穴守稲荷神社

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穴守稲荷神社

Anamori Inari Jinja 01.jpg
穴守稲荷神社 本殿

所在地 東京都大田区羽田五丁目2番7号
位置 北緯35度33分1.7秒
東経139度44分59.4秒
座標: 北緯35度33分1.7秒 東経139度44分59.4秒
主祭神 豊受姫命
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穴守稲荷神社(あなもりいなりじんじゃ)は、東京都大田区羽田五丁目2番7号(もとの羽田穴守町[1]にある稲荷神社である。祭神は豊受姫命

由緒[編集]

江戸時代[編集]

1804年文化元年)の新田開墾の折り、が荒れて沿岸堤防が決壊し、村々は海水による甚大な被害を受けた。村民が堤防の上にを勧請し、稲荷大神を祀ると、海が静まって大きな実りをもたらした。これが穴守稲荷神社の起こりとされている。穴守という名の由来は、堤防に開いた穴の害から人々を守るという神徳にちなむ。元々は新田開拓を行った鈴木家の土地にある、小さな祠であった[2]

江戸時代には、「穴守」という名前が「『』を『(性病から)守る』」に通じると考えられて、遊女達の信仰を集めたという。

明治〜戦前[編集]

1884年明治17年)には暴風雨に襲われ崩壊してしまうが、翌年には再建の認可を取り付け、さらに1886年(明治19年)には「穴守稲荷社」から「穴守稲荷神社」へと改称を行った[3]

再建した穴守稲荷神社は境内も広くなり、さらに周辺で潮干狩りもできることや温泉が湧いたこともあり、門前には温泉旅館芸者置屋ができるなど、賑わいを見せていった[4]

この繁栄を見て、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)は京浜蒲田から穴守稲荷神社へ向けて支線を伸ばし、1902年(明治35年)には海老取川の手前まで、ついで1913年大正2年)には川を渡って穴守稲荷門前までの延伸を果たした。交通の整備もあり、穴守稲荷神社の界隈はさらに賑わっていった[5]

穴守稲荷

羽田村の鈴木新田の潮除守護神として、江戸時代から祀られていた稲荷の小祠が、明治18年(1885)、公許を得て穴守稲荷と称し、商人や花柳界の信仰を集めた。35年(1902)には、京浜電車が参詣用の支線を敷設。赤鳥居や茶店が門前に並び、盛況をきわめた。連なる赤鳥居の絵あり。「海岸蒲 田桃谷 大師 池端 六郷橋 雜色 山谷 川崎 八幡塚 穴守大鳥居 大森 八幡」と記された京浜電車の乗車券が書き写されている。

— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「穴守稲荷」より抜粋[6]

強制退去[編集]

穴守稲荷神社は明治大正昭和を通して人々の信仰を集めたが、第二次世界大戦が終わった直後の1945年昭和20年)9月21日羽田空港軍事基地として拡張するため米軍GHQ)より、範囲内の住民ともども強制退去を迫られることになった(羽田空港も参照)。

これに対して地元の有志らは移転先となる稲荷橋駅(現:穴守稲荷駅)近くの現在の鎮座地[7]700(2310 m2)を寄進し、現在は境内の整備を進めており、神社はほぼ昔日の姿を取り戻しつつある。

羽田空港に残された鳥居[編集]

移設後の赤鳥居

移転前の社殿や他の鳥居はGHQによって取り壊されたが、門前の赤鳥居だけは撤去できず、そのまま空港の更地(後に駐車場となる)に残され続けた。

この残された鳥居については以下のような流布話がある[8][9]

門前に建っていた赤い鳥居はとても頑丈な作りだった。ロープで引きずり倒そうとしたところ、逆にロープが切れ、作業員が怪我したため、いったん中止となった。再開したときには工事責任者が病死するというような変事が何度か続いた。

これは、「穴守さまのたたり」といううわさが流れ、稲荷信仰などあるはずもないGHQも、何回やっても撤去できないため、結局そのまま残すことになった。

— 京浜急行電鉄『京急グループ110年史 最近の10年』(2008年)「羽田飛行場の始まりと穴守線強制接収」抜粋

なお、強制的に住居を退去させられた後に整地に動員された元居住民らが、反抗心から意図的に鳥居を残したのだともいわれている[10]

1990年代に入り、羽田空港の沖合展開事業にあたり新B滑走路整備の障害になるためこれを撤去する計画が出たが、地域住民らから穴守稲荷神社や強制接収の憂き目にあった旧住民らのシンボルとして残したいとの要望があったこと等から、拝殿の移設から半世紀以上経った1999年平成11年)2月に移設されれることとなった[8][9]

移転工事にあたって土台の周りを掘ると、鳥居が非常に頑丈にできておりロープで引きずり倒せるようなものではないことが判明した。鳥居をクレーンで吊り上げた時にそれまで晴天続きだった天候がにわかに雨風となり、クレーン車のワイヤーが揺れ動く一幕もあったというが、2日間の工事は滞りなく終わり、現在地の弁天橋のたもと(天空橋駅南、弁天橋交番近く)に移設されて今に至っている[8][9]

節分の日[編集]

節分の日には豆まきを行う。老若男女問わず参加できるため、多くの人で賑わう。

奥之宮と神砂(あなもりの砂)[編集]

神砂(あなもりの砂)の由来[編集]

老人に出てを釣り上げて魚篭に入れたが、中を見ると湿ったがあるだけだった。翌日も翌々日も大漁となるも、篭をみるとやはり湿った砂があるばかりであった。老人はいぶかしく思い、村人たちにこのことを話すと、村人たちはこれをの仕業として稲荷神社を取り囲み、一匹の狐を捕まえる。しかし、老人は狐を許してそれを解き放った。

それ以降、老人が漁にでると必ず大漁となり、篭には多くの魚とわずかばかりの湿った砂が残るようになった。老人が砂を持ち帰って家のにまいたところ、が途切れることなく訪れるようになり、老人はを得た。そのため、穴守の砂には招福のご利益があるとされ、今も多くの参拝者を集めている。

撒き方[編集]

「奥之宮と神砂」(あなもりの砂)は以下のような撒き方をするとよい。

穴守稲荷神社を舞台にした作品[編集]

セガハード化身である女神達が下界での滞在場所とする。  

所在地[編集]

  • 東京都大田区羽田五丁目2番7号
    • 現在の鎮座地は羽田神社の氏子地域である。これは由緒の項にある通り、本来旧鈴木新田の地に鎮座していたのが、進駐軍によって強制退去を余儀なくされたからである。
      氏子地域は旧鈴木新田の羽田穴守町、羽田江戸崎町、羽田鈴木町の三か町であったが、氏子も同時に退去したため、現在は特定の氏子地域を持っていない。三か町のあった現在の羽田空港一~二丁目は羽田神社の氏子地域である。

交通[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ もとの荏原郡羽田村鈴木新田、羽田町蒲田区羽田町の各一部。大田区の町名も参照
  2. ^ 京急電鉄(2008)、P11。
  3. ^ 京急電鉄(2008)、P12。
  4. ^ 京急電鉄(2008)、P13。
  5. ^ 京急電鉄(2008)、P16〜17。
  6. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「穴守稲荷」国立国会図書館蔵書、2018年2月10日閲覧
  7. ^ 鎮座地とは神社の住所地のこと。通常は社務所の所在地。
  8. ^ a b c 京急電鉄(2008)、P29。
  9. ^ a b c 衝撃!! 羽田の鳥居の祟り事件はインチキだった!!”. リアルライブ (2008年5月13日). 2018年3月9日閲覧。
  10. ^ 小関智弘『大森界隈職人往来』岩波書店、2002年、2-4頁。

外部リンク[編集]