穴守稲荷神社

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穴守稲荷神社
Anamori Inari Jinja 01.jpg
穴守稲荷神社 本殿
所在地 東京都大田区羽田五丁目2番7号
位置 北緯35度33分1.7秒 東経139度44分59.4秒 / 北緯35.550472度 東経139.749833度 / 35.550472; 139.749833 (穴守稲荷神社)座標: 北緯35度33分1.7秒 東経139度44分59.4秒 / 北緯35.550472度 東経139.749833度 / 35.550472; 139.749833 (穴守稲荷神社)
主祭神 豊受姫命
社格 旧村社、関東一流祠
創建 1804年文化元年)または1819年文政2年)頃
本殿の様式 権現造
別名 あなもりさん
札所等 羽田七福いなりめぐり
例祭 11月3日(文化の日
主な神事 歳旦祭(1月1日)、初午祭(2月初午の日)、五月祭(5月中毎日)、献灯祭(8月下旬の金・土)、奥之宮例祭(9月一のの日)など
地図
穴守稲荷神社の位置(東京都内)
穴守稲荷神社
穴守稲荷神社
穴守稲荷神社の位置(日本内)
穴守稲荷神社
穴守稲荷神社
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穴守稲荷神社(あなもりいなりじんじゃ)は、東京都大田区羽田五丁目2番7号にある稲荷神社である。祭神は豊受姫命。かつては現在の羽田空港B滑走路南端の滑走路番号付近にあったが、終戦直後の羽田空港の拡張工事に伴って現在地へ遷座された。そうした歴史的背景から、航空関係者からの崇敬が篤い。

稲荷大神の「稲荷」とは「稲実る・稲生る」の義であり、「なる」は大自然より与えられた生産活動と希望・発展の意である。故に、商売繁昌・家内安全・心願成就・病気平癒・交通安全・厄除・開運祈祷などに御神徳あらたかで、産業界や芸能界、或いは講社の参拝数多く、伯爵東久世通禧によって、

ねがひごと かならずかなふ 穴守の いなりの神よ いかに尊き

という和歌も詠まれた。また、古くから伝わる羽田節の一節にも

羽田ではやる お穴さま 朝参り 晩には 利益授かる

と謡われている。

また、俗説ではあるが「穴守」という名前が「『』を『(性病から)守る』」に通じると考えられて、江戸時代より遊女達の信仰を集めたという。

由緒[編集]

[1]

江戸時代[編集]

穴守稲荷神社の本来の鎮座地は鈴木新田(現羽田空港内)である。

その地は、元禄天明の頃にはが一面に密生した干潟であったが、次第に開墾され、田畑として利用されるようになっていった。しかし、その海岸沿いに築かれた防波堤は、常に強風激浪に襲われ、遂には堤防の腹部に大穴を生じるに至った。その大穴より海水が侵入は絶えることなく、懸命に丹精した田圃もまさに荒廃するかと思われた。

そこで、創始者である鈴木弥五右衛門は住民たちと相図り、謹んで稲荷大神をその堤防上に奉斎した。すると、その神霊の御加護まことあらたかにして、その後はまったく風浪の被害から免れ、百余町歩の開墾地はほどなく良田沃土となった。

ここにおいて、「風波が作った穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」という心にて、改めてその祠宇に穴守稲荷大神の御名を捧げた。これが穴守稲荷神社の起源であり、時は1819年(文政2年)のことであったという。

明治から戦前、戦中[編集]

明治の御代になると、明治10年頃に近所の人々によって社殿が建てられ、穴守稲荷社として認可された。1884年(明治17年)には暴風雨により全壊してしまうが、土地の古老橋爪英麿や金子市右衛門、鈴木寒之助、石川又一郎ら各氏の尽力で、再建の認可を取り付け、1885年(明治18年)11月、公衆参拝(公認)の神社となり、翌1886年(明治19年)11月には穴守稲荷神社の御社号が官許せられた。

再建された穴守稲荷神社は境内も広くなり、穴守を宣伝する内容の歌舞伎浅草などの繁華街で上演され、その霊験を崇敬する信者数が次第に増え遂には数万に上るようになる。特に2月の初午と10月17日の例祭は賑わい、日本でも著名なお祭りとして名を馳せるようになった。また、この頃より、神社へ朱鳥居を寄進することが盛んになり、遂にはその数4万6796基にも上り、「雨の日にその鳥居の下に入れば濡れぬ」とまで言われるほどの隆盛ぶりだった。記録によると、こうした鳥居寄進の流行は、明治20年頃に木村荘平他23人ほどで「イロハ講」をつくり、の名を刻んだ真っ赤な鳥居を建てたのを初めとすると伝えられている。

当時の境内には、社殿や社務所はもちろん、社の後ろに石積みの築山があり、老松の許に老狐が棲んでいるといわれる九穴があった。また、信者より寄進された石材の華表燈篭、狐像、そして旗幟が林立していた。

その頃の講の所在する地域を見ても、近在はもとより東京府下はもちろん、神奈川埼玉静岡、そして福島新潟北海道に至るまで、各地に講が誕生するほどであり、参詣者で境内は殷賑を極めた。また郵送などの方法によって、台湾朝鮮中国西洋諸国に住む邦人が知人に頼んでの代拝も盛んに行なわれた。

明治18年の公衆参拝の認証があってから急激に講社結成の申し込みが盛んになり、明治30年代半ばには東京、横浜だけで講社数150、講員10万人以上を数えるようになり、川崎大師と張り合うほどの有名神社となった[2]。正月三が日の参詣は、穴守稲荷と川崎大師の両社寺を掛け持ちで巡る人が多く、早舟や渡し舟を使って動いていたという。

穴守の稲荷と、川崎の大師は六郷川(多摩川の下流)河口の左岸と右岸に相対して、その繁盛ぶりを競うところの流行神と流行佛である — 相川二郎著『趣味の旅 名物をたづねて』大正15年11月出版より抜粋

さらに1894年(明治27年)、鈴木新田の一部を所有していた和泉茂八氏が早魃に備え、良水を求めて井戸を掘ってみたところ、海水よりも濃い塩水が湧出した。これを東京衛生試験所に成分鑑定を出願したところ、湿疹や貧血、胃腸カタルなどの諸病に効くナトリウム冷鉱泉と認められた。そこで泉館という温泉旅館を起こした。その後、付近のあちこちに鉱泉が掘られ、要館、羽田館、西本館などの旅館が神社の傍らに開業した。また、それ以前より営業していた料理店も風呂を設け、遂には百余軒もの社前店が並ぶほどに発展した。

1891年(明治24年)には、春秋の大祭時の参詣者が多く、女子の参詣もままならないほど境内が混雑するようになったことを受けて、境内東南の隣接地4900坪を買収し、新たに神苑を開設している。

そして、この繁栄を見て、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)は京浜蒲田から穴守稲荷神社へ向けて支線を伸ばし、1902年(明治35年)には海老取川の手前まで、ついで1913年大正2年)には川を渡って穴守稲荷前までの延伸を果たした。この頃の京浜電鉄大鳥居駅から穴守稲荷神社の辺りは、一面の梨畠であり、神社の鳥居は4丁余りにわたってトンネル状に連なっていた。この左右には掛茶屋割烹が軒を並べ、新鮮な魚介料理を供する一方、特に海藻や果実、貝細工や張子の達磨、河豚提灯、煎餅、葛餅、そして供物として土製の白狐や小餅などが商われていた。

また、社の裏の江戸見崎には京浜電鉄が経営する日本体操俱楽部の羽田運動場遊園地が開業し、また北側には海水浴場もあり、夏の潮浴みばかりでなく、春の潮干狩り、秋のハゼ釣りなどで賑わっていた。近くには黒田侯爵家や御料鴨場もあった。1931年昭和6年)には、干拓地北側の海域が埋め立てられ、羽田飛行場が開業した。

このように、穴守稲荷神社周辺は、帝都東京の一大行楽地の様相を呈していた。

羽田といえば、昔は漁師町と辨天とできこえたものだが、今では穴守ばかりが人口に膾炙してゐる。そしてこの穴守稲荷が賑はふやうになつたのは、まだつい二十年前で、一時、新聞で盛んに書き立てたことを私は覺えてゐる位である。縁起といふやうなものも極く〳〵無雜作なものである。それにも拘わらず、東京近郊の屈指の流行神になつたといふことは、不思議な現象である。つまり、花柳界方面の信仰を先づ最初に得たといふことが、かう繁盛していつた第一の理由である。 — 田山花袋
稲荷祠多きは古来、東京の一名物なるが、ここの稲荷は最も繫昌す — 大町桂月著『東京遊行記』明治39年8月出版より抜粋
穴守稲荷」 羽田村の鈴木新田の潮除守護神として、江戸時代から祀られていた稲荷の小祠が、明治18年(1885)、公許を得て穴守稲荷と称し、商人や花柳界の信仰を集めた。35年(1902)には、京浜電車が参詣用の支線を敷設。赤鳥居や茶店が門前に並び、盛況をきわめた。連なる赤鳥居の絵あり。「海岸蒲 田桃谷 大師 池端 六郷橋 雜色 山谷 川崎 八幡塚 穴守大鳥居 大森 八幡」と記された京浜電車の乗車券が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「穴守稲荷」より抜粋[3]

終戦(昭和20年)までの穴守稲荷神社は、隆盛とその後にくる戦渦に翻弄された大激動の時代であった。

1944年(昭和19年)秋頃を境に、サイパンから出撃した米軍機による空襲が激しさを増した。穴守稲荷神社の近辺も間引き疎開ということになり、一時はそこに暮らす人はせいぜい10人に満たないほどになったという。

1945年(昭和20年)に入ると、日本の敗色は次第に濃厚になり、東京もたびたびの空襲に曝されるようになった。穴守稲荷神社境内にも、公設の防空壕が掘られ、近隣の避難者に供すされた。しかし、境内は、もともとが低湿地であり、地面を掘ればすぐ水が出る状態で、浅く掘った防空壕しかできなかったという。神社自身の防空壕は、関東大震災の瓦礫を利用し、大きな御影石の陰につくって、神社の人間は空襲を避けようとしていた。

同年4月3日から4日には、社前にも爆弾が落とされ、当時の宮司金子主計が巻き込まれて死亡してしまった。その空襲では何とか焼失を免れた客殿社務所も、羽田全域の3分の2、羽田糀谷の大部分を焼け野原にした4月15日城南京浜大空襲で被災した。神社は米軍にとって鈴木新田地域の格好の標的だったらしく、爆弾の跡だけでも二十幾つもあったほどである。7月には、ご神体を本殿地下に埋めてお守りすることになった。

結局、神社の被害は甚大であり、宝物や神輿が失われ、多くの貴重な記録も灰塵に帰した。また、宮司をはじめ神職も多く戦地に赴き、崇敬者の多くも戦争のために大きな犠牲を強いられる結果となった。

強制遷座と戦後復興[編集]

マッカーサー司令部では羽田飛行場を連合軍の日本駐屯軍に引き渡すよう十二日我が当局に申し入れた。同時に滑走路拡張のため海岸線埋め立て設備を提供するよう要求してきたが、飛行場再建のためには二箇月乃至三箇月を要すると見ている。なお飛行場付近の一部住民に対して立ち退きが命ぜられることになった。 — 『朝日新聞』昭和20年9月13日付けより

第二次世界大戦が終わった直後の1945年(昭和20年)9月21日羽田飛行場軍事基地として拡張するため米軍GHQ)より、氏子地域であった旧鈴木新田の羽田穴守町、羽田江戸見町、羽田鈴木町の三か町内約1200世帯、約3000名の氏子ともども48時間以内の強制退去命令が下された。

当時、穴守稲荷神社の一隅で御霊をお守りしていた宮守は、早くから進駐軍と接触があり、羽田飛行場拡張の話を事前に聞かされていた。初めの案では穴守町を避けて拡張する案も検討されたが、結局それは叶わず、御霊の遷座を早急に思案しなければならなくなった。宮司を空襲で失ったこともあり、蒲田区役所の福岡幾造、羽田神社宮司橋爪英尚、横山安五郎氏の3氏が相談の上、大鳥居はそのままに、御霊を羽田神社に仮遷座することになった。このため、当時の神社の施設や設備はほぼすべて放棄され、後に米軍によって取り壊された。それ故に、米軍によって更地にされた神社跡地に数年間放置されていたものを掘り起こして、運び出された一対の狐の神使像と後述の大鳥居、ご神体以外は、すべて現在地に移転されてから作られたものである。なお、この時に運び出された神使像は、現在でも境内社の福徳稲荷前に置かれている。

1947年(昭和22年)に入ると、ご神体を羽田神社にいつまでも預けてはおけないと有志が集い、「復興協議会」「神殿建設委員会」「穴守稲荷神社復興奉賛会」などさまざまな復興のためのグループができた。その復興への意気込みは大変なもので、羽田神社で行われた会議は連日連夜に及んだという。

7月には移転先となる稲荷橋駅(現:穴守稲荷駅)近くの現在の鎮座地[注釈 1]に仮安置所を設け、8月にはその土地700(2310 m2)を有志の奉賛により購入、取得している。10月には、空港内に残されていた鳥居を搬出しようと労務者を連れて出かけたが、駐留軍の許可がなく、搬出できなかった。また、まだまだ資材不足が続いており、飛行場内に残留された石材を搬出しようとしたが、それさえも叶わない状況であった。それでも、神社関係者と蒲田区役所職員が羽田神社に集まり、神社再建について懇談・協議した上で、10月26日には地鎮祭を斎行するまでに漕ぎつけた。

1948年(昭和23年)1月には仮拝殿の増築も決まり、2月には、ようよう待ちに待った仮社務所と本殿も落成。2月24日の夕刻、羽田神社よりご神体を御遷宮し、遷座式が挙行された。本殿の広さは僅か一坪半であったが、その遷座の様子を見ていた古老は「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」と西行法師の御歌を引き、その日の感無量の気持ちを伝えている。

この年の5月には、神社復興の中核となって働いた奉賛会を発展的に解消し、新たに世話人会を設け、世話人40名が委嘱された。

1949年(昭和24年)~1950年(昭和25年)には、仮拝殿の落成やお穴様(奥之宮)の復活などがあり、世情も復興の気配が濃厚となり、それにつれて参詣者数はもちろん奉納額も増加していった。1951年(昭和27年)には、遷座後はじめての節分祭が行われた。40人の年男年女が社前近くの「梅月」や「すずめ屋」、「出川屋」などを宿として借り受け、其処から繰り出し、神社まで練り歩く姿が復活した。また、7月にはお神輿渡御も行われている。食料不足はまだ続いており、食料調達の苦労は常につきまとい、節分祭それ自身は赤字であったり、お神輿が毀れたりと、幾分の不具合もあったが、この頃より穴守稲荷神社の復興も本格化している様子が現れてきている。

旧羽田穴守町の境内を正式に政府が買い上げることが決まったのも、この年である。それまでは、旧境内地約9656坪の借り上げ地代が支払れていた。それをやめ、接収地食い上げが政府決定された。これにより、旧神社地は正式に羽田空港の一部となった。

1953年(昭和28年)には、神徳の高揚を目的に、新たな試みもはじまった。1月には、花月園競輪場へ6日間出輦したり、3月からは神前結婚式も執り行っている。4月に入ると、百万人講結成の気運が盛り上がり、その名称を「百万人講」とするか「奉賛会」とするかの討議がなされている。1954年(昭和29年)に入ると、3月には参集殿も無事落成した。

この頃になると、羽田神社に本殿が落成するなど、近隣の寺社の本格的な再建が進んできていた。また、池上本門寺の末寺にあたる池上常仙院に穴守稲荷が祀られているという噂が流布し、崇敬者が参拝するという珍事もおこった。戦後、穴守稲荷のご神体は羽田神社に遷座していたので、常仙院への参拝はおかしなことであったが、常仙院の庫裡を再建した時、穴守稲荷神社の拝殿に使われていた古材を使ったことが、この誤解のもとであったらしい。

本殿・拝殿の再建[編集]

昭和30年代に入ると、新たな地に遷座した穴守稲荷神社は本殿や拝殿の再建を果たすべく、精力的な活動をはじめる。

1955年(昭和30年)には、羽田空港内のターミナルビルが、旧穴守稲荷神社の跡地に建設され、社屋屋上に当社の分祠を奉斎することになった。ターミナルビルの篤い崇敬もあり、17日には大祭が挙行され、それ以降毎月17日には月次祭を奉仕するようになった。その後、平成の御代に羽田空港の沖合展開がはじまり、同ビルが撤去され、返霊されるまでの40年間、羽田空港の安全と繁栄を見守る分社が鎮座していた。

1958年(昭和33年)の正月より、京浜急行穴守線が終夜運転をはじめ、参拝者に歓迎された。また、節分祭に1回15人ほどで十囲修行を行ったのもこの年からであり、話題になった。そして、5月には、本殿・拝殿の再建構想が持ち上がった。

当時、近隣の神社の再建が続いていた。富岡八幡宮蒲田八幡神社素盞雄神社などが立派に再建され、穴守稲荷神社もそれに遅れてはならじと計画された。7月には、「本殿拝殿再建基本案」が提出され、検討に入っている。

この案を元に、大岡實氏が早速境内を調査し、展望図を提示している。これを受けて、3月には工期や資材の手当てなどの詳細をつめ、夏には趣意書も出来上がり、早期着工を望む気運が盛り上がっていった。しかし、資金計画などの詰めや総予算の確定などの作業もあり、本殿・拝殿再建工事が着工されるには、1962年(昭和37年)9月まで待たなければならなかった。

そして1962年(昭和37年)9月29日には新社殿の起工式が執り行われ、工事は順調に進み、1963年(昭和38年)10月3日上棟式、1964年(昭和39年)6月27日28日には現社殿がほぼ完成し、遷座祭が斎行された。その時、工事を請け負った大成建設株式会社から京急穴守稲荷駅前に鋼鉄製の朱の大鳥居を、また佐藤良平氏が社殿正面前に鉄筋コンクリート製の大鳥居をそれぞれ1基奉納された。また8月には新社殿完成を受け、旧仮社殿を戦災を被った天祖神社に無償譲渡の上移築するなど、境内の整備が一挙に進んでいった。また、同じく8月からは羽田東急ホテルが完成し、その結婚式場に穴守稲荷神社の分霊を奉斎している。

1965年(昭和40年)5月ついに念願の社殿が竣工し、28日から3日間にわたり、落成奉祝祭を斎行した。連日雨に降られ足元が悪い中、横綱栃錦の手数入りをはじめ、宮内庁楽部による舞楽、稚児行列、飯能囃子などの後奉納演芸が賑々しく執り行われた。また、折しも神楽殿の復興計画も持ち上がっており、神楽の奉納も行われた。

その後穴守稲荷神社では、「遷座記念祭」を毎年5月28日に斎行している。つまり、戦後間もなく現在地へご神体を遷座した日ではなく、新社殿の落成奉祝祭の日を記念して祭典を行っているわけである。

社殿の完成後の7月には、表参道入口に東京魚河岸講の手で石社号標が奉納され、12月には、切妻造の拝殿や入母屋造の幣殿もでき、現在の穴守稲荷神社の姿形が整えられていった。

その後、1968年(昭和43年)には、遷座20年を記念して、総欅造銅板葺きの神楽殿や奥之宮が竣工している。また手狭になった社務所を客殿裏に増築する計画も起こり、1970年(昭和45年)5月には鉄筋2階建ての新社務所が完成している。こうした神社復興のための建築事業は、1974年(昭和49年)に、宗教法人法施工20周年記念事業として御神輿庫、展示場、納札所が竣工するまで続いた。

一方、1966年(昭和41年)の2月及び3月に立て続けに起こった全日本空輸エア・カナダの羽田空港付近での飛行機大事故では、穴守稲荷神社の旧「一の鳥居」が羽田空港に遺され放置されていることを取り上げ、その祟りであるかのような噂が流布し、まことしやかな新聞記事さえ現れた。それに加え、伏見稲荷の行者である伊勢岡ハツ氏が「穴守稲荷神社を空港の中に祀らないと、事故がこれからも多発する」と世間に訴え、国会議員の肝いりもあって、空港内に穴守稲荷神社を復興することになった。

また、同じく伊勢岡氏の強い働きかけにより、三愛石油株式会社が事務所屋上に穴守稲荷大神を分霊した一祠を設けている。

一方では、戦後のベビーブーム期の子どもたちが成人する時期であり、その結婚式が多くなった。穴守稲荷神社では羽田東急ホテルだけでなく、1970年(昭和45年)からは横浜東急ホテルにも出張奉仕することになった。

昭和後期から平成[編集]

1975年(昭和50年)、1976年(昭和51年)頃には、一時期馬券の大「穴」を願ってのものか、多くの競馬ファンが詣でる現象が起こった。

1981年(昭和56年)、空港鳥居の移築問題が改めて浮上してきた。戦後間もなくの境内地の強制収用時に同時に遷座しようとしてから、その後も何度も鳥居遷座の話は持ち上がってきたが、なぜかその度に支障が持ち上がり、長年にわたって放置されたままの状態が続いてきた。

羽田空港開港50年にあたる1981年(昭和56年)7月には、新B滑走路展開に伴う移築計画が持ち上がり、由緒正しい鳥居であるからそのままにして措くことを大田区長に陳情している。しかし、沖合展開や拡張計画が次第に明確になり、再び1983年(昭和58年)2月23日には鳥居移築が具体化し、新聞紙上に1984年(昭和59年)1月20日の飛行場の移設告示があった。しかし、その後も政教分離問題が世間を騒がせ、時には取り壊し、時には移築論を繰り返して遅々と進まなかった。そして1985年(昭和60年)になって、空港内の鳥居移築が正式に決定し、1993年度(昭和68年度)までに完了することとなった。

羽田空港の新A滑走路の供用が開始され、空港の沖合展開がかなり進んできた1988年(昭和63年)には、鳥居残置の話し合いがつづく一方、旧羽田鈴木町の住民代表が空港内に穴守稲荷神社分社をつくるよう、鈴木俊一東京都知事に陳情している。

1991年(平成3年)9月には、京急穴守稲荷駅前に狐の石像、愛称「コンちゃん」が京浜急行電鉄株式会社等により奉納された。季節ごとに篤志家の手によって衣装が替えられ、駅のシンボルとして現在も愛されている。

1994年(平成6年)には、羽田空港新B滑走路の供用が開始され、ついに鳥居移築が実施されることになったが、その後も移築は難航し、ようやく1999年(平成11年)2月3日撤去、翌4日に移築が完了した。

2018年(平成30年)11月から「御縁年午歳記念事業 奥之宮改修工事及び境内整備」工事が行われ、奥之宮をはじめとした摂末社や千本鳥居など境内が整備され、奥之宮の上には新たに伏見稲荷の稲荷山を模した「稲荷山」が造られた。

羽田空港に残された大鳥居[編集]

移設後の赤鳥居

現在の羽田空港内にあった旧穴守駅前の一の大鳥居として、1929年(昭和4年)10月に建立された赤鳥居は、GHQによって4万6000基余あった鳥居が取り壊された中、唯一そのまま空港の駐車場に残っていた。

この残された鳥居については以下のような流布話がある[4][5]

門前に建っていた赤い鳥居はとても頑丈な作りだった。ロープで引きずり倒そうとしたところ、逆にロープが切れ、作業員が怪我したため、いったん中止となった。再開したときには工事責任者が病死するというような変事が何度か続いた。 これは、「穴守さまのたたり」といううわさが流れ、稲荷信仰などあるはずもないGHQも、何回やっても撤去できないため、結局そのまま残すことになった。 — 京浜急行電鉄『京急グループ110年史 最近の10年』(2008年)「羽田飛行場の始まりと穴守線強制接収」抜粋

なお、強制的に住居を退去させられた後に整地に動員された元居住民らが、反抗心から意図的に鳥居を残したのだともいわれている[6]

1990年代に入り、羽田空港の沖合展開事業にあたり新B滑走路整備の障害になるためこれを撤去する計画が出たが、地域住民らから穴守稲荷神社や強制接収の憂き目にあった旧住民らのシンボルとして残したいとの要望があったこと等から、拝殿の移設から半世紀以上経った1999年平成11年)2月に移設されることとなった[4][5]

移転工事にあたって土台の周りを掘ると、鳥居が非常に頑丈にできておりロープで引きずり倒せるようなものではないことが判明した。鳥居をクレーンで吊り上げた時にそれまで晴天続きだった天候がにわかに雨風となり、クレーン車のワイヤーが揺れ動く一幕もあったというが、2日間の工事は滞りなく終わり、現在地の弁天橋のたもと(天空橋駅南、弁天橋交番近く)に移設されて今に至っている[4][5]

なお、移転以前は空港関係者によって管理されており、穴守稲荷神社の神職によって祭典が行われるなどされていたが、現在は国土交通省管理下となっており、鳥居の前に賽銭箱が置かれているものの神社とは関係がなくなっている。鳥居に掲げられている扁額も以前は「穴守神社」と書かれていたが、現在は「平和」というものに変わっている。

奥之宮と神砂(あなもりの砂)[編集]

神砂(あなもりの砂)の由来[編集]

老人に出てを釣り上げて魚篭に入れたが、中を見ると湿ったがあるだけだった。翌日も翌々日も大漁となるも、篭をみるとやはり湿った砂があるばかりであった。老人はいぶかしく思い、村人たちにこのことを話すと、村人たちはこれをの仕業として稲荷神社を取り囲み、一匹の狐を捕まえる。しかし、老人は狐を許してそれを解き放った。

それ以降、老人が漁にでると必ず大漁となり、篭には多くの魚とわずかばかりの湿った砂が残るようになった。老人が砂を持ち帰って家のにまいたところ、が途切れることなく訪れるようになり、老人はを得た。そのため、穴守の砂には招福のご利益があるとされ、今も多くの参拝者を集めている。

撒き方[編集]

「奥之宮と神砂」(あなもりの砂)は以下のような撒き方をするとよい。

境内社[編集]

  • 奥之宮(お穴さま)

御神砂が頂ける。

  • 穴守稲荷上社(稲荷山)

2020年(令和2年)に竣工した。

  • 御嶽神社

1906年(明治39年)、唯一の境内摂社として祀られてより、戦後現在地に遷座しての後も築山に一祠を設けられた。2020年(令和2年)木曽の御嶽神社よりご神石を得て、稲荷山に据え、あらためて勧請された。百度参りが行われている。

  • 必勝稲荷
  • 開運稲荷
  • 出世稲荷
  • 繫栄稲荷
  • 築山稲荷
  • 幸稲荷
  • 末廣稲荷
  • 航空稲荷
  • 福徳稲荷
  • 狐塚
  • 飛龍明神

主な分社[編集]

 伏見稲荷大社から各地に勧請された稲荷神社が大きく発展し、その地域の稲荷信仰の拠点として独自の分社を展開したように、穴守稲荷神社も「関東一流祠」と称され、東京近辺の稲荷信仰の拠点となり、崇敬者によって関東近辺の各地に勧請された。遊女の信仰を集めた経緯から各地の花街遊郭跡などに多い。

  • 草津穴守稲荷神社
    • 御祭神 豊受姫命
    • 鎮座地 群馬県吾妻郡草津町西ノ河原公園
    • 1907年(明治40年)頃、東京の山崎染物店の主人が草津へ湯治に通い、病気平癒の記念として、常々信仰していた穴守稲荷をこの場所に分霊して勧請した。2001年(平成13年)に草津町内有志によりご神徳を仰ぎ、改築された。
  • 磐梯熱海穴守稲荷神社(大山祗神社・穴守稲荷神社・源泉神社)
    • 御祭神 大山祗命・豊受姫命
    • 鎮座地 福島県郡山市熱海町
    • 萩姫伝説で有名な磐梯熱海温泉の鎮守。1922年(大正11)年に高玉鉱山社長の肥田金一郎氏が故郷である東京羽田より穴守稲荷神社を勧請し、大山祗神社と合祀した。2001年(平成13年)の社殿改築に併せ、地元の荒町氏子一同が祈願謝恩のため源泉神社を勧請した。
  • 穴守稲荷静岡分社
    • 鎮座地 静岡県清水市(現静岡市清水区
    • 清水港近くに住んでいた魚屋の今澤幸平という人物が、穴守稲荷より妻の病気平癒のご利益を受けたことから、清水港はもとより静岡の町々へ穴守稲荷の名が知れ渡り、本社へ参拝に出かける者が増えていった。そこで今澤夫婦と有志の人々が相談して、1898年(明治31年)12月に勧請された。穴守稲荷最初の分社とされる。
  • 台北稲荷神社(廃絶)
    • 御祭神 豊受姫命
    • 鎮座地 台湾台北州台北市西門町(現 台北市西門町)
    • 1911年(明治44年)、穴守稲荷神社の承認を受け、5月中旬に穴守稲荷神社の社名で鎮座祭が執り行われる予定であったが、発起人側の事情で翌月の10日前後に延期となった。ところが、間近になって社名の変更が協議され、台北稲荷神社と改称された。6月25日に鎮座祭を斎行し、西門市場の左側に創建された。1937年(昭和12年)10月に郷社に列格した。戦後、国民党政府による台湾接収に伴い、取り壊された。

年間祭事[編集]

新しい年の新しい月を迎えた事を祝い感謝して、皇室と国家の安泰そして国民の繁栄と幸福を祈願するお祭り。

  • 羽田七福いなりめぐり 1月1日~1月5日

1988年(昭和63年)、穴守稲荷神社の責任役員の発案で開始された羽田地区の稲荷神社7社と玉川弁財天の全8社を巡拝する催し。2019年現在は、穴守稲荷神社内の羽田七福いなり会が主催している。この5日間9時~15時の間、各社にて御朱印が受けられる。この付近の十箇所程度に案内板(矢印)やのぼり(旗)を立てたり、近隣住民等のボランティアによる案内もこの5日間のみ行われている。穴守稲荷神社でもこの5日間にのみ、七福いなりめぐり用の御朱印が受けられる(通常の御朱印は、この期間でなくても拝受可能)。御朱印等が目的でなく、道案内等も必要ないのであれば、期間外に参拝しても問題はない。

追儺の儀や豆まきなどで知られる様に災厄を除き福を招くお祭り。境内で豆まきを行うため、多くの人で賑わう。

711年(和銅4年)に京都伏見稲荷大社の御祭神である宇迦御霊神が、稲荷山に降り立ったのが2月初午の日であるとされている。

参詣月(正五九)である5月に、毎日午前11時に計31回齋行される特別祈祷。

  • 遷座記念祭 5月28日

戦後、現在の場所に移ったこの日を記念するお祭り。

御神前にお供えする稲の豊作を祈願するお祭り。境内に苗床を設け、田植を行う。

灯明に願いを託し、諸願の成就を願う祭事。境内を千基近い行灯が埋め尽くし、多くの参拝客で賑う。

奥之宮にて行われる、年に一度の大祭。

最も重要なお祭りであり、文化の日に秋季例大祭として齋行される。

午の日についての由来は諸説あるが、古くより稲荷との関係は深く縁日とされていて、この日にお参りするとより多くのご神徳がいただけると言われている。

穴守稲荷神社が登場した作品[編集]

神社と道路を隔てたところに、ドラマの撮影が行われた日本航空の旧訓練センターがあったため、神社の境内でも度々撮影が行われた。
穴守稲荷地域が舞台であったため、神社の境内や施設での撮影が行われた。
冒頭で羽田空港の旧大鳥居が登場した。
かつてセガの本社が近隣にあったことから、セガハード化身である女神達が下界での滞在場所とする。

所在地[編集]

  • 東京都大田区羽田五丁目2番7号
    • 現在の鎮座地は羽田神社の氏子地域である。本来、旧鈴木新田の羽田穴守町、羽田江戸見町、羽田鈴木町の三か町が氏子地域であったが、進駐軍によって氏子も強制退去を余儀なくされたため、現在は特定の氏子地域を持っておらず、三か町のあった現在の羽田空港一丁目から二丁目は、合祀されていた経緯から羽田神社の氏子地域に編入されている。ただ、旧羽田空港ターミナルビルには穴守稲荷神社の分社があり、現在でも羽田航空神社の例祭などの空港関係の祭典は、主に穴守稲荷神社の神職によって執り行われており、羽田空港の実質的な氏神として航空関係者の篤い崇敬を受けている。

交通[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 鎮座地とは神社の住所地のこと。通常は社務所の所在地。

出典[編集]

  1. ^ 『穴守稲荷神社史』穴守稲荷神社、平成20-03-31。
  2. ^ 子供は30人!京急沿線を暗躍した「ケタ外れの怪人物」木村荘平伝説鈴木勇一郎、現代ビジネス、講談社、2019.6.9
  3. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「穴守稲荷」国立国会図書館蔵書、2018年2月10日閲覧
  4. ^ a b c 京急電鉄(2008)、P29。
  5. ^ a b c 山口敏太郎 (2008年5月13日). “衝撃!! 羽田の鳥居の祟り事件はインチキだった!!”. リアルライブ. 2018年3月9日閲覧。
  6. ^ 小関智弘『大森界隈職人往来』岩波書店、2002年、2-4頁。

参考文献[編集]

  • 『京急グループ110年史 最近の10年』京浜急行電鉄、2008年。NCID BA85717255OCLC 260615839
  • 『穴守稲荷神社史』穴守稲荷神社、2008年

関連文献[編集]

関連項目[編集]

  • 木村荘平 - 講の組織化に取り組み、大鳥居を寄進するなど、穴守稲荷の発展に力を尽くし、「穴守神主」の異名を授けられた。
  • イナリワン - 馬主が穴守稲荷神社の崇敬者であり、冠号の由来となった。神社には、イナリワンの天皇賞有馬記念宝塚記念の優勝エンブレムや競争ゼッケンが奉納されている。

外部リンク[編集]