日朝関係史

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日朝関係
日本の旗   朝鮮民主主義人民共和国の旗   大韓民国の旗
  日本

日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では日本朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。

古代

縄文・弥生時代

稲作は長らく朝鮮経由と言われてきたが、遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の東南アジア経由にて伝来し、さらに日本から朝鮮に伝わったという学説が、考古学的には主流となりつつある[1]。そのため、各種歴史教科書の稲作の伝来経路も修正されつつある。

文字の記録がほとんどないため詳細は不明だが、現在の佐賀県から産出した黒曜石が朝鮮半島からも出土しており、かなり広範な交易が行われていたようである。

古墳時代・三国時代

古墳時代には、の生産技術、仏教医学などの大陸文化(ユーラシア大陸の文化)は、中国大陸朝鮮半島を通じて、もしくは中国大陸から直接東シナ海を経て日本に伝わったとされる。やがて日本の国力が増大すると、逆に日本の文物が朝鮮にも影響を与え始めた。前方後円墳などが、朝鮮から発見されている。互いに隣国である日本と朝鮮半島との間には伝承を含めて歴史的な関係が深く、戦争や相互の侵略の経験も多い。

高句麗、百済(346年 - 660年)、新羅(356年[4]-935年)が分立していた三国時代は、7世紀頃まで続いており、倭国は百済との外交関係を6世紀頃まで続けていた。基本的に倭国の朝鮮に対しての外交政策は、百済とは友好関係を結び、高句麗、新羅とは敵対するというものであった。日本の高句麗征伐から5年後の396年、高句麗の広開土王は反撃、再び百済は高句麗に服属を強いられ、399年に再び百済が独立し、同国要請により日本の援軍が派遣されるも400年に高句麗に敗北している。404年にも日本から百済援軍の形で高句麗に侵攻し、帯方郡まで侵入するが無数の将兵を失った[5]

三国時代の前半は、高句麗が満州にまで領土を広げて最大の国家であったが、6世紀には新羅が強大になり、高句麗の領土が削られたため、高句麗は百済と倭に接近し、友好関係を結んだ。

この時期の中国の歴史書隋書倭国伝には「新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來」(新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。)とある。

なお、倭と高句麗との関係については、421年倭王賛が高句麗について南朝に対して使節を派遣したとの記録もあり、安東大将軍倭国王の封号を贈られている[6]。また、478年5月にも雄略天皇と目される倭王の使者が宋に上表し、対高句麗への戦争計画を誇示している[7]

倭は528年にも新羅により侵略を受けていた伽耶を防衛するため朝鮮半島方面への出兵を企図するが、筑紫国造磐井の謀反に合い、出兵を妨害されている(磐井の乱[8]。この反乱は物部簏鹿火率いる6万の大軍により鎮圧されたものの、出兵は取りやめとなり、加羅は562年までに全域を新羅により併合されることになる[9]

その後も倭は百済は550年に高句麗を破り、朝鮮半島に一定の勢威を有しており、新羅もまた557年に影響化に入れた伽耶の調を倭に献ずるなど倭を立てる外交も行われていた。557年には百済から倭に経論律師造仏工が献じられ、579年には新羅からも倭に対し調と仏像が献じられている[10]

しかし、推古朝の8年(600年)に新羅と任那との間で戦端の火ぶたが切られると倭は任那旧援軍を派遣し、新羅の5城を打ち破った。推古10年(602年2月には来目皇子を撃新羅将軍とする2万5000の兵が朝鮮に派遣されるが九州の地で来目皇子が病になり軍の派遣は中止された[11]

その後、日朝関係はしばらく戦闘状態は止むものの、その代わりとして百済から僧 観勒が入朝した他、高句麗からは僧 曇徴が入朝し、彩色の法が伝えられ、さらに百済からは味摩之の入朝により伎楽が伝えられ外来芸能として発展していった[12]

その後はしばらく倭そのものに直接的な影響を及ぼすことはなかったものの、皇極朝の2年(643年6月13日、高句麗にて謀反があり、永留王に対し宰相の泉蓋蘇文が王弟を擁立し宝蔵王が即位したことが報じられ、倭国内でも東アジア外交に対する緊張感が高まったとされる[13]

羅唐同盟と白村江の戦い

その後、朝鮮半島は、中国のと新羅の連合軍(羅唐同盟)が成立したことで統一に向けて動き出した。唐・新羅連合軍は劉仁軌率いる山東の唐兵7000と金法敏率いる新羅兵が百済に侵入し、660年に王都 扶余を陥落させ、義慈王太子隆が洛陽に送られて百済が滅ぼされた。663年、百済再興をめざす日本は百済に、安曇連比羅夫河辺臣百枝阿倍連比羅夫物部連熊守君大石らの軍勢を派遣するとともに、百済の遺臣 鬼室福信の要請により、日本への人質としていた旧百済王子 余豊璋を護送する狭井連檳榔秦造田来津ら5000の別働隊を派遣し、唐・新羅連合軍と白村江に戦った。この白村江の戦い倭国百済連合軍は400隻もの軍船が炎上し敗北した。倭国は撤退したが、領土までは攻め込まれず、事なきを得た。倭国は国を失った百済人の亡命移住を受け入れ、唐や新羅による侵略に備えて九州防人を配置し、律令制の整備など中央集権国家化を進めた。また、国号8世紀初頭には日本へと改めた[14]

新羅・渤海・耽羅と日本

また、高句麗は、百済が滅亡したことで軍事的に孤立し、668年に宝蔵王らは投降したことで滅んだ。

676年、新羅は唐を追放して朝鮮半島を統一した。国力が高まった新羅と日本の緊張関係は続き、702年には遣唐使が朝鮮沿岸を経由できなくなるなどの悪影響があったが、日本からの遣新羅使、新羅からの新羅使は9世紀半ばまで断続的に続いた。698年に朝鮮半島北部に建国された渤海は唐や新羅と対立したため、日本は渤海と同盟関係を結び、盛んに渤海使遣渤海使を交換した。日本は、7世紀半ばに済州島に成立した耽羅との間にも遣耽羅使・耽羅使を交換した。

日本・新羅の国家間貿易(遣新羅使・新羅使)が滞るに伴い、唐との交易ルートを確立していた張保皐などの新羅商人が活躍した。新羅商人を通じ、中国に入ってくるペルシアインドなど南国の産物も日本にもたらされた。また円仁は、新羅商人の助けにより唐からの帰国を果たした。

天平731年)3年、朝廷の命を帯びない日本側の兵船300隻が突如、新羅に侵攻し、大敗したとの報が朝廷にもたらされ、日本海側の沿岸防衛に緊張が走った。翌天平4年(732年)朝廷は東海道東山道に節度使を置き臨戦態勢を整えるという[15]。その後、天平9年(739年)、朝廷は東国の防人に対し九州で蔓延した天然痘の打撃があったことから東国の防人を廃止し、壱岐、対馬の防衛は筑紫の人々を防人にすることを決定した[16]

天平勝宝4年(752年6月14日、新羅王子 金泰廉ら320人のの新羅使が入朝、上洛し日本に朝貢するなど一定の外交関係が生じるが[17]、翌年、天平勝宝5年(753年1月1日藤原清河を大使とする遣唐使が派遣され、唐の都 大明宮含元殿にて玄宗の拝謁をする席上、日本側副使 大伴古麻呂と新羅使との間で外交席次をめぐる争いが起こった。この時の席次は東畔の第一が吐蕃、第二が日本で西側の第一が新羅、第二が大食(サラゼン)であった。古麻呂は新羅は古来、日本の朝貢国であるのに日本が下位であるのはおかしいと抗議し、唐の将軍 呉懐実は古麻呂が中々引く気配がないことから席次を改め日本を第一の席に変更したという。この翌年、小野田守が遣新羅使として派遣されるが新羅国王への謁見は礼に適わずとの理由で叶わなかったという[18]

藤原仲麻呂による新羅征討計画と悪化する対新羅外交

天平宝字2年(758年)、安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。さらに天平宝字3年(759年)新羅使 金貞巻が日本に入朝したが、翌天平宝字4年(760年)、大宰府に派遣された藤原仲麻呂(恵美押勝)の子 藤原朝狩が貞巻を尋問したところ、貞巻は国書を持参せず、17階中11階と下級官吏であることが判明したため、賓待に値せずと追い返すということがあり、日本ではこの外交の非礼に新羅遠征の機運が高まった。日本ではこの外交非礼に新羅遠征の機運が高まり、翌天平宝字5年(761年1月9日には武蔵美濃両国の少年20人に新羅語を収得させるとともに同年11月17日には東海道、南海道西海道に節度使を設置した。[19]。そして対新羅遠征に軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と遠征の主導者 仲麻呂との不和により実行されずに終わる[20]。その後も宝亀5年(774年)再び新羅使が入朝するがまたも無礼があり、これを追い返したという[21]延暦18年(799年)、大伴峰麻呂を大使、林真継を副使として予定していた遣新羅使を突如停止し、日本は新羅との国交を断絶した。

一方、一方で、高句麗の遺臣らが建国に加わったとされる渤海国が宝亀2年(771年6月27日、325人、17隻の使節団で日本に訪れ、出羽国能代に漂着したといい、宝亀8年(777年4月22日渤海使が日本に貢物が献じられた上、日本を宗主国として仰いだことから国交や貿易が盛んになった。渤海貿易では日本の絹織物が輸出される一方、渤海からは貴族の間で珍重された虎や貂が輸入されたという[22]

新羅の入寇

9世紀平安時代)に入ると、新羅人が九州や対馬に進出し、日本は対策に追われた。この新羅の入寇812年から906年まで繰り返された。承和9年(842年8月15日、国交を絶った後も新羅商人の入国・貿易は認めていた朝廷も貿易にかこつけて日本の政情をうかがう新羅人の存在につき、大宰少弐藤原衛の奏上に基づき、以後の商人以外の新羅人の入国を禁止した[23]

弘仁2年(811年)12月6日[24]、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった[24]。翌12月7日未明[25]、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した[24]。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日補足した[24]。そして、島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけた[24]。また遠く新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると太宰府に報告された。太宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門石見出雲等の国に通知した。

弘仁4年(813年)2月29日、肥前五島小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民100余人を殺害した[26]。島民は新羅人9人を打ち殺し101人を捕虜にした[27]。この日は、基肆団校尉貞弓らの去る日であった。また、4月7日には、新羅人一清清漢巴らが日本より新羅へ帰国した、と太宰府より報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した[28]。事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した[26]承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した[26]。弩師とは、大弓の射撃を教える教官である[26]

弘仁11年(820年)2月13日、遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた[29][30]。両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧する事ができなかった。賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。しかし、相模武蔵等七国の援兵が動員され追討した結果、全員が降服した。

貞観5年(863年)に丹後国にやってきた54人は「新羅東方の細羅国人」と主張した。

貞観8年(866年)には、肥前基肆郡擬大領山春永・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが、新羅人と共謀し、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している[26]

貞観の入寇

貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦二艘に乗り筑前國那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと(うらない)が伝えたとある[31]。また、同年の貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日)には、貞観地震や肥後で地震が発生している。これに対し政府は囚人を要所に防人として配備することを計画したり[26]、沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決め、賊徒を射た「海辺の百姓五、六人」を賞した。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶の内応を告発した。

870年2月15日、朝廷は弩師防人の選士50人を対馬に配備させ[26]、対馬守小野春風ら有力武人を励まして現地を警護するよう指示した。また、八幡香椎、神功陵などに奉幣および告文をささげ、「日本は神の国であり、敵国の船は未然に漂没する」と訴えた。

また、貞観の入寇の三年前の貞観8年(866年)には応天門の変が起こっており、こうした日本国内の政権抗争と同時期に起こった貞観の入寇などの対外的緊張の中で、新羅排斥傾向が生み出されたとされる[32]

寛平の入寇

寛平5年(893年5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」[33]

翌寛平6年(894年)年4月、新羅の賊が対馬島を襲う。賊は、唐の将軍も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる大軍であった[26]。沿岸国に警固を命じ、参議藤原国経を権帥として下すなどを定めたが、賊は逃げていった[34]。同年9月5日の朝、対馬守文屋善友(ふんやよしとも[26])は郡司士卒を励まして賊徒45艘ををかまえた数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った[26]。また、船11、太刀50、1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った[35]。この間遣唐使が定められたが、一説にの関与を窺うためであったともいう。同年9月19日、大宰府飛駅(はやうま)の使が突如征伐の成功を伝え、遣唐使も中止された。翌年の寛平7年(895年)9月にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた[26]

延喜六年(906年)7月13日、隠岐国の坤方より猛風が吹き、天健金草神の託宣があった。「新羅の賊船が北海にあり、我、彼の賊を追退せんがため大風を吹かせた」その後、帆柱等が流れ着き、神威の大きさを知らしめた。と伝えられている[36]

高麗

935年に新羅が滅び、翌年には高麗が半島を統一する。9月23日に高麗の南原府の咸吉兢が対馬に漂着し、10月15日には金海府の李純達が大宰府に到着の報が届いたという。さらに天禄3年(972年10月20日、高麗使が日本に入朝して国交を求めるも日本は朝貢以外認めないとしてこれを拒絶するという[37]997年から1001年にかけて高麗海賊による日本への入寇が続いた。1019年には高麗人と女真族による刀伊の入寇が起こっている。

長徳の入寇

長徳3年(997年)、高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う[38]。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた[26]。数百人の拉致は前例がない。これは長徳の入寇また南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる[39]。同年11月に政府は南蛮の討伐を、翌9月には貴駕島(喜界島[40])に命じて南蛮の捕縛を求めた[41]

寛長保3年(1001年)にも高麗人の海賊行為が見られ、「小右記」は高麗国の賊、と断定している。

刀伊の入寇

1019年には高麗人と女真族による刀伊の入寇が起こっている。

承暦4年(1080年)、高麗より国王の病につき報があり、良医の多い日本に医師派遣の要請が届き、朝廷は高麗との信義に基づき医師派遣を一旦は決めるものの、藤原師通が故父 藤原頼通の夢を見てこれを止めたとの話をしたところ、急に派遣に対する機運は覚め、結局、礼にかなわずとして贈答品を返させた上、これを拒否した。これにより日本と高麗の外交はほとんど断たれることとなった[42]

また1093年には『高麗史』が、「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している[43]。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは口実であるとされる。

中世

元寇

中世には1274年1281年の2度にわたる日本侵略行為(元寇)を行う。『高麗史』及び『元史』によれば、高麗の趙彜(官僚)や王世子(のちの忠烈王の)執拗な要請があったため、日本侵攻が決定された[44][45]

元に服属していた高麗は日本へ元の国書を送るなど外交交渉を担当し、日本の鎌倉幕府は国書を黙殺したために戦端が開かれる。蒙古襲来においては高麗軍も南宋人とともに尖兵として日本へ攻め込み、壱岐・対馬や博多において九州御家人を中心とする鎌倉幕府の兵と戦った。高麗軍は壱岐・対馬の民の男は殺し、女は手に穴を開けて船の舷に吊るし矢除けにしたと伝えられている。また、女や子供は捕虜にし、高麗軍に連れ去られ献上された[46]。結果的に日本は、元・高麗軍の兵力不足や暴風雨もあったことで侵略を免れた。元・高麗軍が暴風雨によって大きな被害を受けた際、高麗人の兵はモンゴル兵とともに殺したが、南宋の兵は捕虜として助命した。蒙古襲来に先立ち、1271年に高麗において反モンゴルを掲げて蜂起した三別抄が日本へ救援を求めたが、日本の鎌倉幕府はこれも黙殺している。

倭寇

日本の南北朝時代から室町時代には、朝鮮の高麗から李朝においては倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海賊、海上勢力が、中国沿岸や朝鮮半島沿岸を荒らした。倭寇は日本人、朝鮮人、中国人、のち欧州人などが混在していた。高麗や室町幕府は懐柔と弾圧で対策を行う。九州探題として派遣されていた今川貞世(了俊)は高麗使節を迎えて交渉し、大内氏らとともに倭寇を討伐した。

  • 1375年には藤経光誘殺未遂事件が発生し、これによる倭寇の活動の活発化も指摘されている。

李氏朝鮮

高麗では倭寇や紅巾賊の討伐に功績のあった李成桂らが宮中で台頭、滅亡に瀕した元王朝の要請で征明軍を率いて北上するが、途中で引き返して実権を握り、1393年李氏朝鮮(李朝)を創建する。

1396年李成桂壱岐対馬討伐を命じた。

李朝も室町幕府に対して倭寇の禁圧を求め、また中国のも同様の要請をした。こうした要請を受けて、室町幕府は、3代将軍の足利義満が倭寇を鎮圧した。義満は朝鮮へ使節を派遣し、制限貿易であったが日朝貿易が行われる。李朝からも通信使が派遣され、宗希璟『老松堂日本行録』や『海東諸国記』などの日本渡来記も書かれた。日本側からの使者には夷千島王遐叉と呼ばれる人物が同行したことがあるが、これがどういう民族なのか、あるいは偽使なのかは定かではない。

応永の外寇

1419年、李朝の世宗は倭寇の根拠地と見なされていた対馬を討伐する(応永の外寇、己亥東征)。世宗は投降や帰化したものに対しては貿易上の特権を与えるなど懐柔策も同時に行い、倭寇の活動は一時的に収束した。1443年には嘉吉条約(癸亥約定)が締結された。

李朝は朱子学を重視し、仏教を弾圧したために、高麗時代の仏教文化財が国外に多く流出することになった。特に木版印刷の『大蔵経』や鐘楼などは高値で取引されたために大量に日本に流れ込んだ。また日本との交易には1426年の三浦(釜山浦、薺捕、塩浦)を利用していたが、現地役人の締め付けが厳しかったという。

文明2年(1470年)、朝鮮国王 世祖が対馬守護 宗家に使節を派遣し、日本の密航者の取り締まりを求めた[47]永正6年(1509年)4月、朝鮮は対馬島主 宗材盛に在留期限を超えた恒久倭の帰国を求める使節の派遣を予定していたが、材盛の急逝で使節派遣を延期するという[48]。翌永正7年(1510年)には現地在住の対馬の民などにより三浦の乱が発生している。

近世

文禄・慶長の役(壬辰戦争、唐入り)

日本を統一した豊臣秀吉の征服を企図し、対馬の宗氏を介して朝鮮に服従と明征伐の先鋒となることを求めるが、良い回答がない為、1592年から朝鮮半島に侵攻した(文禄・慶長の役/壬辰・丁酋倭乱)。緒戦で日本軍は各地の朝鮮軍を破って平壌咸鏡道まで進撃したが、遠い戦線に明の救援や義勇軍の抵抗と交渉による補給困難や講和交渉を優先させた為、戦線を後退させたまま戦局は膠着した。日本軍は最終的に秀吉の死去に伴い撤退した。日本と中国・朝鮮連合軍との間で展開したこの国際戦争は16世紀東アジア最大の戦闘ともいわれる[49]

明・朝鮮の連合軍と日本軍の交戦、そして治安悪化による食糧再分配と生産の崩壊と民衆反乱などもあり、朝鮮の国土は疲弊した。また、この時の騒動で役所に保管されていた戸籍なども燃やされ、その結果朝鮮半島では白丁が低減し、両班を自称する者が増加したと言われている。 日本軍の諸大名は朝鮮から儒学者などと供に多くの陶工を連れ帰り、日本各地で陶芸が盛んになる。このころ、唐辛子タバコが日本から朝鮮に伝わった。

徳川政権による国交回復

秀吉の死後、日本では1600年徳川家康による武家政権(徳川幕府)が成立した。秀吉の朝鮮侵攻に消極的で朝鮮半島に派兵していなかった徳川家康は、朝鮮との国交回復を望み、宗氏を介して使節を派遣した。こうして徳川家康と朝鮮王朝の間で国交回復の交渉が進められた。光海君は捕虜の送還や貿易交渉に応じ、1609年には己酉約条が結ばれて貿易が再開され、日本の銀と中国の生糸や絹などが流通する。

交渉を仲介した日本の対馬藩は、早期の国交回復をさせるために徳川幕府の国書やそれに対する朝鮮王朝の返答書を偽造、改竄していたが、1635年には事実が発覚し、関係者が処罰される柳川一件が起こる。柳川一件ののちに貿易は幕府が管轄した。

1607年以降、室町時代からの朝鮮通信使が将軍の代替わりごとに日本へ来訪するようになり、公式の外交関係が保たれた。1764年には朝鮮通信使によりサツマイモが日本から朝鮮に伝えられた。だが、1811年に最後の通信使が来訪して以来、両国の公式な関係は途絶えた。

李氏朝鮮は、鎖国政策を続けており、また文禄・慶長の役からの警戒もあって、日本人は首都漢陽(ソウル)に入る事は出来ず、対馬が釜山倭館を構えている以外は、朝鮮との交易や情報は入手しづらい状態であった。

対馬藩は幕府から朝鮮との貿易を許され、倭館による貿易が行われた。また、薩摩藩による武力侵攻で幕藩体制に組み込まれた琉球とも通交が有ったようである。

近代

日本と朝鮮の開国

日本は江戸時代末期に開国した。王政復古により成立した日本の新政府は近代化を目指した。李氏朝鮮を影響下に置く清国や南下政策を取り続ける帝政ロシアに対する日本の国際政策の一環として、日本は朝鮮半島に注目した。朝鮮では大院君が排外的政策を行い鎖国体制が維持されていたが、閔氏政権となると、1875年江華島事件を経て、76年に日朝修好条規を結び朝鮮は開国し、開化政策が行われる。

1880年に日本公使館を漢城に設置する[50]

日清戦争から韓国併合まで

1894年に、朝鮮を巡る対立から、清国と日本との間で日清戦争が勃発した。日清戦争で日本は勝利した。1895年に日本と清は下関条約を結び、朝鮮が清との冊封体制から離脱すると実質的に日本の影響下に置かれた。これに伴い1897年大韓帝国へと国名を改めた。

ロシアは下関条約後の三国干渉1900年義和団の乱の後も満州中国東北部)の占領を続けた。ロシアは朝鮮にも影響を強め、日本と対立する。日本は1902年イギリス日英同盟を結び、アメリカやイギリスの支持を得て、1904年に開戦された日露戦争において勝利、1905年ポーツマス条約において朝鮮に対する排他的指導権を獲得する。

その後、韓国皇帝はハーグ平和会議に、日本の干渉を排除し韓国の外交権保護を要請する密使を送ったが、成功しなかった(ハーグ密使事件)。日本は1910年に韓国と日韓併合条約を結んで朝鮮半島を併合し(韓国併合)、1945年第二次世界大戦敗北まで統治を続けた。

日本統治時代

日本は朝鮮総督府を通じて朝鮮半島全域を統治し、当初は軍事力を前面に押し出した武断統治を行った。この状況に対し、朝鮮側からは1919年三・一独立運動が発生し、同年には李承晩による大韓民国臨時政府の設立が宣言された。朝鮮北部から満州にかけては金日成が指揮する抗日パルチザン運動が展開されたが、いずれも日本の統治を覆す力はなかったが、武断政治の失敗は認識され、国際的には第一次世界大戦を受けて民族自決の機運が高まり、日本の国内では大正デモクラシーの風潮も反映して、民生面の安定を重視した内地延長主義へ転換した。

衆議院議員当選を祝う朴春琴

この期間に日本は朝鮮半島のインフラの整備と産業の振興をすすめた。教育制度も整備され、小学校国民学校)網や京城帝国大学ソウル大学校)は独立後の韓国政府に引き継がれた。初等教育をはじめ日本語教育とともに朝鮮語の教育が行われ、ハングルの普及が進んだ。また、朝鮮人は、日本軍陸軍士官学校に入学卒業することができ、朝鮮人士官の多くは後に韓国軍にそのまま引き継がれた。やがて朴正煕大統領を筆頭に韓国政界の中枢を占めた。日本、アメリカ、オーストラリア、ヨーロッパをはじめ世界の朝鮮史研究では、日本のインフラ整備が朝鮮の近代化の基礎となったとされる[51]。また、朝鮮半島では10年間の所得税免除が行われた上に兵役免除など日本本土に住む日本人より圧倒的厚遇を受けた。この点が欧米によるアジアアフリカの植民地支配と正反対であるため、教養人層において内地延長主義に転換して以降の日本の統治を「植民地」と呼ぶことに違和感を覚えない者はいない。また、朝鮮人に参政権をも認めていた事実がある。

居住場所にかかわり無く朝鮮人には1945年まで兵役は免除されていた。また、土地詐欺を防止するための啓導・啓蒙を繰り返し、農民たちは自分の土地が測量されて地籍に上がるのを見て、喜んで積極的に協調した[52]

日中戦争以後、「内鮮一体」の名の下、それまで公教育で必須科目として教授されていた朝鮮語は朝鮮教育令の改正によって1938年には随意科目となり、皇民化政策などの同化政策も行われた。朝鮮人にも志願兵の募集が行われ、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した[53]。また、終戦前には徴兵制が適用され一部の朝鮮人にも訓練が行われたが戦場で活躍する機会はなかった。密航[54]徴用により内地(日本)に向かった労働者や、慰安婦として働く女性も存在した[55][56]

1945年9月、日本がポツダム宣言を受諾して全日本軍は連合国に降伏、金日成赤軍ソ連軍)の士官として朝鮮北部の中心都市平壌に入城し、次いで降伏した日本に代わりアメリカ合衆国が朝鮮半島南部で軍事統治を開始すると李承晩や金九などの独立運動家がソウルへ戻った。

第二次世界大戦後

1946年2月3日には朝鮮人を主体とする共産勢力により日本人数千人が虐殺される通化事件が起きた。 1948年済州島四・三事件によって多くの済州島民が南朝鮮政府の虐殺から逃れるため日本に密入国した[57]。また、経済的な成功を目指して南朝鮮から日本に密入国するものもおり、ソフトバンクグループの孫一族も1947年に密航船で日本に上陸している。

大韓民国

大韓民国の建国

韓国政府による日本漁船の拿捕

1948年、朝鮮半島の南部に大韓民国(韓国)が建国され、李承晩が大統領に就任した。アメリカの強い影響下にあり、反共主義を掲げる点では韓国は日本との共通性が高かったが、韓国では独立運動家出身の李承晩を筆頭に反日感情を持つ政治家が主導権を握り、実際の政策にも反映され親日勢力は粛清された。また、反李承晩政権の思想をもつ市民に対する弾圧が行われ、麗水・順天事件のような韓国軍の反乱事件の際にも日本への密航者が生み出された[58]1949年1月17日、李承晩は対馬の韓国領を主張し日本に返還要求する[59]

朝鮮戦争

1950年には朝鮮戦争が勃発し、多くの反政府的な立場をとる韓国人が日本へ密入国した。日本政府は掃海部隊や港湾労働者を韓国に送り込むとともに日本国内での韓国軍の軍事訓練を受け入れるなど韓国を支援した。1952年に朝鮮戦争の休戦交渉が行われ戦闘が終息すると李承晩は韓国領域周辺の公海上に李承晩ラインを設定すると、韓国政府による日本漁船への銃撃・拿捕事件が多発し、数十人が殺傷され数千人が抑留された[60]1954年には同ラインで韓国側に取り込んだ日本固有の領土竹島(韓国名:独島)に軍隊を送り込んで同島を占拠した。その後も現在に至るまで韓国の武装警察が駐在し、日本はこれを韓国の武力による不法占拠と抗議している(竹島問題)。1959年には韓国の工作員によって新潟日赤センター爆破未遂事件が引き起こされた。両国間の険悪な関係は、1960年の李承晩失脚までは大きな改善は見られなかった。

国交回復

1961年5・16軍事クーデターで韓国大統領となった朴正煕は、旧日本軍出身で、日本の事情にも精通していた。また、北の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)からの圧迫から国家を守るためには、日本との国交回復による経済支援の実現が不可欠と判断していた。一方、日本の自由民主党政権も、北東アジアでの反共同盟強化や第二次世界大戦における負の遺産の清算のために、韓国との国交回復を望んでいた。1964年3月24日ソウル大学高麗大学延世大学の学生5000人余りが「対日屈辱外交」反対デモを行う[61]1965年日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)が締結され、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定が締結され、日韓両国及びその国民間の請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認するとともに、日本は韓国に有償無償5億ドルの金額を支払った(日本政府は賠償ではなく経済協力と位置づけている)。この際、日本は韓国を朝鮮半島唯一の合法政府と認めた。1966年3月24日日韓貿易協定を締結する。

この日韓国交正常化により、韓国は1979年まで続く朴正煕の軍事独裁政権下で、日本からの経済協力(円借款など)も利用してや各種交通インフラ(地下鉄・高速道路等)を整備し、「漢江の奇跡」と呼ばれる工業化・経済発展を実現した。日本の商社は韓国に進出し、労働力の安い韓国は日本への重要な輸出基地となった。韓国の目覚ましい経済成長は、日本人の韓国に対し抱きがちなイメージを「貧しくたくましい人が暮らす国」から「日本と同じ近代的な工業国」へと変化をもたらし、韓国への評価を上げる結果となった。

現代の国民感情

国交は外交と投資に関しては正常化したものの、金大中事件文世光事件といった外交問題に発展した事件も発生し、必ずしも両国の国民感情は良好ではなかった。交流の拡大には犯罪組織の国際化などの側面もあり、日本側では韓国から進出してきた統一協会による霊感商法批判も起こった。ただし、統一協会は国際勝共運動で自由民主党政権とつながり、日韓両国の政治協力拡大に貢献する一面も持っていた。

日本文化の流入阻止を理由に厳しい統制策を堅持しながら、日本が著作権を所有するTV番組・歌謡曲等の著作物の不正コピー・盗用・盗作等が横行しており、その海賊版の流通を根絶出来ない韓国側の閉鎖性にも批判が起こった。1988年にはソウルオリンピックが行われたが、選考の決選投票で日本の名古屋を下して開催されたこの大会では韓国人観衆による日本選手への非難が止まなかった。1992年には韓国文化放送 (MBC)が、李朝の末裔が天皇を狙撃する番組『憤怒の王国』を放送し、これに実際の明仁親王の天皇即位式の映像を用いた為、日本の外務省から抗議を受けた。

1995年国際サッカー連盟 (FIFA)は、日韓両国が激しく争っていた2002年開催のFIFAワールドカップを両国の共催とする決定を行った。これは両国に波紋を広げ、大会の運営方式や呼称問題で両国間は深刻な対立を抱え、「事実上の分催」という指摘も上がった。これらの経緯を通じて韓国への反感を強めた日本国民の一部からは、ソウルで開催された開会式に日本への配慮がほとんど無い上、横浜での決勝戦と閉会式の際には貴賓席着座の際に韓国大統領の金大中が後に続く天皇に進路を譲らずに自分の後ろを通らせた身の程知らずのこの行為は無礼だという非難の声が出た[62]。ただし、圧倒的に韓国有利に働いた誤判問題などにより、インターネットを中心に「嫌韓」感情を増幅させたことも事実であるが、このワールドカップを通じ、協議を続けた両国の大会関係者の努力は、2国開催というハンディを乗り越えて大会の運営や友好ムードの創出をある程度成功させたともいわれる。これを機に、公式には長らく禁止されていた日本の文化が韓国で開放されるようになった(「韓国での日本文化の流入制限」も参照)だけでなく、日本でも韓国の映画やドラマが多く輸入され、韓国の俳優や歌手が日本で活躍するようになった。彼(女)らは韓流スターと称賛された。この大会期間に実施された両国民の「査証(ビザ)なし相互訪問」は大会後に恒常化され、特に観光面での交流拡大に貢献した。両国の都市には英語と並んで相手国の言語による案内標識などが整備されるようになり、それまで日本側からの訪問人数が圧倒していた観光も、日本の観光地に韓国人観光客の姿が増えるなどの変化が見られるようになった。

1998年10月8日日韓共同宣言小渕恵三首相と金大中大統領により発表され、両国間のパートナーシップが再確認される。

2010年9月10日にSKE48が「2010ソウルドラマアワード」授賞式で「強き者よ」「青空片想い」を日本語で歌う姿が韓国の地上波テレビで生中継された。韓国は、2004年1月の日本大衆文化第4次開放で日本語の歌の放送を許したが、放送局側で録画だけに制限していた。生中継されたのは、これが初めてである。事前に放送通信審議委員会を通した上で、放送が決定された[63]

このような経緯を経て、日韓関係は良好になったといわれるが、韓国側では総督府統治への否定(あるいはそれ以前からの民族的蔑視)に根ざす反日感情が根強く残っている。歴史教科書問題靖国参拝問題竹島(韓国名:独島)や日本海(韓国名:東海)の呼称問題、日本の国連常任理事国立候補への反発、何でも日本文化を韓国発祥だと主張する、著名人を根拠なくコリアンやコリアン系の同胞だと主張する等、日本と韓国の論争がいくつかある。また盧武鉉政権は日本統治時代・親日派問題の清算として「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」及び「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定し、反民族行為認定者の子孫の土地や財産を国が事実上没収する事を可能にし、実際に「親日派」10人の子孫が所有する約13億6000万円相当の土地を没収する(2007年8月13日 読売新聞)など適用がはじまっている(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を参照のこと)。また、日本側ではマスメディアなどを通じて韓国の大衆文化が浸透する一方で、韓国への融和姿勢を保つマスメディアへの不信の高まりもあって、嫌韓感情も強まっており、インターネットに両国間への拒絶感情が顕在化するなどしている。それでも、流血の衝突や支配・抵抗といったかつての先鋭的な対立は徐々に影を潜め、在日韓国人を含めた両国間の協力と共存は徐々に進行している。日本統治のありようを客観的事実に基づいて明らかにしていこうとする韓国人研究者も現れている[64][65]

朝鮮民主主義人民共和国

この項目では、南の大韓民国と対比させるため、朝鮮民主主義人民共和国の略称を「朝鮮」とする。

朝鮮民主主義人民共和国の建国

1945年、朝鮮半島北部を制圧したソ連は、従来の日本による統治システムを解体し、共産主義による新体制の建設を進めた。朝鮮北部は旧満州国からの日本人移住者・在住者の帰国経由地ともなったが、その中で多くの生命が失われた。1949年には金日成を首相とした朝鮮民主主義人民共和国が成立したが、1950年には南の大韓民国との間で朝鮮戦争が勃発し、1953年の休戦まで首都平壌[66]を含む国土の広い範囲が戦場となった。朝鮮戦争中の1952年に日本はサンフランシスコ平和条約の発効で独立を回復したが、反共主義国家となった日本の自由民主党政権は朝鮮民主主義人民共和国を承認せず、マスメディアと共に「北鮮」と呼んだ。一方、日本社会党総評など、日本の社会主義勢力や労働組合はこの国を朝鮮半島唯一の合法政権と考え、「朝鮮」と呼称して、大韓民国(韓国)をアメリカの軍事支配下にある「南朝鮮」とした。

朝鮮総連

朝鮮民主主義人民共和国の成立は日本国内の政治状況にも影響を与えた。第二次世界大戦後に再建された日本共産党には多くの朝鮮人活動家がいたが、やがて分離し、朝鮮への帰還か日本国内での在日朝鮮人運動の展開を選択した。その中で、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯、朝鮮総連)が成立した。朝鮮総連による強力な指導により、在日朝鮮人は民族差別解消・生活状況改善などをめざした闘争を全国各地で展開したが、その姿勢が暴力的・強圧的とする日本人からの反発も強く、在日朝鮮人社会は日本の中で隔絶性が高い集団となった。韓国での混乱や圧政は日本でも報じられていたため、朝鮮半島南部の出身者でも朝鮮総連に参加する者が多かった。なお、金日成に率いられた朝鮮の指導政党、朝鮮労働党はやがて日本共産党の議会重視・平和革命路線を批判し、関係を断絶したため、朝鮮労働党の交流相手は日本社会党が中心となった。

帰還事業

在日朝鮮人の帰還事業(1960年)

1959年、在日朝鮮人の帰還事業が開始された。これは日本赤十字社が所管した、第二次世界大戦や朝鮮戦争の混乱で帰国出来なかった人々を朝鮮民主主義人民共和国へ送ろうという事業で、日本政府も積極的に推進した。数十万人の在日朝鮮人が海を渡ったとされるが、「地上の楽園」と自己宣伝していた朝鮮側の経済状況は厳しく、日本での貧困や差別からの解放を願ったとされる帰国者は一層困難な状況に追い込まれた[67]。さらに、独裁色を強める金日成政権は、日本からの帰国者の多くを「潜在的スパイ」などと見なして警戒し、その多くを処刑、あるいは強制収容所での長期拘禁に処したとされるが、定かではない。いずれにせよ、厳しい情報統制をかいくぐって漏れてくる現地の状況を知った在日朝鮮人の間では帰国への情熱が徐々に退き、高度経済成長に伴って日本での生活状況が改善されていった事もあって、帰還事業は1960年代半ばに終了した。ただし、帰国者の再来日は実現せず、日本国籍を持ったまま家族と共に渡航した配偶者(日本人妻)や子どもの問題が発生した。

日韓国交回復以降

1965年には日韓基本条約が締結され、日本は大韓民国との国交を締結した。この中で日本政府は大韓民国を朝鮮半島唯一の合法政府としたため、朝鮮民主主義人民共和国との国交締結を求める朝鮮総連や日本社会党などの強い抵抗を受けたが、佐藤栄作政権は国会での強行採決でこれを押し切った。この条約により日本は大韓民国の国籍を認めたため、在日朝鮮人の中には朝鮮籍からの切り替えを行う者が表れた。また、これを機に大韓民国は「韓国」という表記が一般に定着し[68]、朝鮮民主主義共和国は「北朝鮮」と表記される例が増えた。

1970年日本航空の航空機が乗っ取られるよど号事件が発生した。犯人は日本国内での革命運動に行き詰まり、国外に新たな根拠地を求めた田宮高麿などの新左翼に属する共産主義者同盟赤軍派グループで、朝鮮民主主義人民共和国は彼らの亡命を受け入れる一方、機体や乗員の日本返還に応じた。田宮達の思想や行動方針は朝鮮側とは一致せず、いわば「招かれざる客」だったが、やがて田宮らは平壌郊外に小グループを形成し、北朝鮮の意を受けた対日宣伝・工作活動に従事した。

1972年東西冷戦デタント期に入り、南北共同宣言により大韓民国との対立がある程度緩和され、日本が中華人民共和国との国交を回復する中、日朝関係も徐々に貿易額を拡大した。日本の工業製品が徐々に朝鮮側に入り、朝鮮産の安価なマツタケや海産物が日本へ輸出された。在日朝鮮人の集団帰国事業は、万景峰号による祖国・親族訪問へと変化して続いたが、朝鮮帰国者の再訪日は認められず、旧態依然としたプロパガンダが唱えられた。

日本人拉致問題

また、この頃から韓国の経済力が朝鮮を逆転し、大きく引き離していく。これに危機感を持った朝鮮側は対南工作に日本人を拉致して自らの工作員に置き換え、韓国に入国させる事を計画した。1973年小浜市2児拉致事件発生。1975年松生丸事件で日本漁船を銃撃・拿捕した。1977年、後に日朝両国政府が事実認定を行う最初の日本人拉致事件が発生した。同年11月15日には、新潟市で13歳の横田めぐみが拉致され、後にこの問題のシンボル的存在として取り上げられるようになったが、1983年まで続く一連の事件が明らかになるのにはさらなる年数を要した[69]。この事件には、よど号事件の犯人グループ、及びその妻達が関与したともされ、日本の検察庁から起訴されている。

1980-90年代

1980年代に日朝間の大きな懸案事項になったのは、拉致問題ではなく、第十八富士山丸事件だった。1983年11月1日、日朝間を航行中だった日本の貨物船、第十八富士山丸が船内に朝鮮人民軍兵士の閔洪九が潜んでいるのを発見した。閔洪九は日本で拘束されたが、日朝間には国交が無く、さらに閔が亡命申請をしたため、日本は彼の国内滞在を認めて放免した[70]。一方、11月11日に再び北朝鮮へ入港した第十八富士山丸は乗員が拘束された。紅粉勇船長と栗浦好雄機関長には朝鮮国民を拉致したスパイ容疑で教化労働15年の判決を下され、船体は没収された。日本の国民世論は日本人船員の釈放を求めたが、外交関係が無い両国間では交渉の糸口すら見つけるのが困難だった。この第十八富士山丸事件は、前月に起こったラングーン事件、つまり第三国ビルマの閣僚も巻き込んだ韓国大統領全斗煥暗殺未遂爆破テロ事件が朝鮮工作員の犯行と発表された直後の事件だった。この重複で日本の対朝鮮警戒感は再び高まり、日本の対朝鮮輸出額は減少した[71]。さらに、1987年大韓航空機爆破事件も日朝関係を冷え込ませた。テロ実行犯としてバーレーンで拘束され、服毒自殺を図ったのは日本人を名乗る「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」だったが、生き残った蜂谷真由美は韓国に送致され、自らが朝鮮工作員の金賢姫であることを自白した。さらに、その高度な日本人化教育は李恩恵という日本人女性から受けたと述べたため、謎に包まれた彼女の出自を含め、日本側の対朝不信は増幅した。

2000年代

2002年9月、小泉純一郎首相は北朝鮮を訪問して、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現し、17日日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を「一部の英雄主義者が暴走した」として公式に認め、5人の拉致被害者の帰国となった。しかし「8人死亡・1人行方不明」とする北朝鮮側の回答は日本側から見て到底承諾しかねるものに映り、拉致被害者の家族の帰国が拒まれるなど、関係者を中心に不満が噴出し、世論も北朝鮮に対して強く反発を見せた。

一方、2005年頃まで貿易関係は存在しており、日本への船舶の入港は年間千数百隻に上っていた。内訳は、日本からの輸入は輸送機器が中心で、日本への輸出は水産物が中心であった。

しかし、2006年10月9日の北朝鮮の核実験テポドンなどのミサイル発射事件を受けて、日本政府は抗議の意を表明し、安倍内閣から本格的な拉致被害者の解放を目指し、日本独自の制裁が行われ、日本国民の北朝鮮への渡航自粛が勧告され、また北朝鮮船籍の船舶の入港は禁じられ、輸出入も停止された。

2009年6月、アメリカ国際政策センターのセリグ・ハリソンは米下院外交委員会の公聴会で証言し、北朝鮮が戦争状態に陥った場合、「北朝鮮は報復として韓国ではなく日本か在日米軍基地を攻撃するだろう」と予測した[72]。 2009年春には、北朝鮮による「銀河2号」発射計画につき、国連安保理決議第1695号[73]第1718号[74]に基づき日本は打ち上げの中止を要請し、発射の場合は追加制裁を行うと表明した[75]が、「飛翔体」は発射された。東北や東京でミサイル防衛システムを配備するなどの対応を行ったが、追撃は行われなかった。

脚注

  1. ^ 静岡大学農学部佐藤洋一郎助教授やアメリカの多くのバイオ系研究機関の分析によると、日本及び朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種及び熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられ、その一部遺伝子を持つ種苗群の遺伝子を確認すると、中国東北部から朝鮮半島を原産とする改良種群には、当該遺伝子の存在が確認されないことが明確になっている。 また、放射性炭素年代測定による分析においても、日本での炭化米は紀元前4000年程度まで溯る事が確認されており、これらの証左をもって、東南アジアから南方伝来ルートが日本への稲作伝来ルートであったようである。以上のことから逆に日本から朝鮮半島へ伝わった説も有力視されている。(佐藤洋一郎『稲のきた道』裳華房/『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会)、(松尾孝嶺『栽培稲の種生態学的研究』)
  2. ^ 百済は364年に従属を強いられてきた高句麗に挙兵し、369年に独立を勝ち取っていた。この年、倭に支援を求め、肖古王の使者 久氐が日本に入朝し、独立の記念として東晋皇帝の配下、百済王子の名において七支刀を贈ったという。なお、七支刀は持つ者に侯王になる霊力が宿るという、縁起の品として贈られた。池上裕子小和田哲男小林清治池享黒川直則編『クロニック 日本全史』(講談社1995年)69頁参照。
  3. ^ 倭は百済の要請に基づき朝鮮半島に出兵し、高句麗の諸城を陥落させている。池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 69頁参照。
  4. ^ 斯盧国は503年新羅と国号を改めた
  5. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 69頁参照。
  6. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 73頁参照。
  7. ^ この時、「昔から我らの祖先は甲冑をつけ駆け回り、東は毛人の国55ヶ国、西は衆夷の国66ヶ国、北は海を渡り、95ヶ国を平らげました」と倭国の武勇と勢威を示したという。池上裕子前掲前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 73頁参照。
  8. ^ この時の反乱は全国政権化していた大和に反抗の機会をうかがうとともに、対朝鮮外交権の奪取が目的だったといわれている。池上裕子前掲書(講談社、1995年)78頁参照。
  9. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 80頁参照
  10. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 82頁、86頁参照
  11. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年)86、87頁参照。
  12. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年)87、89頁参照
  13. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年)95頁参照。
  14. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年)100、101頁参照。
  15. ^ 実際は海賊との見方もある。池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 122頁参照。
  16. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 235頁参照。
  17. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 122頁参照。
  18. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年)128頁参照。
  19. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年)131頁参照。
  20. ^ 岸俊男『藤原仲麻呂』261-292頁。
  21. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 133頁参照。
  22. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 135頁参照。
  23. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 149頁参照。
  24. ^ a b c d e 日本後紀』弘仁三年(812年)正月五日に出された勅における、12月28日の太宰府奏上
  25. ^ 日本紀略
  26. ^ a b c d e f g h i j k l 瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社。
  27. ^ 「新羅の一百十人、五艘の船に駕り小近島に着き、土民と相戦う。即ち九人を打ち殺し、一百人を捕獲す」『日本紀略』弘仁四年(813年)3月18日の条、およびその前後に記録された長崎県五島小値賀島への入寇をめぐる諸事項。
  28. ^ 日本後紀』弘仁四年(813年)3月18日に大宰府言上。肥前国司の今月四月解。
  29. ^ 日本後紀
  30. ^ 『紀略』弘仁十一年(820年)2月26日条
  31. ^ 日本三代実録』巻十六、貞観十一年(869年)6月15日から十八年3月9日条
  32. ^ 山崎雅稔 「貞観八年応天門失火事件と新羅賊兵」『人民の歴史学』146号,2000年,東京歴史科学研究会。
  33. ^ 日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)の条。
  34. ^ 日本紀略』『扶桑略記』寛平6年(894年)の条<
  35. ^ 捕虜がいうには、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。
  36. ^ 天健金草神社の社伝より。
  37. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 173頁参照。
  38. ^ 百練抄』長徳三年(997年)10月1日、四年2月の条にみえる高麗国人の九州「虜掠」と征伐の記事。『百練抄』にはすべて「高麗国人」とあるが、『紀略』は南蛮の賊、奄美島人という『小右記』にみえる報告書の説を採って統一している。
  39. ^ 『紀略』『小右記
  40. ^ この貴駕島は近年律令式建物遺構が発見された奄美・喜界島と推定されている。南海の法螺、夜光貝、硫黄などは日本の重要な交易物であった。
  41. ^ 『紀略』
  42. ^ 池上裕子前掲『クロニック日本全史』(講談社、1995年) 173頁参照。
  43. ^ 高麗史
  44. ^ 高麗史列伝巻十七 『若依蛮様、則工費多、将不及期..用本国船様督造』
  45. ^ 「元史」 卷十二本紀第十二世祖九 七月の条 『高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本』
  46. ^ 下條正男『日韓・歴史克服への道』
  47. ^ 池上裕子編、小和田哲男編、小林清治編、池享編、黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社、1995年) 81頁参照。
  48. ^ 池上裕子前掲『クロニック戦国全史』(講談社、1995年) 186頁参照。
  49. ^ 鄭杜煕、李ギョンスン、金 文子、小幡倫裕編『壬辰戦争』明石書店 (2008)
  50. ^ [今日の歴史(4月17日) http://s04.megalodon.jp/2009-0512-2340-54/japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/03/31/9000000000AJP20090331003200882.HTML] 聯合ニュース 2009/04/17 閲覧
  51. ^ カーター・J・エッカート『帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源』小谷まさ代訳、草思社、2004年、ISBN 978-4794212757
  52. ^ 李栄薫らの研究によれば、韓国で定説とされてきた収奪論とはまったく違った実態であったことが明らかにされている。李栄薫は韓国日報とのインタビューで「農民たちの未申告地をでたらめに奪ったという教科書の記述と違い、未申告地が発生しないように綿密な行政指導をしたし、土地詐欺を防止するための啓導・啓蒙を繰り返した。農民たちも、自分の土地が測量されて地籍に上がるのを見て、喜んで積極的に協調した。その結果、墳墓、雑種地を中心に0.05%位が未申告地で残った。あの時、私たちが持っていた植民地朝鮮のイメージが架空の創作物なのを悟った。」と語っている
  53. ^ 当時陸軍を中心に、アジア・太平洋戦争における日本民族の人的消耗を避けるため「外地民族」の人的資源の活用は避けられないとする意見が広まっており、朝鮮における徴兵制はその帰結であった。(「朝鮮民衆と『皇民化』政策」、p102~p103、宮田節子著)
  54. ^ 大阪毎日新聞 1943年6月15日付『内地密航増加 釜山水上署で厳罰』
  55. ^ 「現代朝鮮の歴史」第3章、ブルース・カミングス著
  56. ^ 日本の右派・保守派の間ではこれらの慰安婦について「単なる売春婦であり、性的搾取をはじめとした慰安所における人権侵害など何もない」とする事実がある。また「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」とまで叫ぶ勢力もあり、「日本版歴史修正主義」と反論しているものもいる(高橋哲哉『歴史/修正主義』岩波書店、2001年、ⅲ頁)
  57. ^ “拷問・戦争・独裁逃れ…在日女性60年ぶり済州島に帰郷へ”. 朝日新聞. (2008年3月29日). http://web.archive.org/web/20080401232255/http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY200803290044.html 2011年8月閲覧。 
  58. ^ “【その時の今日】「在日朝鮮人」北送事業が始まる”. 中央日報. (2010年8月23日). http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=132367&servcode=100&sectcode=120 2011年8月閲覧。 
  59. ^ 今日の歴史(1月7日) 聨合ニュース 2009/01/07
  60. ^ 第一大邦丸事件では漁労長が殺害されている。
  61. ^ 今日の歴史(3月24日) 聯合ニュース 2009/03/24 閲覧
  62. ^ ただし、それぞれの憲法で、国家元首と規定されている韓国の大統領と、国民の象徴と規定されながらも外交上は事実上の元首として扱われる日本の天皇の関係には留意する必要がある。
  63. ^ “韓国地上波放送で日本歌手が日本語の歌、初の生放送”. 聯合ニュース. (2010年9月13日). http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2010/09/13/0800000000AJP20100913000800882.HTML 2011年2月16日閲覧。 
  64. ^ 韓国人の儒教原理主義が歴史を歪曲 李栄薫ソウル大教授インタビュー 2007/06/03
  65. ^ 厳格なジャッジなき学界が歴史を歪曲 李栄薫ソウル大教授インタビュー 2007/06/03
  66. ^ 法的な首都は1972年の新憲法制定までソウル。
  67. ^ ただし、1960年代後半からの高度経済成長まで、南の大韓民国は北の朝鮮民主主義人民共和国よりもさらに貧しく、国家経済の規模も劣っていた事を理解する必要がある。
  68. ^ 日本社会党や日本共産党でも、1980年代末に韓国の民主化で現地との交流を開始したのを受けて、「南朝鮮」から「韓国」への表記へと切り替えた。
  69. ^ なお、この拉致事件を追及する特定失踪者問題調査会によれば、この事件の被害者になった可能性がある「特定失踪者」は1948年から2004年まで存在し、特に拉致の疑いが濃い事例に限っても1960年から1991年にわたっている。
  70. ^ その後、閔は韓国国籍と日本での在留特別許可を得たが、刑事事件によりしばしば逮捕され、2004年に拘置中自殺した。
  71. ^ 三菱総合経済研究所レポート、2005年3月14日付 [1]
  72. ^ http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009061801000215.html
  73. ^ 国際連合安全保障理事会決議第1695号MOFA公式ホームページ)
  74. ^ 国際連合安全保障理事会決議第1718号MOFA公式ホームページ)
  75. ^ 発射なら北朝鮮に追加制裁 自公党首会談で一致(09.3.31 asahi.com)

関連項目