ジョン・ディーコン

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ジョン・ディーコン
John Deacon (1977).jpg
ジョン・ディーコン(1977年)
基本情報
出生名 John Richard Deacon
生誕 (1951-08-19) 1951年8月19日(66歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド レスターシャーオードビー
ジャンル ロック
ハードロック
ポップス
職業 ミュージシャン
ソングライター
担当楽器 ベース
ギター
キーボード
活動期間 1965年 - 1997年
共同作業者 クイーン
著名使用楽器
ミュージックマン・スティングレイ
フェンダー・プレシジョンベース

ジョン・リチャード・ディーコンJohn Richard Deacon、1951年8月19日 -)は、イギリスミュージシャンロックバンドクイーンベーシスト。「マイ・ベスト・フレンド」、「地獄へ道づれ」、「ブレイク・フリー (自由への旅立ち)」などのヒット曲を作詞・作曲した。

現在は音楽活動から事実上引退している。

人物[編集]

クイーンのオリジナルメンバーの中で最年少。温厚な人柄で、メンバー間の衝突で訪れたバンド解散の危機を幾度も救った。ベース以外にもピアノなどの演奏も出来るマルチプレイヤーである。また、ドラムも少々たしなむ。クイーンのメンバーでは、一番多くの子をもうけた。

クイーンのボーカルであるフレディ・マーキュリーを1人のアーティストとして尊敬しており、「クイーンのボーカルはフレディしかいない」と発言している。また、彼自身が歌うことやコーラスをとることは少なく「自分は音痴だ」とも語っている(ライブやミュージックビデオ内で歌っているような姿が見えるが、口パクであることがほとんどである)。

電子系の大学を卒業しており機械関係に強かったため、ブライアン・メイや自身のエフェクターやアンプをたびたび作製したり改造するなど、演奏や作曲以外でもサウンド面でバンドに貢献していた。中でも、メイが使用していたディーコン作製のオリジナル・アンプ、通称“DEACY AMP(ディーキー・アンプ)”は、ギター・レッド・スペシャルとエフェクターとギターテクニックの組み合わせにより七色のサウンドを出すことが可能だった。

経歴[編集]

幼少期、クイーン加入まで[編集]

レスターシャーオードビーに生まれ育つ。7歳の頃に両親から買い与えられた、おもちゃのギターから音楽に興味を持つ。音楽と並行して機械いじりにも興味を示し、無線装置などで遊んでいたという。この機械に対する興味が後々、彼の進路と音楽活動に影響を与える。新聞配達で稼いだ金銭でアコースティック・ギターを購入したのが本格的な音楽活動の第一歩である。14歳から「ジ・オプジション」というバンドにリズムギターで加入するが、そこにいたベーシストがバンドのレベルに次第についていけなくなったため脱退し、ディーコンがベースに転向する。後に同じ名のバンドが現れたため「ザ・ニュー・オプジション」さらに「ジ・アート」と改名する。このバンドはディーコンがロンドン大学のチェルシー・カレッジ (en電子工学科に入学するまで続けられた。大学に入ってからは学業に専念し、チェルシー・カレッジを首席で卒業、名誉学位を与えられる。

ディーコンは大学在籍時から友人と趣味程度のバンドを組むが、数回の活動で終わってしまう。その後、いくつかのバンドのオーディションを受けるがすべて落選。そうした中、1971年1月に友人のクリスティン・ファーネルと行ったディスコで、ブライアン・メイロジャー・テイラー(この2人もファーネルの友人)に会い、ベーシストが定着していなかったクイーンのオーディションを知らされる。その後、面接を受け採用されることになるのだが、採用の決め手は、ベースの腕前もさることながら、ディーコンが謙虚な人柄で(脱退したベーシストらは自己主張が強かったという)機械に強かったからだと言われている。

クイーンでの役割[編集]

ジョン・ディーコン(ダブリンのステージにて、1979年

ボーカルをしなかったことや、バンド内では最年少だったこともあり、当初、ディーコンの存在感は薄く、他の3人に比べると作曲を始めるのは遅かったが、3枚目のアルバム『シアー・ハート・アタック』収録の「ミスファイアー」で初めて自作曲が採用される。4枚目のアルバム『オペラ座の夜』では2曲目の自作曲「マイ・ベスト・フレンド」が収録され、全英7位、全米16位のヒットとなった。この曲ではマーキュリーが生ピアノでなくては弾きたくないと拒んだため、ディーコン自身がエレクトリックピアノを弾いている。

その後、アルバム毎に自作曲1、2曲をコンスタントに提供するようになり、全世界で700万枚セールスを挙げたマーキュリー生前のクイーン最大のヒット曲「地獄へ道づれ」(全米1位、全英7位)、全英3位の他、世界数カ国でナンバーワンヒットとなった「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」など、寡作ながらもクイーンの代表作となる曲を発表し、バンド内での存在感を増していった。

また、前述のギターアンプ“Deacy(ディーキー)”等を制作。その学歴を生かし、バンドに貢献した。

ファーストアルバム『戦慄の王女』のクレジットでは、「ディーコン・ジョン」とクレジットされているが、これは、そのほうが響きがいいからという理由で、メンバーから逆にするように勧められたことによる。実際に初期の音源では、司会者に「ディーコン・ジョン」と紹介されていることから、誤植ではなく意図的なものだということがわかる。なお、セカンドアルバム以降は元の表記に戻っている。

ソロ活動[編集]

ディーコンは、ボーカルをしなかったため、クイーンの他のメンバーのようにソロアルバムを発表することはなかった。クイーン以外のミュージシャンとコラボレートして発表した作品はいくつか存在する。1983年シン・リジィスコット・ゴーハムバッド・カンパニーのサイモン・カークとミック・ラルフス、プリテンダーズのマーティン・チェンバースらと“MAN FRIDAY and JIVE JUNIOUR”名義で、ジャム・セッションから生まれた“Picking Up Sounds”を、また1986年には、イギリス映画『Biggles』のための即席ユニット“The Immortals”名義で、ディーコンが作曲に携わった“No Turning Back”をそれぞれシングル発表している。どちらも、商業的に成功することはなかった。

後者の“No Turning Back”は、後に本田美奈子が「ルーレット」と改題して日本語カバーしている。

フレディ・マーキュリー死後の音楽活動[編集]

マーキュリーの死後は音楽活動には消極的になったようで、追悼コンサートの参加にも当初は否定的で、メイとテイラーの説得によって、ようやく参加を決めたという。「フレディの声以外でクイーンの曲を演奏するのは考えられない」として、下記の数回以外に参加はしていない。

マーキュリー不在のクイーンに彼が参加した企画は以下。

引退[編集]

1997年以降、表舞台に出る機会が減少したため、引退の真相は不明だったが、2004年にテイラーが「ジョンは事実上、引退している」と発言したほか、クイーンと付き合いの長い東郷かおる子が寄稿したクイーン+ポール・ロジャース日本公演(2005年)のパンフレットには「音楽業界から引退」と記載された。

テイラーによると、元来、ディーコンは表舞台に出るのが苦手で、音楽業界の慌ただしさや狂騒をストレスだと感じていたようで、マーキュリーが亡くなったことで、さらに内にこもるようになってしまったという。それでも「今でも俺達と同じクイーンの一員であることに変わりはないよ」と話している。

また、イギリスのリッチリストによると、「ジョン・ディーコンはツアーには参加しなかったが、著作権使用料と『ウィ・ウィル・ロック・ユー』の長きにわたる成功により、利益を得た」とされている。近年ではMySpace上に自分のページを設けたり(すぐに閉鎖)、時折、自らのファンサイトに書き込みをするなどしている。

ディスコグラフィー[編集]

ジョン・ディーコン作曲のクイーンのシングル:

その他のアルバム収録曲:

ソロ作品:

  • ジャイブ・ジュニア・アンド・マン・フライデイ (Jive Junior And Man Friday):ピッキング・アップ・サウンズ (Picking Up Sounds)(1983年)
  • ザ・イモータルズ (The Immortals):ノー・ターニング・バック (No Turning Back)(1986年、『Biggles: Adventures in Time』のサウンドトラック)

出典[編集]

外部リンク[編集]