3rdアルバム『ボーン・ディス・ウェイ』にメイとのコラボ曲「ユー・アンド・アイ」が収録された[14]。 メイはバックボーカルとリードギターで参加している。2011 MTV Video Music Awardsでは、男装したガガとメイがステージ上で「ユー・アンド・アイ」を披露し、ガガの受賞が発表された際には2人が抱擁する場面が映し出された。

このことをきっかけにガガの実力を確信したメイは、NMEのインタヴューでクイーンの新ヴォーカル候補として彼女の名前を挙げている。この提案には、熱烈なクイーンファンであるガガの方も乗り気なようで、近いうちにガガがクイーンのメンバーに加入する可能性がある。しかし唯一無二のヴォーカリスト、マーキュリーの存在は大きく、抜群の歌唱力を誇るポールが加入した時でさえファンから複雑な反応を受けたため、メイは「テレビの特番でいろんなアーティストをヴォーカルに迎えて演奏してみたい」と付け加えており、新ヴォーカリスト選びには慎重な姿勢を見せている。一方、テイラーの方は「2012年ロンドンオリンピックに合わせてポールともう一度組む可能性がある」と発言しており、今後どのような形でクイーンとしての活動を進めていくのかが注目されている。さらにテイラーは2012年に一般応募から選考した若い才能のある歌手を迎えて、クイーンのトリビュートツアー Queen Extravaganza を北米で行っている。また、前述のようにクイーンがロンドンオリンピック関係でメディアに露出することが確認されており、メイもインタヴューで五輪の閉会式にクイーンが参加するという趣旨の内容をほのめかしていた。2012年8月12日に行われたロンドンオリンピック閉会式にジェシー・Jと共に参加した。

クイーン+アダム・ランバート(2012年-)[編集]

クイーン+アダム・ランバート
左からロジャー・テイラー、アダム・ランバート、ブライアン・メイ

2009年、ブライアン・メイとロジャー・テイラーはアメリカのオーディション番組『アメリカン・アイドル』にゲスト出演する。シーズン8の結果発表の前にふたりの演奏で最終候補者のクリス・アレンアダム・ランバートが「伝説のチャンピオン」を熱唱する。ブライアン・メイとロジャー・テイラーがアダム・ランバートのボーカルに惚れこみ、その場でクイーンへの参加を打診したと伝えられている。その件に関してその気があるのかとAP通信がランバートに聞いたところ「それは難しい質問だね。だって、正直クイーンにならないかっていう申し出をどう断ったらいいんだ?そんなの信じられないよ!でも、今、自分でやりたいこともあって、それが僕の目標でもあるんだ。だから、できることなら両方やってみたいね」と述べている。

2011年、クイーンがMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードでグローバル・アイコン賞を受賞。ブライアン・メイとロジャー・テイラーはアダム・ランバートと再共演し「ショウ・マスト・ゴー・オン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」の3曲をメドレーで披露した。

2012年、6月から7月にかけてウクライナロシアポーランドイギリスの4都市で6公演を行った。2013年の活動は「iHeartRadio Music Festival 2013」への出演だけだったが、2014年には6月から7月にかけて24公演の北米ツアーを行い、8月には「SUMMER SONIC 2014」のヘッドライナーとして来日公演を行った。

アダム・ランバートはクイーンとの共演について「僕の見方としては僕はフレディの代わりを演じるつもりも、フレディの上を行くつもりも、フレディと競うつもりもまったくないし、そんなことはまるで考えてないんだ。フレディとバンドとで書いた音楽を歌って、それをステージに持っていっていいショーをやるように請われたってことはすごく光栄なことだと、そう思ってるんだ。でも、観てるみんなが比較することばかりに気を取られると、きっとライヴを楽しめなくなるとも思うよ」と語っている。

アダム・ランバートをフロントマンに迎え活動を継続することに不満を持つファンについては、メンバーは「フレディ・マーキュリーも承認したと思う」とアダムの起用を擁護している[15]

クイーンの関連人物[編集]

クイーンと交友のあったアーティスト[編集]

エルトン・ジョン
イギリスを代表するアーティストで、クイーンとは同期。かつて、クイーンと同じ人物からマネジメントを受けていた。マーキュリーの死後、長年バンドとしての活動を行っていなかったクイーンを、エルトンは「車庫に入ったフェラーリ」と評した。1992年のマーキュリーの追悼コンサートでは「ボヘミアン・ラプソディ」を、1997年には「ショウ・マスト・ゴー・オン」をクイーンと演奏した。「ショウ・マスト・ゴー・オン」に関してはエルトンも気に入っているらしく、自身のライブで度々カバーしている。
マイケル・ジャクソン
ジャクソンがフレディマーキュリーのファンであり、度々クイーンのライブを見に来ていたことから、メンバーとの交友が始まった。1980年前後からマーキュリーとジャクソンの互いの声質や衣装に影響が見られる。クイーンの楽曲「地獄へ道づれ」は、もともとジャクソンに提供した曲であったが、ジャクソンのプロデューサーのクインシー・ジョーンズが難色を示したため、結局クイーンが歌うことになった[16]。しかし、メンバー内ではマーキュリーと曲を制作したディーコンの「シングルカット派」と、メイとテイラーの「アルバムのトラック派」で意見が割れていた。ジャクソンは「この曲は絶対に出すべきだ」と助言をしたが、クイーンのイメージに合わないディスコ調に違和感を覚えていたテイラーは「あの曲は絶対にヒットになんかならないんだから。どこまで勘違いしたら気が済むんだ!」と反論したという。結局、シングル発売された「地獄へ道づれ」は世界中でヒットナンバーとなり、これを受けてジャクソンはアルバム『スリラー』以降、ジョーンズに対する発言力が強くなったと言われる(しかし「地獄へ道連れ」はその後、一時期クイーンを低迷期に導く火種となってしまったため、テイラーの推測も当たっていたことになる)。ジャクソンのアルバム『スリラー』は6500万枚以上売れる超ヒット作となったが、マーキュリーがインタビューでの「あのアルバムに俺とマイケルの曲が入っていれば大金持ちになれたのに」という冗談を、ジャクソンが真に受けてショックを受けてしまったというエピソードがある。なおジャクソンとミック・ジャガーのコラボ曲「ステイト・オブ・ショック」は元々、マーキュリーとのコラボレーションアルバムに収録させる予定であったが、ジャクソンがスタジオにラマを連れてきたことに憤慨したマーキュリーが帰国してしまったことで完成せず頓挫した。この一連の出来事ののち、クイーンとの交友は絶たれることとなった(それに加え、1986年から1989年にかけてジャクソンはアルバム制作やワールド・ツアーを行っていたため、単に多忙で交友できる時間がなかったとも考えられる)。しかし、1997年にリリースされたジャクソンの楽曲「ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス」は、クイーンの楽曲「ウィ・ウィル・ロック・ユー」からヒントを得て制作されたという秘話が残っている。
デヴィッド・ボウイ
イギリスのグラム・ロッカー。モントルーでクイーンのメンバーと親しくなり、1981年にクイーンと「アンダー・プレッシャー」を共作・レコーディングし、全英1位を獲得した。マーキュリーの追悼コンサートではユーリズミックスアニー・レノックスと「アンダー・プレッシャー」を披露した。また、ボウイはテイラーが尊敬しているシンガーの1人でもある。
ジョージ・マイケル
イギリスの人気グループ、ワム!のヴォーカリストで、ソロでも成功したシンガー。かつて、マーキュリーと同じ人物からボイストレーニングを受けていたことがある。マーキュリーの追悼コンサートでは、クイーンと「愛にすべてを」を披露し、あまりの完成度の高さに「ジョージを加えて新生クイーンが誕生するのではないか」とまで噂が立った。そのあと、クイーンとマイケルによる「愛にすべてを」のライヴ演奏はシングル発売され、全英1位を獲得した。
ポール・ロジャース/Paul Rodgers
フリーのボーカリストで、フリーの解散後にレッド・ツェッペリンのメンバーとバンドを組んだこともあった。2004年〜2009年にかけてメイ&テイラーと共に「クイーン+」名義で活動した。現在はバッド・カンパニーで活動中。

クイーンが影響を受けたバンドやアーティスト[編集]

好んでいた[編集]

ビートルズ
世界で最も成功したロックバンド。特にジョン・レノンからの影響は大きかった。レノンが暗殺された翌日のコンサートで、彼の代表曲「イマジン」をカヴァーしたり、アルバム「ホット・スペース」にレノンの追悼曲を収録している。また、70年代後半に、レノンがクイーンの楽曲「愛という名の欲望」を聴いて再び創作意欲が湧いたという秘話が残っている。
ジミ・ヘンドリックス
27歳という若さで夭折した伝説のギタリスト。右利き用のギターを逆さまにして左利きの構えで演奏するスタイルで知られる。ギターを歯や背中で弾いたり、火を放ったり破壊したりするパフォーマンスで有名。彼の個性的なギターの演奏法やステージパフォーマンスは、マーキュリーやメイが影響を大きく受けている。特にマーキュリーはライブに足を運ぶほどの熱狂的なファンであり、14日連続でヘンドリックスのライブを観たこともある。
エルヴィス・プレスリー
1977年に42歳という若さで亡くなったプレスリーも、クイーンに大きな影響をもたらしている。1974年1985年ほどまでは、プレスリーの楽曲「監獄ロック」をカバーしている。

嫌っていた[編集]

カーペンターズ/The Carpenters
アメリカの兄妹ポップスデュオであり、クイーンのプロフィールに「嫌いなアーティスト」として彼らの名前が挙げられていた。共に駆使していた多重録音に対する考え方の違いであったと言われている。
シド・ヴィシャス/Sid Vicious
イギリスのパンクロックバンド、セックス・ピストルズの2代目ベーシストであり、かつてクイーンと同じスタジオでアルバムを制作していた。この当時、事務所を通さず雑誌取材に応じたマーキュリーの写真をタブロイド紙が悪意のあるキャプション付きで記事にしたのを読んだヴィシャスが、クイーンがレコーディングをしている最中のスタジオの調整室に乱入。マーキュリーに対し「バレエを大衆に広めるのに成功したか?」と絡んだため、マーキュリーは「シドの名前をサイモン・フェロシアスとワザと間違えて呼びながら襟首を掴んでスタジオから追い出した」と、本人及びスタジオ関係者の証言がドキュメンタリー番組に残されている(クイーン デイズ・オブ・アワー・ライブス)

クイーンと日本の関係[編集]

フレディ・マーキュリーのサイン

初来日の際、空港にファン1200人が集結しパンク状態になった。そしてメンバーは会見を行い芸子らから茶を提供されたり、ファンからもらったけん玉で遊んだりするなどして日本文化を満喫し、日本武道館公演では着物を着て演奏し成功を収めた。初来日の際、ロジャーとブライアンは2人だけで東京タワーへ観光に行ったところ多くの子供に「クイーン! クイーン!」とサインをせがまれながら囲まれ、その後結局ホテルで缶詰状態だったという。1977年には少女漫画雑誌『花とゆめ』10号に、バンド結成から来日公演までを描いた「キングスロードに赤いバラ」(みかみなち『上を下へのロックンロール』収録。白泉社)が掲載された。

メンバーはツアー以外にも何度かプライベートで来日しており、とくに日本文化に関心があり、美術学校で学んだ経験もあったフレディは伊万里焼九谷焼等を趣味で収集しており、それらの目利きもできたという。また、自宅の庭に日本庭園を造らせたりしていた。ブライアンは来日した際、日本のが気に入ったが、大きすぎて持ち帰れないことに非常に残念がっていたという。また、新宿にはフレディの行きつけのゲイバーがあり、度々通っていたと思われる[17]

2004年にはフジテレビのドラマ『プライド』の主題歌にクイーンの楽曲「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」が使用され、日本独自のベストアルバム『ジュエルズ』がオリコンチャート1位を獲得し、180万枚を売り上げる大ヒットを記録、「第2次クイーンブーム」が起こった。クイーンはその年の日本ゴールド・ディスク大賞海外部門を受賞する。これによりクイーンを知らなかった若年層のファンも増え、日本でのクイーン人気はさらに上昇した。これについてメイは「クイーンのベストアルバムが日本で売れていることを聞いてとても驚いています。クイーンが日本にとって外国アーティストの中では大きな存在だということは知っていましたが、日本の音楽史の中ではクイーンは小さい存在だと思っていました。けれども今回のヒットで日本の大物アーティストと肩を並べられてとてもうれしいです」と語っている。

記録[編集]

  • ギネス・ワールド・レコーズによると、2005年時点で、クイーンのアルバムは、全英アルバムチャートで合計1,422週、つまり27年間チャートインしている。これはビートルズエルヴィス・プレスリーといったアーティストを200週近く上回って歴代第1位であり、世界で最も英国チャートにランクインし続けたアーティストに認定された。
  • 前期のベストアルバムである『グレイテスト・ヒッツ』は、2018年までに英国内だけで約610万枚を、後期のベストアルバムである『グレイテスト・ヒッツII』も英国のみで約390万枚を売り上げているなど、国内セールスだけをとっても破格のチャート・アクションをみせている。ちなみに『グレイテスト・ヒッツ』は英国アルバムチャートで562週(約10年間)に渡りチャートインし、全世界では2500万枚以上を売り上げた。英国での『グレイテスト・ヒッツ』の売り上げは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』やオアシスの『モーニング・グローリー』、アデルの『21』などの英国を代表するアーティストのアルバムを抑えて歴代1位を記録している[18]
  • クイーンは全世界の異なる国で、ナンバーワンのアルバムとナンバーワンのシングルをそれぞれ18枚、またトップテンのアルバムを26枚、トップテンのシングルを36枚、ナンバーワンのビデオを10枚保持している。
  • 2007年1月に、クイーンの『グレイテスト・ヒッツI&II』が、北米iTunesダウンロードチャートで第1位を獲得した。
  • クイーンを代表する楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」は1975年に英国で9週連続1位となり、その後数週間に渡ってトップ10にランクイン。世界中の国々でも1位を連発した。さらに、マーキュリーの死後の1991年には、英国史上初の「同一曲2度目の第1位」を獲得した(5週連続1位)。英国で現在までに約254万枚のセールスを記録しており、エルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウインド〜ダイアナ元英皇太子妃に捧ぐ」(493.5万枚)、バンド・エイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(380.2万枚)に次いで、英国史上三番目に売れたシングルとなっている。2002年ギネス・ワールド・レコーズが調査した「英国史上最高のシングルは?」というアンケートでは、「イマジン」(ジョン・レノン)、「ヘイ・ジュード」(ビートルズ)を抑えて「ボヘミアン・ラプソディ」が第1位となり、イギリスで最も愛される曲に認定された。ギネスの授賞式ではメイとテイラーが出席し、ファンに感謝の言葉を述べた。また、この曲は世界で初めてプロモーションビデオを制作した曲であると認識されている。
  • 1980年に発表したシングル「地獄へ道づれ」は全世界で700万枚以上売り上げ、アメリカの『キャッシュボックス』誌の年間チャートでは1位に輝いた。
  • 2004年、「クイーン+ポールロジャース」名義で再始動したクイーンがさらに売り上げを伸ばし、2005年にイギリスで最も売れたアーティスト第3位にランクアップした。これにより、それまで長年の間不動の地位を保ち続けたビートルズを4位に落としたことになる[19]
  • 2002年、イギリス国民の投票によって決定した「100名の最も偉大な英国人」にフレディ・マーキュリーが選出された。
  • クイーンは中東や南米などの発展途上国でも著しい人気を誇っており、世界で最も海賊版が出回っているアーティストとされる。2012年現在、クイーンの海賊版ウェブサイトを12,225個確認。
  • クイーンはメンバー全員が作詞作曲能力に優れており、世界で唯一メンバー全員がチャート1位を獲得した作品を持っているロックバンドである。
  • 1973年から運営されているクイーンのオフィシャルファンクラブは、数々のロックバンドのファンクラブの中でも最も長く続いているファンクラブである。
  • 1986年ウェンブリースタジアムで行われたカインド・オブ・マジックのツアーのコンサートでは、世界中から50万人ものチケットを求める要望があり、2日間で15万人を動員した。また、1981年ブラジルのモルンビースタジアムで行ったライブでは13万人を動員。1組のバンドが1回の公演で動員した観客数で当時のギネス記録を樹立した。
  • 1985年に出演したブラジルのロックフェス「ロック・イン・リオ」では2日で60万人を動員。1969年に開催された「ウッドストック・フェスティバル」の40万人を2日で打ち破った。

ディスコグラフィ[編集]

オリジナル・アルバム[編集]

  1. 戦慄の王女 - Queen (1973年)
    • 英24位 ゴールド、米83位 ゴールド、世界総売り上げ250万枚
  2. クイーン II - Queen II (1974年)
    • 英5位 ゴールド、米49位 ゴールド、世界総売り上げ250万枚
  3. シアー・ハート・アタック - Sheer Heart Attack (1974年)
    • 英2位 プラチナム、米12位 ゴールド、世界総売り上げ350万枚
  4. オペラ座の夜 - A Night at the Opera (1975年)
    • 英1位 プラチナム、米4位 3xプラチナム、世界総売り上げ1,000万枚
  5. 華麗なるレース - A Day at the Races (1976年)
    • 英1位 ゴールド、米5位 プラチナム、世界総売り上げ400万枚
  6. 世界に捧ぐ - News of the World (1977年)
    • 英2位 ゴールド、米3位 4xプラチナム、世界総売り上げ900万枚
  7. ジャズ - Jazz (1978年)
    • 英2位 プラチナム、米6位 プラチナム、世界総売り上げ450万枚
  8. ザ・ゲーム - The Game (1980年)
    • 英1位 ゴールド、米1位 4xプラチナム、世界総売り上げ800万枚
  9. フラッシュ・ゴードン - Flash Gordon (1980年)
    • 英10位 プラチナム、米23位、世界総売り上げ250万枚
  10. ホット・スペース - Hot Space (1982年)
    • 英3位 プラチナム、米22位 ゴールド、世界総売り上げ300万枚
  11. ザ・ワークス - The Works (1984年)
    • 英1位 2xプラチナム、米23位 ゴールド、世界総売り上げ450万枚
  12. カインド・オブ・マジック - A Kind of Magic (1986年)
    • 英1位 2xプラチナム、米46位 ゴールド、世界総売り上げ550万枚
  13. ザ・ミラクル - The Miracle (1989年)
    • 英1位 プラチナム、米24位、世界総売り上げ450万枚
  14. イニュエンドウ - Innuendo (1991年)
    • 英1位 プラチナム、米30位 ゴールド、世界総売り上げ550万枚
  15. メイド・イン・ヘヴン - Made in Heaven (1995年)
    • 英1位 4xプラチナム、米58位 ゴールド、世界総売り上げ950万枚

ライブ・アルバム[編集]

  1. ライヴ・キラーズ - Live Killers (1979年)
    • 英3位 ゴールド、米16位 2Xプラチナム、世界総売り上げ350万枚
  2. ライヴ・マジック - Live Magic (1986年)
    • 英3位 プラチナム、米未発売、世界総売り上げ300万枚
  3. 女王凱旋! 〜戦慄のライヴ・クイーン〜 - Queen at the Beeb (1989年)
    • 英67位、※英国のみ発売
  4. クイーン・ライヴ!!ウェンブリー1986 - Live at Wembley '86 (1992年)
    • 英2位 プラチナム、米53位 プラチナム、世界総売り上げ450万枚
  5. オン・ファイアー/クイーン1982 - Queen on Fire – Live at the Bowl (2004年)
    • 英20位 ゴールド、世界総売り上げ100万枚
  6. 伝説の証/クイーン1981 - Queen Rock Montreal (2007年)
    • 英20位
  7. ハンガリアン・ラプソディ〜クイーン・ライヴ・イン・ブダペスト‘86 - Hungarian Rhapsody: Queen Live in Budapest (2012年)
  8. ライヴ・アット・ザ・レインボー‘74 - Live at the Rainbow '74 (2014年)
    • 英11位
  9. オデオン座の夜〜ハマースミス1975 - A Night at the Odeon – Hammersmith 1975 (2015年)
    • 英40位
  10. オン・エア〜BBCセッションズ - On Air (2016年)
    • 英25位

コンピレーション・アルバム[編集]

  1. グレイテスト・ヒッツ - Greatest Hits (1981年)
    • 英1位 20xプラチナム、米14位 8xプラチナム、世界総売り上げ2,750万枚
  2. グレイテスト・ヒッツII - Greatest Hits II (1991年)
    • 英1位 13xプラチナム、世界総売り上げ2,200万枚
  3. クイーン・ロックス - Queen Rocks (1997年)
    • 英7位 プラチナム、世界総売り上げ200万枚
  4. グレイテスト・カラオケ・ヒッツ(1998年)
  5. グレイテスト・ヒッツIII 〜フレディー・マーキュリーに捧ぐ〜 - Greatest Hits III (1999年)
    • 英5位 2xプラチナム、世界総売り上げ300万枚
  6. クイーン・イン・ヴィジョン(2000年)
    • ※日本限定発売、16.7万枚
  7. クイーン・プラチナム・コレクション - The Platinum Collection: Greatest Hits I, II & III (2000年)
    • 英2位 6xプラチナム、米9位 2xプラチナム、世界総売り上げ450万枚
  8. ジュエルズ(2004年)
    • ※日本限定発売、170万枚
  9. ジュエルズII(2005年)
    • ※日本限定発売、6.8万枚
  10. 伝説のチャンピオン〜アブソリュート・グレイテスト - Absolute Greatest (2009年)
    • 英3位 2xプラチナム、米195位、世界総売り上げ90万枚
  11. アイコン - Icon
    • ※日本未発売
  12. クイーン・フォーエヴァー - Queen Forever (2014年)
    • 英5位 ゴールド、米38位
  13. ボヘミアン・ラプソディ (オリジナル・サウンドトラック) - Bohemian Rhapsody: The Original Soundtrack (2018年)
    • 英3位、米3位、世界総売り上げ272.7万枚

シングル[編集]

  1. 炎のロックンロール - Keep Yourself Alive (1973年)
  2. ライアー - Liar (1973年)
  3. 輝ける7つの海 - Seven Seas of Rhye (1974年)
  4. キラー・クイーン - Killer Queen (1974年)
  5. ナウ・アイム・ヒア - Now I'm Here (1974年)
  6. ボヘミアン・ラプソディ - Bohemian Rhapsody (1975年)
  7. マイ・ベスト・フレンド - You're My Best Friend (1976年)
  8. 愛にすべてを - Somebody To Love (1976年)
  9. タイ・ユア・マザー・ダウン - Tie Your Mother Down(1977年)
  10. 手をとりあって- Teo Torriatte (Let Us Cling Together) - Teo Torriatte (Let Us Cling Together) (1977年)
    • ※日本限定発売
  11. 懐かしのラヴァー・ボーイ - Good Old-Fashioned Lover Boy (1977年)
  12. ロング・アウェイ - Long Away (1977年)
  13. 伝説のチャンピオン / ウィ・ウィル・ロック・ユー - We Are the Champions / We Will Rock You (1977年)
  14. 永遠の翼 - Spread Your Wings (1978年)
  15. イッツ・レイト - It's Late (1978年)
  16. バイシクル・レース / ファット・ボトムド・ガールズ - Bicycle Race / Fat Bottomed Girls (1978年)
  17. ドント・ストップ・ミー・ナウ - Don't Stop Me Now (1979年)
  18. ジェラシー - Jealousy (1979年)
  19. ラヴ・オブ・マイ・ライフ (ライヴ) - Love of My Life (Live) (1979年)
  20. 愛という名の欲望 - Crazy Little Thing Called Love (1980年)
  21. セイヴ・ミー - Save Me (1980年)
  22. プレイ・ザ・ゲーム - Play the Game (1980年)
  23. 地獄へ道づれ - Another One Bites the Dust (1980年)
  24. 夜の天使 - Need Your Loving Tonight (1980年)
  25. フラッシュのテーマ - Flash (1980年)
  26. アンダー・プレッシャー (with デヴィッド・ボウイ) - Under Pressure (with David Bowie) (1981年)
  27. ボディ・ランゲージ - Body Language (1982年)
  28. ラス・パラブラス・デ・アモール (愛の言葉) - Las Palabras de Amor (The Words of Love) (1982年)
  29. コーリング・オール・ガールズ - Calling All Girls (1982年)
    • ※アメリカ、カナダ、オーストラリア限定発売
  30. ステイング・パワー - Staying Power (1982年)
    • ※日本、アメリカ限定発売
  31. バック・チャット - Back Chat (1982年)
  32. RADIO GA GA - Radio Ga Ga (1984年)
  33. ブレイク・フリー (自由への旅立ち) - I Want to Break Free (1984年)
  34. 永遠の誓い - It's A Hard Life (1984年)
  35. ハマー・トゥ・フォール - Hammer To Fall (1984年)
  36. サンク・ゴッド・イッツ・クリスマス - Thank God It's Christmas (1984年)
  37. ワン・ヴィジョン - One Vision (1985年)
    • 日本では「ONE VISION-ひとつだけの世界-」というタイトルで発売された[20]
  38. カインド・オブ・マジック - A Kind of Magic (1986年)
  39. プリンシス・オブ・ザ・ユニヴァース - Princes of the Universe (1986年)
  40. 愛ある日々 - One Year of Love (1986年)
  41. 心の絆 - Friends Will Be Friends (1986年)
  42. 喜びへの道 - Pain Is So Close to Pleasure (1986年)
  43. リヴ・フォーエヴァー - Who Wants to Live Forever (1986年)
  44. アイ・ウォント・イット・オール - I Want It All (1989年)
  45. ブレイクスルー - Breakthru (1989年)
  46. インビジブル・マン - The Invisible Man (1989年)
  47. スキャンダル - Scandal (1989年)
  48. ザ・ミラクル - The Miracle (1989年)
  49. イニュエンドウ - Innuendo (1991年)
  50. 狂気への序曲 - I'm Going Slightly Mad (1991年)
  51. ヘッドロング - Headlong (1991年)
    • 日本では1991年10月16日にマキシシングルとして、当時未発表だった2曲をカップリングに追加した「ヘッドロング+2」として発売された[21]
  52. アイ・キャント・リヴ・ウィズ・ユー - I Can't Live With You (1991年)
    • プロモーションシングル。
  53. 輝ける日々 - These Are The Days Of Our Lives (1991年)
  54. ショウ・マスト・ゴー・オン - The Show Must Go On (1991年)
  55. ヘヴン・フォー・エヴリワン - Heaven for Everyone (1995年)
  56. ウインターズ・テイル - A Winter's Tale (1995年)
  57. トゥー・マッチ・ラヴ・ウィル・キル・ユー - Too Much Love Will Kill You (1996年)
  58. ボーン・トゥ・ラヴ・ユー - I Was Born To Love You (1996年)
    • ※日本限定発売。2004年1月27日に再発売された[24]
  59. レット・ミー・リヴ - Let Me Live (1996年)
  60. ユー・ドント・フール・ミー - You Don't Fool Me (1996年)
  61. ノー・ワン・バット・ユー - No-One but You (Only the Good Die Young) (1997年)
  62. アンダー・プレッシャー (Rah Mix) (with デヴィッド・ボウイ) - Under Pressure (Rah Mix) (with David Bowie) (1999年)

映像作品[編集]

2018年に公開された映画ボヘミアン・ラプソディの広告

日本公演[編集]

4月19日 日本武道館4月22日 愛知県体育館4月23日 神戸国際会館4月25日 福岡市九電記念体育館4月28日 岡山県体育館4月29日 ヤマハつま恋 エキジビジョンホール、4月30日 横浜文化体育館5月1日 日本武道館

関連項目[編集]

関連記事[編集]

史上最も売り上げたミュージックアーティスト一覧(List of best-selling music artists)英字版wiki

脚注・出典[編集]

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  1. ^ a b c d Queen reviews, music, news”. sputnikmusic. Sputnikmusic.com. 2017年2月10日閲覧。
  2. ^ a b c d “Queen(クイーン)の情報”. Real Sound. http://realsound.jp/artist/name/queen/ 2017年2月10日閲覧。 
  3. ^ Queen + Adam Lambert to perform in Budapest” (英語). Daily News Hungary (2017年4月20日). 2019年3月31日閲覧。
  4. ^ St, 24/7 Wall. “The 100 most popular rock bands of all time”. Business Insider. 2019年1月31日閲覧。
  5. ^ ローリングストーン誌の「最も偉大なアーティスト100」(2011年選出)”. Music & Move. 2019年4月8日閲覧。
  6. ^ Chiu, David (2018年11月5日). “The History of Smile: The Band That Set the Stage for Queen”. Ultimate Classic Rock. 2018年12月12日閲覧。
  7. ^ パトリック・ルミュー(Patrick Lemieux) (2018年11月27日). “クイーンの前身バンド「スマイル」の中心メンバー、ティム・スタッフェルのインタビューを掲載”. ユニバーサル・ミュージック・ジャパン. 2018年12月11日閲覧。
  8. ^ Nolasco, Stephanie (2018年11月10日). “Freddie Mercury's pal Tim Staffell says 'Bohemian Rhapsody' was 'the right way to do it'”. FOXニュース. 2018年12月12日閲覧。
  9. ^ Blake, Mark (2011年3月31日). “Is This the Real Life?: The Untold Story of Queen”. popmatters. 2018年12月14日閲覧。
  10. ^ Queen Official "About The Band"
  11. ^ 余談ではあるが、イエスのメンバーであるスティーヴ・ハウが「イニュエンドウ」でゲスト参加している。
  12. ^ http://brianmay.com/queen/queennews/queennewsmay09a.html#01
  13. ^ クイーン結成40周年展覧会 初日から人気
  14. ^ http://www.ladygagajapan.com/2011/04/19/lady-gaga-japan-6026
  15. ^ クイーン「僕らはトリビュート・バンドじゃない」 2015年01月13日
  16. ^ TBSラジオ「小島慶子 キラ☆キラ」2009年6月17日放送分の宇多丸発言より
  17. ^ 2010年7月9日(金)08:15 - 09:55 放送のNHK総合テレビ『あさイチ』の番組中でグッチ裕三が、新宿二丁目にフレディの馴染みのゲイバーがあったことに言及した -- プレミアムトーク 寺脇康文」『あさイチ』、NHK、2010年7月9日、2010年7月14日閲覧。
  18. ^ en:List_of_best-selling_albums_in_the_United_Kingdom
  19. ^ http://www.barks.jp/news/?id=1000016087
  20. ^ Queen ‎– One Vision”. Discogs. 2019年2月12日閲覧。
  21. ^ クイーン / ヘッドロング+2”. CDジャーナル. 2019年2月6日閲覧。
  22. ^ Queen ‎– Bohemian Rhapsody / These Are The Days Of Our Lives”. Discogs. 2019年2月7日閲覧。
  23. ^ Queen ‎– Bohemian Rhapsody / These Are The Days Of Our Lives (CD, Single)”. Discogs. 2019年2月7日閲覧。
  24. ^ I Was Born To Love You : Queen”. HMV&BOOKS online. 2019年2月6日閲覧。
  25. ^ About.com (2008年6月10日). “Lady Gaga Interview - Interview with Lady Gaga”. 2014年11月18日閲覧。

外部リンク[編集]