マーロン・ブランド

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Marlon Brando
マーロン・ブランド
マーロン・ブランド
マーロン・ブランド
生年月日 (1924-04-03) 1924年4月3日
没年月日 (2004-07-01) 2004年7月1日(80歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ネブラスカ州オマハ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 俳優
活動期間 1950年 - 2004年
活動内容 映画、舞台
配偶者 アンナ・カシュフィ
(1957年 - 1959年)
モヴィータ・カスタネダ
(1960年 - 1962年)
タリータ・テリピア
(1962年 - 1972年)
主な作品
欲望という名の電車』(1951年)
乱暴者』(1953年)
波止場』(1954年)
ゴッドファーザー』(1972年)
ラストタンゴ・イン・パリ』(1972年)
地獄の黙示録』(1979年)
 
受賞
アカデミー賞
主演男優賞
1954年波止場
1972年ゴッドファーザー
カンヌ国際映画祭
男優賞
1952年革命児サパタ
東京国際映画祭
男優賞
1989年白く渇いた季節
全米映画批評家協会賞
主演男優賞
1973年ラストタンゴ・イン・パリ
ニューヨーク映画批評家協会賞
主演男優賞
1954年『波止場』
1973年『ラストタンゴ・イン・パリ』
AFI賞
映画スターベスト100
1998年(男優部門第4位)
アメリカ映画主題歌ベスト100(第42位)
1998年『en:Luck Be a Lady
アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100(ヒーロー部門第23位)
2003年『波止場』
英国アカデミー賞
最優秀外国男優賞
1952年『革命児サパタ』
1953年『ジュリアス・シーザー
1954年『波止場』
エミー賞
助演男優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)
1979年ルーツ2
ゴールデングローブ賞
主演男優賞(ドラマ部門)
1954年『波止場』
1972年『ゴッドファーザー』
ゴールデンラズベリー賞
最低助演男優賞
1996年D.N.A./ドクター・モローの島
その他の賞
ハリウッド名声の歩道
1960年
備考
タイムは彼の功績を称え、20世紀最高の俳優に選んでいる。
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マーロン・ブランド(Marlon Brando, 1924年4月3日 - 2004年7月1日)は、アメリカ合衆国ネブラスカ州生まれの俳優

斬新な演技スタイルは、後進の俳優に多大な影響を与えた。タイム誌はブランドをアクター・オブ・ザ・センチュリー「20世紀最高の俳優」に選出している[1]

プロフィール

生い立ち

ネブラスカ州オマハで化学飼料と駆虫剤の製造業を営んでいた父、マーロン・ブランド(シニア)と地方劇団オマハ・コミュニティ・プレイハウスの創設者の一人であった女優の母、ドロシー・ペネベイカー・ブランド(愛称はドディ)[2][3][注釈 1]の間に生まれる。両親はオランダアイルランドドイツイングランドの血を引く[4][5][6]。他に2人の姉がいる。愛称はバッド。

家庭は中流だったが、両親共に酒癖が非常に悪く、父親は激しい気性の持ち主だった[注釈 2]。このため少年だったブランドは次第に情緒不安定となり、反抗的な青春時代を過ごす。学校では相当の問題児だったという。小学生の頃は黒人が法の下で人種差別を受けていた当時のアメリカの状況だったが、黒人の生徒と仲良くしていたただ1人の白人であったため、白人の教諭から睨まれる。このような「反人種差別的な言動」はその後も一生を通じて受け継がれる。その後問題を起こして謹慎処分を受けたが、無視して遊びにいったため退学処分を受ける。

16歳の頃に、反抗的な性格を変えようとした父に強制的に陸軍アカデミー(シャタック陸軍士官学校)に入学させられたが、教官に対しても常に反抗的で演習中に教官に口応えして、謹慎処分になったにもかかわらず、無視してフェアボルトダウンタウンに遊びに行ったことが発覚。卒業直前に退学処分にされてしまう。しかし、これはアカデミー側にも問題があり、ブランドの除籍について「あまりにも一方的で極端な処分だ」「不公正だ」と学生全員が憤慨。次第に学生たちの行動はエスカレートを極め、ストライキを開始し教師がブランドの復学を認めるまで続いた。

根負けしたアカデミーの校長はブランドに、学業を修了して翌年に卒業するよう手紙を送ったが、復学を拒否[7]。ブランドは、クラスメートが自分に宛てた激励の手紙を自宅の寝室に飾って大切に保存していた。しかしブランドは、晩年まで自分には教養が欠けていることを酷く恥じていたという。

デビュー

1948年ホワイトハウスにて

その後電気工や配管工を経て、俳優志望ではなかったものの、姉2人が住んでいたニューヨークで俳優の仕事に就く。物真似が得意なため、俳優を志していた2人の姉のうち長女のジョスリンから俳優になるように薦められ、ニューヨークのニュー・スクール・ソシアル・リサーチに入学。ステラ・アドラーのもとで演技を学ぶ。1947年、エリア・カザン演出のブロードウェイの舞台『欲望という名の電車』で準主役の粗野でセクシーな亭主を演じて衆目を集める。

1950年、『男たち』(日本未公開)で映画初出演。1951年、同じくカザンが演出した映画『欲望という名の電車』で舞台と同じ亭主の役を演じて世界的な大スターへ駆け上がる。このとき彼が下着を普段着として着用していたことが受け、若者の間にTシャツ文化が広まった。

ブランドの演技や服装は演劇においても映画においても、まったく型破りな存在であり、その「メソッド演技法」と言われる演技は賛否両論を巻き起こした。それまで芝居ではタブーとされていた猫背でぼそぼそとしたしゃべり、急に不機嫌な表情をとったり、はにかんだ笑顔を見せたりと言った芝居を始めたのはブランドである。ポール・ニューマンジェームズ・ディーンエルヴィス・プレスリーらの演技に多大な影響を与える。

トップスターへ

乱暴者』(1953年)で反抗的な若者を演じ、新しいタイプのスターとして注目を浴びる。イギリスなどでは、この映画は反社会的とされ上映が禁止されたが、ブランドの革ジャンとジーンズでオートバイにまたがる写真を見た世界中の若者が、そのスタイルを真似るようになる。そんな若者の中にはエルヴィス・プレスリーやビートルズなど、後に有名になる者もいた。

1954年に、カザンの『波止場』で港湾労働者を演じ、アカデミー賞主演男優賞を獲得し[8]、名実共にトップスターになる。しかしながら、翌年には育ての親ともいえるカザンの大作『エデンの東』の主役のオファーを蹴った。これはカザンが、当時アメリカを吹き荒れていた赤狩りの追及に負けて同じような容共的な仲間をジョセフ・マッカーシー率いる非米活動委員会に告発したことに対して憤慨していたからという。この映画でジェームズ・ディーンがスターとなった。

没落

1963年ワシントン大行進にて

ハリウッドに入った頃から、自分が気に入った脚本の第一級の作品にしか出ないことで知られていたが、父の投資の失敗の穴埋めのために現金が必要となったことから、1960年代に入ると内容のない作品にも多数出演するようになった。さらに様々なトラブルを起こしていたことから映画会社や監督らから嫌われ、俳優としての評価もギャラも下がっていった。

1967年フランス植民地であるタヒチ諸島のテティアロア環礁英語版を所有してからは、役者稼業を「島の環境維持の資金稼ぎ」と割り切るようになる。同年、コメディ色が強いチャールズ・チャップリンの映画『伯爵夫人』の主演者として契約。チャップリンが自宅へ招き、自ら実技指導をしてくれるが本人は居眠りをし、撮影中もチャップリンと口論となり映画は失敗に終わる。共演者のソフィア・ローレンからも「彼はコメディに不向き」と評される。ちなみにブランドによるローレン評は「彼女は息が臭かった」[9]であった。

復活

しかし、1972年の『ラストタンゴ・イン・パリ』と『ゴッドファーザー』で再び第一線に復帰し、ハリウッドですでに「過去の人」と思われていたブランドはトップスターとしての名声を取り戻す。ゴッドファーザーの老け役ではアカデミー主演男優賞に選ばれ(ただし「アメリカ映画界の人種差別への抗議」を理由に受賞拒否)、以降は個性が一変する。

1974年の『ゴッドファーザーPARTII』にもオファーされるが、前作の出演時にはベテランであるにもかかわらずオーディションを受けた上[注釈 3]、屈辱的な契約であったことを忘れていなかったブランドは巨額のギャラを要求。結局折り合わず、制作者はブランドの起用を断念し、脚本も大幅に書き直させた。

1975年の『ミズーリ・ブレイク』からは少ない出番で莫大なギャラと収益の一部を得ることが出演条件となっていった。『地獄の黙示録』、『D.N.A』、『ブレイブ』などの不気味な役柄など、性格俳優的な一面も見せ始めた。特に『地獄の黙示録』では暗殺されるカーツ大佐を演じたが、原作・脚本のキャラクターに全くそぐわない100キロを超える体重と外見、法外なギャラ要求と契約・演技態度などにより、コッポラ監督を悩ませた。だが重鎮としての存在感で圧倒し、老いてもなお、カリスマ的な言動とベールに包まれた私生活で常に話題となる存在でありつづけた。

1978年の『スーパーマン』では、世界一ギャラの高い俳優としてギネス記録に残る伝説を生み出した。なお、この映画はブランド自身が出演を熱望したものである。ブランドの子供が、『スーパーマン』の愛読者であったため子供が喜ぶであろうと考えたゆえの行動であったが、スケジュールの都合上、撮影のための拘束期間はわずか12日間で当時最高額の370万ドルのギャラと収益の11.75%を得ることを条件とする契約であった。映画は大ヒットし、ブランドは冒頭わずか約20分の出演で1400万ドルという破格のギャラを手にした。

晩年

オーソン・ウェルズやエルヴィス・プレスリー、エリザベス・テイラーなどと同様、若い頃から強いストレスを受けると過食に走る傾向があったが、後半生に入るとそれに一層拍車が掛かり、120kgを超えた肥満体がブランドのトレードマークになってしまった。晩年でも、2枚の特大ステーキを平らげたという。

1990年代ジョニー・デップとも仕事をするようになったが、晩年はギャラ問題などで「扱いにくい俳優」という評価を受けて、いわゆる大手制作会社による大作への出演はほとんどなくなり、二流の作品やインディーズ作品で脇役として出演するなど、名優としては裏腹なギャップを感じさせる活動を続けたが、演技力の衰えは全く無かった。2002年にはナンセンス・ホラーコメディ最狂絶叫計画』の姉妹編で、悪魔祓い役にキャスティングされていた。

マイケル・ジャクソンとは家族ぐるみの付き合いがあり、互いに助言を求めたりするほどであったという。晩年には、マイケルのミュージックビデオ「ユー・ロック・マイ・ワールド」にも出演している。アマチュア無線家でもあったが、マイクに向かう時はフランス語風にした変名「マーティン・ブランドー」(Martin Brandeaux)を用い、しかもこの名で免許を受けていた為、交信した相手は誰もブランドであると気づかなかったという。コールサインはKE6PZH。

死去

2004年7月にUCLAメディカルセンターにて呼吸不全心不全によって亡くなった。遺作となったのは、2001年に公開された『スコア』。遺体は火葬にされ、遺灰はカリフォルニア州のデスヴァレーに撒かれている。

評価

セリフを覚えてこない[注釈 4]、必ずといっていいほど共演者の女性に手を出す、癇癪を起こしてスタッフを困らせるといった筋金入りのトラブルメーカーであった。その扱いにくさから1960年代半ばから『ゴッドファーザー』(1972年)に出演するまでの彼は盛りを過ぎた俳優と見られていた。

しかしながら、その威風、迫力、演技力は高く評価されており、『ゴッドファーザー』のドン・ヴィトー・コルレオーネ役でそれまでのマイナスイメージを払拭、以降確固たる名声を確立した。ブランドはヴィトー役が転機になると確信していたらしく、コッポラが誰を起用しようか検討中の頃(この時ブランドは40歳代後半で、演じるヴィトー役は60歳代でかなりの老け役に挑戦することになるたため)、口内に綿をつめて独特のしゃがれ声を表現し、それを撮ったテスト・フィルムをコッポラに送り、自身が適役だとアピールしたことが功を奏した。ただしセリフを覚えてこないのは変わらず、カンニングペーパーが準備された。

アル・パチーノロバート・デ・ニーロジャック・ニコルソンロバート・レッドフォード萩原健一仲代達矢川谷拓三唐十郎田口計などからも(アメリカ、日本の著名な俳優だけでも、影響を受けたと公言した者は膨大な数に上る)尊敬される、第二次世界大戦後を代表する伝説的な名優だった。

人種差別への対応

公民権運動

ワシントン大行進でチャールトン・ヘストンジェイムズ・ボールドウィンとともに

ブランドが若い頃のアメリカ国内においては非白人に対する人種差別が合法とされ、人種差別が公然と行われていたが、そんな中でも、ブランドは非白人の恋人や愛人が多いことでも知られており、最初の妻はインド系であった。

人種差別問題と公民権問題には早くから積極的に関わっており、1963年のワシントン大行進にはハリー・ベラフォンテチャールトン・ヘストンら俳優仲間とともに参加した。また、アパルトヘイトを扱った『白く渇いた季節』にはわずか4000ドルのギャラで出演し、ギャラは反アパルトヘイト団体へ寄付した。

アカデミー賞受賞拒否

1972年の『ゴッドファーザー』ではマフィアのドン、ヴィト・コルレオーネを演じアカデミー主演男優賞に選ばれるが、「ハリウッドにおけるインディアンをはじめとした少数民族に対する人種差別への抗議」を理由に受賞を拒否して話題となった。

授賞式の壇上にはインディアンの服装をしたリトルフェザー(Sacheen Littlefeather)を登場させ、アメリカの映画作品内における人種差別問題、特にインディアンに対する人種差別問題を提議した[10]

それまでのアメリカの西部劇映画には、白人俳優の演じる史実に即していない外見・風習をしたインディアンが悪役として登場することが多く、長きにわたって誤ったインディアンのイメージを広めてきた。しかし上記のアカデミー賞授賞式における抗議行動をきっかけに、アメリカの映画界がステレオタイプなインディアンを映画に登場させることはほぼ無くなり、また西部劇映画の制作そのものが下火となった。

さらに、インディアンの問題をテーマにしたジョニー・デップ監督作『ブレイブ』には無償で出演した。法外なギャラの一部を自ら設立に関わったAIM(アメリカインディアン運動)の運営資金に充てたこともある。AIM代表の一人だったオジブワ族デニス・バンクスとは親交が深い。バンクスがレナード・ペルティエらとFBIに追われて逃走中、ロサンゼルスのブランド宅に寄り逃走中である事情を説明したところ、ブランドは逃走資金としての1万ドルと逃走用の車両を提供した。

逸話

主な作品

公開年 邦題
原題
役名 備考
1950 男たち
The Men
ケン
1951 欲望という名の電車
A Streetcar Named Desire
スタンリー
1952 革命児サパタ
Viva Zapata!
エミリアーノ・サパタ カンヌ国際映画祭 男優賞 受賞
英国アカデミー賞 最優秀外国男優賞 受賞
1953 ジュリアス・シーザー
Julius Caesar
マルクス・アントニウス 英国アカデミー賞 最優秀外国男優賞 受賞
乱暴者
The Wild One
ジョニー
1954 波止場
On the Waterfront
テリー アカデミー主演男優賞 受賞
ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門) 受賞
英国アカデミー賞 最優秀外国男優賞 受賞
デジレ
Désirée
ナポレオン・ボナパルト
1955 野郎どもと女たち
Guys and Dolls
スカイ・マスターソン
1956 八月十五夜の茶屋
The Teahouse of the August Moon
サキニ
1957 サヨナラ
Sayonara
ロイド
1958 若き獅子たち
The Young Lions
クリスチャン
1959 蛇皮の服を着た男
The Fugitive Kind
ヴァル
1961 片目のジャック
One-Eyed Jacks
リオ 兼監督
1962 戦艦バウンティ
Munity on the Bounty
フレッチャー・クリスチャン
1963 侵略
The Ugly American
ハリソン・カーター・マクホワイト
1964 寝室ものがたり
Bedtime Story
フレディ・ベンソン
1965 モリツリ/南太平洋爆破作戦
Morituri
ロバート・クレイン
1966 逃亡地帯
The Chase
カルダー保安官
シェラマドレの決斗
The Appaloosa
マット
1967 伯爵夫人
A Countess from Hong Kong
オグデン・ミアーズ
禁じられた情事の森
Reflections in a Golden Eye
ウェルドン・ペンダーソン
1968 キャンディ
Candy
グリンドル
私は誘拐されたい
The Night of the Following Day
バッド
1969 ケマダの戦い
Burn!
ウィリアム・ウォーカー
1971 妖精たちの森
The Nightcomers
ピーター・クイント
1972 ゴッドファーザー
The Godfather
ドン・ヴィトー・コルレオーネ アカデミー主演男優賞 受賞
ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門) 受賞
ラストタンゴ・イン・パリ
Last Tango in Paris
ポール
1976 ミズーリ・ブレイク
The Missouri Breaks
リー・クレイトン
1978 スーパーマン
Superman
ジョー=エル
1979 地獄の黙示録
Apocalypse Now
ウォルター・E・カーツ大佐
1980 ジェネシスを追え
The Formula
アダム
1989 白く渇いた季節
A Dry White Season
イアン・マッケンジー
1990 ドン・サバティーニ
The Freshman
カーマイン・サバティーニ
1992 コロンブス
Christopher Columbus: The Discovery
トマス・デ・トルケマダ
1995 ドンファン
Don Juan DeMarco
ジャック・ミックラー
1996 D.N.A./ドクター・モローの島
The Island of Dr. Moreau
ドクター・モロー
1997 ブレイブ
The Brave
マッカーシー
1998 フリーマネー
Free Money
スウィード
2001 スコア
The Score
マックス
2006 スーパーマン リターンズ
Superman Returns
ジョー・エル 『スーパーマン』出演時の映像をCGIを使って加工・再構成したライブラリ出演
スーパーマン2 ドナー・カット版
Superman II
ジョー・エル 死後にブランド出演シーン中心に最初の監督の手で再編集されたディレクターズカット版

受賞歴

部門 作品 結果
アカデミー賞 1951年 主演男優賞 欲望という名の電車 ノミネート
1952年 主演男優賞 革命児サパタ ノミネート
1953年 主演男優賞 ジュリアス・シーザー ノミネート
1954年 主演男優賞 波止場 受賞
1957年 主演男優賞 サヨナラ ノミネート
1972年 主演男優賞 ゴッドファーザー 受賞
1973年 主演男優賞 ラストタンゴ・イン・パリ ノミネート
1989年 助演男優賞 白く渇いた季節 ノミネート
カンヌ国際映画祭 1952年 男優賞 『革命児サパタ』 受賞
英国アカデミー賞 1952年 外国男優賞 『革命児サパタ』 受賞
1953年 外国男優賞 『ジュリアス・シーザー』 受賞
1954年 外国男優賞 『波止場』 受賞
1955年 外国男優賞 若き獅子たち ノミネート
1972年 主演男優賞 『ゴッドファーザー』
『妖精たちの森』
ノミネート
1973年 主演男優賞 『ラストタンゴ・イン・パリ』 ノミネート
1989年 助演男優賞 『白く渇いた季節』 ノミネート
ゴールデングローブ賞 1954年 主演男優賞 (ドラマ部門) 『波止場』 受賞
ヘンリエッタ賞 - ノミネート
1955年 ヘンリエッタ賞 - 受賞
1956年 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門) 八月十五夜の茶屋 ノミネート
1957年 主演男優賞 (ドラマ部門) 『サヨナラ』 ノミネート
1963年 主演男優賞 (ドラマ部門) 『侵略』 ノミネート
1972年 主演男優賞 (ドラマ部門) 『ゴッドファーザー』 受賞
ヘンリエッタ賞 - 受賞
1973年 ヘンリエッタ賞 - 受賞
1989年 助演男優賞 『白く渇いた季節』 ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 1954年 主演男優賞 『波止場』 受賞
1972年 主演男優賞 『ゴッドファーザー』 次点
1973年 主演男優賞 『ラストタンゴ・イン・パリ』 受賞
1989年 助演男優賞 『白く渇いた季節』 次点
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 1958年 外国男優賞 『さよなら』 受賞
全米監督協会賞 1961年 長編映画監督賞 片目のジャック ノミネート
サン・セバスティアン国際映画祭 1961年 最優秀映画賞 『片目のジャック』 受賞
全米映画批評家協会賞 1972年 主演男優賞 『ゴッドファーザー』 2位
1973年 主演男優賞 『ラストタンゴ・イン・パリ』 受賞
カンザスシティ映画批評家協会賞 1972年 主演男優賞 『ゴッドファーザー』 受賞
ゴールデンラズベリー賞 1980年 最低助演男優賞 ジェネシスを追え ノミネート
1992年 最低助演男優賞 コロンブス ノミネート
1996年 最低助演男優賞 D.N.A. ドクター・モローの島 受賞
最低スクリーンカップル賞 ノミネート
東京国際映画祭 1989年 男優賞 『白く渇いた季節』 受賞

脚注

注釈

  1. ^ 母の知り合いに、俳優のヘンリー・フォンダがおり、彼はよくドディを連れてハリウッドにドライブに行ったとのことであった。またマーロンとジェーン・フォンダは友人関係にあった。
  2. ^ 当時は禁酒法の時代だったので、両親は台所で闇ビールを造っていた。
  3. ^ ただし、ハリウッドでは大物俳優でも役を射止めるときはオーディションを受けるのはそれほど珍しいことではない。
  4. ^ これは、決して怠慢や失語症、集中力が持続しないというわけではなく、わざと覚えないことでその危機感を演技力の向上に利用するというブランドの信念によるものである。

出典

  1. ^ The Actor: Marlon Brando”. 2020年3月27日閲覧。
  2. ^ Bain 2004, pp. 65–66.
  3. ^ "Marlon Brando Biography (1924–)." Filmreference.com. Retrieved: June 10, 2012.
  4. ^ Brando and Lindsey 1994, pp. 32, 34, 43.
  5. ^ "Brando." The New Yorker, Volume 81, Issues 43-46, p. 39.
  6. ^ Bly 1994, p. 11.
  7. ^ "A biography of Marlon Brando." enotalone.com. Retrieved: June 10, 2012.
  8. ^ ローリングストーン誌が選ぶ、史上最高のアカデミー受賞・ノミネート作品15選 - ライブドアニュース
  9. ^ Daily Mail. (2014年6月25日) 
  10. ^ Sacheen Littlefeather
  11. ^ http://www.afpbb.com/article/entertainment/news-entertainment/2342444/2566786
  12. ^ Slipknot – Eyeless Lyrics | Genius Lyrics

日本語文献

  • ロバート・リンゼイと共著 『母が教えてくれた歌 マーロン・ブランド自伝』 内藤誠・雨海弘美訳、角川書店、1995年
  • パトリシア・ボズワース 『マーロン・ブランド』 田辺千景訳、岩波書店〈ペンギン評伝双書〉、2004年

関連項目

外部リンク